[ビスカリアの星]■四十二.
街道を行き交う馬車の轍の音が、回る糸車のそれのように、いつまでも続いていた。
まさか、三人揃って木から吊るされることはあるまいとは思うが、
それも馬車の小窓から望める荒涼を見ては、気分も沈もうというものである。
行過ぎる村々の外れに揺れているものは、花や草ばかりではない。
馬車の格子窓から外を眺めて、グラナン・バラスは、シュディリスとパトロベリの両名に見えるものを教えた。
小休憩のために停止するのも、今朝からこれでもう三度目である。
天井から明かりは得られたが、日も傾いてくると、行く先も知れぬ馬車の中はさすがに暗かった。
護衛にあたっているエチパセの私兵の様子を馬車の壁をとおして窺ってみても、
囁き交わすかすかな気配ばかりで、得るものは何もない。
その不安を拭おうとしてか、休憩停止の時だけ外から被いが外される窓越しに張り付いて、
見える外の全てをグラナンは片端から細かく伝えた。
散文的なその報告は、今回も残念ながら、彼らの気持ちを浮き立たせるものではなかった。
村外れの街道脇に揺れているもの。
木からぶら下がった、縛り首の屍骸である。
「防腐剤を塗っているようで長持ちしています」
哀れな絞首体をまるで木造建築の屋根か何かのように、グラナンはひそひそと報告した。
「木の幹に罪状を書いた札が貼り付けられています。
どうやらあれは、主の留守中に奥方を寝取った下男のようですね。
告知文によれば刑の施行は三ヶ月前。防腐剤を塗っていなければ、
このような吹きさらしの野です、二週間もせぬうちに腐敗した遺体は鳥類に啄ばまれ、
ばらばらに崩れて下の地面に落ちたでしょう。あれは村民の手による見せしめの私刑です」
「帝国の法の届かぬ野蛮はまだまだ健在なんだな」
それを聞いたパトロベリはつまらなさそうに差し入れの果実を齧った。
姦通罪が罪になるなら世の中の男の半分は吊るし首さ、と一斉に笑い飛ばそうとしたが、
もちろん、シュディリスはそれに乗ってはこなかった。
シュディリスはずっと床の一点を見つめて、先ほどから殆ど動いてはいなかった。
毒に身体を慣らしてきたパトロベリやグラナンとは違い、シュディリスはまだ気分がすぐれぬようで、
少し休むと断ってから、大分経つ。
普段は無遠慮なくせに、相手が本当に弱っていることが分かるとパトロベリは途端に
気遣いの権化となるようで、少し眠れと勧め、敷布を整え、食糧もいちばんいいところを
シュディリスのために切り分けてやり、あとは大人しく隅に引っ込んでグラナンと駒将棋をしていたのだが、
この堪え性のない男はそれもそろそろ限界だったとみえて、「シュディリス、起きたか」、
ちょうど目覚めたシュディリスに、それでも優しく呼びかけた。
「起きたかシュディリス。君が寝ている間に、こうして馬車に閉じ込められたまま、
すっかり夕方になってしまったぞ」
「ご気分はいかがですか、シュディリス様」
返事はなかった。
ふたたび、馬車が動き出した。
「グラナンと考えていたんだが、」
咳払いをした後で、パトロベリは思うところを述べた。
「太陽の方角、山並のかたちから察するに、僕たちはどうやら、北へ運ばれているようだ。
歓べ、つまりこれはレイズン領に移送される最悪だけはないってことだ。
かといって僕たちが当初目指していたコスモスへ至る道でもない。
僕たちをこのような目に遭わせたあのけしからぬエチパセ・バヴェ・レイズンの奴の詳細が分かれば
行き先ももっと絞り込めるのだろうが、あいにくとグラナンもそこまでは把握していないそうだ」
「申し訳ありません」
グラナンは、苦々しい吐息をついた。
「なにぶん、レイズン家は二十年前のご一新以来、
分家のミケラン・レイズン卿に完全に枢機機関を奪われたかたちとなっております。
本家の方々についてはジュシュベンダ側も焦点を当てておらず、完全なる情報不足です」
グラナンは己が把握しておくべき事柄については重責を覚えても、それ以外については関知せず、
意味のない弁解や謝罪など一切の無駄と考えているような合理主義者ではあったが、
そのことについては一応の弁解と、分析を添えた。
他にすることもない馬車の中とあっては、そんな雑談も、彼らなりのいい暇つぶしだった。
「レイズン本家が分家出身のミケラン卿の台頭を許し、その跋扈を容認しているのは、
巷で云われているようにミケラン卿がゾウゲネス皇帝陛下の信任を一身に受ける、
皇帝の昔からの友人であるという、その理由だけではありません」
グラナンは「金です」、と床に積んでいた硬貨をゆっくりと財布に戻した。
先ほどまでパトロベリと囲んでいた賭け将棋の行方は、どうやらグラナンに有利だったようで、
負けが決定的になるとパトロベリは勝敗がつくまえにさり気なく盤から遠のいてしまい、
そこでグラナンは仕方なく、曖昧なままに勝敗を切り上げることにしたようだった。
馬の形の駒を盤から下げながら、グラナンは云った。
本家がミケラン卿の好きにさせているのは、それは彼が、本家の損になることを決してしないからです。
「エチパセ・バヴェ・レイズン様がレイズン領を離れ、
あのような辺鄙な土地の地方官に甘んじておられるのは、おそらくは正面きって、
何かミケラン卿に逆らうようなことをしたか、またはご自身の方から、本家ふがいなしとして、
レイズン家を見限られたのでしょう。
クローバ様のご友人とあればそれもあり得ることです。
ミケラン卿は本家に対して己の権勢を誇示して敵を増やしたり、
いたずらに刺激することを好む御方ではありません。
表向きはあくまでも本家を立てつつも、ミケラン卿は裏で相当な金を流し続けて、
その金の力で本家の彼らを黙らせている。これは通説であり、また事実です」
馬の進みに合わせて、馬車の中も振動で揺れた。
白黒の駒の上に、陽光が動いた。
グラナンは駒将棋の盤の上に手を伸ばし、ひときわ精巧な彫刻の施された黒駒を手に取った。
駒は黒と青と銀のレイズン家の表徴色に塗り分けられていた。
猛々しさと優美さを併せ持ったその駒を手に、グラナンは話を続けた。
何故ミケラン卿はカルタラグンに続いて、
他でもないレイズン本家の簒奪もついでに企てなかったのでしょうか。
当然のこと、当初のうちは彼もそれを視野に入れておられたに違いない。
むしろ、そもそもはそれこそが、彼が私財を蓄え、傭兵を集め、
向こう見ずとも云えるほどに大胆不敵に動き始めた動機の核であり、
彼の野心が最初に目指した目的なのではなかったのでしょうか。
しかし、ミケラン卿はそれをしなかった。
再興した皇帝の親しい友人であるということは、本家の強力な擁護を期待できると同時に、
諸国から危険分子として見做されるだけであることを、
単身で動くことはすなわち、英雄とならずんば逸脱者として排斥されるであろうことを、
お若い頃からミケラン卿はよくご承知だったのだ。
「頭のいい方です。それとも、主力騎士家から睨まれていた当時の彼には、
片手に有効に使える金を無尽蔵に持ちながら、
お家騒動などして遊んでいる暇はなかったと云うべきでしょうか」
ハイロウリーンや、堅牢なるわがジュシュベンダはともかくも、
これがもし旧弊なナナセラやフェララであれば、
本家と分家との間に起こった益のない諍いは、やがて内乱となって発展し、
そうなれば武力において劣るレイズンは他国の力を借りに走ったに違いありません。
傭兵を率いて聖騎士家を滅ぼす、そのような大それたことをしてのけた分家の無名の若者と、
聖騎士家レイズン。
カルタラグン家転落におののく各国があの当時、どちらの肩を持つかは明白だったことでしょう。
ここでいたずらに本家を退けることは、身を滅ぼすことにもなりかねない。
当時の卿はそこまで考えて、野心の手綱を引き締め、理性を取ったのだとわたしは思います。
「彼は本家に対して、共同統治も求めず、陰の狂言回しにもならなかった。
名実ともに完全に奪い取れる局面が幾度もありながら、現在に至るまで一度もその道は選ばなかった。
「どうせあれは分家の人間だから」、そんな優越感を本家に持たせておく一方で、
本家の実権を削ぎ取り、飼い殺し同然に放置した。
そうすることで、あろうことか彼はレイズン家そのものを暗躍する己の隠れ蓑がわりにして、
各国間との緩衝材として利用しているのです。
ミケラン・レイズンが高位騎士であることも、内外に対して有利に働いたことも否めません。
何となれば、当代レイズン家において、高位騎士の品階を持つのは彼一人だけだからです。
星の騎士を天位とすれば、それに比肩するのが高位騎士。
それこそ、騎士家を率いるに足りる何よりの標でなくて何でしょう。
ミケラン卿は確かに分家の出身ですが、ごく稀に本家よりもその脇筋のほうに騎士の黄金の血が
濃く出ることがある。そしてミケラン卿の上に出たのは、その濃縮された貴い騎士の血と、
政務と治安を司る家として連綿と続いた、レイズン家の、策謀の血だった」
グラナンの握る黒駒が手の中で斜陽に染まった。ゆらゆらと黒駒は燃えていた。
笑っているようにも、挑発しているようにも映った。
それがどうしたのだ、と云っていた。
引け目を覚えるのであれば、どうか君もわたしと同じことをやってくれたまえ、
もちろんわたしは邪魔などしない、興味がないのでね。
「騎士の血と、策謀の血」
グラナンは手の平の上の駒を見つめて呟いた。
わがバラス家には流浪の民に相応しく、占い生業とする者がいるのですが、
その者の占いを信じるならば、これは騒擾を世に呼び覚ます、最悪の血の組み合わせとか。
グラナンは口を噤んだ。
ややあって、脚を投げ出して座っていたパトロベリが感想を述べた。
「ミケランを賞賛するわりには棘のある口ぶりだな。奴さんに嫉妬かい、お兄さん」
悪路に差し掛かったようで、馬車が大きく揺れた。
パトロベリの揶揄にグラナンは若い自嘲を浮かべて、黙って散らばった駒を片付けた。
同じ現実家肌の観点から、グラナンは、ミケラン・レイズンに対しては大いに興味がそそられ、
また競争心も煽られるようであったが、その反面、すっかりミケランの傀儡と化して弱体化している
影の薄い本家に対してはほとんど関心はないようで、勢いその情報は断片的で、新鮮味にも欠いていた。
ましてや、その名すら聞いたこともないエチパセ・パヴェ・レイズンの名など、
こんなことでもなければ、一生涯その存在を知らぬままに過ぎたであろう。
「ミケラン卿とはお従兄弟とのことですが、パヴェがつくなら、
本家といっても外戚にあたられる方ではないかと。卿のご母堂が確かそちらのご出身です」
記憶を振り絞ってみても、レイズン本家に関してはこの程度の認識しか彼らにはなかった。
とにかくも、ジュシュベンダ組のパトロベリとグラナンにとっては、
さしたる成果なきままに本国に強制送還という、もっとも情けない憂き目をみる可能性が
無くなっただけでも嬉しいようで、南下せずに北へ往くと分かった時には、
「グラナン」「パトロベリ様」
抱き合ってそれを歓んでいたのだが、残る一人はそれにも加わらず、
エチパセに騙されたことをまだ怒っているのであろうか、今も馬車の壁に凭れて押し黙ったままだった。
寝起きの機嫌の悪さを差し引いても、刺々しい雰囲気で、うかつには近付き難い。
「シュディリス」
止せばいいものを、いけない時に限って喋り出すうかつなパトロベリはわざとらしい猫なで声で、
そんな彼に話しかけた。
そう気落ちするなよ。
剣を握り締めて沈黙しているシュディリスの肩を馴れ馴れしく叩いて、
パトロベリは首吊男の真似をしてみせた。
「こうして僕たちの剣が取り上げられなかったということは、状況はそう悪くない証拠じゃあないか。
エチパセがもし本当に辺境伯クローバや、大君アルバレスと旧知の仲ならば、
何処に運ばれるのであれ、僕たちをそう悪いようになどしないさ。気晴らしに外でも見てみろよ」
先ほどなんかは、木からぶら下がってゆらゆらと揺れている、姦通男の成れの果てが望めたぞ。
夕暮れ空を背にしたとても素敵な絞首体だった。絵になることまるで誰かさんのようじゃあないか。
「あえて誰とは云わないが、たとえば寡婦と通じた色男とかそのあたりとか、あはははは」
「それがわたしだとでも」
放たれたその口調の冷たさにパトロベリはシュディリスから飛び退り、
さらにグラナンに襟首を掴まれるまま、シュディリスの眼光が届かぬ隅にまで怯えて遠のいた。
数刻の午睡の甲斐もなく、シュディリスの機嫌も気分も未だに悪かったが、馬車ががたんと揺れるたびに
石でも呑んだような気分になるのは、あながちそのせいばかりではない。
その青い眼は憂鬱に沈んだ。
山際の光が馬車の中にも流れ込んで、シュディリスの眼の前の床に、小さなかたちを作っていた。
花びらか、夕陽の小舟に見えた。
小さなその耀きはエチパセから思いがけずもその名を聞いた時、雲の原の彼方に見たものに似ていた。
いつの夕刻とも分からぬ黄昏。淡い光に包まれてその人は眠っていた。
呼びかけても応えてはくれなかった。
ふたたび、あの透きとおる声が聴こえてきはしないかと、
何らかのかたちで必ず、貴女はその御許に自分を招いて下さるのだと、カルタラグンの曠野を
あてもなく彷徨う間そう信じて、それを頼りに、極度の不安にぎりぎり耐えていたものを。
銀珠の月の昇る夕暮れの湖、たゆたう黄金の波に独りきり、その身を預けているその姿。
眼を閉じたまま、何かと語っている。
露の命を細く細く繋ぐようにして、巫女は語らっていた。湖の底に広がる、銀を撒いたような星の空と。
(ミケラン・レイズンに裏切られました)
また、苦境のうちにあられるのではないだろうか。
しかして、クローバの手紙を通して、もしも後を追う自分たちにこのような隔離と追放を命じたのが
カリアその人ならば、想い人に対して自分はそこまで優しいままではいられない。
いかなる理由があれ、そのままにはしておけない。
シュディリスは剣を握り締めた。
この気持ちすらも淡雪に変えて包んでしまう、貴女のその慈しみこそが今となっては恨めしい。
その姿こそが懐かしい。
遠ざけられるなど、まるでこれでは子供扱い、それとも恃むに足りぬ男だと、お見限りになったのか。
さすればこれは、自惚れの罰か。
夕霧に浮かぶ太陽は、その間にも、田園の向こうへと燃え尽きながら落ちていこうとしていた。
馬音を響かせて、城門をくぐり、一行は街中へと入っていくようであった。
シュディリスは幻を追った。
あれは何処だ。鏡の内側の世界、または水面に映る幻燈のようだった。
星の渦巻く雲の彼方に、つかの間に見たもの。
あれは古代の塔だった。そして掠めるように流れた周囲の山や河には、見覚えがある。
古い見聞録、ジュシュベンダ宮廷のつづれ織り、フラワン家所蔵の銅版画に描かれたままの姿。
お伽話のように姿を変えない。
古図にもあった鐘楼、なだらかな丘。
辺境伯の称号とともに代々騎士が治めてきた、ヴィスタビアの封土。
コスモス。
「ご到着でございます」
しかし、エチパセの兵が馬車の中の彼らに囁き声で丁重に告げたのは、意外な土地の名であった。
「監獄に入るわけではなさそうだ」
パトロベリが皮肉を云った。
いつの間にか護衛の数は次第に増えて、しずしずと進む他国の兵と馬車の一行に、
見送る民は何事かと振り返ったが、道中は葬列のそれのように静かであった。
早駈けの伝令が早いうちから到いていたとみえて、先触れの遠い声も聴き分けられた。
やがて跳ね橋の上がる滑車の音がして、旧市街の壁址を越えた馬車はそこを進んだ。
停止するなりすぐさま馬車の錠が外されて、扉が開かれた。
夕暮れの風がさっと頬を叩いた。
建物で囲まれた中庭には彼らを迎えるために惜しみなく篝火が焚かれており、眩しいほどであった。
彼らは馬車から降りた。
長時間狭い場所で揺られていたので足腰が痛んだが、新鮮な空気を吸い込むと、それも癒えた。
ほのかにまだ明るみの残る空に黒々と聳え立つ、岩盤に囲まれた城砦。
背後で跳ね橋が上がり、彼らを残して城門がふたたび閉ざされた。
静かだった。
フェララかと最初は思った。
何となれば、出迎えの中に、その者がいたからである。
振り向いたシュディリスは歩み寄るその者を正面から見つめ、篝火に照らされたその者の姿に、
眼を瞠った。
先日トレスピアノで別れたばかりのその人影。
ここにいるはずもない者の姿であった。
巨漢を揺らして、しかしなめらかに、その者はシュディリスの前に頭を下げた。
ごうっと篝火の薪が崩れた。火の粉が空に舞い散った。
愕きを堪えて、シュディリスは眼をすがめた。
「ルイ・グレダン」
「また御逢い出来て光栄ですぞ、シュディリス・フラワン様」
二人はしばし見詰め合った。
彼らが以前出逢った時には、フラワン家長子シュディリスは父の名代として、
フラワン荘園の外れまで、今夕と同じ姿のルイ・グレダンを出迎えたのであった。
簡素な旅姿のシュディリスとは違い、ルイ・グレダンの方はその時と同じ、
深緑と金色の、フェララお仕着せの略正装姿である。
そしてここは、トレスピアノでもなければフェララでもない。他国の庭であった。
「貴方が、何故ここに」、篝火の明かりを背に、シュディリスは訊いた。
「上意と申し上げる他ございませぬ」、平静にルイは答えた。
「上意」
「その旨、おいおい、お話いたしますれば」
どうやらルイはシュディリスに対して大いに含むものがあるようで、沈痛な面持ちであったが、
それを此処ではおくびにも出さず、「こちらも。パトロベリ・アルバレス様」、
ルイは周囲の者が怪しむことのないうちに速やかに、パトロベリの方へと顔を向けた。
「道中、お疲れでございましたでしょう」
先刻からパトロベリは驚愕を隠さなかった。
意外なところで意外な顔に逢うものだまったく僕の人生何が起こるか分からないなあ、
首をふりふり、そんなことを口にしながら、「久しく」、ルイに軽く挨拶を返した。
ご息災で何よりでございます、ルイは身を折ってそれを迎えた。
「先の国境沿いの闘いの折には、温泉湯治を切り上げてまでして、
国境警備隊を率いて駈け付けて下さいましたな。そして、こちらは」
後ろにいたグラナンは、控えめに進み出た。
「ジュシュベンダ騎士グラナン・バラスと申します」
「ジュシュベンダ」
「彼は僕のお目付け役の従騎士だ」、パトロベリが如才なく紹介の労を引き取った。
「グラナン、こちらはフェララ剣術師範代ルイ・グレダン」
「は」
「よしなに、グラナン殿」
「騎士同士、慣例に従い、堅苦しい礼儀作法は抜きということでいいのかな。
何しろルイは騎士の大先輩だ。
ルイ、ここにいるグラナン・バラスは我がアルバレス大君の抱える精鋭、
若手騎士の中では有能さにおいて筆頭であること、その身許と共に僕が保証する。
シュディリスともども、よしなに頼む」
行き届いた挨拶ではあったが、最後の一言が余計である。
沈黙が落ちた。彼らは目配せを交わし、声なき声で、互いを探った。
七大聖騎士家と呼ばれるその下に、三ツ星騎士家、または衛星騎士家と呼ばれる国が三つある。
二十年前の政変後、今ではサザンカ、オーガススィを凌ぐ大国となったフェララ、
クローバ出奔の後レイズン家の監視下におかれたコスモス、
そしてフェララの北方に位置し、フェララの属領と化しつつある、ナナセラ。
そして此処は、そのナナセラの外れであった。
後で分かったことであるが、エチパセ・パヴェ・レイズンは武具の鑑定と収集を趣味としており、
好事家ならではの行動力で他国との交流が深く、職人顔負けのその鑑定眼が公平で確かであることから、
かえって篤い信頼を受け、あらゆるところに人脈を持っていた。
ひと眼でシュディリスの剣をコスモス家ゆかりのクローバ・コスモスのものと
エチパセが見抜いたのは、それ故である。
話がそれるが、特にエチパセと先代ナナセラ領主との間には、特に深い友誼があった。
家宝が埋まっていると信じて掘り起こしてみれば、紛い物の剣であったと憤る先代領主に、
たまたまその晩の宴の客人であったエチパセがその剣を見せて欲しいと申し出て、
偽ものどころか大変に希少価値のある金属から削り出された、この世に三本とない宝剣であることを看破、
自らが鍛冶場を指揮して曇っていた剣を打ち直し、
そのまま知らぬ顔で自分の懐に入れておけばよいものを、エチパセはそれもせず、
美しく仕上がった逸品を謹んで先代ナナセラ領主の許に送り返した、そんな経緯がある。
たとえ下らぬ品であろうと領主を前にしては無難に媚びて褒めそやす者が多い中、
エチパゼは良いものを良いと認め、それを信じるに足りるだけの、勇気と頑固と、高い審美眼を持っていた。
無慾なその態度に感激した先代のナナセラ領主はあらためてエチパセ・パヴェ・レイズンに
その剣を贈ったのだが、噂を聞きつけてこの名刀に興味を持ったのが、我らがミケラン・レイズンである。
甦った古代の遺跡物や二つとない逸品と聞けば金に糸目をつけぬ男は、その妙品を欲した。
しかしエチパセの侍従の話によれば、
ミケラン卿から届く直筆の手紙は全て部屋の片隅に丸めて投げ棄てられて、
猫がそれを転がして遊んでいたそうであるから、度重なるミケランからの剣の買い上げの申し出を
エチパセは軽々と無視して、積まれた金にも見向きもしなかったと思われる。
その結果、エチパセは地方官として僻地に飛ばされたのであろうか。
それは分からない。
ともかく、旧カルタラグンの地を彷徨っていた三人は、
エチパセ・レイズンの手により馬車に押し込められた挙句、ナナセラの城砦に送られたのであった。
そこに何故、フェララの賓客であり大使であり剣術師範代でもあるルイ・グレダンが
忽然として彼らの前に現れてくるのであろう。
事態の不可解さを訝って黙り込んでいたパトロベリとグラナンは、隣のシュディリスの様子が
さっと変わったことに気がついて、彼が見ているものへと警戒しながら視線を転じた。
シュディリスはたじろぎ、そして硬直していた。
石壁と篝火に囲まれて、柱の暗がりになって今まで気がつかなかったが、
ルイと彼らを見守るようにして、か細い人影がそこに立っていた。
それは女の影であった。
その面影にパトロベリは、誰かの名を口に上らせ、すぐにそれを打ち消した。
威厳をもって、高貴な女はそこに立っていた。
歳月にもその美貌を失うことなく、知的さと精神的な繊細さをたたえたその姿は、
残照から生まれた優美な精霊のようであった。
彼らを迎えるために焚かれた火の他に、色提灯も中庭の木々にあった。
女の姿はほとんど、その滲んだ灯りの中に埋もれていた。
よく知った女であった。このように小さな方であったろうか。
シュディリスは異様なほどの衝撃を受けており、強い感情に耐えて、
まるでその人がそこに居ることを怖れているようでもあった。
抱えていたものが一気に氷解してゆくと当時に、重荷を背負ったような気が彼にはした。
無力な青年と化したシュディリスは苦しげな吐息をついた。
シュディリスを見つめているその影もまた、静かであった。
その場で生きながら氷の像となったかのように、二人は見詰め合っていた。
やがて、女を迎えに行ったのは、シュディリスの方だった。
シュディリスの腕が上がるのを見て、人は皆、シュディリスがその女を打つのではないかと一瞬思った。
それほどその動きはぎこちなく、そして次には抑えきれぬ衝動にあずけられて、
衆目の中で崩れるようにして若者がその女に凭れかかり、女の肩を抱いて
そこに顔をうずめるのを、人々は見た。
火影が揺れた。
どうして此処に。
ルイに訊ねた同じ言葉はここでは出なかった。
ようようにして彼が振り絞った低い声は、気持ちに反して、女への批難になっていた。
「--------来ては行けなかったのに」
シュディリスは、繰り返した。
「貴女はここに来てはいけなかったのに。何故、ユスタスやリリティスの許にいてやらないのです」
女は幼子をあやすようにシュディリスの頬に手を添えた。
では、やはり貴方は何も知らないのですね。彼らと、一緒ではないのですね。
女は静かに云った。
「ユスタスとリリティスも、貴方を追ってトレスピアノを出ました。二人とも行方が分かりません」
叱責を受けた子供のように、シュディリスは眼を伏せた。
苦しげにその名を呼んだ。母上、母上。
それは、フラワン荘園のトレスピアノ領主夫人、リィスリ・フラワン・オーガススィであった。
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どのような人脈があり、またどのように説明をしたものか、
エチパセの急な依頼を受けたナナセラ側が極秘のうちにも準備万端整えて、
エチパセの許から送られて来る彼らのために用意したのは、
街道の道筋が変わったことで本来の砦としての役割を放棄し、
現在はそちらの街道から入る貴人を迎える玄関と迎賓館としての役割を担う、ナナセラ郊外の小城であった。
夜も更けて、今日のことを済ませたルイ・グレダンが室に下がろうと歩いていると、
彫像の陰に、彼を待ち構えている者がいる。
それは予期していたことであったので、ルイはそのまま、そこへ向かって歩いて行った。
「ルイ」
それは、シュディリスであった。
影から飛び出して来たシュディリスは、彼にしては無遠慮なことであったが、ルイの腕を掴んだ。
ルイはそっと若者の腕を降ろさせた。
すらりとした若者の影と巨大な大男の影は、他に通る者もいない無人の廊下を塞ぐようにして向き合った。
ルイは自分にひたと注がれているシュディリスの真剣な眼を見つめて、
今宵くらいはリィスリ様の傍にいて差し上げることですぞ、とやんわりと咎めた。
「何しろ情深いあの御方は、
それぞれに好きなことをする勝手なお子たちの為に心配で胸を傷める日々を過ごされた挙句、
旅に不慣れな女人の身に無理を重ねて、トレスピアノから駈け付けて来られたのですからな。
シュディリス様もご覧であったでありましょう、
我々だけで囲んだ晩餐の間も、しっかりと気丈に振舞われておられたが、
ひじょうにお疲れで、重なる心労のせいか、すっかりおやつれになっておられる」
「母のことは、云われるまでもありません」
「ならば」
自責の念も手伝って顔を険しくしたシュディリスであったが、それでもそこを退こうとはしなかった。
「わたしは知らなければならない。ルイ、貴方は何故ナナセラにいるのです。
そして母とはフェララで逢ったと云われた。何故母がフェララに向かったのです。理由を知りたい」
「リィスリ様は、なんと」
「母は何も」
シュディリスは焦燥に俯いた。
彼らがナナセラに到着したのは、シュディリスたちよりも数刻違いの、今夕のことであったという。
ルイの言葉どおり、リィスリは疲労が深く、美しかった容貌にも美しいままに、薄い影がさしていた。
シュディリスに逢えたことで、張り詰めていた糸が切れるように安堵したのであろうか、
先刻寝室まで送り届けると、リィスリはそのまま崩れるように眠りについた。
夕食後、ルイが手配した医師の質問に口数少なく答えるその横顔には、
ひたすらに心配で心を暗く塞いで過ごしてきたいたましい疲労だけがあり、
そんな母の姿はそのまま深い後悔となってシュディリスにも猛省を促したが、
合間を縫ってこちらから何かを訊ねても、母はいつものようには応えてはくれず、
何故トレスピアノに居るはずの母がルイを訪ねてフェララへ、
それからルイと共にナナセラにまで強行ともいえる長旅をしてきたのか、まったく不明のままであった。
いつものように慈善院へ行くふりをして荷を積み込み、馬車に国境越えを命じて
そのままトレスピアノを後にしたと聞いた時には、出し抜かれた父の心痛を推し量って眩暈がしたが、
母は何を信じて、遥々、遠いフェララにまでルイの許を訪ねたのであろう。
トレスピアノに嫁いでから此の方、リリティスとユスタスが生まれてからは尚更、
ほとんどフラワン荘園から遠出をしたことがない方だというのに、一体何がそのように、
母に決意させたのであろう。
それを知るまでは離さぬつもりで、シュディリスはルイの往く手に立ちふさがった。
それを受けて、ルイは顔を引き締めた。
朝霧の中、白い幻のようにフェララのルイの屋敷に突然現れたリィスリ・フラワンは、
何をおいても優先すべきものを持つあらゆる時代の母の心そのままに、蒼褪めた面持ちで、
それでも威厳をもって、馬車から降りた旅装束姿のまま、ルイを真正面からひたと見据えた。
陽光を氷に変えて、風に輝く、北方の空の眸であった。
リリティスは、何処です。
(よくぞ無事にフェララまで辿り着かれたものだ!)
それが、リィスリを出迎えた時のルイの正直な気持ちであり、愕きであった。
さぞかしご心配であろうと、リリティスの無事を知らせる手紙を領主夫妻に宛てたことが
裏目に出たという他ないが、まさかお子たちに続いて奥方までも領主の許しを得ずに
(とリィスリ本人が告白したのである)、無断でトレスピアノを出て来るとは。
控えめで、涼風吹き抜けるような、気品ある穏やかな人々。
緑に囲まれたフラワン家に対するルイのそんな印象は、どうやら表層的なものであったことを、
ルイは認めないわけにはいかなかった。何という無謀かつ勇敢、加えて情に突き動かされやすい、
熱情的なご家族であろうか。
ルイは心底感嘆した。
不可侵領トレスピアノという特殊な風土が、時を止めたようなあの豊かな自然が、
宮廷におけるややこしくも陰湿な社交とは長年無縁であったことが、
彼らのこの素朴なまでの視野狭窄を、このいとしいまでの直情的な愛を、
その気高き心のままに、清流のごとく強く育んだのであろうか。
薄く暮れていく空の下、黄昏の星を見つめていたリリティス嬢。
仲睦まじく何かを話しながら、庭で夕涼みをしていた若きご兄弟。
温厚でまことにご立派な御仁であられた当代領主殿、
そして今もその美しさがヴィスタチヤ中の語り草となっている、麗しき奥方。
その実、そこに連綿と脈打っていたものは、竜の前に身を投げ出したオフィリアの血であり、
あらゆる聖騎士の黄金の血の混血であり、夜空にきらきらと光を放つ、
至高の精神の高さ、その純潔であった。
それをして、高貴なるリィスリはルイの手紙を受け取るなり、居ても立ってもいられずに、
トレスピアノを後にして、ルイ・グレダンの屋敷に娘を迎えに現れたのだった。
そこに或るのは高御座に相応しからぬ愚かな短慮ではない。
ひたすらに愛し子の無事を願う、何よりも強い母の愛である。
それはルイを感動させた。
しかし、ご存知のように、リリティスはレイズン領に移送されて、もうそこには居なかった。
ルイは正直にそれを伝えた。
それを知った時のリィスリの失望はいかばかりであったであろうか、しかしこの
北方騎士の血を持つご婦人は、わめき立てることも取り乱すことなく、一見して冷酷無情とも
思えるほどの自制心をみせて、思わず差し伸べたルイの腕にも縋ることはなかった。
わたくしは、あの娘を取り戻します。
蒼褪めてリィスリはしっかりと申し渡した。
育ての親として責任のがれなど致しますまい、夜毎後悔しない日はなかったことを、
誤魔化したりは致しますまい、
このところ、幼い頃からのあの娘の姿がしきりに浮かんで、「お母様」そう云って微笑み、
膝に甘えてくる小さな頃のリリティスの夢ばかりをみるのです。たまらぬ気持ちで目覚めます。
ルイ・グレダンさま、娘に何かあったら、それは全て、わたくしのせいです。
あの子を騎士にすることを許したわたくしのせいです、わたくしが、悪かったのです。
「シュディリスとユスタスは男子、それも、二人とも並々ならぬ騎士です。
シュディリス、そしてユスタスについては、
わたくしにも常日頃から覚悟の決まるところがございます。
ですがリリティスは、ただ一人の娘であるあの子だけは、
どうあっても倖せにしてやりとうございます。
同じこの空の下にまだ生きているのであれば、どうあっても、
娘を故郷に取り戻して、父母の庇護の許、幸福にしてやりとうございます」
ルイさま、わたくしは後悔しております。リィスリは悔恨を打ち明けた。
兄の真似をして、弟に負けまいとして、あの子が木彫りの剣を手に取った時に、
何故わたくしは、怨まれてもよいから、それを止めさせなかったのでしょうか。
聖騎士家に生まれながら、騎士としては育てられなかったわたくしの心残りを、
愛する人を護り、その傍で共に戦うことが出来なかった悔いと、癒えることのない無念を、
わたくしはあの娘の上に、リリティスの上に投影して、娘が騎士として晴れやかに生きることで、
何がしかの溜飲を下げ、おのれの過去の埋め合わせを得ようとしていたのではなかったでしょうか。
恥をしのんで白状いたしますれば、もしやわたくしは、
翡翠皇子が妃に選んだタンジェリンの姫が騎士になったと聞いた時に、浅ましき女の心のはたらきで、
わたくしの娘を同じ騎士にすることで、二度とふたたび過ちを繰り返すまい、
女の競争心でもって、負けはすまいと、僅かなりとでも想いはしなかったのでしょうか。
「であればこそ、今日この日、
あの娘の上に降りかかっている苦難はすべて、このわたくしのせいです。
騎士の精神に耐えるにはあまりにもやさしいあの娘の心が、
次第に崩れていくのを知りながら、そ知らぬ顔をして眺めていた、このわたくしのせいです。
ルイさま、かくさずに、リリティスの行方をお知らせ下さい。
わたくしはそこに行き、この命を投げ出しても、何としても、リリティスを連れて帰ります。
リリティスを倖せにしてやります。
あの子が小さな子供に戻って、こうしている間にも、「お母さま、お母さま」と、
小さな手で壁を叩きながら、助けを求めて泣いている気がいたします…!」
奥方さま、ルイは感激しながらリィスリを支えた。
そのようにご自分をお責めになってはなりませぬ、奥方さま。
奥方さまは誇り高く、聡明な御方ゆえ、
愚か者や恥知らずには決して向き合うこともせぬような過酷な自省心をもって、
そのように次から次へと容赦なくご自分をお責めになられるのでしょうが、
さようなことは決してないこと、他でもない奥方さまが愛し、奥方さまを愛しておられる
フラワン家の方々が、よくご承知でございます。
ルイはやさしくその無骨な手で、リィスリの手を取った。
世のご婦人の誰よりも賢くお優しくご立派な貴婦人であられるご自分のことを、さように追い詰め、
全ての責を引き受け、ご自分をご自分でそのように責め立てる物語をお作りになって、
それでなんとなりましょうや。
さあ落ち着かれて下され。
ルイは邸宅の中にリィスリを案内し、下男に命じてあれこれ整えさせるかたわら、
大きな身体には似合わぬ深い想い遣りを示して、リィスリを肘掛椅子に休ませ、ねぎらった。
彼は事実を述べた。
書面で申し上げましたとおり、リリティス嬢は確かに一度はこの家にご滞在であったのです。
それをたよりにこのようなあばら家までおはこび下さった奥方さまのその一途は、
母心として当然のもの、このルイ・グレダン、頭の下がる想いです。
ですがリィスリ様、とルイは云った。
ここは是非とも、このまま引き返して、トレスピアノに御戻りいただきたく。
背筋を伸ばしたまま頑として聞き入れぬリィスリに、ルイは言葉を重ねた。
「おそらくは奥方さまがトレスピアノを出てフェララにお入りになったことは、
とうに各位に知れるところとなっているかと。
よくぞ此処まで、よくぞ、ご無事であられました。
リリティス嬢につづいて、奥方様まで、よろしからぬことに利用されるものではあってはなりませぬ。
万が一にもそのような仕儀に相成りました時には、このルイ、
カシニ様の前で自ら命を絶って詫びるほか、此度のことはお詫びのしようもございませぬ」
「よろしからぬこととは、何のことです」
そのようなリィスリの決然とした面持ちは、実に、娘のリリティスに似ていた。
すこし躊躇したが、ルイはやがて決意して、リィスリの前にリリティスの手紙を差し出した。
それはミケラン卿の許に拉致されたリリティスが、ルイに宛てて書き送ってきたものであった。
それをルイはリィスリに見せた。
「ご覧のとおり、リリティス嬢のお命はご無事であられます」
ルイさま、とその手紙の中でリリティスはルイに呼びかけていた。
『ルイさま。
私はミケラン卿のお招きにより、
ミケラン卿の湖の城で、客人として手厚くもてなされております。
風光明媚な美しい処です。ここでなら、私の身体もすぐに癒えるでしょう。
弱り果て、道に迷っていた私を保護して下さったルイさまには
御礼の申し上げようもありません。
ミケラン卿が、是非とも礼状を差し上げなさいと仰るので、
レイズン家の使者をお借りし、お言葉に甘えて、この礼状をしたためております。
ご親切に感謝しております。また逢う日まで。』
詳しいことは何ひとつ書かれていない、息災であることを伝えるだけの、簡潔な手紙であった。
そしてその文面からは、常日頃の彼女には似つかわしくない、
ぼんやりとした無感動と、まるで感受性の乏しい娘であるかのような、
もしかしたらそれこそが歳相応の彼女の本当の姿かも知れぬ、寄る辺ない頼りなさが窺えた。
読み終えたリィスリは、まるでその手紙がリリティスそのものであるかのように、
静かに手紙を胸に抱きしめた。
「あの子の字です。間違いなく、リリティスの字です」
「ルイ!」
しかし、そこまで黙って聞いていたシュディリスは、何も知らぬ母のリィスリとは違い、
身の毛もよだつ想いでルイの話を遮った。
今だかつて覚えのないような恐怖に捕らわれて、彼は愕然とルイを仰いだ。
ルイは気の毒そうに、シュディリスに頷いた。
シュディリスは柱に片手をついた。
動悸が止まり、頭に血がのぼり、彼は叫び出さない為には、
眼の前のルイをまるで仇であるかのように、顔をこわばらせて睨み付けなければならなかった。
潮のような悪寒が身を灼いた。
リリティスが、ミケラン・レイズンの虜に。
「続く]
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