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[ビスカリアの星]■四十一.



あれは賭けだった、とミケランは遠い昔を回顧する。
騎馬を主力とする軍隊は、森林において、その勢いを大きく殺がれる。
分家所有の森林を手広く伐採することは、外敵からの天然の防壁を失うことも同時に意味した。
それでも、若き日、母の反対を押し切ってそれを敢行した。
分家領地の保全などにかかずらって生きるなど、まっぴら御免であることを
内外に示してやりたかった、その一念で断固そうした。
十代のはじめにそれを思いつき、森を睨んでいた少年は数年後、
家督相続と共に本家の承認を待たずに、森に手をつけた。
幾つかの砦を有した分家領地の、もっとも森の深いところへ、その斧の音は最初に響いた。
何百年もかけて分厚い年輪を成した大木を片端からなぎ倒して、森は拓かれた。
獣たちが逃げ惑い、行き場を失くした鳥が飛んだ。やがてそれも斧の響きと少年の差配の前に静まった。
黒い森が失せ、それにつれて徐々に空が広くなってゆくのを、ミケランは見ていた。
彼が切り拓いたのは森ではなかった。空の扉だった。
分厚い層を築いていた森が消えた後の明るい日差しに、吹き抜ける風に、生まれて初めてといってもいい、
晴れ晴れとした深い充足を覚えた。
ああ、何だって出来る。
何だって、叶えてみせるだろう。
称える者が誰もいなくとも構わない。
太古よりここに根を張って、永遠にここに在ると思われていたものを、こうしてわたしは動かすことが出来たのだ。
流れる雲の下、ミケランは切り株のひとつに脚をかけた。
点々と地を覆う森の痕跡は巨人が木々を踏みつけて通った跡のようだった。
その時、血管を駈け巡った熱い慄きを、彼は大それたことを仕出かしたがゆえの、その反動だとはとらなかった。
勇気と決断によって、誰もが為し得ないことを、わたしはこうして行うことが出来たのだ。
少年ミケランは俯いて、少し笑った。
身を貫いたその達成感は快感にもっとも似ていた。
今までわたしは何を恐れていたのか。
本家の顔色か、本家へ気兼ねばかりしている母か、それとも、人の耳にいつの間にか吹き込まれて、
かくあるべしと唱えられてきた、良心や慣習か。
これほどまでに簡単なことに、何を躊躇っていたのだろう。
これほどの充足と引き換えに、何を今まで抑えていたのだろう。
そのようなもの、吹き付けてくるこの涼風の強さに比べて、何ほどの値打ちがあったのか。
空と大地の間に打ち建てた、ささやかなるこの反逆の意志を持たずして、何ひとつ明日は発展しないというのに、
人は嫉みと臆病から隣人を森の中に引き止めて、そのくせ誰かが斧を手にしてやって来るのを待っている。
ならば、わたしがそうしよう。
森を拓いた後には、ここに新たな開墾を施そう。
領民を誘致し、数年の間は納税を減額免除する。
溢れ出た良質の木材を使って船を造り、船は森のない遠国に売り、その代わり海の彼方の属領国からは、
帝国に不足しているものを運ばせよう。高価で希少なものがよい。
鳥影が落ちた。
ミケラン少年は空の青さを仰いで、微笑みを浮かべた。
それには、港が必要だ。

内陸のレイズンは海を持たなかった。
しかしミケランはそれを不利とはしなかった。
不可能ではない、交易を担う船を有する商会を持てば良い。
しかしそれには、あまりにも分家の財は少なかった。
鉄筆を片手に、海上交易においてもっとも頻繁に多発し、打撃を与える、
天候による難破や海難事故による積荷の損失を防ぐ手立てをまず彼は探した。しばらく考えた。
そのためには、まず木材の売却で得た利益の一部で、都に金を預かる座を設ける。
貨幣価値の安定している金の座を設け、預り証と引き換えに預かった金には金利を加えてみてはどうだろう。
預り証そのものに価値を持たせることで、やがて預り証は金の証書として業者の間を回り始める。
金の代わりに発行される預り証が金と同等の値打ちをもって定着するまでさほど長くはかからない。
預り証は金の保有の確かな保証となり、そして預けた金を引き出した者は
金利を目当てにふたたび金を座に預け、そのためにそれを行う座には、
常に大量の金を保有している信用が出来上がるはずだ。
まずそこから始めて、この座の信用をもって、港湾の拡張権と貿易権を手に入れよう。
今も思い出す。
弟タイランも遠ざけて、何日もの間、机に向かっては、
他のどのような遊びよりも勉学よりも、少年時代の自分は実現可能な将来の計画に夢中になっていた。
黒髪の少年は手の中で金貨を回した。
笑いがこみ上げてきた。
有り金を一切失わずに財を築く方法を、何故今まで誰も思いつかなかったのか。
高価で稀少な、持ち運びの不便な金貨を箱詰めにして船に積み込むよりも、
金との交換を約束する預り証を導入することで、金は常に一定の価値を保証し、
貨幣としての金を用意できない他国との間の貿易にも為替を用いれば、
間接的な金との兌換が成り立つではないか。
さらには船が嵐で沈没した際にも、金そのものは陸の金庫に保管されて、
積荷もろとも海の藻屑と消えることも減る事もなく、一枚たりとも失せることなく、無事ではないか。
「ミケラン、本家の方々が聴いたら、いったい何と思うでしょう」
母は分家の財政改革に乗り出しはじめた長男を必死で引き止めた。
何かあれば私の顔が潰れるのですよ。お前は母がどうなってもよいのですか。
何という恩知らずな子なのだろう。後生だからこれ以上勝手なことは止めておくれ。
「母上」
本家、本家と騒ぎ立てる母を無視して、父の死後、正式に分家統領となると同時に、
黒い森に斧を入れた少年は、騒ぎ立てる母親を見下ろした。
女を御するのは簡単。
特にこのように何をするのにも侍女を引き連れて、数を味方にすることで威を増したつもりになるような、
お体裁屋の俗物なら尚更。ここで懐柔しておかなければ、この女、性懲りもなく息子よりも本家の有力者に、
哀れな母親を演じてけれん味たっぷりに縋り付くのは目に見えている。
「母上。今の話、聴かなかったことにしておきます。
 男の仕事に口を出す女人と世間に知れたら、母上が気の毒だ」
「何ですって、ミケラン」
「分家統領として、わたしは母上や弟タイランを、養っていかねばなりません。
 母上には難しい話は分からぬでしょうが、分家の財産は父上の代より減り続けているのです。
 帳簿も領民の戸籍もいい加減でした。このままにはしておけません」
「ですからね、そこは本家の方々と相談して、何事も、あちらのご意向に従って手を借りて。
 何よりも貴方、まだ学問所の学生ではありませか」
一度はたじろいだ母だったが、此度ばかりは彼女も負けられぬようで、
毎度お得意の話を持ち出してくい下がってきた。
貴方はまだ学生なのですよ。しかもそれとても、年齢がまだ足りぬうちから
都の最難関の最高学府へ上がれたのは、本家の推薦と援助があったからこそ叶ったことではありませんか。
その本家の恩をよもや忘れたわけではありませんでしょうね、ミケラン。
「恩人にはありがたく感謝して、今後も礼を尽くし、頭を低くして従うのが世の倣いですよ。
 それを分かっておいでかい。
 え、そこを分かっておいでなのかいミケラン。お前はそのように、恩知らずの子なのですか。
 優しい気持ちや人に感謝する気持ちはお前にはないのですか。
 今あるお前はすべて、本家の皆さまが眼をかけて引き立てて下さったお蔭なのですよ。
 その本家に無断で森を崩すなんて、怖ろしい子、怖ろしいことをする。
 お願いだからこの母の立場も考えておくれ」
「これ以上本家に迷惑をかけたくないと母上がご心配なさるのはごもっとも。
 ならば尚のこと、その本家より家督相続を認められた以上はわたし自身の努力と独立こそ、
 期待され、求められているものと、わたしは重く受け止めています」
「おほほ、口吻だけが一人前。そのような大それた。
 すっかり独りだけの力で生きているような気におなりだね。
 お前に何が出来るというのですか、傲慢ですよ、ミケラン」
母は笑いながら、ちらりと傍付の侍女たちの顔に視線を飛ばし、すると侍女たちの顔にも、
同様の笑いが広がっていくのを、ミケランは見ていた。
ミケランは眼を細めた。
母上、貴女などにそれを語ったところで始まらない。
恩に着せて回る人間などまことの恩人にはなり得ぬことも知らぬ、貴女のような低能に。
傲慢、大いに結構。それこそがわたしの求めるもの。
下劣な連中に話したとて、何になろう。
わたしの求めるものが、この驕りのもつ意味が、
本家の傘の下で汚い舌だけを動かしている、保身のことしか頭にないあのうるさい連中に、
一度でも、歪まされることなく、通じたことがあっただろうか。
誰に分かるだろう、既存のものを覆し、我が名を新しく刻んでいく、あの快感、あの解放。
本家の威光とやらを、飛び越えていく、金では買えぬ晴れがましいあの自由を。
わたしにしか分からず、出来ないことを、どうしようもなく湧き上がってくる変化へのこの渇望の、
新しき風を受けたいという希求の上昇を。
退屈と因襲はまるで牢屋のように息苦しい。
女のように、それに耐え忍んで生きるなど、どのような屈辱よりも耐え難く、
才覚に反する無駄な我慢はこの先の可能性の全ての放棄、それはわたしのとるべき道ではない。
この手で変えてみせる。
しかしながら、今度ばかりは母の反対も強固であった。
女は変化を厭うもの、そんな寛大をもってミケランは穏やかに、根気よく、
連日侍女を引き連れて憤然と部屋を訪れる母に、しかし毅然として云って聞かせた。
「家政は統領にお任せになり、母上におかれましては寡婦として、心安らかにお過ごし下さい。
 母上にとって、夫君の死後に急に口出しが多くなった、
 干渉好きの慎みを知らぬ、あれはかように浅慮で自分の見えない女であったのかとの評判と、
 優秀で有能な息子を育てた賢母の誉れとを比べれば、どちらが母上のためになるかを、
 母のお立場のためにも、わたしは忘れてはおりません」
「ミケラン。お前はこの母を莫迦にしておいでなのだね」
憤慨した母は今度は母子の情を脅しとして持ち出してきた。
「だけどねミケランや、お忘れではないだろうね、貴方は他でもないこの母から生まれたのですよ。
 お前がそこまで蔑ろにして貶めている、この母から。
 よくご覧、お前のその茶色を帯びた眸の色は、母の色とまったく同じです」
「もちろん」
平然とミケランは首肯した。それは事実である限り、何を恥じることがあろうか。
そして同じ色の眸を持っていたとして、それが同じものを見ているとも限らぬことも、また事実である。
ミケランは真正面から同じ色の眸を見返した。
黒い森を崩して空と大地をおし広げた次は、海だった。
「片時もそのことは忘れたことはありません。母上」


嵐の或る夜、小さな港を統べる胴元は、岬町の酒場に一人の若者を迎えた。
雨に濡れた黒髪から雫を滴らせ、黒髪の若者は酒臭い荒くれどもの間をまっすぐに進んで、
胴元に談合を申し出た。
嘲笑を上げて彼を嵐の表につまみ出そうとした漢たちは帰っては来なかった。旅外套が床に落ちた。
「こいつ、騎士だ」
驚愕が上がった。
いっせいに殺気を剥き出しにして武器を手にして立ち上がった取り巻きたちには、
その鼻先に彼らの仲間の生き血を飛ばすことで黙らせた。
「愉快だ。いずれのご家中の抱える騎士であろうか。少年よ、生きて帰れるとでも」
胴元は笑った。
若者は笑わなかった。
自ら高位騎士であることを明かし、そして名乗った。「ミケラン・レイズンだ」。
滞在が三日に延びたのは、気に入られた胴元から豪勢な歓待を受けていたからだった。
源流を辿ればもとは北方の海賊の出だという胴元は、長居は無用とそれを断るミケランに、
故郷のこの流儀だけは譲れないのだと訴えて、離さなかった。
つまらぬところに田舎くさい矜持をかけるものだと、その蛮行を軽蔑しながらも、ミケランはそれを受け入れた。
必要とあらば、何でもやった。
これでお前と俺は血で結ばれた兄弟だとほざく胴元には、微笑みで応えた。
潮風で肌の荒れた胴元の情人を抱くことで両者に盟約が成り立つのであれば、
野蛮であろうが無粋であろうが安いものだ、少なくとも教育を受けていない連中の頭に
金本位制度の仕組みを教えるよりは。
粗野な饗宴から解放されて、ようやく屋敷に戻ったミケランを出迎えたのは、許嫁のアリアケ・スワンだった。
アリアケは、本家が勝手に押し付けてきた将来の伴侶であったが、
内省的でおとなしいアリアケは幸いにして、ミケランの好みに適った。
本家への反抗心のままに断るつもりだった見合いをそのまま進めたのは、自分でも意外であったが、
アリアケが単純に彼の好みの女だったからでもある。
(------それにこれ以上本家に逆らって刺激するのは確かに得策ではない。今はまだ)
ミケランは馬から飛び降りた。
濃厚な悪徳を三日の間たんまり吸い込んで来た後では、黒髪をお下げにしたアリアケの姿は、
ことの他好ましく、清らかに眼に映った。格別美人ではないが、年上に似ずたいそう内気で、
周囲からその心を少し引いているところが、特に気に入った。
「ご機嫌よう、アリアケ。来ていたとは知らなかった。留守にしていて、すまない」
馬から降りたミケランはさっぱりとした顔で、許嫁に歩み寄った。
「貴方がヴィスタの学問所から休暇でお戻りだと聞いて、お母様が呼んで下さったのです」
「母が」
既にすっかり自分のものだと決めた年上の少女に、ミケランは微笑みかけた。
外套を肩から払うと、「海を見に行っていた」、正直に教えた。
「海に」
うん、とミケランは頷いた。晴れた空を見た。
「いつか連れて行こう。港をひとつ買ったのだ。
 それだけでなく水平線の向こうへと続く、海の道も、富を眠らせるその先の島々も。
 いつか見せてあげよう。海は恐れるところではなく、広々と青い希望であることを」
ミケランはアリアケの手を引き寄せて握った。
慣れた仕草だった。
そして、幼い少年が幼馴染にそうするような、夢中だけがそこにある、そんな握り方だった。
許嫁にそれを語るミケランの顔は輝いていた。
アリアケ、貴女にも南国の花園や貝細工はきっとお気に召すことと思う。
「その長い黒髪に似合う真珠を贈ろう。
 欲しければ幾らでもこのミケランが取ってくる。貴女のその身を飾るすべてを」
(一人きりでこの方は先に走っていかれてしまう)
アリアケは熱情的な少年が熱をこめて語り続けるその夢を、
困惑しながらも忍耐強く受容して聞いていたが、握られた手を握り返すことはついになかった。
その時アリアケが内心に覚えた淋しさには気がつかぬまま、ミケランは飽くことなく、
他の誰にも聞かせたことのない己の夢を、それからも滔々と語り続けた、まるで今まで家人には
隠し続けていた本性を、ようやくもの静かな許嫁の少女を得ることで思いがけずも
他人にさらけ出すことがようやく叶ったがごとくに、堰を切って溢れ出していく、その歓びのままに。
「貴女には隠し事はしない。だから海に行っていたことも、こうして全てを話す。
 云えないことも多少はあるかな。
 あったとしても、貴女が一番大切な人であることには変わらないのだし、
 それだけは今後も信じてくれていい」
ミケランはその頃から何もかもを独断で決めてしまい、アリアケは黙るしかなかった。
陽性で強いその心の奥底にカルタラグン王朝の転覆という計画を秘めたまま、誇らしく、そして若々しかった。
太陽光にその全身を縁取らせ、ミケランは云った。
「己の力を試して生きていきたい」
品のいい声がした。
ミケランの脳裡で、その男は静かに、華やかに笑っていた。

(ミケラン・レイズンと申します)
(ここにいるミケランはレイズン家の分家の出ながらも、飛び級を重ねた秀才で------)

学問所の教師に連れられて翡翠皇子の前に出たミケラン少年を、
翡翠は微笑みながら、そして細かなところまで視透す眼をして、しばし優しく眺めていた。
そして教師にはこう云った。
分家の出であることは、彼の努力にもその才能にも、関係ないと思うけれどね。
まるで歌でも吟じるような張りのある涼しい声で、翡翠皇子は甘やかに笑った。
でも確かに、少し有利かな。
いかにも才知ひとつで昇って来ましたという実力主義的な、その箔がね。
「ああ、これは意地悪で云っているのではないのだよ。
 積み上げた努力もその才能も、他の誰でもない、君だけのものだ」
カルタラグンの血統に特有な髪の色と、眸をしており、すらりとしたその姿を
皇子はわざとのように椅子にだらしなく斜めに傾けて、傍に小さな少女をおいていた。
「君のその努力を君は誇りにするといい、などと、わたしは云わないよ。
 そんなお褒めの言葉を人に押し付けて威張りだす下種は、もとより君の足許にも及ばない。
 そのように言い放つことで人の頭を蹴り下げ、人を認めてやることに一抹の満足を覚え、
 ちょっとした恩人気取り、上に立った気分になるのだろうね。
 それは自分の姿の見えない人間のやることだ。だからわたしは、云わない。
 まったく、恥を知らぬ人間は誇りも知らないね。誇りを知るからこそ、恥と高次の何たるかも知るというのに。
 よりにもよって、こちらからは云われたくないという顔をしている、そんなところがいいね。
 君の顔には卑しい心とは無縁の、誇りを知る者の強さがある」
何を喋っても、どんな仕草をしても、その振る舞いにはびっしりと、
生まれながらにして王冠をかぶっている者のもつ、輝かしい優位と優雅があった。
美しい皇子だとは聞いていたが、目の当たりにしたところで、
彼の美貌は審美眼がじゅうぶんに満足するという他は、さほどミケランには意味を持たなかった。
ひたすら彼は教師の後ろで、どこまでも明るく、どこまでも天性の魅力でもって、
悪意のない皮肉を軽やかに操っている皇子の、楽しそうな言葉に耳を澄ませていた。
翡翠皇子が憎いとも、慕わしいとも、思わなかった。
もとより、カルタラグンは世継ぎ問題で乱れたところに施政代行として乗り出したいち騎士家に過ぎず、
学問所で知己を得た学兄ゾウゲネス・ステル・ジュピタに対してはジュピタ皇家の存在としてそれなりの
尊重の念の必要を覚えるミケランであっても、カルタラグンの皇子など、皇子とも呼べず、
皇帝代行を担って三世代の時が過ぎた今となってもなお、
ミケランにとって皇帝代行を僭称するカルタラグンの治世は、それ自体が笑止千万、
かつての御世の惰性と栄華をそのまま引き継ぎ、さらにそれを腐乱させているだけの、
代理機能すらろくに果たしておらぬ華麗なる頽廃の茶番劇、としか映ってはいなかったのだ。
(ミケラン・レイズン。名を覚えておくよ)
そしてその無為なる象徴は、まさに眼の前に、煌びやかに立っていた。
翡翠皇子の後を追って共に部屋を出て行く少女は、立ち去る間際、ちらりとこちらを振り返った。
紅い花の色の髪をしていた。
(カルタラグンの御世はもう充分だ)
不穏を底に沈めた眼でミケランは無表情にそれを見送った。

(カルタラグン王朝に恭順を示してその足許に下ったタンジェリン。
 しかしそれを除けば、各国を治める騎士家は決して現状を認めるものではない。
 そしてわたしの傍には、ジュピタ皇族の男子ゾウゲネスがいる。
 白痴と見做されて廃嫡され、カルタラグンの擡頭と前後して百年前に傍流におかれた
 かつての第一皇子の血を今に伝える、由緒正しき、その直系が)

翡翠皇子の煌びやかな姿は、ミケランの胸に黄金の炎となって、ゆらゆらと燃えた。
いつか衰退して滅びるものならば、わたしがこの手で滅ぼして何故いけない。
いつか終わるものなのであれば、わたしがこの王朝に引導を渡して何故いけない。
伝説の竜が斃されたように、それを斃した側にも、また斃される日が来ることを、この手で証し立てて何故悪い。
これは回天期だ、手札の揃ったこの期を掴まずして、他に何を果たすのか。
翡翠皇子との会見の際に胸に芽生えた、誰にも果たせぬことをしてみたい、
誰もが踏むを怖れることをやってみたい、そんな、おのれの深いところからふたたび起こるあの前兆を、
そして数年後、それを見事おのれの手で果たした時の、天地が真っ赤に融けて身の内に
流れ込んでくるようなあの歓喜と充足の強烈を、ミケランはその後二十年経っても、
あの日憶えた色鮮やかと共に、忘れることはなかった。
あれは賭けだった、と彼は想う。
そこに思い至ると、我ながら苦笑がこぼれる。
皇居を強襲し、皇帝代行を僭称していたカルタラグン一族を皆殺しにした後はただちに、
交易から築いた財を惜しみなく投じて整えた私兵、傭兵をもってカルタラグン領を攻略、陥落にいたらしめる。
机上の上で組み立てたことは全てそのとおりに運んだものの、皇家再興を果たしたミケランにとって
想定外だったのは、主力騎士家の、不気味なまでの、沈黙であった。
諸侯は愕くほど速やかに新生ジュピタの前に足並みを揃えて下り、まだ若いゾウゲネス皇帝の前で
その施政に従い、それを補佐することを誓ったが、功労者ミケランの前は素通りした。
言葉にするならば、それはこういうことであった。
改新はレイズン分家の若造が、学生や分家子飼いの郎党を率いて独りで勝手にやったこと。
ジュピタの御世の再来は歓迎すべき祝賀であるが、それも元より知れたこと。
今しばし様子を静観し、ミケラン・レイズンなる者がかつてのカルタラグン家の愚を繰り返し、
皇位を脅かす兆候を見せ始めるであろう、その日を待とう。
レイズンなど懼れるに足りぬ、ましてやミケランなど、弱小分家の出。
その時にこそ、あの増長した小憎たらしい若造を叩き潰しても遅くはない。

各国の思惑を察したミケランは、すぐさま、表舞台から退いた。
宰相の座にも就かず、皇帝のいち友人の立場をとって、
臨席会議の席においても殆ど発言をしなかった。
それが彼を生き永らえさせた。
もしもあの直後に皇帝補佐として大々的に政治の中枢に乗り出していたならば、
死者の血で手を染めた意気軒昂な血塗れた分家の若造など、
思い上がった危険分子としか見做されず、
不吉の標として闇から闇へ排斥される憂き目をみたことは、ほぼ確実であったろう。
居並ぶ騎士家が黙っていたのは単に、ミケランが復古ジュピタの皇帝となったゾウゲネスの親友であり、
その信頼と寵を得ている、その理由のみであり、また、
騒擾の当初こそミケラン・レイズンとの無関係を躍起になって主張した他でもないレイズン家が、
これも時勢致し方なしとミケランの所業が各国から容認されるにあたって、
打って変わって皇帝を味方につけたミケランに対して、今度は強力な支持と幇助を
惜しまなかったからでもあった。
幼いソラムダリヤ皇太子の教師として皇居に出入りするミケランは、傍目には隠居も同然の、
政治家よりは学者、学者よりは芸術を愛でる好事家、
遠い島から出土する古代文明の古美術の収集と、その発掘に力を注ぐ、教養人だった。
(これはミケラン卿の策謀だ)
(後ろで糸を引いたのはミケランだ)
何かあるごとにその名は囁かれはするものの、彼はゆっくりと時間をかけて、焦らなかった。
彼はたとえどれほど私財を投じて軍備を整えようとも、ジュシュベンダやハイロウリーンを向こうに回しては
勝ち目がないことを知っており、また何よりも、彼自身が皇帝にとって代わる気など、毛頭なかった。
ヴィスタチヤ帝国は有力騎士家同士の互いのけん制と、自治の認可、
星の数ほどある土着宗教の信仰の自由によって、際どい均衡を保っている版図である。
カルタラグンとタンジェリンの失せた今、これ以上そこを掻き回すことは、
帝国成立以前の時代にまで世を後退させ、荒廃させることにもなりかねない。
そんな無駄を、誰が望もうか。
皇帝を表に立てておきながら、その背後で、時をかけてここまで成熟して発展した複雑を自在に操るほど、
親政の旨みを味わい得ることがあろうか。
それに、彼は決して無理な変革や殺戮を好む人間ではなく、ミケラン・レイズンはもっぱらこの二十年、
カルタラグン治世の間に文化の爛熟はみても、進歩としては他国の後塵をきしたヴィスタチヤの
再建と発展に、何よりの興味を持って過ごした。
彼は、野卑や過度の華美を嫌う一方で、洗練が好きであった。
趣味と教養の高いその眼で集めた工人を使い、惜しみなく彼らを優遇し、
竣工まで数年をかけてジュピタのかたちを様子よく、新しく造り変えていくことに、
この上ない創造の悦びと満足を覚えた。
結果としてそれらの公共事業は貧困階級にも新たな職を与え、都を活性化させ、
工事に用いる資材を含むあらゆる物資を流通させ、船が行き交い、金が動き、
好景気に乗じて都にミケランの設けた金座の金庫は天井知らずに増幅し続けたのであるが、
美観に対して妥協を許さぬミケランは惜しみなく私財を投じて都を舗装し、金をばら撒き、
また文化の保護に力を入れ、半ば浪費道楽とも思えるほどの使い方をするために、
さらには賄賂においても、先方が強欲であればあるほど、期待されるその倍額以上を平気で投げ出すために、
そのために集まる財はかろうじて金庫を破って表にあふれ出すことを免れている、そんな具合であった。
呆れた愛人エステラはいつか寝所でミケランに云ったものである。
ミケラン様のご趣味が極めて洗練されている点をのぞけば、
破産のその日まで浮かれ続ける、
妖精から金の出てくる壷をもらったお伽話の長者と変わりませんわ。


タンジェリン殲滅戦を除けば、この二十年の間の多少の微震も、
それはミケランの失策のせいではなく、天候不順によって局地的に穀物高が左右されるなどの、
やむを得ぬものに因るものであった。
それすらも民草にはまったく分からぬまでの最小限の影響のうちに、ただちに補整が果たされて、
ミケランの精巧なる施政手腕は誰からも文句のつけようもなく、
多方面に渡って行き届いたその即断即決の確かさと、先に備える才覚は疑いようもなかった。
精力的に、そして表立っては彼の名の出ぬように、彼は動いた。
酒を仕込み、醗酵を終えて壷から出したところで利き酒し、鑑定するに似たその慎重さは、まさに
ミケラン卿こそが帝国の機軸であることを内外に示すものだった。
それは彼が、己の私慾を度外視して、単純にそれを楽しんでいるからこそ出来たのであることを、
この世の誰が知りえたであろうか。
まだ新婚の夢の覚めやらぬ若いうちから発病した妻アリアケの永の病苦だけは見るに忍びなかったが、
ミケランはそれすらも疎かにはせず、良薬があると聞けば金に糸目をつけずに買い求め、
以前と態度を変えず、アリアケを変わることなく妻とした。
病が治ろうと治るまいと、アリアケは、追従もなければへりくだることも、悪意と嫉みをもって、
こちらを揶揄することも干渉することもない、やわらかに傍に寄り添う、必要にして貴重な存在だった。
夫が外に愛人を囲っていることも知り、そしてその慰めのはけ口として
実弟タイランと仄かな情を通じ合わせていたとしても、
アリアケはミケランの意に適う女であり、嫁いで来たその日よりその生涯は、ミケランに属するものだった。
就寝もせずに何かを沈思している夫に、珍しくアリアケは病床から訊ねた。
-----何を考えていらっしゃるの。
-----気にせずに、おやすみ。灯りが邪魔なら消そう。
-----でも、もう夜も更けましたわ。
-----貴女のために届けさせた薬のことを。薬草が咲く、その雪白の地のことを考えていた。
   有史以前、そこに星が落ち、その欠片をもって初代帝国皇帝は悪竜を斃されたという。
   今でもその周辺を深く掘り起こせば星の熱で出来た、翠や蒼の、硬質の硝子片が採れるそうだ。
ユスキュダル。
何年ぶりかに、その名はミケランの胸の暗がりに小さな星となってふっと瞬いた。
しかしその時に炎の芽を出そうとした何かは、アリアケの病み衰えた顔を見るうちに、
淡雪のように消え去った。
ユスキュダル。
弟タイランのかつてないほどの熱心な願いを聞き入れ、命を助けた、エスピトラルの姫。
さすがに改新直後は瑣末ごとにまで顧みる余裕がなく、その後も永年に渡って寝る間もないくらいに
あらゆることに忙殺されたが、その混沌たる日々の内に、
死の淵から甦った亡国の姫君は零れる水の珠のように、いつの間にか、ユスキュダルへと去っていた。
公用で他国に赴く途上、ひらけた荒野の地平の彼方に、
薄れゆく月と重なっている遠い雪山の稜線を見るたびに、ふと、あれが騎士の御霊の安らぐ霊地かと思い、
そこにあって亡国のその姫は、巫女としての永い余生を過ごしているのかと想うこともあったが、それも稀だった。
知ることといえばそれ限りであった。
もちろん、ミケランとて騎士である。
騎士家に生まれた限り、ユスキュダルの巫女の何たるかについては知っている。
そして誰も、誰ひとり、詳細には知らなかった。
ユスキュダルの巫女、それこそは竜が跋扈した創世伝説よりも何よりも、地上の神秘であった。
ほとんど誰もその姿を知らず、また霊地より滅多に外に出ることもなく、その霊力のおぼろげな輪郭のみが、
畏怖をもって語り継がれているだけであった。そして、その幻はどうかすると、
ミケランの首筋にそっと唇を寄せて、限りないやさしさで、それをミケランに教えるのだった。
たとえ高位騎士であろうとも、巫女の力の方が勝るのだ、と。
或る日、ふと思い出してさしたる関心もないままに取り寄せた古書を紐解いた。
そこに描かれた騎士を従えて進む巫女の姿は、舞い降る淡雪の中に立つ、光の幻のようであった。
稚拙な版画の中でも、その姿は職人の精一杯の技量をもって一つのともし火として描かれており、
舞い散る雪は放射の軌跡を描きながら、風を受けて巫女の四方に散っていた。
かように弱々しげなるものが。
本を閉じた。
夢の中、巫女は片手を挙げて、戦に敗れて傷ついた騎士たちを導いていた。
心迷う弱きもの、その苦しみや哀しみを、巫女は雪色の翼で包み、その羽根の先は星と砕けて、
その静かで、豊かなる包みは、薄明の空に静かに昇っていた。
その先は、星の海だった。
誰も行ったことのない、しかし往く手を照らす、果て無き静かだった。
帝国成立以前よりも、豪族フラワン家が一帯を治めていた古い時代よりも、
星の世界より降り立ち、地上にあった、女人の姿を借りた何かだった。
(ユスキュダル。-----ユスキュダルの巫女)
ぞくぞくと背筋が震えた。
その者、聖女などではない。
ユスキュダルの巫女の名を唱える時に覚える、この胸が締め付けられるような慄きは何だ。
耐え難い、この恐怖は。
熟考の後、呼び鈴を鳴らした。
現れた者に、ミケランは命令を渡した。
彼がかねてから慎重に送り込んでいた隠密の手を経て、極秘の命はユスキュダルに伝えられるだろう。
ユスキュダルに潜伏している、偽名をソニーといったか、犯した罪の免罪と、
こちらで抑えてある家族の命と引き換えに、騎士ソニーとやらは巧く立ち回って
わたしの思惑どおりにかの地で働いてくれるだろう。
都の上に広がる茜雲をミケランは見つめた。
紅く燃えて、あの改新の日のように、速い流れで、一度たりともそれは同じかたちでは空に留まらなかった。
いつか滅びるものならば、わたしがこの手で滅ぼして何故いけない。
伝承に包まれたままのユスキュダルの巫女の姿を、その蒙昧なる禁忌を、
このミケランが白日の下に曝け出して何故いけない。
たとえ取り返しのつかぬことになったとしても、王朝転覆に失敗して斬首、
またはとうの昔に荒くれ男たちの手で海に放り込まれていたかも知れぬこの身、今さら何を惜しむことがあろうか。
今こそその時、それを果たす時。
ふたたび這い上がってきた熱い慄きを、今度はミケランは不敵な微笑みでもって、体内奥深くに迎え入れた。
これを待っていた。これこそが、わたしだ。
全てに飽いてきたところだ。
わたしが求めるものは、永遠の名声でもなければ、俗世の地位でも財でも、かたちでもない。
野に斃れた無名の騎士と同じ、誇り高き彼らとまったく同じ、己に偽ることのない、
この簡明にして愚直なる、瞬間瞬間の、あがきとひたむきのためだ。
やがて燃え尽きる命であればこそ、そこに宿る心のはたらきを信じずして、何を信じて生きるのか。
この流露を愛惜し、それを高めようと想う気持ち無きところに、何を創るのか。
そして、ミケランは新たなる紙を広げて、非公式の文書をしたためた。
そこには紛れもない本心を、頭を低くしてまだ見ぬ巫女の心に切々と語りかけ、
真情のそのままを書き綴った。
偽りごとで騙せる相手ではないのなら、まことを書くほかない。
薄暮の切れ間が赤く燃え上がった。
彼は鉄筆を取り上げた。
タンジェリンが潰えた後、騎士家の均衡の崩れた帝国はよからぬ風が吹き荒れ、私怨と慾の跳梁を許し、
戦いによって生まれた復讐はその蔓を延ばし、鎮まりかけた版図をふたたび戦火で包もうとしている、
このミケラン・レイズンは世の安泰を望みこそすれ、決していたずらな興廃をこの手の中に遊ぶものではない、
美しいジュピタの都とて、数々の文明と同様にいつかは衰退を迎え、
永続するべくもないことは時の理なれど、失われていくものをとどめおかましと望むのも、
また果敢なき人の命のもつ抗いがたい業であることを、巫女よ、
わたしは正直にここに認めて、それを惜しみ、
己の無力の前にもっとも弱き者と心を同じくしてしばしの安寧への、希望を探す、
そのことは幼くして戦禍に遭われた御身にも恩讐を超えて、ご理解をいただけるものと信じるものである、
廉潔と全力をもって皇帝陛下より預かる都と民人の安息を護ることを、
この二十年、崇高なる義務として誇りにしてきた一念をここに差出し、拝跪して御身に願う、
過去の遺恨に囚われた憐れなる者の心を鎮め、
ジュシュベンダ、ハイロウリーンの二大聖騎士家を無血のうちに封じるには、巫女のおいでを乞う他なく、
何百年もの間巫女を奉じながらそれを知らぬ我らに、御心の清光を与えたまわんことを、
過去において引き起こした結末への責任と、慙愧とともにわたしは切に願う、戦いの終焉を、
人が決して超えてはならず、超えられぬものがあることを、
御身の御幸をもって今こそ知らしめたまえ、ビスカリアの星の下に生まれしユスキュダルの御方よ、
俗世の常を持ち込むのは恐懼なれど、それを果たされたその段には、動乱の収束をもって、
ユスキュダルに逃亡したるかつてのカルタラグンおよび、タンジェリンの敗残の騎士、
帝国の定める法を侵し、御身の庇護の下に逃亡したる者らの罪一等、大辟を免じ、
亡国の彼らに対し、あらたなる地位を持って帝国に迎え入れる所存である、と。
少し考え、文末の署名には数々の華々しい肩書きではなく、こう書いた。
騎士ミケラン・レイズン。
彼は書簡を巻いて、封蝋をほどこし、箱に納めた。
夕陽が落ちた。
残照の中、彼はしばらく、手を組み合わせて地平を見ていた。
焔の中に消えたものがふたたび暗闇にその姿を顕すのを、彼は待っていた。
熱波をまつらわせてこちらを見つめる、懐かしきあの圧倒。
清らかな月光を浴びて立ち上がる、威圧と、湧き上がる征服慾の胸苦しいあの昂ぶりを。
うつくしきひとよ。
ユスキュダルの巫女よ、さあ、ここに来い。
その力、わたしの前に見せてもらおう。



「続く]




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