[ビスカリアの星]■四十五.
女の、「附いてこないで」。
これは、わたしの後を追って来て、の意味である。
それは領地の田舎であろうと、ジュピタの宮廷であろうと変わりない。
(わたくし、寂しいんですの。
殿方の慰めや、心安らぐ言葉が必要なんですの。
少し気が塞ぐ、いやな想いをすることがあったのですわ。
誰かに、それを聴いていただきたい。
いいえ、やはりお付き合いいただかなくても結構ですわ。
見苦しい振る舞いなど、誰にも見せたくはありませんもの。
自立心のない、こらえ性のない、愚痴っぽい、
泣き落とし上手な愚かしい女と思われてはたまりませんもの、ねえ、あなた。
何でもありませんわ、静かな場所で一人きりになって、
気持ちを落ち着かせたいだけですの。
見つかってしまっただけでも、お恥ずかしいですわ。だからお願い、『附いてこないで』。)
附いてきて欲しいのであろう。
それくらい、若きトレスピアノ領主、カシニ・フラワンとて経験上知っている。
うっかり鵜呑みにして後を追うと互いに恥をかき、甚だきまり悪く、笑いものとなり、
手痛い目に遭う可能性も、時と場合によればなきにしもあらずであることを大いに含めて。
それ故、廻廊の柱の間で、この若い領主は立ち止まり、考え込んでいた。
宮廷の一室で郷里トレスピアノからの定期報告を受けた帰り、大広間に戻る途中で、
女が、夕空に浮かぶ儚い月のように、静かに柱の影をふみ、
侍女も連れずに独りきりで向こうからやって来るのに行き逢ったのだ。
いつもならば大勢の求婚者や賛美者に囲まれているはずの、若い女だった。
思いもよらぬ場所で往き合った姫君に、道を譲りながら礼儀上カシニは訊ねた。
お独りでどうなさいました、北の姫。
ご気分がすぐれませんか。お部屋にお送りしましょうか。
いいえ。
と、若い女は応えた。
病人がようやく少し微笑む、そんな笑みだった。
トレスピアノの領主様からそのようなお心遣いをいただき、もったいないことです。
そして姫は、心配顔のカシニに、夕闇に顔を向け、そっと付け加えた。
少し、独りきりになりたいのです。附いて来ないで下さいませ。
女が去った後には、真珠色の雲が浮かぶ菫色の宵に似つかわしい、
やさしく、もの憂い、淋しい香りだけが残った。
カシニ・フラワンは、女の残り香を振り返り、しばしそこに佇んだ。
彼は生来、あまり喜怒哀楽を面には出さない性質であった。
したがって、女が立ち去った庭園を見ているカシニの様子は、傍目には、
領地から持ち込まれた諸問題を吟味しながら故郷の空を想う、宴の喧騒を逃れてきた男の、
長閑な夕涼みであった。
やがて、彼は庭園へと通じる、庭に面した露台の階段をゆっくりと降りて行った。
これから夜になろうとする瑠璃色の空の下、辺りには誰も居なかった。
夕風に庭の花が揺れていた。
木立の間に設えられた人造石の腰掛に、その姿を見つけた。
かすかに聴こえてくる淋しげな樂の音は、宴の間で奏でられているものであった。
「リィスリ姫。わたしで宜しければ、お傍におりましょう」
彼は護衛のように適度な距離を空けて、姫の隣にかけた。
軽い目礼で非礼を詫びたものの、身分柄、彼はまずもって休息の邪魔をする振る舞いを
誰からも咎められず、拒まれないことも知っていた。
だからといって、そこにつけこむ気は毛頭なく、また彼はそのような男でもなかった。
それにそれは、儀礼の面からも、さほどおかしくはない当然のことでもあった。
物陰に男女二人きりで居るところを見つかるよりも、女ひとりきりでいるほうが悪い噂が立つ、
宮廷とはそのようなところであったから。
礼儀にかなった間を空けて、カシニ・フラワンは黙っていた。
その隣で、リィスリは月を見ていた。
飾りといえば、見事な耳飾をつけた他は何もない、清楚なその様子は、黄昏に咲く一輪の花のようだった。
そのまま、互いに無言で、どれほどの刻が過ぎたか。
遠くから見ているばかりのオーガススィ家の姫だった。
皇帝に次ぐフラワン家の位の高さから、舞踏会では順当に踊りを申し込む機会もあったが、
氷の姫君の美貌に見惚れるよりは、むしろ周囲の男たちの嫉みの視線と、
こちらを眺めている女たちの好奇の様子の方が背中に痛く、当たり障りのない会話を少々交わす他は、
一曲終われば、順番待ちをしている次の申込者にあっさりと渡してしまうのが常だった。
そして後からは、何を話したのかも憶えてはいなかった。
月の雫のようなその微笑みが、他の男の腕の中にあるのを見たのも、もう随分と前のことのようだった。
深く暮れ、宵の星が冴える頃、カシニは申し出た。
トレスピアノにおいでになりませんか、姫。
カルタラグン宮廷のような豪奢はありませんが、森と河の美しい処です。
こちらを向いたリィスリの灰色の眸を見つめ、カシニは次の言葉を探した。
そのお心を休めるだけの、静けさだけはあります。
そのままで、おいで下さればよい。
夜風に乗って音楽が聴こえた。
他に云うことはなくなった。
拒否か承諾か、分からなかった。
白いドレスを着た若い姫は、その心まで、夜露にぐったりと濡れているようだった。
宮廷を騒がせた、翡翠皇子とのあの恋愛と、その結末。
心ない噂話。
かわいそうに。
この姫は、本当に疲れているのだ。
『シュディリス・フラワンという者をこの世にお認め下さったのは父上です。
累が及ぶ時には、いつでも、わたしとの縁をお切り下さいますよう。
その時には父上の非情ではなく、領民を想う御心と、弟妹のためを信じ、
そのご裁断をわたしは支持致します。』
もしも途中で書簡を敵に奪われたとしても不都合のない書き方で、その手紙は
シュディリスの意志を明確に父カシニに伝えていた。
シュディリスの命を受けて、トレスピアノに手紙を運んで来たルイの使者が申し添えた。
「リィスリ様、奥方さまはもうこちらに向けて、ナナセラを御立ちになられているはずです」
『ご懸念のこと、心苦しいばかりです。
早急に善処し、安心していただけるように取り計らいます。』
その「ご懸念のこと」は、しかし、シュディリスや使者の申すようにはなってはいないようであった。
だが、リィスリの消息が知れぬその憂慮を、カシニは使者の前では億尾にも出さなかった。
トレスピアノ領主を前にして緊張している使者をねぎらい、カシニ・フラワンは、
ナナセラより馬を飛ばして荘園に辿り着いた使者に訊ねた。
「それで。ルイ・グレダン様はご健勝か」
「はい」
「重畳。シュディリスは」
「はい」
「それならよい。ありがとう」
一晩休んでいくようにと勧めて、トレスピアノ領主カシニ・フラワンは使者を下がらせた。
召使も遠ざけると、彼は続き間の、書斎に向かった。
扉を閉めると、カシニはもう一度、ナナセラから届けられたシュディリスの手紙を読んだ。
『では父上、お元気で。また逢える日まで。』
若々しいシュディリスの声が聴こえてくるようであった。
見えるようであった、息子の強い眼や、男親であってもふと魅了されてしまうような、
言外にたくさんのものを秘めている、その微笑が。
この二十年、内外ともに認められた親子として過ごしてきたその者が寄越した手紙を握り締め、
「莫迦なことを」、カシニは呟いた。
書斎の壁にはたくさんの一族の絵が架けられていた。
中にはまだ幼い頃の、子供たちの絵もあった。
男の子だけを連れて、よく釣りに出かけた。それは彼らがかなり大きくなってからも、変わらずに続いた。
そんな領主と兄弟の姿を、領民は微笑んで見送った。
糸のもつれた弟の竿をなおしてやっていたシュディリスは、ユスタスを岩場に送り出すと、
せせらぎの淵でカシニにふと云った。
『母上は倖せな方だ。父上のような方とめぐり会われて。』
カルタラグンの血統らしく、すらりと背の高くなった息子にかように云われて、
さて、あの時何と応えたものか。
倖せなのは、押しも押されぬ名門中の名門の領主家に生まれ、
絶世の美女を妻に、そして優れた三人の子供たちに恵まれた、自分の方だと答えたらよかったか。
またはそれに伴う、過負担や、現在ただ今味わっているような家長としての忍耐や、
騎士家の女の夫となり、父となった凡庸な男の、苦労話でも。
(リリティスが、泣きそうな顔をしている)
カシニは書斎に架けた肖像画を見上げた。
それは、ユスタスの祝い事に合わせて、三人の子供たちを描かせた絵だった。
それを描かせた当時、三人の子供たちのうちで末子のユスタスはまだあどけなく、
しかし年長の二人は、すっかり様子を変えて、大人と子供の年齢の境にある、
短くも素晴らしい感性のただ中にあった。
ほんの数年前のことであるのに、彼らはすっかりこの絵の中にある時から脱して、
末子のユスタスでさえ、もう一人前の態度で諸事万端、領主の名代が務まるようになっている。
時の流れの早さをあらためて親に教えるそんな絵の前に立ち、久しぶりにカシニはその絵を見つめた。
弟を中央に、左右に兄と姉が並んでいるそのきょうだい画の中で、
ジュシュベンダへの留学を控えた長兄は、もうすっかり若者らしい容貌で落ち着きをみせ、
古代トレスピアノ風の冠をつけた長女は、母親譲りのその美しさで画に趣きと華を添え、
そして年長に挟まれた末子は、かつての自分がそうであったように、
まだいまひとつ領主家に生まれた己の立場の重責が分かってはおらぬ、
兄姉と共に絵に描かれることだけが嬉しいような、そんな顔で活写されていた。
仕上がったこの絵を見た時、
(父上、わたしはこの絵をあまり好きにはなれない)
(珍しいことを云う。それはどうしてだね、シュディリス。よく描けた絵ではないか)
(リリティスが、泣きそうな顔をしている。------よくぞ見抜いたものだと、そう思うのです)
そしてシュディリスは親の前では滅多に見せぬ不機嫌を浮かべて、
その頃幾枚も描かせた同様の絵の中で、この画だけはその後も何故か、
あまり眼を向けようとはしなかった、そんな絵だった。
ナナセラから届いたシュディリスの手紙を手に、くだんのその絵の前に立った。
確かにシュディリスの云うように、こうしてよく見ると、この絵の中のリリティスは、
泣きそうな顔をしているようにも見えた。
眼差しの強い兄と弟とともに描かれているせいもあって、余計にそう見えるのか、
水を満たした薄い硝子のように、この娘の顔はどこか物憂げで、あまりはっきりとはしておらない。
少女の多感なひとときを写し取った画家の腕が見事という他ないが、
それはもしかしたら、常にこの娘を覆ってきたものであり、父親の眼にはいつ見ても
この上なく可愛いだけの、優しく、美しい娘であるところのリリティスに対して、
妻のリィスリや、シュディリス、そしてユスタスが抱いてきた、
男親の自分が考えてもみぬような、心の色の危うさであったのかも知れぬ。
(父上、リリティスは何処です)
(帰りが遅いようです。迎えに行きます)
やがて表から聞こえてくる兄妹の仲のよい話声を、ユスタスを加えたその仲睦まじい様子を、
この書斎の窓からよく眺めていたものだったが、
リリティスの中に潜む不安な要素を、シュディリスだけは、兄として、そして騎士の眼で、
この頃から見て取ってやっていたのだろうか。
何故気がつかなかったのか。
(------よくぞ見抜いたものだと、そう思うのです)
あれは、画家の手で妹の姿を映し出され、妹の内面を見透かされたことへの、
血の繋がらぬ少女に対する他の男の目線への、兄の嫉妬の萌芽であった。
それとも、身近な異性に対してふと想う、罪のない所有欲といったものであったか。
それからほどなくしてシュディリスはジュシュベンダへと留学し、
すっかり立派な青年となって家に戻って来た頃には、彼の地で何があったのか、
妹のリリティスとは彼自ら距離を開けて、それと分からぬほどに冷淡に接するようになっていた。
いつまでも彼らが子供の頃と同じように仲睦まじいとは限るまいし、
仲がよいといえば、これほどに仲のよいきょうだいもあるまいと心中誇りにしていた
親莫迦な親ではあったが、一家の全員が漠然と心配し、
また誰ひとりとしてそれを口に出すことはなかった、「そのこと」については、
いつの間にかシュディリスの方からそういったかたちで厳然と見切りをつけ、けじめをつけていた。
親が関与すべきことではないとして黙ってはいたが、
安堵するよりも、運命の皮肉ともいうべき、残念な気持ちがしたものだ。
もしも、カルタラグンが存続していたならば。
シュディリスがトレスピアノではなく、カルタラグンの人間として正統に育っていたならば。
考えても詮無いことながらも、もしもそうであったならば、
シュディリス・カルタラグンと、リリティス・フラワンは、これ以上ないというほどの、
またとない良縁であり、世をあげて祝福されるに相応しい、倖せな若い一組であったであろう。
(シュディリス。ユスタス、リリティス)
絵の中で、その若者は妹と弟を守るようにして立っていた。
出自の秘密を知って以来、フラワン家の者として肖像画におさまることを
避ける素振りを見せたこともあったが、家族がそれを許さなかったことも、
ここに或る、この絵のとおりであった。
しかし、実を云って、礼を云うのはこちらの方こそかも知れぬのだ、カシニは絵の少年に語りかけた。
お前がジュシュベンダに留学していたあの数年間、この屋敷を覆っていたあの欠落感は、
お前がいてこそのフラワン家であることを、わたし達に教えてくれたものだった。
シュディリス、お前が賢くも踏みとどまり、本来ならば諦めなくてもよいものを諦め、
リリティスの捧げた剣を受け取りもしなかったことを、親としてわたしはお前に感謝するべきだろうか。
よき息子であり、よき兄であること、そのことに、お前が全ての努力と神経を払っていたことに、
そうすることでフラワン家に恩を返そうと努めていたことに、
お前を育てた父親であるわたしが、気がつかぬとでも思っていただろうか。
あれを聞かせてやれたら、シュディリス。
お前の弟が、ユスタスが、それを知った時、いかに真剣な顔つきで、
まるで怒っているような口ぶりで、
「跡取りは兄さんだから。それしか僕は認めないから」
そこの扉を開いてそれだけをわたしに云い捨てていったことを、
「お願い、お父さま。兄さんをいつまでも、私たちの兄さんにしておいて」
父親に対して娘らしいおねだりなど見せたことのないあのリリティスが、そこに膝をついて、
わたしに懇願したあの必死を、聞かせてやれたら。
そして、ユスタス、リリティス。
兄を愛するお前たちは、兄さんをトレスピアノに匿っただけでなく、
堂々と長子として表に出すことで兄さんをお認めになった父上はまことの勇気をお持ちの方だと、
なかなか余人には出来ぬことをよくぞ果たして下さいましたと、
そんな手放しの賛辞をわたしに向けてくれたものだった。
だが、違うのだ。
カシニは絵を見つめた。
滅多には人を通すことのない書斎ではあるが、訪問者があった時、決まって客人は
この絵の前で脚を停め、フラワン家の三きょうだいに、感嘆と賞賛を述べるのが常だった。
誰も疑わなかった。
精神的な類似なのか、それとも、騎士の血のなせる業なのか、リィスリの子だと言い張って、
ユスタスとリリティスの兄なのだと押し切って、
二十年間、誰ひとりとしてそれを疑うことがなかったそのままに、絵の中の少年は、
代々続くフラワン家の嫡子として、妹と弟に並んで、昔からそこに居た。
記憶の底に、音楽が流れていた。
その面影は、蒼い花のように、脳裡に咲いた。
カシニは眼を閉じた。
シュディリス。
赤子のお前を抱いて、リィスリがこの屋敷の玄関でわたしを振り返ったその時から、
わたしには最初からお前のことが、翡翠皇子とリィスリの子なのだとしか思えなかった。
そんなことは有り得るはずがないことを、誰よりも知りながらも、
お前はリィスリとあの翡翠皇子の間に生まれた子なのだと、そう思った。
そう信じるのは容易であったよ。
ルビリア姫の子であることを重々知りながらも、
お前たち三きょうだいがそうであるように、リィスリとお前、そして翡翠皇子との間には、
連綿と続いた聖騎士家特有の特性が、あまりにも顕著であったから。
(今晩は、領主殿)
音楽とともに、記憶にある、その声がした。
シュディリスが長ずるにしたがって、いよいよ色濃く表れてくるその面影を見るたびに、
その当時を知っている人間ならば誰でもそう想うように、
カシニもまた、昔に引き戻されて放心することが、しばしばあった。
その美しい音楽は、あの当時、確かにそこにあったものだった。
シュディリス。
わたしが寄る辺のない赤子を即座にフラワン家の長子と認めて、トレスピアノに引き取ったのは、
お前たちがそう思っているような、翡翠皇子の訃報に涙を流していたリィスリの歓ぶことならば
何でも果たしてやりたい、そのような妻への献身や愛情からではないのだ。
領地の子供たちに対して思うような、幼い彼らをすべて守らねばならぬ、
そんな父性的な義務や庇護本能でもなかったし、
ましてやお前たちがこの父に対して買いかぶってくれているような勇気や義侠心でもなく、
わたし自身の情けや良心とも、まったく無縁なものだ。
お前たちは愕くであろうか。
或いはシュディリスならば、お前を見る母の眼にそれを見つけて、とうの昔に承知であったであろうか。
わたしが危険なカルタラグンの遺児を屋敷に迎え入れたその理由は、ひとえに、恐怖だったのだと。
(今晩は、トレスピアノの領主殿)
(あちらの壁際で、たくさんの美しいお嬢さんたちが
今宵こそトレスピアノの御方に声をかけて頂こうと健気にお待ちだけれど、
まさか今までまるでそれにお気づきではなかった?)
(あはは、貴方は真面目な方だね。わたしはそんな人が好きだ。
フラワン家の若殿の誘いを断る姫などいないよ、このわたしが断られないのと、同じようにね)
現れるだけで周囲がぱっと華やいで明るくなる、そんな皇子だった。
少々羽目を外したほうが洗練されていると見做され、歓迎される宮廷事情は、
田舎者の身には戸惑うことのほうが多かったが、他でもない宮廷の中心である翡翠皇子本人が、
「洗練とは崩して崩さず、崩れぬこと」、これの生きた見本として振舞っていたため、
そこにはいつも華やかな愉しさとともに、涼風がさっと吹いていた。
カルタラグンの黄昏。
あの時、お前とリィスリをそのまま抱きしめて領内に迎え入れたわたしは、そうすることでしか、
過ぎ去りし日々を懐かしみ、いとおしむことは出来なかったのだ。
失われたものに対する、愛惜と、
それを引き止めておかなければ過去の全てが瓦解してしまう恐怖を、
わたしはあの時お前を固く抱いて放すまいとしているリィスリの姿に見、またわたしも怖れた。
この子だけが残された。
赤子のお前を見たわたしは、その無常さに戦慄したものだ。
あれほどまでに耀いていたものが、それを体現していた人々ごと、全て消え失せた。
何もかもが焔に消えたことが、どうしても信じられなかった。
惨いこととてリィスリには詳しく伝えなかったが、あの当時わたしの許にはさまざまな情報がもたらされ、
そしてそのどれもが、一夜にして焔に包まれた皇居の阿鼻叫喚と、一切の消滅を告げていた。
翡翠皇子のあの若々しい笑顔。
話す時に、たいせつなものを相手に与えるようなところがあった、あの独特な雰囲気。
絵の前で、カシニは立ち尽くした。
大いなるものに押されるようにして、全ては一夜にして押し流され、赤子だけがこの世に残された。
そしてカシニは同じその大いなるものに背中を押されるように、
容赦ないその濁流から逃れるようにして、大急ぎで赤子を引き上げ、領内に匿った。
灰燼に帰して失われた全てのもの、全ての懐かしき日々への、その微かなよすがとして、
注意深く、滅びの一族の不吉な灰をシュディリスの上から払ってやりながらも、
カシニは過ぎた時代に繋がるものとして、形見の男子を大切に守り続けた。
シュディリス、わたしがお前を実子同様に、もしかしたらユスタスよりも眼をかけて育てたのは、
あれはほとんど、妻のリィスリと同じく、失われしものをとどめておきたいと願った、
自己愛の変形というものだったのかも知れぬのだ。
絵の中の少年は、聡明そうな顔をして、そんなカシニを見下ろしていた。
少年はこう云いたげであった。
親であれば子に対して、皆そうなのではないのですか。
それがかえってわたしと父上を結びつけ、実の親子にしたのではないのですか。
わたしが母上の眼の中に誰か別の影を見たように、父上がわたしに過ぎた日々を
重ねておられたとしても、親が子に歩いてきた人生を重ねてみるのは当たり前のこと、
それで何で、父上や母上をお怨みいたしましょうか。
そうかも知れぬ、とカシニはそれを認めた。
リィスリなどは、それを伝えると、それこそが貴方様の慈愛の深さと、まことの知性、
博愛を心がけるお心の寛さなのだ、それでなくば、そのように寛容で、温情ゆきわたり、
情深くていらせられましょうかと、
さもわたしが立派な人物であるかのように面映いことを云うてくれたものだがね、
家長を平気で翻弄してくれる激情型のお前たちに比べれば、朴念仁にも等しいわたしではあるが、
それはもしかしたら、翡翠皇子のことだけを追想しているリィスリよりも
強いものであったかも知れぬよ、シュディリス。
リィスリ・オーガススィはトレスピアノに嫁した後で、カシニに感謝を捧げてこう云った。
カシニ、あの当時、皇子との恋で醜聞にまみれたわたくしには、トレスピアノに嫁ぐより他に、
この身の名誉を保つすべはありませんでした。
ほかのどのような騎士家に嫁いだとて、あれが翡翠皇子に捨てられた女よと、嘲られたことでしょう。
貴方はそのことをよくご承知でした。
そして、その温かいお心でわたくしの手をとり、わたくしの名誉を救って下さった。
ジュピタ皇家と並ぶフラワン家だからこそ、それは叶えられたのです。
それだけでなく、シュディリスを引き取り、わたくしの我侭をすべて受け入れて下さる。
翡翠皇子のことを、わたくしは忘れません。
ですが、カシニ、わたくしは貴方を尊敬しております。どのような愛よりも深く。
そうではない、とカシニは家族の絵の前で佇んだ。
そうではないのだよ、リィスリ。シュディリス。
あの頃のリィスリ、リィスリと踊っていた翡翠皇子、彼らの恋を、どうやって伝えよう。
それを遠くから眺めていた田舎領主のわたし、カルタラグン宮廷の最期の日々と、
あの頃に繋がるすべてのものへの、その愛惜と哀悼を。
翡翠皇子のいた宮廷、翡翠皇子と微笑みを交わす、北の姫。
わたしはその全てが好きであった。
どうやってそれを伝えよう、それが叶わぬからこそ、わたしは遺されたものを慈しんだ。
夕べの音楽、当時の宮廷で過ごした若き日々、煌びやかだったものの全て、
踊り疲れた夜明けの白み、失われた全て、夜空に伸びていた宮殿の尖塔、
月を見ていたリィスリの横顔、若かった日々、二度とは帰らない、庭園の、夕暮れを。
やがて、三人の子供たちを描いた画の前から離れ、
カシニ・フラワンは実際家らしい物腰で机に向かうと、
そこに据えられていた、紋章入りの重々しい書簡函を取り上げた。
組み紐を解き、重層になった包みと、宝石つきのピンを取り除くと、
函の中には、隣国ジュシュベンダの君主、イルタル・アルバレスよりの親書が納められていた。
何事も手短に、簡潔明瞭に済ませるのが礼儀とされる君主同士のやりとりに則り、
書官もとおさず、太古より国境を接してきた隣国の誼と、
フラワン家への敬意を冒頭に荘重に表して手短につづられたイルタルの親筆には、もう一通、
紛うことなき、シュディリスの手紙がその最後に添えられていた。
それはジュシュベンダの狩猟館で、あの朝、
シュディリスがクローバ・コスモスの従騎士ビナスティを室に待たせて書いた、
シュディリスからジュシュベンダ大君へ宛てた、その手紙であった。
公式文書ではなく私信の形式をとってある君主のそれを、カシニは横に退けた。
そして、添えられていたシュディリスの手紙を取り上げると、一読後そちらの方は引き千切り、
暖炉の火にくべた。
御子息、御息女の探索と保護には助力を惜しみませぬ。
書簡の中で、イルタル・アルバレスは領主殿の胸中お察し申し上げると断った上で、
全面的な協力をカシニに申し出ていた。
御子息、騎士シュディリス・フラワン様は、野に下られたユスキュダルの巫女の護衛として、
ひとたびは巫女の保護に名乗りを上げた当国にお入りあられ、
万が一、ふたたびにもレイズン軍が貴領に対して不法を試みるその時には、
ジュシュベンダの軍力をもってトレスピアノを守ってくれるようにと、
留学時代につうじた誼から、失踪前に余にお頼み下されした由、
ご不審なきように添えましたる御令息の手紙にあるとおり。
余はこれを栄誉とし、また受諾するものです。
過日の、トレスピアノとジュシュベンダの領界線におけるユスキュダルの巫女の襲撃、
それに続く貴領への、レイズンの侵犯、
これには皇帝陛下の輔弼にあたる人物の関与が認められており、我がジュシュベンダは、
北方ハイロウリーン、サザンカを含める聖騎士家と盟約を結んだ上で、
聖地ユスキュダルへの干渉および、聖域トレスピアノへ軍事侵攻したる件、
厳重なる抗議をレイズンに対して申し立てることに有之候。
ついては、巫女をお救いしたる御子息シュディリス・フラワン様の証言を申しあぐるべく、
盟約を結んだ諸国とも呼応し、戒厳令の発布も辞さぬ所存、
御令息の御身柄の早急なる安全確保は、不穏なる帝国の今後の帰趨を決めかねない、
重要性を帯びるものともなりましょう。
幸いなことに、グラナン・バラスなるジュシュベンダ騎士約一名が随身として、
御令息と行動を共にしておりますれば、帝国広しといえども、
シュディリス・フラワン様の消息を統領殿にお知らせすることは比較的容易かと存じ奉ります。
机の上に用意を整えると、カシニはそれに対する返事を簡潔にしたためた。
短時間でそれを書き終えると、書斎の壁を飾る家族の画を眺めた。
とりわけ、無断で出奔したリィスリと、行方不明中の一人娘のリリティスの画の上には、
まるで詫びるがごとき真剣をそそいだ。
彼は手紙に封蝋を施し、使用人を呼ぶと、泰然自若として、それを隣国に届けるように命じた。
わがフラワン家に生まれし三人は、それぞれに騎士、
彼らの生きる目的やその行方は、当主にも分かりかねるところ。
また、貴下がお訊ねである、二十年前、当荘園を訪ねた人物は、
確かに妻リィスリ・フラワン・オーガススィの友人であったとその名を記憶するものの、
政変以前より都を離れた当家の者たちには、もはや昔を憶えている者もおらず、
フラワン家の後裔の断絶を謀らんとする企みごとでなくば、
ご入手であるその遺書にも心当たりなく、
当家の名誉を毀損する虚言に過ぎぬものであるか否かのご判断、
そちらで再度お確かめになられることを。
トレスピアノは不可侵領として古来より永代存続を帝国に認められたるもの。
いかなる国にも与せず、また、領内を出た者に対する対処は、
たとえ当家のものであれ、これ、定められたる法に則り、その行い、
彼らへのいかなる処断も、トレスピアノ領主の容喙するものではないこと、
その旨ご理解のほどを。
トレスピアノ領主カシニ・フラワン
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--------風を描こうとするには、どうしますか、星の騎士。
--------嵐の絵を参考にするならば、それは揺れる木々や、はためく焔の描写で、表せるようです。
「それで本当に、風を描いたと云えますか。
風は眼に見えぬもの、その強さも、そのそよ風も、
冬将軍の吹き降ろす寒風も、南の鳥を運ぶやわらかな花風も、
いかにもそれらしく描かれたというだけなのに、
眼にみえたような気になっているだけではありませぬかな」
星の騎士、その画家はシュディリスのことを、独特な抑揚で、そう呼んだ。
ジュシュベンダ大君の命により、留学中のフラワン家御曹司を描くことになったその画家は、
或る天気のよい日、高い処へとシュディリスを誘った。
学生の御身分は自由なようでいて、不便なもの。
画家はぼやいた。
せっかくジュシュベンダをすっかりと一望する、あれらの雄大な山脈に向き合った、
歌にも謳われた絶景を望める丘の上にお誘いしたものを、
午後の講義にそれでは間に合わないから、そんな野暮な理由でお断りになるとは。
このように雲のたくさん出た、空の清んだ、ざわめく緑が光の波のように輝かしい日は、
また滅多にあるものではありませぬのに、素晴らしいひとときと引き換えに、
しかめつらしい、棺の中のような、石の建物の中での、たいして為にもならぬご勉学を選ばれるとは。
その代わり、彼らは大學構内にある、古い鐘楼へと登った。
塔の内側を占める狭い螺旋階段を昇ることにぶつぶつと不平を述べて、
石段を蹴りながら子供のように拗ねている画家に、シュディリスは大人びた調子で言い訳た。
残念ながら、授業の出席の逐一は、すべて両親に報告がいくようになっているので。
「誰がそれを」、画家は鼻を鳴らした。
「半月と間を空けずに実家と往復している、使用人の誰かの口から」
「お目付け役というわけですかな」
「そのような者はフラワン家には特におりませんが、それだけに、
家では誰もが、罪なくいろいろと話すのです。とくに弟や妹は、
わたしの全てを知りたがるところがあって、講義を休んだと知れば、
面白半分にしろ、心配するでしょう」
「それは、本心ですかな」
「違います」
ようやく上に出ると、涼しい風が吹き、四方を切り取られた眺望がひらけた。
大學構内の全景と、色と形を揃えた積み木のような美しい街並みが、
地平のあたりを蒼くかすませながら、遠くまで広がった。
画家とシュディリスは顔を見合わせた。胸壁に凭れ、シュディリスは若く笑った。
「実のところ、さぼりすぎて、いささかまずいことになっている教義です。
今朝も通りすがりに、それとなく学長からそれを咎められました。
自分ではさほど選り好みが強いとは思ってはいませんでしたが、おかしなことに、
どうもはっきりと興味の対象が分かれているようです。
このあたりで身を入れておかないと、後期の試験が散々なことになりそうだ」
「いかに滋味ゆたかな内容とて、それを語る者の口に、これっぽちの新鮮も、
感動もないとなれば、加えて古都の由緒ある大學には相応しからぬ視野狭窄と、
偏見に囚われた、いけすかない権威至上主義の御仁ときては、
受講する側の学生が不在を決め込むのにも無理はないというところですかな」
「さぼりすぎた、こちらが悪い」
「せっかくの広汎なる知識にしても、それを使う者を間違えては、卑しい世間話にも劣るもの。
もとよりこの世にあるものへの扉をそっと開いて若人の背中を温かく押してやる謙虚など毛頭なく、
教義はその扉の前に踏ん張って、己をひけらかすだけの口上に過ぎぬというわけですかな。
さような教師であれば、尚更のこと、学長の口を借りてまでして、
フラワン家の御曹司にぜひとも己を贔屓に、ひたすらに感嘆して欲しいというわけで」
「さあ」
「賢明に、はぐらかえされる」
「いかに立派な先生とて、わたしのような不届き者が生徒では、張り合いのないこともあります」
「御弟さま、御妹さまは、兄君に真面目さと、完璧であることをお求めというわけでしょうか」
「まさか」
ややあって、シュディリスはひそかに微笑んだ。
家族への愛情に満たされたその顔を、画家は仔細に眺めた。
シュディリスは画家にいまの微笑みの理由を教えた。
「弟のユスタスは、今の貴方の言葉を聞いたなら、笑い出すことでしょう。
ユスタスほど、わたしの不品行の数々を知る者はいないから」
「御妹さまは」
「妹のリリティスには内緒の、そういったことです」
それからシュディリスは、リリティスはどうかな、と首をかしげた。
どうも妹は、悪いほうへ悪いほうへと想像が働くようなところがあって、
弟のユスタスはともかくも、リリティスに対しては、よく気をつけて、いい兄でいてやらねばならぬようです。
「きょうだい想いで知られる御曹司にあられては、
妹御の感情を大切に想うことにかけては、誰よりも敏感でいらせられるでしょうな」
応えのかわりに、シュディリスは鐘楼の胸壁から少し身を乗り出して、
心地よさそうに風に吹かれた。
大學の敷地外れに建つ古い鐘楼は、裕福な貴族が後世に建てたその他の塔と比べれば
高さの点では及ばなかったが、それでも古都が一望できた。
古いものはそのままに、新しきものは古いものと調和するように、
新進よりも調和を心がけて区画整理を重ねてきたジュシュベンダの街並みは、
花の都と謳われるように、その堅牢と街路の美しさ、街をつらぬいて流れる河と
そこに架けられたたくさんの古橋で、帝国に知られていた。
塔と鐘の多い街だった。
夕闇に沈む街に晩鐘が鳴り響き、街が河霧に姿を消すようにして夜に向かう様子は、
そこに差し込む斜陽の金色、群青色の空に撒かれた宵の星とともに、輝ける雲を従えて去りゆく
幻の国のような風情があった。
ジュピタの都とは異なり奴隷に担がせる輿は好まれず、昼間となれば、古都散策の貴人、
機敏に歩く人々で通りが埋まり、市場は市場、商店は商店、それぞれの区画で賑わい、
全体に気持ちのよい活気が満ちた。
河の流れを眼で追っていたシュディリスの眼は、最近とみにその心を捉えて離さぬ、
或る不幸な女人の住まう屋敷を探し出した。
シュディリスは熱心にその一点を見つめた。
彼はまだ、痛打を知らず、やがてそれは、その家の女人からもたらされるものであったが、
今はまだ高まる期待や慕わしさに占められて、塔の上からその女の家を見つめる若者は、
憂愁や沈痛とは無縁の、鳥にこがれる若き船乗りといった風だった。
若者に特有の一途を浮かべたその端正な横顔を、
しばらくの間画家は注視していた。やがてやさしく云った。
話をもとに戻しましょう、星の騎士。
なるほど、舞い散る木の葉や、波立つ海の様子で、絵の中には風が吹いているようです。
しかし、風の実体は、どこにも絵の中に描かれてはおりません。
そのことについては、どうお考えですか、星の騎士。
わたしには分からない、とシュディリスは正直に応えた。
「伺いましょう」
「絵を嗜まぬわたしには、貴方の期待するものには届き得ません」
「それで結構です。時に恋でもしておいでですか」
シュディリスは眼を上げた。
「心乱れておいでかと。青嵐の絵には、傾く事物による突風の描写が、付き物ののように」
父親ほどの歳の画家の鋭さから逃れるように、
「見えぬ風を描こうとすることは、とりもなおさず、何をどう描くかの、
その命題に抵触するような気がします」
見透かされたことをきまり悪く想うのか、シュディリスは張り出しのところに腕を組んで、
不幸な噂のある女人の家から、眼を逸らした。
昨夜、ようやくお声をかけていただいた。
丁寧な、そして怯えた様子をされていた。刀創の残る顔を隠した、優しげなる人だった。
造作によってその美醜が決まるのであれば、その女人に限っては、
まったく逆の感銘をシュディリスに与えた。もう少し深くあの人を知りたい。
それで、彼はこう返答した。
「眼に見えぬそれを描こうとする者は、その心に吹く風を見てそれを描くのであり、
ここに吹く、この風とは別のものであるような、そんな気がします。
豊かな詩想や、高度な思索なくば、絵の中にも画家の想う風は吹かぬと、そのように」
画家は頷いた。
「或る者は云った。風には色がないために、そう描くしかないのだと。
また或る者の答えはこうです。考えても仕方のないことは、絵の巧拙や、
その出来栄えでしかそれをはかることは出来ぬのだと。
万象の研究と、内面でのその昇華という側面を落とされてはおりましたが、
それに比べれば、出来のよいお答です」
満足した画家は笑って、並んで風に吹かれているシュディリスに恭しい一礼をした。
並んで鐘楼の上から街を眺めていた。
「わたしに、何か云いたいことが」
やがて、打ち解けた様子でシュディリスは訊ねた。
壮年の画家は、伸ばし放題の髭と蓬髪の中からお気に入りの若者に微笑んだ。
画家は簡素な服を身に着けていた。
芸術家の奇抜として見逃されてはいるものの、
高貴な人の前に出るには無礼ともとられかねない風体であった。
しかし画家のその眼光だけは、英邁を持って名を知られる歴代の君主にも劣らぬ、
矢のような閃きと、人の心に刺さるような、
いささか強すぎる英知の押しの強さを隠すことなく持っており、奇人の噂とは裏腹に、
シュディリスのことは初対面から、いたく気に入ったようであった。
もっともそれは、画趣の素材としての若者の容貌や、同性愛傾向にある画家の嗜好に拠るものではなく、
人間観察という一点において、シュディリスは興味をそそられる対象であったようである。
放浪の画家としてその名を知られる絵師は、シュディリスに一揖した。
「とんでもございません。ただ----」
「その先を。どうぞ」
「不躾ながら、御曹司のご容姿は、
御母君であられますリィスリ様とは似ておられぬなと。そのように」
画家の不意打ちのその言葉は不発に終わった。
シュディリスは「そうかな」、と少し怪訝そうに、何気なくそれを受けて、身じろぎひとつしなかった。
画家が、まだ若描きにしろ、二十数年前にリィスリを描いた放浪の画家と知って以来、
それは予期される質問であったから、シュディリスにも心構えが出来ていた。
だいいち、トレスピアノを遠く離れた留学先の天地で、
親と似ていないと云われたからと云って、むきになる歳でも立場でもない。
当然の当惑を見事に浮かべた上で、彼は画家にやりかえした。
「貴方が母を描いたのは、まだ母がオーガススィに居た頃の、
母がまだ少女の時分と聞いています」
「左様です。そしてわたしもまだ独学途上の、小僧の頃で」
「ビスカリアの星を指す、聖女の絵を描かれたとか」
「そのとおりです。その画は今は、リィスリ様の実弟であられる、コスモス辺境伯の許に御座います」
「母の絵だ。見てみたい」
「リィスリ様の絵姿を描きましたその頃は、まだひたすら巧緻にこだわっておりまして、
せいぜいが一生懸命描いただけの、拙いものであることには間違い御座いません、ご勘弁を。
もっとも昨日描いたものの全てが、わたしにはそう思われる。
たとえ一千万枚描いたとしても、わたしの意に叶うものは、そのうち一枚あるかなきかの、
画業とはかように不毛なる、情熱という灼熱に照らされながら砂漠で砂礫を拾い続けるような、
喉の渇き続ける、報われぬもの。
それでも、リィスリ・オーガススィ様を描いたあの時、
リィスリ様のお静かな姿の向こうに、ふと、眩い暗闇が開け、
星雲をよぎる流星を垣間見た気がして、それは遥か彼方の遠いものではありましたが、
世界と己がぴたりと一体化し、呼吸と鼓動を合わせているかのような、
宇宙の果てまでこの血管が伸び、この胸が鮮烈にはじけて、きれいさっぱりとするような、
そんな忘我の恍惚を覚えたものでした。それ故、あの絵はわたしにとっても想い入れ深いのです」
「手許になくて残念に?」
「とんでもない。よく出来たものを後生大事にしておりましたら、そこで進歩は止まりましょう。
それでも、わたしは今でもその恩寵の再来を求め、それ信じて、絵筆を握っている次第で」
「それは、オーガススィでのことと云われた」
「左様です。夜空に虹のかかる、氷の国です」
「ご記憶にある少女の頃の母と、男のわたしとを比べたら、似ていなくとも当然かと。
オーガススィの血が強い妹のリリティスならば、若い頃の母に生き写しだと云われもしますが、
弟のユスタスにしても、母よりは父に、父よりは祖父ユースタビラに似ています」
「星の騎士。死体をご覧になったことは」
シュディリスの主張を意に介さず、画家は変わったことを訊いた。
「何度も」
「では、星の騎士。その皮膚をはぎ、顔を覆う繊維を見たことは。或いはその下の、骨格は」
「故意にではなく、偶然に。それも冒涜のような気がして、あまりよくは見なかった」
「それなら、もう何も申し上げますまい」
どこまでも平然としている若者に、豪放磊落な態度で、画家は笑い出した。
世の中はおかしなことが多いから、愉快なのです。
そうそう、フラワン家は名だたる聖騎士家と婚姻を重ねてこられた、名門中の名門の御家柄でありました、
シュディリスさまのご容貌が、たとえ他家との類似性を目立って持ったものであったとしても、
何ら不思議なことはない。
その髪、その眸、その鼻梁。
たとえば、その声、その肩、その背筋。
それらのうちの幾つかは、確かにわたしの知っていた或る方に通じるのですが、
フラワン家に脈々と受け継がれてきた騎士の血が、御身の上に他人とよく似たものを
一代限りでは惜しまれるとばかりに、ほんの気まぐれにこうして御身の上に彫刻したものとするとしましょう。
「師が、知っておられた或る方とは」
「翡翠、ヒストリア・カルタラグン・ヴィスタビア。
もっとも、貴方さまが生まれる前に、不運にして故人となった御方です」
カルタラグン王朝、末期の皇子。
他人の口からその名を直に聞くのは、それが初めてであった。
しかしその時には、実の父について事細かに知りたい気持ちよりも、
真実はかえって疎ましく、このままユスタスやリリティスの兄として、
彼らのためにもそっとしておいて欲しい気持ちの方が勝っていた。
なので、もちろんシュディリスは、
「ご不快なことを申し上げましたか」
窺うようにこちらを見た画家には、「いえ」、と応えた。
「カルタラグンの昔の栄華については、父母からも聞かされています。
もっとも、凶刃に斃れた人物とわたしが似ているなどとは、さすがに憶えがありません」
「非礼はお詫びを」
「興味は尽きぬことですが、わたしにしても、
他でもない母と縁のあったその方の名を、父母の前で持ち出すことは憚られます」
「御もっともです」
ちっとも申し訳なさそうな素振りも見せずに、画家はその話はそこで切り上げた。
画家とシュディリスは、眼下に広がる古都を眺めた。
いつまでも記憶に残るような、美しい日だった。
幾たびかこの国で四季を過ごしたことのある画家は、絵描きの感性が切り取った、
さまざまことをシュディリスに教えてくれた。
「冬になれば、この街は、舞い落ちる雪に沈んでいくように見えるのです。
地の底まで沈むように見えながら、雲の上に浮かぶ都市のようにも見えるのです」
「幼い頃は、雪が降る夜には、妹と弟と並んで、いつまでも窓からそれを見ていた」
「それにしても、仲の良いごきょうだいで。ユスタス様、リリティス様とは、
気質もまるで似ておられるのですか」
シュディリスは少し考えるふりをした。
それぞれの気質については、確信を持てなかった。
一緒にいる時にはまたとなく気脈の通じるきょうだいのように想われていたが、
しかしてこうして彼らから離れてみると、まったく彼らとは違う人間である自分を見出して、
実のところ、家の枷から解き放たれた己のありのままの姿を、初めて新鮮に見出した、
そのような気持ちであった。
周囲が期待したとおりに、留学先での自分は、勉学と、貴公子に求められる全ての洗練を
ジュシュベンダ宮廷で学んで精励するはずであったのだが、
表向きはどちらもそつなくこなしてはいるものの、出来た友人といえば皆個性的な悪ばかりで、
彼らに引きずられるようにして夜な夜な寮を脱け出すことも厭わぬ、
実に平凡な、青春の謳歌を斜めに見ることも傍観することもない、
ものの見事に異郷での恋にも落ちた、ありふれたる学生であった。
周りは世辞もあってか、さすがはフラワン家のお世継ぎだと持ち上げてくれはするものの、
まずもってそれは父母の躾の賜物というべき身についた習性に過ぎず、
雪解けの河のほとりに拓けて発展した帝国最古の大学を抱えるこの国において、
自分の中に潜んでいた自分の知らぬ一面に、他ならぬ自分が愕いているくらいであった。
それを聞いた画家は父親のような、やや馴れ馴れしい、しかしそれが許される仕草で、
若者の肩に手をおいた。
「故郷を懐かしく思うことも、親離れの年頃になった若い人が、
自立にあったってご自身を振り返り、当惑を覚えることも、実にお若いことかと」
鐘楼から飛び立つ鳥があった。
その影が眼に沁みたとでもいうように、シュディリスは額に腕を乗せた。
シュディリスは首を振った。それから、空を仰いだ。
「師」
「師と呼ばれるほどの者でありませんが」、芸術家に特有の若々しさで画家は頷いた。
「放浪の画家と呼ばれる貴方は、孤独好みで、気難しいと聞いていた」
「そのとおりです」
「辛らつで奔放なところが。そのくせ、厭世的な一面が」
「此処でこうしているように」
シュディリスは胸壁に腕を乗せた。
中庭にたくさんの学生が群れ集っているのが見えたが、その話声までは聴こえなかった。
その中に彼の友人がいないことを確認すると、シュディリスの関心は学生を見分けることからそれた。
おかしなものだ、と彼は別の講堂からあふれ出て来た新たな学生の群れを眺めながら云った。
風が彼の髪にまつわった。
「家名が効いて、わたしに何らかのかたちで恩を売ろうとする者には此処に来ても事欠きませんが、
そのような者は決して本当のわたしの恩人にも、友人にもなることはなく、
わたしに友情を覚えてくれる友ならば、決してしない裏工作ばかりを好んでするようだ」
「彼らは、貴方さまの御為ではなく、自分たちにとっての箔付けや、
後々までも己を飾る為の、美談作りの為にそうするのです」
画家は愉しげに鳥の影を追っていた。
誰それの友人であることを名刺代わりに乗り込んでくるような、無遠慮な、
そんな連中の話をよく聞いていてご覧なさい、いかにも人のためを装いつつも、
自分に都合のいい話しか売り込んではおりませんから。
頼みもしない恩や、作り話を押し付けて回る厚顔無恥なその作為が導くものの、
目的のあてが外れるのも至極当然な結果かと。ほうっておおきなさい。
「いい友人がひとり」
「御名を伺っておきましょう。と申しますのも、別段学生に知り合いを持とうとは思いませんが、
いったい、わたしは若い人が好きでして。特に友人の口から好意を持って聞かされるそれは、
まだ友情というものを信じているが故に、何とも青臭く、そして取り戻せぬことでもありますから」
「貴方も知っています。トバフィル・バラス」
「ああ、あの、秀でた眼をした、いちばん大人しい方。わたしの後ろであれこれ
批評めいた揶揄を口にして騒いでいたけしからぬ学生とは異なり、
描きかけの貴方さまの絵をじっと見つめて、『不遜なところがよく出ている』、そう云った」
「トバフィルの眼には、わたしは騎士としか映らぬようです」
「わたしもそのように。星の騎士と、最初から貴方さまをそうお呼びしておりますとおりに」
画家は頭を下げた。
その足許から鳥が舞い飛んだ。
弟と妹に対しては、そのようなことを思ったことがなかった。
彼らは騎士であると同時に、弟と妹でしかなかった。いつも一緒に居たからであろうか。
シュディリスは晴れ渡った空を見上げた。
ここに居るのは、フラワン家のユスタスやリリティスの知らぬ、別の顔をした人間。
シュディリス・カルタラグン。
どちらでも構わない。
こうして彼らと離れてみると、自分に近しい、気の合う者といえば、孤独の人だけだった。
古書の匂い、顔料の匂い、剣の金気。
漂泊の魂を持ち、地上の理から何としても飛び立とうとしている。
学生の誰かが構内で奏でる弦楽器の音がした。
それを不遜と呼ぶのなら、好きにしたがいい。
「あまり迷われませぬように」
画家はシュディリスの耳元に唇を寄せた。
シュディリスが振り向くと、肩をすくめて、何喰わぬ顔をした。
後は知らない。
古い塔、古い橋、優れた治世者に恵まれた堅牢な街並み。
それからその観察の眼は、雪を頂くはるか彼方の山並みに向かい、
やがて、画家は遥か彼方の、夕暮れになればそこに星の浮かぶ方角を仰いで、
鐘楼を降りる前にシュディリスにその清浄な美しさへの注意を促した。
遠い昔、星があそこに落ちたとか。
白い峰は、まるで万物の生誕の記憶のように、結晶し、細く輝いていた。
放浪の画家は、真に心打たれるものに直面した時に浮かべる、憧れの眼をしていた。
それは騎士が、その名を口にする時の敬虔と同じものだった。
雪はあの山から風にのる。
ユスキュダルの聖地です。
あれにすまわれる仙女さまであれば、象あれども形なき、風の姿を描くことも叶うのやも知れません。
「続く]
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