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[ビスカリアの星]■四十三.




ルイの許から室に戻ったシュディリスは、倒れるようにして寝台にその身をうずめた。 
エチパセ・パヴェ・レイズンの許からナナセラの砦に送られた、その夜である。
砦を守る歩哨が外を見廻る微かな気配がする他は、静かだった。
ナナセラに到着後は賓客として申し分のない待遇を受けていたが、
招かれたわけでもないのに歓迎は不要とばかり、意地をはって部屋附きの者を
断固として断ったこともあり、旅の続き同然に、身の回りのことは自分でやらなければならなかった。
それにしても、砦の主や大使が現れることもなく、
誰かに何かを訊かれることもなく、軟禁されることもない。
さればこそ、彼らの歓待役を命じられたか、その役目を自らかって出たかして、
遥々フェララより此処ナナセラに、フェララの剣術師範代ルイ・グレダンが
現れたのかとも思われるのであるが、
不安要素を抱えた今のシュディリスはそれどころではなく、
その件は頭の片隅に重しつきで保留であった。
先刻、先手をとってルイは、平生の彼からは想像も出来ぬような
大の男をもふるえ上がらせる一喝でもって、
因縁の敵に妹が奪われたことを知ったシュディリスの、わめき出す一歩手前の動揺をずしりと封じた。
「落ち着かれなされませい」
それはかつて、ハイロウリーン騎士団においてルイが重装大隊を率いていた折の、
地の隅々にまで轟き渡って鳴らしたルイのその声、その威厳であった。
盾をも砕くような重い態度で、ルイは圧し掛かるようにしてシュディリスの前に立ちふさがった。
その眼は劣勢におかれた兵を叱咤する時のように燃えた。
「騎士は無暗に取り乱したりせぬものですぞ」
踏み出しかけていたシュディリスはそこで停まり、背後に壁をとったまま、動かなかった。
回廊に流れたのは不気味なまでの息苦しい沈黙であった。
微動だにせぬまま、シュディリスは病に罹ったかのように眸を凍らせていた。
そしてふと夢から醒めたように、闇にも鮮やかな昏い笑いを何故かその口許に浮かべた。
「変節漢」
やがてシュディリスは云った。
青い眸を焔のように揺らめかせ、若者はルイをちらりと見た。
それはこの若者には相応しからぬ態度であった。
往く手を塞ぐルイの手をシュディリスは汚いもののようにゆっくりと振り払った。
「シュディリス殿」
シュディリスは横を向いた。
放たれた言葉は静かで、そして苛烈だった。
ルイ、貴方はフェララを訪ねたわたしの母に親切にしながら、
貴方を信じて頼ったリリティスを保護するふりをしながら、
そしてわたしや、わたしの父や弟からは友誼と尊敬を受け取りながら、その実、
レイズン家と通じて、わたしの妹をミケラン卿に売り渡したのだ。
「何を云われる」
呆気にとられたルイを無視して、シュディリスは続けた。
フェララを裏切り、フラワン家を裏切り、そのどちらにも敬意と恭順を示し、
忠義を惜しみなく振りまきながら、その実レイズンに与し、レイズンの為に便宜をはかる。
さらには、リリティスの名を使った偽りの手紙で我らの母を言葉巧みにおびき寄せ、
その手でリリティスをミケラン卿に売り飛ばしておきながら、
恥知らずにもこうしてわたしの流刑地に現れた。
「裏切り者、何ひとつ悪いことなどしなかった顔をして、
 何喰わぬ顔で生きている、変節漢」
ミケラン卿、それこそは顔も知らぬ実父ヒスイ皇子の仇である。
見たこともなき人々とはいいながら、血肉を分けた同胞を炎の中に葬った人物である。
強烈をこめて、振り返ったシュディリスはルイの向こうの闇を睨みすえた。
わが父母を罪なくして破滅させ、父母の故郷を蹂躙し、
その母国を焦土に変えて、まだ足りぬのかミケラン・レイズン。
相手の胸を刃物で突き刺すような薄暗い声音で、顔に顔を近づけて、
挑発ともいえる冷たい勢いをこめて、彼はルイに低く囁いた。
残念です、ルイ・グレダン、貴方もやはりそのような男であったとは。
偽りの名誉を欲しがる者、汚い金に飛びつく者、
卑しい者ほどうるさい口でわめきたて、同情を浴びる術を知る、利害に敏い顔をする。
それが世渡ならば、そうするがいい。だが、このわたしだけはそうではない。
この世の誰がそれを許しても、このわたしだけはそうではない。
父母に教えを受けたこの身が、騎士としてのわたしのこの精神が、
そのような下劣な振る舞いを拒絶する。恥を知らぬ者を拒絶する。
若者の声なき囁きは闇から這い昇るもののようにその胸の奥深くに響いた。
妹を辱めた者をそのままにしておくわたしではない。
カリアに続き、わが妹リリティスまでも、その手にかけんとするか。
好きにするがいい、わたしの愛する人々を傷つけることで、愉しみを得るがいい、ミケラン・レイズン。
シュディリスはその拳を握り締めた。
だが許しはしない、リリティスを傷つける者をあらば、フラワン家の名誉にかけて、
地の果てまで追いかけその首を討ち取ってくれる。
よく覚えておくがいい、その血、その命でもって、妹の受けた屈辱を雪がせてみせる。
彼は投げ捨てるように冷え冷えと最後にルイに向かって吐き捨てた。
相手が誰であろうと、フラワン家の男として必ずわたしはそうする。
卑怯者に屈する膝があるならば、わたしは這ってでも、妹を傷つけたその者を討ち果たします。
「-------そのことを憶えておいてもらいましょう、ルイ・グレダン」
糾弾されるとは想わなかったルイは、面喰っていた放心から醒めて、ようよう抗弁した。
「何か誤解をされておられる」
いわれのない批難を受けたものの、保身など潔く眼の前で捨て去ってみせた若者のこの直情と、
激しさを、それだけ妹を想う気持ちの強さの顕れなのであろうとルイは思った。
行こうとする若者の腕を捕らえ、乱暴に振りほどかれたルイは、
彼ら兄妹の愛情の深さと強さにかえって疎外感と、深い感銘を覚えたほどであった。
ルイの前に居るのは、妹を攫われて憤る、一人のまだ若い男であり、貴人であった。
巨体で廊下をふさいだまま、ルイは説得にかかった。

「咄嗟の間によくぞそこまで頭が回るものだと感心は致しまするが、
 妹君といい、奥方さまといい、フラワン家の方々におかれましてはその怜悧さこそが、
 かえって陰気な思考を導き、ご自身の首を絞めておられまする」
「説教は結構。貴方には関係のなきこと」
「お待ちなされ、何処に行かれるおつもりか」

夜空に雲が流れた。
銀色がさっと流れた。風の切れる音がした。
ルイに見えたのは、燃えるような青い眼だった。
棒で打つような強烈な一撃であったが、ルイはそれに持ちこたえた。
身を沈めたシュディリスが振り返りざまに邪魔立てするルイの横腹を目掛けたのだった。
若者の肘を巨木のような腕がふせいで止めた。
巨体には意外なほどの動きでルイは素早くシュディリスの肩を掴んだ。
互いに譲らず、もつれ合ったまま、二人は壁にぶつかった。
「妹を取り戻します」
等間隔におかれた通路の灯がどっと揺れた。
眼を怖ろしく輝かせ、シュディリスはその語気を闇にきつく迸らせた。
それはフラワン家の気高い心によるものではなかった。
これこそカルタラグンの血であり、かの翡翠皇子もそれに生きた、
彼らの身を貫く竜神の精神、そして真紅騎士タンジェリンとの血の結合の、
その何よりの発露であったのだが、その流星の血筋に気がつく者はこの夜、
ナナセラの砦には居合わせてはいなかった。
容赦のない力でシュディリスはルイの脛を蹴りつけた。
「リリティスが、不安に過ごしている。必ず助ける」
「ご母堂様も、リィスリ様もそのように、同様に仰いましたぞ」
万力で若者の身体を抑え込みながら、ルイは咆えた。
「そしてわしの答えも、ここに繰り返しまする。
 リリティス嬢の御命は、誓って、このルイ・グレダンが保証いたす。
 貴方だけではござらん、むしろリリティス嬢は最も安全な処に保護されたのだと、
 そのようにわしは考え、ならばこそこうして気を揉みながらもリリティス嬢のことは
 ひとまず安心してよいものと、わしも、無理やりに己を宥めているのでございますぞ!」
「退け、ルイ」
「あてもなく飛び出して、それでどうなるといわれる。
 母であられるリィスリ様をこれ以上哀しませになって、どうなるといわれる。
 お分かり下され、シュディリス殿」
二人は帯剣していたが、どちらもそれを抜かず、また抜かせることを許さず、
衝動に駆られた若者を横幅倍の大男が抑えるかたちのまま、激しく争った。
長くは続かなかった。
素手のままでは体格差により力が拮抗しているとは云い難く、
ルイの手加減でちょうど釣り合っている按配であったが、
(--------これは)
眼を細め、ルイはしみじみとシュディリスを眺めた。
宥めに取り掛かる前に、まずは思う様振舞わせてみようとしたものであるが、
ばらばらになった銀色の髪からぎらぎらと睨んでくる若者の青い眼や、その荒い息、
全身全霊を込めて猛っているその強さ、その一途な猛々しさに、
場違いながらもルイは見惚れ、心打たれた。
燃える星のような、冷たい炎、それこそは騎士の純度の高さである。ルイの眼は眩んだ。
しかし、ルイはシュディリスを離さなかった。
シュディリスは抗った。
「最も安全、それが、ミケラン卿の許だと」
「いかにも、ミケラン卿の許に。其処こそは、
 リリティス嬢を邪なる者どもから遠く隔てて下さることでありましょう」
怒鳴るようにルイはシュディリスに応えた。
それとも兄上殿は、あのようないたいけなをとめごを、狼の野にまた放置せよと仰せであるか。
ふたたび下民の中に流離わせ、悪心ある貧民どもの前に、
じゅうぶんな供もなくその高貴な姿を晒せと仰せであるか。
世知のないリリティス嬢が無事であったのはひとえに幸運だったからに過ぎませぬ。
ひとつ間違えておれば、今頃リリティス嬢は鎖に繋がれ、脚の腱を断ち切られ、
二度と日の目を見れぬ遠国に売り飛ばされていたかも知れぬのですぞ、
それをお分かりであるか。
独りぼっちで野を彷徨っている若い娘がフラワン家の名を持ち出したとて、
誰がそれを信じるであろうか。いかにリリティス嬢がすぐれた騎士だからとて、
剣を奪われてしまえばただのか弱い女人であること、兄であられる御身こそ、よくご承知であろう。
それともご存知ではあられぬか、それでは申そう、
慢性的に近隣諸国や野党郎党と小さな戦を繰り返して来たハイロウリーン、および
フェララの騎士団に身をおいてきたわしは、敗れた女騎士の末路を何度も見てきた、
はぐれ騎士よりも、侵略された地の女たちよりも酷い扱いを受けていた、
屍のように横たわりながら、女騎士の眼だけがまだ美しく光っているのを、何度も見てきた、
ぞっとするほど美しい顔をして、遠い空を見つめていた、
頼るものを失った女騎士ほど、哀れなるものがあるであろうか!
「騎士の血をもって生まれた限り、その血を引く子の母体となることを期待されるだけだと
 かつてリリティス嬢がわしに訴えた時、そんなことはないとわしは笑って
 請け流したものであった。
 そのような怖ろしい事実を告げて、何になるであろうか。
 それもこれも、リリティス嬢が、トレスピアノという平穏な楽園の中に咲く花であったからこそ、
 笑い飛ばすことができたのですぞ、さもなくば今頃はどこかの地下室に閉じ込められて、
 自殺の手立ても封じられ、敗れた女騎士や、敗国の騎士家の女たちがそうなるように、
 騎士の子を求められ、命尽きるまで、受胎能力の限りを試されていたことであろう。
 騎士でなき男たちにとって、また騎士である男たちにとって、
 女騎士は、高嶺の花であり垂涎の的であり、
 そして彼らの努力を軽々と超えていく憎しみの存在であり、許しがたき存在であること、
 そのこと、シュディリス殿はご存知なかったか。さてこそ、
 なればこそ、リリティス嬢がミケラン卿の許にあることは、これはかえって僥倖であると、
 わしは申すのでありますぞ。リリティス嬢にあわや邪心を抱いたとても、
 ミケラン卿に限っては、リリティス嬢を無下に扱うことだけはございますまい、
 闇から闇へと回し、蛮族どもにかの姫を売り渡すことだけはありますまい、
 仇敵のごとく惨く扱うことで、女騎士に対する私怨を晴らすようなことだけはありますまい」
「ルイ、黙れ」 
「わしは騎士として生まれ、騎士としてしか生きてはこなかった単純な男、莫迦な男、
 それゆえに利害や政治的配慮を取り除いた見方でもって、
 ミケラン卿が選れた騎士であること、高位騎士であることに、全幅の信を寄せることもできまする。
 ミケラン卿という男ではなく、卿の騎士としての志操の高さをわしは信じるのです。
 いかにも、リリティス嬢がレイズンに拉致されるのをわしは黙って見ておりました。
 周到にもミケラン卿はリリティス嬢にフラワン家の姫君の名を騙る偽者の汚名を被せ、
 そして連れ去りもうした。
 そのことにこそ、わしはミケラン卿の配慮をみるのです。
 万が一ことが露見したとて、偽者ならばどのような不名誉も本物のリリティス嬢の名を
 傷つけることにはならず、偽者である限り、リリティス嬢の名誉は守られ、
 フラワン家の家名もまた傷つくことはございませぬ。
 それを見越した上で、ミケラン卿はフェララに宛てた公式の文書にはっきりと、
 帝国皇太子を誘拐したるリリティス・フラワン姫の偽者、そのように明言したのでありましょう、
 リリティス嬢を、「リリティス嬢の名を騙る不届き者」として扱うことによって、フェララの関与を退け、
 その引渡しをフェララの兵が見守る前で、白昼堂々と行ってみせたのです。
 まことミケラン卿の手回しのよさよ、わしにもそれが最善策と思われもうした、何となれば、
 現にリリティス嬢は、これぞ天下に隠れもなき、ソラムダリヤ帝国皇太子殿下と共に
 フェララに逃げて来られたのです。
 これは事情がどうあれ、どう処断されても致し方のない、噂の広まり方によれば
 リリティス嬢の命を奪いかねない異常事態に他ならず、そしてミケラン卿はリリティス嬢をその噂に投げ入れるよりは、
 フェララに委細を知られる前に、素早くリリティス嬢と、皇太子殿下と、そしてわしの立場を、
 一度に無駄なくそこから救い上げてみせた。
 かりにその裏に彼の新たなる思惑があったとしても、あの時にはそれしかござらんかった、
 そのことにわしはミケラン卿に感謝しなければならぬくらいなのですぞ!」
リリティスと、あろうことか帝国皇太子が御しのびで懐に転がり込んできたことで、
フェララにも、レイズンに対しても、微妙なる困難に立たされていたルイである。
ルイは、さらに続けた。
御母上リィスリ様のことは予想外であり、わしの失策でもありました。
さぞやご心痛であろうと、リリティス嬢の消息を伝える手紙を送ったことが
かえって疑心暗鬼を招き、いたずらにご心労をおかけすることになったのやも知れませぬ。
ご婦人に難しい話は出来ませぬ、何とか説得の上、
トレスピアノにお戻りいただこうとした矢先に、至急こうしてナナセラに赴く仕儀と相成り、
リィスリ様の共をして遠いトレスピアノにお送りするわけにもいかず、
かといって単身でフェララにお残しして、わしのあばら屋に警護もなきままそのままというわけにもいかず、
事情を話して頼める者もなく、かくなる上はお弱りになっているを承知で、
わたしと共にナナセラにお連れするより他ござらんかった。
何よりも、リィスリ様ご自身がそれを強くお望みであられました。
お子様方のだれでもよい、ひと目、その無事の姿を見たいと切望されておられた。
ものも口に入らず、夜も眠れず、うなされる日々にお疲れの眼をして、
わしのような者に頭を下げてまでして、そう頼まれたのです。

「此度の件、わしは責任を感じておりまする。
 フラワン家の方々に、責任を感じておりまする。
 あの日、山際に上がった不意の狼煙を見たリリティス嬢が、
 『何かあったのです。様子を見てきます』
 そう云って馬に飛び乗ったのを、傍におりながらわしは止めもせず、
 追いかけて附き従いながらも、闘いに巻き込まれるのを何故止められませなんだか。
 あれが全ての発端であった。
 あの時わしさえしっかりしておれば何としてもリリティス嬢を家に帰していたであろう、
 あの時わしがリリティス嬢を引き止めてさえおれば、御兄弟も後から追わず、
 謎の輿行列とフラワン家の御きょうだいが深く係わることもなかったやも知れず、
 ミケラン卿の関心もいたずらに引くことはなく、
 かように方々をお苦しめすることにはならなかったであろう、それなのに、
 リリティス嬢をミケラン卿に引き渡しながら、こうしておめおめと、自分ばかりが無事である、
 兄君におかれてはそのご立腹、ごもっともでございまする、何となれば、
 あれ以来他でもないわしこそが、己のことを責め続けて、
 まったく許せませぬのですから…!」

ぼたぼたと熱い涙を流して、堪えかねたルイは男泣きに泣いた。
しかし、シュディリスはルイの話の後半を殆ど聞いてはいなかった。
両手をだらりと下げたまま、眼の前で泣いている大きな熊を茫然と見ていた。
思いも寄らぬことばかり聞かされたが、とどめに落ちた最後のそれはあまりにも突飛過ぎて、
さてはやはりこの期に及んでもルイがそのような方法で煙に巻こうとしているのかと、
相手の頭を疑うのでなければ、性質の悪い冗談として、滑稽にさえ思われるほどであった。
さしもの仮借なきシュディリスの頭脳をもってしても、その名の登場は思考を麻痺させるに充分なほど、
あまりにも予想外であり、奇天烈であった。
ルイはいま、何と云ったのか。
その者に附き従われてリリティスはフェララに逃げて来たのだと、そう云ったのか。
肖像画を眼にしたことはある。
さしたる興味もないままに、その名は知っている。年頃が近いことも。
しかしそれは遠く隔てられた異国の王族同然に、フラワン家のシュディリスにとっては、
まるで関係のない、立体感のない、名ばかりの人物であった。
留学先のジュシュベンダの大学構内や宮廷にも絵があった。
しかしシュディリスが好んで眺めていたのは、創世伝説における騎士とフラワン家の乙女の物語絵であり、
現在のジュピタ皇家とフラワン家は政変以来、二十年の永きに渡って疎遠になっていたこともあって、
現王朝には何の興味も抱かなかった。
ルイから聞いたのは、不可侵領トレスピアノにとってはもっとも縁遠いはずの、
その青年貴族の名であった。
ミケラン卿に捕われただけでなく、リリティスはいったい、どのような面倒に巻き込まれたというのか。
ソラムダリヤ・ステル・ジュピタ。帝国皇太子。
救いの糸にも、縺れきった概況を解きほぐす何の手がかりともならない。
一体全体、何故にそのソラムダリヤ皇太子の名が、唐突にここにあらわれ出てくるのか。
皇太子ならば、ヴィスタチヤの都に居るべきものではないのか。
それが、供人も連れずにリリティスと行動を共にしていたという。
ジュシュベンダに奉納されていたあの絵。
古い物語絵に書かれていたあの預言。
 『新しき地より若者きたりて、古き地の姫君と恋におちるだろう。』
その昔、オフィリア・フラワンは、遠いジュピタより来た若い騎士と恋に落ち、
共に悪竜退治に旅立ったと俗説は謳うが、その子孫であるリリティス、そしてソラムダリヤが、
いかなる奇縁でふたたびこの世に出逢ったのか。
得たいの知れぬ大いなるものに襟首を掴まれた気がした。
脳裡が落ち着かぬまま、シュディリスは震撼した。
「------リリティス。一度はフェララの、貴方の邸にいたと云われましたか」
「左様」
壁に背をぶつけ、シュディリスはゆっくりとその腕で顔を覆った。
限界にきた若者を、ルイは無理もなきことと、思い遣り深く支えた。
「お元気でおられましたぞ」
「妹は、リリティスは、わたしを探す為にトレスピアノを出たに違いないのです。
 その前夜にわたしは妹を傷つけることをした。謝らないままだった。
 だから尚更のこと、妹は、わたしとの仲違いをそのままにはしておけなかったのだ」
シュディリスは喘いだ。
実のきょうだいではないとフラワン家の子供たちが知った時、それは彼らにとっても微妙な時期だった。
もう子供ではなく、さりとて日々は変わらず、家族であることにも変わりなかったが、
睦みあうそれぞれの心の片隅には誰にも云えぬ隠微なものが、扉を閉じて、待っていた。
フラワン荘園の静かな人々は互いに礼節ただしかったが、
美しいそのその苑には幾重にも何かが隠されており、交わされるまなざしのひとつ、
何気ない言葉、きょうだいとして触れ合う温もりのひとつに、その上に、
いつしか遠慮は別種の意味合いをもって彼らの間に霞のように降り、
慎重な振る舞いを彼らきょうだいに強いるようになっていた。
相手を探ろうとし、探れば探るほど、こちらの情ともつれ出し、
それは相手の存在の喪失を怖れる心と一体となった、互いを想う彼らの愛の深さでもあったのだが、
いつかぷつりと途切れるような気がする、そんな未知の怖れは、
ユスタスが森の中に自分を探しに来るほどに、そしてリリティスが、
血の繋がらぬ男に思慕を覚えるほどに、次第に誰の心からも今にも溢れ出そうとしていた。
そして、見てみぬふりをした。
庭の花の中に見え隠れしていた妹の髪。
北欧の風の色をしていた。黄昏の空の色だった。
リリティスの白い腕、そのやさしい匂い。
(兄さん。シュディリス兄さん………)
そう呼ばれるたびに、いつの頃からか、何かが胸に薄くこみ上げた。
それは心をゆっくりと溶かしていく、甘美な、そして行き止まりの何かだった。
リリティスの清んだ声は過去からの風のように聴こえた。憧れの風の音に。
(兄さん、私、なにもいらない)
その先は無色だった。
開こうとして開かない、壁の扉だった。
だからこそ、すがる眼をするリリティスを無視し、平静な態度で、よき兄として妹に応えてやっていた。
その髪、その身体、どうせいつかは他の男のものになるものを、いつまでも一緒にはいられないものを。
そんな態度はリリティスを傷つけるだけだった。そのことも、知っていた。
恋人でもない妹でもない、半身にも等しきやさしい人を、そうやって自分は退けてきた、
その罰がこのようなかたちとなって顕れるまで。
(リリティス)
やがて、顔を上げたシュディリスは、ルイをもう一度ひどく愕かせた。
「信実を疑ったことは謝ります、ルイ。しかしわたしは兄として、
 父母に代わって仔細を知ることを求める」
しっかりとした声だった。
愛する妹を仇の手に取られて激昂し、ついに打ちひしがれたとみえた若者は、
徐々に冷静を取り戻し、途方もない自制心によって、
こう解釈してよければ公人としての態度に立ち戻って、
呼吸を整えると打撃から立ち直り、静かにルイの慰めを押し退けたのだった。
ルイは知る由もないことであったが、この時、シュディリスはかえって単純な理由によって、
感情を抑え、自分を抑えたのであった。
己が身の出生が知れること、それはすなわち、フラワン家への迷惑である。
こちらの些細なひとこと、兄妹の分を超えた不用意な振る舞いが、
歴戦の騎士の不審を招き、リリティスを危うくし、フラワン家の人々を追い込まぬとも限らない。
帝国皇太子が絡んでくるのならば、尚のこと、ここは慎重にならねばならない。
何といっても、現皇帝こそ、ミケラン卿と組んでカルタラグンを滅ぼした張本人ではないか。
シュディリスは息を落ち着けた。
トレスピアノの想い出が、彼にそうさせた。
落ち着いて彼は訊いた。
「帝国皇太子の御名が、何故ここに出てくるのです。ルイ・グレダン」
シュディリス・カルタラグン・ヴィスタビア。失われたカルタラグンの皇子の名など、何度でも捨てよう。
顔も知らぬルビリアが復讐に生きると云うならば、好きにするといい。
この身に流れるのが亡国の血であろうとも、自分を必要としてくれる彼らの前に、何を躊躇おう。
(リリティス。ユスタス)
シュディリスは顔を上げた。
その変貌の様子をしげしげとルイは眺めた。
その傲然たる態度の裏に隠されているものを、ルイは知らない。


それから数刻の後。国境の町は、月下に寝静まっていた。
夜風が窓を揺らした。
ややあって、シュディリスはすぐに身を起こした。
忘れていた。
彼は寝台からすべり降りると、奥の壁際に近づき、
椅子の背に凭れて眠っていたその者を、そっと揺り起こした。
「グラナン」
腕組みをして眼を閉じていたグラナン・バラスははっとなって飛び起きた。
シュディリスは消えていた灯りに油を足した。
「これはしたり。お戻りでしたか、シュディリス様」
「疲れているのだろう。わたしのことはいいから、室に戻って休むといい」
ルイを探しにシュディリスが姿を消した時、パトロベリとグラナンはここで待っていると云った。
戻って来たシュディリスは、疲れているようであった。
グラナンは自分をねぎらうシュディリスの様子の変化を窺ったが、口に出しては直接訊いた。
「ルイ様は、何と」
「明日話す。それを聞くために待っていたのなら、悪いことをした」
「いえ」
「パトロベリは」
「隣室に。仮眠をとってくると仰せでした」
「こちらは昼間に馬車の中で休んだせいか、眠れそうにない」
グラナンが用意して差し出した夜着をシュディリスは寝台に投げ出したままにした。
「シュディリス様」
躊躇いがちに、グラナンは指摘した。
「上着が破れておられます」
先刻ルイと揉み合った際に、そうなったのであろう。シュディリスはそれを脱いだ。
ルイから聞いた話がまだ頭を巡っているせいか、気が張り詰めて、沈鬱だった。
真実かどうかは疑わしいので、話半分に聞くとしても、
リリティスがミケランの手の中にあることには間違いないようである。
シュディリスが戻ったことで早速に召使が夜食が必要かどうかを伺いに来たが、
グラナンがそれを断り、飲み物だけ受け取って扉を閉めた。
すぐにまた扉が叩かれて、先の者から聞きでもしたのか、今度はまた別の召使が、
袖の破れたシュディリスの上着を縫うためにそれを引き取っていった。
見張りがつかぬといっても、あの様子ではやはり何所からか彼らを監視しているのであろう。
うっとうしげにシュディリスは髪をかきあげた。
家にも少なからぬ数の使用人が居たが、一歩外に出れば、随分と勝手が違う。
どこに招かれても同じこととはいえ、どうも慣れない。
トレスピアノはやはりよほど安穏とした田舎なのであろう。
躾こそ行き届いていたものの、用事があればこちらから探しに行かなくてはならぬこともあるくらい、
フラワン荘園の召使たちはのんびりとしていて、音もなく影もなく、背中に張り付くようにして、
彼らの用を務めようと深夜まで主の動向に耳を澄ませてこのように近くで待ち構えていることはなかった。
フラワン家の人々はそれが家長カシニの方針ということもあって、
客人が居ない時には使用人を特に使ったりはしなかった。
特に男子のシュディリスとユスタスに対しては自立を教え、彼らが幼い頃に
枕投げでもして部屋に羽毛を散乱させようものなら、いちから枕を作らせることまでカシニはさせた。
そういった家風をして、フラワン家の人々は他国の貴家では到底考えられぬほどに、
家族水入らずで気兼ねなく長い時間を過ごすことも出来たのだ。
明るい緑の中に、絆ふかく。
(わたしさえ居なければ、おそらくは今も、トレスピアノにそのままに)
シュディリスの顔を掠めた陰鬱を、グラナンは見逃さなかった。
しかしさり気なく、就寝しないのであれば顔を洗うようにと勧めるだけにとどめた。
「疲れているのでは、グラナン」
「もうじゅうぶん眠りました。パトロベリ様を呼んで来ます」
グラナンは続き部屋に声をかけて、すぐに戻って来た。
パトロベリ様は着衣のままお休みでした。すぐにお見えです。
冷たい水で顔を洗うと、少しだけ気が晴れた。

「ここに長居する気はない」
「パトロベリ様も同意されました」
「母には親不孝を重ねることになる」

リリティスのことを考えたくない。
他のことで気を紛らわしたい。
濡れた髪から落ちた雫がちいさく光り、暗い水盤に沈んですぐに消えた。
そんなシュディリスの不安と焦燥をどう受け取ったものか、グラナンは乾いた布を手渡した。
ルイ様、そしてリィスリ様にも申し訳ないことながらも、私もお二方のご意見に賛成です。
「先程までパトロベリ様と相談していたのです。逃げるなら今晩のうちだと」
「他には」
「リィスリ様がこちらにおいでになったのは、これも何かの奸計ではないでしょうか。
 つまり、エチパセ殿か、その他の何者かが、親子の情を利用して、
 逃亡阻止のために、或いはシュディリス様をトレスピアノに連れ戻すために、
 リィスリ様をつかってシュディリス様を足止めさせようと目論んだ」
ルイから事情を聴いてそうではないことを知るシュディリスは、黙っていた。
ひっそりとグラナン・バラスは笑った。
ええ、わたしもそれはない線だと思います。
何故ならば、我々の到着に合わせてトレスピアノからリィスリさまをこちらにお招きするには、
どんなに馬車を急がせたとしても、日数が合いませんから。
もっともパトロベリ様に云わせれば、
シュディリスの御母堂ならば、僕たちの冒険にも歓んでお付き合い下さるのではないか、
なんたって星の騎士三きょうだいの母上様だ、
あの方ならば早馬に乗って華やかに野を疾駆することも厭われないのではないか、
ここで僕たちがまた姿を消したとして、今度こそ大変だというならば、それならばいっそのこと
奥方も一緒に連れて行けばいい、とのことでした。
「そうだ、そうだ、そうしよう」
続き部屋の扉を開いて、その時室内に入って来たのはもちろん、パトロベリであった。
彼は眠そうに眼をこすっていたが、そこにあった冷たい水を飲み干すとたちどころに元気を取り戻し、
「シュディリス、君が大きな熊さんとお喋りしている間に、僕は君のおふくろさんと負けずに仲良くしたぞ」
得意気に両手を腰にあてた。
「母と」、シュディリスが眼を上げた。
「うん」
「どこで」
「寝所で。何たって内緒話だ。僕はおふくろさんに子守唄をうたって差し上げた」
「母は眠っていたはず」
「やさしく抱き起こした。なんてね、嘘さ」
ひらりとパトロベリはシュディリスの前から逃げた。
でも、御寝所に入ったのは本当だ。
パトロベリは器に盛られた果実に手を伸ばし、それを口にほお張った。
夜風に涼んで中庭から戻る途中、曲がる廊下を間違えた。
すると扉が細く開いて、そこに居るのは誰、とリィスリ様が、か細い声でお訊ねになるのさ。
お可哀想に、このところの心労ですっかり参ってしまわれて、眠りが浅いのだな。
『奥方さま、パトロベリです』。『若々しい跫音。シュディリスかユスタスかと思いました』。
そして、母上さまは溜息をつかれた。
耐え忍ばれてきたそのご苦労のほどが知れるじゃあないか。
「反省しろよ、シュディリス。
 子を想う母の心は海より広く、そして悩みの限りも果てしない。
 僕はこれさいわいと、いや違った、リィスリ様をお気の毒に想って、
 何しろ天下に聞こえたあのような佳人であるから僕としても寝室に同伴するのは嬉しくないわけがない、
 ほどかれて背に流れた奥方の髪、この手に触れた、それはまるで妖精のふるえる羽根のようなのさ、
 失言は本音なので失敬、とにかく僕はリィスリ様に、
 差し出がましいながらお休みになるまではお傍におりましょう、
 もう悪い夢などご覧にならぬように、ご子息のお話などを少しばかりして差し上げましょうと、
 騎士道的に慎ましく申し出て、あは、愉しかったな、リィスリ様は何度か、
 『まあ、シュディリスがそのようなことを』、
 小さく声を上げて、僕の話に少女のようにお笑いになられたよ!」
いったいどんな与太話を母に吹き込んだのか、知りたくもない。
ついでに、あの母が父や家族以外の男の前で声を上げて笑う姿など、ついぞ見たこともない。
今さらのように照れるのか、嬉しそうにパトロベリはシュディリスとグラナンに同意を求めた。
「いやまったく、空から降りた月の人のように楚々としてお美しい母上様、
 まことの貴女とはあの方のことだ。
 やがて気分も晴れて落ち着かれたのか、静かに瞼を閉ざされたが、
 お休みになられたその姿も夜の花の中に眠るよう、リィスリ・フラワン・オーガススィ様、
 あんな女人が母だというのも、どうだろう諸君、男としてはちょっと参るよな」
お前が参らずともよかろう。
そこで、パトロベリはふと何かに思い当たった顔をして、「あ」、と気まずく叫ぶとあとは口を閉じたが、
大方、シュディリスとリィスリは血が繋がらぬ母子であることを思い出しでもしたのだろう、
母のことを無遠慮に口にされるのと合わせて、重ね重ね、不愉快だった。
(君は何者なのかな、シュディリス)
彼らを居酒屋の店先に残してグラナンが町の様子を見に行ったあの日、
果実酒を呑みながらパトロベリは果実を卓上で転がしていた。
ジュシュベンダに残してきた恋人、アニェスの話などをした。
そして、パトロベリはシュディリスの前に果実を転がしてきたものだった。

(御身の出自をもう一度、お聞かせ願いたい)

それは流星の年。
その夜、胎内に子を宿した一人の少女が、燃える都の中にいた。
(僕は覚えているんだ。まだ子供だったけど。
 真夜中に、早馬が気違いみたいに飛び込んで来た。
 ウィスタビアの都が落ちたと告げていた)
(二十年前のことだ。君はまだ生まれていなかったのかな)
少女が向けた短剣をその男は払い落とした。
取り押さえられた少女はすべてを奪った男をその眼に焼き付けた。
少女を冷たく見下ろす男は黒い髪を、男を睨み上げる少女は紅い髪をしていた。
互いに血に濡れ、紅蓮の炎に影までもを燃やして、彼らは互いのその姿、その日その怨念を刻んだ。
回天のその夜、まだ生まれぬ自分は、それを見ていたのだろうか。
それとも、カルタラグンの人々が、復讐を胸に宿したわが母が、それを脈打つこの血の中に教えたか。
空からは星が降っていた。渦巻く星雲を白く横切り、声なき悲鳴を上げて静かに降っていた。
「逃げるか」
パトロベリが窓から外を覗いた。
外壁のあたりにもナナセラの歩哨がいるが、あれしきは物の数じゃない、
僕たち三人なら余裕で正面から出て行ける。
問題はルイ・グレダンだ。
ナナセラが半ば大国フェララの属領と化しているといっても、
ルイがナナセラの軍隊を指揮れるわけでもなさそうだが、さて、どうなるかな。
「それを知るには出て行くしかない。熊さんが寝ている間に、逃げるか」
逃げて、何処へ。
カリアの許にか、それとも、レイズンに囚われたリリティスの許にか。
シュディリスは剣を取り上げた。
その時、窓の外が光った。
地平の遠くで夜間用の狼煙が続けざまに上がり、雲を超えて四方にはじけた。
三人は窓辺に駆け寄った。



「続く]




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