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[ビスカリアの星]■三十二.



湖のお城。
幼い少女は壮麗な別荘をそう呼んだ。
瀕死の状態で運び込まれた少女は、美しい翠の眼をしていた。
その眸は眼下の湖よりも、空の色森の色よりも、美しい色をたたえて、
あたりに向けて静かに、見開かれていた。
深い沈黙と癒えることのない傷を底に沈めたまま、
囚われの少女は重傷の身をそこに横たえ、迎えの日を待っていた。
それを想うと、少女の口許には、ようやく微かな安らぎが浮かんだ。
白い繭の中から光を透かすような、頼りない希望がようやく見えた。
監禁された部屋の中で、血の匂いに蒸れながら、窓の向こうの森の風に祈った。
その日を待ち望んだ。
先に死んだ兄さまや姉さまの許に、今度こそ、連れて行って下さい。

当時、ミケラン卿の実弟タイラン・レイズンは、まだ少年であった。
少年タイランは重傷を負って搬送されてきた幼い少女のために、
一輪の花を毎朝、薬を運ぶ者に言いつけて、水差しをのせた盆と共に届けさせた。
花はタイランが育てて咲かせたものだった。
湖の別荘は、生まれつき片脚に不具のあった彼の、お気に入りの静養の地であった。
各地から取り寄せた珍しい花を庭園に移植し、そこを彼だけの静かな憩いの園として、
少年は都の喧騒を遠く離れたこの地で、ひきずる片脚に注がれる好奇の眼からも、
優秀な兄の庇護からもかたちばかり少し離れて、
ようやく自由に、心安らかでいられた。
兄ミケラン・レイズンがジュピタ皇家の傍流を担ぎ上げて
数日の内に全てを押さえて全てをひっくり返して見せたあの政権奪回劇は、
弟である彼タイランにとってはもちろん驚天動地の愕きをもたらしはしたものの、
事態から完全に取り残されていた宗家および彼ら兄弟の母から矢継ぎ早に手紙が届き、
またそれを見越したかのように、
それらの騒ぎと動転を鎮まらせるに足りる力強い信頼と安堵を与える事後承諾の手紙が
兄ミケランから頻々と手許に届きはしても、タイラン・レイズンはそれに呼応してち上がることもなく、
兄も身体が不自由な弟にそれを求めず、
タイラン少年にとっては都で起こっている彼の理解を超えた大乱よりも、
今日咲く花のほうが、まだ大切であった。

夜露に濡れた朝の庭園は、湖からの風を受けて、
その日も美しい花々を咲かせて静かであった。
庭師と共に花々の世話をしていたタイラン少年は、その時、
静寂と朝霧をかき分けて別荘へとやって来る馬車の音を聞き分けた。
護送の騎馬に囲まれて別荘に送られて来たのは、まだいとけない少女であった。
胸に深い傷を負い、ひと眼見るなり危ないと分る容態であった。
別荘を見上げていた少女は何かを訊ねるように、小さく呟いた。
「湖のお城……」
そのまま少女は喉を詰まらせて、眼を閉じた。
「カリア・リラ・エスピトラル王女です」。
エスピトラルという名を知らされて、タイランの顔は曇った。
カルタラグンとレイズンの間に位置し、兄の率いる傭兵軍の奇襲により
カルタラグンと共に焼き滅ぼされた小国。
御世の一新へと邁進している兄ミケランは、
森の中で捕えた小国の幼い王女の処断はひとまずお預けにしたようだった。
砦という砦、監獄という監獄はすでにいっぱいであることから、
瀕死の王女を拘置しておくのにこの別荘を思いついたものであろう、
タイランのその推測は正しく、追って兄からも、その旨を告げる書面が届いた。
短いその文面からは兄ミケランの持つ、非情と高貴の混合といったものが窺えた。
兄の手紙には、医師の見立てでは王女の命は永くはなく、
死を待つ間かりにも王族に連なる、しかもあのようにまだ幼い方を、
下民の連なる牢の中で終わらせるわけにはいかない、それゆえ宜しく頼む、
とだけ書かれてあった。
兄は風評を気にしたのだろう。
弟タイランはミケランの手紙を丸めて箱に仕舞った。
父母きょうだいを殺された挙句、
小さな王女がろくな手当てもされずに牢屋の中で孤独に死んだともなれば、
ジュピタ皇家が復興することを歓迎する人々の中からも
レイズン家の非道を唱える者が必ず出てくる。兄としてはその口実をいたずらに
増やすことは避けたいといったところであろう。
王女カリアは湖のほとりで、手厚い救護の末に死ななければならない。
それゆえ兄ミケランは、王女の死に場所に、美しい湖畔を選んだのだ。
カリアはここで一族の後を追い、死ななければならなかった。
兄からのその手紙には署名の下に、一行の追記があった。
実の弟にすらほとんどその胸襟を開いて見せない兄にしては珍しく、
独白のような、空に放り出された謎の問いのような、そんな一文だった。

------何の加護ありて、リラの君だけが助かりたもうたか?

その一言は兄の中に何かの解決のつかないものが残ったことを示しており、
それを裏付けるかのように、重体の王女の許の為には他ならぬその兄の手配で、
高名な医師が都から派遣されて来た。
それは幼い王女に末期の死に水を与えるだけでなく、同時に、
間違いなく王女はその兄姉から与えられた傷によって死んだことを世間に立証する為の、
医師を証人に押し立てた、いわばレイズン家の体面上の配慮に過ぎなかった。
兄にしてみれば、手を尽くした上で王女が死ぬことを望んでいたのであろう。
そうすることで初めて、複雑な心理を持つ兄ミケランは運命の綾から王女を奪い取り、
自らの采配で王女を確かに殺害し、エスピトラルを葬り去った自覚と達成感が得られるものと、
そのように思っていたのやも知れぬ。
だが、世の思惑とは無縁の境地に立つこの立派な医師は、己の職への誇りから、
その評判に恥じない医学知識と不屈の精神を傾けて、高度な治療を諦めずに王女に施した。
レイズン領の湖のほとりで、奇跡はふたたび起こった。
余命幾ばくもないと診られていたエスピトラルの王女カリアは、
尽きかけていた命運に引き戻されるようにして、夜が明ける頃、再びその命を取り留めたのだ。
薬に眠る王女は、目覚めた時に、僅かな言葉を紡いだ。
それは、風から洩れ聞こえる唄のように聴こえた。
森の中にいるお兄さまとお姉さまの処に帰りたい。
このお花はお兄さまが下さったのでしょうか。
お姉さまが近くにいらっしゃるのでしょうか。
お二人が寂しくしていらっしゃる。そこに行きたい。
森に帰りたい。
タイランから届けられる花を見るたびに小さな王女はそう願った。

(王女の兄君と姉君は、王女を刺した後、
 森の中で折り重なって絶命しているところを見つかったそうです)
(熱にうなされておいでなのでしょう。
 まだ幼いから長じるにつれてそのうち悪夢もお忘れになるでしょうが、
 ごきょうだいが死んだことが分っているのに、不憫なことです)
(ミケラン様は、王女をどうなさるおつもりでしょうか。
 カルタラグンの血を根絶やしにしたように、こちらの王女さまも
 そうなさるおつもりならば、せっかく助かったお命だというのに惨いことです)

生まれつき温順な性格のタイラン少年は、脚が不自由であることも、
出来のいい兄ミケランと比較して、すべてに劣ることすらも、
それまでさほど引け目にも負担にも感じたことはなかったが、
か弱き者に対する同情だけは、それが同じ立場からのいたわりである分だけ、
恵まれた兄に勝っていた。
彼が初めて小さな王女を自ら見舞った時、幼いカリアは澄み切った眼をして
仇の弟であるタイランを見つめた。
脚を引きずりながらタイランはカリアの寝台の側の椅子に腰を下ろした。
王女の姿は寄る辺なく、孤独で小さかった。
具合はどうかと訊ねても、応えはなかった。
物語を聞かせてやろうと本を開いた。
王女はそんな少年を黙って眺めていた。
窓から差し込む夕陽に照らされている王女の小さな気高い顔は、黄金に浸されて静かであった。
むかしむかしあるところに、大きな空がありました。
空には色がありませんでした。
だから人は、空に星が出ても、虹が出ても、何も見えませんでした。
それでも眼を閉じると、ふしぎなことに、人々の瞼には、美しい星が見えるのです。
美しい、七色の透きとおった大門が、峡谷の向こうにそびえ立っているのが見えるのです。
タイランは語りを止めた。
何かの静かな輝きが霧のように音もなく部屋に満ちていた。
驚いて見廻すと、カリアがこちらを見ていた。
その翠の眸ばかりが強かった。
幼い王女は、もはや王女ではなかった。
太古の貴女が棺の中から甦り、翠玉の幻に囲まれて、そこにいた。
カリアはタイランがその朝摘んだ花を指し示し、小さな手を差し伸べた。
お花を下さったのは、あなたですね。
タイランは椅子を倒して立ち上がった。
その日最後の日の光が地平に消えて、かわりに輝く闇が広がった。
星を率いる闇は津波となって、立ち上がったカリアの姿からタイランへと静かに押し寄せてきた。
森の深部から、はるか彼方の夜の氷河から、その声なき声はタイランの頭の中に響き渡った。
天の高みから針を落すような、凍った声だった。
タイランは思わず眼を閉じた。
眼を閉じても星が見えた。
蒼白く輝いて星雲の高みにあった。
夜空を裂いていかづちがタイランを打ったかと思われた。
彼の名が呼ばれた。
くるめく星の焔が消え、足許の大地が戻った。
夕影の中、小さな王女はふたたび小さな王女に戻り、
カリアは慄いているタイランを見つめて、もう一度云った。
今朝方タイランが摘んで届けた花をその指先に持っていた。
湖の夕暮れであった。
--------お優しいお心ばかりが伝わりました
その声が遠い昔の記憶の中から、タイランの名をふたたび呼んだ。
生還する際に星の叡智を大いなるものから授けられたその声音を、よもや忘れるはずもなかった。
コスモス領主タイラン・レイズンは顔を上げた。
城内の庭園は菫色の夕暮れに包まれて、水を遣ったばかりの花の匂いが
美しい空の下になつかしく満ちていた。
雫に濡れた花々が水辺の舟のように風に分かれて花影の道を作った。
露珠が流れ、影と光が大きく揺れた。
「ユスキュダルの巫女……カリア様」
雲間から差し込む金銀の残照を浴びて、かの人はそこに立っていた。
コスモスの地に。

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リリティスがフェララのルイ・グレダンの屋敷から拉致された後、
ソラムダリヤ皇太子はおとなしくしてなどいなかった。
ルイ・グレダンがそうしたように、フェララ騎士隊に囲まれてレイズンへと移送されていく
リリティスの乗せられた護送馬車を街路に立って見送ることもしなかった。
彼はフェララの騎士を押しのけて温室から飛び出し、
再び部屋から駆け下りて来た時には、すっかり支度を整えていた。
ソラムダリヤ・ステル・ジュピタは旅外套を翻し、ルイの鼻先を素通りした。
彼は門に向かうと、ルイの屋敷の周囲を護っている衛士に向けて声を張り上げた。
先程の騒ぎで通りにはフェララの人民が大勢集まっていたのだが、
構うことなく辺りを睥睨し、ソラムダリヤは声を上げた。
「誰かある。わたしは帝国皇太子ソラムダリヤである。都までわたしの供を頼みたい」
「なりませぬぞ」
ルイは後を追い、皇太子を遮った。ソラムダリヤはそれを無視した。
「衛兵よ集まれ。誰か都までわたしの供をせよ。わたしは皇太子である」
「軽率なことを」
「退いて下さい。護衛を借りる正規の手続きを踏んでいる暇はないのです」
素っ気無くソラムダリヤは立ち塞がるルイを押し返した。
「誰かある。皇太子が都へ戻る。
 大方その方らの中に、フェララに潜むレイズンの密偵と呼応して、
 ここにトレスピアノの姫君がいることを彼らに内通した者がいるのだろうが、
 そのことは今は咎めません。
 フェララへは後で断ろうから、二三人、わたしの供として付いて来なさい」
「殿下」
「誰も動かぬか。それが貴官らのジュピタ皇家への誠意ですか。
 それならよい、わたし一人で行こう」
「殿下、なりませぬぞ」
ソラムダリヤはルイの巨体を睨み上げた。
若者が年長の者を軽蔑する時の、冷たい眼を向けた。
そして笑った。
「どうして。おかしなことを云うね、ルイ」
彼は馬を呼ばせた。
「わたしは立場をわきまえず、少々遊びが過ぎたようです。
 可愛らしい人とちょっとした冒険をやってみたくなって出て来ましたが、
 その人がいなくなったとあらば、もうフェララに滞在する理由もないでしょう。
 この程度の勝手は毎度のこととはいえ、皇帝陛下にもご心配をおかけしていることであろう。
 お目付け役に叱責される前に、そろそろ都の皇居に戻ろうというのだよ。
 貴方もそれを望んでいたではないか。それを何故いまさら止めるのです」
「分っておりますぞ」
ルイはソラムダリヤの蔑みの視線にも動じなかった。
「殿下は都に戻り次第、御父上ゾウゲネス皇帝陛下にことの次第を
 訴えるおつもりであられましょう。しかし、そのようなことをされましては、
 ますますリリティス嬢、否、リリティス嬢に成りすまして我々を騙し、
 レイズンへと送られたあの娘の立場が苦しくなるとはお思いにはなられませぬか」
「それは、どういう意味ですか」
皇太子はルイを見つめ返した。
その眼はルイにこう云っていた。
(フェララの兵を止められる立場にありながら、それをせず、
 リリティスを引き渡した、騎士の風上にもおけぬ卑怯者)
ルイはソラムダリヤの手から馬の手綱を奪い取り、馬に乗れぬようにした。

「殿下はをとめごの身許を保証し、皇帝陛下直々の命により、
 身柄の即時引渡しをミケラン卿に要求なされるおつもりでありましょう。
 縁起でもない仮定ながらも、するとミケラン卿はリリティス・フラワンの偽者は
 罪を恥じて獄中で自害したとでも公表し、偽リリティス嬢を我々の手の届かぬ処へと
 今度こそ幽閉してしまうやも知れませぬ。
 ソラムダリヤ皇太子殿下、殿下におかれましては、
 本件には一切係わらぬ方が宜しいかと存じます。
 このルイ・グレダン、ミケラン・レイズンの人となりについては信ずること多少あり、
 少なくとも我々が軽挙に動かぬ限り、彼はリリティス嬢のお命に
 危害を加えることはあるまいと、
 そのように思うからこそこうして切に申し上げておりまする」
「貴方も我が父、皇帝陛下の上にミケラン卿をおくのか」

ソラムダリヤは落ち着いて、ルイに言い返した。
青年の頬は紅潮し、その眼は常の彼には似合わず挑発的に尖っていた。
「お飾りの皇帝と皇太子には、何も出来ぬだろうと?」
「そのような」
「構いませんよ。父上が何事もミケラン卿の言いなりであることは、知らぬ者もいないのだ」
さすがに恐懼して躊躇したルイの手から、ソラムダリヤは馬の手綱をもぎ取った。
父上はこう云われた。
実権は臣下に握らせておくほうが良いのだ。
不都合があればその者を切るだけで済む。
皇帝とは意志を捨ててこそ磐石の頂としてその真価を発揮する、
二度とどこかの騎士家が野望をもって皇帝の座に昇ることがあってはならぬ、
カルタラグンがそうであったように、それはいたずらに世を乱すだけであるから、と。
「もっとも、これもどうせ学弟ミケランからの受け売りであるのだろうが、
 我が父ゾウゲネス皇帝陛下は世の泰平の為に、
 あえて象徴皇帝であることを選んだのです。
 父がミケラン卿を頼るのは、ミケラン卿が今のところは清廉を保ち、
 公平に視て行き届いた治世の舵取りを裏側で執り行っているからにすぎません」
ルイは頭を垂れたが、しかし皇太子を止め立てする意志は固かった。
「不敬なことを口にしたはお許し下さい。がしかし、皇太子ともあろう御方が、
 御自ら、私情をもってレイズンの執り行う司法に口を出すことはなりませぬ」
「---------いけませんか」
それに対してソラムダリヤは胸を張った。
若々しい正義と愛に猛っている彼は、邪魔立てする者はたとえルイ・グレダンであっても、
リリティスを害する一味と見做して、その標的に据えることに躊躇わなかった。
彼はリリティスを想うあまりに、眼の前でリリティスを奪われた己の無力が許せず、
それを怒りに変えてルイにぶつけた。

(貴方もミケラン卿が怖いのですか、ルイ。
 ひとたびは北国ハイロウリーン騎士団の重鎮であった貴方が、
 それほどまでに怯懦であるとは、知らなかったよ)

若さの傲慢をもって、ソラムダリヤはルイに言い渡した。
「いけませんか。連行された彼女はリリティス・フラワン姫に相違ない。
 如何なる理由があれ、貴女が不当に罰せられるのを
 黙って見過ごすわけにはいかないと思いますが、違いますか。
 それこそレイズン家の横暴を看過し、無実の姫の上に振るわれようとしている
 不法なる越権を許すことではないのか、違うのか。
 わたしは皇太子である以前に、ひとりの人間としてこれを話すのです」
「はあ」
「他国の者共に詐称者呼ばわりをされてまで彼女が何も抗弁しなかったのには、
 何かよほどの事情があるのだろう。
 彼女のような貴人が何らかの謀に巻き込まれ、
 親族からも引き離されて獄に下るなど、あってはならぬことです。
 居合わせた以上、わたしには事実を明らかにする義務があると思いますが」

皇太子の剣幕に対して、フェララに属するルイは立場上、何の明言も出来なかった。
旗色を明確にするわけにはいかぬ以上、適当なことを口にした。
さすがは殿下!ご立派なお心がけであられます、云々。
「この期に及んで下手な世辞などいいよ、ルイ」
苛々とソラムダリヤはルイを黙らせた。
「子供の頃からその手の追従には慣れていますが、今は腹が立つ」
「は、はあ」
冷や汗をかきながら、しかしルイはぬかりなく、皇太子が乗ろうとしている馬の横に構え、
その動きをいつでも封じることの出来る位置に踏ん張って立っていた。
どちらもリリティスを愛している二人の男は睨みあった。
「そこを退いて下さい、ルイ」
「なりません」
「そう。それではこうするしかないようだ」
ソラムダリヤは腰から剣を抜いた。
「丸腰であっても貴方の方が強そうですね、ルイ。
 しかしわたしも剣術は嫌というほど仕込まれてきた。
 そこらの騎士には負けぬつもりです」
「………」
「さすがだ、ルイ」
ルイは微動だにしなかった。ソラムダリヤは愕きと賛辞を寄せた。
軽く風を切ったソラムダリヤの剣先はまっすぐに伸びて、ルイの眉間にあった。
「一歩も引かず、眼も閉じないとは」
これは敵わないと一瞬で突破を諦めたソラムダリヤは、仕方なく剣を落として、嘆息した。
「分らないな」
自尊心を傷つけられた彼だったが、もとより怒りの持続しない性状でもあることから、
役に立たなかった剣を収めると同時に自制心も取り戻して、
腕ずくで飛び出して行こうとする衝動も、ついでに鎮まったようであった。
力なく、皇太子はもう一度、「分らないな」と、呟いた。
「………」
「分らない、何もかも。
 リリティスは何故はっきり自分がリリティス・フラワンであると名乗らなかったのだろう」
「殿下、ここでは」
人垣に注意を促してルイは声を落とした。ソラムダリヤは口を閉じた。
ソラムダリヤはルイに促されるままに、ルイに伴われて素直に屋敷の中へと戻った。
何事かと遠巻きにこちらを観ていたフェララの人々はそれを潮に、衛兵に散らされて、
ルイ・グレダン宅に滞在しているのが本物の帝国皇太子であるとは気がつかぬままに、
そこを立ち去って行った。
「ルイ。それでもわたしは明日にでも都へ戻ります」
並んで歩きながらソラムダリヤは決然と告げた。
「最後まで目立たぬようにフェララを発ちたい。
 これはあくまでもわたしの一存で行ったおしのびだったのだ。
 その準備、貴方に任せてもよいかな」
「御意」
「こうしてわたしの出立を止めたからには、わたしが都に戻る前に、
 何かわたしに忠告しておきたいことがあるのだね、ルイ」
ソラムダリヤは疲れて厨房の椅子に腰を下ろした。
卓上には騒ぎの起こる前に自らの手で天火に入れた麺麭が焼きあがって並んでいた。
荒熱の取れてすっかり冷めたそれに皇太子は手を伸ばした。
麺麭を口にした。
初めて作ったにしては上出来だと思ったが、それを食べてくれる女の子がいないとあっては、
せっかくの麺麭も味気なかった。
ルイが天井につっかえそうな巨体を揺すって彼の為に慌てて茶を淹れるその様子を、
ソラムダリヤは険の取れたいたわりの眼で見つめ、
あの熊さんの一体どこに、皇太子に剣を眉間に向けられながらも平然と持ちこたえた
剛毅豪胆が隠れているのかと訝りながら、所在なく、麺麭屑を床に払い落とした。
やがて彼は云った。

「ねえ、ルイ」
「は」
「リリティスは何故、単身でトレスピアノを出て来たのだろう」

ルイは黙って、ソラムダリヤの前にお茶を置いた。香り豊かなお茶だった。
立ち上る温かな湯気をソラムダリヤは目で追った。
最後にリリティスは、こちらに向けて優雅なお辞儀をしてみせた。
か弱そうに見えて、雨に倒れるぎりぎりでその頭を上げ、
別の何かに心身を委ねきったかのような、澄み切った覚悟を見せた。
風の中に咲く一輪の花のように、頭上を覆う厚い雲を見つめながら、
その空の向こうに、何かを見ていた。
信念でも希望でもない、何かを。
(騎士の女の子。
 温室で、あの白い頬に触れた時には、他の女の子と何の変りもない、
 戸惑いやよろこびの兆しをみせていたのに)
ソラムダリヤはすべらかな茶碗の縁に指先を滑らせた。
温室の花の香り、あのままリリティスを抱きしめて、離さなければ良かった。
目を伏せて、彼はルイに云った。
わたしは単純にこう思っていたのです。
リリティスが正体を明らかにしないのは、フラワン家の姫君たる身でありながら
浮浪の騎士に間違えられてレイズンに捕まったことを恥じ、家の名誉のために黙っているのだろうと。
「或いは、わたしが誰であるかに気がついて、
 今さら身の上を打ち明けることも出来ないのであろうと。
 後悔しています、そのような瑣末なこと、
 このわたしの前では気にすることはないのだと、もっと早く彼女に伝えるべきでした」
そうしていれば、力になれたかも知れない。
沈痛な面持ちで、ソラムダリヤは続けた。
ミケラン卿の別荘で初めて出逢った時、彼女は何かをひどく怖がっていました。
それなのに、リリティスは自ら連れて行かれてしまった。
間違いなくリリティス・フラワン当人であることを、
他でもないわたしや貴方が知っていることを知りながら、誰にも助けを求めなかった。
「これは如何なる事情があれ、異常な沈黙だと思われてならない。
 ルイ・グレダン。貴方が知っていることを全て教えて欲しい。
 リリティスは何故あの時、顔色を変えたのだろう」
「あの時、と申しますと」
ソラムダリヤはリリティスを確保しに屋敷を訪れたフェララ騎士団中隊長の言葉を繰り返した。
ミケラン卿はリリティスを従わせる目的で、書面にこう書いた。
レイズンに戻れ。『兄君については不問に処す』、と。
「それではリリティスは、兄の犯した罪の赦免を求めて、
 その身代わりになる為にここを立ち去ったのだろうか。
 兄といえば、リリティスには兄は一人しかいない」
「………」
「シュディリス・フラワン。彼は、今どこに?」。
 



「続く]




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