[ビスカリアの星]■四十四.
狼煙は続いて高く上がり、上昇の途中で発火すると、
空を直線に細く染めて、花火のように火の粉をこぼして次々と落ちた。
その狼煙が意味するものを見て取ると、窓に張り付いてそれを見ている
パトロベリとグラナンに背を向けて、シュディリスは書き物机に走り寄った。
狼煙に気がついた城砦は、ようやく俄かにざわつき始め、人が廊下に行き交う音がした。
火炎は夜空を不気味に焦がし、ナナセラ国土にそれを伝えた。
遠方で戦の勃発があったことを知らせる、その狼煙であった。
「シュディリス、何をしている」
「父上に手紙を」
窓に背を向け、紙を広げたシュディリスはすごい勢いで羽根筆を走らせた。
父上、とシュディリスはカシニの前で釈明するようにして、文面を綴った。
「トレスピアノの、カシニ・フラワン様に?」
「書ける時に書いておかなければ、今後その機会がとれるかどうか分からないから」
振り向きもせずに答えた。
ユスタス、リリティス、そして母リィスリまでが、自分の跡を追って家を出たとなれば、
この不始末、どう父にお詫びしてよいかも分からない。
ひたすら父上の気持ちを汲み、謝罪する他なく、そしてあの父は息子に侘びや言い訳など
求めるような狭量な人物ではなかった。
こちらの自主と自覚に任せて、妻が出奔しても騒がずに耐え、黙ってフラワン荘園でお待ちであろう。
そんな父の自分たちへの篤い信頼、さぞや内心失望やお怒りであろうところを、
恥ずかしくない息子たちに育てたというその自負、
その度量の広さに今さらながら頭が下がる想いで、少し迷った末にシュディリスは、
リリティスと母をトレスピアノに無事に帰すことだけを短く伝えるにとどめて、
心の中では弟に語りかけた。
(ユスタス。二人で家に戻ったら、しばらくの間は父上の不機嫌を覚悟しよう)
署名をし、家族の間だけで通用する印を文末に加え、筆をおいた。
手紙の中では、ユスタスについて触れなかった。
ユスタスについては、父もあえて口にはせぬであろう。
騎士として生まれた限り、たとえ親でも彼らに干渉できぬことを承知の上で、
シュディリスとユスタスが騎士となることを容認した方なのだから。
書き上げた手紙を丸め、封蝋をほどこした。
その手紙の中でさえ、シュディリスはやはり妹リリティスに関しては、
いっこうに一人前の騎士として扱ってやってはいなかったのだが、妹想いの彼は
それにはまるで気がついてはいなかった。
「こちらの城砦にも、応答の火がついたぞ」
パトロベリの言葉どおり、窓の外は急に明るくなり、斜め上を仰げば、
狼煙に応えて点された篝火が、夜空を焦がし始めたのが見えた。
ふと、手を止めて、シュディリスは今書き上げたばかりの手紙を見つめた。
夜に砕けて落ちる火の影が、ちらちらと雪のような斑紋をそこに映していた。
シュディリスは時の飛沫のような暗いそれを見つめた。
手紙に手をかけた。
破り捨てるべきであろうか。
流星の年、赤子はトレスピアノに連れて来られた。
赤子は名家フラワン家の長子として育ち、妹と弟を得て、彼らは家族であった。
実の子同様に育ててくれた。
或いは、リリティスやユスタスよりも、父カシニは、寄る辺なき自分に眼をかけて下さっていた。
美しい妻が預かった赤子は、妻の昔の恋人の子であり、
お尋ね者の姫が人知れず生み落とした子であり、見つかり次第首斬り台で処断されるべき、
この世に許されぬ命であったのだが、トレスピアノ領主はその子を領内に保護し、
それだけでなく、大胆にもわが子として育てた。
実子ユスタスと分け隔てなく、寛い心で慈しんでくれた。
机に両手をついて、シュディリスは手紙を見つめた。
砦の塔から振り落ちる火の粉の影が、俯くシュディリスの頬をすべっていった。
優しい父、立派な父、ご迷惑ばかりをおかけしている。
与えられたものをお返しすることは出来ませんが、貴方に受けた大恩に
わたしが少しでも応えるのには、やはり、このまま貴方の息子でいる他なさそうです。
今しばし、カシニ・フラワンの息子でいさせて下さい。
トレスピアノに戻れるかどうかも分からない。
過ぎ去った日々はまるで幻のように、今となっては頼りなくも思えるが、それでも、
勝手なこの我侭をお赦し下さい。
(シュディリス、わたしはお前を自分の子だと思って育ててきた。
最初の頃は大切な預かりものの皇子だと思っていたのだが、時が経つうちに、
本当の息子としか思えないようになった。
今さらカルタラグンの生き残りの人々がお前を欲しがったとしても、
フラワン家の大切な世継ぎだ、おいそれと彼らに渡すわけにはいかぬよ)
書斎の柔らかな光の中で、父は両手を広げてシュディリスの問いに応えた。
何しろ、幼いお前がまだまわらぬ舌で、『ちちうえ』とはじめて呼んだのは、この父だ。
故人には悪いがね、あの時ああそうであったのか、と思ったのだよ。
わたしの後を追いかけて歩くこの小さな子はわたしの息子になるために、フラワン家に来たのだとね。
もしかしたらリィスリよりも、お前のことをそう思ってきたかも知れぬよ。
自慢の長男だ、後悔などしたことはない。
(それに、今さらそのようなことを口に出して確かめるような、
他人行儀な親子の仲ではないと思うが。違うかね、シュディリス)
シュディリスは、さっさと備え付けの書簡箱に手紙を仕舞い、紐をかけて用意を終えた。
要するに、父はそれだけ母のリィスリを溺愛し、母に繋がるものならば、
何でも許容しただけのことなのだろう。
さもなくば、妻の昔の男の子供など、疎みこそすれ、ああまでも可愛がる理由がない。
寛大で実直な、まことによろしき父上、父上が騎士になれなかったのも無理はない。
あのような御仁では、剣をふるうことにはまるで向かない。
祖父のユースタビラ・フラワンにはその才があったと聞くが、その素質は
孫のユスタスにしか受け継がれず、名だたる騎士家との婚姻により積み重なってきた血の重み、
何百年分のその精髄は、リリティスとユスタスの上にこそ、濃厚に開花した。
ユスタスと仲がよいのは、それは何も兄弟として共に育ったからでも、
年頃の近い男同士だからというだけではない。
家族の中でもユスタスと特に意気が合うのは、彼らの体内に駈け巡る騎士の血、
冷徹な心、激昂することを辞さない竜神の心、脈々と打つ命の振り子そのものが、
彼らを共鳴させ、結びつけているからに他ならない。
幼い頃から一緒に育ち、互いが見ている自分の姿を見切るようにして、励んできた。
それを傍観し、許していたのは、トレスピアノに居る限りは剣を揮う機会もないことを、
見越されてのことでしたか、父上。
溜息をついた。
父にとって自分が必要かどうかを考えるのは、もう止そう。
あれほどまでに慈しんでくれた人々との絆を、こちらから損なうことは。
室の扉を開き、廊下に向けて「誰か」と、呼んだ。
やがて現れた新顔の者に、シュディリスは名を訊いた。
「ルイ・グレダン殿より、伝令を一人借りれることになっています」
「わたしがその者です。お申し付け下さい」
「客人と聞くだけで、わたしの名を知らないと思う。シュディリス・フラワンです」
「------あっ」
伝令は愕き畏れてその場に膝をつくと、シュディリスの靴に接吻した。
「目立たぬように早馬を用意し、この手紙を至急トレスピアノ領主の許に届けるように」
「はい」
「ルイ・グレダン殿にはその旨、後からわたしから断りを入れよう」
シュディリスが渡そうとした金も受け取らず、その者は書簡箱をおしいただくと、
顔を引き締めて急いで出て行った。
パトロベリが不審そうにこちらを振り向いた。
「領主殿に宛てて何を書いたんだ」
「母上が無事であることを」
刻をおかず、砦の跳ね橋がかかり、伝令馬が走り出していく音がした。
「途中で、捕まらないといいけどな。僕たちが此処にいることがばれてしまう」
「どうせミケラン卿にはすべて筒抜けになっているだろうから隠すこともない」
「心配ありませんよ」
グラナンは請合った。
「今の伝令をご覧になったでしょう。下方の者たちであればあるほど、
フラワン家の名は神聖なものとして仰がれております。
彼らにとって、フラワン家とは伝説のオフィリア・フラワンに繋がる、霊験ある何かです。
シュディリス・フラワン様のご用命、手紙はあの者が命に代えても、トレスピアノに届けるでしょう」
ルイと揉み合った際に損なった上着が、真夜中だというのに破れた箇所を縫い上げられて、
洗濯の上、火熨までかけられて早速に届けられた。
シュディリスはそれに袖を通した。
神聖がきいて笑える。
フラワン家の名を名乗る資格もない者が、その名を騙る。
しかしこれで、少なくともミケラン卿により偽者の汚名を着せられたリリティスが、
もしも恥辱を覚え、そのことに嘆く時には、いつでもこの兄も同じだとその手をとって、
励ましてやることだけは出来るわけだ。
そこへ思い至ると、憤りにあらためて身がふるえた。
よくも、人の大切な妹に縄をかけ、衆目の前で辱め、偽者呼ばわりしてくれた。
夜空にまた、火花付きの狼煙が上がった。先のものよりも近かった。
父へ宛てた手紙に続いて、シュディリスは母リィスリへ短い、しかし心をこめた手紙を書き、
それを机へ残した。
「砦の者は、あれに気をとられているはず。この期に乗じて出て行く」
「何所から」
「ここから」、留め金を外してシュディリスは鎧戸を押し上げた。
「君、大學時代には寮からこうやって脱け出していたクチだろう」
「足許にお気をつけ下さい。パトロベリ様、余所見しないで」
時ならぬ若者たちのひそひそ声が夜天の下に流れたが、
それは狼煙にともない活気づいた砦内の喧騒に紛れ、
反対側の屋根を這っている三つの人影には、わざわざ注意を向ける者もいなかった。
軒鼻飾りに手をかけて、そこをひらりと跨ぎこしたパトロベリは、勢いあまって
シュディリスの背中にぶつかった。
ずり落ち、転落しかけた二人を、慌てて後ろからグラナンが掴んで止めた。
「確かグラナンの弟と、シュディリスは同窓生だったな。
ということは、留学時代の君の悪事は、グラナンの弟のトバフィル・バラスから
聞けばいいわけだ。叩けば埃が出てきそうだ」
「彼は、そのようなことには参加しなかった」
「よくこのような状況で軽口が叩けますね、お二人ともお静かに」
「やっぱり、やってたんだな。寮を脱け出して、
若い男が夜の街でやるいろいろな、いろんなことを」
「やったかどうか、それが貴方にどんな関係が」
「こんな処で喧嘩はお止し下さい。見棄てますよ」
狼煙が上がった方角に兵の注意がそらされていることもあり、
壁を伝いながら降りていく彼らは、誰からも誰何されず、
容易に建物の狭間を飛び越えることが出来た。
「お前さん高所恐怖症なのか、膝がふるえているぞグラナン」
「ほっといて下さい」
そろそろ地面が近いというところで、シュディリスが、続いてパトロベリが、
最後にグラナンが飛び降りた。
三人は砦を仰いだ。
「さらば、ナナセラ。縁のない国であったようだ」
「そうだといいのですが。何だか嫌な予感がします」
「幸先の悪いことを云うなよ。馬はどうする」
「何食わぬ顔をしてもらいに行き、厩番には眠ってもらいます」
「吊り橋は、門は」
「あ、そちらも」
「何食わぬ顔をして通りかかり、門衛には眠ってもらうってか。素行が悪いな。
素敵な御曹司や僕のような貴公子と一緒にいるというのに、
いったいどうして、グラナンはそんなに悪くなったんだ」
「それが何故なのか、わたしの口から云わなければなりませんか」
「冗談だよ」
松明の一つを勝手に拝借し、壁伝いに彼らは物陰へと移った。
そこに居たその者に、彼らが気がつかぬのも無理はなかった。
このような真夜中に、しかものっぴきならぬ変事の知らせが届いた矢先に、
反対側の無人の庭を散策している奇矯な人間がいると、誰が予測し得たであろうか。
「ぶらり旅をしている客人を迎えたと聞いておりましたが、貴方がたのことですか」
三人は、闇を見すかした。
星空を切り取る彫像の前に、その者は貧しい身なりで立っていた。
何かの匂いがした。
特徴的な、憶えのある油の匂いだった。
「その内のお一方には、確かに憶えがございます。星の騎士、そう呼ばれる御方」
(これは植物から抽出された油で、顔料に混ぜると、
色彩に多層な質感が生まれるのです。
少なく混ぜれば、重厚に。多く混ぜれば、透明に。
ほら、ご覧下さい、星の騎士)
シュディリスが画布を覗き込むと、たちどころに、影と光が塗り分けられて現れた。
木々はまるで、風に揺れているように陰影を帯び、ゆたかな雲は、まるで
刻一刻と形を変えて風に流れるもののように、絵の中に生まれ出た。
(濃いところはまことの岩のよう、
薄いところは、まるで本物の水のようでは御座いませんか。
事象と我らの間にあって、漂っているこうした細かな光の屈折を、
わたしはこうして色に変えて生み出し、それを画布に再現しようとしているのです。
未来永劫、何人にも出来ぬことと、知りながら)
何故、何人にも出来ぬのかとの問いは、鐘の音に遮られた。
午後の講義を受けに向かうシュディリスの為に、扉を開いてくれたその者の袖口からは、
すっかり染み付いた、顔料と油の匂いがしていた。
朽ちた木を煮詰めたような、秋の匂いだった。
(では、また後で。星の騎士よ)
彫像の前の人影に、シュディリスは「師……」と、その名を呟いた。
「師匠は旅に出かけられております。わたしも居場所を知りません」
人影は見上げていた彫像の前を離れ、松明の明かりの中に進み出てきた。
背ばかりが伸びた、ほんの少年であったが、身なり貧しくとも賢そうなその眼は物怖じせずに、
シュディリスをまばゆげに見上げた。
癖のある髪を、ほとんど剃り上げるまでにした様子は、若い僧のようであった。
田舎訛りでまだ流暢とは云えないが、正確な帝国共通語で、少年は述べた。
わたしは師匠が古都の学び舎で貴方を描いた、その絵の素描を見たことがあります。
シュディリス・フラワン様。
星の騎士と師匠は貴方のことを呼んでいました。
わたしはその昔、師匠が描いたことのある貴きご婦人がこちらにご滞在と聞いて、
ひと眼みたいと、隣村からいそいで駈けつけて来たのです。
エチパセ・パヴェ・レイズン様は、わたしを師匠に会わせてくれた、恩人です。
そのエチパセ様が、貴方がたをここにお遣しになったのですか。
それならば、わたしたちを引き合わせて下さろうとの、御心だったのでしょう。
エチパセ様は、師匠がいつでも使える工房をこの近くに建てて下さったばかりではなく、
わたしが師匠の描いたものには何でも興味を示すことを、ご存知でしたから。
星の騎士の本物に逢えるとは、今日は何と良い日でしょうか。
御逢いになれたらお歓びであったろうに、師匠が旅に出ていたことは、残念です。
師匠は、放浪の画家と、世間では呼ばれています。
「わたしがここに参りましたのは、トレスピアノの奥方さまに御逢いしたいと希ってのことです。
女人には興味のない師匠が、ただ一人、お若き頃に心惹かれた麗人として、
幾度か師匠から聞いたことがございました。
お加減が悪いとお聞きしておりましたが、そのリィスリ様には、
明日、御目にかかれることでしょう」
「一計がある」
思いがけずも遭遇した放浪の画家の弟子の話が一段落したところで、
パトロベリが何かを思いついた。
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『我らきょうだいの望みは、
母上が家でお待ち下さり、迎えて下さること。
トレスピアノより他に帰るところもなく、そここそが、安らぐ処。
わたしは貴女に、健康が恢復しだい、父上の待つ家に戻って下さるよう望みます。
シュディリス・フラワンが、今も変わりなくフラワン家の長子であるならば、
今でも、そのように思って下さるのならば、
嫡男のこの言葉を家長の言葉とも思い、お聞き届けのほどを。
ご心配をおかけして申し訳ありません。母上。
リリティスとユスタスを連れて、父上と母上の許に戻ります。』
夜が明けて、シュディリスが残した手紙を読んだリィスリ・フラワン・オーガススィは、
まだ結い上げぬ髪のまま、その横顔を早朝の淡い光に向けた。
(朝になったね)
遠い昔、その人は身をかがめ、リィスリに接吻をした。
たくさんの花に包まれるような、そんな刻だった。
過ぎていく時が耐えられず、胸の張り裂けそうな想いで、眼を閉じていた。短い朝だった。
リィスリはシュディリスからの手紙を膝においた。
子供らしいこと。
親の心に甘える方法を知っている、そんな簡素な文面だった。
シュディリスと翡翠皇子は似てるかと、ユスタスからも、リリティスからも、
そう訊かれたことがあった。
胸を刺すほど似ていることもありますが、いいえ、似ていません。
それでも、子供たちの眼は無邪気に疑わしげであった。
誰に見られても恥ずかしくない、母の威厳をもって、リィスリはそれに答えた。
翡翠皇子のことを想い出すこともありますが、
フラワン家に嫁いで、もう忘れたことも多いのです、と。
嘘ではなかった。
夫にもそう伝えた。
忘れてしまった、憶えていることも、繰り返し呼び戻しても、もう戻らないことも。
翳りの姫君、翡翠皇子はからかって、そう呼んだ。
誰も代わりにはなれない。
接吻をする時、頬を包む時、上からヴェールをかぶせるような仕草で、丁寧にそうする人だった。
踊る時、音楽に合わせて出鱈目な歌をうたっていた。
気楽な皇子だった。
氷の姫君、夕空の冷たい心をお持ちの翳りの姫君、わたしの妃になる気はないの。
貴女がわたしの腕の中で見せてくれる、誰も知らない、やさしい顔が好きだな。
カルタラグンの妃として、貴女をお迎えしたい。
その手が触れた気がした。
シュディリスの手紙を手に、ぞくりと、リィスリは身をふるわせた。
亡き人の声、生々しく不意に甦ってくる、今更のように。
翡翠、貴方があの時、無理矢理にでもわたくしの手を取って下さっていたなら、
わたくしはたとえ、タンジェリンの姫より位低く扱われたとしても、
炎上する皇子宮で、最期まで、貴方と共にいたでしょう。
いつものように、からかわれているのだと思った。
幼い姫君を見かけた。
遊びに来た皇子宮の庭で、お花遊びをされていた。
遠眼にもひと目でそれと分かる、錆色の髪をしていた。タンジェリンの末姫だった。
皇帝代行を担うカルタラグン家への恭順の証として、タンジェリン家が
次期皇帝の座が確約された翡翠皇子に献上する姫君を用意しているのだと、
その頃噂で聞いていた。
あのように小さな姫まで、まつりごとに利用されるのだろうか。
そしてわたくしがこのまま皇子の妃の一人として立てば、陰謀と覇権争いにあの小さな姫を巻き込み、
御子が生まれたら生まれたで、次世代に渡り、延々とわたくしは皇子を挟んであの姫と、
タンジェリン派とオーガススィ派に家臣を二分し、道なき道で、互いに苦しむことになるのだろうか。
カルタラグンとタンジェリンの誼の間に、オーガススィ家がいまさら割り入ることは、
かえってご政道の邪魔となりましょう。
皇子はそれを、拒絶ととった。
(朝になったね)
あれが、最後の朝だった。
朝の光は、別れの透明な記憶のように、浪打ちながらリィスリを掠めて、過ぎていった。
朝を囁く皇子の声は、もはや死者の声としてしか、リィスリの胸には聞こえてはこなかった。
いかなる宿縁あってか、やがてその赤子が手許に来た時、リィスリはそれを、
あの時、自分がまことの気持ちから逃げたせいだと、そう思った。
臆病者、翡翠をまことに愛していたのなら、どれほど辛くとも
わたくしはそこに残って闘えたはずだった。
タンジェリンの姫君が、眼の前で皇子を殺されたあの方が、今闘っているように。
それでも、翡翠、わたくしに他にどうする術があったでしょう。
皇帝代行に乗り出したカルタラグンに、タンジェリンは従い、そしてわたくしの実家オーガススィは
隣国ハイロウリーンやジュシュベンダ共々、それに否定的だった。
わたくしが貴方の許にゆくことは、小康を保っていた世を、ふたたび乱すことだった。
それとも、わたくしが騎士であったなら、それも飛び越えて行けたのでしょうか。
多くの人を苦しみの淵に突き落としてまで、何一つ悪いことなどしたことのない顔をして、
その倖せを選べたのでしょうか。
凶刃に、貴方と共に斃れるその日まで。
リィスリは、シュディリスからの手紙をたたみ、大切にしまった。
ユスタス、リリティス、そしてシュディリス。
他の男の影がまだ色濃くその身に刻まれている女を、怒らず、あせらず、
時間をかけてやさしく包んでくれたお前たちの父上は、確かに騎士ではありません。
ですが、お前たちは父上のことを、この世の誰よりも誇りに想いなさい。
終生この胸につかえたままのこの恋を、この哀しみを、それを知りながらもあの御方は、
わたくしをフラワン家に迎え入れてくれたのです。
何も訊ねず、何も云わなかった。
誰にも気がついてはもらえなかった押し殺した苦しみを、たくさんの求婚者の中で、
あの方だけが、寛い心でよく見抜いて、お分かり下さいました。
「奥方さま」
トレスピアノから連れて来た僅かな供人の一人が、次の間から声をかけた。
ルイ・グレダン様よりのご伝言でございます。
奥方さまをトレスピアノにお送りする支度が整ったとのことでございます。
休憩地ごとに、医師も手配して下さるとのこと。
「ルイ様は」
「昨夜のことで、お忙しいご様子でございました。
しかし奥方さまの出立には間に合わせ、旧街道を出るまでは
お見送りいたしますとのことでございます」
それには及びません、とリィスリは応えた。
ナナセラより差し回された馬車、ありがたく受けましょう。
「しかしナナセラの御者も護衛もお断りして。トレスピアノを出た時と同じように」
「リィスリ様。奥方さま」
「今すぐ。そのように」
リィスリは立ち上がった。
しかしリィスリを乗せた貴賓用の瀟洒な馬車は、砦の門を出たか出ないかの並木道で、
「その馬車、待たれい、待たれい」、兵を率いて後ろから追いかけてルイ・グレダンに停められた。
栗毛の大きな馬に巨体を跨らせて、ルイは転がる岩のように駈けてきた。
進路を絶っておいた上で、馬ごと馬車の側面に回りこみ、
馬から降りたルイは、馬車の窓から顔を覗かせたリィスリに、怖い顔をつくって向けた。
「何かありましたか、ルイ・グレダン」
「礼状とご伝言、確かに頂戴いたしました」
リィスリはさすがは星の騎士の母である貫禄をみせて、
窓をふさぐルイの影に、ほのかな許容と批難をにおわせた。
挨拶を略し、黙って出立したことをお怒りでしょうか、ルイさま。
「それとも、今度はトレスピアノへ戻ってはならぬと仰るのでしょうか」
「ご子息、ご息女と、まことによく似ておられる」
ルイは窓越しに差し出されたリィスリの白い手に、接吻の代わり、その手を返すことで応えた。
婦人の手は、朝の風に冷たかった。
ルイは、怒っているのだが、むっとしたその顔は、泣いているようにみえた。
シュディリス様、リリティス様と、変わりござらん。
あえて苦言を申し上げれば、フラワン家の方々は思い込んだら即断即決にて、
行動に移されておしまいになられる。気高い心があればこそのご直情なれども、
その高邁、その剛情、それが周囲に与える影響を、まるでご考量されませぬ。
ご決意は結構ですが、慎重もまた、並々ならぬ勇気を必要とするもの。
さように馬車を走らせれば、御身体に障りまするぞ。
リィスリは前を向いたままでいた。
「本街道に出るまではお供つかまつりまする。トレスピアノまでは長旅なれば」
背筋を伸ばし、馬車の座席に腰掛けたまま、リィスリは微動だにしなかった。
ルイは嘆息した。
やはり、トレスピアノに戻られるおつもりではないのだ。
礼儀ただしく、ルイは馬車には触れず、しかし御者には睨みを利かせて、御者台から降ろさせた。
「奥方さま、どうか。はやまってはなりませぬ」
「ルイさま。戦ですか」
張り詰めた顔をしてその時、ルイを見たリィスリの眸は、神秘の灰色に清みきって、
氷の華のようであった。
リリティスによく似た、きらきらと光る灰色の眼をしてリィスリは、ルイに求めた。
「それは、我が子シュディリスにも無縁ではないことかと。戦になるのですか。いかが」
「返答いたしかねまする」
「昨夜の狼煙は何事です。わたくしに、お聞かせ下さいませ」
「それを知ったところで、如何になさるおつもりか」
「わたくしは、この日を待っておりました」
リィスリは云った。
シュディリスとユスタスがトレスピアノを出て行ったように、いつかこの日が来ることを、
わたくしは日々のどこかで予感して、待っていたような気がいたします。
「リィスリ様、お待ちを」
しかし、ルイはその顔をさっとあらためて、リィスリの話を遮った。
後ろを振り返ったルイは、馬車を守るように街道の真ん中に立ち塞がり、
「何か聴こえまする」、と吼えた。
すぐさま、その眼は大きく見開かれた。
奇しくもそれは、不可侵領トレスピアノがレイズンの軍勢を迎えた時のように、
街道の彼方から轟きと共に、まっしぐらに馬車を目指してこちらに押し寄せて来るのだった。
地を蹴る大勢の馬の蹄の音に、足許が振動した。
ルイは叫んだ。
「リィスリ様、今すぐに砦にお戻りを!御者、ただちに道を戻れ。護衛兵、リィスリ様をお護りせよ」
「ルイさま」
「リィスリ様、馬車から出てはなりませぬ」
「いいえ」
風に、結い上げぬままにしていたリィスリの髪が流れた。
白金になびき、日を浴びた。
それは迫り来る青と黒の旗を前にした、御標のようだった。
「奥方さま。なりませぬ」
馬車から降りたリィスリは、ルイの手を押し退けた。
このわたくしにも、竜神の血は流れております。ルイ・グレダンさま。
貴方にはお話しておりませんでした。
北方の空の色の髪をなびかせ、リィスリは云った。
オーガススィ家の中でも、わたくしと、わたくしのきょうだいが分け合った騎士の血は、
何百年に一度の、傑出したものだと云われていたものでした。
至宝のごとき、純血の騎士の血だと。
そのことは、わたくしの生んだ子たち、そしてコスモス家に養子に出された末弟、
クローバ・コスモスが、その身をもって証明するとおりです。
星の焔、その輝き。
並み居るあまたの騎士たちが、如何に努力しようとも到達し得ぬ、狂気をひめた血なのだと。
わたくしの両親は、それゆえ、わたくしを騎士にすることを望みませんでした。
タンジェリンと同じく、オーガススィ家もまた、女を騎士にすることに危惧を抱き、
その血は保全しても、女子を騎士にせぬことで、その因循を絶とうとしていた。
我ら女に、避けても避けても、その血は祟るのです。
まるでそれは、騎士の贖罪を一身に引き受けておられる、ユスキュダルの巫女さまがそうであるように、
騎士たちの悪性や悲劇は、騎士の女を選んで降りそそぎ、女の身を焼き滅ぼすように出来ていた。
タンジェリンとオーガススィは女系、その忌まわしい宿命に、他家よりも憂慮を重ねた家でした。
それゆえ、わたくしはトレスピアノに去り、そしてタンジェリンの姫は、騎士ではない姫として、
その類稀な騎士の血を次世代の男子に伝えることを期待されつつ、翡翠皇子の許に上がったのです。
それには、ルビリア姫の御母君の、家の批難と圧力に堪えた、
一方ならぬご尽力があったと聞いております。
「我が子に生き地獄を歩めと望む親がこの世にいるでしょうか。
当時のタンジェリンのご令室は、生まれた四人の姫君を、騎士には育てぬことで守ろうとされた。
そのうちのお一人が、わたくしの弟クローバ・コスモスの、亡き妃です。
しかし、政変により、その全ては無駄に帰しました」
遠い日を見つめるようにして、リィスリは光さす雲の流れを追った。
故郷の北の森。
お守り役に抱き上げてもらい、星空の極光に手を伸ばした。
夜の海の果てに、夢の浮島があるような気がして、いつまでも見ていた。
「姿を消したタンジェリンの姫は騎士となって復讐を誓い、
そしてわたくしの娘リリティスもまた、兄弟の感化を受けて、自ら騎士になりました」
針葉樹の森、雪の降り続ける永い夜。
柑橘の皮を火にくべた、微温室。その香り。
いまもそのままにあるのだろうか。
(リィスリ様は、竜神の血をお持ちなのですよ)
(遠い昔、ジュピタの騎士とフラワン家の乙女が斃した竜の血を、
付き従った七人の騎士たちが、聖杯に分け合って飲んだのです)
(七つの聖騎士家。リィスリ様は、その一つ、オーガススィの姫さまです)
「わたくし一人が、その宿命から、眼を逸らし続けてきました。
ジュピタ皇家とフラワン家が、互いの遠慮から疎遠になろうとも、
それは所詮は一時しのぎにしかならぬことを知りながら、
このまま平穏が続くことだけを祈って、家族に守られて過ごしてまいりました」
ルイさま、昔話を語りましょう。
ミケラン・レイズンが殺した翡翠皇子は、わたくしの愛する人でした。
愛と名のつくすべてをこめて、皇子のすべてを愛しておりました。
その人が、分家上がりの思い上がった者の手にかかり、むなしく殺された。
あの時、もしもわたくしが騎士であったなら、
わたくしはたとえフラワン家に嫁いだ後であったとしても、この怒り、この無念でもって、
ユスタスに与えたオーガススィの剣をこの手に取り、刺し違えてでもミケラン卿を殺していたでしょう。
罪なきものを惨めに落した者は、惨めに、見苦しく苦しんで死ぬのが相応しい。
わたくしがそうする代わり、タンジェリンの幼い姫が、その焔を胸に秘めました。
この二十年、わたくしは悔いてきました、ルイ・グレダン。
わたくしはルビリア姫の背負う業を、その苦しみを、本来であればその半分でも
背負うべきではなかったか。
翡翠皇子の妃となっていれば、そうなっていたはずでした。
自分の心に背いたその罰は、絶たなかった過去の遺恨は、
一度は日々の深くにその姿を隠しても、時が来れば、このようなかたちとなって
現れてきました、そして、いくら忘れたふりをしても、
しまつを忘れた糸のように、ふたたび人をもつれ合わせ、全てを崩そうとしている。
宿命から逃げずに歩む子供たちを苦難において、ルビリア姫ひとりを苦難において、
わたくしだけ、このまま無傷でいられましょうか。
「奥方さま。それでは参りましょう」
ルイ・グレダンはすっかり観念して、この女人の前に頭を垂れた。
街道に軍勢が現れた。
速度を落したまま、整然と横に広がり、彼らに向かって馬を進めて来た。
陽光に不気味に光る青と黒銀の鎧を待ち構え、ルイはリィスリを励ました。
彼らが何用あってナナセラに来たかは知りませぬが、シュディリス殿が昨夜のうちに
ご友人共々、城砦からご出立を果たされていたことは、こうとなっては重畳でありました。
リィスリ様、ご安心めされ、ご子息は星の騎士、すばらしき幸運に恵まれておられまするぞ。
さて、トレスピアノ領主夫人の身までもレイズン家の手にかかったとなれば、
今度こそ、諸国諸侯がレイズンに対して黙ってはおりますまい。自ら首を絞めるがごときこの所業、
我らにとっては僥倖に、ミケラン卿にとっては裏目と出るやも知れませぬ。
しかし、お一人では行かせませぬぞ、リィスリ様。
ルイは剣を構えた。
フェララとて、わしにとっては仮寓、信義の必要とされる時にはいつでも捨てもうす。
またフェララ公ダイヤ様とて、ご婦人を道端に見棄てるような剣術師範代など、要りますまい。
「このわしも、お供つかまつりまする」
「ルイ様、有難く思います」
ですが、わたくしは、トレスピアノを守るためには、我が夫である領主は
家族を犠牲にすることも厭わず、いざとなっては、わたくしたちを見殺しにすることも
躊躇わぬ人間であることを存じております。
「夫が守っているものは、わたくしたち家族ではなく、トレスピアノの民人です。
さもなくば、何をして、彼は領主足り得るのでしょうか。
その峻厳と誠実なくして、カシニ・フラワンは、わたくしの夫でありえたでしょうか」
「ご立派です。お供いたしまするぞ、奥方さま」
「心強いことです」
リィスリは迫り来る軍勢に、ほとんど無防備といってもいい姿で、ルイを従えて立っていた。
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夜明けの月の傍に、星があった。
若いぬくもりを重ね、その手を重ね合わせ、つがいのもののように、
彼らはしだいに明けていく菫色の空の下、天幕を揺らす風の音を聞いていた。
朝焼けの色は、幕布を透して幕内を、淡い虹色で満たした。
にじむような霧があった。
ユスタス様。
つかの間の眠りから覚めたロゼッタはユスタスに身を寄せた。
ぼんやりとした乳白色の輪郭を頼りに、黒髪から下を辿れば、
細い首やまろやかな肩、胸のふくらみに触れた。
よこたえた人を、ユスタスは接吻で覆った。
朝焼けに沈む月を取り戻すように、ユスタスは恋人を引き寄せた。
細かな雨に濡れたように、倖せを浴びて寄り添った肌からは、
朝の霧の匂いと、すでにそれを知った、さびしい懐かしさを覚えた。
その人の心臓の音がした。
小さなかそけき音だった。
ロゼッタ、君にはまだ云ってなかった。
僕は騎士の女の子だけは恋人にするまいと決めていた。
ユスタスはそこに唇をつけて囁いた。
絶対に御免だ、君たちなんて。
ロゼッタはユスタスの背に腕を回したまま、何も応えなかった。
身をおしつけて、森を過ぎる鳥影、夜の名残に、過ぎ去った共寝の夢に、
その引き潮の静けさに、ぼんやりと潤みながら、心を澄ませているようだった。
(戦になります。だから)
野営の夜だった。
ハイロウリーンからもサザンカからも少し離れた、
星空のよく見える河のほとりの岩陰に自分で天幕を張ると、さっさと就寝した。
わずかな話し声や物音が絶え、河の音しか聴こえなくなった頃、
天幕が開き、そこに小さな影があった。
蒼い星空を背に、その細影は眠るユスタスを見つめて、立っていた。
夜の河のせせらぎが、黒蝶の群れのように光り、静かに月の光に波打っていた。
ロゼッタ?
その名を呼ぶ前に、星空と河が閉じた。
小鳥のように、少女のようなその人は、半身を起こしたユスタスの胸に
ぶつかるようにして飛び込んで来た。
戦になります。だから。
狭い天幕の中で、正気を失くしたもののように、すごい力ですがりついてきた。
衣服を脱ごうとするロゼッタの手はこわばって、異様にふるえ、
完全に心ここに在らずであった。
意図することがようやく分かった。
お断りだ。
そう云って、はねつけるべきだった。
こんなのは嫌だ。
誰だって戦の前は気が昂ぶるし、身が凍え、恐れもする。
だけど、こんなのは嫌だ。
だから僕は女騎士が嫌いなんだ、君たちが、大嫌いだ。
思い詰めるたびに衝動的に、そうやって、人が変わったようなそんな真似ごとをして、
こちらが年下だと思って、男なら誰でもいいのか。
僕を誰だと思っている。
かっとなって浮かんだそんな拒絶とは裏腹に、ユスタスはロゼッタを抱いていた。
透明な月が白い空にかすむ頃、ロゼッタはユスタスを残して、天幕を出て行った。
「ロゼッタ」
手ぐしで髪を整えてやると、小さな子供のように横を向いて、されるがままになっていた。
行軍の間は姿を見ることもなかった。
コスモス領を望む丘陵でようやく停止した時には、神速ハイロウリーンと、
サザンカの間には既にだいぶ距離が出来ていたが、そこにもロゼッタは居なかった。
行軍のしんがりについていたはずのロゼッタは、さらに遅れて、
やきもきしているユスタスをよそに、夕刻になってようやく野営地に到着した。
サザンカの落伍者を探していたのだという。
夕陽にふちどられた小さなその顔は、ユスタスの姿を見ると、遅延のまことの理由を口にした。
残照を渡って来たような、血の匂いを立てていた。
斬り殺しました。
「ためしに、私が抜刀すると、形相を変えて襲い掛かって来ました。
私の眼は節穴ではありません。サザンカ家に仕えながら、
他家のためにも便宜を図るような裏切り者はいらない。
以前から、怪しんでいた者たちです。
願ってもない機会です、どこの国と通じているのかと問うと、脱走を図りました。
サザンカの家司の名にかけて、彼らを追いかけ、成敗しました。
憐れな者たち、私を完全になめていた。
逃げ出すふりをして私を誘い出し、味方の助けを呼べぬ場所でなら、
私に勝てると思っていたのでしょう。
サザンカ家を護る薔薇と棘の家紋はそれを許すようなお飾りではない。
遺体は谷底に落としておきました。見つかることもないでしょう」
血のついたままの真紅の剣を、ロゼッタは従者に向けて投げ出した。
後で私が磨きます。そこに擱いておいて。
「ユスタス様、私たちが一緒にいてはよからぬ疑いが生まれます。
離れて下さい。私に話しかけないで」
その手で大の男を屠った直後とは思えぬ冷静さで、冷淡にそう云い捨て、
ロゼッタは身を清めるために河へ向かい、ユスタスから歩み去った。
その夜に、ロゼッタはやって来た。
薄明の中でロゼッタは、ユスタスが触れたところに手をおき、その鼓動ごと
掴み出そうとする仕草を見せた。
(かんたんに絶てました。戦になれば、もっと--------)
後は熱に埋もれた途切れ途切れの声になった。
続きを聞きたくはなかったから、ユスタスはロゼッタの手首を抑え、きつくそうした。
(斃した相手の顔を憶えています。心臓に深く沈めた、とどめの感触も)
ロゼッタ様、ロゼッタ・デル・イオウ様、お情けを!
地を這い、命乞いをする相手の胸に脚をかけ、ロゼッタは膝を乗せた。
小柄なロゼッタではさほど重みもかからなかったが、みしりと音がした。
相手の口から血が溢れ出し、ごぼっと音を立てた。
ロゼッタは剣の柄を両手で握りしめた。
太陽を背にしているのに、背中が寒かった。これからもずっとそうだろう。
相手の苦しみもがくさまには、何の同情も感慨もわかなかった。
近くには先に切り倒した者が転がって、すでに絶命していた。
赤い光の一閃で喉を裂いた。うるさくなくていい。
お待ち下さいロゼッタ様、死にたくない、ロゼッタ様!
懇願と悲鳴はすぐに止んだ。
凍えた頬を誰かが撫ぜた。ユスタスの手だった。
ユスタスに抱かれ、いつまでもロゼッタは滔々と流れる河の音と、沈む月を追っていた。
(私も、いつか、あのように、誰かに斃されるのでしょう)
(ユスタス様)
(騎士にならなければ、ユスタス様とお逢いすることもなかった)
「ハイロウリーン、およびサザンカの正規部隊お見受けいたす。
何用あって、コスモス領への進攻を試みられるか」
「帝国治安維持のお役目、ご苦労です。お使者殿」
レイズンからの使者を迎え、青空にはためく白と金のハイロウリーンの旗幟のもと、
ルビリアのよく響く声がそれに応えていた。
近寄っても、ルビリアの傍らにいつも控えているエクテマスがちらりと見ただけで
不問であったので、ユスタスはそこにいた。
丘陵の先に広がるコスモス領をユスタスは眺めた。
豊かな緑と、濃く蒼く深い空があった。
心地の良い青葉が頭上でたっぷりと風に揺れ、清流には魚が泳いでいた。
弧を描く石橋が架かっていた。
兄さんの話では、ジュシュベンダにも、最も古い区域には同様の石橋や古い塔が残っていて、
もしかしたらコスモスとジュシュベンダの間には、古くは職人の交換か、または
技術伝達の交流や民族移動があったのではないかということだった。
お伽の国、古地図の頃からその慎ましい領土を変えない。
小さな国、オーガススィ出身の辺境伯を戴き、先ごろまで独立を護っていた。
忘れられた宝石箱、トレスピアノによく似ている。
名ばかりを知っていた遠い国、この眼で見ることになるとは思わなかった。
本当にあそこに、ユスキュダルの巫女がおわすのだろうか。
そして、もしかしたら兄さんも。
紫の野花の咲き乱れる草地を歩き回った。のどかに羽虫が飛んでいた。
街から遠いとはいえ、ここはもう、コスモス領だ。
ここからの眺めを気に入っていた人を葬ったものか、
小さな墓が、素晴らしい眺望を見下ろす、すずしけな大木の根元にあった。
家紋も碑銘もない素朴な墓だったが、最近誰かが訪れて、大雑把に苔を払っていった跡があった。
風雪にさらされた碑文に、墓を此処に据えたコスモス領伯爵の名を見た気がして、
ユスタスが身をかがめてそれを読み取ろうとしたところを、
レイズンの使者の到着を告げる触れに、邪魔をされたのであった。
非公式の使者を前に、天幕から出てきたルビリアはよどみなく返答した。
「使者殿、お尋ねのむきに答えましょう。
永きに渡りサザンカに亡命されておられた、カルタラグンの正統なる後継者、
ブラカン・オニキス・カルタラグン皇子をサザンカより、遠路、
ハイロウリーンにお迎えするにあたり、その途上、コスモス領に不穏ありと聞き及び、
コスモス領より最短の処にいた我らが急遽、オニキス皇子と合流後、
この地に駈けつけたるものです。
オーガススィおよび、我らがハイロウリーンとって、コスモスは同じ北方に属する近き国。
また、オーガススィとコスモス、ハイロウリーンとオーガススィはそれぞれ古き盟約で結ばれており、
三国のどこかに累が及びそうな事あらば、それを見過ごすことは出来ません。
国許の命により、此処にてしばしコスモスの監視にあたります。お気になさいませぬよう」
「サザンカに与力を願われてか」
「サザンカの方々は、ハイロウリーンにオニキス皇子を無事に送り届ける任に従い、
我らに同行したまで。オニキス皇子もそれをお望みでした。
彼らをここで国に帰すも、残すも、ハイロウリーン側の一存では決められません」
「して、確かに、ブラカン・オニキス皇子を伴われてか」
「然り。ただし、皇子はまだ天幕の中でお休みです。
ご尊顔を使者殿の前にあらわにするには、時と場所をあらためるが作法かと」
「御名を承ります」
「ガーネット・ルビリア・タンジェリン」
あッ、騎士ルビリア、と叫んで、使者の眼が丸くなった。
軽く手を腰にあてたまま優雅に進み出て、悠然とルビリアはそれを見返した。
鮮やかな錆色の髪が絹糸のように朝の風になびいていた。
この髪の色が私に名乗ることをさせませんでしたが、お気づきでなかったとは、これは失礼を。
それにしても、私を知らぬで来たとは、不用意なお使者殿もいたもの。
それとも粗忽を装った、愚弄でしょうか。
慌てて使者は取り繕った。
しかしそのその眼は興味津々に、眼の前の女を舐めるようにして見つめた。
「噂とはあてにならぬもの。ルビリア姫といえば、もっと-----」
顎を突き出して尊大に構えたものか、それとも賛嘆を正直に伝えたものか、
態度の定まらぬ相手を無視して、ルビリアは艶然と微笑んだ。
人は私を、気狂いと呼んで嗤うとか。
その様子では、流布された汚い噂を鵜呑みにし、狂犬のように私に咬み付かれるとでも
思われておられましたか、レイズンから来たお使者殿。
「レイズンとは互いに遺恨あれども、ここではそれを問いません。
それともタンジェリン家の生き残りとして、
お尋ね者の私をここにて捕縛し、手柄となさいますか」
「いや。そのような」
「馬の背に括りつけられて引き回される、皇妃になり損ねた赤毛の女。さぞや面白い見物かと」
「………」
「ただし、その際は、この身はハイロウリーン家当主フェブラン・ベンダ様の御名において、
直々に騎士の叙位を授かり、正式にハイロウリーン軍に籍を与えられていることを、お忘れあるな」
正面から使者の顔を見つめ、ルビリアは申し渡した。
騎士は仕える家により、その家の預かりとなるもの。
我が名は確かにタンジェリン。されども目下のところ、ハイロウリーンがこの身の所有者です。
「この白と金の鎧がその証し。後ろに控えたる、我が命に従うハイロウリーンの騎士たちが。
そこをお含みおきの上、よく考えて下さるよう」
「し、使者に脅しを」
「脅しなど」
ルビリアは微笑んだ。
ユスタスがいちばん、兄シュディリスと似ていると思う笑みだった。
ちっとも笑っていない。
「私がその気ならば、気狂いの綽名に相応しく、今ここでその振る舞いを見せてもよい。
その青と黒銀のこしらえ、レイズン家のその色、へりくだるふりをしながら
相手を見下すその態度、卑劣な手段で相手に勝ったとほくそ笑むその卑しさ、
本来であれば見るも穢れ、我慢なりません」
「なんと」
衆目の前で真正面から恥をかかされた使者は従者共々、頭に血をのぼらせ、ルビリアを睨んだ。
平騎士エクテマス・ベンダがわずかばかり、前に出た。
ルビリアを庇う為でなく、使者に、ここにいるのが高位騎士であることを知らしめるためであった。
ユスタスは後ろに下がった。
僕の出る幕じゃない。
使者は辛うじて軽挙を思いとどまり、面を伏せた。
とがった声で言い添えた。
「ルビリア殿。長居は無用のようですな。伺ったこと、確かに申し伝えましょう」
「ご随意に」
「確かに。ミケラン・レイズン卿に」
捨て台詞の代わりにその名を出すと、肩を怒らせて、使者は馬で立ち去った。
それを見送っていたルビリアは、髪を後ろに払った。
髪は風になびき、細く白い首筋があらわになった。
いつもルビリアが胸に下げている、首飾りの鎖が見えた。
絡みつく存念のように、ルビリアの首に、鎖は優しくまつわっていた。
「続く]
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