[ビスカリアの星]■四.
パトロベリ・テラの胸元に剣の先を当てたまま、
青い眼をだんだんと細め、内省の奥深くへと感情を沈めていくシュディリスの様子を、
弟のユスタスは不安に駆られて見ていた。
ひとたび反動が起きてその静が動に移れば、
次の瞬間にもパトロベリが兄に斬られてどっと地に転がるような気がして、
リリティスとユスタスは身動きもならなかった。
「兄さん------」
「シリス兄さん」
「ほら、妹御も弟君も心配しているじゃあないか。止めたまえよシュディリス、こら」
二人を引き離しにかかろうとしたユスタスとリリティスは、ルイ・グレダンに促されるままに、
パトロベリとシュディリスから離れた。
「パトロベリ・テラ殿」
剣の向こうから、シュディリスは獲物をじっとりと捕らえて睨んだ。
「ビスカリアの星…」
「えっ」
「恋人を讃える際に、貴方はそう云った、と聞いています」
「恋人?僕の?」
両手を挙げたまま、パトロベリは誰かを探すように大仰に目をさ迷わせた。
刈上げた濃茶色の髪や、その奇矯な口ぶりとは裏腹に、
パトロベリ・テラの物腰や押し出しには、庶腹出であることを重荷としつつも、
先々代の血を引く者として長年の間にその折半を見出した者のそれなりの豪胆が備わっていて、
少なくともパトロベリは決して、不測の事態にうろたえるような臆病者ではなかった。
シュディリスに刃を向けられた今も、
彼は抜け目のない飄々とした余裕を、いっそ自暴自棄なまでに失ってはいなかった。
夕闇の中に赤く輝いて溶けていく銀刃の向こうからこちらを睨んでいるシュディリスの殺気を、
パトロベリは平然と見返した。
彼はシュディリスに斬り下げられた。
目の前の若者の青い眼が、瞬きもせずに自分を重たく見つめた必殺のその瞬間、
脳裏に流れ落ちた一瞬のその幻影は、恐怖よりは愉快な震撼をこの庶腹の男にもたらし、
骨を断たれる音を、自分の血流がどっと外に飛び散るその温かな開放を、
パトロベリは想像の中に十分に味わって聞いた。
パトロベリははじけるように嗤った。
「恋人か。可愛い人はたくさんいるからな。ははは、誰のことだろう…」
己の心臓の上に強く当てられた剣の先をパトロベリは、指先で挟んでまで見せた。
そして互いの度胸を試すようにシュディリスに微笑みかけたが、
次の言葉を聞くと、さっと蒼褪めた。
「アニェス嬢。覚えておいでのはずです」
言葉で刺しておいて、シュディリスはその剣を不意に引き下げた。
弓月の弧を描いて剣を鞘に納めると、シュディリスは周囲を見回して、
「貴方に逢ったら私には果たすべきことがあったものを」
無念そうに吐き捨てた。
「だが、今は止します。わたしは外聞などには重きをおきませんが、
確かにこの場には相応しくない話だ」
「アニェスを、君は」
「パトロベリ殿」
語気強くシュディリスは、「ここでは」と、傍らにいる妹リリティスの存在をパトロベリに示した。
パトロベリは口を噤んだ。
シュディリスとパトロベリは互いを眺めて、パトロベリは苦々しく気まずそうに、
シュディリスは攻勢を帯びた軽蔑でもって、その視線を交錯させた。
やがて誓約書に一字一句を書き込むような口調でシュディリスはパトロベリへ言い渡した。
「いずれ、改めて」
「うーん」
「いつか時と場を改めて、アニェスに与えた傷を、わたしが貴方にそっくり返そう」
「うーん、苦手だなぁ、そういう熱血は」
わざとらしく首をふり、パトロベリは頭をかいた。
「アニェスね、うん、もちろん忘れようはずもないし、忘れてはいないけれどね。
ご婦人の名誉のために命を賭けることも君たち騎士の資格のうちに
確かに含まれているのだろうが、
生憎だけど、僕は騎士の誓願はしていないからな」
断りを入れると自嘲混じりに彼は、突然、云い立てた。
「苦手だし嫌いなんだ、騎士のその、潔癖や直情や、融通の利かん気がね。
そういう混じりッ気のないものに接すると、たじたじとなるよこちらは。
君は愚か者には見えないのでまだしもだけど、
中には辛抱たまらないようなのもいるじゃあないか?
まるで格別に天からその才を選ばれたとでも云いたげな、
その実、粉飾ばかりの見栄坊や、ご高潔気取りのさ。
騎士ね、騎士。
それが何か特別に、君らをお偉い人物にしたとでも云うのか。
逐一にうるさいんだ、何かあるごとに、いかに自分が優れているかを見せ付けたがってさ。
君らが些細なことにいちいちカッとなるたびに、僕は可笑しくてならないよ。
名誉だ高貴だ何だと、大義名分をこれ見よがしに振りかざしてお高くとまっているけど、
それが、君らの実力や真価の証明になるとでも思うのかい?
それともそうまでして、人を踏み台にしてまでも、
心技長けた素晴らしい名人とばかりに名を世に轟かし、ちやほやされて時めきたい?
劣れる者どもに大層に持ち上げられて、それですっかり何様気取りでご機嫌か、まったく笑えるよ。
単細胞で強情で、沸点の低い君らは、僕の目には押しなべてこう見えるんだ。
ただ単に、好戦的なだけだとね」
「パトロベリ・テラ殿。口をお慎みなされい」
横合いからルイ・グレダンとジュシュベンダ国境警備隊の隊長が止めに入ったが、
口笛で馬を呼ばせたパトロベリは逃げるが勝ちとばかりにそれに身軽に飛び乗ってしまった。
そして遣る瀬無い顔をして、
夕闇の中から自分を見上げているフラワン家の三きょうだいを、
鞍の上から順に眺めた。「哀れなる者」、とパトロベリは云った。
「一体誰が言い出したのだ?
騎士は短命などと唱えて、彼らをせっせと死地へと駆り立て、
直情過激へと追い遣る者こそ、
永らえることなく成敗されるに相応しいよ」
君らは誰かに吹き込まれた美談を右から左へと、そのまま信じているだけじゃあないか。
騎士はバカだな。
我こそは騎士であるとしゃしゃり出て来る者の中に、僕はまことを見たことがない。
ある日僕が、市場で、ほんのちょっとの小遣い稼ぎをしていた時だ。
目隠しをして短刀を投げ、台の上に並べた果実を割っていた。すると、
見物人の中から、お前よりももっと俺の方が巧いのだといって進み出て来、
万人の拍手を掻っ攫って行った男がいた。
僕は笑ったな!
その男はきっと本気で、
僕よりも自分の方が豊かな天分に恵まれていると思っていたのだろうさ。
首尾よく僕を比較の踏み台にして踏みつけ、
僕を貶めることで己の才能に衆目を集めることに成功し、
お望みどおりに手柄を奪って激賞されていたけどね、
ああ僕は信じるね、あの時の市場には市井の人間ばかりであったけれども、
それでもこの中に一人や二人は、ご満悦な男を黙殺し、
僕があえて才のない道化に徹していたことを、見抜いていた者もいたであろうとね。
台の上の果実は男の手で残りなくかち割られていたけれど、僕の心はそのような時にこそ、
たとえ目隠しをしていても、心の目が開いて静まるのを覚えるんだ。
「自己顕示欲ばかりが先に立つ騎士など、まっぴらごめんだ。
僕はそのような才能と純粋を臆面もなく気取って見せびらかす、
これ見よがしな偽者となるよりは、
喜んで、穢い人間として調子よく、軽薄に、
愚か者と呼ばれて生きることを選ぶだろう。
名誉の死などしょせんはただの死でしかないことを、よっく考えて道を選べよ」
その日の夕陽が真赤な透明の楕円になって、山岳の向こうに沈んでいくところであった。
パトロベリの言い草に先ほどからむかむかしていたユスタスは、彼に何かを言い返そうとした。
それより早く、残照に淡い金髪を縁かがらせて、リリティスが顔を上げた。
「わたしはそうは考えてはおりません。パトロベリ・テラ様」
「では、どのように、フラワン家のお姫さま」
「騎士の生とは、平穏より逸脱して生きることの、
見世物であり見せしめなのだと-----そう考えています」
「女の子の君にとっては、特にね、可哀相に」
賢くもパトロベリはリリティスを追い詰めていくようなことはせず、
意外にも心からやさしく、理解を示して馬上から頷いてみせた。
「賛美され、かしずかれるのも、男たちから優しくされるのも、
励まされるのも教えをうけるのも、女の子の君にとってはリリティス、
何もかも、自分が女であるせいだと感じるのだろう?
普通の女なら、そこは都合よく享受して、
女である旨みに他愛もなく酔いしれ、甘えるものなのにな。
高潔な女の子というのも、不幸で困ったものだ。
騎士である限り、誰よりも凛々しく強く、孤高であることを強いられるのに、
しかし女という性に隷属されている、その不自由が辛いのだろう?
そうか、きっとこういう発言こそを君は怒っているのだな。失敬。
でも、男も女もない。君だけじゃない、男である僕とても、
そうやって人からさまざまな情を普通の人間よりも過分に浴びないことには、
きっと人が人に向ける感情を、それにもいろいろあることを、
うわべだけのもの、真情あるもの、その別すら、知らぬままに育ってしまったことだろう。
卑腹出の僕は君と同じく、特殊で弱い立場だったからな、リリティスちゃん」
「………」
「ビスカリアの星か」
一つだけ空に刻まれた遠い星の光を、彼は夕闇に仰いだ。
星の光は松明の灯よりも勝り、そして、地上に散乱する死体よりも冷え冷えと凍って
遠かった。
「アニェス。僕の恋人だった。そして今も。
懐かしい名を聞いた。今晩は切なくてきっと眠れない。シュディリス」
呼ばれたシュディリスは顔を向けた。
「何か」
「君のせいだ。よかろう、決闘を受けよう」
手形代わりに飛んできた短刀をシュディリスは避けた。
「いずれな」
一声笑うと、パトロベリは馬の腹を蹴って、隊を率いて山道を駆け上って消えてしまった。
「何だいあれ!」
大いに腹を立てて、パトロベリの投げて地に落ちた短刀を、ユスタスは蹴っ飛ばした。
馬に乗った後も、聞こえるように、いささか子供じみた大声で、
ユスタスはパトロベリの去った方へと声を上げた。
「所詮は、騎士にはなれない日陰者の僻みじゃないか!いけすかない奴め。
ああいう奴に限って、きっと誰よりも晴れ舞台が好きなんだ。
きっとどうせ内心じゃ自負してるんだ、『俺だって騎士になれるさ』
『やれば俺の方が勝つさ』って。
ならやってみたらいいんだ。
やるのとやらないのとでは天地ほど違うってことを、一度騎士になれば、
名だたる騎士の中では到底目立たない凡庸騎士にしか過ぎないことを、
あいつは身をもって知るのがどうせ怖いんだ。
なのに理屈だけは達者ときていて、いろいろ云ってたけど、要は兄さんや姉さんを
傷つけるのが目的の、悪意の詭弁じゃないか!あんな奴、大嫌いだ」
「よしなさい、ユスタス」
驚いたことに、ユスタスは姉リリティスに止められた。
「私は、そうは思わないわ」
暗い声だった。
涙はなくとも、泣いている声に聞こえた。
ユスタスは驚いて姉の横顔を見た。
リリティスはその花のような白い顔を、青ざめた黄昏に隠した。
見つめる先にはシュディリスがいて、片手に松明を高く掲げ、旅の一団を
トレスピアノに向けて先導していた。
火の粉を落とす明るい焔。
私から離れていく。
「私はそうは思わないわ。
あなた達にはきっと分からないわ。男のシュディリス兄さんやユスタス、
真直ぐに生きていける、あなた達には」
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フラワン家の荘園館は城と呼ばれてこそないものの、
実際には城と変わらない規模を誇り、堅牢な佇まいで、深い森を背に、
トレスピアノの起伏ある豊かな野を一望する場所に建っていた。
非常時の警戒は解かぬままにそのほかの灯を落とし、
河と銀河の静かなせせらぎをはるかに、真夜中の夜空を大きくその影で区切って、
屋敷はすでに寝静まろうとしていた。
西棟の一室で、怪我を庇いながらようやく身を起こした男は、
廊下へ出たところで、はたとその動きを止めた。
「何処へ行かれるおつもりです」
細い灯りを手に、廊下の端で待ち構えて立っていたのはフラワン家の長子であった。
「あ、シュディリス殿であったか」
ほっと安堵をついて、男は杖にしていた長剣を小脇に抱えなおし、
シュディリスに近づくと、時と場の外れた、しかし、雅なる礼をとった。
「夕方に君と山道で行き合った時には、
フラワン家の方とは露知らずに、失礼つかまつった。
盗賊どもより我ら一行を守ってくれた上、
領内に迎え入れてこのように丁重なる手当てまで、礼を申す」
「貴方の傷はまだ動き回れるようなものではないはず」
手を貸して男の肩を支えると、
「あちらに何か用があるのであれば、わたしが代わりに承りますが」
窓の外の深夜をシュディリスは見下ろした。
かがり火が、夜の中の明るい草花のように低地に固まっているのがそこから見えた。
「いや、結構だ」と、男は云った。
「言伝てが不都合ならば、書面では」
「それには及ばない。自分がこの身を運んで行かねばならぬ、用なのだよ」
男はシュディリスの申し出を断る詫びの代わりに苦笑を浮かべた。
「どうにも、こちらの方々のご好意を反故にするばかりだ。
気を悪くしないでくれたまえ」
領主カシニがせめて輿の中の貴人だけでもと重ねて勧めても、
トレスピアノの地へと入った旅の一行は慎ましやかに、
しかし頑として屋敷の客人にはなろうとせず、
荘園内の外れに立派な天幕を幾つも張って、
手当ての必要な重傷者も含めてそこに野営をするといって聞かなかった。
医師や世話人も断るに至っては、その閉鎖性はもはや常軌を外れており、
仕方なくカシニ・フラワンは遠巻きにしながら食料や薬を差し入れるにとどめ、
ルイ・グレダンと憶測を交わした。
「礼節正しくとも、何やら相当な理由のある御一行と見える。
そっとして差し上げるほうが良い。
害はなくとも下手に係わって思わぬ類が及んでも困る。
それに、急ぎの旅で明日の朝にはもう出て行くというのだから」
「新興の宗教の類かも知れませぬな、カシニ様」
「それならば騎士を連れてはおるまい」
領主カシニは念のために自衛団を寝ずの番で配備した上で、
表面上の不干渉を決め込んだ。
夕方の山道でトレスピアノの道をシュディリスに尋ねてすれ違ったこの男だけは、
気絶したところを拾われて一足早く荘園屋敷に収納されていたもので、
奥方リィスリ・フラワン・オーガススィが手配した医師により手厚く治療を受けた上、
彼だけは屋敷の客室の一つをあてがわれて、仲間とは別にそこに休んでいたのである。
夜になって廊下へと出て来たその男は、
支えようとするシュディリスの手を拒みはしなかったが、やはり、
部屋には戻ろうとはしなかった。
剣を杖代わりに引きずりながら階段を下りていく男を、シュディリスも強いては止めず、
「人目を惹くのはお困りと見えます。目立たぬ扉より外に出ましょう」
行く先を教えた。
息切れしながら男は云った。
「何故わたしが外へ出て行くと分かった?
まるでわたしが夜になって抜け出すのを見越したかのように、
君はああして、ずっと廊下で待ち伏せていたのかね」
「待ち伏せていたのではありません」
シュディリスは今は、その銀色の髪を解いて背に流していた。
口調静かに囁くその様子は妙に落ち着いており、彼の沈着な青い眼は、
床や壁の冷気や暗がりのぬるみよりも、男に警戒心を起こさせるに十分なものであった。
男は長剣をそれとなくしっかりと握りなおした。
それを察してか、若者は柔らかく微笑み、無防備な背を向けると
その身を男の前に身軽にかがめた。
「対角の棟にあるわたしの自室から、ちょうど貴方の部屋が見えるのです。
部屋の明かりが灯り、貴方の影が動くのが見えました。
それで、様子を見に来たのです」
「そうか」
「わたしの背に寄って下さい」
「フラワン家の方の背中におぶわれるわけにはいかん。大丈夫だ」
シュディリスと男は、木戸を開けて夜空の下に出た。
警護の者が角燈を掲げて近寄って来たが、シュディリスは口元に指先を当てて静止し、
手の仕草で追い払った。
「教えてもらえませんか」
弱った男の足並みに合わせてシュディリスは夜露をゆっくり踏んで歩きながら、
片腕を貸している男が旧来の友達ででもあるかのように、突然さらりと訊いた。
「女輿の中にいる方は、どなたなのです」
「今からそこに行くのだ」
「逢わせて頂けますか」
「お断りを願うしかあるまい。ここまでで結構だ。ありがとう」
「お待ちします」
「いつになるか分からん。勝手を重ねて申し訳ないが、戻ってくれると助かる。
数刻後には、ちゃんと部屋へ戻っていることを約束しよう」
「貴方の名前もわたしはまだ知らない」
「名乗っても良いが、偽名かも知れん」
「それなら訊きません」
(ミケラン・レイズンに裏切られました)
不意に後ろから細い手が頬に触れてくるような声だった。
貸し与えた燈灯を手に天幕の集合地へと歩き去る男の背を見送りながら、
(ミケラン・レイズン卿------。
カルタラグン家からジュピタ皇家へとヴィスタチヤの覇権を取り戻した、
レイズン家の功労者、ミケラン・レイズン)
その名にまつわるものは、あまり良い噂ではなかった。
それもあって、ユスタスとリリティスもうっすらと聴いたというその女の声のことは、
はっきりしないことを理由にまだ他の誰にも云わないように、
シュディリスは二人に固く言い渡していた。
(丞相の地位にこそ何の思惑があってか就かなかったものの、
事実上の摂政はこの者の手にある、その男の名が、何故)
シュディリスは天幕の何処かある女輿を探すような眼をして、物思いに耽った。
大樹が星を掃くように夜風に揺れていた。
(あれだけの人数を従えた一行なのに、
余程の厳命が行き届いているとみえて、
誰ひとり口を割らず、何も明らかにしないなど)
(襲った山賊よりも、むしろこちらの一行の方こそ、
未だ逃れようもない暗雲に包まれているかのようだ)
(父上にもルイ・グレダン様にも、彼らが何者なのか、確かなる見当がつかぬとは)
何処へ向かう途上であったのか、それともこれは、山賊に襲われたことが示すように、
その旅路のいずこかで亡き者にされる運命を背負った一行であるのか、
詮索を禁じられたシュディリスには皆目、分からなかった。
その不明の中から、しかし、一つの声が彼の手をそっと握り、
彼を前へと推し進めていくような気がした。
己が身の出生の秘密を知った時より、シュディリスの胸の奥底に灯り、
彼に囁きかけていた、予感の声に、それは似ていた。
(あの声)
(暗闇の中から、まるで氷を音色ではじくように聴こえた、女の声)
(いつか必ずここを出ていく日が来る、その時が来れば、必ず)
それはいつの頃からか強い確信となってシュディリスを焦らせてきたものであり、また同時に、
なだらかな日々への忍耐となって、彼の鎖となっていたものだった。
その鎖が、今日、何人かの手で解かれ、強い勢いがシュディリスの身を通り抜けて、
その時の訪れを教えたような気が、彼にはしていた。
しかしシュディリスはその予感を、殺傷を行った後の興奮や弛緩が、
常にないものを昂ぶらせているだけなのだと言い聞かせることで、慎重を強いた。
そうやってしばらくの間は未練がましく男が去った天幕のあたりを見ていたが、諦めて、
独りで道を戻りかけた。
シュディリスは足を止めた。
リリティスが花の樹に寄りかかって立っていた。
「リリティス」
「花を見ていたの」
リリティスは手の平に花びらを乗せて、枝葉を見上げていた。
風に花が揺れるたび、その上にある星まで揺れた。
「騒がしくて眠れないのだもの。今まで私、ここでルイ・グレダン様とお話していました」
「怪我の具合は、リリティス」
「大丈夫。でもリィスリお母さまには叱られてしまいました」
「当たり前だ。あのような無茶、二度としないでくれ」
樹の幹に頼りなく凭れたまま、リリティスは応えなかった。
夜になると何もかもが、夜空の色になってしまうのね。
人の心も、花の色も、誰にも何にも照らされず、
淋しい輪郭になって、それぞれが星のように暗闇に小さく点在し、影もない。
こうして見つめていてもこの樹の花の色を、私は忘れてしまった。
星の光よりも夕暮れに、美しい彩を重ねていたのかどうかさえ。
「ルイさまはもう先にお部屋に戻られたわ」
リリティスは花びらを手から落とした。
「兄さんが、お客さまと一緒に表に出て行くのが見えたんです。
外に出たところで、同じように不審を覚えて後を追って来たルイさまと、
ここでお遭いしました」
「それで」
「シュディリス兄さん。私、ルイさまに、騎士の誓いを捧げたの」
シュディリスが少し眼を見張って自分を見つめる、その様子を、リリティスはじっと見つめた。
何でもなさそうにリリティスは続けた。
「軽率だと怒らないでね。
私、ルイさまに絶対の忠誠を誓ったのではありません。ほら、剣も持っていないわ。
その真似をして差し上げたの。
お気の毒なルイさま、あのように勇猛で、正しき人であるのに、
私くらいのまだお若い頃、人並みに恋をしたくとも、太ったお姿のせいで、貴婦人はみな、
彼の目の前で他の騎士と踊っていたそうよ。
そんな話を、まるで愉快な昔話のようになさるのだもの、だから私、
一緒に笑う代わりに、この樹の根元に膝をついたの。
他の女性が誰一人ルイさまにそれを捧げさせず、与えることもしないのなら、私がそうするわ。
せめて騎士の友情を、誓うわ」
「あの方はお前のことを好いておられる、そのことにはお前だって気がついていただろうに」
「それでも、私が騎士であることで、愛の代わりに、
あの方に別の真心を差し上げることが出来たわ」
「それはかえってあの御方を傷つける、お前の勝手な感傷に思える」
「膝をついて、この花の下で、友誼を誓いました。
今宵より、あなたの敵は私の敵、
もしも我が力を必要とする時には呼びたまえ、
たとえ汚名を蒙り万騎の敵に囲まれようとも、御身が許に馳せ参じます、と。
でも、ルイさまは、やさしく私を宥めて、私の誓願を拒まれたの」
「………」
「私が、女だから?」
リリティスは、ひらひらと落ちる花びらを、ゆっくりと眼で追った。
穏やかな満月の色をした母譲りのその髪は、屋敷の窓から仄かに届く明かりに淡く静まり、
ほっそりとしたその肢体は深い孤独の中に沈んで、放心しているようだった。
「闘う時には男も女もなく剣を揮うのに、私が女だからなの?
兄さんも、ルイさまも、私の心を拒んだのは、だからなの?」
「リリティス」
「もしも私が男であったなら、兄さんもルイさまもきっと、私の騎士の誓いを受け入れてくれたわ」
「それは己のためにお前を犠牲にすることを、わたしも彼も望まないからだ」
即座にリリティスは言い返した。
「私が男であったら、そんな気遣いもされずに済んだはずよ」
こみ上げるものをそのままに、リリティスの眼から涙がこぼれた。
留学から一時帰国した兄に、あの夜、拒まれた誓い。
「ハイロウリーンの騎士団では男も女もないと聞くわ。
いざ戦いになれば私だって、相手がたとえ私よりも若い少女であっても子供であっても、
刃向うならば迷わず斬ってみせるわ。
私は騎士だからそうするわ。
今日だって兄さんやユスタスに負けないくらい働いた。
御前試合で女騎士と一騎打ちをしても、勝つ自信はあるわ。
なのにどうして?
シュディリス兄さんからも、ルイさまからも、二度までも拒まれてしまったのは何故なの?
どうして私を拒んで、置いて行ってしまうの-------?」
「誰もお前を拒んでなどいない」
「嘘よ」
泣きながらリリティスは言い募った。
「兄さんだってルイさまと一緒よ!
どんなに私を大切にしているからだと言い訳したって、
それは私が女だから、だから、結局はどうでもいい扱いなのよ。
妾腹として生まれたパトロベリ・テラ様のお気持ちが私には分かるわ。
最初から差をつけられていて、どんなに頑張ったところで、
どんなにもがいて努力を重ね、見苦しく膝をついて頼んだところで、
受け入れてもらう先もなければ、敵いっこない。
私が女らしく、かわいらしく、素直に従順でいたら、きっと兄さんは満足なのよ。
でも私は騎士だもの、兄さんやユスタスと共に闘うことが出来るのに、
それなのに、兄さんは私をいつもユスタスの次に据えて、何も打ち明けてはくれないし、
ずっと私を避けているわ、騎士である私も、妹である私も、血の繋がりのない、他人の私も!」
もう少しでシュディリスは、「では云うが、男ならお前みたいに泣いたりなどしない」と、
支離滅裂な、それこそ女そのものな感情的泣き言に入っている妹を
辟易のあまりに怒鳴りつけてしまうところであった。
悲嘆でいっぱいになってしまっている妹の様子を見て憐憫からそれを辛うじて思いとどまると、
若干の面倒くささを押し隠して、兄としての義務から、
せいぜい優しい様子を取り繕った。
「リリティス」と、呼びかけて、彼は花びらの散り敷く樹の根元に、片膝をついた。
「それなら、わたしがお前に誓おう」
妹の手を取り、シュディリスは泣いているリリティスを見上げた。
「お前が拒まれたと云うのであれば、では、代わりにわたしがお前に騎士として捧げる。
兄妹としてこの世の誰よりも絆深く育ったのだ、今さらこのような真似は不要だけど、
お前がそんなにも哀しむのであれば、歓んで。
剣はないけど、偽りではない。いいね」
「よくないわ、そんな誤魔化し、嫌よッ」
その手を振りほどこうとしてもがいたリリティスは、逆に立ち上がった兄の方に引き寄せられた。
「いったい何が気に入らない」
「アニェス嬢って誰なの、兄さん」
二人は本当の恋人同士の諍いのように、きっとなって向き合った。
シュディリスが云うように、兄と妹として育った彼らは昔からそれなりに兄妹喧嘩もしてきたし、
兄の寛容は男の怒りの変形であることを、
妹の激情は女の情の一過性の発露であることを、二人はそれぞれ互いに熟知しており、
それだけに普段は注意深く踏み込むことを避けていた、実際には兄妹ではない事実と
いざこうして向き合う事態になると、双方、
何か激しいもどかしさの中でのたうち回るより他なくなった。
それでもやはりシュディリスの方が自制が利いて、この場を切り抜けにかかった。
「もう遅いのだから、おやすみ、リリティス」
穏やかに、彼は妹の手を離した。
リリティスはもう泣いてはいなかったが、涙と花の雨に洗われて、
夜の中に狂い咲いた月の花のように、その姿は異様なまでに艶めいて映った。
シュディリスはそのようなリリティスと、これ以上は避けたかった。
この妹のことはいつも、他のことに比べて上手く処理できない。
「兄さんが今日、パトロベリ様に剣を向けたのは、アニェスという、その方のせい」
「お前には関係ない」
「アニェス様とは誰なの」
「ジュシュベンダに留学していた折、親しくさせて頂いた」
「恋人」
「そうとも云えるし、そうじゃないとも」
「いつお知り合いに」
「心のお優しい方で、それがあの方を倖せにするよりは、不幸にしていた。その頃に」
「どんな方なの、もっと話して。パトロベリ様とはどんな繋がりがある方なの」
屋敷に向けて歩きだしたシュディリスをリリティスは追いかけた。
「リリティス」
「私と比べて……」
妹の両腕が、シュディリスを背中から抱きとめた。
リリティスは兄の背中に頬を押し付け、子供の頃、お願いごとがある時には
兄である彼にそうしたように、その心に向けて訴えた。
(私を見て)
ざわめく樹々の彼方に、わたしたちが無邪気な兄妹であった頃がまだ優しく残っているのならば、
それをここに連れて来て。
「どれほどその方は、素晴らしい女性だったの」
身体に回された手に手を重ねた。シュディリスはリリティスの腕を下ろさせた。
そして振り返ると、妹を抱きしめて、左の頬に口づけをした。
「ここに」、とリリティスの頬から唇の上へと接吻でなぞりながら、彼は云った。
「深い傷があった。パトロベリ・テラは許婚のいた彼女と、共に駆け落ちをすると約束していた」
「………」
「アニェスの実家と、許婚の家の両家から逃げる二人に追捕がかかり、乱闘の最中、
パトロベリの剣は止めに入ったアニェスの顔を、誤って斬った」
左目が潰れ、刀傷は唇の上にまで入っていた。
先々代の血を引くパトロベリは正体が知れて、もう二度とアニェスに逢わぬことを条件に
無罪放免となったが、アニェスの顔は元には戻らなかった。
幽閉同然の毎日。
顔にヴェールを下ろして、家の奥深くで静かに過ごされていた。
「………」
シュディリスの接吻を受けながら、兄の冷えた髪が叱責のように顔や首に触れるのを、
抱きしめられたままリリティスは罰として冷たく受けて聞いていた。
きっと兄さんは、彼女にもこうした。
その傷の上に、こうして優しく、限りない彼の情熱をこめて、その愛を告げたのだ。
私ではなくその方の上に、慰めを。
そしてその情がどんなに深く激しいものであったかを、こうして私に教えているのだ、
私を突き放すために。
「兄さん……」
もがいたリリティスはさらに強く抱きすくめられた。
シュディリスは妹の髪を、まるでその人のものであるかのように、やさしく扱った。
重ねた唇には、熱い残酷があった。
「兄さん」
「アニェスはそれでも、彼女の人生を壊した男のことを怨んではおられなかった。
腕の中にいても、彼の面影を、あれは追っていた。もっと聞きたい?」
「兄さん、もうやめて」
耳を塞いで俯いたリリティスに、シュディリスは云った。
「お前のことが、好きだ。こよなく大切に想う、リリティス」
「………」
「妹として」
「………」
「おやすみ」
シュディリスが立ち去った後も、リリティスはその場に立ち尽くしていた。
兄の行為も最期の言葉も、その全ては、つまらぬ事で煩わせ、
昔の恋を思い出させてしまった兄の怒りの深さをリリティスに知らしめる為だけのものであり、
そのどこを探しても、リリティスの想いは肩に触れる花びらほどには、シュディリスには
届いてはいないのだった。
[続く]
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