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[ビスカリアの星]■四十六.




放浪の画家の工房は、ナナセラ郊外の小さな村にあった。
好事家エチパセ・バヴェ・レイズンが画家に与えたというその家には、
この一帯を所有していた元の持ち主が整えた趣ある庭があり、
変人画家の家ならばさぞやいかがわしく乱雑であろうという予測を裏切って、
内部は素朴な農家のごとくに、あっさりとしたものであった。
「わたしと師匠が留守の時にも、そうでない時にも、
 離れに住む老夫婦が掃除に来てくれるのです」
夜中のうちに、隣村のその家に辿り着いた。
放浪の画家の弟子である少年は、慣れた手つきで彼らに茶を振舞った。
馬の世話をしてくると断って外に出た少年のその背中を見送るや、
「疲れた、少し眠らせてくれ」
パトロベリは早速に長椅子に転がると寝息を立て始め、すぐにも出立するのだから
眠っている間はないと、グラナンとシュディリスが止めるいとまもなかった。
城砦で出逢った、放浪の画家の少年弟子は、名をミカといった。
狼煙の連打はもう夜空に止んだが、その代わり、城の物見の塔には篝火が燃えたままになっていた。
何を思いついたのか、パトロベリは、放浪の画家の弟子の肩に片腕を回して物陰に引き込んだ。
そして、シュディリスとグラナンには左右を見張ってろと言い残して、馴れ馴れしく弟子に話しかけた。

「放浪の画家の弟子、ミカとやら。一つ教えてはくれないか」
「はい。何でございましょうか。騎士の方」

パトロベリを見上げるミカの眼は傍に立ったグラナンが手にする灯りの中に、
幼子のように澄んでいた。
痩せた少年を壁に押し付け、パトロベリは剣呑に微笑んだ。
「なあ、ミカ。この砦にフラワン家の奥方がご滞在であることは
 砦の中の者もほとんど知らない。つまり内密だ。それなのに、
 それをお前は、いったい何処から訊き込んだ」
幾らなんでも隣村にまでそんなに早く噂が走るとは思えない。
ミカは初めて不安を浮かべた。
「何故そのようなことをお訊ねですか、騎士さま」
「遠慮するこたあない」
パトロベリは人好きする笑みを浮かべて、やさしく重ねて訊いた。
此処にフラワン家の奥方がお泊りであることをお前に教えたのは誰なんだ、ミカ。
その眼は笑ってはいなかった。
シュディリスとグラナンは黙っていた。
少年ミカは首をかしげ、ややあって、言葉に注意しながらゆっくりと応えた。
「わたしは、この城に今宵お泊りになられている女人は、師匠がその昔、
 その姿を描いた貴き御方だと、知らされたまでです」
「それを誰から聞いた」
「夕刻に工房にお立ち寄りになった早馬がそれをわたしに教えてくれました。
 エチパセさまの従者のお一人で、わたしも師匠も、
 エチパセさまの許に居た時分から、よく存じ上げているお若い方です」
おそらくその使者とは、同性愛者である師の恋人の一人なのであろう、とシュディリスは
見当をつけたが、口に出しては云わなかった。
エチパセの従者と聞いて、パトロベリは眼を光らせた。
「やっぱりエチパセの使者だな。
 護送馬車に放り込まれた僕たちが到着間近であることを城砦に伝えるついでに、
 抜かりなくも画家の家に寄り道して、そんな伝言を残したってわけだ。
 エチパセとても、まさかシュディリスのご母堂がこのような場所に現れようとは知らなかったろうが、
 ルイからそれを聞いたか、またはリィスリ様の顔を知っていたその使者はご親切にも、
 それをお前にも教えてくれたってわけだ」
「お話が分かりません」
「いいから、それを寄越せ」
乱暴に手が伸びて、少年の腰に下げていた物入れ袋は取り上げられた。
袋の中を探ると、案の定、エチパセの手による紹介状が入っていた。
パトロベリは灯りの下にそれを向けて、エチパセがミカに与えたそれを読み下した。
「この書状を持つ者は、
 帝国にその画業を知られているところの高名なる放浪の画家の、その弟子ミカ。
 師の業績をくまなくその眼で確かめることを研鑽の一環として望むもの。
 放浪の画家の画、またはその画にゆかりあるものが貴家にありし時には、
 エチパセ・バヴェ・レイズンの名において、ミカの前に門を開かれたし。
 お願い申し上げる。署名、印章。 -------よし、上等だ。念のために、グラナン」
パトロベリはその手紙をグラナンに投げ渡した。
受け取ったグラナンは元間諜候補の眼でその手紙を検分、
エチパセの紹介状が偽物ではないことを請合った。
「どこでそれが分かる」
「紙の透かし模様と、筆蹟で」
年齢性別、性格身分、体格、健康状態、このくらいは字体からある程度分かります。
それに代筆でない限り、偽りの書状であればもう少し神経質なところが散見されるものです。
「ほとんどは勘です。古今東西、年齢や性別、特性に応じてそれぞれに分類した
 書体の集積を日々眺めて暮らしていると、自然と目が肥えます。
 この紹介状は間違いなく、推定年齢四十前後、性別男、貴人が書いたもの。
 体格肥満、頑強であるが騎士ではなく、やや斜めに肩を傾ける癖あり、
 気質は温厚、頑固一徹、目下には優しく、権力には無関心、
 自己顕示欲は薄いが、粘着質、といったところです。
 エチパセ殿のことをそれほど知っているわけではありませんが、この印章は信じてよいでしょう。
 目利きになると、一瞥するだけでその真偽だけでなく、
 書き手の辿るその人生までほぼ違いなく云い当ててみせるとか」
「お前には絶対に僕の手紙は渡さないからな」
彼らは困惑するミカ少年を言葉巧みに丸め込みながら、城砦を後にした。
彼らはエチパセの紹介状をミカに返して、それを持たせ、ついでに馬も引き出して、
跳ね橋のかかる正門ではなく裏門に向かい、堂々とそこを通った。
お勤めご苦労さまでございます、後ろに騎士三人を従え、ミカは門衛に頭を下げた。

「今宵は何か大事が起こったご様子。ご親切にも泊めていただき、
 寝ていたものが、この騒ぎで起きてしまいました。
 この上はこちらにお邪魔しておりましても、かえってご迷惑。
 朝になる前に、村に帰ろうと思います。
 後ろの三騎士さまは、こちらの紹介状をお取りはからい下さいました、
 この書面にあるエチパセ様のご友人。
 徒歩であるわたしを気遣い、ご親切にも、わたしを家まで送り届けて下さるそうでございます」

教えた口上を何とかつかえることなく述べて、ミカは門衛に紹介状を見せた。
「このミカと我らが、エチパセ様の共通の知人であることの証拠は、このとおりです」
続いてグラナンが正真正銘のエチパセの手紙を衛兵の前に広げた。
それは護送馬車の中に差し入れられた食物の籠についていたものだった。
お体ご自愛下さい、ごきげんよう、とだけ書かれた、
まんまといっぱい喰らわされた若者たちにはかえって赦しがたき、火に油をそそぐ、
ぬけぬけとしらばっくれた挨拶状であったが、エチパセの署名と印章はちゃんとあった。
衛兵は、グラナンの掲げたそれと、ミカのそれを見比べて、あっさりと門を開き、
彼らを外に出してくれたのであった。
「上手くいきましたね」
グラナンは自分の馬をミカに譲ると、片手に手綱を握り、いっぽうの手には角燈を掲げて、
行く先の道を照らした。小細工でしたが、エチパセ様の紹介状は効果覿面でした。
「あの様子では、砦城の兵たちもわたしたちがエチパセ様の友人としてしか
 聞かされていないようですね」
「エチパセの名はよほどこちらでは名士としてとおりがいいんだろうな。
 何だっけ、美術工芸品の鑑定士?」
「ご専門は武具です。趣味がこうじて玄人を超えた好例かと」
「陰湿なレイズンなんかじゃなくて、鍛冶屋か武器商人の家にでも生まれれば、奴も幸せだったんだ。
 ともかく夜が明けるまでは誰も僕たちを探すまい。ルイ・グレダンもそれどころではないだろう」
薄暗い工房での作業が多いせいか、ミカは夜目が利かず、馬に独りで乗るのは覚束無い様子であった。
「彼をこちらに」、シュディリスがそれを引き取り、前鞍に乗せた。
「星の騎士」
ミカは感激の面持ちで、嬉しそうにシュディリスを見上げた。
月の夜だった。
河の上を歩いているように道は明るく、馬の蹄の音も河のせせらぎが隠した。
星の騎士、と笑みを含んで呼びかける、放浪の画家のあの深い声が聴こえてきそうであった。

(星の騎士。もうじき絵が仕上がります。これはアルバレス様に献上する絵ですが、
 それでは貴方様のお手許には何も残らない。こちらの絵を差し上げましょう)
(この素描は家に送ります)
(お別れです。わたしはジュシュベンダを出て、また流離う)
(何処へ)
(どの街道を選ぶかは、気まぐれに。これでも引く手あまたの身、
 夜露をしのぐ屋根を探すよりは、むしろ依頼主たちから逃げ回るほうが大変です)
(いつかまた逢えるといい)
(おお、逢えますとも。-----貴方さまが、トレスピアノの後継者である限り)

そして、目許だけで微笑んだ。
思わせぶりな口調。
思わせぶりな笑み。
古都の大學、学生のざわめき、茜雲、構内を影に沈めていく、晩鐘の余韻。
きっとまた逢えるだろうとも、もう逢えないかも知れないとも思わなかった。
あっさり別れてそれでよしと整理がつくほどには、好ましかった。
父ともユスタスとも、学友とも違うところに、端然と構えている、自由なる人だった。
それを伝えれば、絵筆片手にこちらを振り向きもせず、あの男は笑うだろうか。
やがてジュシュベンダには雪が降った。
自分を拒み続ける女の前で複雑な想いや、苦しい想いをした果てに、
心痛とともに留学を終えて家に戻ってみれば、
そこには数ヶ月前の自分とほとんど変わらぬ、押し潜めた想いに心を苦しめている妹がいて、
『トレスピアノの後継者である限り』、画家のこの言葉どおり、
妹を前にしてそこから逃げることも踏み込むことも許されない泥沼が待っていた。
やはりフラワン家から出て行くべきか、それとも時の推移に任せるか、いっそどうにでもなれ。
うかつには動くことも退くことも出来ない膠着状態の中、
そんな兄姉の間の危さには知らぬ顔をしながら常と変わらぬ態度を保っていた弟の笑顔と、
雲の隙間に広がる色ばかりが日々の慰めだった。
これが何か分かりますか、星の騎士。
或る時、その日の工程を終えた師は、絵の具の色調を整える布切れを使って、
シュディリスの前に何かの絵を描いた。
人の姿、両腕を広げ、その背中には美しい翼があった。
海の彼方の島の遺跡からは、人と鳥を合わせたこの意匠がよく見つかるそうです。
地震と津波で一夜にして海底に没した幻の大陸、
現存する島は失われた帝国の、辛うじて遺されたその一部とか。
僅かばかりに難を逃れた建物の上にも、海水に浸されて枯れた森の上にも雨が降り、風が吹き、
やがて土に埋もれ、そこに草が生え、現在島にいる島民も、もとの民人と同じではありません。
それでも島を掘り起こせば、滅びた国の古いものが見つかると申します。
砕けた陶器、千切れた首飾り、干からびて化石化した種、果たして、どのような人々がそこに暮らし、
何を想いながら、海を眺め夕陽を眺め、日々をいとなんでいたのでありましょうか。
船の行きかう港、物売りの声、畑を耕す農夫、機織職人、
恋を語らう女、闘技場で技を競った戦士、老人赤子、すべては雲にまで届くかと思われた津波の山に呑みこまれ、
悲鳴ひとつ聞こえなかったと歌はうたいます。
翼がある人のかたち。
何かの信仰の象徴でしょうか、それとも、当時の流行の題材にすぎぬものであったのでしょうか。
もしかしたら、その島にはかつて本当にこのような人々が行き交い、そして、翼なきものたちが
虚しく波底の下に呑まれてゆくのを、空の上から見ていたのかも知れません。
翼ある人、女のかたちをしていた。
放浪の画家の絵筆のひとふりで、
その姿は光に包まれ、羽根は輝く雪と砕けて、画布のどこかへとかき消えていった。

「師匠は云っていました」

ミカは話に聞いた星の騎士に逢えたことが嬉しくてならぬ様子で、
賢そうな眼を時折シュディリスに向けながら、同じ鞍の上でいろいろと聞かせてくれた。
「弟子は取らない主義の師匠が、わたしを弟子にしてくれたのは、
 エチパセ様のお屋敷の庭でのことでした。
 『頭がおかしな子供がいると聞いたが、お前か。
  親の手伝いもせずに日がなそこで何をしている』
 砂の上に木切れで線を描いていたわたしは師匠に答えました。
 『雲や水を描こうとしております』
 すると師匠はその場で、わたしを弟子にして下さったのです。
 顔料を調合するには、不撓不屈にも届かない、子供の熱心さが要るのだと仰って」
でも、とミカは悩める顔をした。
わたしは師匠のようにはなれないでしょう。
何だか師匠を見ていると、師匠の心と身体の半分は、すっかりこの現とは離れた、
風や雲や、燃え上がる火や、流れる水のようです。
言葉での理解ではなく、言葉では語り尽くせぬものだけを慎重に選んで、
飛び石を渡るようにして、その上を渡り歩いておられるようなのです。
師匠がいちばん嫌いなのは、魂のない作品。そのような画家は絵筆を持たぬがましと、云い切ります。
「今から諦めることはないじゃあないか」
横からパトロベリがからかった。
「才能は最初からあるものではなく、努力することが才能だと昔から云うじゃあないか。
 努力が嫌いな僕が云うのもなんだけど、好きこそのの上手なれだ」
ミカは子供に似ぬ断固たるものをみせて、首を振った。
いいえ、はっきりと違います。
騎士と竜神の血を持つ騎士がはっきりと違うように違うのです。
どちらが正しく、どちらが悪いということではありません。
そのことは、騎士であられる貴方さまこそよくご承知のことでございましょう。
やり込められたパトロベリはぶつぶつとまだ何かを云っていたが、シュディリスは
前鞍に乗せたミカに手綱を一緒に握らせて、夜道の乗馬を教えながら訊いてみた。
師がそれを?
いえ、とミカは首をふった。
「わたしがそう思うのです。でも努力はします。好きなんです、絵を描くことが。
 師匠のようにはなれなくとも、わたしなりに、昇れるところまでは昇りたいから」
「いい弟子じゃないか」、むっつりとパトロベリが付け加えた。
ご存知でしたか、星の騎士。
ミカは微笑んだ。
お隣の大国フェララに比べればフェララの属領にも等しいナナセラですが、
他家では無名のエチパセ様の名が目利きとしてここでは高く評価されているように、
美術工芸には高い関心がある国です。
ナナセラで認められば箔がつくというので、腕試しに来訪する者が後を絶ちません。
若き日の師匠もその一人でした。
その昔、師匠はナナセラの宮廷にいて、美しいと評判だった或るお姫さまに
熱心に好かれたことがあるそうですよ。
「師匠は約束されたナナセラ宮廷画家の地位を放り出して、逃げ出しました」
若騎士三人は顔を見合わせた。
確かに、変人だ。
「どういう神経の持ち主だ。お姫様から逃げたことじゃない。他でもない、
 名誉あるナナセラ宮廷画家の地位を自ら捨てたことじゃない。
 その因縁のナナセラの片田舎に、平然として工房を構えていることがだ。
 下手すれば帝国美術界への挑発・挑戦ともとられかねないぞ。僕はよく知らないが、
 きっとそのあたりは旧弊な権威主義や派閥なんかが絡んで、相当にややこしいんじゃないのか」
「だから放浪の画家なのでしょう。とにかく、このまま、ちゃんと少年を家まで送っていきましょう。
 我々が彼の家に立ち寄った痕跡があるほうがいい」
「何で」
ミカを送り届けるというのは城門を抜ける際の便宜上の理由であったに過ぎないので、
彼らは適当なところまでミカを送った後は、そこでミカと別れるつもりであったのだが、
グラナンはそれに反対した。
後で詮議を受けた時に、少年が本当に何も知らなかったということにした方がいいというのである。
それでも、こうしてパトロベリが寝入ってしまっては、すぐにも発てない。
空は白み出していた。
所在なく、シュディリスは工房の中を覗いた。
顔料の匂い。
ミカが片付けるせいか、小瓶も乳鉢も棚に整頓され、画布も画架も壁際に寄せられて、
工房の中は空き室に思われた。
採光窓は残らず覆いを外されていたが、明かりを掲げて見渡しても、制作中の絵の一つもなかった。
要人から頼まれる画ばかりでなく、気が向けば、放浪の画家はここにこもって、
記憶にある夢の絵を描いていることもあるのだという。
「夢の絵」
「何を描いているのか分からぬ絵も多いです」
そんな時には、幾日もしんと音もしないこともあれば、椅子や机を壁や床に叩きつけて破壊する、
ものすごい音がすることもあるとのことだった。

「大雨が降ると庭に走り出て、奇声を上げながら、畑の上を転がり回ることもあります」
「………」
「誰でも上手く描けない時には、嘆き怒り、自暴自棄になります。
 師匠はそれが人よりもちょっと強いだけ。人に当たらないだけまだいい」

奇矯の画家に仕えるミカは、すっかり達観しているようであった。
片方の壁際には作業台があり、そこにはいろんな画材がそのままになっていた。
台に歩み寄り、壷に立ててある絵筆を手に取った。
筆毛は、小獣の毛を集めて自分で作ると聞いた。あの男が触れたものだ。
相当な偏屈者だと聞いていたわりには、如才のない画家で、礼儀もわきまえ、
柔和な態度で愛想よく、世間並みの口を利く。
宮廷に長くいた画家とはこのようなものかと思いながら、
構図が決まるまで求められるままに何度か微妙な角度で位置を変えた。
話が途切れたと思ってふと見ると、画架の向こうから真直ぐにこちらを見ていた。 
到底我慢ならない、眼光だった。
「貴方が画家だと知らなければ、あの時、わたしは剣に手にかけていたかも知れない」
後にそう云うと、破顔一笑した。
「シュディリス様、御母上リィスリ様のお若い頃をわたしは知っております。
 お名では親しすぎる。御曹司では家に属する者でしかない。星の騎士。そうお呼びしましょう」
画家は勝手にそう決めると、
「是非にも、騎士の装いに身を包まれた貴方さまを描きたいところですが、
 二度とは戻らぬ、学徒としてのお姿を画布に遺すのも悪くはない。
 特にその眸が素晴らしい。何という青だろう!
 流れる星の光、流星の命を湛えて、いまそこに、わたしの前に生きている。
 不吉な霧を払い、夜空を切って落ちてゆく。
 騎士の命は狂い咲きと承知の上で、それを生きるか。
 それは絵筆を握るこの身も同じ。
 ------それでもわたしは描くだろう。貴方を、いまだ未成熟なる者として」
鳥の声がした。
そろそろ夜明けだった。
シュディリスは壷の中に筆を戻した。
完成したあの絵はどうしたのだったか。
おまけとして師がくれたもう一枚の小さな素描画のほうは家に送ったが、出来上がったあの絵は、
イルタル・アルバレス大君の前でお披露目の後、ジュシュベンダ宮廷の肖像の間の何処かに、
今でもそのまま飾られているはずだ。
工房を出て、グラナンにそれを訊くと、確かにそうだとのことであった。
しかも、あろうことかそこで寝転がっているパトロベリ・テラの肖像画と仲良く並んで架かっているという。
「無礼者」
「我が主君は、まことに見上げた御方」
パトロベリをじっと見ているシュディリスの袖を慌てて引いて、グラナンは失言を取り繕った。
御祖父さまのお胤であるパトロベリ様を冷遇しなかったのは、大君だけでした。
「シュディリス様をはじめ、御歳の近い各国の貴公子と肖像画を並べることで、
 何ら恥じることのない同格の王子であることを国の内外にそのようなかたちで
 知らしめておられるのです」
表面上は淡白なご関係ですが、その他の王族の誰よりも大君とパトロベリ様の仲はご円満、
パトロベリ様には慾が御座いませんから、それだけに、たまのお言葉が
大君の御心に適うのでしょうか、こう申しては不敬ながらも、
お歳のはなれた、実の兄弟のようですよ。 
「ご幼少の頃のパトロベリ様はまことにお気の毒。
 いっそ臣下の籍を賜ればそれはそれで厚遇されたのでしょうが、
 ご生母さまの御身分があまりにも低くかったことが敬遠されて、それは叶わず、
 さりとておいそれとどこかの家に養子に出すには、先々代様の尊名とご偉業が触りとなり、
 それもまかりならぬという具合でした」
半ば宮廷の飼い殺しといった風であったパトロベリ様ですが、それでもご生母さまが
ご存命であられたころは、母子二人で支え合って生きておられたものを、
気苦労がたたって、その母君もいびり殺されるように若くしてお亡くなりになってしまった後は、
まったくの孤立無援。
そんなパトロベリ様に、何かと眼をおかけだったのが大君です。
「生まれた時から周囲に認められて華やいでいるご自分と引き換え、
 同じ祖父の血を引きながら、冷遇されて隅にいる幼い王子が、不憫に思われたのでしょう。
 兄のように、守役のように、パトロベリ様を気遣っておられたことは、
 今も語り草となっていますし、パトロベリ様もそれは否定はされません」
シュディリスの前ではさすがに躊躇われてグラナンは口には出さなかったが、
パトロベリがアニェス嬢と駆け落ちを企て、それに失敗した時にも、
イルタル自ら乗り出して、事態をとりなしたということであった。
「もしかするとアルバレス様はお世継ぎを補佐する摂政家を立てて、
 末の姫君の婿として、パトロベリ様を摂政にとお考えなのかも知れぬとの噂もあるようです。
 もっとも姫君はまだ十歳ですが」
「摂政。イルタル様は人を見る眼だけはあると思っていた」
「そのように皮肉を云われずに」
二人はそこで黙り込んだ。
もしも本当に、アルバレスがパトロベリを姫の婿がねとして候補に入れているのであれば、
血筋の点からも、王位継承権の上位に日陰者パトロベリ・テラの名が躍り出る可能性が一気に濃厚である。
「まさか」、四肢を投げ出して眠っているパトロベリを見ながら、即座に二人はそれを否定した。
しかしもしそうであるならば、そこで寝ている男は、本来であればシュディリス共々、
ナナセラが国土を挙げて歓待すべき、第一級国賓である。
それが、このような質素な家の長椅子で、天下泰平に寝こけていると知ったなら、
騎士の自由奔放は世に隠れもなきことながら、
未来の花嫁たる十歳の姫君もさぞや呆れるのではあるまいか。
問答無用でシュディリスは眠る男の胸倉を掴み、引き起こした。
朝となり、ルイ・グレダンが慌てて差し向けた一隊が放浪の画家の家に押し入った時、
そこには鉢の上にかがみこみ、乳棒を構えて丹念に顔料を磨っているミカしかいなかった。

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-------捕えました。
「思いのほか手間取ったな。他家には気どられなかったか」
-------はい。
「ご婦人は、何処にいた」
ジュピタの都。下級騎士の女房となっておりました。
「都に?」
はい。この二十年、一男一女をもうけて、ずっとそこに暮らしております。
住いも、若夫婦としてそこに入った日からまったく動いてはおりません。
「ご婦人の夫は騎士といったか」
出身はオーガススィ。二人は昔馴染みとか。しかし騎士といっても下級の位。
宮廷に出入りすることもなく、数年前に騎士稼業からも身を引き、
現在は少し離れた場所に店を開き、夫婦で乾物屋を営んでおります。
「二十年近く、ずっと都に」
はい。
「それは、フラワン領主の入れ知恵か」
不明です。
「オーガススィ出の彼らが都に落ち着くにあたっては、それなりの配慮は当然あったであろう。
 もしそれがあの男の指示ならば、どうして、カシニ・フラワン、田舎領主殿、
 都を離れたとはいえ、たいしたものと云わざるを得んな。
 フラワン家の内実を知る女を、大胆にも帝国の中枢に隠していたとは。
 探し出すのにこれほど日がかかったのも無理はない」
-------御意。
「慌てず騒がず、それとなく申し出た各国の助力も断り、
 奥方が失踪してもなおも端然と構えておられる。
 並々ならぬ忍耐と理性。それとも豪胆。端倪すべからざる一族と云えようか」
そのトレスピアノ領主殿は、領地にて、日々と変わりなきご様子とのこと。
荘園の者には、『オフィリア・フラワンも或る日家人に内緒で竜退治に出て行ったのだ、
わたしが元気でいるうちは領内は安泰、何ら問題はない。土産話を楽しみにしていよう』と伝えて、
ご家族不在の説明の代わりとされているようです。
「上策。
 聖女伝説と絡めることで、領民の不安を拭い、神聖味を加味することで、
 下世話な詮索と噂の流出を退け、晴れがましい話として愚民の前に披露してのけた。
 過日、カルタラグン宮廷でお見かけした領主殿は、若殿と呼ばれて、
 これといって特徴なき、実直なだけの地味な方とお見受けしていたが、
 当時からそのような才知を内に秘めておられたとは、とんだ伏兵。
 それとも、フラワン家の名をもってすれば、事態いかに転ぼうと
 家人の名誉だけは守れると高をくくってのこの余裕であろうか。
 この先御目にかかれることあらば、是非とも、領主殿の人品をこの眼で見極めたいものだ」
--------ミケラン様、捕えた女は如何いたしますか。
「拷問にかけよ」
は。
「ただし軽く、傷の残らぬように。短い時間で」
--------吐きませぬときには。
「直々に尋問する。呼べ」

一刻の後、ミケラン・レイズンは地下に降りた。
仮の宿舎代わりに買収した邸宅の庭には、乙女像があった。
階段を降りる前に、彼は夕暮れの庭を見た。
人工池のほとりに立つ乙女の像は、カルタラグン時代に隆盛を極めた、あの時代に特有の
すっきりとした優美な曲線に包まれ、巧みな配置で緑の中に設えられていた。
水面にその立ち姿の影が映っていた。
茜雲が林の上にかかり、庭は、静かだった。
ミケランはその像を値踏みし、ここを引き払う時にはあれを買い上げようと思った。
乙女は胸を片手で隠し、流れ星を待つような顔つきで、もう憂げに遠くを見ている。
リリティスに似ている。
階下に通じる階段の前で構えていた私兵は、ミケランのために地下室の扉を開いた。
階段を降りて暗い内部に入ると、そこは酒樽を積み上げた、広々とした蔵になっていた。
ひんやりとした空気の中に灯が揺れた。
昼食の時にこの蔵から出させた酒は、悪くはなかった。
幾つかは後で上に運ばせ、兵たちに振舞おう。
そしてようやく、椅子に縛られている女へと顔を向けた。
下町のおかみさんが被る頭巾が見えた。
がっくりとうな垂れて、眼を閉じている。
「縄をほどけ。あのように絡めとらずとも、話は出来よう」
地下室を一瞥したミケランは静かに命じた。
「それに、息苦しい。このような密室で火を焚けば空気がにごる。二人ほど残して、後は上で待て」
命令は直ちに果たされた。
ミケランは女に水を与えることも許した。
誘拐されて来た女はすでに疲れ果てており、縛めが解かれても椅子から立つことも出来なかったが、
新たにその場に加わったミケランを見上げるその眼は、恐怖で竦み上がっていた。
その顔が蒼褪めたまま、こわばった。
名乗る前に女がこちらが誰かを認めたことを知ってミケランは眼を細めた。
ますますもって、これは、かつて宮廷に出入りしていた女に違いない。
配下の者が差し出した鞭を断り、ミケランは女の死角に回った。
暗がりから女に話しかけた。そのまま座っていなさい。声は天井に静かに響いた。
「あなたがよく考えるだけの暇は、ここに居る者たちが最初にあなたに与えたと思う。諦めなさい」
「わ、わたくしが」
女はぜいぜいと息をした。拷問人は、女の首を何度か軽く絞めたらしい。
「わたくしが、一体何をしたと仰るのです」
ミケランは云って聞かせた。
そう頑張ることはない。今更、主家への忠節など、とうに失せてあるまい。
「主家……」
「あれから二十年、オーガススィを離れたあなたはすっかり町の女として、
 子供たちを育て、夫君と仲睦まじくジュピタの都で暮らしていた」
その平穏をこの先も続けていくことこそ、あなたの望みではないかな。
女の肩はふるえた。
「………夫と子供には手を出さないで」
あなたがひた隠して来たことを、教えてもらえまいか。
椅子の背後に回ったミケランは女の耳に囁いた。
わたしは知っている。
この二十年の間、あなたが穏やかに暮らしながら想い出しもしなかった、
夢のようなことの、その全てを。昔に何があったかを。

「頼みを聞き入れてくれるならば、この先もそれを忘れたままで暮らしていけるよう、約束しよう。
 ひた隠しにしているものが宝であればあるほど、そこに人の眼が集まるものだ。
 時がかかっても、必ずそうなる。海底に沈んだ宝物も、細工物も、
 魚の口に入って浜に打ちあがることがある。魚を咥えた鳥が山に運ぶことがある。
 わたしはその腹を割り、中に何が隠されているかが知りたい。そろそろ潮時なのだよ。
 あなたが心配しているほどの大事ではない。だが、わたしは真実を知っておく必要がある。
 あなたは今から訊くことに正直に答えるだけでいい。それだけでいい」
「何のお話かわたくしには分かりません」

女は膝を揃えて前を向いたまま、うわずった声を上げた。ミケラン・レイズン様。
名を呼ばれてもミケランは肯定も否定もしなかった。
その代わり身をかがめ、女の足許に金貨の詰まった袋をおいた。中が見えるように口紐を解いた。
女は見向きもしなかった。
ミケラン・レイズン様。確かにわたくしはかつて、オーガススィより、リィスリ様に付き従って都を訪れ、
在りし日のカルタラグン王朝時代を知っています。ですが、それだけでございます。
思いもよらぬこの詮議、何のことやら分かりかねます。
ミケランは女の訴えを意に介さなかった。
もうひと袋、女の前に金貨の入った袋を落とした。
拷問を愉しむほどの加虐性はわたしにはない、彼は女のふるえる膝を見つめながら女に教えた。
「しかしそれだけに、それを眺めるのにうんざりしてきたら、自白が得られようと得られまいと、
 すみやかに安らかにしてやるだけの優しさはあるつもりだ。どちらを選ぶか、よく考えなさい」
「何故そのような怖ろしいことを仰います」
愕いたことに女は気丈を奮い起こして、金子の入った袋を足先で横に蹴倒し、ミケランを睨んだ。
袋の口からあふれ出た硬貨の転がる音が地下室に響いた。
女の頭巾から、乱れた髪がひと房こぼれた。
「脅されても知らぬものは知りません。身に覚えがございません。
 わたくしのような取るに足りぬ女を使ってまでして、
 今度は何の悪巧みでございますか。ミケラン・レイズン様」
孤立無援に至ってのこの強気。感心はしないが、それでもご立派。
ミケランは女を仔細に眺めた。
どんな女であれ、女が何かを思いつめた時の顔は、とことん、男の心を冷やすものだな。
それが憎しみであれ意地であれ、怖ろしい、まったく、夢の中に出てきそうではないか。
女の横顔は腫れていた。
暴れた時にどこかにぶつけでもしたのか、唇の端も切れていた。
ミケランを睨んだまま女は続けた。
「わたくしにはまるで身に覚えのないこと。無辜の民を苦しめることが、
 それが帝国治安維持のお役目なのですか、ミケラン・レイズン様。
 お尋ねのこと、わたくしには何の話かまるで分かりません。
 このように金子を幾ら積まれましても、知らぬことは知りません。
 昔のことなど、忘れてしまいました。わたくしを家に帰して下さいませ」
云うだけ云って、女は口を閉ざした。
ミケランは背後に控える隠密に訊いた。この女の素性は。
「リィスリ・オーガススィの守役の娘?
 それでは、かつてはリィスリ姫と姉妹のように過ごしたというわけだ。
 そして姫がカルタラグン宮廷に招かれた時にも、トレスピアノに嫁した時にも、
 その侍女として付き従った」
「リィスリ様に係わることならば、リィスリ様がトレスピアノに嫁がれてまもなく、
 わたくしはお暇をいただきました。それ以後は一度も御逢いしておりません」
ミケランは言い募る女の肩に手をおいた。
わたしはあなたを咎める為にお呼びだてしたのではない。
人は生まれた家の位や、その階級、担う責務に応じて、負うべき責任も増すというもの。
「裏を返せば、ジュピタの下町でこの二十年、家族と共になごやかに暮らしておられた、
 つましく、善良なおかみさんに、さほどに過酷なものはこのわたしとて求めようもないということだ。
 何が云いたいか分かるかね。一連のことはあなたの責任ではないと、
 わたしはあなたをすっかり放免しているのだよ」
「………」
「生憎だが、時間がない」 
ミケランが合図すると、地下室の扉が開き、階段の途中には十二三歳と見える少年が立っていた。
お母さん、と少年は女を呼び、地下室に駆け下りて来た。扉はすぐに閉まった。
はじかれるように椅子から立ち上がった女は、ミケランに止められて悲鳴を上げた。
「息子を連れて来るなんて!この卑怯者。あの子に手を出したら、ただじゃおかない」
「下町で暮らすうちに、かつて躾けられた礼儀作法も忘れたかね。
 誰の前に出ているのか思いだしたがいい」
「息子を連れて行って、あっちに連れて行って。
 その子には何も関係ありません。息子を放してやって」
「お母さん。どうしたの。この人たちはお母さんに何をしようとしているの」
男たちに捕まった少年はもがきながら、母を呼んだ。
お母さん。お母さん、大丈夫ですか。
「息子を今すぐに家に帰してやって。息子には手を出さないで」
「では、云ったとおりにしてもらおう」、殴りかかる女をミケランは抑えた。
「あの子を外に連れ出して」
「黙りなさい。決めるのはあなたではない」
女はわなわなと震え、やがて観念して崩れ落ち、床に膝をついた。
母を呼ぶ女の息子をふたたび地下室の外に追い返すと、
酒蔵が静まるのを待ってミケランは女の前に膝をつき、女の顔を上げさせた。答えよ。
「あなたはリィスリ姫の侍女であった。そうだな」
床の一点を見つめまま、女は頷いた。
「当時宮廷に上がっていたルビリア・タンジェリン姫が懐妊していたことを知っていたか」
「……いいえ」
「シュディリス・フラワンは翡翠皇子の子か」
「まさか。分かりません。知りません」
「誰が赤子をリィスリ・フラワン・オーガススィの許に連れて来た」
「翡翠皇子のご友人です。リィスリ様のご友人でもあった御方でございます」
「名は」
「存じません。リィスリ様はわたくしにも教えては下さいませんでした」
「赤子は誰の子か」
「知りません」
(ここに至ってもまだ嘘をつく。この者にとってはさほどに後生大事な秘密でもあるまいに。強情なものだ)
だが、見上げた女だと思い、追求はしなかった。
「赤子は何処で生まれた。素性を明かすものを何か持っていたか」
「知りません。御子さまは産着がわりの布に包まれておいででしたが、その他には何も」
「フラワン家統領カシニ殿とその妻は、その赤子を引き取り、実子とした」
「はい」
「流星の年のことだ」
「はい」
「リィスリ姫はオーガススィ家の慣わしを口実に、その子が二歳になるまでは、
 荘園を離れた地で赤子を育てた。そのお蔭で誰一人、赤子が領主夫妻の子ではないことを
 疑わなかった。あなたがそれを手伝った。そうだな」
「はい」
「その場所は。詳しく聞こう」
「トレスピアノ先代領主ユースタビラ・フラワン様の私有地の一つで御座います。
 フラワン家に縁の深い者しか入れぬ場所で、
 そこには聖女オフィリア・フラワン様が幼少期をそこで過ごされたと伝わる遺構がございました。
 ほんの五つほどしか部屋のない、森の中の家。
 そこでリィスリ様と、わたくし、フラワン家に忠誠を持つ乳母、この乳母の方は、
 リリティス様とユスタス様をお育てした方でもありますが既にお亡くなりです、
 それとカシニ様の腹心の方、極限られた者たちだけで、御子さまの世話をしました。
 しかし、リィスリ様とわたくしが赤子を連れてそこを出る時に、
 カシニ様はその家を燃やされてしまい、今では跡形も残ってはおりません」
「結構。そして役目を終えたあなたはフラワン家を離れ、
 オーガススィにも帰らずに、ジュピタの都で暮らし始めた」
「夫はわたくしの幼馴染でした。トレスピアノに嫁がれたリィスリ様が落ち着かれた頃を見はからい、
 お暇乞いをして彼と結ばれることは、以前から決まっておりました。
 領主ご夫妻も、それを快く祝福して下さいました」
「ジュピタの都に住むようにと命じたのは、トレスピアノ領主か」
「はい」
「理由は」
カシニ様はこう仰せでした、泣き濡れた顔で女はミケランを見上げた。
オーガススィで生まれた女は郷里を離れても、依然として氷の意志を持つ北の国の女だった。
カシニ様はこう仰せでした。
トレスピアノに最も頻々と情報が届くのは、やはり都のこと。
伝令が通る道に家を用意し、その家の前を通る時には必ず、
リィスリの友人であるあなたの様子に変わりないかどうか、当家の使者が確かめるようにしておこう。
さすれば不審にも思われはしないだろうから、と。
そしてカシニ様はこうも仰せでした。
女はその語気に誇るものを滲ませて、ミケランに云い放った。
たとえ赤子の素性が知れたとて、フラワン家の加護がある限り、誰にもこの子の命は奪えない。
だからこそわたしはこの赤子をフラワン家の者として迎え入れ、フラワンの姓を名乗らせるのだ、
実子であれ人の子であれ、彼を一人前に育てることの他に、わたしの役割はない、と。
沈黙が流れた。
ややあって、ミケランは立ち上がった。
「ご苦労。家に送らせよう」
「ミケラン・レイズン様」
連れて行かれてゆく前に女はミケランに懇願した。ミケランは鷹揚に頷いてやった。
これで、あなたにも、あなたの家族にももう用はない。
此度のことは忘れて、安心して暮らすがいい。
フラワン家の世継ぎの君が領主夫妻の実子でないからといって、いまの話を伺う限りは、養子も同然。
ミケランは女より先に地下室から出た。女には通りすがりに慰めを云い残しておいた。
世に認められたフラワン家の長子がシュディリス・フラワンである限り、
この事実の前には血統の正当性など二の次、何の問題もない。
古いことを持ち出して世を騒がせるような無粋はわたしも好まぬ、
無害の人物である限りは、このままトレスピアノの継承者として、彼を認めたままでいよう。
(とんでもない)
暗い酒蔵から外に出たせいか、夕闇が濃く見えた。
外で待ち構えていた隠密が寄って来た。
彼は司令官として廻廊を進みながら報告を受けた。
後にしてきた廊下から、泣き声が聴こえた。
解放された女と息子が、互いの名を呼びながら抱き合って、嗚咽している声だった。
領地にいる老母とは疎遠にしているミケランの耳には、今しがた見せられた母子のそれは、
うるわしくも自分とは無縁の、処理済の一言で片付けられるものだった。
それが今夕は、やけに耳についた。
ガーネット・ルビリア・タンジェリン。シュディリス・カルタラグン・ヴィスタビア。
己が引き裂いた。
(ミケラン様。報告申し上げます。ナナセラ、ハイロウリーン斥候部隊と夜間に衝突。
 小規模の小競り合いの後、ナナセラ勝利。
 翌朝、レイズン本家部隊、ナナセラに進軍。ナナセラは黙認)
(レイズン本家部隊、ナナセラ洛外にてリィスリ・フラワン・トレスピアノ領主夫人を保護。
 領主夫人の護衛を名目に掲げ、トレスピアノ領主夫人を擁してすぐさまナナセラより撤退)
「御方はそのようなとこにおられたか。ルイ・グレダンも一緒か」
はい。
「こちらが巫女にかまけている間に、迅速だったな」
ミケラン様、これはミケラン様に対する、本家の叛逆、対抗の兆しと思われます。
「証拠」
本家エチパセ・バヴェ・レイズンの名が挙がっております。
「ナナセラと懇意のエチパセ・パヴェが、三人の若者を火の粉の届かぬ処に遠ざけるついでに、
 領主夫人の存在を本家に報せたと?それはあり得んな。
 あの男、本家と分家の対立には係わることを選ばぬ。
 旧カルタラグン領地に追放されたのも、どちらにも与せぬエチパセの態度が
 本家に疎んじられてのことではないか。
 どのみち、フラワン家の奥方を掌中にしたところで、本家に何が出来よう。
 奥方はオーガススィ出の方、もしも民衆のフラワン家信仰を利用してわたしに対抗するつもりならば、
 その娘リリティス・フラワンこそがその役に相応しい。
 領主夫人のナナセラ入りは別筋から本家に伝わったのだ。ともあれ、続きを聞こう」
レイズン本隊はリィスリ・フラワン様をお迎えした後、トレスピアノではなく、一路ヴィスタへと向かっております。
「都へ」
ミケラン様。ここは急ぎ、都へお戻りを。
「ここまで来て。しかし、そのほうが良さそうだな。コスモスの方は」
(ハイロウリーンとサザンカ、コスモス領内に引き続き駐留。兵站と増援を加え、倍の規模に。
 こちらの撤退勧告には応じぬ構えです)
(ジュシュベンダ、レイズンに対し、フラワン家子息子女、およびユスキュダルの巫女失踪への関与と、
 過日のトレスピアノ領内進入の釈明を要求。オーガススィはひとまず撤退。フェララいまだ動かず)
矢継ぎ早に届く報告を次々と受けながら、ミケランはその脳裡にまだ見ぬ、
一人の若者の姿だけを追っていた。
トレスピアノ御曹司、ジュシュベンダ貴種と共に、ナナセラに依然潜伏中か。
庭の乙女像の前で脚を止めた。
共に育った妹が、その兄の為に、身を投げ出そうという。
池の水が風に波紋を描き、水面に映る乙女の像も焦点の定まらぬ像となり底に消えた。
無害の人物。とんでもない。
知らぬうちに、渦中の中心にその姿を現し、いつの間にかわたしの背後に迫っているではないか。



「続く]




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