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[ビスカリアの星]■三十七.



夜が永い。
暁が遠い。
この世のあらゆるものに背いて。罪なき人々を蹴倒して。
それでも得たいと願うそれほどに強い我慾があるのなら、それが可能なら。
これほどまでに薄明の中に彷徨うことはなかった。
歯車の軋む音がする。
逃れようも無い時の楔の音がする。
せめてこの心ばかりは閉ざされることなく、雲を追い、蒼い空の下、どこまでも駆けていきたい。
それすら叶わないのなら、もう何も考えたくない。
蒼い、昏い、独りきりでいられた森の中。
かつてそこに葬られた子供のように墓もなく、雪の底に忘れられて眠りたい。
静かに、独りで、これ以上もう誰にも煩わされることなく、
川床のさざれに散るように、時の流れの何処かに砕けて落ちて、
命の歓びや、なけなしの矜持ごと、悪い夢のように、消えてしまいたい。
この永い夢は決していいものではない。
どちらが夢でどちらが現なのかも時々、分らない。
霧の谷底から何者かがこの腕を引く。滅亡した一族が冷えた息で胸をかき乱す。
ここに来いと大勢の冷たい手が掴まえる。何処かへと連れて行こうとする。
お前はとっくの昔に死んでいたはずだと白い影が嗤う。
身の毛もよだつ声で囁く。
お前さえいなくなれば全てが収まると。
「虹が」
女の声にびくりとして、シュディリスは眼を開いた。
大きな鳥影が窓を横切り、その鳴き声につられて外を見た。
先ほどから聞こえていた不愉快な低音は、遠くの田畑で回りだした水車の音だった。
冷たい空を彼は仰いだ。
山脈を遥かに臨み、窓の向こうに、景色は朝霧の中だった。
夜の潮が去った西空には夜明けの星が小石のように取り残されて、まだ光があった。
短い夢の続きを追うように、かき抱いた腕の中の亜麻色の髪にシュディリスは口づけた。
それはそよ風ほどの挨拶として、寡婦ルシアの心に過ぎた。
空には虹が出ていた。
濃密に絡み合いながら流れていく朝焼けの雲は、はや北国のものだった。
いつの間にか蝋燭の火は消えており、朝の冷えた青みの中で探りあてたぬくもりは女のもので、
無意識に抱き寄せたその懐かしい柔らかさが、シュディリスの心をふたたび現に引き止めた。
シュディリスもルシアも、どちらともなく何かを云いかけて、両者ともそれを止めた。
夜明けの中に抱き合ったままでいた。
やがて、女の頬に頬を寄せて、シュディリスは呟いた。
「弟と、妹に逢いたい」
ユスタス。リリティス。お前たちに逢いたい。
そこにまだそうして変わりなくあるのなら、トレスピアノに帰りたい。
このような自分を兄と呼んで、変わりなく慕ってくれたきょうだい。
いかなる友誼よりも強い友愛で結ばれた弟。
膝をつき、騎士の心を捧げてくれようとした妹。
彼らがいたからこそ、このシュディリス・フラワンは、其の名に相応しく
フラワン家の人間として過ごしてこれた。
ともすれば失いそうになるこの心を繋ぎとめる、拠り所でいてくれた。
一緒に育った。この世の誰よりも深い愛情で結ばれて、彼らのために生きてきた。
父上母上。ユスタス。リリティス。
彼らに逢いたい。
亜麻色の髪の女は、時を止めたような空っぽな空を背にして、やがて身を離した。
翡翠皇子。そうお呼びしたくても、このようにしていただいていても、
やはりそれは叶わぬ夢でした。
女は云った。
そしてそれでよいのだと、思います。
ルシアは微笑んだ。貴方はやはり、翡翠皇子とは違います。
かそけき虹を窓の向こうにして、ルシアはシュディリスの若い髪をそっと撫でた。
「シュディリス様」
貴きフラワン家にお生まれになった方。何をお悩みなのですか?
随分と辛そうな眠りでしたわ。
膝に凭れてきた若者を受け止め、幼い子供にそうするように窓辺で云い聞かせた。
一時の懊悩に沈んでご自身を害うことは、貴方さまを愛している方々への冒涜でございます。
シュディリス様は、シュディリス様の魂で生きておられます。
誰にもそれだけは壊すことが出来ません。
惨たらしく殺された翡翠皇子がそれでも今なお翡翠皇子のままに、
彼を愛した人々や、わたくしの記憶に明るく留まっているように、
シュディリス様はシュディリス様だけのお命で、こうして貴方さまだけの命を生きておられます。
「どうして、翡翠皇子と見間違えたりいたしましたのでしょう」
わたくしはもう貴方さまの名を他の誰かと間違えることはない。
わたくし達は誰でも、まったく別の人間として、与えられた時間を生きていくのです。
他人の生を尊重せず、それをよこしまな心で支配し、漁夫の利を得ようとする者こそ、
恥知らずの愚か者。
どのような汚い噂で姿を歪められようとも、真実を告げるのは、まことの心だけです。
どのような手段で貶められようとも、他ならぬご自身だけはご自分のことを、すべてを見ています。
心が迷われる時にはどうか信じて下さい。
いちばん頼もしいものを信じて下さい。
ご自分の魂を。
虹の淡さを暫く見つめた。
薄れゆく朝焼けの中、恋を覚えた頃を振り返るように、やがて女は、
「翡翠皇子は死にました」
シュディリスの手を静かに放した。


「最低だぞ、シュディリス」
パトロベリは声を荒げた。
先刻からずっとこの調子だった。
食料や衣服、ルシアが若者たちの為に整えた心尽くしの小包を後ろに積んだ
三頭の馬影が、澄んだ小川に映っていた。川はこの先で支流と合流し、
大きな河となるはずだった。
ふたたび、パトロベリは前方で馬を進めるシュディリスに噛み付いた。
「一晩の宿と休息のお礼があれか。
 ご婦人の名誉のためにも汚い真似とは云わないが、
 それでも節操のない昨夜の夜這いの一件が世間に露見したら、
 トレスピアノの領主殿や奥方がお嘆きになるぞ」
「ルシア婦人との情事のことは、わたしは何も見なかったことにします」
こちらも不機嫌な顔つきで、グラナンが言い添えた。
「パトロベリ様もどうか他言は無用に」
「何でお前が黙っていてくれと頼むんだ、グララン」
パトロベリの矛先はグラナン・バラスに向かった。
「見逃してくれと頼むならばシュディリス本人が僕たちにそうするべきだ。
 トレスピアノ御曹司が子持ちの寡婦と一夜限りの関係を持つなんて、
 あっていいのかそんなこと」
「つい」、申し訳程度にシュディリスが応えた。
「何がつい、だ。ちょっとばかり男前だと思って見境の無い。リリちゃんに云いつけてやる」
寡婦ルシアとは、一晩中窓辺の長椅子に並んで静かに語り合っていただけなのだが、
詰め寄る男二人がどことなく羨ましそうなので、シュディリスはあえて誤解を解くことなく黙っていた。
艶を帯びて陽光に揺れる馬のたてがみと、葉影の緑が眩しかった。
彼らは河岸の船着場を目指していた。
ルシアは親切にも、旧カルタラグン領を横断してコスモスへと向かおうとする一行の為に、
懇意にしている船頭に頼んで、昨日中に渡し舟を手配してくれた。
峡谷は花ざかりで、振り返ると、いつまでも花陰からルシアは彼らを見送って佇んでいた。
やがてその姿も屋敷の影も、坂の向こうに消えた。
パトロベリは嘆息した。
「子持ちの年増の未亡人だったが、色白で、おとなしやかな、感じのいいご婦人だったな」
「そうですね」
そしてパトロベリとグラナンはもう一度、シュディリスをじっと見た。
シュディリスは知らぬ顔をして馬を歩ませた。
今朝方のルシアの話を、シュディリスは思い出していた。
夜と朝の境目に、幼い頃母や乳母にそうしたように、その膝にすがってぼんやりと聞いた。
浅い眠りから覚めて、夜明けの光の中でルシアの姿を彼が仰いだ時、
最初に逢った時のようにルシアは翡翠皇子、と叫びかけて、息を止めた。
さすがに、あまりいい気はしなかった。
母リィスリも、ルシアも、あまり面白おかしく話をする性質ではなかったが、
昔を知る婦人の口から語られる翡翠皇子の横顔は相も変らず煌めいて、
そこには彼にかかわった女たちの尽きせぬ思慕が今だに透明のままに滾々と満ちており、
面影を重ねた上で見も知らぬ男の話を聞かされているこちらとしては、
男の立場からも息子の立場からも、毎度ながら複雑ではあった。
どうやら翡翠皇子は何ごとも大らかに、羽目を外すでも自慢するわけでもなしに、
皇子として生まれ育った大器のままに、春の日の花びらを明るく振り撒くように、
周囲の女人たちへの愛や慈しみを惜しむことだけはなかったようであり、
何ごとにつけ鷹揚に泰然と、悪びれなく振舞っていたということだけは、うんざりするほどよく分った。
嫉妬とまではいかずとも、そうとうな伊達男であったらしき見知らぬ父への対抗心も手伝って、
脳裏で皇子の幻を握り締めながら、収まりの悪い愛憎にシュディリスは揺れた。
実母ルビリアを愛した男であり、養母リィスリの恋人であり、そしてあまたの女人の中に、
今なお色褪せぬ想いを遺して、若くして逝ったヒスイ。
常なら知りたくもない他人の艶事であっても、女たちの中に今も生きている彼の姿には、
清新な華やぎが春の泉のように湧き出でて、愛惜されるその面影は、
どこまでも清輝を帯びて曇りなく、憎らしいまでにまろやかで濁りなく、涼しげであった。
生まれつき華の王冠をかぶって高みに生まれた。
そんな人間が近くにいたなら、異性はともかく同性ならば魅せられるか、さもなくば
抑えがたい敵愾心を無条件に抱くかも知れない。
たとえば分家からその才知一つでのし上がって来た若き日のミケラン・レイズンの眼に映る彼は、
その手で野心の祭壇にまず最初に屠るべき、最も豪奢で、最も高貴な、
春の日の獲物として、其の眼前に煌びやかに立っていたのかも知れない。そして、
若さと血気に逸って森に飛び出した狩人がまず最初に、いちばん大きくいちばん目につく、
美しい獣を狙うように、当然血祭りに挙げるべき、何よりの人身御供だったのかも知れない。
「リリちゃんは見るからに潔癖で正義感が強そうな子だった」
パトロベリはまだうるさく文句をつけていた。
『お兄さま不潔よ!』
甲高い声真似まで作って、後ろからシュディリスを責めた。
「兄の昨夜の行為を知ったら、きっと彼女は涙を流して怒るぞ。僕はリリちゃんに逢いたくなってきた」
「妹の話は止めてもらいたい」
「リリティス嬢に知られて困るようなことをした君が悪いんだ」
騒ぐうちに、やがて船着場が見えて来た。
橋が視野に入ったところで、ようやくパトロベリは黙った。
対岸に渡る橋はそこしかなかった。
幅広の河の向こうに、揃いの鎧装束をつけ、旗印を立てて待機する一隊があった。
騎馬と弓兵で構成され、部隊は船着場の橋の手前に三段構えの態勢をとっていた。
待ち受ける彼らの盾が、ここからでは小さな鏡を並べたように見えた。
反対側の堤でたなびいている旗を指し、パトロベリは口笛を吹いた。
「お待ちかね。ようやく連中が姿を現したようだ」
馬首を並べて、彼らは対岸を臨んだ。
グラナンは手庇を作って旗の紋章を確認した。

「この土地の役人や官憲を使い、シュディリス様を名指しで探していたのは、
 では、やはり彼らであったということですね」
「あそこで僕たちを待ち構えている彼らと出処が同じと決め付けるのはまだ早いさ」
パトロベリは余裕をみせてグラナンをいなした。
「船は」
「船着場のあの船かと。先に到いてわたし達を待っているところを囲まれたのでしょう」
「後にしてきたルシアが心配だ」
「誰に何を聞かれても、僕たちのことは薬を求めて訪れた行きずりの旅人を一晩泊めて
 親切にしたとだけ答えるようにと彼女には頼んでおいたから、大丈夫じゃないか?
 それでも、何も知らぬ船頭のおやじには気の毒なことをしたな」

小型ながらも帆柱を備えた船だった。
板張りの船着場は兵士に占拠されており、その足許には、
後ろ手に縛り上げられた船頭の老人と、船の漕手が固まって座らされていた。
三人の若者は、橋に向かってゆっくりと馬を打たせて進んだ。
先に待ち構える鎧兜と、空に翻る青と黒の旗の輝きが眼を打った。
急速にシュディリスは、あの運命の日に引き戻された。
(旗印は、レイズン家!)
神聖不可侵領トレスピアノに予告なく侵攻してきたレイズンの軍勢。
ユスタスと別れて、レイズン軍の鼻先でユスキュダルの巫女を連れ去った。
幼い少女のように軽々と腕に抱け、そしてこの世のものならぬ威厳に包まれていた巫女カリア。
その御前に膝をついた。
神秘の巫女は、幼子のようにも見え、次には老成した叡智の究極にも見えた。
星の光の中に立っていた。
現の血肉を手放し、その精神を世界の脈動と重なり合わせ、空の高み、地底深く、森の奥へと、
深々と音もなく、透きとおる振幅にその身をすっかりと明け渡して、
巫女は宇宙の依り代としてひめやかに、厳然として立っていた。
星の雨が降っていた。
(シュディリス)
その姿その声がいとしく、哀しいばかりだった。
一つしかない森の寝床で共に寝た。
彼方の星空が天蓋だった。
そのか弱き命を、せめて傍に仕えることでお支えしたい。
そんなシュディリスの望みを微笑みで聞き入れ、そして何もシュディリスに求めることのないまま、
幻の鳥のように、巫女はクローバ・コスモスを選び、立ち去ってしまった。
淋しく、虚しく、何のお役にも立てぬのかと、わが身が口惜しく、情けなかった。
何という無様だろう。
暗澹たる気持ちでシュディリスは手綱を握った。
ジュシュベンダのアニェスも、寡婦ルシアも、そしてカリアも、
どの女人も自分を選ばず、自分を置き去りにして通り過ぎていった。
腕の中に抑えても、女たちのその心だけは、自分以外のものにひたすら一途に向けられていた。
その虚ろは、自分を育てた女、リィスリとて例外ではなかった。
物心がついた頃よりシュディリスは自分を見るリィスリの微笑みに、得体の知れない、
深い淋しさを見ていたが、それも当然で、リィスリが見ていたのは自分ではなく、
彼女が失った男の面影だった。
(シュディリスどうしましたか。泣かないで。貴方は強い子)
抱き上げて幼子をあやす母は、その言葉の底にいつも、深い悔いを滲ませていた。
若き日に愛し合い、惨たらしく殺された恋人へ伝えたかった彼女の本心を、
今さら叶わぬ願いとして、夕やみの花咲く木々の下、リィスリは幼子に語りかけていた。

(ほら、お母さまがちゃんと貴方を抱いていてあげます。
 私の命をかけて貴方を護ります。
 ------もう誰にも、貴方を傷つけさせたりはしません)

あなた達に何が出来るというのか。
シュディリスは遣る瀬無い吐息をついた。
苦々しい嫉妬すら覚えた。
こちらの差し出す愛に対して全幅の信頼を寄せることを断りながら、
しかし男の庇護の下には優しい姿で入って来て、なおかつ他の男のことを
後生大事に想い続けるなど、失礼千万にもほどがありはしないか。
「それが女というものだよ、覚えておくといい」
ミケラン・レイズンならば笑ってそう云うところである。
橋の入り口に差し掛かったところで、グラナン・バラスが伺いを立てた。
石と木で頑丈に出来た、荷馬車も行き違って通れる幅の橋だった。
「あちらはすっかり武装を整えています。我々を標的にして戦端を開くつもりのようです」
「確かにあれはレイズンだな」
パトロベリは剣と鞘を繋ぐ飾りの留め金を指ではじいて解いた。
「偽装かも知れない」
「いや、間違いない」
パトロベリは疑念を即座に否定した。あれはレイズンだよ。
「お国柄によってそれぞれ特徴があるのさ。
 それは正装や武装の折の、識別色に顕れる。
 最強のハイロウリーンは白と金、高貴にして剛毅。
 君たち相手に分りきった講釈を垂れていても仕方が無いから以下は略すが、
 ジュシュベンダは紫に金銀、タンジェリンは赤に銀、カルタラグンは青に銀、
 オーガススィは灰色に銀、サザンカは紫に赤金、
 衛星騎士家、筆頭フェララは緑に金、コスモスは黒に金、ナナセラは黄色に銀、
 それぞれに、その格式に応じた特色がある。
 クローバ・コスモスなんぞは不良だから、黒に金の正装を仰々しいと嫌って、
 コスモス領主であった頃も身につけることはあまりなかったそうだが、
 クローバが僕たちの年頃だった頃の肖像画を見ると、彼だってちゃんとそれを着ている」
「その肖像画なら、ジュシュベンダの宮廷で拝見したことがあります」
「笑えたろう」
「いや、笑いはしませんが、お若い頃の写し絵ながらも、
 衣裳負けはしておられなかったことは確かです。
 黒衣裳に金の帯が映えて、きりりと引き結ばれた口許は精悍で頼もしく、
 目許に人好きのする愛嬌のうかがえる、若々しくもご立派なご風采であられました」
「お前、誰も聞いてなくても世辞は欠かさないんだな」
「話が逸れている」
「そこでだ、釣り橋の向こうの対岸で僕らを待ち受けている旗は、青と黒。
 レイズン軍だ。
 しかも本家ならば青と黒銀のはず、ということはあれは分家の私兵だ。
 もっともミケラン卿自身は本家に対抗して、本家の統領気取りで
 意匠にも銀を取り入れているそうだがね。
 動くこともなく挑発をするでもなく、しかし抜かりなく四方の逃げ道をいつの間にか絶ちながら、
 ああしてじっと待ち構えている様子が実に陰湿だ。
 つまりあれは間違いなく、ミケラン卿が鍛えた配下の手駒だってことさ」

馬を停めて対岸を見遣った。
「弓兵と騎馬。総勢五十人ってとこかな」、パトロベリは少なめに見積もった。
「網を張っていたわりには、少ないですね」
「一帯に分散しているのだろう」
「目的としてはこちらの足止めと捕縛だろうな。それなら勝負も決まったようなものだ。
 生きたまま僕たちを捕らえられるもんか」
風切る音がした。
彼らの前の地面に、一本の剛矢が深々と突き刺さった。
橋の向こうから放たれたものだった。
「お行儀がよろしいことで。相手が若造三人であっても、開戦告知の矢をこうして寄越してくるとはね」
愉快そうにパトロベリはレイズン部隊に向けて手を振ってみせた。
「矢柄に文は結わえられていません」
「結構。陰険ではあっても、騎士家の面子は健在とみえる。こちらが誰だか承知の上ですっかりやる気なのさ」
「挑発とも、投降の勧告とも受け取れます。どうしますか」
「突破」、シュディリスの馬は地面に立った矢を越えた。
「よろしい」
三人は剣を抜いた。
三本の細剣が陽光を浴びた。
二人の馬先を追い越してグラナン・バラスの馬が走った。
「道を開きます。後に続いて下さい」
「幾らお前さんが双剣の達人も馬上では片腕しか使えないぞ!」
パトロベリが後ろから怒鳴ったが、グラナンは聞かぬふりで距離を開いた。
「平生の慎みには似合わず前に出るか。
 グラナンの奴はあれでいて、そうとうな格好つけだな」
「彼の好きに」
シュディリスは鷹揚に見送った。
「彼一人でわたしと貴方の二人に仕えているのだ。彼なりに鬱屈が溜まっているのだろう」
「まったくだ。僕はともかくシュディリス皇子は世話が焼けるからな」
「………」
「遅れをとるのは臆病者の証拠」
「従者の力を借りたとあっては騎士の名折れ」
「後家さんの煎じてくれた薬が効いたのか、君に傷つけられた脇腹も全快だ。
 援兵がここに到着する前に、僕の怪我の快気祝いといこうじゃあないか。
 グラナンに続いて、僕、そして君がしんがりだ」
橋の向こうからまっすぐ縦列になって走りこんで来た三騎馬は、流れる星よりも速く、
急流のごとくに守備隊の真正面に飛び込んだ。
威嚇の矢を払い落としてグラナンが露払いをした後、
続くパトロベリがジュシュベンダ家の貫禄を見せて片端から騎士を血に沈め、
とどめに弓兵の頭上を馬で飛び越えて来たシュディリスが、隊長とおぼしき騎士を
剣を合わせたと見るや否や馬からどうと斬り落とし、指揮を失った混乱の中、
三人は手綱捌きも鮮やかに板張りの船着場に駈け降りて、
河を背にして半円陣を組みながら次から次へと敵を蹴り倒し、斬り倒して、縛られていた
船頭と漕手の縄を断ち切って自由にすると、
「船を出せ!」
馬ごと船へと飛び乗った。
係留綱を断ち切った後でも、グラナンだけは船着場に残って追手を防いで闘っていた。
「グラナン!」
どうどうと河が流れた。
くい下がる騎士を水に落とし、振り返ったグラナンは
船が無事に漕ぎ出したのを確かめると、馬を船には向かわせず、反対に堤を駈け上がった。
「グラナン、何をする」
「すぐにこの先で落ち合います、ご心配なく」
グラナンは太陽にひらりと剣を掲げた。
そして、追いすがる騎馬をかわしかわし、矢の雨をかいくぐって、
グラナンの馬は一目散に下流を目指して堤の向こうに姿を消した。
「見てみろ。やっぱりあいつは格好つけじゃあないか」
飛び降りて追い駆けんばかりの剣幕で船の中からパトロベリが騒ぎ立てたが、船頭に聞くと、
河はこの先で三角州にぶつかり、そこならば陸からも馬が難なく船に乗り移れるとのことだった。
近道を取って駈けどおしに駈けて来たグラナンは、三角州の橋渡しに先回りして、元気な姿を現した。
清流は水が豊かで水深が深かった。
三頭目の馬の重みで船が大きく揺れたが、熟練の漕ぎ手がすぐさま均衡をとって、
船は三角州を離れ、ふたたび河を急ぎ下り始めた。
「もともとはジュシュベンダの間諜として各地を巡るはずだった身の上です」
グラナンは水飛沫を浴びた頭を振った。 
シュディリスがグラナンの馬を引き取って落ち着かせた。
彼ら三人は互いが無傷であることを確かめた。
船べりに肘をついてグラナンは漕手からもらった水を呑んだ。
「交通の主幹として物資の行き交う河です。一帯の地理は頭の中に入っています。
 古代から荷下ろしに使われている三角州があることは承知の上でした」
「グラナン」
「何ですか、パトロベリ様」
「むっつり助平」
「何故ですか」
「お前みたいに普段は生真面目な顔をしておきながら、いざとなれば暴れる奴をそう呼ぶんだよ」
シュディリスとパトロベリとグラナンは、船尾に並んで後方を見遣った。
三人に蹴散らされた部隊はようやく急を告げる狼煙を上げたが、
さらなる追捕の命令や怒号はもはや聞こえなかった。
船はみるみる流れ去って行った。


空に薄れていく狼煙を、少し離れた場所から見ていたものがいる。
やがて遅れて橋に到着した人物は周辺の惨状を見渡すと、すぐさま副官に命じて、
指揮を失っていた兵士の統制と怪我人の救護を直ちに命じた。
一隊を率いて来た男は悠然と橋の中央に乗り入れた。
「逢えなかったか」
馬上から去りゆく船を見送りながら彼は云った。
船の孤影はすぐに、視界から消えた。
「ミケラン・レイズン様」
部隊から歓呼が上がった。「ミケラン様」。
片手でそれを制し、ミケランは生き残りの兵士の中で落ち着いている者を近くに呼んだ。
取り逃がした者たちの風体を詳しく聞き出したのである。
恐怖の汗をまだ流したまま、兵士は直立不動で答えた。
「まさか勧告の猶予もこちらに与えず、
 一足飛びに攻勢をかけてくるとは思わず、不覚をとりました」
「彼らは横列ではなく縦列となって突進して来ました。
 あのような見事な一流れに対しては射掛ける矢の射程範囲も狭く、
 先頭の若者に攪乱されている間に、次々と後続に乗り込まれ、
 真正面から突破されてしまったのです」
「三騎士ともまるで恐れ気もなく、掲げたこの旗にも怖じけることなく、
 野を早駈けでもするかのような勢いで橋の向こうから疾走して来るなり、
 最短距離で血路をひらくと、あっという間に船を奪っていきました。
 不要な殺傷は厳罰に処すとのことでしたので、船の漕手らを生かしておいたのが失策でした」
「ご苦労だった。もういい」
ミケランは兵士を下がらせた。
その背に、ミケランの使役する隠密が近付いた。
「ミケラン様」
「うん」、そちらを見ることなくミケランは応えた。
「申し訳ございません。もう少し早く彼らの動向をお知らせすることが出来ましたら」
「いや。彼らが消えたと思ったら、この土地の名家に一晩世話になっていたというではないか。
 追跡は不審を招く、要所から入る情報のみで足取りを辿ろうとしていたこちらの手落ちだ」
「はは」
「狼煙の中継で急ぎ、レイズン領からこうして駈けつけてみたものの、
 星の騎士を含めた剛の者たちがそう容易く一網打尽に出来るとも思えず、
 期待はしていなかった」
「北方方面について、新たなる続報が」
「申してみよ」
「ユスキュダルの御方、クローバ・コスモス、ご両名とも、
 間違いなくコスモス領に入ったとのことです」 
「そして、彼らを迎え入れたコスモス領主タイラン・レイズンは、この兄に対して沈黙か。
 さてこそ、ここらで、そろそろ彼らを足止め出来たらと思い、急いだのだがな」
ミケランは口許に指先を当てた。
「さすがに名家の子息を道端で犬のように殺めるわけにはいかず、
 間違いがあってはならぬというので無理を禁じた。捕り物が叶わぬも道理だろう。
 まあ、彼らとの対面は愉しみに先に取っておいて、機会を待とうか」
「ご指示を」
「昨晩若者たちを屋敷に迎えてねんごろに世話した未亡人のことなら、捨て置け」
「は」
「たとえ彼らと何らかの縁があるかも知れぬ女人であったとしても、
 天下に知られたお尋ね者でない限り、行きずりに知り合った旅人を泊めたというだけで、
 若人たちに親切を尽くしたご婦人を罰するわけにはいかんよ」
「御意」
「碧眼銀髪」
「は?」
「亡霊を見損ねたことを、さて歓ぶべきか、惜しむべきか」
河の流れをミケランは見つめた。
澄んだ川面には空の他は何も映ってはいなかった。
水の上に太陽が揺れていた。
眼を細めてミケランはその眩しい、
暗い水床から浮かび上がってきたかのような鮮やかな放射を凝視した。
泥の奥に沈めたはずのものだった。
その男が膝をつき、倒れるのを確かに見た。
祈るように血溜まりの中に膝をつき、天窓の光を最期に仰ぐと、眼を閉じて、力尽きていった。
死に際まで、人の心の琴線を通りすがりに悪戯に弾いてゆくような、演技がかった男だった。
人の心に潜むどす黒い醜さを、精確に映し出して輝く白に変え、
軽やかな皮肉と共に愉しげに反射させてくるような男だった。
二度と眼の前に現れるな。
この手で引導を渡した。

「人生において、自分のしてきたことは全て、
 己の背中を全速力で追いかけてくるというのは、本当だな」

ミケランは自嘲した。
子供の頃から人知れず精励したことも、し損ねたことも、
すっかり済んだと思っていた頃に、結果の如何を問わずそのままの形で眼前に現れてくる。
悪は悪として、自分のしたことを知らしめる。
いっそ無神経な愚か者であったなら、それにも気がつかずに、
何一つ悪いことなどしなかった顔をして、全てを人のせいにして、
人のものを平然と奪い、恵まれたふりをして、ご満悦に生きれるものを。
さてこれは、何の判じ物なのかな、運命よ。
シュディリス・フラワンは、果たしてわたしに殊勝な懺悔をもたらすものか、それとも、
運命が何度同じ札を切ってきても、相も変らずこちらはそれを挑戦と受け止めて、
やはり以前と同じことを繰り返してみせるであろう、勝負かな。
ミケランは橋の上に吹く風に空っぽの掌を向けた。
ならば、わたしは勝負を選ぶ。
ゆっくりと風を握り締めた。
さもなくば、人間など、その自我を持って生きる意味もない。
ちょうどこの二十年、この手で惨殺し、葬り去ったあの若い男が、
それでも完全には消え失せることなく、まるであの男こそが真の勝利者だとでもいうように、
今なお輝かしい姿でつきまとい、引きずり落せぬ高みにいるように。
(ルビリア、逃げろ!)
多勢を相手に堂々と闘ってみせたあの男が、
どこか遠い高みへとその心を預けていたあの明るい男が、
不意打ちで襲ったこちらよりも死してなお、夢の中に誇らしく立ふさがり、
こちらを見下しているように。
それは闘う者にしか分らぬ、名もなき敗北であり、勝利であることを、
自ら運命に下るものには決して分らぬ勝敗の綾であることを、この世の誰が知るだろう。
わたしはそれに一歩でも近付き、それを知るために何度でも勝負を選ぶ。
この背を追いかけてくるものが己の為してきた過去ならば、それは見苦しい後悔などでは決してない。
この身を新たな闘いへと運ぶ追い風として、これからも、わたしはそれを歓迎してみせるだろう。
ミケラン・レイズンは橋のたもとで彼を待つ私兵を振り返った。
青と黒を基調とした鎧装束は、分家のものだった。
若さの向こう見ずそのままに飛び込んで来た若騎士たちから竜巻のような襲撃を受けたものの、
大部分は無傷のままで、ミケランの次なる命令を忠実に待っていた。
ミケランは兵を眺めた。
公平に見て、ジュシュベンダのイルタル・アルバレスや、
ハイロウリーンのフィブラン・ベンダのような、大軍を統率するに相応しい背景や器量は、
政務よりのレイズン家に生まれ、文官の道を選んだミケランにはいま一歩不足ではあったが、
それでも彼が高位騎士であることは、たとえ単身に帰する能力であったとしても、
最も分りやすい力の証として、従う兵たちにはじゅうぶんに轟くような効力を持っていた。
彼らはミケラン・レイズンを信じて待っていた。
レイズン本家の軟弱な一派は、ミケラン個人の地道な努力や功績を認めるどころか、
分家から出たミケランの功績を、本家の指導や恩恵の賜物であったことにせんとして、
虚実まじえた作り話を手柄顔で国の内外に吹聴していると聞く。
恩人面をすることでしか偽りの美酒に酔えぬ、廉恥心のない、得意げなる者どもよ。
風向き次第ですぐに言質を変えて退散する、性根の腐った下種どもよ。
昔からあの手の連中に高みから褒められることほど虫唾が走ることはなかった。
「命知らずの若騎士相手に、大儀であった」
「ミケラン・レイズン様」
「ミケラン様」
杖を手にミケランは采配を下した。ここにはそのような卑俗はない。
威厳をもって彼は命じた。
「橋より撤退。散開中の他部隊と合流する。前進」
日が差した。
河の流れの果てを振り仰いだ。
彼方のそこは渺茫たる、光の帯だった。
耳を過ぎる風の音も、地平も空もない、この世の芥から離れた、
死人だけが見ている、光の彼岸だった。




「続く]




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