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[ビスカリアの星]■二十九.



物陰に押し込めた若者の腕を押しのけて、ロゼッタは身を離そうとした。
その腰にユスタスは後ろから腕を回して止めた。
(しっ)
伏せられたロゼッタは勘よく、ユスタスの意図を察して静まった。
旧タンジェリン領の外れ、打ち捨てられた屋敷の庭で、
寄り添った二人はその身を硬くし、顔つきを改めて、
近付く物音に静かに耳を澄ませていた。
最初の愕きが過ぎると、すぐさまロゼッタはユスタスを後ろの茂みに追いやり、
水枯れした噴水の彫像の裏に深く隠れた。
その様子にはどう見ても、狭いところで男と二人でいることへの羞恥はなかった。
ユスタスと密着したまま、ロゼッタは片膝をついた低い構えで、
背後のユスタスを庇う姿勢でその剣に手をかけていた。
しばらくの間、どちらが目立たぬ場所へ潜むかで押し合っていたのだが、
哨戒の騎士の足音がいよいよ近づくと、根負けしたユスタスがロゼッタに譲った。
彼はちらりと眼の前にある少女騎士の顔を仰いだ。
動悸の音さえ聴こえそうで、聴こえなかった。
息がかかる距離にある少女のその顔は、細い光に輪郭を淡く縁取らせて、
周辺の事変を何ひとつ洩らさずに探る鋭い眼をして、微動だにしなかった。
サザンカ家を支える家司の家に生まれたロゼッタ・デル・イオウは、
ユスタスを背中に護りながら、完全にその気配を暗がりの中に消していた。

(よく出来ました、と褒めてあげたいところだけどね)

窮屈に彫像の台に背をつけたまま、ユスタスは心中でぼやいた。
(こういう時には男に任せたほうが絶対にいいと思うよ)
こちらも剣を佩く身だと分かってるくせにこれだよ。
軽い不快を表明して、並ぶように少しだけ前へ出た。
半身が触れ合った。
ロゼッタはそれでも動かなかった。
唇を閉ざし、気がついているはずのユスタスの自分への注視に対しても、
何の恥じらいも、何の動揺もその顔に浮かべなかった。
手にした鞘の先からは、赤い剣のその色がほんの僅かに、
濡れた鮮やかな傷口のように見えていた。
廃屋敷を巡回しているのは、どうやらロゼッタの属するサザンカの騎士である。
それが判明しても、なおもロゼッタは身を挺して、
フラワン家のユスタスを後ろに隠して動かなかった。
見回り騎士は二人組みであった。
彼らは屋敷の方へ注意を向けており、彫像の裏で息を潜めている二人には気がつかずに、
噴水の周りを改めることもなく、ゆっくりと通り過ぎていった。
見つかったら見つかったで、適当に言い逃れをするつもりではあったものの、
まかり間違ってロゼッタが、「こちらのこの御方はフラワン家のユスタス様です」などと、
飛び出して行って彼らに紹介しては堪らない。
しかしユスタスの緊張が伝わるのか、ロゼッタはユスタスに合わせて、
彫像の蔭に身を寄せたまま、その唇を引き結んで黙っていた。
歩み去るサザンカ騎士の話し声がわずかに風に乗って聴こえた。
彼らは笑っていた。
------オニキス様の今度の愛人はハイロウリーンの女騎士だそうだ
ユスタスはぎょっとなった。
そう聞こえた。
オニキス皇子の足許に膝を屈していたルビリアの姿。
(ルビリア)
まさか。かつては異母弟ヒスイ皇子のものであった女を。
しかしオニキス皇子の卑しい眼つきを思い出すとそれもあり得ることと思われた。
赤いドレスを広げて、ルビリアがその下に落ちていく。
精緻な貝彫刻のようなルビリアの横顔。
必要があればルビリアはその身を投げ出すことも厭わないかも知れない。
ユスタスは首を振った。
無残で不潔な気がして、今は考えたくない。
ぱきん、と何かが踏まれて割れる音して、はっとなった。
それは足許の貝殻であった。
噴水の縁には貝の飾りがついており、古びて落ちたものを、うっかり踏んだらしかった。
サザンカ騎士たちが去り、無事になったことを確認すると、胸中の不快感を吐き出すように、
やがてユスタスはわざと尊大にロゼッタの肩に手を置いた。
「ロゼッタ、もういい」
「はい」
忠義者よろしくロゼッタは応えたが、警戒の構えを崩さなかった。
それがまたユスタスの癇に触った。
自尊心が傷つくほどではなかったが、劣れるはずの女の子に庇われ、
己の存在を黙殺されることほど、男にとっておもしろくないことはない。
しぜんと声も邪険に尖った。

「ところで、こうして隠れたそのわけだけど、ここでの僕はフラワン家の者ではなく、
 一介の騎士ユースタビラということになっている」
「なぜ」
「何故でも。君にもそのように応対してもらいたいし、人目のある場所では、
 今後は僕に近付かないでもらいたいんだ。分かった?」
「ユースタビラ、ですか」、ちらっとロゼッタは見返った。
「偽名だよ。これには深い理由があるんだ」

ユスタスはさも重大なことでもあるかのように云った。
彼らはまだ彫像の裏に隠れ潜んだままであった。
身を寄せ合ったまま、顔を見合わせた。
少女騎士は賢そうな眼をして、じっとユスタスを見つめた。
美少年といってもいい顔立ちであったが、やはりその頬や唇は、少女のものであった。
夏の薔薇が日陰にやわらかに香った。
「……何だよ」
憮然としているユスタスに動じることなく、ロゼッタは漆黒の短髪をさらりと傾けた。
「確か、フラワン家の先代様の御名が、ユースタビラ様であったかと」
ロゼッタは隣国に詳しい者ならではの痛いところを突いてきた。
ユースタビラ・フラワン。
トレスピアノの現当代さまのご父君であり、ご子息には、ご祖父様にあたられる方の御名。
偽名にしては、それでは、あまりにも出自が明白であるかと。
すらすらとロゼッタは続けた。
「それに、わたしの眼に間違いがなければ、
 ユスタス様がお持ちの佩刀には御母君リィスリ様のご実家である、
 オーガススィ家の紋章が見て取れました。
 偽名として用いるには、ユースタビラの名を選ぶのはいかにも
 まずかったのではないでしょうか。
 ユースタビラという名は昔、代々のフラワン家当主が世襲してきた由緒ある名なれば」
剣の紋章。
少女とはサザンカ領の森のはずれで確かに剣を交えたが、あの僅かな衝突の最中に、
よくもそこまで見て取ったものである。
光の加減によっては全く見えず、柄元近くにある為に、普通は眼にも留まらぬものを。
ロゼッタは「今のははったりです」、と云った。
「はったり……」
「ユスタス・フラワン様がお持ちの剣は、オーガススィ出の御母君から譲られたものだと
 何かの折に聴き及んでおりましたゆえ」
「………」
もはや、ロゼッタの記憶力に感心していいのか、
それとも隣国サザンカの諜報力に感心していいのか、分からない。
ユスタスを問い質すロゼッタの方にはどうやらまったく悪気はないらしいのが、さらに悪い。
彼女が求めるのは、情報、ただそれだけなのだ。
ロゼッタは容赦なかった。
「オーガススィ聖騎士家の剣を持つ星の騎士は他にありません。
 わたしの赤剣を打ち止めたその剣の光。わたしは忘れない」
「あ、いや、うん、そんなことはないと思うよ」
少女の迫力に気圧され気味のユスタスは、つっかえ気味にようよう云った。
「この剣の型になった伝来の宝剣は確かまだオーガススィにあるはずだし、
 第一、僕の母は騎士じゃなかったから、嫁入の際に荷物の中に混じっていたこれも
 天下覇道の名刀というにはやや劣る、長い年月の間、
 一族の間に適宜にばら撒かれてきた、よくある類似の業物なんじゃないかな」
「推論は結構。しかし方々を騙しおおせるとお思いですか。
 ハイロウリーン騎士団の中でも、聡い者の目には、
 ユスタス様の正体はすでにそれと知れていることでしょう」
「今のところ誰にもばれてない」
「承知の上で泳がされているだけかも知れません」
「うるさいな!」
「お静かに」
子供じみた癇癪を起こしたユスタスを、年下の少女は諌めた。
「-----それとも、フラワン家のご次男であると知れると、何か不都合が?」
ロゼッタは声を落としていたが、これを聞いたユスタスは何となくぞっとなった。
嫌な予感がする。
日陰が急に暗く深まった気がした。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
一字一句はっきりと、赤い唇を近づけてロゼッタはそれを口にした。
教えて下さい、ユスタス様。
「ユスタス様、そう呼んではお困りのご様子------そうですね?」
言葉は慇懃でも、それは立派な脅迫であった。
「では偽名がお望みとあらば、そのようにいたしましょう。
 その代わりに教えて下さい。
 オニキス・カルタラグン・ヴィスタビア皇子、およびハイロウリーンに対して、
 今だご素姓を明らかにされない、そのわけを」
「君には関係ない」
「ユースタビラ様」
「君には関係ない」、ユスタスはもう一度云った。
自分がここにいるのは、
巫女が野に下って来た理由を知るはずのソニーとゼロージャを逃がし、
その行き掛かり上避けられなかったレイズンとの激闘の最中、
危ういところをルビリア率いるハイロウリーン騎士団に救われたからだ。
その彼らにフラワン家の者だと明かしたところで、いったい何故どうして、
「フラワン家の若君がトレスピアノを出て来たのか」、
まさか兄シュディリスがレイズン軍の鼻先でユスキュダルの巫女を奪い去ったのだ、
などと、うかつに全ての経緯を話せるわけもない。
しかしロゼッタの眼差しはひたとユスタスに注がれており、その口調は極めて真剣であった。
「ユスタス・フラワン・ユースタビラ様」
「厭味か、それは」
わがサザンカ、及び、ハイロウリーン各位に、真名を知られたくなければ正直にお答え下さい。
かちん、とロゼッタの剣が鳴った。
「御身、何故、ここにおられるのです」
「ロゼッタ、君、お菓子は何が好き?」
ユスタスは髪をかき上げ、眼を逸らしながら必死で笑顔になった。
「好きなものを奢るよ。
 ここいらにサザンカの女の子の趣味に合う、そんな素敵な茶屋があればだけどね。
 それとも花束や髪飾りはどう。馬で遠乗りとか。
 せっかく再会できたんだ、君が僕のことを嫌いじゃなければ、
 もっとこう、楽しい話をしないか?」
二人がぱたりと黙り込んだのは、そのせいではなかった。
ふたたび、今度は互いに仲良く頭を低くし、咄嗟に彫像の裏に揃って引っ込んだ。

「締め上げてやる、ルビリア・タンジェリン」

ややあって、聴こえてきたのは、暗い笑いを含んだ声だった。
その低い声音が奇妙なほどによく透って明るいのが、余計に不気味であった。
それはオニキス・カルタラグンだった。
皇子は手近な薔薇をむしり取り、それを手の中で砕いた。
「薄汚い手を使い、このわたしを利用するつもりか。
 過去に殉じるだけでなく、
 男ひとりをまたもやそなたの実りのない復讐劇に道連れにするつもりかな」
千切れた花びらが赤黒くその手から零れた。 
「生意気な女。興味のない美しい女。
 しかして反抗的で、屈しない強い女。
 異母弟のものであり、今もなお、あのヒスイに心を捧げている女。
 好むところではないが、その気になれば、わたしとてどんな下劣な真似でも平気でやろう。
 存分に愉しんでそうしてくれよう。
 あの女の転落の様を、泉下で見ているがいいヒスイ。
 この世にある間、ついに貴様に敵うことのなかったお前の兄がお前に代わり、
 ルビリアの身に思い知らせてやろう。
 あの女、部下の間にも引渡し、奴隷のように引き回して扱ってくれる。
 そしてルビリアを蹴落とすことで、ヒスイへのわたしの積年の恨みも少しは晴れようか。
 日蔭者の復讐。
 なかなか刺戟的で凡庸な、しかし愉快な話だろう?どう思う。-----彫像の裏に隠れている者よ」
握り潰した薔薇の残りを、オニキスは手から払い落とした。
眼を上げたオニキス皇子が見たのは、黒髪の、少女騎士であった。
飛び出してきたそのままに、その膝にはまだ土がつき、その息は弾んでいた。
「ご無礼を御赦しください。立ち聞きするつもりはありませんでした」
ロゼッタ・デル・イオウは皇子の前にその剣を横にして置き、膝をついた。
呼吸を整えると、一息に云った。
「はからずとはいえ、皇子の独白を聴いたような気がいたします。
 他には洩らすことはありませんが、
 お疑いとあらば、その剣でわたくしの首をこの場で刎ねて下さいますように」
「おやおや」
オニキス皇子は柔らかい目をして、少女の白いうなじを見下ろした。
足先に差し出された少女の剣を拾い上げた。
「イオウ家のお嬢さんであったか」
オニキスが鞘を払うと、赤く光る刀身が長く現れた。
ロゼッタの頭上にそれをかざすと、赤光が少女のその細首に鋭く走った。
平伏したままロゼッタは動かなかった。
それを見つめながらオニキスは云った。
「此度の随伴、お役目ご苦労。
 なにもこのようにお若い娘さんに責務を負わせずとも、と、
 そのようにわたしからもサザンカ側には申し立てたのだが、
 家司の家に生まれた者の努めとして、経験を積ませたいとのお答えだった」
「他国に公務を帯びて出ることはわたくしの夢でした」
「申すまでもないことながら先ほどの戯言は、他言無用に」
「はい」
「と云っても、どうせ洩れていくものではあるだろうが、今ここでは咎めぬ。
 もし周知のこととなった時には、それはそなたが漏洩したということになるのだしな。
 ロゼッタ・デル・イオウ。ここで何を?」
「休憩をとっておりました」、よどみなくロゼッタは応えた。
「噴水の陰では止めたほうがいい。ひと眼につかぬだけ、ひとの疑いを呼ぼう。
 先ほど、ここを巡回していたサザンカ騎士が不審の旨をわたしに告げた。
 それで様子を見に来たのだ」
「紛らわしき振る舞いをいたしました」  
「ロゼッタ」
「はい」
「その構えは見上げたもの。だが、やはり女は女。
 騎士として天晴れに生きるよりは、男に気に入られるすべを学ぶことだ。
 難しいことはない、猫のようにかわいらしく鳴いて甘えていればいい。
 よく見れば、かわいい顔をしているではないか。五年後が楽しみだ。
 喉をくすぐり、餌を与えれば他愛なく歓ぶ、わたしはそんな女が好きだ。
 それが出来るのなら、わたしの従騎士に取り立てて贔屓にしてやってもいい。
 ゆめゆめ、ルビリアのような気違い女を恰好いいなどと思い違いをして、
 あれに憧れたりはせぬことだ、待つのは悲惨ばかりだよ」
「お言葉、心に刻みましてございます」
「小賢しい女ほど男が嫌うものはないことを憶えておくがいい。これは、返そう」 
立ち去り際にオニキスから戻された剣を、ロゼッタは恭しく両手を掲げて受け取った。 
やや過ぎて、完全に人気が絶えた。
彫像の裏から出て来たユスタス・フラワンがまずとった行動は、
つかつかと歩み寄るなり有無を言わせずロゼッタの腕を掴んで木陰に連れて行き、
その頬を引っぱたくことであった。
軽く、とはいえ平手打ちである。
ロゼッタは木の幹に背中をぶつけた。
「痛かったですか?」、訊いたのはロゼッタの方だった。
「ああ、痛かったよ!」
ユスタスは肩を押さえて喚いた。
誰何されるなり、ロゼッタはユスタスのまだ完治していない肩の傷を剣の柄で殴りつけ、
痛みのあまりに地に打ち伏したユスタスをそこに残して、
オニキス皇子の前に出て行ったのである。
ついでにユスタスは、ロゼッタがオニキスの前に膝をついたことに対しても怒っていた。
これは嫉妬じゃないと己に言い聞かせながらも、ユスタスはロゼッタに当り散らした。
「差し出がましい真似を。あのまま、もしもオニキス皇子がその気になったら、
 君の首は飛んでいたんだぞ。
 僕を護ってくれたつもりか知れないが、余計なことだ。
 君はたかがイオウ家の子で、この僕はフラワン、
 いざとなれば皇帝陛下に次ぐこの名にこめられた威光でもって、
 誰にも何も云わせるものか。
 だいたい君と僕とでは騎士としてどちらが強いか君だって分かっているだろう」
ロゼッタは聞いてはいないようだった。
その黒い眼を輝かせ、赤い剣を抱いたまま、オニキスが去った庭の先を睨んでいた。
「お聞きになりましたか、ユスタス様」
「君こそ僕の話を聞け」
ロゼッタの顔はユスタスよりも険しかった。
「オニキス皇子の、今のご発言をお聞きになられましたか」
「それが何か」
腑に落ちないまま、「悪かったよ。叩いたりして」、ユスタスはロゼッタの頬に手を添えた。
そのまま、手を引くことも出来なかった。
ロゼッタは皇子の言葉の何を怒っているのだろう。
女は猫のようにかわいらしく鳴いて甘えていれば云々のあのあたりか?
あんなの、適当に笑って聞き流しておけばいいだけのことだろう、実際、本当のことなんだし。
君に教えてあげてもいいな。
辺りに人はいない。接吻の背景が廃園というのも洒落ている。
「何ですか」
「叩いて、ごめん」
唇を重ねた。
しかしユスタスの手に頬を預けたまま、ロゼッタは身じろぎもしなかった。
その唇からはようやく零れたのは恋の吐息ではなく、ひどく冷静な声だった。
「先ほどオニキス皇子は、巡回のサザンカ騎士から不審を聞いてここに来た、
 と確かにそう云われました」
「雰囲気に酔わない女の子だね君。だからそれが何か。------あ」
「イオウ家はサザンカを支える家司。
 そのイオウ家の者であるわたしを飛び越えて、オニキス皇子に直に報告がいったのです。
 オニキス皇子はサザンカにとっては客人に過ぎぬお方。
 それを忘れて皇子はサザンカの体内にカルタラグンの信奉者を増やし、
 その寄生の根をひそかにサザンカに張るおつもりでしょうか」
「………」
「もしそうであったなら、何の為に此度わたしがここまで附いて来たか、
 オニキス皇子には思い知って頂くことになるでしょう。
 サザンカはサザンカで独立した治世を守る。
 サザンカを乱す振る舞いを、わたしは見逃すことは出来ません」
「見逃すことは出来ないって一体どうするつもりだ」
それに、とロゼッタはユスタスを無視して付け加えた。
今こそ少女騎士のその眸は怒りで燃えた。
赤い剣をしっかりと握り締めて、ロゼッタは誓った。
「特にご恩義もありませんが、紅玉の騎士ルビリア・タンジェリン様に加えられた、
 ただ今の侮辱発言。加えてわたしへの侮り。
 小なる者にも誇りがあることを知らぬ者は、いずれその身をも滅ぼすもの。
 むしられるだけのか弱き花びらだけでは騎士にはなれぬ。
 女騎士にはその手を突き刺す棘もあることをお忘れと見える。
 オニキス皇子、今後御身の上に何があろうとも、
 それは貴方さまの傲慢の報いによる自業自得と心得られませ」
「僕はオニキスじゃない」
慌ててユスタスはロゼッタを落ち着けた。
「頼むからそんな怖い眼をしてこっちを睨むなよ」
「口づけをありがとうございました、ユースタビラ様」
「二人きりの時はユスタスでいいよ。それに、そんな、礼を云うようなことじゃないだろう」
「猫のようにかわいらしくは出来ませんでした。ご期待にそえず申し訳ありませんでした」
初めて泣きそうな顔をした。
それだけを言い残すと、ぱっと身を翻してロゼッタは駆け去った。
やっぱり怒ってるのはそこか。
ユスタスは木を蹴っ飛ばした。

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花明かりの下で、村人が踊るのを、彼は見ていた。
たくさんの提燈が木から木へと渡されて夕闇に灯っていた。
風が騒ぐと、蝶々のように平たい灯かりの影になって揺れた。
石垣にだらしなく仰向けに寝そべった姿勢で彼はそれを眺めた。
蒼い空の向こうに、白い月が浮いていた。
石のように白かった。
「騎士さんは、踊らないの」
声をかけた子供に、
「踊らないよ!」、間延びしたふざけた声で彼は応えた。
身を起こすと手に抱えて持っていた剣を、子供たちに示して見せた。
「ここでこうして、君たちが楽しく祭日を終えるのを見守るのが務めなんだ」
「それじゃ、騎士さんがつまらない」
「そんなことないんだなこれが」
騎士はパトロベリであった。
石垣に腰を下ろした彼は、片手をふって子供たちを追い払った。
「よそ者に構うなよ。行った行った」
君たちがお祭りの花を見て過ごすならば、僕はあの空の月を見る。
冷たい、おもての汚れた、あの耀かしさを。
「一緒に遊ぼう、騎士さん」
「しつこいな。しつこい子供は------食っちまうぞ」
取って喰う真似をして追いかけると、ようやく子供たちはわあっと笑いながら離れていった。
灯かりが揺れた。それは光を抱いて過ぎ去る鳥に見えた。
パトロベリは西に沈む太陽に照らされて立っていた。
「孤児院を作りたいんだ」
そんな彼がそう云ったのは、祭りが終わった後であった。
夜の居酒屋の店先で、パトロベリは酔いの回った顔つきで卓上に頬杖をついていた。
角燈の下、酔いつぶれていく彼を、
今日だけですよ、といった苦い顔つきでグラナンが相手をしていた。
孤児院を作りたいんだ。
小さくていいから、普通の家がいいな。
そこに世話好きの女をおいて、子供たちの世話をさせる。
年長者は年少者の面倒をみる制度にして、一番小さな子たちは、鳥を飼うといい。
大きくなったらちゃんとした仕事先を見つけてやって、
いつでも帰って来ていいんだぞ、そう云って送り出してやる。
費用は、僕の終身年金からのお小遣いでじゅうぶん足りる。
先々代の遺言で拝領した地所があるから、それも売り飛ばして、
運営のためにその金を使おう。
集まるのはきっと、悪い子供たちばかりだ。
親や親方に見離された悪童どもだ。
何所からも見放されたそういう子供たちを引き取ってやる。
警戒心も強くて、攻撃的で、
かと思えば変に澄まし返っていて、冷笑的で、
可愛げがないことおびただしいだろうな。
だからさ。

「そういう子供たちだからこそ、
 誰かが愛してやらないといけない、ですか?」

うんざりとグラナンは話を引き取った。
世の酸いも甘いも噛み分けたようなふりをして、
やはり空想家の手の白い王子さまであられる、と彼は思った。
この世には生まれつきその性状が凶悪で、狂気を愉しむ人間がいることを知らない。
ジュシュベンダの騎士団の中にもそういう者がいる。
何人見てきただろう。
弱い者を土中に埋めて、その頭に熱湯をかけ回しては、笑い声さえ上げていた。
ああいった手合いに必要なのは文弱な理解や、情や説諭ではない。
叩き込むべきは、規律と、彼らを御する縦系の力だ。
心ない、卑しい人間の弱い頭に、高邁な思想を唱えても何にもならない。
こちらが甘い態度に出たら、卑しい人間はその性向のおもむくままに、
つけ上がるばかりではないか。
「孤児院の設立は結構。ですがその方針については異議があります」
引き取るのは女子だけにして、男子ならば、
幼少を過ぎた者から順に少年騎士団に入れるといい。
パトロベリと違い酔いに醒めた頭でグラナンは述べた。
「ジュシュベンダ騎士団は北方のハイロウリーンと並んで組織が堅実です。
 子供の頃からの厳しい鍛錬と、徹底的な管理が、
 精強で勇敢な騎士に彼らを鍛え上げることが出来るでしょう」
「まるで猟犬を育てるみたいだ」
くすりとパトロベリは卑屈に笑った。
気負っているグラナンをからかう余裕すらあった。
「お前さんにとっては、社会の捨児はあくまでも、
 頭数だけの、それだけの者なんだな、グラナン」
「そうは云っておりません。努力により頭角を顕す者がいれば、
 その出自を問わず、その才能を重用し登用することは、
 わが騎士団の理念の基盤でもあり、誇りでもあります」
「そんな理念とやらは、僕は好かないけどね。何だかあまりにも、
 美々しくて、ご立派で、
 いたずらに喧伝性ばかりが高くてさ」
「出生が卑しくとも、その徳性をもって、尊敬を捧げられている将は大勢います。
 性格的にも能力的にも、その者が騎士には向かないとなったなら、その時こそ、 
 彼らの希望と意思を尊重して考慮し、正規の騎士団に上がる前に
 別口の働き先を世話してやればいい。
 これは余禄の制度として、騎士団の中にすでに組み込まれていることです」
「そして彼らは拭いがたい劣等感と、挫折感を胸に、
 そこでも自分を選んでくれなかった騎士団を
 やはり孤独に去るわけだ」
「行き所のない子供たちを哀れに思い、
 庇い立てして甘やかすのは結構ですが、
 それぞれの内に眠れる能力を引き出すのは、
 あくまでも彼らの自発的な自覚と努力によるものと、わたしは思います」
その自己啓発の萌芽はやはり、修練を基礎においた上での、
高邁なる目的と理想の途上で見出されるものではないでしょうか。
「その高邁とか、自己啓発とか、
 口にしていて可笑しいとは思わないか?
 独善的で一方的で、押し付けがましい。嫌いだ」
「わたしは人格育成上の基盤の話をしているのです。
 人が何かに迷う時に、道を踏み外さずに済むのは、
 たとえそれが表層上のものに過ぎなくとも、
 精神に身に沁みた教えではないでしょうか」
「そこからも道を外れて零れていく人々の、どうしようもなさのことを
 僕は話したいんだけどな、どうやら平行線だ」
「少年騎士団は騎士の養成の他にも、
 少年の心身を育成する学舎としての義務を負います。
 わたしはなにも男子たるもの剣を取れと云っているのではありません。
 外部に出たとしても、彼らは学んだものを生かして
 よりよき明日のために立派に働くことの出来る人材になってくれるでしょう」
「少々お仕着せどおりの嫌いはあるものの、
 非の打ち所のないご高説だ。さすがは優等生だよ、お前さんは。
「バラス家はもともと、他国からジュシュベンダに流れ着いた、よそ者」
さり気なくパトロベリの手許から酒壜を遠ざけながら、
淡々とした調子でグラナンは述べた。
その眼に浮かぶ記憶の底には、
他でもない自分こそ、疎外されてきた家の出であるという負い目を、
自力で克服してきた者の持つ自負があった。

「迫害の歴史を通過して来たわたしたち一族を、自暴自棄から守り、
 支えてきたのは、勉学とそこから得る知識の光明でした。
 それを誰よりも知るからこそ、生半可で無責任な同情など、
 恵まれなかった者たちにとっては堕落の毒にしかならぬことを知るのです」
「あのね。たまたまお前さんは、
 教養と倫理を尊ぶ学者の家に生まれたから、
 それを素直に吸収できる素地があったんだよ」

むしろ慰め顔で、パトロベリはグラナンにやわらかく、穏やかに云った。
もっとも大切なものに恵まれた家に、たまたま生まれたから、
余計なものに煩わされることなく、志操のままに、
そうやって精励を積み上げることが叶ったんだよ。
「大切なものとは何ですか。金銭ですか、書物ですか」、グラナンは訊いた。
「人との絆。世の中との絆」、とパトロベリは応えた。
「バラス家でも家族や使用人は大勢いる。
 誰とでも仲が良かったわけではありませんが」
「それでじゅうぶんさ」
「卑怯です、パトロベリ様」、グラナンはぼそっと噛み付いた。
「ええ?」、パトロベリは笑った。
「どうして僕が卑怯」
むっつりとしてグラナンは云った。
「不遇の生まれの者でも立派になった人間はいます。いえ、むしろ、
 数々の障碍を持つことで、人より憐れみを知り、高い徳性を具えることもある」
「ああ止めてくれ、僕はその手の偉人伝的美談が大嫌いだ。
 生まれてこの方、いかにもそうなれかしとばかりに、
 訳知り顔の厳格なおっさんたちから同じ説教を
 たんまり聞かされて育ったんだ、うんざりだ」
グラナンは意に介さなかった。
パトロベリに諫言を試みようとするこの時のグラナン・バラスの真情は、
あくまでも忠義であった。
自分だけが不幸だと思うなよ、などと下らぬ定番文句を
すっかりひねたこの方を相手にしても始まらない。
こういう立場の御方にこそ、発言の是非をしっかりと自覚して頂かなくてはならない。
「卑腹の出だからといって、それが何です。
 認知されない子供たちだって世の中には溢れているのに、
 今だに貴方は幼少の頃の日陰の中に自らもぐり込んでおられるようだ。
 それだけならいい、それは貴方の心の穴倉です。
 わたしには関係ないし、興味もありません。
 しかし、そのお生まれの引け目を盾にして、こちらの言質に落ち度や後ろめたさを
 後から持たせようとなさるなど、貴人のなさることではなく、男のやることではありません」
「弁舌がよく回るな。僕より口達者なんじゃないか」
「嬉しくありませんね」
「それとも、いっそのこと僕は女に生まれたら良かったのかな」
「そのようにひねくれた女人、なおさら悪い」
「お前は僕の教育係なのか?」
「そうでなくて幸いでした。しかし同行の現在は、そのようなものでもあります」
「お役目ご苦労。僕のお守り役になるなんてついてなかったな」
「貴方が勝手に途中から合流したのです!」
「まあ、呑めよ」
「いりません。パトロベリ様も完治されたとはいえ医者の許から
 戻られたばかりの身体で、それでは過ごしすぎです」
「こんな弱い酒、酒じゃない。
 それに快気祝いをしてもいいと云ったのはお前じゃないか」
すっかり空になった盃を転がすと、パトロベリは上体を自堕落に木の卓に伏せた。
頭上に渡された角灯が滲んで見えた。柑橘色の暗い影を指先でなぞった。
何かを放吟しようとして、彼はそれを止めた。
灯かりが邪魔だった。これは偽物の光だ。何も見えない。
静かな夜だった。
今気がついたように彼は訊いた。
「シュディリスは?」
「パトロベリ様が本日医者の家から戻られるとわたしから聞くなり、
 恢復は結構なこと、しかし今はまだ彼もこちらの顔など見たくはないだろう、
 そのように言い捨てて、何処かへと消えられました」
「何処かってどこだ」
「知りません。もっともあの御方は、誰かさんと違って、
 ふて腐れることがあったとしても、
 わきまえることはしっかりとわきまえられておられますから、
 明日には戻ってこられることでしょう」
「僕を殺しかけておいて謝罪もなしか。それで、恢復は結構、か」
パトロベリは笑い、少し眠たそうに眼を伏せた。
しかし次第に昂ぶるものがあったと見えて、「畜生」大声を放ち、
この不遇のご落胤は握りこぶしで卓を叩いた。

「何が畜生なのですか」
「いろんなこの世の理の不公平や、その不思議のことさ!感傷的なそういうことさ」
 
なあ、グラナン。あれは何だったのかな。
お前も見ただろう、シュディリスの奴が今にも僕たちを切り払おうとしたあの刹那、
間に立ちふさがってくれた、あの影。
真っ白に燃えて、月から駆け下りて来た人のように、我々を制した。
ジュピタの皇祖を護ったフラワン家の乙女のように、何ひとつ恐れない眼をして、
清流みたいに、こちらの心まで透り抜けて飛び去っていった。

「それの何が畜生なのです」
「よく平静でいられるな。奇怪だとは思わないのか」
いよいよ酔い潰れたパトロベリを出来の悪い愚弟でも見るような顔で見つめて、
それでもグラナンは、今にもパトロベリの髪に届きそうになっていた零れた酒を、
そうなる前に腕で拭き取った。
「わたしも訊いてみました」
「うん、それで」
「シュディリス様いわく、『さあ』。お伽話風に云えば
 あれは剣に宿る精霊か何かではないかと、
 明らかに惚けた風で適当に答えられ、さらりとかわされました。
 シュディリス様がお使いの剣は、トレスピアノから持って出られたものではなく、
 クローバ・コスモス殿から譲られた剣なのだそうです。
 わたしはその邂逅の場に居合わせませんでしたが、
 森の中でクローバ様とシュディリスは剣を交え、その際、
 クローバ様がシュディリス様の剣を、見事、打ち落とされたとか」
「妖精の王子さまでも負けることがあるんだな、あはは。
 騎士らしく、剣を交換して和解か。
 オーガススィ家ご出身のトレスピアノ領主夫人の実弟君といったって、
 シュディリスはフラワン家の人間ではないのだから、本当の叔父甥の仲でもあるまいし」
「クローバ様はそのことをご存知ではありません」
「……剣の精霊か」
独りごちて、パトロベリは酔い潰れた。
肩に担いで、グラナンが苦労しながら宿に連れていく間も、眼を閉じていた。
きれいな人だったな。
泣けてくるよ、知っている女を想い出して。
静かで哀しい、やさしい、強い顔をしていた。
美しい顔だった。
その顔をね、僕は、僕のせいで、この手で壊してしまったんだ。笑えるだろ。
それでねグラナン、聞いてくれ。
さらに笑えるんだ。
シュディリスの奴が、その後で、その女の許に通ったというじゃないか。
いったいどんな因縁なんだろうな。
ともかくそれを知った時、僕はもう少しで憤死するところだった。
てっきりその男は、身分の高さにものを云わせて好奇心から手を出したのかと思った。
「いえ、パトロベリ様それは違います。わたしも噂でしか知りませんが、
 シュディリス様は本当にその方のことを想われていた」
「わかってるよ」
だけどその時は、立っている床が波打って見えるほどに眼の前が紫色に変わり、激昂した。
剣を掴んだ。
もうどうなってもいい、傷ついて逼塞している女を慰みものにするような男ならば、
そいつを殺して僕も死ぬとまで思いつめて、そして、不意にね、
この世の何もかもが真っ白に見えて、もうどうでも良くなったんだあの時に。
あまりにも怒りが強かったせいだろうか、世界から不意に落っこちて、
何もない、誰もいない、霧の中に突き飛ばされたみたいだった。
不思議な話だろ?さっきまで剣をひっ掴んで飛び出して行こうとしていた男が、
どこぞの御曹司のことも、懐かしい女のことも、何もかもがどうで良くなって、
忘れてしまったんだ。
笑うことも泣くことも、狂うことも暴れることも、忘れた。
馬鹿馬鹿しい、それが何だ。
時が経つのを待てばいいんだ。
僕を内在して動いているこの世界は、僕の主人面しながら、そのくせ僕が死ねば、
僕という主を無くし、僕と共に滑り落ちていくしかないものだ。
それなら何をこれほど怒ったり、哀しんだりする必要があるんだ?-----何の為に。
僕は月に行きたい。
亡くなった母がいる国に行きたい。
今さら僕が躍り出てところで、傷つけた女の生涯を元どおりにしてやれるとでもいうのか。
人に与え、また与えられた怨恨を、時を戻して平らに埋めてやれるとでもいうのか。
「僕は剣を捨てた」
そのまま、あの夜はおとなしく眠った。
朝までぐっすりと、倖せといってもいいほどに深く眠った。
何もかもを諦めた、開放されたのびやかな気持ちでね。
「生まれて初めてといってもいいほどに倖せに、安らかに眠ったんだ。おかしいだろ」
「ちっとも」
グラナンの応えは冷淡で素っ気無かった。
怒っているようなその言い方に対して、小さなため息のような笑いを残し、
パトロベリはグラナンの肩に力なく凭れて正体をなくした。
晴れ渡った星空の中天には月が昇り、その白い清さが、宿への道を照らしていた。
予告どおりシュディリスは不在で、宿の者も寝入っているため、
酔っ払いを二階の部屋に上げる助けが誰にも借りれなかった。
パトロベリの重みに辟易しつつ、宿の狭い階段を苦労して上がりながら、
「では孤児院の夢は何のためですか。
 貴方はちゃんと前を向いて歩いておられる」
グラナンは天窓に月を仰いだ。
恨めしいほどに白々として、知らぬ顔の月だった。
「苦しみもがきながら歩んでおられる。わたしと同じです。
 何もかもを諦める?ちっともそのようなことをお思いではないくせに」
泥酔したパトロベリを寝台に寝かしつけた彼はむっつりと呟いた。





「続く]




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