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[ビスカリアの星]■四十



皇子宮に運ばせたその肖像画を、彼は飽くことなく、長い時間をかけて見つめていた。
美しい絵は巷にもあるが、それは、
お伽話の王子さまの名をつけたところで差し支えのない麗々しさでありながら、
微笑みを誘うよりは、見る者に魅入らせることを選ばせて、
若者の持つ大人びたその雰囲気につりこまれるようにして、
しばし人をその絵の前で押し黙らせ、いつまでも振り返らせてしまう、そんな絵だった。
心が冷やされるようだ。
帝国皇太子ソラムダリヤは手を尽くしてひそかに持ち込ませたその肖像画を、脇に押し退けた。
退けたところで、数刻のちにはまた取り上げて、じっと見つめているのであるが、
穴の開くほど眺めたところで画布が何かを応えてくれるわけでも、
絵の中に閉じ込められた時がほどけて進んで、そこに描かれた少年が
現在の年齢にまで成長して、青年となった姿をソラムダリヤに見せてくれるわけでも
ないことは分かっている。
それでもそれは愛しい少女に密接に繋がる人物の像として、彼には完全には
無視できないものだった。
リリティスの兄に嫉妬したところでどうしようもない。
それは彼とても分かっている。
理屈では分かっている、そんな但し書きをつけることで全てに解決がつくのなら、
世の中はもっとずっと、明解であることだろう。
ソラムダリヤはおもむろにまた絵を引き寄せて、壁際の卓上に立て掛けた。
それは、室内画であった。
かの国に留学していたその者が、当時ジュシュベンダ宮廷に出入りしていた
放浪の画家の眼に留まり、ジュシュベンダ君主イルタル・アルバレスの命により、その姿を
画布に写し取られたのだと聞いている。
白亜の塔。蔦で覆われた柱。中庭を行過ぎる雲影と、草の上の陰影。
帝国最古の大学である学び舎を背景に、その者は窓辺に佇んでいる。
卓越した技法や新奇を凝らした意匠というものはまったく見当たらないが、
窓辺に立つ若者と、向かい合った画家、学生のざわめきや書庫の書物にかぶる埃、
その絵は古都に流れる時のうつろいそのものを封印して、緑のそよ風をそこに
やさしく閉じ込めていた。
同じ言葉を使い、同じ歌をうたっても、歌い手によってまったく違って聴こえることがままあるが、
ごく定番の構図であり、眼につく斬新さもないながら、奇妙な強い迫力と魅力をもって、
その絵は見る者の心に直に迫ってきた。
この肖像画から聴こえてくるのは、人の心を揺さぶりだす、それだった。
もし特異なところがあるとすれば、その理由はむしろ絵の題材のせいなのではなく、
描き手の抱く並外れた真剣と情熱が、そのままこちらに伝わってくるからだと思われた。
画家の腕は既に完成をみていた。
そして完成することを画家本人が厭うて、避けているようだった。
溢れ出す情熱を、途方もない抑制心によって緻密な作業に抑え付け、
それはさぞや矛盾の苦悶を伴う苦しい作業なのではないかと思われるのだが、
その手間隙のかかる気の遠くなるような筆跡の隅々からは、この抑制と克服こそ、
おのれの情熱であり、晴眼の証であり、また求めるものなのだと、
声なき声で画家が勝利を高らかに叫んでいるかのようなところがあった。
そして、それでも制御できずに迸った感情が、その絵を精密で無機質な工芸品に
することを辛くも免れ、絵の生命ともいうべき情感を唯一無二のまま生き生きと
全体にとどめおくことに成功し、そこにこそ技巧の惰性を拒んだ歓びと、個の勝利の満足をもって、
放浪の画家はそこで筆を置いて絵を離れたのだ、確かにそんな感じがする画なのである。
それ故その絵は静謐でありながら、人の感情に訴えた。
悪い絵ではないが、見ていると疲れる。
と、云いたいところであったが、そこは画家の眼の高さと冷静が勝って、
色彩のひじょうに美しい、深々と薫風の抜けていくような、精緻で繊細な、優れた絵で
あることは否めなかった。

何よりも、画家がその情熱をそそぐのに選んだ、その対象がよかった。

ソラムダリヤはふたたび絵の前に立った。
年頃の近い貴公子ならば、意識もするし、その評判を耳にすればわが身と引き比べ、
素直に感心したり、友人にしてみたいと願ったり、反感を持ったりしてきたソラムダリヤだったが、
どういうわけか、もっとも名が挙がってよいはずなのに名が挙がらず、
もっと噂になってもよいはずなのに、ほどんどヴィスタの宮廷には
その噂が広がらなかったその者のことは、こうして姿絵を前にしてみると、
唐突に強敵が現れたような、居心地の悪い不安な想いを、次期皇帝である青年に覚えさせるものだった。
その存在を完全に失念したものとして今まで過ごしてきたのが不思議に思われるほど、
ここに至って、シュディリス・フラワンのその姿とその名はソラムダリヤ皇太子の胸に深く喰い込み、
へたをしたら愛する少女よりも執念深く長い時間、彼のことを想っているほどに、
何ともいえず心が騒いで、気になるのであった。
フェララで別れたリリティスの兄。
ついでに取り寄せた、こちらはさらに数がないようで探し出すのにも苦労したのだが、
フラワン家の末弟ユスタス・フラワンの肖像画も、兄の絵の横に並べてみた。
その間に、真っ先に入手したリリティス姫の姿絵の、一番のお気に入りのものを
揃え置いてみると、フラワン家の三きょうだいは、確かにきょうだいであると頷かれる
類似性を示して、家風を伝える精神性と気品を漂わせ、それぞれにしっかりとした
優美性を保って、絵の中に見事であった。
兄と弟に囲まれたリリティス・フラワンは、妹のフリジア内親王も確か同じものを持っていたはずの、
異国の鳥の羽根を使った高価な扇を軽く手にして膝にのせ、窓辺の椅子にかけていた。
青い扇と薄紅色の薔薇を重ねて持ち、背景はフラワン荘園であろうか、
なだらかな丘陵と、花咲く園の、緑豊かな田園を背にして、
翳りの中からこちらを見返している姫君は、黄昏に咲いた一輪の白い百合の花のように、
実にたおやかで、美しかった。
そこには監禁された建物から外壁を伝って降りてきた男顔負けの勇敢も、
短剣を振りかざしてソラムダリヤに襲い掛かってきた必死の形相も露ほどもなく、
何かやさしい言葉を云おうとしているかのような、静かな音楽にも似た雰囲気だけが、優雅に漂っていた。
指先で、そっと画布の姫君に触れてみた。
その首筋に、口づけしたその頬に。
温室の中で抱きしめた姫は、あの時と同じように、遠くを見つめているだけだった。
兄と弟の絵を床に降ろし、大きさ的にちょうどいい自分の肖像画をちょうど対になるようにその
リリティスの絵に並べておいて、頬杖をついてそれを見ていたソラムダリヤ皇太子は、
ほとんど無意識に、訪問者の訪れを許していた。
やがて、皇子宮にやって来たのは、フリジア内親王であった。
その前に兄は妹の目に届かぬように全ての絵を裏向けて、画を片付けていたのだが、
もちろん、真っ先にフリジアは兄の部屋の異変に気がつき、挨拶もそこそこに、
重ねて壁に立て掛けてある裏返しの画にまっすぐに歩み寄ると、
「ソラムお兄様、これ、なあに」、直裁に訊いた。
ソラムダリヤは言葉に詰まった。

「何といって。お前の見るものではないよ。フリジア」
「どうして」
「人の部屋のものに勝手に触ってはいけない。それは、その」
「あ、分かったわ」

くるりとドレスの裾を回して、フリジアはぱっと顔を輝かせた。
歳相応に幼い仕草であり、反応だった。
「ソラムダリヤお兄様の、お妃候補の姿絵だわ。いろんなところから送られてきている、あれね」
にこりと微笑んだ。
貝殻のように耳の横で髪を束ねて巻いたフリジアは、今日は珊瑚色のドレスを着て、
それが少し伸びた背丈に、可愛らしくよく似合っていた。
お妃候補。
リリティスについてはそのものずばりであったが、返答をしないでいると、
フリジアはそれを肯定ととったようだった。
もっともらしく頷いて物分りのいいところを見せると、しかし小首を傾け、
耳環を指先で揺らして大人びた顔を作り、
 「必死でお隠しになるから、わたくしてっきりね、殿方のお好きな、変な絵かと思ったわ」
ませたことを云う。
 「変な絵?」
 「わたくし、知らないわ」、横を向いて頬を染める。
フリジアの教育係りのご婦人は誰だ、一体どこでそんなことを覚えた。
ソラムダリヤは愕いたが、それにはあえて注意を加えぬことにした。
何といっても少々の猥談こそ社交の旨みであることも否めず、
フリジアも年上の姫君たちと遊んでいるうちに、意味も分からぬまま自然と、
覚えることもあるであろうと思われたからである.
ちょうどそこに届けられた珍しい菓子などを見せつつ、ソラムダリヤは露台に妹を誘い、
そうしてさり気なく、フラワン家きょうだいの画布から妹姫を遠ざけた。
危ないところであった。
何しろ中の一枚は、目下フリジアが熱烈に熱を上げている、白馬の王子シュディリスさまの
それである。
見つかったら、大変だった。
同姓の身としては「そんなにいいかな」と、無理にも文句をつけたい気持ちもあるのだが、
それを描いた放浪の画家とは何か通じ合うものでもあったか、ジュシュベンダ留学時代の
シュディリス・フラワンは、まるで興味がなかった頃に一度眼にしたことのある絵の中で見せていた
生硬な表情とは異なり、放浪の画家の辿った輪郭の中では少し打ち解けた様子で、
離れた処で待っている学友たちにでも語りかけるような、意味深な微笑みを宿した、若い眼をしていた。
その微妙を見事に写し取った画家の腕が半端ではないと云うべきであろうが、しげしげとそれを眺めた
皇太子の胸にまず浮かんだのは、「やっかいな人物」、そんな感想であった。
胸襟を決して開かぬくせに、こちらを油断させるような魅力を持った、そんな青い眼だった。
 「さて、あらためてご機嫌よう、内親王」
 「ご機嫌よう、ソラムダリヤお兄様。あ、このお茶にはお砂糖は入れないで。色がにごるの」
兄妹の会談は、仲のいい彼らの愉しみであった。
おもむろに、ソラムダリヤは自分の髪を指先で引っ張って、フリジアに訊いた。
 「ね。最近考えてるのだが、わたしもこの髪を銀色に染めてみようか。フリジアどう思う?
  そんな染料があったらの話だけど」
 「いやだわお兄様ったらいきなり何を云い出すかと思ったら。フリジア、可笑しいわ」
 「お前があまりにも最近、”シュディリスさん”にぞっこんだから。これ、兄のやきもちだよ」
 「だからね、フラワン家の皆様をヴィスタビアにご招待したら、そんなやきもちも、一瞬で消えてよ」
 「それ、まだ諦めてなかったのか」
 「お兄様にお似合いの、とてもお美しいお姫様が、あちらにはいらっしゃるのよ。
  かの方と御逢いしたら、もう、いろんなお姫様の間でお心が迷わなくてもよくなってよ、きっと。
  早くその日が来ないかしら。それとも、もうちょっとフリジアが大きくなって、綺麗になってからの
  方がいいかしら」
 「卓の下で脚をぶらぶらさせない、フリジア」
 「殿方の心を狂わす妖艶な美女って、どんな美女」
 「知らないよ」
 「ところでフリジア、いつも迷うの。この頃はそうなさいと教えられて、わたしを
  「わたくし」と、わたくしのことを云うようにわたくしも心がけているのですが」
 「あらたまった場所以外ではいいよ。フリジアの歳では、わたくしなんて不自然だよ」
 「それと同じように、いろんな云い方をするものがあるでしょう。
  ヴィスタビアが正しいの、それとも、ヴィスタチヤが正しいの」
 「古くはヴィスタチヤ。カルタラグンの治世の間はヴィスタビアに統一。
  われらがジュピタ皇家が返り咲いた後は、どちらでも、いいようだね」
 「どうして」
 「どのみち言語統一なんて、帝国では無理だからだよ。いろんな言葉が混じり合っていて、
  そのために帝国共通語があるくらいなのだから」
 「あら、では、トレスピアノにも、トレスピアノ語なんてものがあるのかしら」
 「あるのかなあ。聞いたことがない。あちらの歴史の方が帝国成立よりも古いのだから、
  昔は当然あったのだろうな。知らない」
 「知らない、知らない、ってそれ、お父様の口癖よ」
 「続いてこうだ。『ミケラン卿に訊いてごらん』」
 「うふふ、あはは。お兄様そっくり。もう一度やって」
 「やれやれ、我が父であり、畏れ多くも帝国皇帝たるゾウゲネス皇帝陛下におかせられましては、
  今だ政務のみならず、我が家の瑣末ごとまで、かつての学弟にすっかりお任せであられる。
  だいたいからして、どうして子供の頃のわたしの教師が彼だったのだ。
  極めて放任で寛容であるという一点において、ミケランはよい教師だったけれど、
  それでも何ともいえない重圧感を彼からは感じとって、叱られるまいとこれでも結構勉強したのだよ。
  彼の態度はいつも同じでね。わたしの出来がよくても悪くても、『よくお出来になりました』だ。
  ミケラン卿もおかしな人だ。父上と学友だったというが、頭の中身やその気性がとても
  釣り合っているとは思えない。それでいて父上がミケラン卿を疎んじたり、卿が父上に対して
  露骨に敬意を欠くということもない。レイズンはジュピタ家の家司ではないというのに、
  あの人はまるで、うちの執事だ」
 「それだけ、お二人は仲がおよろしいのよ」
ゾウゲネスとミケランの癒着と、その相互関係に露ほども疑念を抱かぬフリジアは無邪気に決めて、
兄が差し出すお茶のおかわりを口にした。
そんな妹の様子を見つめながら、陽射しの影にソラムダリヤはそっと呟いた。
だからといって、いつまでも彼をあのままにはしておけぬけれど。
 -----よろしいですか、殿下。
   この世を動かす根底にあるものは力でも知恵でもない。『嫉妬』なのです。
   その些細なつまらぬ、しかし激烈な感情に身を任せた者たちが、
   この世を躍動させ、清新し、活性化させてきたのです。
昔ミケランから教えてもらったその言葉、そのままわたしは貴方に返すよ、ミケラン卿。

(皇太子殿下、どうか今しばらく、ご静観のほどを)
(ルイ。わたしは一刻も早くリリティスを解放し、無事にしてやりたいのです)
(ミケラン卿はリリティス嬢を地下牢になど入れませぬ。かの地では客人として迎え、
 丁重に扱うことと存じます)
(何も今すぐ後宮に、いや、わたしの許に上がれというのではない。
 リリティスをトレスピアノの両親の許へ帰してやりたいのだ)
(殿下、ミケラン卿とて、フラワン家への遠慮はございましょう。
 皇太子殿下がリリティス嬢の正体を知っていることを承知の上で、
 卿はあのように殿下の御前からリリティス嬢を連行していったのでございます。
 そしてそれは、リリティス嬢の選んだことでもある。
 さればこそ、ご心配されておられるようなことは一切ないと、このルイ・グレダン、誓って申し上げる。
 未だに殿下への沙汰がないのは、これは一件についての殿下の関与には
 彼が知らぬ顔を決め込むことを、および、殿下にはこれ以上かかわることを止めるように、
 そのほうが賢明であることを、それとなくこちら側に知らしめているものかと思わます。
 下手に動けば今度こそミケラン卿はリリティス嬢に偽者の汚名を被せるやも知れませぬ。
 事後報告がないのは、いわばその脅しかと)
(ヴィスタチヤ帝国次期皇帝たるわたしに向けて、臣下が脅しを)
(殿下。ソラムダリヤ・ステル・ジュピタ殿下)
(いいよ。それなら皇居にとって返して、彼を召し出し、じきじきにわたしがミケランを詰問する)

しばらく堂々巡りが続いた果てに、ルイ・グレダンを前にして、癇癪を起こした
ソラムダリヤは机を叩いた。
リリティスは何らかの理由で、兄の犠牲になったにすぎない。
フラワン家の世継ぎと、ミケラン・レイズンの間に何があったかは知らないが、
卿はシュディリス・フラワンが握っている何かの、ミケランが欲するその何かと引き換えに、
その妹姫を人質として攫ったのだ。
湖の別邸にリリティスが監禁されていたのもそのためだ。人攫いこそ、ミケランではないか。
 「卿が動かしがたいのであらば、卿よりも早く、こちらがシュディリスを探し出せば良い。
  帝国中の草の根を分けても、シュディリス・フラワンを探し出します。
  これ、皇太子の意思である。ルイ、いいですね」
 「お待ち下さい殿下。早まった真似をしてはなりませぬ」
 「ミケランとてシュディリス・フラワンを探しているのでしょう。
  卿が何を考えているか知らないが、彼のよからぬ動きを阻止する為にも、
  彼より先にシュディリス・フラワンをこちらの手に入れることが肝要です」
ソラムダリヤは立ち上がり、真正面からルイと向き合った。
ルイ。
わたしは皇太子として、瑣末ごとには干渉せず見てみぬ振りをする大切さも、義務と
同様に知っている。だが今度ばかりはミケラン卿の好きにさせておくわけにはいかないようです。
ミケラン・レイズン卿が、ユスキュダルの巫女をユスキュダルから誘き寄せ、
謀殺を企んだというのは、本当ですか。
そして、帝国国土において巫女を拉致しようとするレイズン軍のその目の前で、
シュディリス・フラワンが巫女を奪い去ったというのは。そしてトレスピアノから姿を消したというのは。
 「……」
 「傀儡の皇帝の子も、同じように頭の悪い、何も知らないただのお飾りだと思っていましたか、ルイ」
ソラムダリヤは自嘲した。
明け方の湖。空から落ちて来たリリティスはまるで嵐にもまれた花のように、ひどく怖がっていた。
 「トレスピアノしか知らない深窓の姫君が、
  兄の無分別のとばっちりを受けて、偽者の汚名を着せられた挙句、
  その貴女の身に相応しからぬ扱いを受け、誰の助けも得られぬまま
  他国の片隅に閉じ込められている。酷い話だと思いませんか」
 「……」
 「起こったことを時系列で繋ぎ合わせていくと、それがどうもしっくりくるようです。
  目の前で起こるこれ以上の非道を、わたしは許してはおけません」
 「なればこそ、」
ルイはそんな若き皇太子の前に頭を低くして願った。
この老騎士の戯言など、お若い殿下のお心には届かぬこと、承知の上で重ねて申し上げます。
本件に深入りしないことこそ、殿下がリリティス嬢を護る、もっとも正しき道でございます。
 「手柄を独り占めしようというのか、ルイ」、冷たく皇太子は云い返した。
 「手柄とは!」、ルイは愕いて叫んだ。
 「リリティスをこれほどまでに心配し、救出しようとするこのわたしを、除け者にしておこうとするのか」
 「ソラムダリヤ皇太子殿下」
 「どうせ貴方もリリティスのことが好きなのだ。違いますか、ルイ・グレダン」
しまった。とソラムダリヤは思った。
熊に似た巨漢はその時、皇太子が云い放ったそれに対して、何ひとつ云い返さなかった。
背筋を伸ばして立ち尽くしたまま、埃くさい顔でぼんやりと見返していた。
ルイは無言の哀しみと、諦念の放心を小さなその眼に浮かべて、
傷ついた大人の顔をして、年下の若者が与えた言葉の重みに立派に耐えていた。
あれが演技なら、ルイ・グレダンはたいした役者である。
あれが悪かった。あの瞬間に形勢は逆転し、ソラムダリヤはそれ以上何も云えなくなってしまった。
 「ルイ。すまない。今のはわたしが悪かった」
素直に謝罪したソラムダリヤはやはり若くて甘い、というべきであろう。
その代わり、都にいそいで帰るなり、彼はやるべきことを断固として敢行した。
 「レイズンの動きに注意すれば、容易く知れる」
すなわち、何処かへ行方をくらましたシュディリス・フラワンの探索と保護を、
レイズンに先んじて果たすよう、近衛兵を通じてひそかに命じたのである。
結果ははかばかしくなかった。
それどころか、案の定、ミケラン卿はその隠密をくもの巣のごとく、帝国中に張り巡らせていることが
明らかになっただけであった。
そこを縫って断片的に入ってくる情報は、不可解かつ、突飛なものばかりであった。
シュディリス・フラワンと巫女はもはや一緒にはおらず(では巫女は何処へ往かれたのだ)、
その代わりシュディリス・フラワンはジュシュベンダのパトロベリ・テラと共におり(誰だそれは)、
そもそも、ひと眼見るだけで寿命が延びるような貴公子の絢爛豪華な殿様行列など知らぬ、と
聞き込みをした土地の者は一様に首を振る(どこでそんな尾鰭がついたのだ)。
どうやらミケラン卿はリリティスを別荘のひとつに監禁したまま、旧カルタラグン領、
現在は分割されてレイズンの監視下にある一帯へと何用あってか部隊を率いて
出て行ったようであるが、ではそこに、ユスキュダルの巫女がおわすのか。
さらには残りの聖騎士家、ハイロウリーン、ジュシュベンダ、サザンカも、
足並みを揃えて不審な動きを見せている。
北方オーガススィの動向だけは未だ不明であるが、雪山に遮られてもとよりあそこは腰が重く、
外交と貿易はしても、諸国問題には瀬戸際まで不干渉を決め込む国だ。
ハイロウリーン、ジュシュベンダ、サザンカ、オーガススィ。
ソラムダリヤはぞくりとした。
潰えたカルタラグンとタンジェリンを除く騎士家を敵と味方に色分けすれば、レイズンの
孤立は明らかである。
騎士家同士の抗争には表立っての不干渉を決め込んできた皇家ではあるが、
タンジェリン殲滅に慄く聖騎士家は、ここに至って危機感を覚え、連帯し、
レイズンに対して強行策を取ろうとでもいうのだろうか。
さすれば、内乱である。
 (むかしむかし、悪い竜がおりました)
乳母に聞いた昔話がソラムダリヤの胸に渦巻いた。

 (むかしむかし、空と大地を引き裂く悪竜を、退治しようとした王子がおりました)
 (旅をする王子に七つの家から騎士がつき従い、
  ジュピタの王子はやがて、フラワン家の乙女と出逢います)
 (竜の火炎はオフィリア・フラワンの身を焼かず、山も砕くその爪は乙女の髪をも傷つけず、
  聖女は青年を竜の火炎から護りぬき、黄金の焔は七つの方角に飛び散って、
  太古の騎士の心とともに、今もそこで燃えているのです)

何故、今さらフラワン家の名が浮かび上がってくるのであろう。
ジュピタ皇家とフラワン家が疎遠になったそのわけは、父皇帝とミケラン卿によって斃された
カルタラグンの翡翠皇子と、フラワン家に嫁いだオーガススィのリィスリ姫が恋仲で、
その遠慮があるからだという話を真に受けていたが、
むしろフラワン家の方から、ジュピタ皇家と距離を開けたように思われる。
何か別の理由がそこに隠されているのではなかろうか。
七大聖騎士家は、ジュピタ皇家の創成と共に、伝説であった。
 (空に輝く七つの星。あれは地上の炎を空に映しているのですよ)
シュディリス・フラワン。
弟妹ともども母方オーガススィの血を引く優れた騎士だと聞くが、
いったい、どんな声音を持ち、どんなことを考え、どのような振る舞いを見せる男なのだろう。
深々と、遣る瀬無い溜息をソラムダリヤはついた。
ソラムダリヤは、彼が羨ましいのであった。
フェララへ無断で遠出をしたことは、大騒ぎになる前にミケラン卿が手を回して知らぬうちに
一切が片付いていたし、ルイの家から出てみれば、いつの間にか卿の手配により
近衛兵たちが準備万端相整えて丁重に出迎えてくれるという具合で、
自分は、「あ、そう」とか、「ご苦労だったね」、と云うだけの、まさに間抜けであった。
父である皇帝陛下に至っては、
 「ソラムよ。これからは側近に黙って勝手をしてはならぬよ。
  二度とこのようなことをしてはならぬ。よいな」
何も知らず、青年のちょっとした悪戯程度にしか事態を捉えてはおらず、彼の頼みで
近衛たちのお咎めもなく、あっさりそのまま放免となり、小言程度で事は済んでしまった。
午後のお茶の湯気の向こうからフリジアがこちらを見ているので、ちょっと微笑んでやっておいて、
ソラムダリヤはまた物憂げに頬杖をついた。
リリティスのことは何としても救い出すと決めてはいるものの、どう足掻いても、
おのれの意思は常に「帝国皇太子」という壁に遮られて、
何をやってみせてもそれは形式の中に押し込められて、ただちに公的または、
意味のないものにされてしまう。今度のことだってそうだった。
それに比べて、レイズン軍からユスキュダルの巫女を奪い去り、たった独りで
ミケラン卿と対峙してみせるとは、シュディリスとやらは何と豪胆で、そして何と、自由なる者か。
肖像画の見かけとは打って変わって、果敢なる、そして不自由な立場の自分とは異なり、
思いのままのそれが許される騎士であるとは、何と羨ましきことか。
星の騎士とはそれほどにすごいのか。
同じ貴家の生まれではあっても、あちらはその横顔に既に劇的な物語を打ち立てて、
帝国の野を駈けている。あの銀色の髪をなびかせて、晴れやかに力強く生きている。
そう思うと、ソラムダリヤとて男、こうしているのが何やら堪らないのであった。

 (いや、もしくは、ただの愚か者かも知れない。評判ほどあてにならぬものはない)

ソラムダリヤは思い直した。
そして全ての憂鬱をまだ見ぬ、優男のとんちき野郎に決まっているシュディリスのせいにしておいて、
ミケランの手中に落ちたリリティスが、今どうしているかと、その心配にソラムダリヤの
想念はまた移っていった。
そこへ、まさにその一報が届いたのであった。
フリジアは兄が、ひどく愕いた様子で何度も、「本当か」「それは確かか」と、
侍従に真剣な顔で訊き返しているのを、露台から見ていた。
皇居の尖塔が雲のたなびく青空に高かった。
所在なく、一人になったフリジアは自分でお茶のおかわりを注いだ。
皇子宮の兄の許をご機嫌伺いで訪れる時にはいつも、侍女も遠ざけて兄妹二人きりで庭で遊ぶのだったが、
子供時代を終えた兄は妹に仕方なく付き合ってくれるばかりで、フリジアも、もうそれを望みはしなかった。
紅い花びらが風にこぼれて、日差しのあたる卓の上に落ちた。
幼い頃に、たくさん拾い集めて花冠にした、その花だった。
その横に何処からか飛んできた小鳥がとまった。
 「召し上がれ」
お菓子を砕いてやわらかな花びらの器にのせ、小鳥に差し出した。
人によく慣れた鳥で、えさを啄ばむ小さなその頭を撫でてやると、目を閉じる。フリジアは微笑んだ。
フリジアは知らない。
遠い昔、ここには一人の皇子が暮らし、華色の髪をした幼い姫君が、皇子と共に遊んでいた。
 (ヒスイ)
 (お前と遊ぶと疲れるよ。女の子は元気だね)
花びらの降る、永遠とも思われる歓びの刻をこの木の傍で過ごし、
彼らは笑いながらその日まで、ここにいた。
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裏切り者!
怒声と馬車の壁を蹴る連打の音に対して、エチパセ・バヴェ・レイズンは、
「これは異なことを」
あくまでも温厚を崩さずに、いたわしい顔を作って、申し訳を添えた。
態度は慇懃であっても、馬車の中に閉じ込められた彼らを道端から見上げるエチパセは、
悪友クローバと悪戯に励んだその若い日を彷彿とさせるような、満足味を帯びていた。
その顔つきが馬車に押し込められた者たちのいっそうの激怒を誘い、
若者たちが中で暴れいる馬車は、猛禽を閉じ込めたかのごとく、ぐらぐらと揺れた。
「裏切り者、無礼者。その方から受けたこの仕打ち、僕たちが忘れると思うなよ」
「やたらめったなことを口にされるのは感心いたしませぬ」
遺憾を表明して地方官エチパセは首を振った。わざとらしかった。
言霊と申しまして、口にしたことは先行きそのように運ぶと申しますれば、
不用意なことを人にもご自分にも口にされるのは、如何なものでしょう。
 「いかにもそれらしきことをそう述べているだけの、偉そうな説教など沢山だ」
格子のはまった馬車の窓枠を掴んでパトロベリは怒鳴った。
 「僕たちを誰だと思っている」
 「さあ、どなたでございましたか」
しれしれとエチパセは腹を揺すった。
彼は時間を無駄にはしなかった。
後ろに下がると、馬車を囲んだ護衛たちに命じて「出せ」、すぐさま若者たちを乗せた
馬車を走らせた。
 「エチパセ・パヴェ・レイズン!」
 「よい旅を」
後方に遠ざかるエチパセは、挨拶がわりに手を振った。
そして、さっさと背を向けて屋敷へと入ってしまった。
いきなり動き出した馬車の中では、パトロベリが盛大にひっくり返り、
そのあおりで、グラナンが、そしてシュディリスが押し潰されて、馬車の片側にまとめて転がり、
この中でもっとも怒っているシュディリスが邪険にそれを振り払った時には、
既にもう、馬車は坂を下って速度を上げていた。
 「暴れると、馬車の均衡が崩れます」
 「うるさい」
壁にぶつけた腕をさすっているグラナンにパトロベリは噛み付いた。
有史以来はたしてこの世の何人が、饗宴で出された盃に眠り薬を盛られる羽目になったのかは
しらないが、目覚めた時にはすでに、彼らは外から錠のかかった箱型の護送馬車の中であったのだ。
だから云ったんだ、レイズンは信用ならんと。レイズン家の連中は謀略が大好きなのだと。
馬車に運び込まれた彼らのために、敷布や籠に入った麺麭や葡萄酒も片隅に添えられて、
誰の配慮なのか、無聊を慰める駒将棋の一式まである。パトロベリはそれを蹴り飛ばした。
 「うるさいのは貴方です。八つ当たりするのはお止し下さいパトロベリ様。その大声も」
 「もっとうるさくしてやる」
パトロベリは床を這ってシュディリスににじり寄った。
揺れる馬車の内部は三人には広かったが、それでも男三人で閉じ込められれば
暑苦しいのには変わりない。
会話拒否のしるしにシュディリスは片腕を挙げたが、その手をパトロベリは払い落とした。
 「だいたい僕は君に云ったんだ。この酒の味は少しおかしいと。
  君のいた安穏とした田舎のトレスピアノはどうだか知らないが、これでも僕は
  ジュシュベンダ家の端くれ、子供の頃から毒薬の味は身を護るためにこの舌で覚えてる。
  だから注意しろと云ったんだ。これは呑むなと」
 「全員が呑んだ」
 「ああそうだとも、グラナンの奴だって口に含んで少し味がおかしいと云っていた。
  だけど香辛料の利いた異国料理のにおいや、その酒は地元の特産で、
  少し癖があるだの何だの、エチパセのおやじが同じ壷から注がせた自らのそれを
  飲み干しながら勧めるので、そうか、と思ったんだ」
 「全員が油断していたのです」
暗い顔つきで、それでもグラナンが鬱々と反省点を挙げた。
あれがいけませんでした。
クローバ様の手紙を見せられて、すっかり信用してしまった。
私たちの誰もクローバ殿の筆跡を知りませんが、それでもあの人を人とも思わぬ、
生意気盛りのこぞうどもだの、少し顔がいい奴が俺の姉リィスリの生んだ俺の甥っ子だ、だの、
 (三人の若者が後を追ってやがてそのあたりに現れる)
 (ユスキュダルの巫女の思し召しだ。挙兵の時を待てと伝えてくれ。彼らをよろしく頼む)
簡潔にして大胆な云い様は、まさしくクローバ・コスモス様のそれです。

 「まさか二通あるなどと、誰が思うでしょうか」

三人は揺れる馬車の中で膝を抱え、薄暗い床を睨んだ。
わが友クローバから届いた書簡は昨夜ご覧にいれたあの一通だけでなく、実はもう一通あるのです。
馬車の外で、エチパセはそれを掲げて見せた。 
窮屈な格子の間からそれを奪い取ろうとして腕を伸ばす彼らを微笑んで眺めながら、
エチパセは得々とクローバの手紙を読み上げてみせた。
いわく、
 『挙兵など、嘘だ。そう云っておけばひとまずは時を稼げる。』
 『兵を挙げたとしても、あのような半人前の若造ども、そこに加えてなどやるものか。』
 『詳しくは話せないが、彼らはミケラン卿に目をつけられている。捕まるとやっかいだ。
  同じレイズン家のお前にそれを頼むのは酷かも知れんが、
  そいつらまとめてミケランの手の届かぬ、何処か遠くへやっといてくれ。』
がたん、と馬車が揺れた。
時折ぱらぱらと音がするのは、左右に並ぶ護衛の馬や、馬車の車輪が土塊を跳ね上げる、
その砂礫の音だった。
窓から差し込む外の光は、明るい水色だった。
支材の鉄を張った板張りの隙間からは、上からも下からも外の明かりが零れ、
交錯する眩しい光は、飛び回る蝶のように揺れる車中、目障りにちらついた。
田園を走っているらしく、生ぬるく、土くさい空気が流れた。
ご丁寧に絹紐で束ねられて片隅に寄せられていた各々の剣に気がつき、
それを解いて狭い馬車の中で取り上げてみると、エチパセの指図か、一晩かけて
剣は中も外もしっかりと磨き上げられていた。
壁に凭れたシュディリスはクローバから譲り受けたその剣を縦に持ち、額にあてた。
馬車の動きが振動となって、頭に痛かった。
眠り薬をかまされた挙句に魚のように馬車に担ぎこまれる、思いがけずもそんな稀な経験を
したわけだが、だからといってエチパセに感謝するわけもない。
床に転がり落ちた杯、鳴り止んだ楽の音、潮が引くような周囲のざわつき、
「静かに、丁重にお運びせよ」とのエチパセの声、
宴の席に隣席していたはずの、何処からかき集めて来たのか知らないが、それぞれに美しかった女たち、
「本当に大丈夫ですの」心配そうにこちらを庇い、囁き交わしていたその声。
それでも自分は剣を抜こうとしたはずだ。
そしてそれを、エチパセの太い腕が止めた。剣が手から離れて落ちた。
崩れ落ちるこの身を支え、倒れる前に抱きかかえたエチパセはやおら感極まってこの身体を抱きしめ、
床に横たえるなり、声を潤ませた。眼を閉じて睡魔と闘うこちらの顔を覗き込み、
 「これがあの、トレスピアノに嫁いだリィスリの、生んだ子か」
エチパセはその名をそっと口にのせた。
 「さほどに時は流れたか。妖精のように美しく、
  カルタラグン宮廷の華と謳われたあのリィスリ姫に、このような大きな息子が」
 「リィスリ・オーガススィ。今はトレスピアノ荘園奥方、リィスリ・フラワン・オーガススィ。
  翡翠皇子の恋人であった。
  あの頃はてっきり、彼女が翡翠皇子の妃に選ばれるのだと、そう思っていた。
  あまりにも美しい、夜明けに咲く氷の花のような姫君で、到底、われらには叶わぬものと、
  イルタル・アルバレスと共に、遠くから眺めていたものだった。
  翡翠皇子が差し出した手に、一輪の輝く花のように寄り添っていた、リィスリ。
  歳の計算が合わぬことを知らなければ、まるで、このフラワン家のご嫡子は、
  翡翠皇子の子であるかのようにも思われる。この銀の髪、この容姿、リィスリよりも
  カシニよりも、亡きあの方に似ておられると思うのは、それだけわたしが年老い、
  カルタラグンの時代を懐かしむようになったせいであろうか。それとも、この面差しは、
  やはりフラワン家に代々嫁した、カルタラグンを含むさまざまな聖騎士家の
  混血の成せる、血の奇跡であろうか。この方を見ていると、過日の皇子のあの声、
  あの若々しい微笑みが、在りし日の宮廷の煌きと共にきらきらと甦り、この胸を
  淋しく満たしてくるようだ。そしてその翡翠皇子と別れて、トレスピアノに嫁いだ
  リィスリの子が、このように立派に大きくなり、イルタルの偉大なる祖父が老齢になってから
  得た青年を伴って、クローバ、おぬしの剣を持ってわたしの前に現れるとは、時の綾の、
  何と不思議なことだろう」

長ったらしい回想は分かったからその出た腹をどけてくれ、圧し掛かって重い。
混濁した頭でシュディリスは抗ったものの、眠り薬の力には勝てなかった。
もがく若者の手足を撫でさすり、エチパセ・バヴェ・レイズンは
幼子にそうするようにシュディリスの髪を撫でた。
そして感慨深く、時の流れを自身に確かめるように、青年を見つめて呟いた。
これが、シュディリス・フラワン。
エチパセは幾たびも繰り返した。
 「リィスリの息子か」
……その平凡なひとことは、奇妙な満足と安堵をもって、眠りに落ちるシュディリスの胸に
子守唄のように広がった。
リィスリの息子。
ずっと、身近な人間ではない誰かに、そう云って欲しかったのかも知れない。
他人から見てもそう見えるのであれば、それならばやはり、わたしの母はリィスリだ。
この世の誰よりも愛する人々。
あの美しい女人に、育ててもらった。
そして、古き土地トレスピアノを統べる、立派な父上に。
 ------シュディリス。リリティスとユスタスに気をつけやって。あなたのきょうだいですよ。
 ------シュディリス。支度をしなさい。ユスタスも連れて、男たちだけで今日は釣りに行こう。
わたしは父上と母上の子だ。フラワン家の。
 (ユスタス。リリティス。父上、母上)
昨夜の意識はそこで途切れている。 
目覚めれば、馬車の中だった。
馬車は走っている。薬がまだ残っているのか、馬車が大きく揺れるたびに、視界もしつこく揺れた。
 (フラワン家の世子と知りながら、薬を盛るとは)
さすがはクローバの友である。
フラワンこそはジュピタ皇家に次ぐ名家中の名家、だがその権威も一個人の悪戯の前には吹き飛ぶか。
不快感の残る頭を押さえ、剣を支えに壁に凭れたシュディリスは、
誇りを傷つけられたせいもあって口をきこうともしなかった。
一度ならず二度までも、カリアを奪ったことも含めてクローバ・コスモス、赦し難い。
そんなシュディリスの胸中を代弁し、
 「地理的にも遠く離れたレイズン家のエチパセと、コスモス辺境伯クローバ、
  そしてジュシュベンダ君主イルタル・アルバレス。
  まるで繋がりのなさそうな彼らが、昔からのお友だちだったとはね」
類は友を呼ぶとはこのことだ、苦々しくパトロベリは二人の向かい側に乱暴に腰を下ろした。
だからこそ、コスモスを失った辺境伯を、君主イルタルはレイズンなど何ほどのものかとばかりに、
家中の反対を押し切ってジュシュベンダにすぐさま迎え入れたのだな。
そういや、奥方のご自害、クローバ失踪の報を聞いた時、御前会議の場でありながら、
あの冷静なイルタル大帝が無言のまま額に青筋を立てて、何かに対して激烈に怒っていたからな。
御上はいったいどうしたのかと思っていたら、そういうことか。
友の窮地を見捨てず、また友が遣した手紙の求めに即座に応じて、いたいけな僕たちをこうして
馬車に投げ入れるとは、ご友情の篤いことで何よりだよ。
引き寄せた籠から適当に切り分けた麺麭や乾酪を喰い散らかして、
だが僕たちをこのような目に遭わせておいてただで済むと思うなよ、とパトロベリは
この場に居ない者に向かって凄んだ。
がたがたと揺れる馬車の中でパトロベリは息巻いた。そしてそれは、
クローバによってものの見事に騙された、三人の若者の抱く、全員の思いだった。
この時、若い彼らの頭の中からは、ミケランも巫女も、混迷する帝国の大事もふき飛んでいた。
虚仮にされたことをそのままにしておくような男は騎士ではない。
この屈辱、晴らさいでか。
馬車は走る。
 「あのおっさん、今度逢ったらどうするか覚えてろよ。滅多打ちにしてくれる」
 「わたしが先だ」
 「お二人を止めはしません。しかしその時には、騎士ビナスティをわたしに下さい」
 「よしよし、お前さんも怒っているんだな、グラナン」
 「彼女はジュシュベンダ騎士団に属する男たち全員の、憧れの女騎士です。
  あのような気立ての好い美人、よそ者のクローバ様に差し出すのは最初から
  もったいないと思っていました」
 「あてつけにクローバの目の前でビナスティのお姉ちゃんとやっちまえ、許すぞ」
 「そうしてもいいと思うほどのやり場のない気持ちです」
 「味見が終わったらこっちにも回せ、クローバのおやじを野放しにした罪で、お姉ちゃんを責めてやる」
そしてパトロベリは、「僕たちを何処へ連れて行く気だ!」、錠の下りた扉を蹴り、
走る馬車から外に向かってわめいた。


「第二部・完]



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