[ビスカリアの星]■二十七.
老婆はその腕を伸ばし、年月の刻まれた皺の手で少女の頬に触れて泣いた。
臨終の床は、日没の残照の中に暗かった。
お祖母さま。
少女はまだ幼く、傍らの母や、周囲の大人たちの沈痛な面持ちの理由もよく分かってはいなかった。
お祖母さま、死なないで。
死にかけの老婆はその時、目を見開き、かつての威厳を取り戻すと、
寝台の天蓋を睨み上げながら、少女の母に向けて強い声を放った。
-----それでは、この子を、騎士にはしないというのだね。
はい、と母が応えた。
少女の頬を撫ぜる祖母の手が止まった。
その片側から母が少女の手をきつく握りしめた。
------オーガススィ家に倣います。
まるで、死にゆく祖母には決して渡さないというよに、娘を繋いだ母の手は震えていた。
死に瀕してはいても、そこにいるのは、母を生んだ、ただ一人の母であった。
母が逆らっているのは、彼女をこの世に生み落とした女であり、
子を生むことでその女が後世に遺したはずの、無形の財産であり、運命だった。
------オーガススィ同様に、家の女は騎士にはしないとお云いかい
------はい。
------この子の姉たちと同様、これほどの黄金の血を、むなしく、地に棄てるのですか。
------はい。お母さま。
母は見たこともないほどの毅然とした顔をして、しっかりと応え、
少女の手を離さなかった。
------たとえお母さまのお言葉や、先祖の霊に逆らっても、
わたくしは娘たちを、守ります。
愚か者。
祖母の叱責が鞭となって母の上に飛んだ気がして、少女は震え上がった。
しかし祖母はそうする代わり口を引き結び、少女を手許に引き寄せた。
母はそれを止めなかった。
少女は寝台に横たわる祖母を見下ろした。
老いた顔の中に、その眼ばかりがまだ青かった。
二つの硝子玉が埋まっているように見えた。
気味が悪いほどに澄み切ったその硝子玉は少女を見つめて濡れたように泣いていた。
少女の手は老婆の額に、そして髪におそるおそる触れた。
お祖母さま、お祖母さまのお髪の色は、お祖母さまが若かった頃には、
わたしやお母さまと同じ色だったのでしょう。
もう元には戻らないの。
お祖母さま、死なないで。
「ルビリア」
祖母はルビリアの丸い頬を撫でた。
ルビリアは祖母のその手を握った。
「お婆さま。わたし、ヒスイ皇子さまの許に行くことになりました」
それは父母が決めたことだった。
皇帝代行として政権を握るカルタラグンと聖七騎士家の一つであるタンジェリンは、
古くから婚姻を重ね、騎士家の中でも特に懇意な家柄であった。
タンジェリンの末娘が皇子の許に上がることは両家の合意の上に速やかに取り決められ、
慶事としてルビリアにも伝えられた。
四人の姉たちの中で、中の二人は既に他家との婚約が整い、
長姉フィリアは三ツ星騎士家の一つコスモス家に降下するかたちで嫁いで、
家に残るのは幼いルビリアだけとなっていたから、ルビリアの歳の幼さは問題にされなかった。
華やかといえば聞こえはいいが、ヒスイ皇子は奇行を好む名うての変わり者。
幼いうちから彼に馴染むほうが姫にとっても宜しかろう。
心配はいりませんよ、ルビリア。
母はルビリアに付き合ってお雛遊びをしながら庭で云った。
お父さまはあんなことを仰いましたが、
風評はどうあれ、ヒスイ皇子は情のある御方です。
彼を理解しない周りの言葉や中傷に騙されることなく、皇子にお仕えするのですよ。
お祖母さまは家の名誉や伝統を惜しまれて今だに反対されておられますが、
お母さまはこう考えるの。
才能も運命も、その個の死と共に消えてしまい、この世の何人も二度とふたたび、
同じものを受け継ぐことは出来ません。
倖せも不幸せも、苦しみも哀しみも、英知も名誉も、その人の生涯の上にだけ輝くものです。
だから、あなたはこの母や、お祖母さまのことは気にしないでいいの。
カルタラグンに恭順した騎士家の女として、ヒスイ皇子の許に上がりなさい。
ヒスイ皇子はきっとあなたにやさしくして下さいます。母がそう願います。
母はルビリアの頭に花冠を載せ、その前に膝をついた。
未来の皇妃さま。
しかし、病床の祖母は頑強に首を振った。
コスモス辺境伯に嫁いだフィリアの代わりに、お前が家の犠牲になるのだね。
「騎士になれなくてごめんなさい、お祖母さま」
「いいえ、ルビリア」
祖母はルビリアを見た。
白く変わった老婆の髪はその時、夕暮れの光の中で焔のように、赤く燃えた。
どれほど止めても、また、そのさだめを変えようとしても、
老いたこの眼がお前の上にそれを見るのだよ。
美しい星。
赤く輝いて、冷たい星の海の中に、独りきり、誰にも負けずに。
お前の母はそれを怖れ、お前のためにそこから遠ざけようとしたけれど、
それでもルビリア、お前の祖母はお前のためにこうして泣きます。
これはね、嬉し涙なの。
貴い血を引く娘が、剣を片手に、ほら、あそこに駆けていく。
夕陽に髪をなびかせ、野火のように、歌の力のように。
それを、誇らせておくれ。
どれほどの妨害があろうとも、その妨げこそが、お前を打ち鍛えられた騎士にするだろう。
その時がきたら、お前のお祖母さまの言葉を想い出して。
たとえ押し潰されたとしても、その精神は高く飛べ。
哀しみから立ち上がりなさい。
「ルビリア」
髪を引っ張られたと思ったら、花の香りがした。
これをあげよう。
見上げたらヒスイ皇子がいた。
ルビリアの髪にやさしく花を添えて、ヒスイは空を見上げた
皇子宮の上には鮮やかな夕暮れが広がり、流れる雲が紅かった。
「気色の悪い」
「あ、ごめん」
ユスタスは慌ててルビリアから手を引いた。
ルビリアの従騎士であるエクテマスがこの数日、何処に消えたのか留守中で、
その間、彼の代わりにユスタスがルビリアの世話を仰せ付かったのである。
何しろ祖父の名を騙って身分を詐称しているユスタスである。
肩の怪我が少しばかり治ったとたんに従卒代わりに使役されることには閉口したが、
まさか今さら正体も明かせず、断れようもなかった。
エクテマスは無情な若者ではなかったが、
負担にならぬ程度の軽作業なら遠慮なくユスタスへと押し付けて平気だった。
「全快前から動かしておいたほうが、変に固まらなくていいからな」
「エクテマス、何処へ」
ユスタスの問いには明答を返さず、エクテマスはソニーとゼロージャを伴って
一隊を離れ、何処かへと発ってしまった。
そうして、ユスタスはルビリアの部屋にいるのだった。
旧タンジェリン領の外れ、放棄されて久しいかつての貴族の館に彼らは駐屯していた。
久しぶりに屋根がある生活を送れるのは嬉しかったが、
ユスタスは女の衣を手にして、ひたすら困惑していた。
(母さんやリリティス姉さんや、ほかの女の子の着替えを
手伝ったことはあるから簡単だけど、
何で女の人の着るものは、こんなに紐だらけなんだ)
胸とか腰とかこんなに締め付けて、苦しくないんだろうか。
見栄えは確かに良くなるけど、そのせいで「あ」とかいって、
たまに首尾よく気絶されると男としては好都合、いや違う、締め付けられることで
血の巡りは悪くなるだろうし、呼吸は詰まるだろうし、
のぼせやすくなって、健康には害なんじゃないだろうか。
手持ち無沙汰にユスタスは金糸の刺繍の赤いドレスをいじり回した。
衣裳函に残されていたドレスを見るなり、ルビリアは少し考えて、
「演出も必要だわ」
金糸の刺繍の入った赤いドレスを引き出してそれを着ると云い出したのであるが、
由緒正しきフラワン家の次男の眼には、それは立派な略奪行為と映つり、
あまり感心は出来なかった。
そのせいもあって、ユスタスは機嫌が悪い。
磨く者もいないまま曇りの出た鏡に向かって、彼はぼやいた。
だいたい、気色が悪いとまで云われて、男が手伝うことじゃないだろ、これ。
女の着せ替えを楽しむ男なんて、悪趣味と洗練のぎりぎりだよな。
毎朝毎晩、湯浴みの世話まで平然とやっているエクテマスの奴の神経の方がおかしいんだ。
助平心や下心がないほうがおかしいよ。
兄のシュディリスがジュシュベンダの狩猟館において、
下心があったのかなかったのかはともかくも、女騎士ビナスティの着替えを
それは巧みに申し分なく整えてやったことなど、ユスタスはむろん、知らない。
「ルビリア、僕ではうまく出来ないみたいだ。他の人を呼んできます」
「悪かったわユースタビラ。あなたのことを云ったのではないの」
覚めた口調でルビリアは、昔のことを想い出したの、ぽつりとこぼした。
気色の悪い。まるで全てをお見透しであったかのよう。
純血の騎士を輩出することを家門の誇りとしておられたお祖母さまは、あの死に際に、
娘たちの平穏無事な生涯を願った母の願いよりも強い呪いを、
孫娘たちの上にかけたのだろうか。
この世の誰が、母として、おのれの子に生地獄を歩けと願うだろう。
(愚か者)
あの日、母の上に飛んだ祖母の幻の叱責が甦り、胸を打った。
愚か者は、さだめに真っ向から逆らって娘たちの誰ひとりとして
騎士にはしようとはしなかった、母の方であったのか。
二十年前の政変の折に、父母はレイズン軍に追われて都で自害、
細々と生き永らえていたタンジェリンは、蝕むように少しずつ領地を召し上げていく
レイズンの干渉と圧制に堪えかねて蜂起の後、滅び去った。
タンジェリンの直系、ことごとく捕えられ、ヴィスタチヤの都にて斬首。
長姉フィリアは、遠くはるかなコスモスの地で、夫君の眼の前で自害して果て、
他家に嫁いでいた二人の姉も、離縁の後、従容として死についたという。
それまでのカルタラグンとの癒着が仇となり、政変以降は中枢より遠ざけられ、
長年冷遇されて衰退の一途を辿っていた騎士家が滅亡したところで、
それは領民一揆ほどにも、ヴィスタチヤ帝国とジュピタ皇家の名を今さら傷つけはしなかった。
ミケラン卿は弱い毒薬を長期に渡って垂らすようにタンジェリンを衰弱させ、
あらゆる歓びとは無縁の惨めに追いやり、分解し、見事に潰してのけた。
二十年。
ルビリアはうつむいた。その顔は笑っていた。
(愉快だこと。全て、祖母が望んだとおりになったわ。
このざまを見て。
コスモスの城で自害なされたフィリアお姉さま、
ヴィスタの都で下民の前に首を晒された二人のお姉さま、そして私。
私たちのこの悲惨を見て。
今こそあなたの血を引く女たちを誇るといい。
お祖母さま、私たちはみな、
聖騎士家タンジェリンの名に恥じることなくその名の許に殉じたわ。そうでしょう)
「ルビリア」、後ろからユスタスが肩を抱いて覗き込んだ。
「気分が悪いなら横になって休んだほうがいい」
軽くその手を払いのけて、ルビリアは顔を上げた。
落ち着いて、晴れやかな顔をしていた。
一呼吸で震えを鎮めると、ユスタスの着せかけるドレスに袖を通した。
(これより、わたしは『彼』に逢う。------遠い、過去の一部に)
生々しい音を立て、決して忘れないことどもが、今日も押し寄せてくる。
光の波のよう、焔の旋風のよう。
何てきれいなの。
これは私にしか見えないの。
世俗の賢しげなきれいごとなどもうたくさん、恵まれた者たちのご高説などうるさいばかり、
これ以上綺麗なものなど他にない。
他に何も要らない。
割れた姿見の中に閉じ込められた、自分の人生を見つめた。後ろにいるユスタスを仰いだ。
声は平静だった。
「何でもない。ちょっとした心の刺激。鍛錬と思ってくれていい。日課なの」
「日課」
思い切りユスタスは嫌な顔をした。
発作でも起こすのではないかと見えた女は、たちどころに平常心を取り戻し、
意志の力で自分を落ち着けてみせた。
それがユスタスには大いに気に入らなかった。
(気違いルビリア)
これは本物だ。
背筋が寒くなった。
ルビリアが正気ではないというのではない。その繊細な横顔や言動に乱調はない。
しかし明らかに何かがおかしい。
騎士の女がどこか皆、大きな欠落を抱えていたり何かが過剰であるように、
ハイロウリーン騎士団の騎士ルビリアもまたはっきりと女の異種であり、
狂気を帯びた醜い畸形だった。
そして星の騎士であるユスタスを震撼させたのは、今しがたルビリアの上にぐらりと揺れて
こちらに吹き付けてきた、霧のような冷たい、濃密な気魄の、その気配だった。
思わず手許に引き寄せていた剣を、ユスタスは元に戻した。
急激に動いたせいで肩の怪我が痛んだ。
日課。
(まさかこの人、それを得るために毎日、
暗くて救いの無いことばかりを原動力として反芻しているんじゃないだろうな)
トレスピアノの父母の許、あらゆる怨念と無縁のまま生きてきたユスタスにとっては、
それは薄気味が悪いばかりの、理解しがたい不健全なことだった。
そんな若者の健全さなどお見透しであるというように、ルビリアは澄ました顔をしていた。
薔薇の香りがした。
館の廃園からそれは風にのって香ってきた。
-----わたしを、薔薇とその棘を家紋とするイオウ家のロゼッタだと認めながら、
そのわたしの言葉を聞かぬつもりか
赤い花。赤い剣。
薔薇の香り。
-----わたしの名はロゼッタ・デル・イオウ
サザンカ家の家司イオウ家の者だ。
盗賊はわたしが追う。怪我をする前に、戻りなさい
そのうち、またあの子に逢えるだろうか。
その時には僕はもう少し違った態度で、あの子に優しく振舞ってやろう。
リリティス姉さんにも、気は進まないけれど、こちらのルビリアにもそうしよう。
多分、この女の人たちは人生のどこかで、糸が絡まってしまったんだろう。
誰かが、何かでそれをほぐしてやらなくてはいけない。
何かというのは、何なのかまだ分からないけれど、やっぱり恋とか愛とか、
身や心を温かくさせるものなんだと思うよ、やっぱり。
これは恩返しではないんだ、ルビリア。
僕に兄さんをくれた貴女だからではないんだ。
ユスタスは胸中の不満を揉み潰した。
楽なことや愉しいことを拒んでいる人を見ると、単純に、苛々してくる。
僕と一緒ではダメなのか、そう云いたくなる。
だいたい、失礼だ。
そんなつもりはないのだろうけど、近くにいる人間なんか眼中にないみたいだよこの人。
だからこれはもうほとんど男の意地だ。
ユスタスはルビリアの支度を手伝った。
絶対に、絶対に、一度は必ずこの女の人に、倖せな笑顔をさせてみせる。
騎士はご婦人に仕えるものだ。
それくらいやってみせる。
決意と意地には漢気があってご立派ではあったが、何不自由なく倖せに育った
トレスピアノの次男坊には相手が悪すぎることを、ユスタスはどうやら忘れている。
最後の仕上げに、化粧台の引き出しに残されていた香水をルビリアは胸元につけた。
絹ずれの音をさせて、ドレスを身に着けたルビリアが火の華のように立ち上がった。
「きれいだ。ルビリア」
ユスタスは心から褒めた。
細身に深紅がよく映えていた。
遺棄されたままの館は取り急ぎ主要な部屋や回廊だけは大雑把に片付けられて、
飾る花もなく殺風景ながらも、光の流れる通廊は清潔だった。
ルビリアの白い顔は梳かされた錆色の髪の中にやわらかな落ち着きを浮かべ、
騎士ユスタスを伴って広間に向かうその姿は、貴女と呼ばれるに相応しかった。
出しなに、いつもは首からかけている小さな首飾りを、短い躊躇の末に首から外して
置き残してきたことだけがユスタスにとってはちょっと気になる気がかりであったが、
当のルビリアは、もうすっかりそのことは忘れたようだった。
しかし広間の扉の前まで来ると、ユスタスは顔色を変えた。
剣を構えてルビリアの前に飛び出したユスタスを、後ろから「捨て置け。大事ない」、ルビリアが止めた。
「さがれ、ルビリア」
ユスタスはオーガススィの剣を抜き放った。
剣尖は緊迫の中できりきりと光かがやいた。
扉の向こうに誰かいる。
相当に強い騎士だ。
ユスタスの膝は勝手に震えた。
-------まだよく動かないこの肩で女を庇って闘うのは不利だ。
「さがって、ルビリア」
ユスタスはもう一度、ルビリアを押しのけた。
こちらから飛び込むつもりで、「何者か!」、まだ見ぬその巨大な強い気に向かって
ユスタスが誰何を放つのと、扉が内側から大きく開くのが同時であった。
風が吹いた。
薔薇の咲く荒れた庭が見えた。
そこは広間へ向かう、控えの間であった。
水色を基調とした、落ち着いた調度が見えた。
交錯すると見えた二人の若者は互いにさっと飛び退き、その剣は後ろに引かれた。
ユスタスを退けてルビリアが進み出た。
「ルビリア」
「ご苦労。エクテマス」
ルビリアは軽く頷いた。
エクテマス・ベンダ・ハイロウリーンは、片腕を胸につけて、ルビリアに礼をとった。
旅装束のままで、しかし旅の埃だけはその顔や髪から払い落として整えたようだった。
彼は美しく着飾ったルビリアに感嘆と懊悩のこもった眩い眼をちらりと向けて、
ただちにそれを逸らした。その代わりに、
「ユースタビラ」
呆気にとられて立ち尽くしていたユスタスに、強い指示を飛ばした。
「剣を鞘に戻せ、ユースタビラ」
「いつ、帰ったの」
「今しがた。留守の間、代役ご苦労だった」
エクテマスは短く応えて、ルビリアを先導する為に、扉から機敏に離れた。
(愕いたな)
素直な性質のユスタスは、率直に驚嘆していた。
さすがはハイロウリーン家に生を受けた男子だ。
女の世話ばかりを焼いている使い走りの去勢野郎かと思ってたけど、
聖騎士の血は争えない。
扉を隔ててのあの威圧感。
渦に呑み込まれていくようだった。
扉に体当たりした後は、一刃のもとに彼を切り下げるつもりでいたユスタスは、
まだ収まらぬ奮えと昂揚を、剣柄を握り締めることでようやく抑えた。
考えてみたらそりゃそうだよな。
いくら忠誠無比だからといって、たいした役にも立たない男を護衛役として
ルビリアが傍におくはずもない。
エクテマスを見直すと同時に、ユスタスはタンジェリン騎士ルビリアの横顔も、
あらためて盗み見た。
(大事ない)
突進しようとする彼を後ろから止めたルビリアは、剣を持たぬ女の身でありながら、
その声の中に、砦の上から命令を発するような調子を持っていた。
軍隊を率いることに慣れた声だった。
ルビリアは広間へと、まっすぐに進んだ。
歩みには迷いなく、見開いたその青い眼は切れるように澄み切って、
その向こうに待つものを怖れてはいないように見えた。
最後にエクテマスが何かを言いかけて、止めた。
武人として鍛えられた若者のその顔に、一瞬だけ女に対する何らかの
深い気遣いが痛みのように掠めて過ぎ去ったが、それは悲痛のうちに伏せられた。
ルビリアは彼の方を見向きもしなかった。
扉が開かれた。
庭に面した小広間は全ての窓が開け放たれて明るかった。
中央に立つその影は、すらりとした姿勢を保ち、踵を回してこちらを振り返った。
しばらくルビリアは微動だにしなかった。
見知らぬ男のその傍らには、ゼロージャとソニーが並んで控えていた。
壮年の男は、軽やかに、両手を広げて女を迎えた。
父カシニよりも少し若く見える男だった。
そしてどことなく、近似感を覚える顔であった。
ユスタスの胸はざわめいた。
風が亡霊のように広間を吹き過ぎた。
逆光の闇の中のその顔、その声、その姿に、一度だけルビリアは
食い入るような激しい視線を向けた。
風の中、真正面からそうした。
「ルビリア。久しぶりだ」
やがて男は低く響く声に、幾分かの馴れ馴れしさを加えて、ルビリアの名を親しく呼んだ。
その声音に潜むどことなく傲慢な調子にユスタスは不快を覚えた。
男は狡猾な微笑を浮かべており、それが、男の秀麗な顔をひどくすすけさせ、
男を高慢にも、卑屈にも見せていた。
従騎士エクテマスは粛として控えていた。
眼の前の炎が揺らいだ。
毅然として立っていたルビリアが冷たい顔のまま身を屈め、
男の前にその誇り高い頭を低く下げ、進んで床に膝をつくのをユスタスは見た。
深紅のドレスの裾を大輪の花のように風に広げ、男の手を取り、
ルビリアはその細首を傾けて男の甲に忠誠の接吻をした。
青い眼を上げて、風に向かい、ルビリアはその名をはっきりと囁いた。
別の名を呼ぶように、女はそうした。
「ブラカン・オニキス・カルタラグン・ウィスタビア。
カルタラグン王朝の正統なる後継者、第一皇子オニキス様。
ガーネット・ルビリア・タンジェリン、
ただいま御許に戻りましてございます」
男の口許が卑しい笑いを浮かべてつりあがった。
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髪や肌は艶失せ、口許にしまりがなく、
目の下がたるではいるものの、
それはなかなかに押し出しのいい美丈夫な男であった。
銀に近い髪と青い目は、まさしくカルタラグンの血のものであり、
オニキス皇子であることがまことであるなら、彼こそは、
女系であるタンジェリンやオーガススィに比べて男子しか生まれぬとかつて云われた
カルタラグン聖騎士家の血を引く竜神の御子の、
公認されている最後の一人であった。
(ヒスイ皇子。シュディリス兄さん)
この場にいない者の名が頭に浮かんでは消えた。
ゼロージャがユスタスに説明するように、そっと口を添えた。
「亡きヒスイ皇子の御兄君であられる、オニキス皇子です」
「サザンカの方々は」、ルビリアが訊ねた。
「皇子に同行の方々、この場にはご遠慮いただいております」
「そう」
(サザンカ?)
そのオニキス皇子の目が広間の面々を見回した後、最後に
ルビリアの後ろに立つユスタスの上に何気なく止まると、それを遮るように、
「あなたも席を外して頂戴、ユースタビラ」
ルビリアから命じられた。
(オニキス皇子。翡翠皇子の異母兄!)
兄の実伯父である。
ユスタスはルビリアの命に抗ってその場にもう少し残りたかった。
だが、ユスタスの正体を知るゼロージャとソニーの二人に部屋の片隅から
無言の目配せで制止するのを見て、考えを変えた。
僕がフラワン家の人間だと分かると、都合が悪いのかも知れない。
エクテマスが顎の動きで庭を示すままに、
仕方なくユスタスは速やかに広間を横切って、開け放しの露台から庭へと降りた。
振り返ることも憚られ、木立の間からの盗み見することは彼の矜持が許さず、
後にしてきた彼らの様子はそこからはもう分からなかった。
手入れをする者も立ち去って、放置された館の庭には、
あらゆる草木が方々に枝葉を伸ばし、
その合間に赤い薔薇が狂い咲いていた。
庭に出ろと指示したエクテマスの意図としては、庭を見張っていろということだとは思ったが、
ハイロウリーンの家臣ではないのである、それは無視した。
ユスタスの機嫌は悪かった。
シュディリスはそれでは、あの男の甥子ということになる。
それでも先刻すれ違いさまにちらりと見たオニキス皇子の顔かたちには、
シュディリスと似たところはなかった。
断固なかった。
ユスタスはしつこい蜘蛛の巣を振り払うように首を振った。
オニキスの立ち振る舞いやその声音、お上品ぶったその表情に
べたりと張り付いていた頽廃。
それらは育ちのいいユスタスに胸やけを起こさせるほど糜爛な気配のするものだった。
落ちぶれた身とはいえ、さすがに竜神の血を引くだけの威勢は残るものの、
顔かたちも違えば、何よりもその精神性の顕れにシュディリス兄さんとは途方もない
開きがある、とユスタスは決め付けた。
人間に対してあまり極端な好悪感情を抱かぬユスタスであったが、
オニキス皇子に限っては、一瞬で(嫌いだ)、と何故か悪意に近いまでの拒絶を覚えた。
(ルビリアを見るあの眼つき-------何だあいつ。
島流しにでもあった罪人が久しぶりにまともな女を見るような顔で、
ドレス姿のルビリアを眺め回して)
なまじ、愛する兄と血が近いのがいけなかった。
ついでに高貴なユスタスにとっては、少しでもそれと縁遠い振る舞いに対しては
容赦ないところがまだあった。
(あんな男が僕や姉さんのシリス兄さんの伯父さんだなんて認めたくない)
わがことのように許しがたく思われる。
やはりシリス兄さんはフラワン家の人で、僕やリリティス姉さんの理想の兄さんで、
もうカルタラグンなんかとは何にも関係ないんだ、と無理やりな破論にまでたどり着かねば
気が済まないほどであった。
しかしてその「理想の兄」は、旅の空の下で理想も理性もあったものではない
低級きわまりない喧嘩に日々励んでいるのであったが、ユスタスの兄への盲愛と
その理想化は、ジュピタ皇家フリジア内親王同様に、このような際にも微動だにせず、
離れていて寂しいのも手伝って、むしろますます硬化していくようである。
(それにしても、ブラカン・オニキス・カルタラグン・ヴィスタビアが生きていたとは)
今に至るまでまるで知らなかった。
耳にしたことはあるのかも知れないが、おそらくはまだ
兄の素性を知らない頃のことであり、特に関心を払わぬままであったのだろう。
カルタラグン王朝時代と続くその動乱はユスタスが生まれる前に終わっていたことであったし、
非業の死を遂げた翡翠皇子のことも、その異母兄のことも、フラワン荘では禁忌のこととして、
何となく家族全員がそれを語ることを避けていた。
記憶を懸命に辿った。
兄に直結するからというだけでなく、カルタラグンの斜陽の日々を華やかに飾ったのは、
若き第二皇子ヒスイの名ばかりであり、
第一皇子オニキスの姿は、そこには影もかたちも残されてはいなかった。
確かオニキス皇子は生母の身分が低くいために、
最初の男子でありながら、カルタラグンの事実上の世継ぎは
翌年に生まれた一つ違いの弟、ヒスイ皇子に譲られたはずだ。
(日陰の皇子として、オニキス皇子は都から遠く離れた離宮で過ごされていた。
これでもう少しオニキス皇子の御母堂の身分が高ければ、
たとえばあの政権転覆劇の折に何かのかたちで利用されるか、一族郎党と共に
殺害されるところとなっていたのだろうけど、
オニキス皇子は半ばカルタラグン家からは放擲された身として、
誰からも忘れ去られていたから、その為に利用価値もなく、それを免れたのだろうな)
(それに、ヒスイ皇子のご生母である正妃(シリス兄さんのお祖母さまだ)と、
オニキス皇子の生母の間には深い確執があり、オニキス皇子の母上が
正妃や幼いヒスイ皇子を毒殺しようとしたこともあるとかないとか。
まあこんなのも陰謀の一環で、オニキス母子を遠ざけるために、
正妃の方から彼らの上に無実の罪を着せたとも考えられるのだから、
何とも云えないけれど)
すべては昔のことであった。
もしも彼らへ関心があるとすれば、
それらは兄シュディリスの一身上にまつわることに限定されていて、
他家のお家騒動とその顛末など、三流小説ほどにも
ユスタスには興味の湧かないことであった。
その遠い過去が不意に具現化して眼の前に現れた。
(あのルビリアが膝をつくなんて)
カルタラグンの王家の生き残りは、シリス兄さんだけではなかった。
どうして誰も、第一男子オニキス皇子のことを気に止めなかったのだろう。
世継ぎの座を弟に奪われて都を追われた卑腹出の兄皇子のことなど、
都人にとってはもはや触れるも穢れの、疎い名であったのか。
そのためにオニキス皇子は、あの軽やかで華やかで、
洒脱のうちに生きて死んだヒスイ皇子のようにミケラン卿の手にかかることもなく、
改新前後の混乱も免れて、そしてサザンカ領にでも逃れていたとでもいうのだろうか。
この二十年。
ユスキュダルの地から巫女の護衛として野に下って来た騎士ゼロージャとソニーは
それを知っていたのだろうか。
しかし荒れた庭を散策しながら考えてみても、ユスキュダルの巫女と、
今しがた拝謁に預かったオニキスとの間には、
兄シュディリスとオニキスとの間に感じるような違和感や、分断しか思い浮かばなかった。
(でもそれも、感情的なものが僕の眼を曇らせているだけか)
水の枯れた噴水の縁に腰を下ろした。
中央には彫像が建っていた。
赤いドレスの身を屈めて、オニキスの手に臣下の礼をとったルビリアの姿は、
亡国の女王が卑しい下民の前に意を屈して下るような、無残な印象をユスタスに与えた。
(僕ですらこうして気が重いんだ。エクテマスにとっては耐え難かっただろうな)
そこへ、誰かがやって来た。
「ユスタス様」
伸び放題になった低木から小鳥が飛び出すようにそれは現れた。
ユスタスが愕くより早く、その小柄な影は、さっと地面に膝をついた。
短く切り揃えた黒髪から、細いうなじが見えた。
何となく、近々また逢うような気がしていたが、こんな処でとは思わなかった。
剪定されていない庭を抜けてきたせいか、その男装には花びらがまだついていた。
その花びらを振り払い、少女騎士は顔を上げた。
「先日はご無礼致しました。
サザンカ家の家司、イオウ家のロゼッタです」
「あ、うん。……覚えてるよ」
覚えているも何も、盗賊がまだ徘徊しているかも知れぬサザンカの森の外れに
この子を置き去りにして、あの時は逃げるようにして別れたのだ。
あれは騎士道にも劣る振る舞いであったから、
ユスタスは気まずく、その汚点を気に病んでいることを女の子に知られたくない気持ちから、
ロゼッタとの再会を歓迎する真似をする気持ちにはとてもなれなかった。
そんなことも知らぬロゼッタは、そばかすの残る可愛い顔をきりりとさせて、
「あの折、フラワン家のユスタス様に、知らぬとはいえ
剣を向けましたこと、お詫びに参りました」
あくまでも律儀にはきはきと述べた。
しかもロゼッタは謝っているばかりではなかった。
その賢そうな眼はひたとユスタスを見据え、
微塵もへりくだることなく、まるでフラワン家を主家としたかのように、
小うるさい家司の査問よろしく、云い抜けの暇をユスタスに与えぬうちに
ロゼッタはいきなり核心に切り込んできた。
「思いがけぬ処でばかり御目にかかります。
トレスピアノにおられるはずの御方が、
このような旧タンジェリン領の外れの廃墟に御自らお運びあるとは」
「えっとね、これには、いろいろと事情が」
「ユスタス様はこちらにて、何を」
「-------どうして」
「それはわたしの問いに対する問い返しでしょうか。それとも、
貴人であるユスタス様の行動に対して関心を抱いた、
僭越行為へのお咎めでしょうか」
赤い剣を腰に佩いた男装の少女は、小さな唇をきゅっと閉じて、
たとえ叱責を受けても譲らぬものは譲らぬといった気骨を見せていた。
その胸には首から下げた小さな陶器の飾りが今日もあり、
ユスタスの注目に気がついたロゼッタは自分から首飾りを手の平に乗せて掲げて見せた。
この庭の中では剣の形に染み込ませた薔薇の香りはあまり香りませんが、
これは亡き母の形見。
薔薇とその棘を家門とする我がイオウ家のしるしです。
「薔薇と、棘……」
「薔薇は血を、棘は剣をあらわします。
我ら、外敵を防ぐ茨となりて、サザンカにいにしえよりお仕えいたしたるもの」
(やめてくれ。その口の利き方とその態度。
君の歳でそんなにしっかりして、どうするんだよ)
騎士の女の子って、本当に、みんな生意気で可愛くない。
何ていうのかな、常に男よりもうわ手に少し出ている感じがあって、
こちらとしては安心するよりも、妙に負けん気な気分になって、つい辛くあたったり、
屈服させてやりたくなったり、手を尽くして揶揄してやりたくなってしまう。
高貴だろうと下種だろうと変わりなく男に見苦しい真似をさせるように、
僕たち男たちを追い込んでいくんだよなあ、彼女たちって。
しかし迷っている暇はなかった。
ここは館の窓からも見える。そして他に哨戒の者でもいるのか、
誰かがこちらに近付いてくる足音がしていた。
ユスタスが手を伸ばした時、もしかしたら、ロゼッタはこの時初めて、
歳相応の少女に相応しい悲鳴を上げた。
「ユスタス様」
「君がそこで僕に対して厳しく礼をとっている姿を、他の誰かに見られたら困るんだ」
「ユスタス様!」
「ごめん、我慢して」
ユスタスは抗うロゼッタを抱え上げると、水の枯れた噴水盤の縁を乗り越えて、
中央の彫像の台座の裏にロゼッタを抱いたまま、身を低めて隠れた。
湛えられた静かな水の中に、夕暮れが落ちていた。
その水の中に、手を入れた。
華やかな色、暗い色。
手を引いても、何も掴めなかった。
両手から雫を垂らして黄昏の空を映す噴水の前に佇んでいると、名を呼ばれた。
ルビリア。
「ルビー。ここにいたのか」
姿を見せた彼は、おもむろに、身を屈めてルビリアの眼を後ろから両手で覆った。
庭園の片隅で影が重なった。
噴水から溢れる水は夕焼けを珠に変えて細かな金の飛沫を辺りに飛ばしていた。
青年の顎がルビリアの頭の上にやさしく乗せられた。
「だあれだ!」
「ヒスイ。ルビリアは先ほど、ご滞在中のオニキス様にお逢いしました」
「兄上に?」
ふざけるのを止めたヒスイは、ルビリアから手を放した。
ルビリアは身を強張らせたまま無言だった。
「濡れたままにしていると、手が荒れるよ」
ヒスイが両手を拭いてくれるのを、されるがままにして、立っていた。
何かの悪い夢が胸の中に飛び込んで来た気がして、ひどく気分が悪かった。
(君が、ヒスイの妃になる子だね)
待ち構えていたオニキスは、いきなり、ルビリアを柱の陰で抱きすくめたのだ。
笑いながらオニキスはルビリアの身体をドレスの上から撫ぜ回すと、立ち去った。
悲鳴を上げたいのに、声が出なかった。
ルビリアはヒスイに何かを云いかけたが、黙った。
(私はタンジェリンの娘。お護りする皇子に助けを求めて何としよう。
騎士の娘が加えられた辱めを、人に洩らして何としよう)
押しのけようとしたルビリアの手に、オニキスは接吻を与えて笑っていた。
ヒスイ皇子はルビリアの前に片膝をつき、子供のルビリアの手を柔布で丁寧に扱いながら、
伏目のまま夕陽の中に薄く微笑んだ。
オニキス兄上か。
わたしは子供の頃、わたしのせいで遠くへ追いやられた兄上の存在を知った時から、
わざと周りを困らせて悪く振舞うことを好んだよ。頭の悪いふりをしていたな。
そうしていればわたしの代わりに、見放された兄上が見直され、
呼び戻されて大人たちから大切にされるのではないかと思ってね。
でも、それは勘違いだったようだ。
冷え切ったルビリアの手を取ると、ヒスイ皇子は明るく笑い出した。
「どうやら、わたしのこの軽薄やどうしよもない不品行は、演技でも作為でもない、
ただ単に生まれつきのわたしの性格だったようだからね」
「ヒスイ」
「お前もそう思うだろう?ルビー」
「知りません」
「もしお前が嫌なら無理にこんな男の妃にならなくていいよ」
「ヒスイが嫌ならそうして下さい」
「あはは、やっと元気になったね」
少女のルビリアを軽々と抱き上げたヒスイ皇子は木立の向こうの夕暮れを
よく見せるように、ルビリアを高く抱え上げた。
夕陽はなぜ夕方になると赤く変わるのだろうね。
この胸も、お前の胸も、赤く染まっていく気がする。
過ぎた日よりもまだ知らない明日を待ち焦がれて、心が寂しくなっていく。
だから人は夜になると誰かに寄り添ったり、まだ見ぬ明日を待つのだろうか。
きれいな夕陽だ。
「あそこに星が出ている。ルビリア、お前によく似合う」
わたしはお前が好きだよ。
「ヒスイ」
お前と逢えて嬉しいよ、わたしの赤い宝石。
たとえ別れることがあっても、忘れないよ、決して。
からかうと面白いし、騎士の心を持つ娘だから。
赤い翳りの中で、ヒスイは笑った。
「続く]
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