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[ビスカリアの星]■三十五.




野菜を手に持って、翡翠皇子は、微笑まれました。
新しく入った子がいると女官長から聞いていたけど、きっと君のことだね。
「亜麻色の髪が可愛いね」
現れた翡翠皇子は、わたくしが持っていた荷籠を無理やりにお取り上げになりました。
「こんな重いものをその細腕で持つものじゃないよ。
 男にやらせるといい、たとえば偶然通りかかった、このわたしとか」
翡翠皇子は笑うと、籠の中身を覗き込まれました。
籠の中には、その朝届いた野菜がいっぱい。
女官といっても歳も若く、お嫁に行くまでの行儀見習いとして宮に上がっていたわたくしは、
女官としての自覚もまるでなく、田舎に居た頃と同じように下方の者たちとも親しくしておりました。
忙しい者の代わりに厨房にそれを運ぶところだったのです。
翡翠皇子はそのことをお咎めにはならず、
困った者だといったような風もお見せにはなりませんでした。
後から女官長に叱られることもありませんでしたから、そのまま不問にして下さったのでしょう。
去り際に、皇子は籠の中から野菜を一つ選ばれました。
考えて、もう一つ手にされた。
両手に野菜を持ったまま皇子は、「これ、もらうよ。美味しそうだね」、微笑まれました。
あの笑顔、あのお声。
わたくしは忘れたことがありません。

「つまり、恋におちた、と」
「パトロベリ様」

グラナンが渋い顔でパトロベリを肘でつついた。
「いいじゃないか。乙女が白馬の王子さまに憧れるのは古今東西の永久不変と決まってる。
 野菜を持った皇子さまに女の子が惚れたとしても、笑うようなことでも、
 莫迦にするようなことでもないだろう」
パトロベリは云い返した。
寡婦はシュディリスに向かって、恥ずかしそうに言い訳をした。
「女官に上がった当時、わたくしはまだほんの子供でしたの。
 翡翠皇子のお姿も遠くから拝見するだけでしたわ。
 それでも、皇子にお言葉をかけていただいたことは、わたくしの大切な想い出です」
すかさず、パトロベリが身を乗り出した。
「つまり、初恋であった、と」
「しつこいですよ、パトロベリ様」
しかしパトロベリは昨夜まで熱を出していたとは思えぬ元気さで身軽に立ち上がると、
届いた茶を寡婦の為に注いだ。
鳥の声がした。
旅館を引き払った後、寡婦に招かれるままに訪れた荘園である。
昨夜旅館に押しかけた役人がフラワン家のお世継ぎが見つかった場合には
ひとまずそこに丁重にお迎えせよと云っていた貴家とは、大方この家のことであろう。
婦人の伴侶である主が昨年亡くなった後も、後見人の采配で、
家の管理はしっかりと行き届いているようであった。
外出から帰った婦人は寡婦のしるしである頭の被り物を取っており、
亜麻色の髪を編みなおして化粧直しをしたその丸みのある顔は、
容色が衰えてたその分、見る者に安心を与える造作の柔らかさを持っていて、
田舎にあっても垢抜けたところがまだあった。
パトロベリは率先して婦人に仕えて、自分の家であるかのようにつとめた。
丁寧な仕草で、彼は婦人に茶椀を渡した。
平生はいい加減なパトロベリであるが、その気になれば彼はちゃんと礼儀正しく振舞えるのである。
亜麻色の髪の寡婦の名は、ルシアといった。
庭のあずまやで、三人の若者に囲まれたルシアは、子供のいる落ち着きを見せて微笑み、
パトロベリの軽口にも怒らなかった。
「翡翠皇子に憧れたことは本当ですわ。二十年前、わたくしは十六歳でした。
 亜麻色の髪が可愛いね、皇子のその言葉に舞い上がってしまうほどに、子供でしたわ。
 このような話、二人も子供のいる薹の立った女がと、
 お若い皆さまにはさぞや滑稽に、可笑しく思われますことでしょう。
 すべては二十年の昔の、古い話でございます」
「何を仰る、とんでもない」
パトロベリは大仰に首を振ってみせた。
女人は幾つになっても、その心に少女を持っておくべきだと僕は思います。
懐かしい少女時代を貴女の心に恋の針で留めて永遠のものにしたのが、
貴女にとっては翡翠皇子なんだな、きっと。
「そしてその針は時折、翅のように震えては、その心をやさしい想いで傷ませるんだろう。
 貴女の顔に浮かぶそんな昔の片恋が、貴女を若く、
 可愛らしく見せていますよ。僕はご婦人のそれが好きなんだ」
かすかな時の老いを目尻に滲ませたルシアは、パトロベリのそんな世辞にも、
微笑んだだけであった。
時折目を上げてシュディリスを見つめると、また目を伏せた。
旅館の庭先においてシュディリスの腕の中に倒れて来たルシアは、
「翡翠皇子」と、朝風の中に怖れて呼んだ。

「---------いま、何と」
「いいえ、いいえ」

慄きながら首を振るばかりであった。
やがて少し落ち着くと、教養と思慮のある話し方でルシアは取り乱したことをシュディリスに詫びた。
「そんなはずはありません。わたくしの見間違いでした。
 ご無礼を致しました。お放し下さいませ」
「翡翠皇子、貴女はわたしを見て翡翠と、確かにそう呼ばれた」
シュディリスの方がそのままにはしていられなかった。
「騎士さま、お許し下さいませ。わたくしの見間違いでしたわ」
「どうか逃げずに」
シュディリスは立ち去ろうとする婦人を引きとめ、引き寄せたその肩を掴んで振り向かせた。
(翡翠皇子)
「それはカルタラグン末期の皇子の名だ。わたしと似ていますか」
恐る恐るルシアは顔を上げた。
正面からもう一度シュディリスを見つめ、ルシアは震える声で今度ははっきりと否定した。

「いいえ。まったく」

やがて、馬を引いたグラナンと、旅館の女中との別れをすませたパトロベリが戻って来た。
「君が通りすがりの寡婦を口説いているのかと思った」
とは、婦人を腕の中に囲っているシュディリスを見た時のパトロベリの言である。
ルシアは三人が昨晩泊っていた旅館の菜園から月に一度、
薬草を買い上げているのだということだった。
そしてルシアは是非にと請うて、彼等を屋敷へと招待した。
「実は、亡くなった主人は薬学に詳しく、わたくしも見よう見真似で調合いたします。
 お連れの方の熱冷ましと、疲労回復に効く薬もありますわ」
「どうしますか」
一行は敷地の柵に凭れて相談した。
装いを地味にしていることもあり、寛いだ態度でいる彼等は、そうやって群れていると、
各地を放浪している気ままな若者たちにしか見えなかった。
シュディリスは云った。
宿の者に薬草を用意させ、その代金をルシアが支払っている姿がそこから見えていた。
「あのご婦人は翡翠皇子のことを知っている。もう少し話しを聞きたい」
「まあ当然だな。実父である彼のことなど、君は何も知らないに等しいんだから」
「そうですね。宿の者に訊いたところ、あのご婦人は、
 古くからこの土地の尊敬を集める素封家の方だそうですよ。
 役人が押しかけた昨日の今日ではありますが、これが何かの罠だとも思えません。
 それに、例の『さるやんごとなき御方』についても、 あのご婦人の口から
 何か手がかりが掴めるかも知れません」
「で、どうする」
「どうするとは」
「まさか僕たちの氏素姓をあのご婦人に正直に明かすわけにはいかないだろう。
 荘園への招待にあずかっておきながら、
 わけあって名乗るわけにはいかないと断るのも、わざとらしい」
「大丈夫だ」
「え」
「名乗られたのですか、シュディリス様」
「ジュシュベンダの友人二人とこの地方に遊びに来ていると伝えた。
 家にも黙って出て来た旅なので大袈裟にはしたくないと。秘密にしておいてくれるそうだ」
呆れている二人をよそにシュディリスは柵から身を離し、用事の終わったルシアを迎えに行った。

「それは。当然でございますわ」
むしろ心外だというように、ルシアは笑って一同に請合った。
「この土地の官憲と、トレスピアノのフラワン家を比べました時に、
 どうしてわたくしが、フラワン家の方のご意向を蔑ろにし、
 田舎の役人ごときに通報などいたしましょうか。
 独身であられる貴公子方は、誰しも一度や二度はそのご身分を離れ、
 ふらりと気ままに外界に出てみたくなるものですわ」
何ごともなくそのように云って、ルシアはシュディリスの作り話を鵜呑みにしたようだった。
谷間に沿った、花木に囲まれた美しい小屋敷であった。
庭に若者たちを案内したルシアは、
ここはかつて、カルタラグン騎士家に縁のある貴人の別荘だったのです、と語った。
遺言により所有者の死後、管理を任されていたわたくしの父に土地ごと譲られました。
「その縁で、わたくしもジュピタの都に行儀見習いに行くことになり、
 そしてそこで翡翠皇子とお目にかかったのでした」
そのように説明し、そしてまた、ルシアはその視線をシュディリスへと向けた。
トレスピアノのご子息がご来訪になっているとの噂は昨日より耳にいたしておりましたが、
何かの間違いだろうと、使用人一同あまり気に留めてはおりませんでしたの。
このような辺鄙な処で、フラワン家の方とお目にかかるとは思いがけないことでした。
そして、ルシアはその名をそっと口にのせて呼んだ。
「翡翠皇子」
何と懐かしいお名でしょう。
今朝ほどシュディリス様の後ろ姿をお見かけしました時、
わたくしの胸にはどっと昔が押し寄せて甦ってまいりました。
シュディリス様の横顔に、在りし日の翡翠皇子のお姿が重なって見えて、
軽い笑みを含んだ独特のあの声、あのお顔が、
まるで手に届くところにあるように想い出されて、たまらなかった。
己の容色の衰えを自覚している寡婦はそこで、相手の若さへと眩しげな眼を向け、付け加えた。
印象は随分と違いますが、そのお顔立ち、お姿が、本当にあの御方のよう。
「お懐かしみのところ申し訳ありませんが」
実務的なグラナンが咳払いをして割り込んだ。
自分には興味のない昔の恋話など、現実派の彼にとっては煩わしいものでしかなかった。
ちらりとシュディリスとパトロベリと目を見交わすと、グラナンはさり気なく切り出した。
つかぬ事をお伺いします。
フラワン家の子息を探し出して迎え、もてなそうとするに足りる、
この辺りの有力家といえば、どちらになりますか。
「我々も困惑したのですが、隠密行のつもりがどこかで露見するのは仕方がないとしても、
 あのように役人を動員して大っぴらに触れて回られては、迷惑です」
それに対して、ルシアは首を傾けた。
「カルタラグンなき後、この一帯は自治を任されながらも、レイズン家の管轄下にございます。
 貴方さま方のご来訪を知って大急ぎでお迎えにあがろうとしているのは、
 レイズンから派遣されている地方監督官だとばかり思っておりました」
「それならば何も下知を発した出所を隠す必要もないでしょう」
「それも、そうですわね」
ルシアは特に考えも無く、無邪気に応えた。
「では、トレスピアノからの要請かも知れませんわね。
 領主ご夫妻は、とにかくご子息様のご無事を確かめたいのでございましょう」
そうですわ、シュディリス様は、フラワン家のお方でしたわ。
カルタラグンの翡翠皇子に似ているなどと、どうして、わたくしは思ったのでしょうか。 
それとも、名だたる騎士家と婚姻を重ねてきたフラワン家ですから、
カルタラグンの血もどこかで混じっておられて、それでこのように、
似通ったところをお持ちなのかも知れませんわね。

あずまやの周囲には屋根から蔦が下がっており、差し込む庭の色彩が幻想的に揺れていた。
どうにも、ルシアはシュディリスと翡翠を比べてみることにきりがつかぬようである。
「二人きりにして差し上げよう。
 シュディリスも翡翠皇子のことをいろいろと聞きたいだろうから」
気を利かせたパトロベリと、これでは話にならないと見切りをつけたグラナンは、
「庭を拝見して来ます」、断りを入れると、二人を残してあずまやを離れた。
寡婦と二人きりになった。
話の続きを励ますために、シュディリスは母親ほども歳上のルシアの手を引き寄せた。
「失礼。夫君を亡くされてまだ間もないのでしたか」
ルシアは微笑んだ。
おかしなこと。シュディリス様はトレスピアノのフラワン家の方ですのに、
そのような戯れのご様子を見ると本当に翡翠皇子に似ているような気がしてきますわ。
滅び去ったカルタラグンと、トレスピアノの若君。
時の流れに切断されて、まるで繋がりもないことですのに。
「トレスピアノを折々に訪れるカルタラグン時代を知る方々の中には、
 故人とわたしの見目かたちについて、そのように触れる者はいなかった」
「それはそうでございましょう」
ルシアは顔を翳らせ、庭の光に眼を逸らした。
シュディリスにもその無言の意味は伝わった。
無惨な最期を遂げた皇子の名は不吉なものとして封じられ、
フラワン家の長子にあえてその類似を見出す者など、誰一人としていなかったのであろう。
亜麻色の髪のルシアは、その顔つきをあらため、両手を膝の上で握り締めた。
今でも夢に見ます。
「皇位簒奪者一族および翡翠皇子を退けよ」
あの晩、皇居になだれ込んで来た者共は口々にこう叫んでおりました。
変事の報を受けて皇子の許に行こうとしたわたくし達は、
皇居を占拠したレイズンの手勢にその手前で押し留められました。
「皇位簒奪者一族および翡翠皇子を退けよ」
「ジュピタの御世を取り戻せ」
燃え落ちていく皇子宮を泣き崩れる女官たちと共に茫然と見ていました。
遠い遠い昔のことなのに、一つの時代がぶつりと終わったあの日のことを、
悪い夢のように、わたくしは忘れたことがありません。
「当時の皇居におられたのであれば、わたしの母、
 オーガススィ家のリィスリ・フラワン・オーガススィをご存知でしょうか」
「いいえ。わたくしが皇子宮に上がった頃は、
 リィスリ様は既にトレスピアノに嫁がれた後でしたわ」
でも北欧の花と讃えられておられたそのお美しさは誰の口からもよく聞かされたものでした、と
ルシアは隣に座ったシュディリスにその手を預けたまま、微笑んだ。
「リィスリ様は翡翠皇子の恋人であられたお方。
 その華やかな恋の逸話と共に、そのお名を忘れるはずもありません」
「わたしは母リィスリから、よくカルタラグン時代の話を聞いた」
慎重に、シュディリスは話を進めた。
父母の面影を求めて、これから過去へと道なき時の道を降りて行かねばならない。
だから、というわけではないが、スミアの手を握る手にも自然と力がこもった。
遠くでぴょんぴょんと飛び跳ねながら、あずまやの動向を
背伸びして窺っているパトロベリの姿は無視した。
亡くなった翡翠皇子のことも幾たびか耳にしたことがあります、とシュディリスは云った。

「それを聞く度に、わたしには一つの疑問がありました」
「それはどのような。シュディリス様」
「翡翠皇子の末路は承知です。だが一方で改新の悲劇が起きたその日、
 皇子宮にいたはずのガーネット・ルビリア・タンジェリン姫についてはあまり聞きません。
 監禁先から逃亡後、ハイロウリーンに迎え入れられたとしか、わたしは知らない」
「当夜のことを、ご存知でないのも無理はありません」

ルシアは吐息を洩らした。
お気の毒なお姫さま。
ルシアはあまり噂話を好まぬ婦人で、なかなかその口は堅かったが、
不幸にして亡くなった方々に繋がる古い話ではございますが、と断った上で、
やがて、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
その少女が、ルビリア姫だとは、最初は分りませんでした。
激しい不幸があると一夜にして形相が変わるとか申しますが、
ルビリア姫の身の上に起こったことはそれでした。
女官達の集められた部屋に連れて来られたルビリア姫さまは、血の涙を流しておられました。
文字通り、血の色の涙です。
どこかで目の端を傷つけられでもしたのでしょう、誰の眼にも、そのように見えたのです。
ぽとり、ぽとりと、血の涙を静かに流しながら、一言も言葉を発さず、
石のように黙ったまま、ルビリア様は血染めの像のように、
ぞっとするような冷たい顔をして立ち尽くしておられました。
わたくし達は手を尽くして、あらゆる縁故を辿り、姫さまの命乞いをいたしました。
中でも、ミケラン・レイズン卿の奥方アリアケ様のご実家、スワン家と縁故のある
年配の女官の口利きが効いたようです。
アリアケ様が直々にミケラン卿に頼んで下さったのか、それとも違うのかは分りませんが、
ルビリア姫は命だけは助かり、塔に監禁されることとなりました。
生きながらの亡霊、それがあの時のルビリア様のお姿です。
しかしお別れを告げる時、わたくしが姫さまの眼の中に見たものは、
心の傷みや哀しみではありませんでした。
凍えたまま底深くうずくまり、粘り強く燃え盛っている、執念の火でした。
「翡翠、ヒスイ」
風吹く、皇子宮の青い空。
皇子の後を小鳥のように追いかけていらしたルビリア様。
それをひらりとかわしながら、笑っていた翡翠皇子。
わたくしの籠から野菜を取り上げた皇子はあの朝、手にしたその一つを、
「ルビリアへあげよう」
青空を背にして、微笑んでおられましたわ。
ああ、シュディリス様、翡翠皇子に似た貴方がそこにいらっしゃると、いろんなことが想い出されてしまいます。
ルシアはシュディリスの手から手を引き、辛そうに顔をそらした。
庭から吹く風を追うような目をした。
「ご存知でないのも無理はありません」
アリアケ・レイズン様はお亡くなりになったそうですわね。
勝者にも敗者にも、思わぬ打撃や哀しみは変わりなく訪れるというのに、
時の中に置き去りにされていく苦しみもこの世にはあることを、
わたくしはあの時、ルビリア様の眼の中に見たのです。
眼の前で翡翠皇子が無残に殺されていくのを、ルビリア姫はご覧でした。
悲痛も哀しみも通り越したあのような顔つきを、わたくしは他で見たことがありません。
『気違いルビリア』。
それを知らぬ者たちは、ただ、ルビリア様を笑い、その名を貶めるだけでいいのです……。


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脚の間におかれた男の手を、うるさそうに、女の手は押し退けた。
そして男の手首に手を重ねたまま、女は男の手を導き、自らの肌にふたたび這わせた。
女の肌は冷たく、白かった。
そして徐々に地熱のような温みを帯びて、その柔らかな湿りを男に伝えた。
邪魔をされたのですって?
女は笑った。
私の傍から、けしからぬあの子たちを遠ざけましょうか。
もう二度と、私の許に来る貴方の行く手を遮らないように--------
熱を帯びた苦しげな息を女は洩らし、膝を立てた。圧し掛かってくる身体が重かった。
男の肩の向こうに月が見えた。
私を慰める貴方の訪れを邪魔させないように。
男はそんな女の首筋を支え、その唇に唇を重ねた。
女の錆色の髪を男の手が掴んで引いた。
侮辱と戯れをこめて、男は乱暴に女の髪を乱した。
「悔しいかな、ルビリア姫」
笑いながら男は女のドレスを引き下げ、むき出しにしたルビリアの胸を眺めた。
「本当は、翡翠にこうされたかったのではないかな」
かすかに震えたのは、夜気が寒かったからだ。
寝椅子に横たえられたルビリアは、窓の向こうに冴え光る月を見ていた。
月は太陽よりも暗い色をしていることを、誰が知っているだろう。
闇を払うだけの力もない、美しいだけのあの無力。
孤独に夜を渡り、孤独に朝の森に落ちていく、あの透明。
「本当は翡翠皇子に、こうして可愛がってもらいたかったのではないかな」
「そうじゃないと云えば、嘘になりましょう」
「今宵は素直だな、ルビリア姫」
「お望みのままに」
そう答え、ガーネット・ルビリアは冷たい暗闇に微笑んだ。心底、愉快だった。
底知れぬ底に落ちていく。
オニキス様、とその名を呼び、オニキスの背に両腕を回した。
乱された髪のまま、男の望む声まで痛々しく上げて抗ってみせた。
「………やさしくして下さい」
「うぶな小娘のふりをするには歳が行き過ぎてはいないかな、醜悪だぞ、ルビリア」
しかしオニキスはルビリアの細い身体にそれ以上の無理は加えなかった。
ルビリアは眼を開けたまま、オニキスのすることを見ていた。
唇が笑っていた。
(誰もが私を悲劇の主人公に仕立てたがるわ。そしてその誰もが、
 そうすることで、ようやく優越感と安心を覚えるとでもいうようだわ。
 罪なき者を潰すことで満足な人生を歩む貪欲な人々。
 誰もかれもが私の味方のふりをして、そして嗤いながら私を突き飛ばしていったわ。
 お望みのままにするといいわ。
 全てが何て遠いのだろう。白い平野、氷の色をした、夜の星。
 あの月の海に行きたい)
「………」
「堪えずに声を上げるといい、ルビリア」
(連れて行って。夜明けも知らず、これ以上暗くなることもない、倖せもない。月の国)
想い出すこと、想い出さないこと、想い出すこと、想い出さないこと。
繰り返しているうちに、どちらでも良くなったわ。
オニキスでなく、男が誰であっても、私はこうしてきたわ。
辛いとも恥ずかしいとも思わない。
私を好きにするといいわ、オニキス。愉しみましょう。
何が起こっても、あの人との想い出はずっとそこに、あの白い月に変らずにあることを、
私だけが知っているわ。少々感傷的過ぎる妄想だとしても、それくらい、いいでしょう。 
「噂では、そなたはあのハイロウリーンの従騎士とも、それだけでなく、その父親ともこうするとか」
オニキスはルビリアの膝裏に手をかけ開きながら云った。 
「現ハイロウリーン家当主フィブラン・ベンダ・ハイロウリーンの寝所にしのび込み、
 この身体で取り入ったのだろう。そのお蔭でレイズンのお尋ね者であるそなたは、
 ハイロウリーンのお情けにすがることが出来たのだ。
 巧くやったものだ。わたしにも同じことをしてもらおうか、ルビリア」
ルビリアは背をそらして、かすかに呻いた。
「最後にヴィスタビヤでそなたを見た時は、髪の長い、まだ小さな少女だった」
オニキスの影で月は隠れた。
眼を見開いた。
月光の照らす男の髪は、遠い昔にルビリアを慈しんでくれた男のものと同じ色をしていた。 
大喧嘩の後だった。
(翡翠なんかもう知らない!いつもいつも他の女の人と仲良くして)
(それは何故か教えてあげよう、ルビリア。それはね、お前がまだ子供だからだよ。あはははは)
(きっとそれだけじゃないわ)
(うん、それだけじゃない)
(大嫌いッ)
(嘘だね、それは)
(嘘じゃありません。もう嫌いになりました)
(困ったね。わたしはお前のことが好きなのに。きっと泣くだろうし。
 そんなつもりはまだなかったけれど、そんなにお前が寂しいのなら、いいよ、そうしよう)
破天荒な人だったわ、とオニキスの下でルビリアは微笑んだ。
この世のどこに、踏むべき儀式の全てを無視して、
猫の仔でも抱くように思いつきで幼い妃と勝手に結婚してしまう皇子がいるだろう。
(泣いても止めないよ。ちょっと可哀相だけど、お前のことが好きだからね。こちらにおいで)
手を伸ばした。月には届かなかった。蒼い光だけが眼を覆った。
死んでしまいたくなる。
あの声、あの笑顔が遠すぎて、死んでしまいたくなる。
貴方が死んでから、ずっと奇妙な霧の中にいる。
誰でもいい、何をされてもいい、もう一度あの人に逢わせて。
ルビリアは眼を閉じた。赤く煙った。
(ルビリア)
「悲惨だな、ルビリア姫」
憐れみ混じりの嘲笑をオニキスはルビリアの耳に注ぎ込んだ。
蔑みを刻み込むようにして、ふたたび辱めた。
「高慢な女騎士としての誇りもこのように折られ、このような惨めの中で余生を過ごすとは」


扉が開いた。
次の間に控えていたエクテマスは、寝所の扉が開く前から、所定の位置に立っていた。
ルビリアの部屋から出て来たオニキス皇子を、彼は無表情で見つめた。
それも一瞬で、すぐにエクテマスは頭を下げ、オニキスの為に廊下への扉を開けた。
夜着を羽織ったオニキスは無言でそこを通り過ぎようとしたが、
ふと思いついて足取りをゆるめ、声を掛けた。
乱れた髪を撫で付けながら、オニキスは笑みを含んだ声でエクテマスに耳打ちした。
「ルビリア姫はお疲れのご様子だ。
 ここに控えていたのであれば、彼女の声も聞こえたであろう。
 我慢強い女は、その陥落後が従順で面白い。
 おおそうだ、そなたはそのようなこと、とっくに承知のはずだった」
十分に美貌の主から卑しい言葉は続いた。
「お父上のフィブラン殿からもあの女の愉しみ方は聞いているであろうから」
「………」
「今後、わたしが姫をお慰めする時に邪魔立ては不要だ、平騎士エクテマス」
「はい」
「そう、分ればよい」
オニキスは好色な悦びと皮肉をその秀麗な顔に浮かべた。
わたしとて、鬼ではない。
ルビリアは世が世なら、皇妃になるはずであった女。
死んだ異母弟ヒスイの代わりに、悪いようにはしない。
飽きればそのうち、そなたにも払い下げてやろうから。
オニキスが去ると、エクテマスは扉を閉めた。
そしてルビリアの部屋の扉を叩き、中からの返事も待たずに、室内へと踏み込んだ。
「ルビリア」
エクテマスは倒れていたルビリアを両腕に抱え上げて、すぐさま不潔な部屋から連れ出した。
ルビリアは一回り細くなったように見えた。
眼を開くと、蒼褪めたその顔に、虚ろな笑みが掠めた。
張り付いた笑みに見えた。
灯かりの影から厳しい眼でエクテマスがその顔を覗き込むと、
「平気よ、エクテマス」
ルビリアは今起きたようなしっかりとした声で、エクテマスの手を払いのけた。
錆色の髪が冷えたその頬にばらりと落ちた。
(その女騎士は錆色の髪をしている)
幼いエクテマスに父はそう教えた。
(新しい騎士を迎えることになった。名はガーネット・ルビリア・タンジェリン)
家族の驚きをよそに、フィブラン・ベンダ・ハイロウリーンは土砂降りの雨を窓の外に眺めていた。
(剣を持たせると、さすがはタンジェリンの血だな、目覚しい。
 我がハイロウリーン家と同じく、竜神の血を分け合った家の出の者は、
 身体能力も覚悟の決め方も生来桁違いに他の者とは違うのだ。あれは高位騎士になるだろう。
 求めるのは保護ではなく騎士にして下さること、このように姫ははっきりとわたしに云った。
 すごい眼をしていた。
 そのとおりにしてやろうと思うのだ。
 姫の潜伏先を聞きつけたレイズンより人相確認と引渡しの要請が来たが、
 ルビリア姫など知らぬとしらを切り、追い返してやったよ。
 このハイロウリーンは分家出の若造にいいように操られて帝国に
 騒擾をもたらしているレイズンごときに左右されるような小国ではない)
(女騎士は、嫌いですわ)
母は難しい顔をしていた。雨の音が屋根を打っていた。
母が手にしているのは細い針だった。繊細な刺繍をしながら母は嫌な顔をした。
(嫌いですわ。これ見よがしな不幸と、悲劇の匂いがする。女騎士にはぞっとします)
(雨に濡れた、花の匂いだな)
(血の匂いに似ております。不幸が伝染しそう、おお嫌)
(その女騎士は錆色の髪をしている。悲闘に燃え立つ、古い血の色だ) 
少年騎士団から抜擢され、見習い騎士としてエクテマスが女騎士に仕えることになった時、
騎士団の同期は口笛を吹いてエクテマスを羨ましがった。
そこには女騎士への明らかな侮蔑が混じっており、
女騎士へのその見下しは、そのまま、エクテマスへの侮りだった。
ハイロウリーンの名は彼にとって重荷でしかなく、認められれば認められるほど、重圧を覚えた。
優秀な兄たちや周囲の期待を、どうにかしてすべて裏切ってやりたいとすら思っていた。

「最上級の惨めだって、最上には違いないわ。
 とりあえず一つだけは誰にも負けないものがあると、そう思えない?」

現れたその人は、錆色の髪をしていた。

「私があなたに望むのは、無価値であること。
 私の盾となり影となり、無となって働くこと。
 それが出来るのなら、私の傍にいていいわ。
 そのかわり私もあなたに何も期待しない。何も。
 信賞必罰なんて野暮なことも止しましょう、全てそちらの自覚に任すわ。
 私はそれに関与しないけど、
 自分のやりたいようにやるだけでいいのよ、エクテマス」

与えられたその自由は、明るく広々として、
それまで家の名の許に彼が息苦しく覚えていたものよりも、はるかに峻厳で重いことを、
その人の青い眼が告げていた。
エクテマスに湯を用意させると、暗がりでルビリアは静かに顔を洗った。
ハイロウリーン家へのあの侮辱発言によく耐えたわね、エクテマス。
私とあなたのお父上フィブラン様との間には、誓ってそんな関係はないわよ。
そんな噂をたれ流しにした下種はどこの誰なの。
女の語尾が不意に震えた。
「ルビリア」
日頃の抑制にも似合わぬ烈しさで、膝をついたエクテマスは裸の女の手を取り、その指先に口づけた。
ルビリアは振りほどかなかった。腕から雫が落ちた。
雨の音。
「おそらく明日お待ちかねの使者が。ルビリア、貴女の為なら何でもします」
「心配はいらないわよ、エクテマス」
首筋や胸を洗った。
ぬるいものがゆっくりと細く膝を伝って床に落ちた。
ルビリアは湯気の向こうの闇を見据えた。赤く見えた。
あの男以外のことは、私にはどうでもいい。
ミケラン・レイズン。
狂気の片鱗もない澄み切った青い眼でルビリアは、「心配いらない」、と誇らかに云った。
私も愉しんだわ。
 
  


「続く]




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