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[ビスカリアの星]■三十四.




兄さん。シュディリス兄さん。
この熱が下がったら、きっと私を、森の中に連れて行って。
あの子のお墓を探しましょう。
遠い昔に埋葬された男の子。
今ではもう誰からも忘れられて、眠る場所も分らない。
意地悪な子が云うの。
手に緑の若葉をひらつかせて、それを云うの。
遺骸はとっくの昔に掘り起こされて、森の獣が食べてしまったに違いないと。
だからお墓が残っていないのだって。
そんなことはないわ。
だって私、夢に見たの。
夏の雨。泉のほとりに夏の花が咲いていた。
小さな男の子がそこで遊んでいました。
あれはあの子よ、そうでしょう?
フラワン家の男の子よ。
だから私が連れて帰ってあげなくては。
夢の中のあの子が、私には、子供の頃のシュディリス兄さんに見えたの。
ひとりぼっちで可哀想。
連れて帰ってあげたいの。
意地悪な子が云うことなんか信じない。
何も、誰も、信じない。
みんなが私のことを嗤ったわ。
私を誰もいない森の中に連れて行って。

「うるさいな」

月の出を見つめていたシュディリスは、その声に我に返った。
「静かにしてくれ。僕を独りにしておいてくれ」
パトロベリの呻き声だった。
窓からはぼやけた色の太陽と、灰色の夕闇に包まれた山脈が見えていた。
古い尖塔の残る辺境の夕暮れは、水底に沈んでゆく都にも見えた。
シュディリスは盥の水に浸していた布を絞った。
「うわごとです」
シュディリスから受け取った濡布をパトロベリの額に当てたグラナンは嘆息した。
旅館の古い床は誰かが動くたびに低い軋み音を立てた。
「明日の朝までに熱が下がるといいのですが」
「傷口が化膿したのだろうか」
「いえ。疲れのせいだと思います」
覗き込む二人に抗うようにパトロベリが何やらまた口にした。
意識がないせいでそれは唸り声に聞こえた。
そこに君たちがいると眠れないじゃあないか。僕のことは放っておいてくれ。
何も、誰も、僕は信じない。
パトロベリは熱を出して寝込んだ子供の頃のリリティスと同じことを云っていた。
二人はパトロベリの寝台からそっと離れた。
「シュディリス様は何かを信じておられますか」
病人を残して扉を静かに閉め、廊下に出たところでグラナンが訊いた。
「何かこれという信条や信義を、お持ちですか」
シュディリスは頷きかけて、それを止めて首を振った。返事は軽く返した。
「信じるものはその時々によって流動的に変る」
「信念など不要だと?」
「行動の指針として掲げる必要を覚える程度には、心の中でそれに頼ることもある」
「ご正直です。それが一番人間らしいとわたしも思います」
階下からは煮込みのいい匂いが漂っていた。
古びた階段を下りながら、グラナンは同意した。
「一つのものに固執して闇雲にそれを唱えるような人間をわたしは信用しませんね。
 それは強くもなければ正しくもない、
 理知と寛容を欠いた妄執であることがほとんどです。
 また反対に、何も信じないと強弁する人間も面倒だ。
 何も信じないということを頑なに信じているわけですし、人の話など聞く耳もたない。
 個人の病理に帰すべきものであり、私たちには関係のないものです。
 ああでも、『あなたのことを信じている』、これよりはまだマシでしょうか。
 他人を自分の思うように動かしたい浅ましさが透けて見えるだけに、勘弁ならない時がある。
 信じるのはそちらの勝手だが、べつにこちらが合わせて生きる必要もないことですし、
 口に出す以上は他人の好意や感謝を暗に執拗に求めていて、
 大概は利己的で自分本位で、押し付けがましい上にしつこい」
パトロベリの饒舌が移ったかのようによく喋っていたグラナンはふと、シュディリスに注意を促した。
「シュディリス様、髪が」
後ろで一つに束ねているシュディリスの髪が解けかかっていた。
パトロベリを寝台に寝かしつける際に彼に引っ掴まれたのである。

(見てユスタス。兄さんのこの銀の髪、夏の雨のようだわ)

髪を伸ばせと最初にせがんだのは妹と弟だった。
シュディリスは肩にかかる髪を結わえ直し、グラナンは気遣わしげにそんなシュディリスに申し出た。
「少し、染めるか、短く切り揃えてみられますか」
だんだんと彼らにも油断が出てきて、
雑多な人々が行き交う街道や街中においてもシュディリスやパトロベリは
ひと目を憚らずに姿を晒すようになっていた。
故国からこれほどに離れてしまえば知り合いに偶然出くわす確率も低くなる、
かえって堂々としているほうが怪しまれないさ、とパトロベリが強く訴えたのである。
どうせ後追いでレイズンの密偵には動向が知れているはずだから、と当人たちは
あっさりとしたものであったが、危ぶむグラナンの心配をよそに人の好奇の眼は今のところ、
どこかの裕福な子弟が連れ立って旅をしているのだろう程度の推測に留まって、
幸運にも過度の関心と疑惑には繋がってはいないようである。
しかし、ここはもう旧カルタラグンの地であった。
グラナンが心配しているのはそこだった。
「シュディリス様はそのお顔立ちやその姿に、カルタラグン家の特徴を幾つか、
 御父上翡翠皇子と分け合っておいでとか。
 下民には見分けがつかずとも、昔をよく知る人物の不審を招くやも知れません。
 特にそのお髪」
グラナンは囁いた。
「カルタラグンの血統に特出する色をしておられる。ひと目を惹きます」
「このままで」
シュディリスは髪を切ることも染めることも断った。
その心はグラナンの知らない追憶を辿っていた。
あの夜、熱を出したリリティスが眠るまで傍にいた。
寝室の外に出ると、そこにはユスタスが待っていた。
弟と並んで、窓の外に広がる夜のトレスピアノの森を見た。
(兄さん、姉さんの具合はどう)
(何かの悪い夢を見ていた。もう落ち着いた)
(おかしなことを云ってなかった?僕も聞いたよ。
 葬儀の際に青葉を一枚手に持って棺を送るトレスピアノの風習の由来を詳しく聞いて以来、
 何だか姉さんおかしかったからね。病没した少年が彼の慕った森に埋葬されたとかいうあの話。
 感じやすいというか、想像力過多というか、
 まともに聞いているとこっちまで陰気な夢の中に引き入れられそうになる。
 だいたい、本当の話かどうかも分らないのにさ。大昔の話とはいえ、
 いやしくもフラワン家の子息が、彼の遺言とはいえ、森の中に葬られたりするかな)
(さあ。ウィスタチヤ建国よりも前の話だというから確かめる術もない。
 リリティスの夢の中では、子供は永遠に生きているのかも知れない)
(シリス兄さん、姉さんに甘いから)
(そうかな)
(熱が下がったらいつものリリティス姉さんに戻ってるといいけど。-----あ、母さま)
(シュディリス。ユスタス。リリティスの寝室の前でそうやって心配していても、
 リリティスの熱は明日の朝まで下がりませんよ)
(平気だよ)
(いけません。順番にひいた風邪ですが、あなた達までまた罹ったらどうしますか。
 お部屋に戻りなさい)
(はい、母上。ユスタス、行こう)
歩き出した兄弟の背に、母の声が最後に優しくかけられた。
(温かくして、おやすみなさい)
あの時も、そうだった。
リリティスを、夜の中に置き去りにして見棄てたような気がした。
日盛りの庭で、彼らは兄の銀色の髪に触れた。
二人で熱心に頼めば兄が彼らの願いを断らないことを、幼い頃から彼らは知っていた。
シュディリス兄さん、髪を伸ばしてみたら?
リリティスが笑っていた。
シュディリスはもはや常習化した仕草で先日より絶えることなく悪い予感の巣くう胸を拳で抑えた。
パトロベリからの情報を信じるのならばリリティスはトレスピアノにはいない。
リリティスが自分を追って飛び出したのだとしたら妹をそこまで追い込んだのは自分だった。
嫌な夢ばかり見る。
嫌なことばかりを想い出す。
振り払っても振り払っても胸の奥の痛みと共に、後悔が立ち現れる。
(森の中に男の子がいたの)
(子供の頃のシュディリス兄さんだわ。あれはフラワン家の男の子)
(私が連れて帰ってあげなくては。私を森に連れて行って)
その訴えを黙殺し、その心を払いのけた、この偽りの兄のために。
苦々しくシュディリスは眼を伏せた。
いっそのこと、カルタラグンのかたみだと名乗りを上げて、全てを終わりにしたくなる。
リリティスの前に兄ではない者として、現れてやりたくなる。
どうなるわけではなくとも、もう十分に、苦しんだ。
暖炉の前の奥の席に通された。
近辺の者共も食事をとりに来るのか、旅館の食堂は混んでいた。
給仕の手で器が並べられ、天井の梁から吊るされた灯かりに、子供時代は遠のいた。
異変が起きたのは食事の終わりに差し掛かった時であった。

「この宿にシュディリス・フラワン様がお見えではないか」

旅籠の戸口が開かれるなり、その土地の役人が押し入り、その名を呼ばわったのである。
「これはお役人さま」
慌てて亭主が顔を出すと、部下を連れたその役人はぐるりと食堂を見渡した。
役人は粗野な大声で重ねて訊いた。
「亭主。この宿に、トレスピアノはフラワン家のシュディリス様が、
 ご休憩にお立ち寄りではないか」
「はあ!?」、亭主は口を開けた。
役人はもう一度辛抱強く繰り返した。
「トレスピアノ御曹司、シュディリス・フラワン様がこちらにお越しではないかと訊いておる」
田舎宿で耳にするには、それはあまりにも突飛すぎる名であった。
旅人で混み合う食堂は静まり返った。
シュディリスとグラナン両名の耳にも、それはもちろん聞こえた。
彼らは愕きを露わにして飛び上がったりはしなかった。
僅かに顔を見合わせるに留まって、食事の手を止めただけであった。
グラナン・バラスは衝撃を抑えて、ゆっくりと匙を器に戻した。
シュディリスの方は、パトロベリ・テラを残してきた二階の気配を窺った。静かだった。
グラナンとシュディリスはもう一度、無言で見交わした。
そして一切の表情を消したまま、
彼らは豪胆にも戸口を塞いでいる役人たちへと揃ってその顔を向けた。
もしもこの卓の下に潜り込んで残飯を漁っている者がいたならばその者は見たであろう。
若い二騎士が、卓の下でその片手に剣を握り締めているのを。

「そ、そのような御方はこちらには…」

面食らいながら、しどろもどろに宿の亭主は手をもみ絞って応えた。
「トレスピアノ。はて、トレスピアノと仰いましたか。
 そのような遠方の、雲の上とも云うべき貴き方が、このような荒地の外れの、
 わたしどものような下っ方の宿屋にお泊りになるはずがございません。
 祖父母の時代よりここに屋根を構えておりますが、
 いかなる時代の宿帳にもフラワン家のような貴き方々の名が記されたこともございません。
 お役人さま、何かのお間違えでは」
「お見かけしなかったかと訊いておるのだ」、威厳をつけて役人が云った。
「見かける見かけないも何も、かの御方のお顔も知りません」
無理もないことながら亭主は悲鳴を上げた。
事実、トレスピアノから遠く離れたこの旅籠の亭主はまったくといっていいほど、
トレスピアノを統べる名家については詳しくなかった。
必死になって亭主は言葉を継いだ。
「フラワン家のことなど、何も存じません。
 当代さまがカシニ・フラワン様、奥方さまがオーガススィ家から嫁がれたリィスリ様、
 三人のお子様方は、カルタラグンの在りし日に宮廷の華と謳われた
 リィスリ様の血筋を引いて、皆さま大層うつくしいお子様方だと風の噂に
 聞いたことがあるものの、それももう、何年も前の話でございます、はい」
亭主の知っていることはそのあたりで尽きていた。
亭主の訴えに小役人は頷いた。
うむ。わしも直接は存じ上げはしないのだ。
役人も困った風で、食堂にいる全員を見回した。
注目が集まっていることに、かえって場が持たなくなった。
彼とても宿の亭主同様、フラワン家についてはほとんど何も知らないといっていいようだった。
役人は「うむ」、と唸った。
「しかし何でも、ご嫡男シュディリス様はご様子のご立派な、容姿端麗な方であられるそうだ」
「よ、容姿端麗」、亭主が眼を白黒させた。
口髭をいじりながら、役人はもったいをつけた。
「その眉目秀麗は美しさにおいて空前絶後、ひと目見るだけで
 寿命が延びる心地がするほどの、美青年だと聞いている」
「寿命が延びる……」
パトロベリがこの場にいたら「一体どんな美青年だ」、盛大に噴き出すところである。
幸いにしてパトロベリはこの場にはいなかった。
その代わりに、好奇心旺盛な客の一人が笑いもせずに役人に訊ねた。
「お役人さま」
「何だ」
「シュディリス様とは、フラワン家の若君のことですか」
「さっきからそう云っているではないか」
「その御方がここに?」
食堂を見廻した。客の驚きを受けて、食堂中がざわついた。
その客とてもフラワン家嫡子について宿の亭主より詳しいわけではないようだった。
「レスピアノのご子息がこの辺りにおいでなのですか」
「そう聞いている」
「してまた何のご用事で」
「知らぬ」
田舎の下っ端役人は何かを隠しているわけではなさそうな様子で、曖昧に客に答えた。
「さるやんごとなき御方からシュディリス様をお探しするようにとの下知があったと聞いている。
 ご友人と連れ立って、おしのびをされているそうだ」
「やんごとなき御方とは、それは」、亭主が口を出した。
「どなたのことかは、わしも知らぬ」
役人は首を振った。
「見つかったら即刻報告の上、土地の名家にでも丁重にお迎えせよとのことである。
 それ以上詳しいことは知らぬ」
それだけでは何のことやら分らない。
しかし、これだけでもどうやら役人は喋りすぎたようである。
その顔は失態に気がついて強張った。
小役人は、「何か気がつくことがあれば報せるように」と亭主に言い含めた上で、
食堂中の注視から逃げるように、部下を連れてすぐに宿から立ち去った。
彼らとて御曹司の顔を知らないのである。
思い込みにより、貴人は常に豪奢な衣裳をつけて大勢の供にかしずかれているものだという
そんな先入観も彼らの眼を曇らせたのであろう、シュディリスの姿を視界に入れても、
柱の陰から平然とこちらを見ている若者が、よもやシュディリス・フラワン本人だとは
誰も判らなかった。
或いは、美意識に乏しい彼らの頭の中では「容姿端麗なる美青年」とは、
とにかく派手で華美で軟弱なものであり、焦点がうまく対象と結ばなかったのもあるだろう。
役人が立ち去るのを見送ると、亭主も巻き込んで宿の中はふたたび騒然となった。
シュディリス・フラワンを探すようにと命じた、「やんごとなき御方」とは誰か。
シュディリス・フラワンとはどのような御方か。
一体なにがあったのか。
その晩旅館に居合わせた者たちはトレスピアノ出身の者も皆無なら、
そもそもトレスピアノに行ったことすらない田舎者揃いであったから、
声高な噂話の内容はこれなら誰でも知っている、オフィリア・フラワンと
竜の伝説の方へと流れ勝ちであった。
隅に座っている地味な装いの二人の青年、(もしかしたらその内の一人は見るだけで
寿命が延びるかも知れない美青年)には、誰も注意を向けなかった。
暖炉の炎の陰影も目くらましの効果となって幸いした。
シュディリスとグラナンは、興味深げな顔つきで彼らの話を聞くふりをしながら、
食後の葡萄酒まで悠々と飲み干した後で、頃合をみて食堂の盛り上がりを後にした。
二人が口を開いたのは部屋に戻り戸を閉めて、戸の鍵だけでは心許ないので、
天窓の開閉に使う棒を用いて即席の閂をかけた後であった。
大急ぎで荷物をまとめながらグラナンは足早に窓に向かい、外灯を透かして周辺を見下ろした。
見張っているような者は見当たらなかったが、夜ということもあって、ここからではよく分らない。
切羽詰った顔でグラナンはシュディリスを振り返った。
「レイズンの手が回ったのでしょうか」
「他に考えられない」、シュディリスは鋭く応えた。
「早々に立ち退きましょう」
パトロベリは眠っていた。
シュディリスはそのパトロベリの額に手を添えた。
「熱がまだ高い。彼を動かすのは無理だ」
「僕は平気だぞ」
眠っているかと思われていたパトロベリが思いがけなく口をきいた。
パトロベリは目を開いた。
「何だ。何があった。レイズンと云ったか」
手短に階下で起こったことを二人から聞いたパトロベリは、即座に疑問を呈した。

「そりゃおかしい。隠蔽体質のレイズンがそんな大っぴらにシュディリスを探すものか」

グラナンとシュディリスは顔を見合わせた。
半身を起こしたパトロベリは、「レイズンじゃないと思うね。別口だ」と、云った。
「彼等とは別に、その、やんごとなき御方とやらが独自に君を探しているんだ」
「誰ですか、それは」
「知るもんか」、パトロベリは水差しの水を飲み干した。

「だけど、ミケラン卿なら余所者の手なぞ借りないと思うね。
 網を張るにしろ探索するにしろ、他国の力を介在させるにしろ、
 こんなあからさまで野暮ったい、回りくどい方法は彼の流儀にはそぐわない。
 彼ならば泳がせるだけ泳がせておいた上で、僕らを一網打尽にすると思うな。
 何故そうやって自信満々にレイズンではないと決め付けるのかって?
 教えてやろうか。勘だよ、僕の」

いけしゃあしゃあとパトロベリは威張ってみせた。
「僕の勘は当たるんだぜ」
君の正体も当てた僕じゃあないか、カルタラグンの皇子さま。
憮然としているシュディリスにパトロベリはしつこくからんだ。
でも、さすがの僕も知らなかったなあ。
君をひと目見るだけで、寿命が延びるご利益があるなんてさ。
どうやらパトロベリは、ちゃっかりと先程の騒ぎを盗み聞きをしていたようである。
笑い出した。
さすがは霊験あらたかなオフィリア・フラワンの土地柄だ、僕にもよくその顔を見せてくれ。
ううん、いい顔だなあ。そうやってむすっとしている時が君はいちばんかっこいい。
シュディリスがパトロベリを張り飛ばす前に、脇からグラナンが気がついて声を上げた。
「シュディリス様」
「何」
「やんごとなき御方とは、もしや、トレスピアノの領主ご夫妻ではありませんか。
 ご両所様が密かにシュディリス様を探されているのでは……」
それはない、即座にシュディリスは否定した。
父母が行方を探すとすれば、まず妹のリリティスを第一とするはずだ。
父カシニはかつてシュディリスとユスタスにこう告げた。
お前たちが信じるのもに従って生きると決めたその時には、父母を捨てても構わぬよ、
親の役割は子育て、そして上手に離すことなのだから、と。
飛び出して行った息子たちのことは、母リィスリはともかくあの父ならば、これを限りとして、
広い心で見放してくれるはずであった。
「でも、それはあくまでも君と弟君が『騎士として生きる』ことを選んだ際の、
 やむにやまれぬ場合の話だろう」
パトロベリは呆れた。
「フラワン家は息子が勝手気ままに出奔しても許されるような家ではないだろう。
 家を継ぐべき男子が二人とも揃って行方不明になっているこの事態を、
 領主としてのお立場から、このまま放置しておくはずもないじゃないか。
 息子たちの失態と、続く失踪を、誰よりも憂慮し、
 最も懸念されておられるのは、他でもない君の父君のはずだ。
 僕は、フラワン領主ご夫妻が方々手を尽くして子供たちを探しているとの
 グラナンの説に賛成してもいいね。レイズンより先にご子息を保護したいと願うのは、当然だ」
こちらが重々承知の上でいることをいちいち混ぜっ返して口に出して云うな、
そんな眼でシュディリスが睨むのにも構わずに、
パトロベリはグラナンが差し出した濡布を額にあてて、
ふたたび熱のあるその身体を寝台に身を横たえた。
熱のために気だるい顔をしていたが、それでも口は止まらなかった。
「荷物を置けよ、グラナン。
 誰もシュディリスに気がつかなかったんだろう?
 それなら役人がここに戻って来ることもないし、もう夜なんだ、
 少なくとも明日の朝までは誰も押しかけて来る事もないだろうさ」
それに、その『さるやんごとなき御方』とやらが、もしもミケラン卿であったとしてもだ、
いきなり捕縛されるなんてこともないだろう、と彼は決めた。
「僕らはミケラン卿がお求めの、ユスキュダルの巫女ともう一緒じゃあないんだからな」
「しかし、シュディリス様の真名が知れることになりでもしたら」
「フラワン家の者にはあらず、シュディリス・カルタラグン・ヴィスタビアだと知れたら、かい」
その時には僕の存在がなかなか使えるものになると思うよ、と
毛布を引き被ったパトロベリは壁の方を向いたまま、心配するグラナンにいい加減に請合った。
卑腹出であることから母方の姓テラを名乗ってはいるけど、僕にだって封印された真名はあるんだ。
「僕のまことの名は、パトロベリ・アルバレス」
 先々代の胤であり、先代にとっては異母兄弟であり、
 現ジュシュベンダ大君イルタル・アルバレスにとっては、年下の伯父上さ。
 彼らがシュディリスを捕らえるというのなら、その時こそ、僕は連中にこう云おう。
 『ジュシュベンダを統べる一族の名において、ここにいる星の騎士は吾が預かる。
  その生命、その自由、その身柄を客人として迎え、
  ジュシュベンダはこれを保障するものである。
  パトロベリ・アルバレス・ジュシュベンダがこれを誓う』。
 アルバレス一族に連なる僕の言質が有効である限り、ミケラン・レイズンといえども
 ジュシュベンダを向こうに回して、そう簡単に僕たちをどうこうすることは出来ないだろうよ」
それに、今晩のところは僕はここに居たいんだ、年季の入った宿だけど部屋も広いし、
水を持って来てくれる女中の子が可愛いから気に入っているんだ。
君たちのように慌てて夜中に引き払おうとするほうがかえって怪しまれる。
こんなにも高い熱を出している僕が可哀想だとは思わないのか、人でなし。
「グラナン、それを取ってくれ。ぬくもり袋」
「ぬくもり袋?」
「湯を詰めた陶器のそれだよ!ぬくもり袋とは呼ばないのか?僕の母はそう云っていたぞ」
いつの間にか女中に頼んで運ばせた陶器を織物で包んだものを毛布の中に入れ込むと、 
「『さる御方』とやらが何者であるか分るまでは、目立つことは避けたほうがいいと僕は思うね」
云いたいだけ云って、パトロベリは眼を閉じてしまった。 

「………」

パトロベリの云うことは尤もながらも、それですっかり安心というわけにもいかない。
誰かは判らぬが誰かがシュディリスを探しており、そしてその捜索の末端は
土地の役人という姿を借りて、先ほど確かに息のかかるところにまで迫っていたのである。
出立は取りやめたものの、気は抜けないままであった。
階下の喧騒をよそに小さな町は静まり返り、村はずれの道に動く者はなかった。
蒼い月が冴え冴えと輝いて昇ってた。
シュディリスは窓枠に腕をかけた。
役人のあの様子ではこの辺り一帯に広く自分が探されている。
何の為に、誰の命令で。
どちらにせよ、その『やんごとなき御方』とはそれだけの号令を掛けられるだけの
力を持った人物なのには違いない。
不気味なのは、その者がシュディリスを探しながらも、
あまりシュディリスについては詳しくないという一点であった。
「確かに、シュディリス様をよく知る者ならば、
 むしろその特徴には「騎士」としての片鱗を見るはずで、
 あのようにいい加減で適当な貴公子像が横顔として吹き込まれるはずもありませんね」
慰め顔でグラナンは同意した。
「とはいってもわたしも似たようなものですが。
 弟トバフィルからいろいろ聞いてはいても、実際にお逢いするまでは、
 シュディリス様といえば「トレスピアノの貴公子」でしたから。
 しかし、よしんばシュディリス様を探しているくだんのその、『やんごとなき御方』が、
 シュディリス様に対しておもしろくない感情を持つ者であったとしても、
 これはかえって僥倖かも知れませんよ。
 ミケラン卿が何を企んでいるのかは未だ不明ですが、
 我々がユスキュダルの巫女に追いつくまで、レイズン勢を足止めし、
 捜索を撹乱させる役に立ってくれるかも知れません」
グラナンは努めて楽観的に励ました。
ついでに『さるやんごとなき御方』の可能性として、
グラナンは故国ジュシュベンダ大君の采配ではないかとの推測も挙げてみせた。
大君とシュディリスはシュディリスの留学時代に面識がある上に、
何しろこちらには勝手に飛び入りして来たとはいえパトロベリを連れているのである。
困り者の年少の叔父上パトロベリを含めた彼等を保護する目的で、
ジュシュベンダが介入してくるのも考えられなくは無い線である。
しかし、それに対してはシュディリスは懐疑的であった。
なるほど、留学時代に親しくさせてもらったジュシュベンダ君主は英明の名に相応しい
名君であり、トレスピアノの父とはまた違う種類の尊敬を寄せてはいるが、
親子ほどに歳の離れた彼等の間にあったのは外交上の礼節と、個人的な好意の他になく、
たとえばレイズンに放逐されたコスモス領主クローバ・コスモスを、かつての親交から、
イルタル・アルバレスがミケラン卿の意向をものともせずに自領に招いた友誼のようなものには程遠い。
第一ここはジュシュベンダから遠く離れた、旧カルタラグンの地である。
かつての栄華も跡形もなく、菓子を砕くようにして周辺諸侯に分与されたこの荒廃の地に、
ジュシュベンダがわざわざ火中の栗を拾うために干渉してくるだろうか。
その晩は二人共、いつでも動けるように着衣のまま剣を横にして眠ることにしたが、
パトロベリの看病をするのに夜の間何度か起きなければならなかった。
汗をかいたパトロベリに着替えをさせながら、暗闇の中でグラナンは月を背にして云った。
「何者かは判らなくとも、シュディリス様を探していることを隠すことなく、
 公にしているのですから、それはレイズンとは別の目的を持って動いており、
 そしてミケラン卿をまるで怖れぬ人物に違いありません」
翌朝、二人の看病の甲斐あってか、はたまたお気に入りの女中が煎じてくれた薬のせいか、
パトロベリの熱はすっかり下がっていた。
朝食を運ばせると、よく食べた。
太陽が中天に昇る前に出立しようというのを、今度はパトロベリも反対しなかった。
「大丈夫ですか」「すっかり平気さ」
世話になった女中にお別れの挨拶をしてくると断って、パトロベリが厨房へと消えた。
少し風があった。
山並みの上の方の空が濃く、青く、よい天気になりそうだった。
旅館の隣には菜園があり、みずみずしい色の野菜が朝風に揺れていた。 
厩舎からグラナンが馬を引き出して来るのをそこで待っていたシュディリスは、
歳の頃三、四十代とみえる、身なり賤しくない、田舎者にしては品のいい婦人から声を掛けられた。
「もし……」
シュディリスは振り返った。
婦人は亜麻色の髪を束ねてまとめ、頭の上に寡婦であることを示す黒レースの被り物をつけていた。
手に籠を持っているので、旅館の菜を分けてもらいに来たのだろう。
様子が変だった。
風が吹き、シュディリスの髪が流れた。
見知らぬご婦人が今にも倒れそうな顔色をしていることに愕いて、シュディリスが手を貸そうとすると、
婦人は後ろへと下がった。
それでもシュディリスは片腕でふらつく婦人を支えた。
「しっかり」
婦人はそのレースを片手で上げて、おびえた顔でシュディリスの若い顔を近くからよく見つめた。
「翡翠皇子」 
手にした籠を握り締め、婦人は声を震わせた。



「続く]




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