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[ビスカリアの星]■三十九.


岩壁の上に、城址だけが、残っていた。
焼け跡から芽を出した、まだ若い低木だけが、そこに流れた二十年の歳月と、
焔に包まれた痕跡を今に伝えていた。
生茂るままに放置された花木、刈り取る者もいないままにはびこる蔦。
誰もいなかった。
かつてそこに暮らした人々も、丘を駆け上がって攻め入ってきた軍隊も。
崩れ落ちた梁。
焦げ跡の残る石垣。
廃墟を吹き抜けるさびしい風は雨水のたまった水盤にゆるやかな風紋を刻み、小鳥の影と、
壁に残る硝子の破片が時折亡霊のような光を空に向けて反射するほかは、静寂だけが涼しく、
其処に垂れ込めていた。
崖の上の城址からは河と森と、雲を浮かべて広がる大空が一望できた。
残された胸壁の狭間を辿って反対側へと移れば、
打ち捨てられた石壁が点在する他は徹底的に何もない、城壁に囲まれた、小さな町の跡であった。
河は滔々と流れて、空を映して色濃く青かった。
炎のような風が吹いた。
眼下のこの流れに、かつて、王子と王女らは舟で逃れた。
領民の家に預けられていた下の姫を連れて、彼らは燃える城を後にして、下流の森へと逃げていった。
森の中も無事ではなかった。
もはやこれまでと知ると、年長の兄と姉は虜囚の辱めを受けるよりは死を選び、
幼い下の姫を殺めた後で、自害して森に果てた。
この森の何処かで王族のきょうだいの遺骸はゆっくりと土に還り、時の下、静かに眠る。
そしてそれを見届ける同族も、埋められたその場所を正確に知る者も、この世には既にない。
カルタラグンと隣接していたエスピトラルが滅びた日、それは遠い日の、昔話だった。
たとえ、死んだと思った末の妹姫が息をとりとめ、また別の生命を、別の使命をもって
この天地に生きていたとしても、それはもはやこの地に残る死者の怨念や遺恨とも、
遺された列柱の隙間に漂う想い出とも、縁の切れた、ゆかりのないことであった。
城址を訪れた彼らは無言であった。
二十年前のその夜、守備隊として駐屯していたカルタラグンが自領に撤退した後も、
エスピトラルの騎士たちはレイズン軍の侵攻を防ぎ、最後までここに残って闘って死んだと風は歌う。
そのエスピトラルの騎士たちに捧げる弔意ももはや意味を持たず、
王と王妃の墓も残らず、飛び散った血は薔薇と変わり、すべては焔に消えて、
カルタラグンと運命を共にした寂寥の小国だった。
金属の音がした。
琴の弦の音に似ていた。
石の間に散らばる錆びた鉄片を、誰かが踏んだのだった。
小さな白い花が石畳の間から咲いていた。
どこの国もある花、少女たちが花冠を編んで遊ぶ花だった。
そこにあるのは、風と、美しい空ばかりだった。
時の空洞に置き去られ、忘れ去られていくばかりの、奥津城だった。
彼らは無言のまま、そこを離れた。
誰も一度も振り返らなかった。


君たちと付き合っていたら陰気になっちまう、と、まるで元来は陽気だとでも云いたいのか、
そのようにパトロベリがシュディリスに絡み、いつものごとく無視されたのは、
船に戻ってからのことだった。
船付き場でレイズンを蹴散らして後家ルシアが手配してくれた船に乗った後、
有利な河路をいいことに、彼らは旧エスピトラル領へと寄り道をしたのだった。
エスピトラルこそは当代ユスキュダルの巫女カリアの、故里であった。
ジュシュベンダ出奔後、北上したと信じるクローバとカリアが通りすがりに
そこに立ち寄ったような気がシュディリスにはしていたのだが、
国の滅びた廃墟を歩くうち、その痕跡を探す気力すら圧倒的な荒涼と虚無の中に失われてしまい、
後にはそこに吹いていた風の淋しさと、人の失せた茫漠とした冷たさだけが胸に残った。
船の中でも、彼らは無言で、船縁から河の流れを見つめて押し黙っていた。
適当なところで船を下りた。
船頭の老人と漕手たちには充分な心づけをしようと三人で金を用意したが、
既にルシア様から頂くものはもらっておりますと、頑固者の船頭は頑なに受け取ろうとはしなかった。
「僕もいろんな人間に逢ってきたが、信用できる人間は、いつもごく一握りだった」
パトロベリは金貨をしまいこみながら、帆を揚げて流れ去る船を見送って唸った。
信用できる人間ほど慾を持たず、自立した誇りをもっているものだ。
恩に着せてくる人間ほど、どういうわけか最初から僕の中では評価のごく低いつまらぬ奴で、
そのくせ口だけは巧く、人を平気で足蹴にし、人の成果の上に胡坐をかこうとする。
彼らの低級な教えを鵜呑みにしたこともなければ、感化を受けたことも一度たりとしてないのに、
その手の連中ほど口うるさく、ご親切な面をして、人の努力や才能を自分のもののように語り、
何かと云えばその愚かな面で得意げに出しゃばってきたものだった。
指一本動かすことなく、彼らはただ嘘をつきさえすればいい。
「わたしは彼の恩人なのだ」。
こちらが毅然とした態度に出れば、顔に泥を塗られたと騒ぎ立て、
いつも僕の、僕自身の意向を完全に無視しているくせに、彼のためを思ってあれほどしてやったのにと
勝手なことを世間に向かってわめきたてては、人の同情を引くことに余念がない。
彼らはみんな強慾で、心の汚い人間だった。
どれほど親切にされても、その手の連中の言動には、こうしておけば後でこいつたちは
自分に感謝するに違いない、そんな彼らの薄汚い慾深さだけが透けていた。
おせっかいとやらの正体は、一から十まで人の努力を奪い取り、その人を支配して、
自分が手柄顔をしたい為なのさ。さもなくば、無関係な人間にまで要らぬことを吹き込んで回るものか。
右も左も巧く騙したと信じきり、卑しい手段で自分たちが得をすることしか考えていないあの連中は、
まさに虎の威を借ることに慣れきった狐というべきものだった。
自分だけは安全であることをいいことに、あの媚びた汚い笑顔で、言い訳と被害者面だけは巧いのさ。
一気にそこまで吐き出して、パトロベリはほっと息をついた。
それに比べて、あの船の寡黙なおやじの何という見事だったことだろう。
人間の品格にはここまで違いがあるのかと、胸がすうっとするようだ。
あれこそ、河の流れにそぎ落とされた強靭な精神だ。
船もいいな。
僕も船乗りになって世界の海を巡ろうか。
そこには自由な空と海があり、潮風が、この心をもう一度磨いてくれる。
高次のものに対して謙虚に、正直でいたいと願う心を、支えてくれることだろう。
「何やら何かに、またしてもしつこく耽溺されておられるところを申し訳ありませんが、
 ご覧のように船はもう行ってしまいました。そろそろ現実に立ち戻られて下さい」
実務家のグラナンが仏頂面でパトロベリをせかした。
馬の手綱をパトロベリに渡しながら前へと注意を促し、
「シュディリス様においていかれますよ」
「あの男は、冷たい」
「それは貴方が彼に依存しているからです」
彼らが上陸に選んだのは、周囲に砦や民家のない、中型の河舟が泊まるのがやっとの、
寂れた舟着き場であった。
桟橋とも呼べぬ桟橋から馬を引いて堤を上がると、みしみしと古ぼけた板張りが軋んだ。
シュディリスは馬鞍の上から身を傾けて、近くにいた漁り男に近寄って声をかけた。
あまりにも場違いな貴人の登場に、襤褸を着た漁夫は眼を丸くして立ち上がった。
川魚がその魚篭の中で跳ねていた。
それまで草叢で昼寝をしていた漁り男の眼には、突如として、
貴公子たちが河の流れの中から揃って岸辺に現れたように見えた。
「この辺りを治めているのはどなたですか」
シュディリスは下民にも分かるような簡素な帝国共通語で丁寧に訊ねた。
通じぬとみて、別の言語に変えてみた。漁夫はぽかんと口を開けているだけだった。
「彼らには土地の言葉しか分かりませんよ」
グラナンがシュディリスに代わった。
聞き慣れぬ者の耳にはかなり奇怪に聞こえる独特のヴィスタチヤ古語方言であったが、
ジュシュベンダの間諜候補であったグラナンはそれすらも巧みに舌にのせて、
漁り男から必要最小限なことを聞き出して戻ってきた。
味のないものでも口に含んだかのようなグラナンの顔をみて、シュディリスとパトロベリは結果を悟り、
急ぎ、レイズンから派遣された地方官の管轄下にあるこの地から離れることにした。
「お待ち下さい」
その行く手を停める者がある。
河から離れて街道へと乗り入れた三人を待っていたのは、
黒と青に銀の意匠をあしらった旗を立てた、レイズン家の一隊であった。
岩崖の陰からレイズン旗を前面におしたてて、武装した兵がぞろりと現れた。

「お待ち下さい。ミケラン卿に追われておられる方々とお見受けいたしますが、いかに」
「いかにも」

グラナンが制止する前に、パトロベリが正直に応えてしまった。
彼らは馬から降りなかった。
あれだけの騒ぎを起こしたのである、急使も各地に飛んだであろうし、
行く手に待ち伏せがあることは予測のうちであったから、三人は黙って剣柄に手をかけた。
「あなた方は」
シュディリスは問い訊ねた。横に広がって街道を封鎖している数三十ほどの
武装兵を馬上から眺め渡しながら、
「できればこのままわたしたちの通過をお許しありたい。こちらの身許は明かしませんが、
 その方が互いのためかと。この地に一切の迷惑はかけないことを約束します」
返答を待たず、剣を横に流し、強行突破も辞さぬ構えを見せた。
お待ち下さい、とその前に武器を持たぬ貴人が進み出て来た。
突き出た腹を品のいい装いで包んだ、恰幅のいい男であった。
「エチパセ・バヴェ・レイズンと申します」
「レイズン本家の人間だな」、即座に後ろでパトロベリが鼻を鳴らした。
漁夫から訊き出した、この一帯を管理するレイズン家の者である。
エチパセ・パヴェ・レイズンと名乗る彼は、おもむろに意外な行動に出た。
エチパセはシュディリスの足許に寄ると、巨躯をかがめて、
馬上のシュディリスに向けてその両腕を差し出し、「まずはその剣を拝見させていただきたく」
恭しく頼むのである。
「わたしの、剣を」、シュディリスは眉をひそめた。
「はい」
「地方官どの、理由をお尋ねしても」、シュディリスは問うた。
「さすれば」
一見してエチパセはシュディリス、パトロベリ、グラナンが警戒を緩めるに足りる、
温厚な顔つきそのものの、実直そうな態度と落ち着いたものの言い方をした。
どことなく郷里の父カシニの姿をシュディリスが想い重ねたのは、エチパセが、
まだ父と息子が長い時間を共に過ごしていた時代の、ちょうどその頃の父を思わせるからであろうか。
こちらを若年として侮ることも嗤うこともせず、当人のゆるぎない自信からくる豊かな父性で、
余計な手出し口出しをせずに見守っているような、温かいもの。
誰かに似ていると思えば、それはトレスピアノに滞在していたフェララ剣術師範代のルイ・グレダンの、
師範としての態度にも共通のものだった。
何者であろう。
互いに探る眼をして、エチパセとシュディリスは互いを見つめた。
エチパセは、おもむろに、その剣のまことの主の名を告げた。
「その剣は、わが友であるコスモス領主クローバ・コスモスの好んで持っていた
 佩刀ではないかとお見受けいたす。
 見覚えのあるその剣、いま一度、わが手に取ってそれを確かめたく」
「友」
「いかにも」
エチパセは首肯した。
コスモス領主クローバ・コスモスとは現ジュシュベンダ主君イルタル・アルバレスと共に、
若き日々、机を並べて学び遊んだことのある仲。
「ミケラン卿の姦計により、コスモス領乗っ取られ、その地位を追われたとしても、
 わたしが認めるコスモス領当主は今をもって、わが友人、クローバの他にございませぬ。
 その彼の愛剣を旅の途上の方がお持ちとは、いかに」
「返答の必要がありますか」
つれない様子の若者の素っ気無い返事にも、エチパセは気分を害した様子もなかった。
「その剣が間違いなくわが友人の物であるならば、
 ここをお通し出来るか否か、話の行方もまた違ってくるかと存じます。
 まずはその真偽を確かめた上で、委細を計らいましょう」
それを聴いたシュディリスは黙ってクローバの剣をエチパセに渡した。
丸腰となったシュディリスを庇って、グラナンとパトロベリが馬を押し出し、左右を固めた。
エチパセは永く、その剣を温めてはいなかった。
一瞥すると、すぐに片膝を土につき、剣の柄をシュディリスに向けて、捧げ持って返した。
地方官のその面持ちには、打って変わって、厳粛なものが顕れていた。

「………失礼つかまつりました」 

面を上げたエチパセの眼には、感激が浮かんでいた。
「このような辺鄙の地に、フラワン家の方をお迎えすることがあろうとは、このエチパセ、
 左遷にも等しいこの任官地に、不意の光明が差し込んだような心地でございます。
 その剣、まっこと、わが友クローバの愛剣に相違なく、
 それがいかようにしてフラワン家のご嫡子殿の御手許に渡ったのかは知らぬことなれど、
 その者はコスモス家の紋章の刻まれた彼の剣を所有のはずであること、
 クローバ本人より聞き及び、真っ先に留意すべきものとして心に刻みおいておりました。
 クローバ・コスモスより書簡で頼まれていたとおり、ここにおいでの若人がたをミケラン卿よりお匿いし、
 このまま我が屋敷へと迎え入れ、手厚く保護いたしますことを、
 旧友との友誼にかけて、ここにお誓いいたします」
「保護だって!」
素っ頓狂な声をパトロベリが上げた。
はっと気がついた時にはもう遅く、三人は周囲をぐるりとエチパセの兵に取り囲まれていた。
彼らは武装をしていたが、兵の持つ武器の先端はすべて、地か空に向けられており、
若者たちを押し包んだままエチパセの命を静かに待っていた。
「どうぞ、このまま我が屋敷にお越し下さい」
慇懃にエチパセは若者たちに述べた。
「そして、ごゆるりとご滞在の上、旅の疲れをおやすめになって下さい。
 わたしの目の黒いうちは、決してミケラン卿の手勢をこの管轄内に入れたりなどいたしませぬ。
 分家出の分際で帝国を攪乱して回る策謀家など、従兄弟とはいえミケランなど、
 一度たりともわたしは信用したことがない。
 それを信じて、どうかこのエチパセにすべてをお任せになり、ご安心のほどを」
「地方官どの。これには何かの誤解があると思う」
剣を構えたまま、シュディリスはエチパセに厳しく向き直った。
その声の強さに愕いた馬が脚で土を蹴った。
「この剣、確かにクローバ・コスモス殿よりわたしが預かりしもの。
 折れたわたしの剣の代わりに、彼が恵んでくれた借り物です。
 わたしは彼に負けた。なれど、行動の決定権まで彼に任せたつもりはありません」
グラナン・バラスが口を添えた。
「地方官どの、クローバ・コスモス殿より書簡が届いたと云われましたか。それはいつのことです」
「昨晩」
故意かうかつか、エチパセは瞬きもせずに正直に答えた。
返答を聞いて、三人の若者はいよいよ罠のにおいを嗅いだ。
レイズンはよくせき人を陥れる謀がお好きとみえる、とパトロベリが吐き棄てた。
さしずめミケラン卿がクローバの名を騙った書簡を手配し、この地方一帯にばら撒いたのに違いない。
クローバ・コスモスの名を出せば、こちらがおとなしく彼の名に騙されて従い、云うことをきくとでも思うてか。
それは二重三重の許しがたい侮辱である。
捕まるわけには断じていかぬ上に、如何にしてそれを知ったか知らぬが、
己が敗北した男の名をそこに絡めてくることで、
間接的にミケラン卿はシュディリスに拭いがたい屈辱を与えようとしたのだと思われる。
考えがそこに至ると、誇り高いこの青年は憤った。
「その書面に何と書かれてあったのかは知りませんが、その内容に従ういわれは我らにはない」
「お静かにシュディリス・フラワン様」
「誰のことです」、シュディリスは即座に云い返した。
こうして武装兵を率いて街道に待ち構えておられたということは、
ミケラン卿からの急報により、そちらがわたしたちを賊と見做してのこのご判断であること、
もはや隠しようもなきこと。
シュディリスは腹立ちを隠さなかった。
「武力行使など、フラワン家の者に対する礼儀とはほど遠い。
 ゆえにわたしはそのような者ではない。話し合っても無駄のようです。先を急ぎます、
 地方官エチパセ・パヴェ・レイズン殿、この蹄にかかりたくなくば、そこを退かれたい」
「昨夜届いたクローバ・コスモスからの書簡にはこのように書かれてございました」
若者の恫喝にはびくともせずに、エチパセは馬の前から動かなかった。
見かけとは違い肝がすわった男は、あくまでも穏やかにそれを伝えた。
「彼からの書簡にはこうありました。該当の若者たちをもし見かけたら、
 逸る彼らに間違いのないように手厚く保護し、
 厳重にその軽挙妄動をそこで止め、そしてこう伝えてくれと。
 いわく、『挙兵の時を待て』、と」
「嘘だ」
すぐさま、シュディリスはそれに反駁を加えた。
シュディリスだけでなく、パトロベリとグラナンもいっそうの不審を強めて顔を引き締めた。
「地方官どの、わたしたちがこの地に立ち寄ったのはまったくの偶然。
 時の未来を俯瞰する鳥でもない限り、クローバ殿にしろ貴方にしろ、
 事前にこのような段取りが手回し良く出来るはずもない。偽りごとはたくさんです」
「わたしもそのように思います」、グラナンが後を続けた。
「この岸辺に降り立ったのは、寄り道や支流での停泊を重ねた上、
 周囲にひと気がないと見て、不意に決めたことです。
 それすらも見越して、ご友人である貴方さまに、クローバ殿が我々に関する手紙を
 事前によろしく届けていたとは到底思われない。
 かりに水をも洩らさぬ完璧な包囲網を敷いて待ち構えておられたのだとしても、
 その口上で我々を騙そうとは、いささか無理が過ぎるように思われます」
「目的は僕たちを捕縛し、引き渡すつもりであることは明白だ」
パトロベリも同調した。
「巧い口説を並べたものだが、そのとおりになんかなってやるものか」
エチパセは猛る青年たちの顔を順に見廻した。
そして、反発に動じもせずに重ねて云った。
クローバよりわが許に書簡が届いたのは、間違いなく、昨夜のうちでござました。
屋敷においでいただけるのであれば、証拠となるその書面を皆様がたにもお見せいたしましょう。
昔と変わらぬ、彼らしい簡潔な、しかし水茎の跡は力強くのびやかな、
間違いなくクローバ・コスモスの書いたものであるとひと眼で分かるものでございました。
懐かしい友人の字。あれは彼の侍従であったスキャパレリという男が、
嫌がるクローバに、「そのような元気ばかりが目立つ下手な字では諸国に莫迦にされます」、
そう云って相当厳しく習字させたものであること、彼らと共に過ごしたわたしは存じております。
シュディリスたちは顔を見合わせた。
エチパセは微笑んだ。
わたしにとってそれは、友の息災を伝える手紙。
その昔侍従に叱られながら、えいえいと机にかじり付いて習練を重ねただけあって、
流麗とは云えずとも趣のある、堂々とした立派な字に変貌したものだと、そのようにわたしは可笑しかった。
他の誰を見間違えても、クローバのような男を、文面から聞こえてくる彼のその声を、
何があろうとこのわたしが間違うことだけはございませぬ。
唐突なこの出迎え、不可解に思われるのもごもっとも。ですが、
わたしはクローバの手紙を信じ、そこに綴られていたとおりに従っただけなのです。
この世の騎士が従い、クローバもまたそれに従った、星の声に。
晴れた空の果てに一筋の光が閃いた。
強い力で胸を突かれた。
冬の雷に打たれたような顔をして、シュディリスはその名を呟いた。
その人はやさしい姿で、廃墟を歩いていた。
やがてそこを訪れる若者たちを、彼らを運んでくるであろう河の流れの青さを、
城址の柱に身を寄せて、古い歌をうたいながら待っていた。
リラの君。
銀色の月が地平に落ちて、あけぼのの星が虹の中に薄れて消えるのを、
太古の波の音、夕闇に流れる雲の色、文明の崩れ去った冬の荒野を。
その人はそこにいて、はるか彼方のさざめきを聴き、その眸でそれを見ていた。
時の雪を浴びて立っていた。
地方官エチパセの姿も、愕いているパトロベリとグラナンの姿も、遠のいた。
誰の声も聞こえない。
それでもその歌を、わたしは知っている。
そこにおいでなのですか。
カリア。

-------巫女。ユスキュダルの巫女
-------カリアさま、巫女さま

遠くからのその呼びかけに、ようやくその人は眼を開き、少しだけ、やわらかな言葉を紡いだ。
明るい霧の中に、人影は、水草のなびきのように、遠くなったり近くなったりした。
巫女。ユスキュダルの巫女カリアさま。巫女さま、お加減はいかがですか。
弱々しく巫女は応えた。そしてまた、眼を閉じた。
少しやすめば良くなります。
コスモス城の一隅で、カリアは眠っていた。
時折夢の中のことを外界に伝える他は、一昼夜の間、ずっと意識がなかった。
とても疲れるそうだ、と誰かが近くで案じていた。
塔の天窓から差し込む細い光が暗闇に横たわるカリアの額にそっと触れた。
うつろう光は虹色を帯びて、胸に重ねた巫女の白い手を包んだ。それだけが灯りだった。
巫女さま、ご無事ですか。ユスキュダルの巫女さま。
石壁の向こうに広がる城の苑。憶えのある古い庭、雪どけ水のせせらぎ、森の香、黄昏の、空の色。
誰かがわたくしを呼んでいる。
静まれ、巫女さまはこの塔の内で、瞑想の扉を開かれたそのご休息をとっておられるのだ。
しずかに、この塔には近づいてはならぬ。タイラン様のお云い付けであるぞ。
それでも人々の呼びかけは止まなかった。
コスモス城の人々は、入れ替わり立ち代り塔の周囲に集まって、祈りを捧げることを止めなかった。
さように騒がずとも巫女さまは明日には塔より出て来られる。安堵してここより立ち去れ。
叱責の後に静寂が訪れ、そしてまた誰かが祈り、繰り返し巫女を呼んでいた。
それは塔の内にも響いた。
飛び交う鳥のように、晩鐘の鐘の音は壁を伝い降りた。
(巫女。ユスキュダルの巫女)
貴方でしたか、クローバ・コスモス。
眠らずにわたくしの身を案じて下さっているのは貴方でしたか、タイラン・レイズン。
そして、シュディリス、貴方までいらしたのですか。
コスモス領の夕暮れだった。
カリアはその眼を開いた。
翠の眸は、遠い何処かを見つめて、静かであった。
何も心配いりません。わたくしは、大丈夫。
その姿は静かに宵闇の中に沈んで溶けていくようであった。
星雲の冠をその頭上に戴く地上の巫女は、雲の野原を歩んでいた。
青い河が、懐かしい音を立てて、また時を連れてゆく。
地平に浮かぶ夕づつの星は、若い皇子と幼い姫が見ていた夕暮れの、その星。
夜の森に降っていた流星雨。
遺跡に咲いていた白い花、そよ風の、あの歌を。
わたくしはそれを伝える。夕べとあかつきの歌を。
二度とふたたび、同じ時は戻らぬことを。
帝国に散る全ての騎士よ、わたくしはそなたたちと共にある。空の故郷の、風を連れて。
白夜の夜明け、いとしきもの、その全てを。
ゆっくりと身を起こしたカリアを、傍に控えていた女たちが支えて起こした。
もう大丈夫です。
石の床に、その影がはかなくゆらいで落ちた。倒れるかと思われた。
それでも巫女は塔の外へと静かに歩いて行った。


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ミケランからの手紙を一読したエステラは、不在中の男への不服を隠さずに、
読み終えるなり柳眉をつり上げた。湖からの涼しい風が吹いていた。
「女同士仲良くして欲しい、ですって」
手紙を丸めて脇へ除けると「よくもまあ」、エステラは溜息をついて、
腹立だしそうに細い指で目についた卓上の菓子をつまんだ。
それはリリティスの焼いた菓子だった。
それを知ると、「おいしいわ」、ミケラン卿の愛人は妹を褒めるような調子でリリティスに感想を述べた。
別荘に到着したばかりのエステラはミケラン卿の好みであるのか、日頃はまとめ上げている髪を
今日は背中に流すままにして、若草色の簡素なドレスを着て寛いでいた。
そうしているエステラは、どこかの裕福な家のご新造に見えた。
そう、それならそうしましょう。
あの方からのお云いつけですもの、他にどうする術があって。
独りごちるとおもむろに立ち上がり、未だリリティスの正体を知らぬエステラは、
リリティスに支度をするようにと命じた。
馬車が別荘に着き、出迎えたリリティスを見るなり、
「莫迦な子。どうして戻って来たの。
 また捕まってしまうなんて、あんたなんか死んじゃえば良かったのよ。
 莫迦な女の子ね、一体これからどうするつもりなの」
怒りもあらわにいきなり激しい口調で詰りだし、それからリリティスを抱きしめて心配したのよ、と
その頬に慰めの接吻をした人だった。
案じていたのはリリティスも同じだった。
いくらミケラン卿が気に入って屋敷まで持たせている女だといっても、
主に黙って勝手にリリティスの逃亡の手助けをしたことがそのまま看過されて許されるとはとても思えず、
ハーンことソラムダリヤ皇太子と共に無事フェララへ逃れた後も、加担者にしてしまった
エステラのことは、リリティスも胸の片隅でずっと気になっていたのである。
エステラは高級娼婦とも違う、特定の男の愛人という立場の女であり、
貞淑をもってその美徳とする高貴な身分の女たちからはどちらにせよ軽蔑をもって
迎えられる類の女ではあったが、エステラが情に篤い芯のしっかりした人間であることだけは、
それまでまったくエステラのような女と接したことのなかったリリティスにも知れたし、
さもなくばあの趣味の高いミケランが外に囲う相手として、この女を選ぶはずもないと思われた。
それだけに、一人の男を挟んだ、リリティスの心中は複雑であった。
女の眼で、ミケランの愛人をあらためて眺めた。
わずかな造作の欠点もそのまま愛らしさに変わるような、見飽きない顔だった。
完璧な美女よりも姿態の様子がなまめいて、つんと突き出した唇が特に赤かった。
足の指の股まできれいな女、とはこのような女のことであろうか。
自分の値打ちをよく知る女に特有の自信と、脆さと強がりが混在しており、
人の出方や顔色を窺う慎重な眼をしたかと思うと、わざと投げ遣りに振る舞ってみせる。
どこかで若いエステラは、
「愛人ならこんなものでしょ」
そんな生き方を自ら開き直って演じているように見えた。
薄絹を重ねた若草色のドレスが女の細身によく似合っていた。
ドレスからのぞくエステラの胸元は女でも触れてみたくなるほどかたち良くはりつめ、
腰の流れはしなやかにくびれ、組んだ脚の先の先までもどこか磨きぬかれた精緻な人形じみており、
触れなば落ちんの色香を帯びて、そして挑発的だった。
リリティスは眼をそらした。
そこに深く身を埋めて揺さぶることができたなら、この女の肌の持つやわらかさと、
その起伏と微弱な抵抗は、どのような男をも熱の波で狂わせることだろうと思われたのである。

亡くなられたアリアケ様がまだご存命であった頃から、彼らは関係を続けていたのだわ。

髪を乱してうごめく女の影や、誰かの強い愛撫を、
降伏の泣き声や快楽の呻きを、その交合の様を不意に見たような気がして、
リリティスは背を向けた。
顔をそむけた先の風窓に映ったのは、己の姿であった。
清いままの、娘の姿だった。
もどかしいほどに、ご清潔なままの娘がそこにいた。
リリティスは湖に重なる自分の姿を直視し、じっと眺めた。
フェララからここに戻されてからこのかた、ミケランは一度もその意をもっては、この身には触れていない。
この首に、この胸に、あの男が以前私に与えた接吻とあの強い抱擁は、
まるで私が勝手に見たふしだらな夢であったかのように、この青い湖に消えてしまった。
あの男の征服は私を引っかくように掠めただけで、それが与える炎の爪は、そのついばみは、
私ではない他の女人の四肢の上に降りていた。
若草色のドレスを着たこの美しい人の上に。
思い切って風窓を開いた。
いわゆる、これが誘惑なのだわ。
風が心地よかった。
窓が映す頼りない己の姿を見えぬところに押し遣り、リリティスは男への怒りを繰り返した。
それは実は嫉妬の変形であったのだが、リリティスにその自覚を求めるのは酷というものであろう。
あんなのは愛でも何でもない。時折みせるあの温かな態度も、私の全身を愛でているあの優しい眼も、
ただの、いやらしい堕落への誘いに過ぎないのよ。
実に生娘らしいそんな幼い結論をつけてしまうと、少しだけ、何もかもが下らなく思えた。
しかしそんな強がりとは裏腹に、この場には居ない男の小莫迦にした笑い声を聞いた気がして、
リリティスは唇を噛んだ。
己の潔白を訴えたい。私は無知な子供ではない。
ハーンの時はまるで違ったわ。
あの人は、私に無理強いなどしなかった。
ルイ様のお屋敷の温室で、あのぬるみの中で、小さな花びらにそうするように、優しくしてくれた。
あれこそ愛だわ、最高の恋人にそうするように少しずつ私をとろかし、しっかりと抱きしめてくれた。
それにシュディリス兄さんだって。
トレスピアノで兄と別れた最後のあの夜のことはリリティスにとっては辛い記憶であったが、
リリティスは必死でその想い出にすがった。
あれは私ではない、ジュシュベンダの昔の恋人を想って兄さんがそうしたことだったけれど、
シュディリス兄さんのあの激しさは、その思いのたけをじゅうぶんに思い知らせてくれるものだった。
怖いくらいの愛の深さを、その高まりを、私に教えてくれるものだったわ。
覚えのある声がもう一度笑った。
ミケランはその男らしい深い声で笑いながら、リリティスのうなじに子供をあやすような接吻を加えた。
それでも君はこうしてわたしの許に戻って来た。それは何故なのかな。
その理由をいつか君の口から教えてもらうとしよう、願わくばもっとも美しい姿を見せてくれる時に。
(心配せずとも、男のわたしに任せてくれれば悪いようにはせぬものを)
リリティスは首を振り、悩ましい吐息をついた。
無意識に腰の剣に手をやった。
冷たい金属の硬い手触りに、ようやく娘の心は落ち着いた。
このままここに居ては気が狂う。もしかしたら、もう狂わされているのかも知れない。
湖を見下ろす庭園の高台で、エステラはリリティスの髪を編んでいた。
天気がいいわ、今日は庭でお茶をしましょう、有無を云わせずにエステラがそう決めたのである。
「その剣、何もお庭にまで持って来なくてもよいのではなくて」
ミケランがリリティスに与えた精緻な銀の細剣は、エステラには無粋としか映らぬようであったが、
それでもそれを取り上げたり退かしたりはしなかった。
庭の花木が風に揺れていた。
繰り返しそよ風に降りてくる花びらを、リリティスは膝から払い落とした。
リリティスにとって、ミケランはまだまだ得体の知れぬ、怖ろしい男だった。
「お咎めなど、なかったわよ」
だから安心なさいな、とリリティスを座らせて背中に回ったエステラは
庭に運ばせた化粧箱から取り出した櫛を片手に、リリティスの髪を編んだ。
彼女の方から髪を編んであげるわと申し出たのである。

「ミケラン様の世話になって随分と経つけれど、
 路頭で途方に暮れていたわたくしを拾ってくれた時から、彼の態度は終始一貫して同じよ。
 これでもけっこう我侭に振舞っているのだけど、
 それでご不興をかうなんてことは、今まで一度もなかったわ。
 彼からすれば女は常に甘やかしておくべき、男が庇護しておくべき、小動物なのね。
 愛玩動物が少々逆らってうなったり、手を噛んだからといって、それに本気で怒るようなことは、
 彼の自尊心からもあり得ないのではないかしら。
 それだけでなく、もしわたくしが「貴方の許を去りたい」と云えば、彼はあっさりとそれを許すわよ。
 それだけでなく生活には困らないだけの餞別まで、きっと下さることよ」

先例が幾つもあるのよ。
女同士の打ち明け話よろしく、エステラはリリティスに男のあれこれを耳打ちした。
ミケラン様にはお子様がいらっしゃらないけれど、何年か前、
当時の情人のひとりが彼の子を懐妊したことがあるのよ。
噂ではその方、身をおとす前は帝国属領の豪族の血を引く西国の美姫で、
ゾウゲネス皇帝陛下からその場で下賜されたものだか。
あいにくと御子は流れてしまったそうだけど、その時彼は情人の希望を何でも叶えてやって、
そのことが原因でもう子供が生めなくなったその女人のために、大邸宅と終身財産の一部、それに
独身の財産家の夫まで見つくろい、別れ際に気前よく一切を整えてあげたそうよ。
どこからそのようなお金が沸いて出てくるのかと不思議そうね。
彼がまだ政変を起こす前の、十代半ばの頃のことよ。
ミケラン様はまず分家の所領の一部に大掛かりな手を入れて、資本を投入して森林の伐採を行い、
都市には金銀が流通する座を設けて、その二つから上がった利益で、
海外航路のひとつを独占することに成功したの。
内陸にあるレイズンにそれが適ったのは、ミケラン様ご自身が馬を飛ばして海に向かい、
名家の後ろ盾がないために港湾の拡張が適わずにいた胴元のところへ単身で乗り込んで、
荒くれ男たちと差し向かいで掛け合ったからだとか、そうでないとか。
談合の場で互いの利益を保証すると堂々と申し渡す、黒髪の少年が見えてくるようではないこと?
現在、海を渡って帝国に届く香料のほとんどは、
ミケラン様傘下の商会が手がけていると云われているわ。
表向きは国の政策の一環となっている為に彼の名は出てこないから誰もそれを知らないけれど、
領地からの税金で成り立っているレイズン本家を幾つ合わせても敵わぬほどに、
ミケラン様を統領とする分家の私有財産はすでに計り知れないものになっているはずよ。
もっともミケラン様ご自身は財蓄にはさほど関心がないようだから、
右から左へと面白そうに財を投げたり転がしたりしている向きもなきにしもあらずでいらっしゃるけれど、
これも次世代に後事を託す感傷とは一切無縁の、ミケラン様の特徴かしらね。
エステラは編み上げたリリティスの髪の仕上げに、庭園から選んだ花を飾った。
「藤色の花。よく似合うわ。ミケラン様に見せてあげたいほどだわ」
ミケランが手紙でそう云いつけたというだけでなく、リリティスの世話を焼くエステラは、
リリティスの心もほどけるほどに親身であり、心から楽しそうであった。
もしかしたら男に囲われている女というものは、見た目の華やかさからは想像のつかぬほど、
安らぎや楽しみとは縁のない、相当に孤独な生活を余儀なくされるものなのかもしれなかった。



「続く]




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