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[ビスカリアの星]■三十.



すれ違った幼子が、歌の一節だけを、子供特有の熱心さでもって繰り返していた。
親に手を引かれ、坂の道に消えた。
すれ違った後から、シュディリスは気がついた。
今の歌。
彼らは再び街道にあり、傷が癒えたばかりのパトロベリを気遣いながら、
ゆっくりと馬を歩ませていた。
「旧カルタラグンの地へ」
「カルタラグンへ?」
旧カルタラグン領は政変の折に徹底的に焼き尽くされ、
現在はレイズンをはじめ幾つかの騎士家に分割され、その管轄下にあるものの、
以来二十年、完全には復興することのない廃都である。
同行の二人グラナンとパトロベリは愕いて顔を見合わせた。
「あの地は滅亡後、他でもないレイズン家に領土の一部を吸収されております」
「そこへ」
シュディリスは馬を進めた。パトロベリが追いついた。
「そこって何処だ。具体的に教えろよ。
 僕らは巫女と放浪の騎士を追いかけてジュシュベンダを出て来たんじゃないか。
 云いたくはないが、カルタラグンこそは君にとっては地上の禁区。
 焼き尽くされた不吉なその地にわざわざ踏み入ろうというからには、
 何か確実なあてでもあるんだろうな」
「わたしも知りたく思います、シュディリス様」
グラナンも懸念を隠さなかった。
「ユスキュダルの御方がクローバ・コスモス殿を伴われて姿を消されたと知り、
 シュディリス様はわたしを待たずにあの朝、飛び出して行かれた。
 しかし途中からは、急がなくてもいいと仰せになり、お考え深く、
 何らかの報せか兆しを待ちながら、わたし達にまるで鈍行を求めているかのようでした。
 街道を急ぐ騎馬は人目を引きます。
 各地に潜むレイズンの密偵の注意を引かぬ処置としては当然のこととしても、
 最初からわたしはてっきりシュディリス様は、巫女が向かったと拝察される、
 はぐれ騎士らが囚われたレイズン領国境を目指されているのだとばかり思っていましたが」
「何らかの兆しとは何だ、グラナン」
パトロベリが聞きとがめて口を挟んだ。
「レイズン国境。なるほど、あそこには罪人を収監する砦がある。
 狩られた騎士はそこに集められていると考えるのが妥当だ。
 しかし、僕は気をつけて見ていたが、ジュシュベンダから派遣される使者とは、
 グラナンもシュディリスも一度も接触しておらず、また、連絡のやり取りもしていない。
 僕たちは村から村を漂っているばかりで、僕らがただ今現在、何処にいるのかは、
 ビナスティのお姉ちゃんにしろ正確には把握してはいないだろう。
 それで何所からどうやって、何らかの兆しとやらを得るんだ。
 誰かがそれを僕らに報せに来てくれるとでもいうのか。
 もっとも僕が村の藪医者の家に留め置かれていた間のことは知らないが」
恨みがましく怪我を押さえてパトロベリは愚痴をこぼした。
医者の家の離れで、シュディリスに負わされた怪我のために臥せっていたパトロベリは時々、
その家の飼う子豚どもにのしかかられる憂き目を見ていたのである。
子豚どもは板間から侵入してきた。
「それは。暖かくて良かったでしょう」
グラナンはその話をしみじみと受け止めた。
「騎士の血の賜物とはいえ恢復がお早かったのは、
 元気な子豚と遊んでいたからではないですか」
「比喩じゃない。湯をつめたぬくもり袋や女の子じゃない、相手は本物の豚だ。
 しかも一匹じゃない。数匹だ。
 怖ろしいことに怪我人の上で飛び跳ねるんだぞ、これが」
「はあ。そうでしたか」
「子豚とはいえ、乗っかられると結構重い。腰と背骨にこたえた」
「一緒に寝ていたのですか」
「仕方がないじゃないか。まだ赤ちゃん豚なんだ」
「わたしは、子豚は愛らしくて可愛いと思いますが。
 女性がもしも蛇か子豚に化けたとしたら、
 わたしなら断然、子豚の方を抱えて持ち帰ります」
「それなら子豚ちゃんと共寝して可愛がってやるこった。抱き心地は保証しないけどね」
話をそらした張本人は「話をそらすなよ」、とグラナンを叱りつけ、話を戻した。

「シュディリス。聞いているのか」

帽子を目深にかぶったシュディリスは、前を向いたまま「一応」、素っ気無くパトロベリに応えた。
もはや馴れた調子でグラナンがパトロベリを制して代わった。
喧嘩が再発されてはかなわない。
「カルタラグン旧領は荒れておりましょう。危険が大きくはありませんか」
「巫女はそこを通過されたと思われてならない。同じ道を辿ろう」
「確かに治安のいい他所の街道を突っ切るよりは、
 荒廃しているだけあって、僕たち一行も目立たないかも知れないけどな」
鞍の上でパトロベリはまだ痛むらしい脇腹の傷痕をさすった。
「巫女とクローバが旧カルタラグン領を通り抜けたというのなら、僕たちにも出来ないわけじゃないだろう。
 だいたい、巫女が御幸されておられるというのに何処からもその噂が耳に入らない。
 よほど目立たない変装をしておられるに違いない。
 たとえば、クローバと夫婦もののふりをしたりさ。あは、あり得る」
地位も財産も好き心も無いくせにあのおっさん、
あれで女をたらすことには定評があるからな、とパトロベリは面白くなさそうに笑った。
「気の利いた口説が出来る男でもないのに、一体どこがいいんだか、
 愛想がいいくせに容易に男には靡かないことで有名だったビナスティですら、
 あっという間にふらふらと彼に傾いたじゃないか」
「パトロベリ様」
「何か悪いことでも云ったか」
彼らには構わず、陽光が眩しいといった顔つきをして、シュディリスは眼を伏せた。
剣柄の反射が眼の前にちらついた。小うるさい光だった。
シュディリスの佩いている剣はクローバ・コスモスのものであった。
--------何かこだわりを持って腰のものを選ぶか?
損なったこちらの剣の代わりに、彼から渡された。
話の分る年長者といった風をふかせて、領主の座を棄てた時と同じように剣を手放し、
姉リィスリの息子と信じる「甥」に気前良く呉れた。
気さくに投げて寄越されたわりには、銘刀だった。
ずしりと重たいその剣には、コスモス家の紋章が嵌められていた。
その剣は、かつて彼がコスモス辺境伯であったことを証だてる、
放浪の身のクローバにとっては唯一のよすがのはずだった。
あっさりと呉れた。

--------では、俺のこれと交換してやろう、使え。

シュディリスは手綱を握り締めた。
今となっては、あの時に巫女を護る主導権が入れ替わったような気がして、彼が憎らしい。
油断すると、つい、クローバ・コスモスへの逆恨みが薄曇りのように胸に湧いてくる。
「巫女は、トレスピアノのお世継ぎであるシュディリス様をこれ以上、本件に
 巻き込みたくはなかったのでしょう」
慰め顔でグラナンは何度もそう云った。
「賢明なるご選択、その点クローバ・コスモス様なら国を失われた放浪の騎士、
 もしも何かの罪を問われることになったとしても、領民が連座することはありませんから」
しかしそれならば、神聖不可侵領トレスピアノの名を盾として、こちらとて存分に利用していただきたかった、と思う。
それは、とシュディリスに云いかけてグラナンは口を閉じた。
フラワン家の名の効力は、シュディリスがカルタラグンの遺児であることが
露見しない限り有効な、つまりは偽りの威光であることを、シュディリス当人ほど知る者はいないのだ。
しかしシュディリスにはカルタラグンの真名を自ら明かす気はなく、
時の流れた現在ではその素姓を糺し、糾弾するに足りる証人も、事実を裏打ちする証拠も不明であろう。
フラワン家の名を持ち出せば、いかなレイズンとはいえ無体はならない。かといって、
「もっともこちらの正体の真偽を問わず、
 カルタラグンとタンジェリンの二大聖騎士家を片手で潰し、
 ユスキュダルの巫女にまで害をかけんとするミケラン卿が、
 今さらフラワン家の威光などを斟酌するような殊勝な御仁とも思えない」
自嘲気味に暗く微笑んだシュディリスの意見には、グラナンもまったく同感であった。
「巫女は旧カルタラグン領を通過された?
 通過と云ったな。
 それなら、巫女はそこにも現在はおいでではないということじゃないか」
細かいところに察しのいいパトロベリは、五里霧中な今の状態に、不平不満が尽きなかった。
空が晴れたまま小雨が降って、それはすぐに止んだ。
緑の先から雫が落ちた。
涼しい風が湿り気を帯びた草叢を青くそよがせた。
シュディリスは手甲から雨粒を払い落とした。
国が滅びても、歌だけは、かたちを変えて衆庶の間に残った。
リラの君、貴女もあの歌が民草の間に歌われるのを、聴かれただろうか。
虹が出ていた。

「カルタラグンの地へ入る。北上してコスモス領へ至る道をとる」

雨宿りの後、シュディリスは告げた。
「では、シュディリス様は巫女とクローバ殿が、コスモス領へ向かわれたと」
愕きを浮かべるグラナンに、シュディリスは頷いて応えた。
「カリア・リラ・エスピトラル。ユスキュダルの巫女となられる前身は、
 巫女はカルタラグンに隣接する小国の王女であられた。
 故国滅亡の後、レイズンに捕らわれた幼き王女は、現コスモス領主である
 ミケラン卿の弟御タイラン・レイズンの庇護を受け、
 そのタイラン・レイズンの懇願と助命努力により放免されたそうだ」
「それではシュディリス様、巫女は、
 レイズンに捕らわれた騎士の赦免を、ゾウゲネス皇帝陛下および、
 レイズン側に陳情するのに、ミケラン卿の弟御タイラン殿の温情とお口添えを
 ふたたびあてにしておられると?」
「巫女は死を怖れるような方ではないが、御自らミケラン卿の前に現れるよりは、
 レイズン側が駆り集めた騎士の救済を第一に考えて、今は動かれておられると思う」
向かいから荷馬車がやって来た。三人は跳ね上がる泥をよけて馬を道端に寄せ、
荷馬車が通り過ぎるのを待った。
「そう上手くいくかな」
パトロベリは難しい顔をした。
僕はもっと、この裏には何かがあるように思うよ。
だって巫女に付き従っているのが、あのクローバ・コスモスだろう。
巫女と放浪の騎士、地上の理に縛られていない人間ほど始末の悪いものはない。
彼ら、常人には考えられないようなことをひょいっとやってのけそうな二人組じゃあないか。
つまり、最初から巫女がコスモスを目指していたのだとしたら、
巫女が旧領主であるクローバを選んで連れて行ったのにも、
それなりの思惑があったんじゃないかってことだ。
旧領主クローバは、現在もコスモスの領民から深く慕われて、愛されている。
その男がユスキュダルの巫女を伴ってコスモスに帰還したとなれば、領民は命を投げ打ってでも、
なだれの如くクローバの味方につくだろう。
客観的にみても、レイズンに虐げられた今のこの二人ほど、帝国中から
無条件の同情と敬愛を寄せられる二人はいない。
この二人の存在は反レイズン勢力の意気を上げ、その結束の要となるに充分だ。
ミケランと対峙する巫女が供騎士にクローバを選んだのには、それなりの理由があったというわけだ。
心もとないどころか、まさに無敵の組み合わせだな。
レイズンに放逐された正統なる辺境伯と、騎士の聖母の為になら、彼らは何でもするだろう。
「え、何でこっちを睨むんだ、シュディリス」
「パトロベリ様、まかり間違ってもシュディリス様の前でクローバ殿と巫女を同列に語ったり、 
 お二方の組み合わせがいいなどと、口にされないほうがいいですよ」
「微弱な霊力や、巫女信仰が、ミケラン卿相手には無効と知るや、
 現実的な手立てに切り替えた頭のいい巫女さんだと褒めているんだぞ僕は」
「それでもです」
「とにかくだ、巫女とクローバが向かったのがコスモスだとすれば、
 コスモスの後ろに控えているのは、北国オーガススィと大国ハイロウリーンであることを、
 ちょっとは考慮してもいいんじゃないかってことさ。
 西には三ツ星騎士家のナナセラもあるけど、こちらは完全にフェララの采配下にあるからな。
 何となく僕にはこう思われるな。
 巫女は、大国ハイロウリーンの力を借りて、ミケラン・レイズンに対抗しようとしていると」
「ハイロウリーンが立てば、ジュシュベンダもそれに呼応するでしょう」
ジュシュベンダ騎士であるグラナンも顔を引き締めた。
「二大騎士家でレイズンを挟み撃ちに出来ます」
「レイズン家に逆ラフハ、コレ、帝国ヘノ謀反ナリ? 
 しかしこちらにはあらゆる騎士の敬慕を集めるユスキュダルの巫女がついている。
 帝国は真っ二つに分かれるかも知れない」    
「そこまでにはならぬにしろ、巫女がハイロウリーンをあてにしておられるのは、
 間違いないと思う。タイラン殿との直談判によりそれが叶わぬとなれば、
 対レイズン勢力としてハロウリーン、ジュシュベンダの二大騎士家を動かそうとなさるかも知れない」 
「結構なことだね!」
感じ入るものがあったらしく、突然パトロベリは皮肉な笑い声を発作的に上げ始めた。
「知らなかったよ、ほんの僅かな、しかも無頼の無名の騎士たちを救う為に、
 巫女さまというのはそこまでやって下さるものだったとはね。
 帝国を二分する戦も辞さない気構えで、か弱き女の身で、真っ向から
 皇帝とレイズンに立ち向かうおつもりか。
 素晴らしいな、それが本当なら、この世には確かに救済というものがあるらしい。
 たとえそれが僕の上を素通りするものであったとしてもね…!」
「パトロベリ様」
「正気だよ、可笑しいだけさ」
(昔のことを想うと、胸の中に、真っ白な霧が満ちてきます)
それを語るカリアは静かな眼をして、声だけが透き通って、はかなかった。
(父母を呑み込んで焔に包まれていく城を、夜の河から見ていました)
(傍らでこと切れている彼らに気がつく前に、わたくしが見出したのは、
 血の溢れたこの胸におかれた花でした)
(こうしていても、まるで幻の中にいるような気がします)
パトロベリはまだ笑っていた。笑いすぎて腹を「いたた」と押さえ、
グラナンに介抱される間も、鞍に身を伏せてまだ笑っていた。

「巫女さんに逢ったら訊いてみたいな!
 それでは何故貴女はタンジェリンが殲滅されるのを黙って見ておられたのかと。
 タンジェリンでもレイズンでもたくさんの騎士が闘って死んでいった。
 それを救おうとはされなかったのは何故なのかと。
 おや、それでも誰も救わないよりは、救うほうがいいに決まってるさ。
 たとえ限られた数であってもね!
 そうさ、ろくでなしの僕と貴女を比べれば、巫女である貴女の命のほうが千倍も貴い。
 僕は喜んで力を貸すよ…・・・」

(歌だけが残りました)
(エスピトラルでは誰もが知っていた古い歌なのに、誰の作った歌なのか、誰もそれを知りません)
虹はすでに消え、雨上がりの空には、水色の月が出ていた。
雲が絡み合いながら流れていた。
木々から雫が降った。金色の西日を浴びて、光の雨に見えた。
カルタラグンに隣接し、レイズンの大軍を前に捨石として見棄てられたエスピトラル。
グラナンに付き添われて、笑いすぎたパトロベリが道の脇で嘔吐していた。
停まったまま馬のたてがみが濃厚な夕陽に包まれて染まっていくのを、街道の端で眺めていた。
馬の首を撫でてやり、シュディリスは空を仰いだ。
木立の彼方に遠い月があった。
涼しい風が吹いた。
(凍える夜にはわたしの腕で眠った愛しい人)
すれ違った子供が歌っていた。
貴女の歌を。

 針葉樹の森よ
 鏡のような湖よ
 けっしてあなたのことを忘れない



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どこかで落とした。
どこで落としたのかも、分らない。
もう忘れてしまった。忘れてしまうほうがいい。
昔のことは全て、忘れてしまうといい。
ビスカリアの星。
眼を閉じても、浮かぶの。
遠い御空に輝く蒼い星。
私を責め続ける。
白い焔を上げている、金色の蜘蛛の巣のように星の谷に華ひらく。
私を一人にしておいて。
私が探しているものは、お前には見えない。
「何を探している」
空が暮れていく。
露台に立って湖を見ていたリリティスは、傲然と頭をそらした。
隣に立ったミケラン・レイズンはそのリリティスの髪をひと掴み手に捕えた。
ミケランはふたたび訊ねた。その美しい髪に。何を探している。要りようなものがあれば、整えよう。
「さしずめまずは、君のこの髪に添える髪飾りを作らせる」
「いらない」
「灰色のその眸に似合うものがいい」
リリティスの髪に唇を添えて、男は娘の背中に語りかけた。
手放されたリリティスの髪は湖を渡る夕風の中に頼りなく流れた。
リリティスに与えられた部屋からは、湖の全景が見渡せた。
遠くは闇に沈み、その上には日暮れの空が紫に輝いて、雲ひとつない大空は、星を連れて冷たく冴えていた。
手摺に腕をかけて、ミケランは「美しい眺めだ」、湖畔の夕暮れを見渡した。
リリティスを振り返った。
女性が欲しがるものや歓ぶものには見当がつくが、しかし、
湖を見つめながら髪を梳いていた君が求めるものはどうやら別のもののようだ。
手に入ることもないものを求めて張り詰めた日々を過ごすことは疲れる。
追い詰められたそんな顔をして星空を見ていても、何の益も喜びもなく、
苦しみや失望ばかりが増えていくばかりではないかな。
建設的な手段を講じない限り望みのものが手には入らないのは物事の道理だ。
何を探していた。
それを君に与えるのはわたしだ。
「敵と思うものを味方につけることだ。
 どちらに何の違いがあるだろう。拒絶のその態度を、解きなさい」
「どうぞ」
リリティスは宵星の輝く空を見つめたまま男に応えた。
細い肩を夜風にさらし、男の抱擁を待っているようにも見えた。
「-----アリアケ様のお悔やみがまだでした」
「いらない」、ミケランは先ほどのリリティスの口ぶりを真似て応えた。
それから笑った。

「先ほどからまるで覚悟を決めた悲壮な乙女といったご様子で身構えておいでだが、
 先日のこちらの非礼を恐れているのなら、杞憂に過ぎないよ。
 妻を亡くした。それで、少々手許にお気に入りの小鳥をおいて、
 気晴らしにそれがさえずるのを聴いていたい気分なのだ、今はね。
 何しろ一体どういう心情なのかは知らないが、友人のエステラが、
 妻の死の報に良人であるわたしよりも衝撃を受けてふさぎ込んでしまった。
 いったい、女というものは困ったものだ。いたいけな孤児願望というのか、
 悲劇の主人公になれる機会はすべて逃さないときている。
 罪悪感にかこつけた、感傷的な甘ったれにもほどがある。 
 一度だけわたしを慰めてはくれたものの、エステラは大袈裟に喪中と称して
 あれ以来傷心を理由に家に引きこもって出てこない。けしからぬことだとは思わないか」

わざと我侭を装ったミケランのその軽口に、リリティスは応えなかった。 
全てを忘れてしまうほうがいい。
とても愚かしい、莫迦みたいなことを、私はずっと信じていた。
風に乱れる髪を押さえた。氷のように冷たかった。
空に満ちていく氷粒のような星々。
森に薄紫の花が散っている。
懐かしい、トレスピアノ。
花の雨、光の向こうから、お母さまが呼んでいる。
(リリティス。あまり遠くへ行ってはいけませんよ)
(シュディリス。リリティスとユスタスに気をつけてやって。貴方の妹と弟を迷子にさせないで)
お母さま。
お母さま。私はお母さまのようには、なりたくなかった。
リリティスは身をふるわせた。
お母さま、もしも貴女がカシニ・フラワンに嫁ぐことなく、オーガススィの血が導くままに、騎士となっていたのなら。
そして翡翠皇子の側にいることを選んでいたのなら。
(リィスリ・フラワン・オーガススィ。私は貴女のようにはなりたくなかった)
リリティスは眼を閉じた。
夜の中に燃え落ちてゆく皇子宮。貴女は、オーガススィの騎士として、
最愛の恋人と共に闘ってそこで死ぬことも出来たでしょうに。
お母さま、貴女は、静かな、風と緑に囲まれた倖せを求めて、
それと引き換えに翡翠皇子を見限り、裏切ったのではないのですか。
貴女が今でも翡翠皇子を愛していることは、家族のみんなが知っています。
お父さまの寛容と愛情の下で、トレスピアノの穏やかな楽園で、時折、お母さまの顔には暗い影が差していた。
河底の石に映る陽の光のような、美しい影でした。
そして、言い知れぬその暗い影は、皇子の面影を引くシュディリス兄さんよりはむしろ、
私やユスタスの上に向けられていた。
リィスリ、貴女が私やユスタスに求めたものは、ご自分が果たせなかった、
「騎士として生き、騎士として死ぬこと」ではありませんでしたか。
特に、女である私の身の上に、昔のご自分の慙愧を重ね合わせてご覧ではありませんでしたか。
私が騎士になりたいと口にした時、抱きしめて下さったわ。
いつも私とお母さまの間にあった母娘の義務と演技を超えて、
はかり知れないご愛情をこめて、虚ろに抱いて下さったわ。
女が騎士となることも、その道を選ばぬことも、どちらも深い苦しみであることを、
お母さまほどご存知である方はいませんでした。
私の眼の前にあったのは、貴女という、そんな悪い見本だった。
この世には、騎士であることにも、そうでないことにも、
一点の悔いも曇りも抱かない女も大勢いるであろうに、私が見ていたのは、
そのどちらにも敗北した女であった。
生涯に渡る恋を自ら棄てて失った女であった。
それでも、お母さま。
翡翠皇子との想い出はいつも貴女に喪失の翳りと清さを与えていました。
シュディリス兄さんを見るたびに、貴女が浮かべていた、あの突き刺さるような
思慕や後悔や、闘いは、私に失われた愛の深さと強さを教えてくれました。
リィスリお母さま、私は貴女のようにはなりたくなかった。
そして貴女のように、なりたかった。
貴女にあのような翳りを与えたものを私は知りたかった。
私はフラワン家に生まれた娘。
愛だけを頼りに逆風の中に出て行ったオフィリア・フラワンの跡を私もまた、歩むのだと想っていたのです。
それが正しいことだと信じて、
それがトレスピアノにいる間にしか通用しない、思い上がりとも知らずに。

「少しでも道を違えると、堕落したと思っているのではないかな?」

柔らかな声が夜風に乗った。
訳知り顔でミケランがこちらを見ていた。
『どうせいつか忘れる。気が済むまで抵抗し、傷心に浸っているのは君の勝手だ。
 こちらも遠慮なく好きにやらせてもらうとしよう、気遣うことも含めて』
そう云われているようだった。
風が吹いた。リリティスの髪が夜に揺れた。
(私が探しているものは、リボン。フラワン荘を出る時に髪につけていた。
 兄さんとユスタスが私にくれた。
 想い出すのは、そんな小さな、優しいことばかり。
 何処で落としてしまったのか分らない。
 『いつか忘れる』、
 兄さんに想いを寄せるたびに、突き放すような眼で私を見ていた。
 気が狂った子供でも見るような、憐れみ混じりの、やさしい眼だった。
 ミケラン卿の今の眼と同じ。
 古びていたあのリボン。子供の頃の想い出に繋がっている。
 何もかも、忘れそうで、忘れられない)
フェララから護送されたリリティスは、そのままミケランの湖畔の別荘へと戻された。
対岸の離れではなく、今度は母屋に通された。
執務室にいたミケランは、ごく何事もないような調子で、リリティスを迎えた。
「健やかそうで何より」
というのが、事も無げなその挨拶であった。
「一時はフェララ剣術師範代ルイ・グレダン殿の屋敷にて臥せっていたとか。
 世間知らずの女の子が無茶をするからそうなる、教訓にしたまえ。
 本来であれば都のわたしの屋敷にお招きしたいところであるのだが、
 生憎と妻の死後まだ日が浅く、あちらには長居したくない。
 かといって君を再び国境砦の獄に入れるのは、
 涙を浮かべてそれに反対していた亡き妻に対してすまなくてね。
 それで、もう一度ここにお越しを願ったというわけだ。
 今回は屋根から飛び降りて逃げ出すような無茶はしないことと思う」
旧友に対するかのような態度のその最後に、
連れて行かれるリリティスを、「偽者さん」、と呼んでミケランは呼び止めた。

「リリティス・フラワン姫の偽者さん、お仕置きはお仕置きとしても、
 君の兄君の無罪放免は、帝国の治安を担うこのミケラン・レイズンが確約しよう。
 わたしはトレスピアノになどにはまったく関心がないのだよ。
 たとえそこの姫君が、そのまま行方不明となり、
 畏れ多くも皇太子殿下が行方を探されるものとなったとしても、
 その為だけにはレイズンは動かない。たとえ居所を知っていたとしてもね」

ミケランのその言はリリティスにはこう受け取られた。
(これで、もう逃げられない)
夜の湖面に眼を向けたままリリティスはミケランに訊ねた。
「私は-----どうすればいいの」
「何でも。お好きなように」、とミケランは応えた。
「虜の身といっても、手枷足枷をはめるつもりもない。気楽に過ごすといい。
 このようなことを持ち出すのはわたしの趣味ではないが、
 あえて認識と自覚を促すのならば、君の大切な兄上に迷惑がかからないように、
 大胆なことはよしたまえ、といったところだ」
そしてミケランは不意に真面目な顔になって、「君が悪いのだ」、リリティスを咎めた。
「………」
「フェララの力を借りて世を動かそうとしたのだろう」
そして失敗した。
当然だ、仲介役をルイ・グレダンに頼もうとしたのだろうが、
フェララは旧カルタラグン領の支配権を巡り、レイズンとは旧来一種触発の状態にある。
先年のタンジェリン殲滅線で国力を削いだ今のフェララに、いかに非友好国とはいえ、
ジュピタ皇家を戴くレイズンと争う気があろうはずもない。
フェララ領主ダイヤは御年十三歳になる一人娘の姫君を他でもない、
君の兄上に差し出すことで、レイズン本家の申し出た婿縁組を断り、
自治を保つ為にこれ以上のレイズン側からの干渉を避けようとしていた矢先ではないか。
そのことは先日、トレスピアノの御曹司とフェララの姫君との縁組打診の使者に立った、
フェララのルイ・グレダン殿こそよく承知であったはず。
リリティス、君がやろうとしていたことは、巫女を守ることか、それとも兄君の無事か。
トレスピアノの姫君が幾ら訴え出たところで、直接の利害にかかわる大義名分が立たぬ限り、
大国フェララがそのような曖昧で無益な、聖戦に立ち上がるはずもない。
何という愚かな女の子なのだ、君は。
君はてっきりトレスピアノに向かうのだと思っていた。
そのままおとなしく家に帰り、そこで埋もれるのであればそれも良い、見逃そうと。
しかし、皇太子殿下を連れてフェララに入ったと聞いて、そうも構えてはいられなくなった。 
手の内にあるのが巫女の行方に直接関与しているシュディリス・フラワンの妹君と知れれば、
フェララとて、このレイズンに対してそれを逆手に、
どのような取引や思惑を持ち掛けてこないとも限らない。

「まさかフェララに出し抜かれるわけにもいくまい」

フェララには脅しをかけた。
即刻領内に潜伏中のリリティス・フラワン名を騙る詐称者を差し出さねば、
貴国、皇太子誘拐略取の汚名を被り、帝国への叛心あるものと見做すと。
君の友人のルイ・グレダンが君の滞在をあえてフェララ公には伝えず、
君をレイズンに引き渡すことを現場で黙認したことについては、彼を責めるものではない。
むしろ彼を困難な立場へと追いやったのは、他でもない君自身であることを、
そしてそれを責めることなく、迷惑顔もせずに手厚く保護し、
政治に巻き込むことなく穏便のうちにトレスピアノへと帰そうとしたルイの配慮と尽力こそ、
ありがたいものとして、その心に留めおきたまえ。
「たとえルイにしろ、ソラムダリヤ皇太子殿下が「内密に」と頼んだその言葉を、
 己の保身と、リリティス姫の安全と、情報隠蔽の工作のために、
 フラワン家息女とフェララを隔てておく理由として、「内密に」、都合よく悪用したものであったとしてもだ」
「私は、兄さんを助けたい」、リリティスは声を絞った。
「その為になら何でもします、ミケラン卿」
星空を背にリリティスは振り返った。
彼女には最初から最後まで、それしかなかった。
何かを怖れ、何かを求めていた。
大切な何かを。
「兄は何処ですか。シュディリス兄さんを助けて」
「麗しい兄妹愛だといっておこうか、リリティス。落ち着きなさい」
リリティスの肩に手をかけて、ミケランは声を和らげた。
自己犠牲を厭わぬまでの優しさは所詮は毒にしかならないものだということが、
君を見ているとよく分かる。君がソラムダリヤ皇太子やルイ・グレダンに、
このミケランの悪行を隠すところなく打ち明け、助力を請わなかったのは、
兄君への立場を危うくする危険性への心配よりは、むしろ、
おそらくは我が妻アリアケを気遣うが故の、思い遣り深い躊躇いであったのだと、そう思う。
知りたいであろうことを教えてあげよう。
ミケランは囁いた。
ユスキュダルの巫女の行方は依然不明であるが、
君の兄の居所は後追いにしろ、おおよそは掴んでいる。
即刻に捕縛または保護したいところではあるが、これまたやっかいなことに、
故意か偶然かは知らぬが、捨種とはいえジュシュベンダの貴人がこれに絡んでいて、儘ならない。
「だ、誰」
「パトロベリ・テラ」
山峡の闘いではジュシュベンダ国境警備隊を率いて現れ、君たち兄妹とも接触したはずだ。
ジュシュベンダ先々代が卑腹に生ませたご落胤。
わたしも彼のことは知っている。もっとも拝謁した時にはまだ少年であられたが。
それで、フラワン家の御曹司とジュシュベンダ先々代の御子が共謀して
何をたくらみ、何処を目指しているのかは知らないが、
目下シュディリス・フラワンにかけられている巫女誘拐の嫌疑と罪状が晴れたわけではない。
巫女を伴ってはいないとはいえ、依然、巫女失踪には深く関与していると信ずるものである。

「貴方が----あなたが、最初にユスキュダルの巫女さまを
 拐かそうとしたのではありませんか、ミケラン卿!」
「憶測でものを云わないでいただきたい」

リリティスの糾弾を、真正面からミケランはしらを切り、跳ね除けた。
「こちらの要望を伝えておこう。わたしが命じるまで、君はここで過ごすこと。
 わたしは君の名と、君を虜囚にしている旨、
 フラワン家の家名の障りにならぬ程度において、極限られた範疇の関係者に対して
 少々利用させてもらうかも知れないが、君と、君の兄の安全は約束どおり、保障する。
 ただしここまで知った以上リリティス・フラワン姫には地上より消えていただく他あるまい。
 事情に精通しない皇太子殿下が姫をお気に召したとあらば、尚更のことである。
 レイズン家の統領としてわたしはわたしの為すべきことをする。
 トレスピアノにお戻しする兄君が、今後一切余計なことを洩らさぬその人質として、
 リリティス姫には名と身分をご放棄いただいた上、君の命とその身柄は
 今後レイズン家が預かり、幽閉の上、監視するものとする」
「それが、兄を放免する条件ですか」
「そう」
「兄はきっと、それに反対するわ」
リリティスは力なく反駁した。
生ぬるい暗闇にずるずると落ちていく気がした。
湖と空が渾然となり、何かの大きな力が、悪意もなく、救いもないままに、
風に混じって自分を突き飛ばしていた。
「私を犠牲にすることを、肯んずるような兄ではないわ」
「もちろん」、ミケランは頷いた。
「兄君を説得するのは君自身だ。
 自ら望んでミケラン・レイズンの許に残るのだと云えばいい。
 わたしは優しい男だと、エステラからそう聞かなかったか。きっと、そうなる」
男の自信に気圧されて、リリティスは眩暈を覚えた。
足許が危うくなったリリティスを、ミケランは抱きとめた。
ミケランはリリティスを支えた。
自惚れでなければ、君がここへ戻った理由も分っているつもりだ。
「年に一度はご家族と逢うことも認めてあげよう。これは悪い取引ではないと思うが」
腕の中のリリティスに低い声でミケランは囁いた。
わたしの側においでリリティス。
リリティスは喘いだ。
「そうすれば、貴方に従えば、兄さんを助けてくれると…・・・?」
「先程から何度もそうだと云っている」
「お願い------」
(あの誇り高いシュディリス兄さんが私が受けたような囚われの辱めを受けるなど、耐えられない。
 鎖に繋がれた兄さんを見るくらいなら、死んでしまったほうがいい)
「シュディリス兄さんをどうか、ミケラン卿」
(ミケラン卿、貴方は知らない。
 私たちは星の騎士として生まれ、互いを互いの半身として育った。
 如何様にしたら、私たちの間にあるこの絆を伝えられるだろう。
 私に剣を頂戴。
 私はいつでもそこに私の祈りをこめてきた。
 ミケラン、お前には分らない。
 どうか、私の祈りを叶えて。星よ、私の愛する人をお護り下さい)
ミケランはリリティスの顔を見下ろした。
そこには底光りする、かつて見た、星の騎士の眸が静かな力を湛えて、
風に慄きながらも気高く清んでいた。その光はミケランを打った。
この娘、実兄に愛を。
そのひとひらの問いかけは冷たく捻じれてミケランの胸に落ちた。
絵の中の美しい女が、星を片手で指し示していた。
焔の中に焼け落ちた。
(シュディリス・フラワン)
(改新の年に生誕し、トレスピアノの長子として、そこで育った。
 生母はあの翡翠皇子の恋人であった、リィスリ・オーガススィ)
亡霊が、真向かいの星空から笑みを浮かべて、ミケランを見ていた。
たっぷりと皮肉をこめた、悪戯っ気のある眼で、彼を見ていた。
ミケランが殺した皇子は、その骸ごと浄化の焔に消えても、なおも記憶の中から何度でも立ち上がり、見せ付けた。
『君にわたしは斃せないよ。残念だね、ミケラン』
優美な仕草でそう云っていた。
(確かに殺した。血の中に膝をつき、皇子は眼を閉じた)
(殺してやる、ミケラン・レイズン!)
少女の気違いじみた絶叫が夜風を引き裂いた。
髪を振り乱し、血の涙を流して泣いていた。
(ヒスイ、ヒスイをよくも。殺してやる、ミケラン・レイズン!)
(ジュピタ皇家再興以来、トレスピアノとの親交は途絶え、
 先方からも和睦のすり寄りはぴたりと止まった。
 死んだ貴人に付き物の民衆願望と思って取り合わなかったが、
 当時、皇子の妃の候補が皇子の子を懐妊していたとの噂もあった。
 改新の年に生まれたシュディリス・フラワン-----何かが引っかかる)
風が吹き止んだ。
疑惑を浮かべたミケランの眼が自分に注がれているのを、リリティスは知らなかった。




「続く]




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