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[ビスカリアの星]■三十八.



探していた騎士の背中をようやく庭のあずまやに見つけた。
そちらに近付こうとして、階段の手前で思いとどまり、寸でのところで後ずさりした。
かすかな気配。
しかし遅かった。
「ユースタビラか。どうした」
背中を向けたまま、騎士はユスタスの偽名を呼んで引き止めた。
あずまやの支柱の間には、夕方の空が見えていた。
雲を浮かべて群青色にくっきりと深く暮れていく、黄昏の冷たい空だった。
木々がざわめいた。
夜は晴天の星空になるだろう。
「背中に眼があるわけじゃない。他の者ならば遠慮なく用事優先で声をかける」
肩越しにこちらを見た彼の眼と、ユスタスの眼が合った。
若騎士エクテマスは悪びれずに柱の影からそう応えた。
その脇をすり抜けて、あずまやの階段を飛び降りるようにして駆け下り、
ユスタスの肩先にぶつかるようにして立ち去っていく女があった。
胸元でかき合わせた衣の隙間から女の白い胸が見えた。
「おい」、あずまやの柱に片腕をかけたエクテマスがそれを呼び止めた。
女に向けて、エクテマスは階段の上から銀貨を放り投げた。
地に転がり落ちたそれを、女が身を屈めて拾うのを、ユスタスは見ていた。
だらしなく口を開けた女だった。
近郊の貴人の家から毎夕、交替で駐屯している部隊の為に食事を作りに来ている女たちの一人だった。
醜女はユスタスにも下卑びた笑みをちらりと向けると、銀貨を握り締めて慌てて走り去った。
「………」
「何だ、ユースタビラ」
あずまやの屋根の下から出て、エクテマスは階段をゆっくりと降りてきた。
そしてユスタスの注視に気がついて、首筋を拭い、襟元を正した。
ユスタスは眼を逸らした。
隠しようも無い失望を覚えた。
帝国最強の精鋭にして、騎士の中の騎士と謳われるハイロウリーン騎士団の、
その誇りや威厳はどこにいった。
闇を祓い、氷原を照らしつける太陽に喩えられる、
その白と金の鎧装束に気高く象徴されてきた、峻厳と剛毅は。
他国からも古くから憧憬され、畏敬されて重んじられてきた精練の軍隊の、その規律の正しさは。
「恥を知れ」
面罵してやりたいところだったが、
不愉快をこめた一瞥を相手に向けるだけに抑えて、何とか堪えた。
ユスタスはハイロウリーンの人間ではなかったし、
エクテマスは親族でもなければ、同じ命令系統に属する人間でもなく、
他国の者が隠れて何をしようと、フラワン家の者がその不品行を咎める筋合いではない。
面白おかしく言触らすつもりもなければ、からかうつもりも毛頭ない。
ただ、ユスタスの中で、エクテマス・ベンダ・ハイロウリーンという男の価値が、
上がるよりはどうしようもなく下がるだけである。
「見た目には顕れぬそれこそを、何よりも重んじなさい」
父カシニの教えだった。
いましがたの女が見るからに下品で、軽薄そうな女であったことも、エクテマスへの
ユスタスの不快に拍車をかけていた。父は云った。
「信用を失うのは一瞬で足りる。それだけはどう繕おうとも、取り返しがつかぬ。
 巧く周囲を誤魔化したと思っていても、卑しい行いと、心の醜さは、
 いずれ必ず外に漏れていくものだ」
父上は正論だけどいかにも説教だ、とそれを聞いたユスタスとシュディリスは後で語ったものだった。
それでも同病相哀れむではないが、物陰に下女を引き込んだエクテマスに対して、
ユスタスは少しは同情の余地があった。
自分の愛する女が、毎晩のように、他の男に身体を開いて好きにさせている。
それを傍近くで見聞きしている男の心情ともなれば、うっかり肩を抱いて
慰めの言葉でも口にしてやりたくなるほど、胸に煮えるものもあるであろうことは、察しがついた。
その我慢と忍耐もぎりぎりではないだろうか。
眼についた女を相手に一時の衝動を求めても、
後に残るのは所詮は出口のない苦しみや哀しみであり、堂々巡りの虚しさである。
軽率ではあっても、彼の立場からは無理もない。
(僕なら耐えられないけどね)
むしろ、感心すら覚える。むしろ、お邪魔して悪かった。
名門の子弟として生まれながら、年上の女騎士に報われぬ思慕を秘めて仕えてきた彼の、
その積年の心痛と、このところの鬱屈を、心底労ってやりたいほどである。
袂を分かとうと思えば、いつでも独り立ちするか、
彼ほどの騎士ならば家名抜きでも他国に幾らでも厚遇で迎えられ、任官先を得られたであろうに、
あの女のことがそんなに好きなのだろうか。
ユスタスとて、ルビリア姫が巷で噂されているような男狂いの気違い女だとは思わない。
だが、さらなる下劣な誹謗中傷が浴びせかけられても致し方の無いような、
常軌を逸したところは確かにあった。
それはルビリアが女騎士だからでも、過酷な運命にその身を晒してきたからでもない。
近くにいると、ルビリアの虚ろな悲鳴が聞こえるのである。
遠い昔の惨劇がまるで昨日今日起こったことであるかのように、
彼女の過去は赤く裂けては凝固するを繰り返して、その身と心を今だに痛ましく蝕んでいる。
いつまでもまざまざと、新鮮な鮮血の雨を失うことなく、彼女の心は過去の雨に濡れたままでいる。
嵐の中に生まれた一念は音なき音を立てて、ルビリアの体内に轍となって駆け巡り、
そのくびきの下にルビリアは繋がれて、誰とも分かち合えぬ灰の曠野を静かに見つめている、
雪に埋もれた熾火だけを見つめている、そんな気がするのである。
大体、幾ら想いが強くとも、二十年も経っているのである。
死んだ男にここまでしがみ付いているのは、愛の深さというよりは、もはや純粋なる病であろう。
普通の人間ならば嘲笑を浴びせるか、気味の悪い女として、退く。
ユスタスも出来ることならば遠慮したい。
きりきりに張り詰めて、うっかりすると次の瞬間には、
ルビリアはばらばらに壊れて繊細に砕け散る、そんな気がして怖い。
それは同時に、姉リリティスに対しても時々、
ユスタスと兄のシュディリスが覚えてきた、どうしてやることも出来ぬ危惧でもあった。

(もしかしたら、その手の女の人と縁があるのは、僕たち兄弟の宿命なのかな)

そうであったとしても、嬉しくはない。
しかし境遇的には理解できる分だけ、このような駐屯地で素人の女を金で買った
エクテマスに対しても、ユスタスは批難ばかりを寄せられない気持ちであった。
ロゼッタを伴っていなくて良かった。
ユスタスは恋人のことを想った。
サザンカ騎士として男たちに混じって過ごしてきたロゼッタの方がまだしも、
今見たものを頭の中で即時に処断して、平然と忘れることに慣れているかも知れなかったが、
それでもロゼッタがここにいなくて良かった。
夕風が爽やかなのが救いだ。
ともかくも、見なかったことにするべきであろう。
「何だ。ユースタビラ」
ユスタスに訊ねるエクテマスは、物憂げな様子もなく、まるで何ごともなかったかのような顔つきだった。
こいつも頭がおかしいよな。
しかし、そんなエクテマスの次の言葉に、ユスタスは飛び上がった。
エクテマスはユスタスと目線を同じ高さにしたままで、かすかに笑ってその名を呼んだ。
「何かご用ですか。ユスタス・フラワン様」
「………やっぱり」
「当然」
「いつ分ったの」
「それとなく」
ゼロージャとソニーから聞いたのだろうか。
それに対する返答はなかった。
その代わり、エクテマスは後ろに少し下がった。
彼はここが宮廷であるかのように、宵空を背にして完璧な所作で頭を下げた。
そして恭しく、深い声で名乗った。わが名はエクテマス・ベンダ・ハイロウリーン。
「ハイロウリーン家の下から二番目に生を受けたる男子。
 わが父フィブラン・ベンダ・ハイロウリーンの命により、
 騎士ガーネット・ルビリア・タンジェリンの従騎士として、ルビリア姫にお仕えしたる者。
 偶然とはいえ、旧タンジェリン領の野において御身とめぐり合い、
 レイズン家の手よりフラワン家の方をこの手でお救い出来ましたことは、わが軍の誉れです」
ユスタス様がご身分をお隠しであるのは理由あることとお察しし、
あえてユスタス様とはお呼びいたしませんでした。
そしてエクテマスは膝をついた。
「ユスタス・フラワン様。
 竜のあぎとより身をもって皇祖を守りし皇妃オフィリア・フラワンの血に繋がる、貴き御方よ。
 今までの数々のご無礼、お許しあれ」
強い眼でユスタスを仰ぐエクテマスは、本気で礼を尽くしていた。
冷や汗が出た。
誰か見ている者はいないかと周囲を見廻し、ユスタスは慌ててそれを止めさせた。
「このこと、ルビリアも知っているの」 
「おそらくは、承知かと」
「出来たら、時が来るまで内密にして欲しい」
「御意」
「立って下さい。エクテマス・ベンダ。
 確かにフラワン家はジュピタ皇家に継ぐ家柄ですが、
 正式な場以外における過剰な礼節や、礼賛を、わたしたちは好みません。
 フラワン家は帝国皇帝に尊敬を捧げ、トレスピアノの領民に対しては、誠実をはかってきました。
 向けられる敬意は、その行い相応しきものでありたいと望んでいます。
 ルビリア姫の部隊とゆくりなくもここで巡りあったのは、ユースタビラという者であるように。
 今後も今までどおり、公式非公式を問わず、僕をあなた方の食客扱いのままにしておいて」
「お望みとあらば、そのように」
「お父上フィブラン・ベンダ殿に、この件、報告を?」
「一切いたしておりません。まずはユスタス様のご意思を尊重するのが先決かと」
「貴方を信じてもいいかな、エクテマス」
「ユースタビラが、わたしを」
口調が戻った。
身を起こし、膝についた土を払うと、余裕をもってエクテマスは応えた。
信じる信じないは、わたしという人物を測った上でそちらが決めること。
夜風がざわめいた。
「ユースタビラ、そう呼ばせてもらう。
 君がわたしを信じるというのならば、それで片方の信任は成り立つ。
 だが君がわたしを信じるのは君の自由であっても、こちらにはその責任を負う義務はない。
 君の信頼に応えるか否かは、君の今後の出方次第により、
 わたしの裁量一つに任されていることではないかと」
ただしご期待に添うべくハイロウリーンの人間として善処はいたします、と
慇懃にエクテマスは付け加えた。
(言質を取られぬ範疇で、よどみなく返答してみせる、この云い抜けよう)
ユスタスは内心でエクテマス・ベンダ・ハイロウリーンの評価を新たにした。
頭の切れる奴。
横を向いて口笛でも吹いてやりたいくらいだ。
そしてふと思い当たった。
十年前にエクテマスは少年騎士団から抜擢されて、ルビリアの従騎士となり、
そのまま現在にいたっていると聞いた。
それは偶然ではない。
平騎士の身分に甘んじながら、エクテマスがルビリアの傍近くで仕えているのは、
エクテマスが騎士として無能だからでもなければ、ルビリアを愛しているからでもない。
ハイロウリーン家当主は亡命してきたタンジェリンの姫君に、
子息のうちの有能な一人を、従騎士として差し出すことで、ルビリアに監視をつけたのだ。

(ハイロウリーン家の末弟は、少年の頃より女騎士からあらゆる手ほどきを受けて、骨抜きにされたそうだ)
(毎晩、女の身体を舐めては悦びの声を上げさせ、女騎士に雄の奉仕をして仕えている)
(唾棄すべき恥知らず。あのような痴れ者、小姓ではあっても騎士とは呼べぬ)

ユスタスはエクテマスを眺めた。
夕闇が降りて、その表情までは窺えなかった。
ルビリアへの悪評はそのまま、ルビリアに仕える従騎士エクテマスの上にも降り注いでいたが、
いわれのない中傷を受けても彼がこうして平然として構えていられるのは、
それはルビリアへの強い忠誠や愛ばかりでは断じてなかった。
エクテマス・ベンダは、讒言にいそしむ他の者の追随を許さぬだけの己の技量と才覚に、
若くして絶対の自負と自信を持っていた。そして、ルビリアを守り庇う男の愛と、義侠心とはまた別に、
ハイロウリーンの家名を持つ者の高貴なる義務と誇りが、彼をして実家の意向に従わせ、
いわくつきの女騎士に番犬として張り付くことを、自らの意志で、そのように選ばせているのであった。
裏切り者。
ユスタスの脳裏に浮かんだのは、この一言であった。
ここにいるのは、少年の頃から愛する女に誠実に仕え、その信頼を一身に受けながらも、
その裏で国許と通じ、常に女の動静を報告し、静かに見つめ続けてきた、ルビリアの監視者だった。
女を熱愛しながらも、その女の乱脈や堕落には干渉せず、冷徹な理性で黙認し、放任してきた、
熱情と諦念の二つの顔を持った獄吏であり、観察者だった。
鉄の意志でそれを果たしてきた、日陰の騎士だった。
「休憩中なのに邪魔して悪かったよ。じゃあ」
決まり悪くユスタスは言い訳をして離れようとした。
後ろから肩を掴まれた。
低い声がユスタスを先には行かせなかった。
「どうした、ユースタビラ。用があってわたしを探していたのだろう」
「たいした用件じゃないから。明日でいいよ」
エクテマスの影を後ろに感じた。
平騎士の不名誉と、報われぬ愛に甘んじてきた青年騎士は、ユスタスの首に腕を回した。
エクテマスは意志の強そうな、怖い声をしている。
こんな際だが、ユスタスは場違いのことを思った。
彼が今、後ろから僕の首をかき切ろうとするならば、僕はおとなしく、そうされてしまう。
愛する女の為なら彼は何でもする。故国ハイロウリーンの為なら、彼は何でもする。
その男が真後ろにいた。
落馬した時にユスタスが負った肩の怪我の上に、エクテマスは親しげに手を載せた。
友人のように馴れ馴れしい仕草でユスタスの首に腕を回したまま、エクテマスは背後から囁いた。
腹の底まで落ちていく鉄の声だった。
君こそ最近、随分とサザンカの女の子を気に入っているようで何よりだ。
お互いに秘密といこうか、ユースタビラ。
それとも、ユスタス・フラワン様。
首筋に手がかかった。
わたしも君の真名を、明かさない。
貴方も、先刻ここで見たことについては、誰にも云わないように願います。
「君のかわいい恋人にも。そして、ルビリアにも」
「………」
「理由か」
エクテマスは低く笑った。若さに似合わぬ、疲れたような笑みだった。
「男同士の暗黙の了解、そのあたりで納得しなければ、
 他の騎士にしめしがつかぬからとでも、何とでも、ご自由にご想像してくれればいい」
眼の端に鋭く白いものがあった。昇りはじめた月だった。
ユスタス様は、星の騎士。
そのお生まれに相応しき、真の真なる騎士の心をお具えになっておられる稀有な方であることは、
はじめより、それと知れておりました。
君の側にいると、清冽な、星の炎が見えるようだ。
こちらの気分が悪くなるくらいの、志操の気高さとその才能の閃きの、濁りのなさが、見えるようだ。
思いがけぬ偶然により御身をわが軍の中にお迎えしておりますが、
ユスタス様は世俗の汚れごとには本来無縁の、貴き御方。
我々から離れるというのなら、いつでもそう仰って下さい。
供をつけて、トレスピアノにでも何処にでも丁重に、ご無事にお送りいたしましょう。
ユスタスは無言だった。
それを見て、エクテマスは白い月のような白々さで少し笑った。
そしてユスタスを解放すると、「もう行け」とばかりに、ユスタスの背中を押した。
(家に帰りたい)
初めて、そう思った。トレスピアノに帰りたい。もう嫌だ、何だこれ。
ルビリアといい、エクテマスといい、ブラカン・オニキス皇子といい、
海千山千のしたたかもの揃いで、トレスピアノから一歩外に出てみれば、
世界はまるで片端から互いを食み合い、蹴落としあう、嘲笑と謀計と陰湿の、汚らしい毒蛇の巣だ。



「それで、結局云い出せなかった。ごめん」
「それは構いませんが……」
賢そうな眼をして、ロゼッタ・デル・イオウはユスタスが語り終えるのを待っていた。
そして暗いですね、と呟くと新しい燭台に火をつけて戻って来た。
少し薄暗いほうがいいのにな、とユスタスは残念に思った。
「全部、私に話してしまっていいのですか」
「いいよ?何で」
長椅子にユスタスは横になり、招くまま隣に座ったロゼッタの膝の上に頭を乗せた。
頬の下でロゼッタの膝がぎこちなくこわばるのが分った。ユスタスは眼を閉じた。
ロゼッタは少し躊躇していたが、恐る恐る、ユスタスの髪をそっと撫でた。
気持ちが良かった。
しかしロゼッタはすぐにその手を止めて、ユスタスから身を離して立ち上がった。
「私はサザンカの人間で、エクテマス殿はハイロウリーン家の方。
 これではまるでユスタス様は、サザンカの内通者です」
「特に知られて困るような話でもないと思うけど」
「呆れた」
「何でさ」
ロゼッタはユスタスを見つめた。
いきなりロゼッタが椅子から立ち上がったので、頭を打ったユスタスは気分を損ねていたが、
しぶしぶ長椅子に起き直って、ロゼッタに向き合った。
「本当にお気づきではないのですか」
「だから何を」
「ユスタス様は、夕方あずまやでエクテマス殿が台所女と逢引をしていた、
 けしからぬのはあっちじゃないかと怒っておられるようですが、
 その女、レイズンの間諜です」
「ええっ」
「容貌からも間違いありません。サザンカ側で裏をとっています」
「え。じゃあ」
「もっともレイズンに通じているといっても、この廃屋敷の厨房に出入りするようになってから
 レイズンの隠密部隊に報酬で釣られた、使い捨ての情報屋といったところでしょうか。
 素姓はただの土地の田舎女です。
 見るからに頭が悪くて好色そうな、
 そのくせ若い騎士と見れば色目を遣う自信過剰な様子の年増でしたから、
 おそらく、エクテマス殿は隙だらけのその女に親しく近付くふりをして、
 女を逆に買収し、女を雇ったレイズン側の情報を得られるように持ちかけていたのでしょう。
 男と女、それに伴う懇意な余禄もあったかも知れませんが、
 ユスタス様が思われているような、そんな即物的な理由ではないと思います」
「即物的」
「つまり、エクテマス殿は女を買われていたのではなく、女の誘惑に乗ったふりをしながら、
 腕の中で穏便にあの女の知っていることを吐かせようとしていただけです。
 エクテマス殿はお優しい。あのような素人女、軽く脅しつければすぐに変節するものを、
 男が女にやるいちばん優しくて、確実な方法で、あの女を落とそうとされていたのだ。悔しい」
「くやしい……」
「ハイロウリーンに先を越されました。レイズンと接触した者なら、あの女、こちらに頂きたかった」
本当に悔しいのだろう、サザンカ騎士ロゼッタは両手を握り締めていた。
今日は、ユスタスの中でエクテマス・ベンダの評価が上がったり下がったり、
思っていたよりもずっと悪い奴だと呆れ果てたりする一日であった。
眩暈がした。
では、あずまやで見たあれは、ユスタスが誤解したような売春ではなく、
エクテマスと台所女、どちらが誘ったのかは知らないが、青年騎士の並べる口説に
のぼせ上った尻軽女相手に、レイズンが提示した報酬以上の高額をちらつかせながら、
にわか間諜を寝返らせようと試みていたエクテマスの手練手管だった、そういうことになる。
最後に投げ与えた銀貨はさしずめ口止め料と、次回の約束であろう。

「ユスタス様?どうされました」
「何でも。喉が渇いた」

駄々っ子のようにユスタスは訴えた。
さっと立ち上がったロゼッタはすぐに水差しから器に水を注いで戻って来た。
「どうぞ」
膝をついて水を差し出すその機敏さは主に仕える者のそれであり、
ユスタスが欲しいのは、そんなロゼッタではなかった。
夜のせいか、ロゼッタの頬はひどく冷たかった。
接吻こそ素直に受けてくれるようにはなったものの、その先はまったく許してくれない。
(まさか、ずっとこのままなんてことはないだろうな。はは、そんな莫迦な)
ユスタスが睨むようにしてこちらを見つめているので、ロゼッタは退いた。
水の器を卓に置くと、ユスタスは立ち上がり、ロゼッタの腕を掴んだ。
二三歩後ろに下がったところで、ロゼッタはそのままユスタスの影に入ってしまった。
ねえ、と少女の黒髪を指先で遊んで、ユスタスは優しい声を出した。
「ねえ、君はしないの」
「……何をですか」、壁にぴったりと背をつけてロゼッタは訊いた。
ユスタスはロゼッタの小さな耳朶に唇を添えて囁いた。
「随分な言い草だったよ。見るからに頭が悪くて好色そうな、
 若い騎士と見れば色目を遣う自信過剰の、年増」
「あれは。そういう女だと便宜上ご説明申し上げただけで、他意はありません」
「やって見せて」
「何を」
「それがどんな女なのか、僕に分るようにさ」
「お戯れを!」
「男が女にするいちばん優しくて確実な何とやら」
「お相手できません」
「そんなことないよ。手始めにまずは『ユスタス様』なんて、畏まるのはいい加減に止めて欲しいな」
「呼び捨てになど出来るはずもない」
「ところが僕は好きな子から呼び捨てにされるのが堪らなく好きなんだよね、これが」 
「乱暴はお止め下さい」
「乱暴なんかしてない」
「そんな大声を出されては、外に聞こえます!」
「大きな声を出しているのはそっちだよ」
細腰に這わせた手を、ロゼッタは両手で押さえて止めた。膝と膝がぶつかった。
「ユスタス様、お許しを」
「力を抜いて、ロゼッタ。僕のことが嫌いなの」
「何をなさるおつもりですか」
「そんなこと口に出して云えるもんか」
事細かに説明してあげてもいいけど、ひっくり返るよ、この人。
直後に起きた激しい揉み合いの勝負は、一瞬でついた。 
ユスタスはロゼッタの手首を掴み壁に押しつけ、その動きを抑え込んでいた。
「姉さんに負かされて以来、相手が女の子でも油断しないことにしているんだ」
「これではまるで、下民のようなお振舞い。見損ないました、ユスタス様」
部屋の空気が流れて、蝋燭の火影が天井に踊った。
やがて抵抗に力尽きたロゼッタは、ユスタスの肩に凭れてきた。
抱きとめようとすると、黒髪で顔を隠したロゼッタの辛そうなくぐもり声が聞こえた。
こうしてお部屋にお邪魔してお話をうかがっているだけでも何やら
怖ろしい気がしてならないのに、ユスタス様は、この私を、台所女同様に扱われる。
これには、ユスタスの方がたじろいだ。
そんなつもりはない。
「では、どういうおつもりですか。そんなつもりではないと仰るのならば、この手を放して下さい」
息をはずませて仔鹿のように部屋を飛び出して行く寸前、ロゼッタはこちらを振り返り、
「ばか」と、ユスタスをなじった。
当然ながら、目覚めは悪かった。
晴れた空は朝の光に白かった。
ユスタスは井戸端に出て行き、水を自分でくみ上げ、顔を洗った。
ついでに桶を持ち上げて頭から盛大に水を浴びた。
土砂降りのように、足許に水滴がしたたり落ちた。耳障りな音だった。
昨日、ユスタスがエクテマスを探していた理由は、
略装でよいのでハイロウリーンの制服を一式用意してもらえないかと思ってのことだった。
駐屯地に居座っているユスタスに対して、「あれは何者なのだ」との不審と疑念の声が
ぽつぽつとサザンカ側から上がっていると、ロゼッタから聞いた。
彼らから見たユスタスは、ハイロウリーンに寄宿している身許不明の謎の者、
といったところであろうか。
そのユスタスと、サザンカ騎士であるロゼッタが接触しているところを人に見られては、
今後あらぬ噂が立たぬとも限らない。
実際にレイズン側の間者が紛れ込んでいる下地があるだけに、このままではサザンカの間で
ハイロウリーンへの疑いが育つことにもなるだろう。
それはロゼッタの為にもならない。ユスタスはそれを避けたかったのである。
ロゼッタはユスタスに対しても愚痴や悩みを一切吐かない娘だったが、
それだけに、時々疲れた、蒼い顔をしていることがあった。
夜の視回りなら僕が交替してやるから部屋に帰って休みなよ、とユスタスが勧めても、
ロゼッタは厳格な顔のまま、「いいえ」と首を振り、聞き入れなかった。
何が、「いいえ」。
ずぶ濡れのまま、ついでにユスタスは乱暴な手つきで洗濯も始めた。
不馴れな地で男に混じって気が張り詰めているくせに、何が「いいえ」。
洗濯といっても衣服を洗って手近な木の枝に広げて掛けておくだけのことであるが、
そこへエクテマスが通りかかったので、丁度いいとばかりにユスタスは呼び止めた。

「騎士団の制服を?」

昨日のことなど何もなかったかのように、とは、この男の為にある言葉である。
朝早いというのに、その身嗜みは厭味なくらい隙もなく、
ユスタスに向き合ったエクテマスはすっかり常態であった。
半裸のユスタスを眺めて、エクテマスはしばらく考えていた。
「駄目ならいいよ」
「いや。対サザンカにおける、君の半端な立場に気がつかなかったこちらも悪かった。用意させる」
わたしと同じ平騎士の拵えになるが、気にしないか、と訊かれた。ユスタスは頷いた。
エクテマスはずぶ濡れのユスタスを見つめ、「風邪をひくぞ」、と至極まっとうなことを云った。
「そんなにやわじゃないよ」
「君の為に心配しているのではない」
フラワン家の子息が風邪でもこじらせて死んでみろ、
ハイロウリーンがその責任を問われるではないか、エクテマスの顔はそう云っていた。
まだ濡れている前髪をかき上げて、ユスタスは、早速に届けられた騎士団服に袖を通した。
純白と金を基調とした揃えは、何やら見た目にも神聖で、触れるのが惜しく思われるほどだった。
鏡の中に立っているのは、どう見ても新米騎士だ。
着慣れてくれば自然とこの立派な騎士団服にそぐわしくなってくるのであろうか。
この白いマントを翼のようにひるがえして彼らが野を疾駆する時、
それは空から降り来たった軍勢と見えた。
太陽を浴びて、峻厳に、輝いた。
「実戦の時には中に鎧帷子を着、防具をつける」
エクテマスがユスタスの着替えを手伝って、細部を整えてくれた。
「姿勢がいい。よく似合う。ハイロウリーン騎士団は君を歓迎する」
適当な世辞を下した後で、
「君の兄君なら、もっと似合うだろうな」
言い捨てて、エクテマスは部屋から出て行った。
確かに、シリス兄さんならばこの白金の制服もよく映えるだろうと、ユスタスは襟元をつまんだ。
こんなことにまでなってしまって。これからどうなるんだろう。
他国の騎士団の衣裳をまとうことについては仮の姿と割り切ってユスタスには抵抗がなかったが、
父やシュディリスならば、フラワン家の者にそんな真似は出来ぬと断固拒むかも知れない。
そう思うと、この仮装についても多少は忸怩たるものを覚える。
兄さんだけでなく、リリティス姉さんにも、この制服は似合いそうだ。
何となくそう思った。
トレスピアノに居た頃は、誇り高く、優しく、美しいわが姉こそ女騎士の中の女騎士であると
誇らしく思っていたが、今にして思えば、リリティスのあれは透明な硝子のお人形といった風で、
純度は極めて高くとも、どうも実戦にはまるで不向きの、
一輪の花であったかも知れない、とそんな酷いことまで考えた。
清く正しく美しく。それは温室の中でしか息の出来ない、鑑賞用の花である。
自らを汚泥の中に沈めて、尚且つ、強く耐え抜いて生きてこそ、もしかしたら騎士は騎士としての
無冠の栄誉を手にするものなのかも知れない。
誰にも認められなくとも、その意志ひとつで、闘っていくのかも知れない。
(君の側にいると、清冽な、星の炎が見えるようだ)
それは、僕が君たちに対して想うことだよ、エクテマス。
ユスタスは吐息をついた。
世の中には人に侮辱を浴びせて笑うことで、あらゆる利益や名誉を得ていく人間もいるけれど、
慢心で人を踏み潰して勝ち誇る、そのような汚い金と汚い言葉と汚い笑顔に、君たちは背を向けた。
下劣な輩と袂を分かち、君たちは君たちの道を選んで、そうして誇り高く顔を上げている。
その命をゆっくりと燃焼させて、人知れず燃え尽きていこうとしている。
僕には到底敵わないよ。
髪をかき上げた。
ハイロウリーンの騎士団服に袖を通したということは、今後も、彼らと行動を共にするということだ。
行軍の途上で拾い上げた思いがけぬ掘り出し物の騎士、
そのようにサザンカ側には説明をしておく、とエクテマスは云っていた。

「ルビリアは高位騎士。略式にしろ、騎士叙任式を執り行う資格を持つ。
 国境の野で君の闘いぶりを実際に見たこちら側からは、
 君を迎えるにあたって何の不満もあろうはずもない。
 立会人にはハイロウリーン家の人間であるわたしがなろう。不服があるなら今、云え」

不服はない。嬉しくもないけれど。
ユスタスは腰に、母から譲り受けたオーガススィの剣をさした。
フラワン家に生まれた自分がオーガススィの剣を持って、タンジェリンの姫君の指揮下、
ハイロウリーンの軍にいるのである。
このままどこかの軍と激突したとしても、自分の心に従っていくだけではあるが、
ややこしいことになったものである。
単身であてもなく姉リリティスを探して帝国を流離うよりは、
情報網を持った組織の中に身をおくほうがいいと判断した上でのことだったが、
ユスタスには兄シュディリスの母であるルビリア姫を、義務とも心配とも好奇心ともまた違う気持ちで、
このまま傍で見守りたい気持ちもあった。
あの人がオニキス皇子の前にその身を投げ出し、
道具のように好きにされているのを見るのは、やはり辛い。
事態がこじれてもいざとなれば、フラワン家の権威をもって、何かを何とか出来るかも知れない。
鏡を見た。
兄と弟、フラワン家の兄弟は、いつも似ていると云われた。
血は繋がっていなくとも、そこにあるのは、同じ風土と同じ父母の許で培われた、
同じ精神の鋳型を持つ者だった。
(ユスタス。お前のような弟がいて良かった。
 お前ほど気の合う弟はどこを探してもいないだろうから)
「シュディリス兄さんなら、どうするだろう」
いつもの口癖であったが、今回ばかりは、それは力なく口の中で消えた。
ユスタスは冷たい鏡に頭を寄せた。剣の先が鏡にあたって、澄んだ軽い音を立てた。
兄さんがミケラン卿の手から巫女を奪って逃げたなら、そのミケラン卿を追い詰めんとする
連合軍にいたほうが、兄さんに近くなる。
巫女を奪おうとするミケラン卿と兄さんが闘うならば、敵を同じくする側にいたほうが、
シリス兄さんの為になる。
父さんと母さんの許へ、兄さんと姉さんを連れて帰ってあげたい。
それは建前で、目下のところユスタスの関心はひたすらにロゼッタの上にあることを、
その為にここにいるのであることを、彼は自分でも認めないわけにはいかなかった。
慌しい物音が聞こえて来た。
大勢の者が廊下をせわしなく行きかい、機敏な声が飛んでいる。
何かあったのかと部屋から顔を出したユスタスの襟首を顔見知りの若い騎士が引っ張って促した。
「すぐに支度しろ!」
「何があった」
「出立だ。落伍者は見棄てる、急げ」
「騎乗----!騎乗-----!」
伝令と号令が飛び交う中、表に出たユスタスは慌てて与えられた馬に乗った。
左翼にハイロウリーン、右翼にサザンカが整列し、揃った小隊から、
彼らはすぐさま廃園を後にして動き出した。
その機動力、神速と呼ばれるハイロウリーンが、全てにおいて先頭をきり早かった。
瞬く間に列を整え終わると、点呼を待つこともなく彼らは前進を開始した。
後続のサザンカをユスタスは振り返った。
意外というべきか当然というべきか、なかなかに立派な態度で馬を進ませている
ブラカン・オニキス・カルタラグン皇子の風采のいい姿が小部隊の合間にちらりと見えた。
ロゼッタ・デル・イオウは末尾にいるのか、そこからは見えなかった。
ハイロウリーン軍にサザンカを組み込んだ形で、部隊は進んだ。
広野でルビリアの腕が真横に伸びた。
白い騎士団服を輝かしくまとった女騎士は横列を整えて静止した騎馬隊の前に向き直った。
遠く、山脈の蒼い峰々が、連なる波頭のように地平にあった。
世界を呑んで押し寄せてくる静かな津波のようだった。
風の中、ルビリアの声が放たれた。
「我ら、フィブラン・ベンダ様の急報により、
 野に孤立されたるユスキュダルの巫女カリア・リラ・エスピトラル様を、
 これよりお救いに向かう」
ユスタスの後ろにはゼロージャとソニーが並び、ルビリアの背後にはエクテマスが控えていた。
エクテマス・ベンダはルビリアだけを見つめ、ルビリアの声だけを聞いていた。
高位騎士ルビリアの声は張りつめた強さと気高さをもって、彼らの上に響き渡った。
「ユスキュダルの巫女こそは我ら騎士の心であり、仰ぐべき絶対である。
 何人であれそれを穢すものを、我らは許さぬ。
 古代皇祖と共に悪竜を倒した旗幟の許、ハイロウリーンよ、サザンカよ、
 騎士の中の騎士と謳われる貴兄らに告ぐ、騎士の心を守れ。
 巫女をお救いもうし上げることは終生の栄誉である。
 高き誇りをもって任務を遂行されたし」
その声、その命令は風の鞭のようだった。
ルビリアは剣に唇をつけ、それを全軍の前に掲げた。剣の光は空に飛んだ。
行軍の指揮は高位騎士であるわたしが行う。勇敢なる者、わたしに続け。
「これよりコスモスへと進軍する」。




「続く]




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