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[ビスカリアの星]■三十三.




クローバ・コスモス様。
クローバ様、何処におられます。
廻廊から廻廊へと足音が響く。
癇症に呼ばわっていた侍従は、柱の影から飛び出した人影を見るなり、
「そこ。見つけました!」
飛び掛った。
カルタラグンからの御使者が着いたと嘘でもついて、主君を呼び戻す鐘を鳴らそうかとまで
考えていた侍従であったが、その必要はなくなった。
「おはようございます、クローバ様」
主君に対するにしては少々無遠慮すぎる乱暴さで、
クローバを取り押さえた侍従は素早くクローバの胸倉を掴んで壁に押し付けた。
「うわあ」
「逃がしはしません」
若い彼らはしばらく揉み合った。
早朝の涼しい空が柱の狭間に見えていた。
仕方なく向き合った侍従の怖い顔は、その朝空にはまるでそぐわない。
捕まったコスモス領主クローバ・コスモスは苦い顔をした。頭が痛い。
空は青く晴れ上がり、風があった。
音もなく透明にそよぐ、水色の草原が頭上にあるようだった。
そよ風が頭の中までやさしく撫でて来る。
眠い。
眠気のせいか、それとも眼の前のうるさい侍従のせいか、
朝の清々しさもいまいち恨めしかった。
朝帰りの若者は決まり悪くあくびを噛み殺した。
十六歳のコスモス領主は、朝帰りのその朝、夜露に汚れた飾り気の無い服を着て、
その髪は寝起きのままであった。
見知らぬ者にはどちらが侍従でどちらが辺境伯なのか、その区別もつかなかったであろう。
やがて観念した彼は、目の前の乳兄弟に気だるげな愛想笑いを返した。

「おはよう、スキャパレリ」

白い雲が眩しかった。
二人の若者の背丈はほぼ同じであったが、体格はクローバが勝っていた。
ひょろりと痩せた侍従におさえ込まれたのは、クローバが年長の彼を苦手としているからである。
険しい顔つきで詰め寄っているスキャパレリから眼を逸らしながらも、
若きコスモス領主クローバは胸倉を離そうとしない侍従の手首を捉えて、もぎ離そうと試みた。
「とりあえず落ち着けスキャパレリ。な、この手を離せ」
「わたしが何に怒っているかお分かりですか、クローバ様」
「何となくな。------いや、よく分かってる。俺が悪かった」
「分っておられる」
「うん」
「ならば何故、貴方は昨晩、フィリア様をお待たせしたまま寝所から抜け出されましたか」
詰問口調である。眼前の侍従の眼は怖ろしく見開かれていた。
それから逃れるように、クローバ・コスモスはようやく身を離した。
彼は侍従のご機嫌を取るように、親しみをこめてその両肩を叩くことで応えた。
威勢のいい音がした。
「お前、偉いな。スキャパレリ」
クローバは重々しく感嘆してみせた。
「相変わらず仕事熱心だな。こんなに朝早くから俺を探していたのか」
ねぎらうふりをしながら話を誤魔化して逃げる兆候だった。スキャパレリの眼はいよいよ尖った。
その手には乗りませんよ。
「早起きしたわけではありません。徹夜です」
「タンジェリンの皆の者は」
「知りません。しかし、さぞや失望され、また、お怒りであられることでしょう」
「なあ、スキャ」
若い背筋を伸ばして、クローバはわざとらしくスキャパレリに深刻ぶってみせた。
演技の出来ない男だった。
なあ、スキャパレリ。俺は思うんだ。
鼻梁をかいて、クローバは視線を彷徨わせた。
「いい天気だな」
「そうですね。それで」
「俺は思うのだ」
クローバは柱に片腕をかけた。
こういうことは何時何分、何分間でことが無事完了といった類の、そういった味気ない、
やるだけやって済めば良いといったものではないと思うのだ、彼はぼそぼそと云った。
朝に相応しい爽やかな話題とはとても云えない。
咳払いをした後、思い切った。
「床入りの儀は神聖なものだ。
 準備万端あい滞りなく整っていたとしても、さあどうぞとばかりに、
 猟犬が小鹿に襲い掛かるように、
 笛の音と同時に花嫁の上に無遠慮にのし掛かっていくような、
 そんな無粋な手合いのものではないと、俺は思う」
「ほほう」
白い眼とはこの時のスキャパレリの眼のようなことをいうのであろう。
今までいったい何度うきうきと、あちこちの娼館でアンタは女と遊んだか、
おしのびに付き合った以上は誰よりもそれをよく知る、そんな乳兄弟の眼であった。
「それでな、スキャ」
諦め悪く、しみじみとクローバは言葉を継いだ。
言い逃れようとする必死さが哀れだった。
さり気なくスキャパレリから離れていこうとする。
「昨夜のことは確かに俺が悪かったかも知れない。
 しかしこれは何よりも、タンジェリンから嫁いで来てまだ日の浅い、
 妃フィリアの気持ちを第一に考えた上でのことだ」
妃、というところで舌がもつれた。
まだ慣れない。臣民の前でこれはまずい。
つっかえることなく彼女の名を口に出来るように、後で練習をしておかなければなるまい。
若いクローバは情けなく後悔しつつ、口の中で言葉を泳がせた。
妃、きさき。
妃フィリア。よし。
「妃フィリアとのことだが、今はまだ時期尚早ではないかと思うのだ」、彼は云った。
これは領主としての義務であり、当人同士の相性など二の次であることは俺も承知している。
いや、俺とフィリアはよく話すぞ。うん。
気が合うというのか、一緒にいても安らげるし、
婚儀の前から思っていたとおり、彼女とは仲良くやっていけそうな気がする。
しかし、タンジェリンから輿入れし、大きな祝賀行事は終わったものの、
まだまだコスモスの地には不馴れで、フィリアも疲れていることだろう。
しっかりしているように見えても、彼女は俺よりも年下だ、
タンジェリンで別れた両親や幼い妹たちが恋しいことだろう。
気丈にも、そんな感傷や弱気は俺にも誰にも見せたりはしないがな。
そこでクローバはふと気がついた。
寂しさをあからさまに吐露しないのは周囲に対して気を張り詰めているからであり、
まだ心を許してはいない証ではないか。
それでは夫として失格であると自分の口から宣告したも同然である。
花嫁として迎えたフィリアはまだまだ、彼にとっては、他人であった。
言い訳がましく早口になってクローバは続けた。
それに、俺はともかく、フィリアはまだほら、そんなにあれだろうしな。
あれというのはあれだ、それにほら、
初潮を迎えたのもまだ最近のことだとお前も聞いただろう、とにかく何だ、心配するな、
お前達があれこれ気を揉まんでも、そのうちそうなるって。
城中の者が俺たちの何を今か今かと、さあ今晩こそは首尾よく必ずやとばかりに、
固唾を呑んで一挙手一投足をじっと見守っている、あの妙な重圧感に、
お前まで加担するのは止めてくれ、疲れる。
だいたい、昨夜のあの新婚の間は何だ。
入った途端に視界が真っ白で、床一面に花びらが撒かれていて、
フィリアのやつも、天蓋から薄絹がひらひら垂れ下がった寝台の真ん中で、
ちっちゃな人形みたいに茫然と坐っていたではないか。
あんな恥ずかしい部屋では、とてもではないが俺はそんな気にはなれないぞ。

「やるだけやって済めば良いといったものではないだろう」
「生憎ですが、やるだけやって済めば良いのです」

半逃げ腰状態のクローバの退路を絶つ位置に回りこんでおいて、
侍従スキャパレリは冷たく云い放った。
「視界が真っ白だった、だから回れ右して逃げたと仰いますか。
 それは部屋の調度が白で統一されていたからではなく、
 貴方に覚悟と気合が足りなかった、その何よりの証拠です。
 新婚の間がお気に召さないとあらば、別の寝所を用意させます。
 目新しい環境の中では落ち着かなくてどうも按配が悪い、その気になれない、
 そんな見苦しい言い訳を仰るのであれば、宜しいです、ではこの次は
 クローバ様のお部屋にいたしましょう。
 それなら万事居心地もよく、文句もありますまい」
「まてまて」
「情け無い。肝心な時に男が立たない、わたしの主君がそんな腰抜けであったとは」
「おい待て」
「ご自身の花嫁御寮を相手にその及び腰。それに引きかえ、フィリア様のご立派なこと。
 そろそろお済であろうかと侍女らが湯浴みの支度を告げた時にも、落ち着いて、
 わたくしは眠ってしまったようです、クローバ様は散歩に出かけられました、
 とだけお応えになられたそうです。何というお心遣いの深さだろう、
 不発の事態を寝入ってしまったご自分のせいにすることで、さり気なく、夫の体面を守られたのだ。
 さすがはタンジェリン家の姫君であると、このスキャパレリ、感服いたしました。
 それに比べて貴方はどうだ。花嫁を放置したまま、夜通し一体何処を
 ほっつき歩いておられたのだ。え、どうなんですか、クローバ様」
だんだん遠慮のない口調になって、スキャパレリはクローバに迫った。
「貴方の乳兄弟として共に育ち、
 オーガススィから貴方がコスモス家へ養子に出される時にも、
 貴方の乳母であった母と共に貴方に付き従ってコスモスへとやって来たわたしです。
 亡母は最期まで貴方の名を呼んで死にました。
 その母の名において、わたしは貴方に立派な領主になってもらうべく務める義務がある。
 昨夜は何処においでだったのです」
「うん……」
「云えないような場所ですか」
「いや、そんなことはない」
慌ててクローバは弁解をした。
歩いていたら川べりに小舟を見つけたので、
その中で寝ていたのだが、水音というのは結構耳につくものだな、スキャ。
「仕方が無いのでまた歩いていたら、昨日の陳情書にあった、農家から迷い出た羊を見つけたので、
 それを掴まえてやろうと、追いかけたり罠を作ってみたり何だり、まあそんなことをしていた」
「それで羊は」
「逃げた。脚の速い羊もいるものだ…」
「一の従者から、先代さまのご遺言によりもったいなくもこうして侍従に取り立てて頂いた限りは、
 他の誰にも云えない苦言も衷心より申し上げましょうとも。我が君、いや、
 話の内容が内容でもあるし、ここは友人として説教させてもらうぞ、よく聞けクローバ!」
投げ飛ばさんばかりにスキャパレリはクローバに押し迫った。
「お前本当にやる気があるのか!」
「あ、あるとも」、ようようクローバは応えた。
乳兄弟の剣幕に押されながら、彼はちらりと廻廊の奥をうかがった。
逃げ道を探したのではなかった。
鋼枠窓の明かりの向こうに、朝の虹色を浴びて、少女が立っていた気がしたのだ。
夕暮れ色の髪。
フィリア?

「やる気は十分にあるとも。いや、あるというか何というか」

誰に向かって宣言するでもない大声を出した後で、
クローバは慌ててスキャパレリを庭陰に引っ張り込んだ。
誰が聞いているか分らんのだ、声を控えろスキャ。
侍従の首に腕を回してクローバは囁いた。
だから云っているだろう、こういうことはだな、
互いに情を交わした後にやさしい気持ちで自然に行われることが最も望ましく。
それに対して、侍従スキャパレリは平然として遠慮のない口調で云い返した。
初夜が過ぎないうちは正式な結婚とは認められないことくらいお前も知っているだろうが、クローバ。
床入の儀が無事に済まない限り、そのたびに城の者がこうして振り回されているのだ。
互いにまだ若いからというので慣例を破り、式典祭典を優先して後回しになっているものの、
こうしてずるずるとその日を延ばし延ばしにしていても、そういつまでも誤魔化せるものでも、
逃げられるものでもないだろう。
「これで何度目だ?三度目だぞ三度目」
クローバの前に指が三本立てられた。

「一度目はお前は朝まで部屋の片隅で武具を磨き続けたというし、
 二度目はフィリア様と寝台の上で仲良く盤将棋をして遊んでいたそうだな。
 しかも手加減無用とのお前の言葉を素直に聞いたフィリア様がずんずんと勝ち進み、
 夫としての威厳も何も無い、騎士の駒も馬の駒も、王の駒も姫に取られて、一度も勝てず、
 完膚なきまでにお前の方が打ち負かされたとか」

スキャパレリはクローバに指を突きつけた。
事実である。クローバには声もない。
朝になって部屋に入った者が見たものは、卓のあちこちに駒を転がして
やけくそになって椅子で寝ているクローバと、
反対側でこれまたすやすやと寝ているフィリア姫の姿であった。
そして昨晩だ、とスキャパレリは説教の詰めにいよいよ入った。
「月の綺麗な夜だった。城は静かだった。
 星の林を漕ぎ行く雲の船を眺め上げながら、誰もが想った。
 我らが主君クローバ様は今ごろ、初々しく可憐な花嫁さまの手を取り、
 共寝の夢にやさしく漕ぎ出されたことであろう、と。
 あのクローバ様がついに嫁取りをなさるまでになられたのか。
 子供の頃からのいろいろを想いうかべ、
 感無量になって窓の外を眺めていたわたしの眼に映ったものは、
 その月光にこそこそと背を向けて、城から逃げていく、成長したお前の姿だった。
 我が目を疑ったぞ」
「………」
「フィリア姫の気持ちを第一に考えているだと?ならばもっとよく考えることだ。
 成婚の証を待っているタンジェリンからの使いにも、何と申し開きすればよいのだ」
「ああ、よく分っているとも」
「それが分っている者の態度か」
侍従スキャパレリは抑えに抑えて、しかし凄みはたっぷりと盛り込んで、
実の弟のように守り育てた乳兄弟クローバに云い聞かせた。
コスモスとタンジェリンでは聖七大騎士家であるタンジェリンの方が格上、 
そこの姫君がこうしてはるばると三ツ星騎士家コスモスに降嫁して下されたのは、
それはお前がもともとは聖騎士家オーガススィの生まれであるからだ。

「北方の星オーガススィ。
 クローバ・クロス・オーガススィ、それが本来受け継ぐべきお前の名であったはず。
 古い盟約により世継ぎの絶えたコスモス家に養子に出されたものの、
 お前の身体に脈打つものは北欧騎士の誇り高き蒼き血だ、
 タンジェリンはコスモスの家名よりも、むしろオーガススィとの血縁を求めて、
 この婚姻を取り決めたのだぞ。
 純血の騎士は減少する一方だ、だからこの結婚にはタンジェリンと
 コスモス家の結びつきだけでなく、強い騎士の血統を世に遺す大義も含まれているのだ」
「………」
「いいか、クローバ、フィリア姫との間に世子をもうけることは、もはや
 コスモス家だけの問題ではない、黄金の血を持つ者として生まれた者が、
 その血を絶やさぬために取るべき道であり、宿命だ。
 それでなくとも、有力家の姫との婚姻こそ、当主としての治世の基礎ではないか。
 コスモスのような小国であれば尚更だ。
 今度の当主は奥方の前から敵前逃亡するような不甲斐ない男だなどと、
 妙な噂になってもよいのか。少しは自覚を持て。そしてどうか、床入りの儀を超えてくれ」
「俺はその手の大仰が何よりも嫌だ」

承諾と降参のしるしに両手を挙げたものの、心の底から、重たいため息をクローバは吐き出した。
「人の初夜なぞ放っておいてくれればよいものを。
 まるで駿馬か何かになった気がする。よく走れと云われている気がする」
「走ってもらうぞ。それが領主としてのお前とそれを補佐するわたしの務めだからな」
それを聞いても、クローバはまだ浮かぬ顔であった。
スキャパレリは態度を改めた。
彼はクローバ・コスモスの前におもむろに片膝をつくと、その手を取り、恭しく口付けた。
「止せよ。今さら何だ」
戸惑うクローバをスキャパレリは無視した。
わが君、スキャパレリは侍従の顔つきで神妙に云った。
「クローバ様はお独りではありません。わたしも共に走ります。
 騎士ではないわたしは捧げるべき剣はありませんが、共に切り傷をつけた腕の傷はまだここに。
 混ぜ合わせた血にかけて、兄弟よ、この命ある限りお供つかまつります。
 この蒼穹の如く晴れやかに、心を高く保ちたまえ、君よ」 
スキャパレリはクローバをじっと見上げた。
「------クローバ様」
「そんな目で俺を見るな。ああ、分ったよ」
閉口してクローバは後ろに飛び退いた。
「スキャ、お前、年々殺し文句が上手くなるなあ」
クローバは嘆息した。
面倒くさい、やれというのなら、今日明日にでも勝手に何もかも済ませてやろう。
そんな性急を鎮めたのは、先刻、廊下の奥に見かけた、佇むフィリアの姿であった。
タンジェリン家特有の赤い髪。蒼い眼の姫君。
------コスモスに来れて嬉しい。
駒将棋をしながら、そう云って微笑んだ。

------どんな殿方の許にでも、タンジェリン家に生まれた女として、
  嫁にゆくつもりでおりました。カルタラグン家からも、翡翠皇子または、
  オニキス皇子の妃にとの打診もあったそうです。
  タンジェリンの父母はそれよりも早く、歳近いクローバ様との婚約を整えて下さっていました。
  お見合いの日、もし気に入って頂けなかったらどうしようと不安でした。
  でもクローバ様はちらりとわたくしを見るなり、何やらずっと照れていらして、
  そのむすっとしたお顔を見ているうちに、いい方に違いないと思いましたの。
  本当に感謝しております。コスモスの地は美しい処ですね、クローバ様。
------わたくしには妹が三人おります。
  みんな同じ色の髪をしております。
  一番下の姫はルビリアといって、まだほんの子供なのです。
  嫁ぐ前の日、わたくしの衣にすがって、あの子がいちばん泣きました。
  寂しがっていることでしょう。今日もこうして手紙を書いてやっておりました。
  コスモスのお花を押し花にして、届けてやろうと思います。
  
「お身内と別れ、はるばるコスモスの辺境にお輿入れなされたフィリア姫の
 お心細さを慰めるのは、背の君であられる貴方だけです」
クローバの心情を読んだかのように、スキャパレリはわざと素っ気無くとどめを刺した。
そのスキャパレリの墓が、クローバの前にあった。
簡素な墓であった。
丘にはあの朝と同じ色の青空が広がっていた。
「久しぶりだな、スキャ」
放浪の騎士は木陰の下に片膝をつき、剣を傍らに置いた。
コスモス領を果てまで遠望する丘には、他に誰もいなかった。
クローバは、やさしく、古びた石墓に語りかけた。
「もはや辺境伯でもない俺は、コスモス領に正面きって入るわけにはいかんからな。
 しかしここならば構うまい。
 お前が好きだった河が見える。丘が見える。コスモスの街が一望できる。
 国を出て行く時にはお前の墓に立ち寄ることも叶わなかったが、忘れたわけではなかったぞ。
 それが証拠に、ほら」
袖をまくり上げたクローバは、腕の古傷を墓に向けた。
一筋の刀傷、木漏れ日がその上に揺れた。

「ほらな。子供の頃にお前と兄弟の契りを交わした時の、その傷だ。
 互いの腕を切り、腕を重ねて血を混ぜ合わせた時の、その傷だ。
 あの時には後で、お前の母親から二人共、こっぴどく叱られたものだったな。
 お前の母親は主君の子である俺と実の子であるお前と、区別なく、
 ばしばし箒で叩く女だったからな。そのくせ、俺は知っていたぞ。
 俺が解放された後で、お前はさらにお仕置きを受けていたことを。
 『お前がついていながらクローバ様に何ということを…!』
 かなり厳しく躾られていたことを、俺は知っていたぞ。
 お前は母親が俺の乳母に決まった時から、俺の為に生きるように教え込まれていた。
 誰かの為に尽くして生きるなど、考えてみれば不自然なことだ。
 お前たち母子が次々と、若くしてあっけなく流行り病で死んでしまったのは、
 そのせいじゃないのか?」

ほのかな笑いを洩らして、俯いたクローバはスキャパレリの墓にその額をつけた。
お前が若死にし、カルタラグンが滅亡し、それからさらに十年経って、この有様だ。
「すまんな、スキャ。そうやって母子ともども俺に尽くしてくれたというのに、
 俺はもう辺境伯でもなければ、コスモスを預かる身でもないのだ」
フィリアも、死んだぞ、スキャパレリ。
木々のざわめきが、彼の胸の中にも緑を遺して透り抜けていった。
あれと結婚して五年目になる頃だったな。お前が死んでしまうちょっと前だ。
一部のけしからぬ者の間だけではあったが、
世子が出来ぬというので、フィリアへの風当たりがきつくなった頃があった。
騎士同士の結びつきによる出産率は極めて低く、竜神の血を持つ者同士ならば尚更であることを、
母胎にも危険が多く及ぶことを、誰も考えようとはしなかった。
『騎士の血は騎士を殺す』、そんなことわざがあるが、騎士から生まれた者は、
騎士となった限りは、闘いの中で騎士を殺すさだめにある。
それを逆手にとった者共がフィリアを石女だ、コスモスに不幸を招く女だと言触らして回り、
俺に側女をあてがおうとしたのだ。
何で最近とみに眼の前を新顔の綺麗どころがうろちょろしているのかと俺が不思議に思っていたら、
以前同じことがあったように、庭陰でお前に胸倉を掴まれたのだったよな、スキャパレリ。
お前が俺に対して昔のような遠慮のない口を利いたのは、
フィリアを迎えた直後と、あの時だけだった。
あれほど、「早く世継ぎの御子を」、とうるさかったお前のはずなのに、あの時ばかりは厳しい顔で、
『どうしてもフィリア様に御子が出来ぬようであれば、
 他家の子を養子に貰い受けるよう、取りはからえば宜しい。
 由緒正しい騎士の血に、どこぞの下民の血なぞを混ぜて、
 それでコスモス家の威厳が次世に保てるとお思いか。
 タンジェリンをご実家に持つフィリア様を、これ以上哀しませるようなことだけはしてもらいますまい』。
何よりも家臣らにおのれの妃の誹謗中傷をさせておくような男は男ではない、と俺を
一喝してくれたのだから、本当に忠義な奴だ。
だがな、スキャ、フィリアはちゃんと知っていたぞ。
国許のタンジェリンを出る時から、もしかしたら受胎しないかも知れないことも、
その時には妃としてどう振舞うべきかも、よく承知の上で、俺の許にあれは来たのだ。
何もかも承知して黙って耐えていた。
事態を知った俺がお前の他に女は要らんと怒ってそう伝えると、「残念ですわ」と云ったぞ。
『誰が生んだ子であれ、貴方の御子なら、
 どれほど可愛いか分らない。慈しんでお育てするつもりでしたのに』。
なあ、スキャ。
お前の云ったとおり、ガーネット・フィリア・タンジェリンは見事な女だった。
男にもああは出来まいと思う。
瀟洒な短剣を取り出すと、俺の前で、あれは命を絶ったのだ。
俺に別離の微笑みをくれると、一息に剣を胸に立てた。
朝まで、ずっと傍にいた。
呼んでも応えぬと分っていても、名を呼んだ。
フィリア、フィリア。
気恥ずかしくて、昔はなかなかあれの名を呼べなかった。
俺の寝所で初夜なぞ迎えられるか、あんな殺風景な、男の部屋で。
だが、結局はそうなったのだったな。

小鳥が一声鳴いて、枝から飛び立った。

------額に罪人のしるしを刻まれ、村を追放されました。

眼の前に日差しが揺れた。
光と影の狭間に、忘れ物のような、醜く深い傷があった。
何でもない話でもするかのように、額に傷をいただく女は澄んだ声で明るくそれを語った。
村を追い出されて道端に倒れていた私を拾ってくれたのは、裕福な後家さんでしたの。
「山野を彷徨い歩いていた私は、餓えかけていました。
 夫と子供を亡くしたばかりの貴女は泥にまみれた私を家に引き取って、看病し、
 蛆のわいた私の額の傷口を厭な顔もせずに手当てをしてくれました」
どんなに美しいと褒められても、私には意味がない。
かつてこの顔の上にはよく太った蛆が這い回っていたことを、
何の落ち度もないのに村人たちに殺されていく両親の姿を、
村から足蹴にして追い出されたことを、
私を突き飛ばし私からすべてを奪った人々が得をして、
人の心を踏み潰しながら幸福に生きていることを、この眼が見たものを、
忘れたことはありません。
「孤児の私に貴婦人の教育を与えてくれたそのご婦人も亡くなってしまいましたわ。
 みんな私をおいて先に逝ってしまいます。
 後には遺産争いが残りました。同じことの繰り返し。
 慾深い人たちは人の全て取り上げて、自分の功績にしたがる。
 未亡人が私に遺してくれた遺産を慈善院に全て寄与して、
 私はジュシュベンダ騎士団に入ったのです」
私は倖せです、と女は美しく笑った。
騎士団に入ったお蔭で、クローバ様とこうして出逢うことができました。
スキャパレリの墓に頭を寄せたまま、クローバは左手を見た。
指環があった。
対になったものを、かつて手づから妃の手にはめた。
その指環を、あの女の手に残してきた。
あの子ならばお前も怒らないだろう?フィリア。
どんな女かといって、そうだな、本当に心の美しい者にしか出来ないような笑顔をもっている子だ。
永い間の苦しみによく耐えて、私は倖せだと微笑む女だ。
寝相はちと悪いが寝顔は絶品で、甘い菓子が好きで、親切な女だ。
俺は何を云っているのだろうな、スキャパレリ。
お前たち二人が、俺を残して先に死ぬからだぞ。
クローバは侍従の墓に手をかけた。
いい人間ほど先に逝く。
残っているのは強欲な者や卑怯者、ずるい者共だけだ。
クローバは眼を閉じた。
透きとおった緑が眼の奥で燃えた。
俺などどうなってもいいが、それでも、まだ出来ることがありそうなのだ。
それをスキャ、お前に伝えに来た。
俺のためでもあるし、女のためでもあるし、見知らぬ者のためでもある。
その全てが所詮は自分のためなのだろうが、それでも少しでも高く、俺は生きていきたい。
さもなくば、それを教えてくれたお前たちや、
こんな無位無官の俺でもいいと云ってくれた女に、申し訳が立たんからな。
こんな俺をよく支えてくれたな。
優しいお前たちは何の見返りも求めることなく、いつも賢い心で俺を支えてくれた。
それゆえに、失ったことがこれほど痛いのだ。
そうだ、スキャパレリ。
俺は独身のまま死んだお前が、どんな女を好きだったのか、知っているぞ。
俺はその御方をお護りする騎士としてこの地に戻ったのだ。
お前が好きだった女はあれだろう、俺の寝所に架かっていたあの絵だろう。
俺の姉、リィスリ・オーガススィのかたちを借りて放浪の若い画家が描いたという、
夜空の星を指し示す、あの女のかたちに憧れていたのだろう。
昔、よりにもよってあんな絵の前で床入りの儀なぞ出来るか、リィスリ姉に
見られているようではないかと俺が云ったら、お前はものすごい眼で睨んでくれたからな。
あの絵だが、コスモスを出る前に、俺がこの手で火をつけて燃やした。
怒られるかも知れんが、ミケラン卿の手なぞに渡るよりはその方がいいだろう。
その代わり、焔の中から霊気をまとって巫女は我らの故郷に戻って来られたぞ。
しめやかに花びらを踏んでかの方は、月の浮かぶユスキュダルの雪山より星風を連れて降りて来られた。
まるで夕霧か、花の上の霜のようにもの静かで、清輝に包まれておられる。
お前がもし生きていて、あの御方を間近に仰望出来たなら、さぞかし感動したことだろうな。
そして俺がそうであったように、魂の底から慄いたことだろう。
怖ろしい御方だ。
曇りなき眼を持たれる方の前では、いかに誤魔化し、取り繕ってみせようとも、
悪行も善行も、不思議と顕わになっていくものなのだな。
醜い心がどのようにそれらしき正論や作り物の美談を声高に吹聴して回ろうとも、
それは人を脅すことや、騙すことは出来ても、人の心には沁みることもないのだな。
風がそよいだ。
クローバは独白を止めて、左手の指環を眺めた。
(貴方の傍にいられて、本当に倖せでした)
亡き人の最期の囁きが聞こえてくるようだった。
クローバは墓から身を離し、立ち上がった。
友人であるお前が死んだ時、俺よりもフィリアが泣いたぞ、スキャパレリ。
嘆く俺すらもほったらかしにして庭に走り出て行ったまま、帰って来なかったぞ。
俺は今でも、お前たちと親しく語る夢を見る。
後ろを振り返ればすぐそこに、懐かしいお前たちが立っているような気がする。
フィリアの遺骸はウィスタチヤの都に送られ、そこで一族もろとも合葬されたそうだ。
汚れた土を掘り返したところで、もはやどれがあれなのかも見分けがつくまい。
何もかも失った。
そんな俺を、まだ想い出の中から、お前たちが見ていてくれるのだな。
俺には勇敢なことも正しいこともよく分らないが、莫迦正直に、孤独に、愚直に生きようと思う。
おそろしく虚しいことだろうが、そうしようと思う。
振り返ったクローバは丘の高みから、かつて彼が治めたコスモスの地を眺めた。
雲間から光が降り注ぎ、緑が眩しかった。
涼しい緑は幾重にも重なり合い、透きとおって響き合い、
清い光と渾然一体となってひろく広がり、クローバの胸をもう一度、透り抜けた。
光の向こうに、忘れえぬ優しい姿があった。こちらを見ていた。
風となって消えた。
彼は剣を片手に歩き出した。
 



「続く]




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