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[ビスカリアの星]■二十八.



ルイ・グレダンの邸宅には小さな庭があり、
花木が按配よく植えられたその隅には、
前の持ち主が建てた、小さな温室までついていた。
草木にあまり興味が深いとはいえない忙しいルイは温室のことを顧みず、
こまごました家のことと共に温室のこともすっかり下男に任せきりにしており、
この下男もまた主人に褒められるわけでもない植物の世話にはあまり
熱心ではなかったことから、内部はほどよく寂れて、しかしそれだけに
植物は生き生きとその枝葉を元気に伸ばして、狭い硝子の小屋の中は、
それなりの趣がないでもなかった。
ゆったりと沈むような気だるい湿度の中に白や薄紫の花が乱れ咲き、
緑の葉影が細やかに壁や丸天井に揺れ動くさまはさながら一つの大きな幻燈のようで、
緑光が染める瀟洒な温室は、愛を囁く場としては、効果的ですらあった。
「あなたは、誰」
鉢植えの破片が、足許で小さな音を立てた。
リリティスの問いかけを、ソラムダリヤは聞かぬふりをした。
フラワン家の乙女のその美しい、淡い金色の髪に絡みついた悪い蔓を
丁寧に取り除いてやった彼は、その手をそうあるべきように行儀よく引くことなく、
彼女の名を呼んだ。
その手をリリティスの髪から頬へとすべらせて、耳元に口づけをした。
リリティス、嫌ならそう云って下さい。
ハーンと名乗るその青年は拒絶など考えもしない風に、リリティスを腕の中にした。
友人にそうされるように、それは感じの良いものだった。
ハーンには心赴くままに振舞えるに足りるじゅうぶん過ぎる背景があったので、
それに驕る彼ではなくとも、その態度にはそこから生まれる余裕や寛ぎがあった。
少なくともソラムダリヤ皇太子は愛情に対して真面目で真剣で、
こういったことに対して権威を振りかざすことなど思いもよらず、
勇気をもってきちんと意を伝え、向き合うことを怖れぬ性質であった。
「リリティス。きれいな名だ」
「………」
「何度でも呼びたい。そして出来ればもっと想いをこめて。
 そうすることを許してもらえますか?
 貴女へのわたしの気持ちは、もうよく、お分かりのはず」
「あなたは誰」
柱の影でやさしく、しかし大変に慎重な愛情でもって
青年貴公子に抱きしめられながら、リリティスの声は沈んだままだった。
背中に回されたハーンの腕はリリティスに、郷里の
トレスピアノで仲良しの男の子と罪なくふざけていた子供の頃のことを思い出させた。
  晴れた日に口づけしましょう
  小鳥のように
  お花をつんで、私のために
  晴れた日に口づけしましょう
  大好きな木の下で
森の大樹の幹は温かで、凭れていると今こうしているように、心地が良かった。
心の中でその歌を歌うことでリリティスは、いまわしい、
もう一つの影をこそぎ落として、追い払ってしまいたかった。
それは悪寒が走るほどに厭わしいものであるのに、
こうしてハーンに抱擁されている間も、
別の熱い腕でリリティスを背中からしっかりと抱いてくる気がした。
赤く深い暗がりへと引きずっていく。
(遠慮なく声を上げたまえ、誰もここへは来ない)
男はそう云った。
身の下に髪を乱して横たわる乙女に口づけを与えて、深い声で囁いた。
(リリティス・フラワン)
覚えのない感覚が身の内深くにさざなみとなって走り、
足許を乱したリリティスは、抑え難いそれをすべて嫌悪に変えて、唇を噛み顔を赤らめた。
その突然の様子にハーンは愕いたが、リリティスを離しはしなかった。

(無礼者。オフィリア・フラワンを祖に、
 オーガススィ聖騎士家の血を受け継ぐこの私に対して、
 私と知りながらのあの非礼、あの暴行。許さない)

ミケラン・レイズンこそは最愛の兄の実父を剣にかけて殺した男ではないか。
兄の仇である男にみすみす捕まった挙句、肌を見せることを許したたとは。
首筋に接吻された。
胸を掴んできた男の手を思い起こして、リリティスは身震いした。
リリティスがそうして押し黙っているのを、ハーンの方は、当然の恥じらいだと受け取り、
気長な態度で物柔らかに口説きにかかった。
かつて妹の内親王に「自分よりも立派な女騎士など御免だ」と云ったことも忘れて、
恋心にすっかり浸されている皇太子は、
ゆくゆくは皇妃に迎えるつもりのフラワン家の姫君に、
真情をこめてその思慕をやさしく打ち明け始めた。
ミケラン卿の湖畔の別荘に着いた時、紫の夕闇が降りていた。
星空を映す湖。
汀を打つ波音をぬって、対岸から誰かが呼んでいるような気がしたのです。
美しい声だった。
「ここに」
ハーンことソラムダリヤは自分の胸にリリティスの手を導き、
大切なものがそこに宿っている眼をした。
「あの夕べの声、今も忘れられない。
 あれは貴女だったのだ。
 あの朝、貴女はこの腕の中に金色の鳥のように落ちて来た。
 あの時は愕きましたが、こうして掴まえることが出来て、良かった」
リリティスはためらった後に小さく伝えた。
「私はきっと、そのお気持ちには応えられません」
「謝らなくていいよ」 
「あなたは誰」
うっすらとそれを知っている顔で、リリティスは厳しく問いを重ねた。
それでもそれはあまりにも思いもよらぬことであり、
眼の前にいる若者の正体はまだ半信半疑といったところにとどまって、
その憶測を明確にすることをリリティスは怖れた。
(ソラムダリヤ帝国皇太子殿下。まさか)
トレスピアノを表敬訪問する各国の中でも
ジュピタ皇家からの御使者の来歴は極度に少なく、
何かの祝辞の折々に、どこかの騎士家を名代に立てて、
非公式のうちに数度を数えるのみではあったが、
その折に皇族の肖像画は眼にしたことはある。
確かに似ているように思われる。
しかしその推測は突飛過ぎて、ヴィスタチヤ帝国の皇太子がまさか、
一介の従騎士のふりをしてレイズン領から面倒見良く、
ここまで自分に付き従ってくれたとは、どうしても思われない。
よしんば、それが自分への一目惚れといった軽率からの行動であったとしても、
やんごとなき御方の動向が、本日まで内裏にまったく不明ということはあり得ない。
(まさか)
護衛の替え玉ということもあるから、歳格好が似ているだけかも知れない。
しかしハーンを前にした時のルイのあのぎこちない気の遣い方や、
屋敷の周囲に気がつけば衛士が立っていたこと、
頻々とルイの屋敷を密かに訪れる使者たちに対するハーンの態度を見ていると、
垣間見るその様子からも、ただならぬものが感じられるのである。
リリティスは震撼した。
(私がここに居ることを、あの男にはきっともう知られている)
もしやハーンはミケランの放った間諜ではないかとすら思ったほどで、
彼の明朗な顔を見るとその疑いはすぐに消えたものの、
それでも右も左も支えを失ったように頼りなかった。
トレスピアノを飛び出してからこの方、
何か途方も無い巨大な流れの中に落ち込んでしまったような気がした。
そんなリリティスの様子を無理からぬ動揺だと受け止めて、鷹揚にハーンは微笑んだ。
貴女に話すこともあるけれど、それはまだ止しましょう。
「ハーン。あなたは」
今すぐでなくていいんだ、何といっても貴女はまだ病み上がりなのだから。
ハーンはリリティスの手を両手を包んだ。
「それとも誰か他に想う人でも?」
リリティスは黙っていた。


少し一人にして欲しいという言葉を聞き入れて、引き際よくハーンは
リリティスをそこに残して立ち去り、温室の扉を静かに閉めて出て行った。
ハーンの足音が遠のくと、リリティスは温室の椅子に腰を下ろした。
胸に湧き上がって来たのは、意外なことに怒りであった。
(ルイさまとハーンは、私に何かを隠している)
このところ積み重なってきた不審が、決定的な猜疑となってひとたび立ち上がると、
今の不埒な(とも云えないが)ハーンの告白から受けたそれなりの動揺や陥る甘美は、
リリティスの心からすっかり冷えて、霞んで、吹き飛んでしまった。
(私が階下に顔を見せると二人はすぐにお話を止めてしまうし、
 それにルイさまが寄越して下さったあのお医者さま、
 まだ歩き回ってはいけないなんて、
 私はもうすっかり元気なのに。おかしいわ)
(ルイさまとハーンは何か重大なことをご存知で、二人で共謀して、
  私をそこから遠ざけておこうとしているのではないかしら)
それは正しく、まさしくルイとハーンはそうしようとしていたのである。

「ルイ・グレダン。貴殿を信用して打ち明けますが、
 わたしは当屋敷に静養中のリリティス・フラワンを、
 わたしの妃にしたいと望んでいます」

ソラムダリヤからこれを聞いた時、
ルイはしみじみと、眼の前の青年の若さを羨んだ。
少年時代の延長のようにまだまだ歳の近い側近と遊び回ることが好きであった青年も、
何やら急にしっかりとしたようで、凛々しい顔つきでそれを年長の騎士に云うのである。
金色の髪もその緑がかった青い目も、
温和な印象で満たされたその顔立ちも王冠を載せるのに相応しく、
ついでに初めての恋に夢中になった少年のような性急さと熱心さで、
晴れ晴れしい若さと生気に満ちていた。
ソラムダリヤはルイの協力を仰いだ。
屋敷の者の数が少ないので、急遽、どこかの貴族の口利きで
躾のよく出来た世話係選び、皇太子の為にルイが雇い入れようとした時も、
ソラムダリヤは即座にそれを遮り、
「リリティスの為の侍女だけでいい。
 いつも仰々しく大勢に囲まれているのだから、
 他国にいるこのような時くらい、
 気楽に息抜きをしてもいいでしょう」
屋敷の中にこれ以上の人数を増やすことだけは頑として受け入れようとはしなかったが、
それはことが明るみに出た場合どのように言い繕ったとしても、
帝国皇太子とフラワン家の姫君がフェララに駆け落ちの後、
密会を重ねたように世間の目に見えることを慮って、ソラムダリヤは自分の為というよりは、
リリティスの名誉を重んじて、そうしたのである。
その結果、手が足りぬのでソラムダリヤは下男のするようなことも自らした。
「それで、どうだろう」、少し恥ずかしそうにソラムダリヤはルイに訊ねた。
「どう、とは」
フェララ城から帰るなり、畏れ多くも帝国皇太子が、楽しそうに生地を台の上に広げて
麺麭を作っている姿を見たルイは、立ち尽くしたまま鸚鵡返しに返した。
ソラムダリヤは生地を千切って三日月のかたちに整えながら、
「リリティスは、わたしの妃になってくれるだろうか」、と問うた。
「それは」
ここは分別くさく、ごく常識的なところをルイは咄嗟に急いで述べるにとどめた。
それは、そのようになるかと。
「フラワン家とて、このご縁組はありがたく拝受することでありましょう」
「いや、それはいけない」
粉のついた手で髪をかき上げるとソラムダリヤは首を振った。

「頭を低くして愛を乞うのは男の方だよ。
 わたしだと分からぬままに、彼女にわたしを好きになって欲しいのだ。
 先ほど、リリティスを温室に案内にてそこで少し彼女と話しをした。
 今のところ嫌われてはいないようだけど、ここで少し待つか、または、
 印象が新鮮なうちにもうちょっと強く押したほうがいいかな。どうだろう」

聞かれても困る。
第一、リリティスとてトレスピアノの姫君、皇太子の身分や正体を隠したままでは
一介の平騎士の求婚などに軽率に応じるはずもないではないか。
「そこが難しい」
勝手に悩まれるがよろしかろう、と云いたいところであったが、
懊悩に顔を曇らせている青年をそのままにも出来ず、ルイ・グレダンは急いで、
城から持ち帰ったばかりの最新の話題を持ち出すことで、
皇太子を安穏とした恋心から引き離すことに成功した。
「ところで、殿下。いやハーン殿。リリティス嬢は」
「温室から戻らないようです。迎えに行ってくれませんか」
下男に教えてもらいながら焼き釜に麺麭を入れ終わったソラムダリヤは、
ルイにそれを命じた後で、引き止めた。
「あ、ルイ。ちょっと待って」
「は」
貴方はつい先ごろ、トレスピアノを訪問されたとか。
フラワン家の方々は、どのような方々でしたか。
皇太子の問いにルイは「はあ」、と応え、とりあえず
フェララ公に報告した印象と同じところを、正直に伝えた。
「フラワン家は格式ばったところを好まず、
 しかし代々の節度と気韻が家風としてすずしく通っており、たいへんに結構でした」
フラワン家のお屋敷は小城ほどの規模を誇り、
荘園の少し高台になったところに建っております。
領民と親しく交わる一方で、厳格なる礼節を重んじ、
時としてそれは家族の間にも、厳かさや静謐をもたらすほどでありました。
「堅苦しい人々なの」
「いえ。フラワン家のご一家は、たいへんに互いを愛し、
 仲睦まじく過ごされておられます。森に囲まれたトレスピアノは美しき処、
 いささか浮世離れの感も否めぬものの、緑のそよ風そのままに、
 慎ましく代々の土地を守って、品格高くそこでお暮らしです。
 田舎の素封家というよりは、在野に下った貴家を想像していただけますれば」
「ねえルイ」
「は」
皇太子は焼き釜を覗くふりをした。きまりが悪いのか、云い難そうであった。
「リリティスには、たいそう出来のいい兄君がいるとか」
「シュディリス様のことですな」
もっともらしく、ルイは頷いた。兄に嫉妬してもはじまらぬであろうが、
恋する若者にとっては些細なことであっても忌々しき障害として思われるのであろう。
フラワン家長子の横顔についても、ルイはごくあっさりと端的に語った。
大仰に褒めたりせぬほうがこの場合はよい。
しかしソラムダリヤの心配は減るどころか増えるようである。
「リリティスはそんないい兄上を身近で見て大きくなったのだ。
 さぞかし言い寄る男に対して点が辛くもなるだろうことだろうね」
「そのような」
「何といっても、彼はフリジアの心までも虜にした、必殺の「白馬の王子さま」だからね」
「何を云われますか。シュディリス様は実の兄君、
 リリティス嬢にとってはむしろ、男の数には入ってはおらぬかと」
「男の数には入っていない。たとえば、ルイ、
 貴方がフェララの女性たちから熊と呼ばれているように?」
「なぜそのようなことをご存知で」
「熊さんか……」
「………」
「白馬の王子さまでも」
「王子さまでも」
児戯にも等しい問答を繰り返して、ようやくルイは厨房から解放された。
温室へと向かうルイの疲れた顔は、そのまま、
リリティスの目には何かの重大事を自分に隠している顔として映った。
広いともいえぬ屋敷の中で二人の若者の間に立たされたルイこそは、
双方の、格好の八つ当たりの的であった。
ルイが温室に見つけたリリティスは、眼の前の小さなつぼみを仇のように凝視しており、
ルイの方を見向きもせぬまま不躾にいきなり、

「ご希望を早くおっしゃって下さい」

よそよそしい態度で剣呑に述べた。
「ご希望とは」
ルイに、リリティスは吐き捨てた。
「ルイさまはご親切にも、思い遣りから私に何一つお尋ねではない。
 詮索心の克服はご立派ですが、
 それがかえって人を傷つけることもございます」
「え、わしが、リリティス嬢を傷つける」、ルイは仰天した。
横を向いたままリリティスは続けた。
ご想像のとおり、私、トレスピアノを勝手に一人で出てきました。
思わぬ奇禍にあって、タンジェリンやその他の残党騎士と共に
レイズンの国境外れの砦に捕まっておりましたところを、
ミケラン卿の奥方アリアケ様にお救い頂き、また、
ハーンと名乗る、あの謎の殿方の親切とお力添えを頂いて、
こうしてフェララへと、ルイさまを無事に頼ることが出来ました。
「そ、それは良かった」
「良くないわ」
きっとなってリリティスはルイ・グレダンを振り返った。
「アリアケ様はその時の無理がたたって、お隠れになってしまわれた。
 それの、何が、良いとおっしゃるの」
「それとこれとは話が別では」
「アリアケ様がお亡くなりになったのは私のせいです」
「それは違う。それは違いますぞ」
「お黙り下さい」
「は、はあ」
「そしてハーンと名乗るあのお方、見れば、ルイさまよりもはるかに位が高いご様子。
 他の者ならいざしらず、私は私に係わる隠し事が目の前で展開することが嫌いです。
 あなた方のご厚意は疑わず、そのご配慮は痛み入りますが、感じが悪い。
 いったい、あのハーンという殿方は、フェララ家の信任厚い剣術師範代や
 この私よりも身分が堅いとでもいうのでしょうか。
 そうでないと抗弁するおつもりなら、
 フェララ剣術師範代ルイ・グレダン、
 フラワンの姓を持つこの私の頼みを聞き届け、
 ハーンにはこのお屋敷から出て行ってもらって下さい」
「それは」
「出来ないのですか」
「いやその。あの若者はリリティス嬢を真実想われており、
 礼儀も正しい若者ゆえ、さように無碍なことは
 人の道にも劣ることではありますまいかと」
「ではハーンが何者なのか私に教えて下さい」
「いずれ知れる日もあるかと」
「勇敢にも人の悩みを黙って素通りすることは出来ても、
 助けの手を伸ばすことには臆病ですか。
 私がハーンなる殿方と結ばれることをお望みですか。
 秘密をちらつかせることが人の道で、女衒のような真似をする。それが騎士ですか」
「女衒。どこからそのような物言いを覚えられたか」
「云い過ぎました」
「まったくですぞ」

力尽きたリリティスは花々の間の椅子に腰を下ろした。
細いその膝の間に、午後の光が頼りなく揺れていた。
ルイは眼を白黒させたまま呆れ果てていた。しかしリリティスが何故にこのように
機嫌が悪いのかは分からぬながらも、よい機会とみて説得にかかった。
温室の花に疲れた眼を向けているリリティスの横顔は、
真珠色の光に照らされて、そのまま画布に閉じ込めたいほどに繊美であり、
病み上がりのせいもあってか、痛々しいほどに繊細に、そして張り詰めて病的に見えた。
つむじを曲げている若い娘のあしらい方などとんと覚えのない彼ではあったが、
ルイは反発必定の説教は避け、リリティスの美点であり弱点でもある、
情愛の面から訴えることにした。
やがて彼は頃合をみて、やわらかく声を落として呼びかけた。
「リリティス嬢」
大きなその体躯を曲げて、ルイはリリティスの足許に身を屈めた。
外の風の中では、清すぎても汚すぎてもいけない。
このをとめごは温室の花であるべきであり、それが最も倖せなのであろう。
「リリティス嬢。フラワン家の領主夫妻が、息女の行方を案じておられる」
リリティスははっとなった。膝の上で手を握り締めた。
「………」
「これは隠していたわけではありませぬが、僭越ながら、
 わしの方から領主夫妻にはご安堵頂けるよう、書簡を送っております」
「どんな手紙ですか」、リリティスの声は震えた。
「リリティス・フラワン嬢はフェララの友人宅でお健やかであるとだけ、短く。
 滞在先がここだとは明かさず、フェララにおける姫君の身の上は、
 領主夫妻の友人であるこのルイ・グレダンが保証人となりまする、と」
「返事は」
「心配ご無用ゆえ一切不要と、わしの方からお断りを申し上げた」
責任はわしにある、とルイは云った。
ご両親にはその方がよろしかろう、ルイはリリティスの手に手を重ねて励ました。
リリティスはすでにその眼に涙を溢れさせていた。
「しかし使者が伝言をことづかって戻ったゆえ、それをお伝えいたそう。
 リィスリ・フラワン・オーガススィ様からのお言葉はこのように。
 娘リリティスに伝えて欲しい、『早く帰っていらっしゃい』。」
リリティスは泣き出した。
そして首を振った。
「ごめんなさい。でも、まだトレスピアノには戻れません」
「何を云われる」
ルイは落ち着いて、心の乱れた娘の細い肩にしっかりと手を乗せて言い聞かせた。

「ご夫妻は、リリティス嬢に逢いたくてならぬのですぞ。
 後のことは全てわしやハーン青年に任せ、安んじられるがよい。
 愛するご両親の許に戻り、早く元気な姿をお二方の前にお見せになることです。
 いったい全体、トレスピアノを出てからどのような面倒が起こったのか、
 わしを信じて全て打ち明けてみなされ。
 街中で思いもよらず貴女に再会出来たのも、これも何かの縁であろう。
 お力になりますぞ」
 
(心が張り裂けてしまいそう。--------誰にも分かってはもらえない)
あまりにも永く、叶わぬ夢ばかりを虚しく追いかけてきた。
シュディリス兄さん、ユスタス。
私はあなた達とずっと、いつまでも一緒にいたかっただけなのかも知れない。
あの美しいトレスピアノの野に、いつまでも。
我侭な娘、どんな賎しい素姓の女でも私よりはまだ倖せ。
私よりは倖せ。
(お前が望むのならいつまでもお前の側にいるのに、リリティス)
兄の声が囁いた。
仕方のないことばかりを云う、と怒っているようにも見えた。
(リリティス。とても巧くなった)
剣技が上達するたびに、そう云って微笑みを見せてくれる兄が嬉しかった。
(胸の中の氷がなかなかとけない。
 いつも冷たい眼で私を見ている。お前は間違えていると云っている。
 ここから出たいと叫んでいる。誰にも聞こえない)
「ルイさま。私」
「リリティス嬢?」
眼を上げたリリティスは、ルイの顔を正面からひたと見据えた。
ルイは愕いた。
今しがたの流涕は、リリティスを庇護の必要な無力でいとけない娘にしたはずであったのに、
眼の前にいるのは雨の中に咲く花のように、気丈にその身を支えている一人の女であった。
涙の残る顔のまま、リリティスはルイに告げた。
「ルイさま。私はルイさまを信じよう。
 全てを貴方に打ち明けます。
 ルイ・グレダン様。これはフラワン家の我が兄、我が弟、そして
 ユスキュダルの巫女さまにも、深く係わること。
 お覚悟の上でお聞き下さい。
 ユスキュダルの御輿一行はトレスピアノ領を通過途上、
 不法侵入してきたレイズン軍に囲まれ、
 兄は単身で巫女さまを救出。その後、両名は失踪いたしました」
「何ですと」
「フェララ大公の近臣である貴方には、既におおよそのことは
 機密のうちにご存知であるはず」
素っ気無くリリティスは決め付けた。
兄と弟はその折に別れ、弟ユスタスからそれを聞いた私は兄を探しに出ました。
巫女さまと兄が今も一緒にいるのかどうかは分かりません。
しかし、レイズン側は今もユスキュダルの巫女と兄の行方を追っており、
兄シュディリス・フラワンの行方を探していた私は不覚にも捕えられ、
一件に係わる疑わしき者として、ミケラン卿から詮議を受けました。
「ルイ・グレダン様」、リリティスは声を強くして、深く探られることを避けた。

「私は名を明かしませんでした。
 たとえミケラン卿が私の素姓に気がついていたとしても、
 汚名を残してまで生き永らえる私ではありません。
 ミケラン卿に捕まり、そしてフェララに逃れて来たのは、
 何者とも知れぬ、流れ者の娘です。
 このこと、よくお含みおおき下さい。
 これはひとえに、兄とユスキュダルの巫女さまの身を案じ、その無事を願ってのことです。
 彼らをおびき寄せようとするレイズンに、私の名が利用されるものであってはなりません」
「………」

これはいけない、とルイは思った。
前からその傾向はあったが、この娘、理想と空論の中で完結している。
感情的な義憤は心の高い貴女にはありがちであるが、
そのご高潔が侍女相手の閑談ならともかくも、
現実の政治には無力無効であることも、どうやらまるで分かってはいない。
「フェララは大国。そこでルイさま、
 私がルイさまにお願いしたいことを申し上げます。
 三ツ星騎士家フェララ家のご当主ダイヤ様に働きかけて、
 フェララに、レイズンへの牽制と抑止をお頼みしたいのです」
「何ですと」
「ミケラン・レイズン卿の罪を白日の下にさらけ出し、巫女をお救いするのです。
 私たち騎士が、迷い、傷つきながらも身を高く持していられるのは、
 その上にユスキュダルの御方があればこそ。
 その騎士の象徴を地に貶めようとするミケラン卿こそは乱臣、全騎士の敵です。
 畏れ敬うことを忘れた心に、騎士の心の平穏や尊重もまたありません。
 ミケラン卿に巫女を渡してはいけません」
「ご尤も。しかしながら、ミケラン卿の真意も目的も定かではない段階では、
 フェララとしても、動きようがありませぬ」
リリティスは顔色を変えた。
「では、やはりルイさまは何かをご存知でしたのね」
「何かとは」
「レイズン家の不穏も、巫女の不明も」
「何も」
「嘘つき!」
リリティスはまだ涙に濡れたその眼で、ルイを睨みつけた。
平手打ちでも飛んで来そうな気配に、ルイは思わず後ずさった。
(いかにフラワン家の姫君とはいえ、言葉一つでフェララ家を動かせるはずもないものを)
しかし、ともすれば理想論に一気に傾き勝ちのリリティスにとっては、
すぐにもレイズン家へ向けて各騎士団が差し向けられぬことの方が不思議でならず、
のらくらと矛先をかわして言質を曖昧にぼかしているルイの態度こそが
許しがたいものに思われる。
幼子のように叫んだ後で何かを云おうとして立ち上がったリリティスは、清い炎のようだった。
圧倒されてたじろぐよりはむしろ危うく思われて、リリティスが倒れはせぬかと、
ルイは思わず手を差し伸べた。
そこへ、温室を揺るがす勢いで、ソラムダリヤが飛び込んで来た。

「ハーン殿」
「ルイ。これはどういうことだ。屋敷がフェララ騎士団に包囲されています」
「何と!」
「中隊長が、表に。早く」

出て行くまでもなかった。
「ルイ・グレダン殿はこちらか」
ルイの顔見知りの中隊長が部下を引き連れて温室に現れた。
剣の柄頭に三角の金飾り、緑を基調としたその拵えは、間違いなく
フェララ騎士団のものだった。
生い茂る温室の花々を蹴散らして押し入るなり、彼らはルイやハーンを眼中にせず、
鎧の音を怖ろしく天井に響かせながら、速やかにリリティスを取り囲み、取り押さえた。
ルイが止める間もなかった。
「これは!?」
「ルイ・グレダン殿。ダイヤ様のご命令により、
 トレスピアノ領フラワン家息女の名を不埒にも騙る、そこなる偽者を捕縛いたす。
 速やかに貴殿の屋敷に逗留中の詐称者をお渡しありたい」
「何を莫迦な」
「詐称者には、レイズン家管轄の獄牢からの脱獄、および、
 帝国皇太子ソラムダリヤ殿下の玉体を誘拐し、他領国に同行を
 強要した罪状もそれに加わる。
 これはヴィスタチヤ帝国陛下の信任により帝国の治安維持を担うレイズン卿から
 発せられた要請により、フェララ側がそれを受諾し、
 身柄の移管を本日行うものである。引っ立てよ」
「待て」
そこに、すばやく間に割って入ったのはソラムダリヤだった。
「皇太子殿下」
中隊長以下フェララ騎士団は一斉に直立不動となり、礼をとった。
中隊長は感激の面持ちで、皇太子の前に進み出た。
「ソラムダリヤ皇太子殿下。ご無事で何よりでございます。
 後ほどダイヤ様がこちらにお運びになります」
「これは誰の指図によるものか」
帝王教育の成果を発揮してソラムダリヤはこの場に相応しい態度で臨んだ。
悠然と一同を見回し、厳しく問い返した。

「ミケラン卿と云われましたか。ならば彼に戻って伝えよ。
 一切は卿の誤解にて、ここにいるのはリリティス・フラワン嬢その本人であると。
 また、誘拐の嫌疑などもっての他。
 リリティス嬢とわたしは友人であり、フェララへは、旧友ルイ・グレダンを共に訪ねたもの。
 フェララ領主ダイヤ、および父陛下にも伝えよ。
 帝国皇太子ソラムダリヤは、婦女子に誘拐されるような軟弱者ではない」

ソラムダリヤはリリティスに近寄り、リリティスの腕を掴んでいた騎士を退かせた。
「お役目ご苦労だった。
 しかし冤罪をきせられた友人が眼の前で連行されるのはしのびない。
 これが何かの誤解であるならば、わたしからよく調べよう。
 リリティス嬢は獄になど囚われたことはなく、
 また科せられた罪状にも根拠がないようだ。
 フェララ公にはわたしから断りを入れる。本日のところは引くように」
「し、しかし。領内には既にレイズン側から受取人が」
思わぬ強力な障碍にあって、隊長は汗をかきながら、それでも従騎士たちを屋敷から
引き上げさせようとはしなかった。
「しかし」、と口ごもってはっきりしない。
「しかし、何です」、ソラムダリヤはリリティスの側から離れずに云った。
彼は頑としてリリティスを渡さぬつもりでそこにいた。
「姫君と僭称者の区別もつきませんか」
滅多にしないことではあるが、皇太子は侮蔑と不愉快を今の言葉に意識的に高圧に込めていた。
それの通じた隊長は蒼くなってルイ・グレダンを仰ぎ、何の協力も得られぬと分かると、
ようやく恐る恐る、それを口にした。
もしも速やかにいかざる場合には、フラワン家令嬢を騙る詐称者に対してこう伝えるようにと
ミケラン・レイズン卿から届いた書面には追記されております。
「ではそれを早く云って。ミケランは何と」
「では」
ちらりと隊長はリリティスの顔を窺った。
リリティスは既に覚悟の出来た顔をして、この騒ぎではなく、静かな遠い花を見ていた。
背中から誰かの熱い腕がリリティスを抱き、耳朶に男のその声が聞こえた。
胸をぴくりと震わせて落ちて来た。
(わたしの許に戻りなさい、リリティス)
「おとなしく獄舎に下るよう。兄君については不問に処すと」
「---------分かりました」
「リリティス」
リリティスはソラムダリヤから離れた。たちまちのうちにフェララ騎士たちに取り囲まれた。
その身に手枷と縄がかかろうとするのを、「逃げることもあるまい」、中隊長が首を振って止めた。
騎士の中からリリティスは振り返った。
「ハーン。いえ、ソラムダリヤ皇太子殿下。
 それにルイさま。善くして頂き、ありがとうございました」
「リリティス嬢」
「ルイさま」
リリティスはルイを眼で止めた。
(これは、兄のためです)
そして、ソラムダリヤの前に来ると、そこが舞踏会の場であるかのように
誰よりも優美に衣の端をつまんで、お辞儀をした。
温室を振り返ることなく、リリティスは述べた。
「皇太子殿下。この数日殿下の前にいたわたくしは、彼らが云うとおり、偽者です。
 数々の無礼お許し下さいませ」
それを遮り、ソラムダリヤは声を強くした。彼には自信があり、そのままそう云った。
「何かの深いわけがあるのだねリリティス。少しお待ち。必ずわたしが誤解を解いてあげよう」
「ソラムダリヤ殿下におかれましては、この件、お忘れになりますよう。どうか」
「リリティス」
「わたくしのことは、お忘れ下さい」
退去するフェララ騎士隊に囲まれて、リリティスの姿は護送馬車の中に見えなくなった。




「続く]




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