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[ビスカリアの星]■四十七.



樹の根の間に力尽きて倒れた兵士は、その手を握る友人に、かすかに微笑んでみせた。
しっかりしろ、呼びかけるその声も、もはや聴こえてはいないようだった。
彼は木々の間に、空を見た。
晴れていた。
瀕死の兵士は眼を閉じた。
そして残れる力を振り絞って、家族へのことづけを手を握る友人に頼んだ。
あのね、みんなで、頑張って、生きてくれと。
倖せに、最後まで、諦めずに、生きてくれと。
ほとんど聴こえなかった。
うわごとのようなそれを云い終えると、彼は小さな息をついた。
「しっかりしろ」
兵士の手から力が失せて、腕が地に落ちた。
彼をここまで運んで来た兵は友人を揺さぶった。
苦しいか。待っていろ、いま、水を持ってきてやる。
彼は水を求めて走った。
河のせせらぎに両手を浸した。水は指の間から零れた。
僅かな水を手に元の場所に戻ってくると、友人は、樹の根元に凭れて、
木漏れ日が涼しいといった様子で、眠るように既に逝っていた。
空には、流れる、豊かな雲があった。
そして遺体の傍には、見たこともない三人の若者が立っていて、
厳粛な顔つきのまま、死んだ男を見おろしていた。

 「亡骸が、まだ温かく、そして二人分の荷が置いたままになっておりましたので」

遺体の傍から膝を起こしたいちばん生真面目そうな若騎士が兵士に言い訳をした。
兵士は兜を放り出した。兜が岩に当たる音がして、水があたりに散った。
 「お前たちは、ナナセラの騎士か」
彼らの返事を待たず、彼は剣を抜いた。
三対一、相手はひと目でそれと分かる高位騎士だというのに、
兵士には死んだ友の名誉を救うことしか頭になかった。
 「そこなる傍輩は、昨夜の野戦で傷つき、武運つたなく絶命したる者。
  だが、その遺体を穢すことまでナナセラ側に許したわけではない。彼から離れろ」
 「誰が死体漁りなどするものか」
斬りかかってきたところを何なくパトロベリは避けた。身をかわすついでに脚を引っ掛けて、
血の気の多い兵士を転がした。
前のめりに突っ込んできたところをシュディリスが引き取り、
その剣を払い落とした上で、グラナンが兵士の腕を抑えた。
 「殺せ」
 「あんた、騎士を見たことがないのか?」
パトロベリは大いに不満を表明した。
 「見たところ、あんたはオーガススィの兵だな。僕たちはナナセラ騎士じゃあないぞ。
  ナナセラ家のお抱えへなちょこ騎士ごときを帝国水準にされてはたまらない。
  ましてや僕たちと混同するなど、騎士の何たるかをあまりにも知らない。無礼千万」
それなりに自尊心が傷ついたとみえて、パトロベリはむすっとしていたが、
親切にも兵の鎧から土を払ってやり、木の傍に座らせると、兵に云った。
そこで休んでろよ。重傷者に肩を貸して歩きどおしだったんだろう、ふらふらじゃないか。
 「僕たちが代わりに穴を掘って、この人をちゃんと埋めてやるよ」
続いて、パトロベリは手近な木から青い若葉を一枚ちぎって、「ほら」、それをシュディリスに渡した。
ここで何かやるんじゃあないのか、例のあの、田舎くさい、トレスピアノ式のお弔いを。
シュディリスはパトロベリが渡した若葉をにべもなく地に捨てた。
 「何故、捨てる」
 「どうせ貴方が邪魔をする」
間に合わせの道具を使って、彼らは遺体を埋める穴を掘り始めた。
遺族に渡す品々を抜き取り、河から運んだ水で遺体の汚れを清め、髪に櫛を入れてやり、
姿を整えてやると、彼らは兵の亡骸を穴に降ろした。
胸の上で腕を組んだ兵士は、かすかに微笑んだまま、そうして永遠の眠りについた。
残された男は、土を戻した友の墓の上で泣き伏していたが、ややあって、ようやく立ち直ると、
友の墓に別れの挨拶をして立ち上がった。
オーガススィの兵は後ろで待つ年若の騎士たちに懇ろに礼を述べた。

「あなた方が騎士の礼節をわきまえた立派な方々であることは、よく分かりました。
 ナナセラの騎士と思い違いをいたしましたこと、ご容赦下さい。
 我らはオーガススィの斥候隊です。
 本隊が夜間にナナセラの国境警備隊と衝突、互いに旗色明らかならぬまま、
 放った火矢が双方に死者を出し、不幸にして戦闘状態となりました。
 ナナセラはオーガススィを一掃、我々は帰還先を失い、ナナセラの地に孤立しました」
「残った本隊は」
「既に、この地を離れたと思われます」

それでは、城砦で見たあの狼煙は、ナナセラとオーガススィの衝突を告げる急報であったか。
滅多なことでは軍を出さぬ北方オーガススィがナナセラにまで進軍していたことに、
三人はまず愕いた。
国境といっても、それぞれが主張する曖昧があるだけのこの時代である。
領土侵犯がらみの小競り合いは絶え間ないのであったが、半ば兵士の鍛錬の場として
大いに奨励されている向きもあるその小戦が、あのような狼煙の連打で急報されたということは、
オーガススィとナナセラは真正面から激突し、夜間のこととて、
地に利のあるナナセラが勝ちを上げたものの、両軍に相当な被害を出したものと思われた。
三人はそっと顔を見合わせた。
極力、不干渉を決め込むオーガススィが軍を出した。
それはかの国ですら無視できぬ何か大きなことが漸進中の証拠である。
彼らは兵に一体何が起こったのかと訊いた。
「失礼ながら、あなた方は、どちらの御家中の方々ですか」
そんな彼らを、兵はあらためて見廻した。
三人の若者はその風体卑しからず、物腰には高貴な人々の中にしか見出せぬ落ち着きと、
どことなく超然としたところがあり、どうやらそのうちの二人に、残りの一人が仕えている様子であった。
特に、銀色の髪をした青年は、見るからに貴人であった。
兵は顔つきをあらためた。
「失礼ながら、見たところ、識別章をつけられてはおられませんが」
「僕らに剣を捧げた主家はない」
すかさず、パトロベリが平気で嘯いた。
「各国を見聞しながら腕を磨いているのさ。修行中なんだ。野宿しながらね」
「それでは、ご存知ないのも無理はない。ご存知であれば、特に騎士であるあなた方は、
 安穏とこうしていられるはずもありませんから」
オーガススィ兵は、憂慮の吐息をついた。
彼は末端の兵士であったが、それでも斥候部隊に所属しているだけあって、
少しはことの事態を知っていた。
それは三人の若騎士の心を愕かせ、揺り動かすのに充分なものを持っていた。
 「大丈夫でしょうか」
森を抜けた処で兵と別れた。
立ち去る兵を見送って、馬上のグラナンが気遣わしげに振り返った。
シュディリスも立ち去りかねた。
異国の土となった友の遺品を持たせ、ついでに水や食料も分けてやり、
こうして送り出したはいいものの、彼がそれを持って無事に遠い北の故郷に帰れる
保証はないのである。戦が起こればあっという間に人心が乱れるのが常である以上、
その途上で愚民に見つかって酷い目に遭わされないとも限らない。

「ほっとけ、シュディリス」

こういう時にだけ意外なほど見切りが早いパトロベリは、いちばん割り切った顔をしていた。
「僕らがしてやれることは、してやったじゃあないか。
 ナナセラとて文明国だ。オーガススィの間で捕虜交換が成立するその日まで、
 捕虜条約を守り、むやみやたらな捕虜虐待などすまいさ」
或いは、本当はパトロベリが誰よりも、行きずりの一兵の今後を気にかけているのかも知れなかった。
それが証拠に、去り行く兵をパトロベリはまったく振り返らなかった。
それに、と彼は付け加えた。
「どうにもいけないことになったら、ルイ・グレダンの名を出せと教えておいたんだ。
 ルイの名を聞けば、ナナセラも彼を悪いようにはしないだろうよ」
(フェララのルイ・グレダン様!)
若者たちの口からその名を聞いた兵士は、ひたすら恐懼した。
(かつてはハイロウリーン騎士団でその勇猛ぶりを知られた、高位騎士ルイ・グレダン様!
 帝国に隠れも無きご高名を轟かすあの義侠の騎士さまと、お知り合いとは。
 あなた方はいったいルイ様と、どのようなご関係で)
(剣術師範代の彼に、飛び入りで教えを請うたことがあるのさ)
大嘘をついてパトロベリは気楽に請合い、兵を安心させたが、それが有効なのも、
フェララのルイがまだあの城砦に居る、と仮定しての話だった。
オーガススィの落武者からそれを聞くまでもなく、
帝国中に火の手が上がり、不穏な風が立っていることは、胸のざわつきがそれと教えた。
シュディリスは手綱を握り、雲の流れを追った。
砦に残してきた母上は、無事にトレスピアノの帰路につかれただろうか。
ルイのことだ、万事整え、母のために屈強の護衛を揃えて送り出してくれたことであろうが、
母が大人しくそれに従わぬのではないかと、そちらの方が気懸かりである。
(気にしすぎか。女の身で無理を重ねることに、あの人も懲りたであろうから)
シュディリスのこの楽観は母リィスリを見くびっていたという他ないものであったが、
よもやレイズンの、しかもミケラン卿の手勢ではなく、レイズン本家の手にリィスリが落ちたとは、
シュディリスがそれを知るはずもない。
そのついでに心を塞ぐ最大の懸念を想い出さぬわけにはいかず、
それは心配という生易しさ突き抜けて、もはや息苦しいほどであったが、
シュディリスは同行のパトロベリとグラナンには、
リリティスがミケラン・レイズンの手に落ちたことを、まだ伝えてはいなかった。
伝えたところで、彼らをリリティスの救出にまで付き合わせるわけにはいかぬのである。
グラナンはともかく、曾祖父直系のパトロベリは日陰の身とはいえ、
正統なるアルバレス家の一員である。
その王子がレイズンに殴りこみをかけるなど前代未聞に相違なく、
あのミケラン卿ならば嬉々として、それに便乗した何かの計略を練ること、明らかであろう。
ならば、トレスピアノの自分はどうかと問えば、それも似たようなものであった。
考えられる最悪と最善の中間をとっても、よくてカルタラグンの末裔のこの身は葬られ、
醜聞のついたリリティスは一生涯日の当たる処には出れぬまま、
トレスピアノに事実上の幽閉ということになるか。
カルタラグンの皇子を匿っていたこと、それはすなわち、帝国への叛逆である。
フラワン家がお取り潰しとなることだけはあるまいが、
父がすぐさま隠居し、ユスタスを新領主に立てたとしても、永代領地は没収、
むこう三代は帝国へ刃向かった汚名が彼らに濃厚についてまわること必定である。
(なればこそ、ミケラン卿は、リリティス嬢を「偽者」として捕縛したのですぞ)
どこまでも暗くなる想像を、ルイの声が遮った。

(妹御を案じられるそのお気持ちはよく分かりまするが、気を確かに持って、よくお考え下され。
 御身らフラワン家の人々は、ジュピタ皇家に次ぐ名誉と地位を持ち、その身に危害を加えること、
 死罪に相当すると帝国の法典で定められているのですぞ。
 この世の、誰が、それと知りながら御身らに危害を加えることができましょう。
 ミケラン卿が捕えた乙女を、「リリティス・フラワンの偽者」と表明している限り、今のところは、
 リリティス・フラワン嬢の名誉は守られておられる。
 それがソラムダリヤ皇太子のリリティス嬢への関心と、今後の発展を見越して、
 補佐役であるミケラン卿が周到にも考慮に入れたものかどうかは与り知らぬものの、
 フラワン家の名誉は彼の配慮のお蔭で、依然として守られておられるのですぞ。
 いまのうちにいっそのこと、そう、わしは、御身も、ユスタス様、リリティス様も、
 早々に安全な不可侵領トレスピアノにお戻りあられ、ご両親の許で元通りに暮らされて、
 すべてを忘れてしまうのがいちばんだと、ミケラン卿はそう望んでいるのではないかと、
 左様に考えているほどなのですぞ)
(黙れ、ルイ)

フラワン家の者に危害を加えたる者、これ死罪に相当す。
いつのものかも知れぬそんな古い法典を持ち出して、それで何になる。
それはユスタスとリリティスの身を守るものであったとしても、
フラワン家の者ではない自分には何の意味もない。
そして、それを知らぬルイ・グレダンには真の理由に思い当たらぬのも当然ながら、
ユスタスとリリティスは、まさにそのことに最大の危惧を抱いて、この兄を追って
トレスピアノを出て来たのに違いないのである。
黙れ、ルイ。貴方には関係のないことだ。
冷然とルイをはね突けたシュディリスを、ルイは若者の為に傷ついた眼をして見ていたが、
斟酌してやる余裕などなかった。 
あの弟妹のことである。
自分たちだけがトレスピアノに戻ることを大人しく承知するはずもない。 
リリティスの命乞いを通してミケラン卿がシュディリス・フラワンの出生の秘密を嗅ぎ当てたことや、
弟のユスタスがハイロウリーン騎士団と行動を共にしていることの、その運命の綾については
シュディリスは全く知らぬものの、ユスタス、それにリリティスのことを想うと、
自分に責任があるだけに、彼の胸の奥は焦燥で焼き切れそうであった。
しかし、シュディリスが向かう先はレイズン領でも、トレスピアノでもなかった。
三騎士は、馬の腹を蹴った。
いましがた聞いた、オーガススィ兵の話が、彼らを急かせるのであった。
本隊とはぐれたオーガススィの兵は、それをわが身におき換えでもするのか、
怖ろしげにその話を彼らに教えた。
レイズンが、タンジェリン殲滅戦の後、落武者狩りをしていたことはご存知でしょうか.
捕えられた残党と、野盗と化していたはぐれ騎士らは、
ことごとく公開処刑となることが決まっております。
レイズンは、騎士らの処分の日取りと、その処刑地を公布しました。
場所は-------コスモスです。

「旧カルタラグン領はレイズンの手が回っている。迂回する」

一行の先頭にシュディリスが出た。道は急坂の坂道に差し掛かっていた。
「ナナセラをこのまま北上、オーガススィ領の手前で反転し、コスモスへ至る道をとる」
「南から来た僕たちが、北へ突き抜けて、また南下するのか、やれやれだ」
「ですが、それしかないでしょう。ここからまともに帝国中央部を抜けるなら、
 都ヴィスタ、レイズン領、旧カルタラグン領、このどれかを通らねばなりませんから」
「それなら最初から、ジュシュベンダ、フェララに至る、西北街道を選んだらよかったんだ。
 旧カルタラグン領を突っ切るなんて無茶な真似は、どこかの巫女と辺境伯に任せとけ」
「それでも、これで巫女がコスモスにご入領あられたことが、いよいよ明らかになったではないですか」
坂の勾配がきつくなった。
グラナンが馬を降り、シュディリスとパトロベリの馬の轡を引いた。
「聖地ユスキュダルの巫女が何百年ぶりかに野に降りて、コスモスの地におられるのです。
 名だたる騎士家はいざや巫女詣でをせんと、今頃浮き足だっていることでしょう」
「選りにもよって、その巫女の眼前で騎士の処刑を行うとは、ミケラン卿も勝負に出たもんだ。
 コスモス城にこもられた巫女をおびき寄せるつもりだな」
パトロベリが大義そうに、憂鬱でその眼を曇らせた。
「大胆だな。威嚇にしろ示威にしろ、この報を聞いた各国は、
 レイズンへの牽制と巫女への合力を知らしめる為に、
 ぞくぞくとコスモスに軍を送ってくるだろう。荒れるぞ、これは」
きつい坂道を越えると、広々と視界が開けた。北方の雪山が彼方に見えた。
「奇妙だ」、シュディリスが呟いた。
「何が」、パトロベリがシュディリスを見た。
「あのクローバが、足弱の巫女を連れて、
 よくぞレイズン管轄下の荒野を無事に抜けられたと、そう思われて」
「お前、そんな、基本的な疑問を今ごろ……」
「確かに、クローバ様お独りならば、どのようにで切り抜けられそうですね。
 しかし、こちらだって、平穏無事に通過させてはもらえぬようですよ」
坂の下には、移動中のナナセラ警備隊が固まっていた。
不審顔をこちらに向けて、誰何をかけてきた。
三騎士はそれを無視した。
馬を進め、剣を抜いた。
一人だけ、出遅れた。
前に出ているシュディリスの袖が何かに引っかかった。
馬鞍の上で後ろにのけぞらされたシュディリスは、それを木の枝と思い、払おうとした。
しかし、それは枝ではなかった。
パトロベリが、シュディリスの袖を後ろから掴んで、離さないのだった。
 「シュディリス。僕は------」
情けなくパトロベリは何かを云おうとして口を開き、しかしそれは言葉にはならなかった。
シュディリスの袖を掴むパトロベリの手には、異様な力がこもっており、小刻みにふるえていた。
乾いた唾を何度ものみ込んだ後で、パトロベリはようよう云った。
「今さらかも知れないが、僕は、闘いには、向いていない」
パトロベリの腕がシュディリスの見ている前で痙攣した。
僕は、騎士の請願を立てていない。
シュディリスの袖を掴んだままパトロベリは云った。
今にも泣き出しそうな、それを怖がっているような、空っぽの顔だった。
今まで平気な顔をしてきたけれど、本当は、僕は怖いんだ。
君たちとは違う。騎士としての節度も努力も、その精神の鍛錬も、僕にはまるで縁のないものだ。
怠け者で、意気地なしの、こんな僕が、これからも戦えるとは思えない。
こうしていることが間違えているような気がする。ずっとそうなんだ。
僕は------、僕は、駄目なんだ。
自信をもって剣を揮う君たちを見ていると、奮い立つより、臆してしまう。
頭の中で、どうしてこんなことをしているのだろう、こんなことをして何になるのだろう、と、
いつも迷いや不安を抱えている、そんな僕と違って、戦いの中、何ひとつ躊躇うことなく
横殴りの雷のように真っ直ぐに突き進んでいくシュディリス、君を見ていると、
手の届かぬものを見せつけられているようで、僕は自分が辛くなる。
おかしいだろう。
ぴくぴくと頬を引き攣らせて、パトロベリはシュディリスの袖にしがみついた。
子供の頃、宮廷に出るたびに、僕は母の袖をこうして、同じように握っていた。
僕の母は弱い人で、老帝の子を生んだ母の上に浴びせられる軽蔑や意地悪に耐え切れず、
それが元で胸を病み若くして死んでしまった人だけれど、僕がこうして母の袖を握ると、
見かけだけでもその頭がしゃんと上がり、前を向いて、
『パトロベリ、さあ、行きましょう。ほんの少しの辛抱です。
 ほら、ご覧なさい。お母さまは、何も怖がってはいませんよ。
 こうして手を握って一緒にいましょうね。お母さまが一緒にいます。
 だから、何にも怖いことなどないのよ』
そう云って、本当は母の方が誰よりも、僕よりも、辛い思いをしていただろうに、
母の袖を掴んでいる僕の手を優しい力で握って、広間に入る前に励ましてくれたよ。
その癖が、抜けないんだ。
誰かの袖を掴んでいないと、誰も、かれも、僕を置き去りにしていくような、そんな気がして怖いんだ。
どうしよう、剣を持つことが怖いんだ。
わななく力で、パトロベリはますます、シュディリスの袖をぎりぎりと掴んだ。
(この男)
(手を握って引いて行けとでも云うつもりか)
シュディリスとグラナンはパトロベリの狂態を、唖然としながら、叱責をこめて無言で見据えた。
パトロベリの醜態はそれでも止まなかった。
その眼球は不安定に動き、口の端には泡まで浮かべて、歯の音が合っていなかった。
意気地なしと云われてもいい、僕は、怖いんだ。
もう剣を持てない。僕は君たちのような、ご立派でお偉い騎士なんかじゃあない。
君たちとは違う、僕は、僕は。

「………」

グラナンは、天を仰いだ。
何にもこんな往来で、こんな時に、情緒不安定の最もたるところを発病しなくても、
酒屋でも宿でも、今まで幾らでもその機会はあったであろうに。
大方、これから待ち受けている艱難に対して想像の方が先走ったが故の一時的な恐慌であろうが、
幼児化した病人にしがみ付かれているシュディリスこそ、いい迷惑だった。
「シュディリス様、パトロベリ様。警備隊が数を増やしています」
努めてグラナンは事務的な態度を保った。
「こちらがぐずぐずしている間に呼子を吹いて、散開していたのが合流したようです。
 脇道からも他部隊がやって来ました、まだ増えます」
坂の下で終結しているナナセラは、坂が狭くてきついということもあって、
こちらが降りて来るのを待ち構える構えのようであった。
ちらりとグラナンはシュディリスを見た。パトロベリ様を何とかして下さいとその眼は云っていた。
「ご決断を。シュディリス様、パトロベリ様」
「パトロベリ」
振り返ったシュディリスがとった行動は、かくも愕くものであった。
馬が嘶いた。
身を乗り出したシュディリスはパトロベリの首から、彼がいつも胸に下げている首飾りを
強引に奪い取ったのだ。
細鎖が切れる音がした。
「何を-------」
シュディリスは追いすがるパトロベリを払いのけ、奪ったものを手の中で握り締めた。
何かが割れる音がした。
パトロベリが声なき声を上げた。
シュディリスは手の平を広げて見せた。
パトロベリが後生大事に首にかけていた、かつての恋人、ジュシュベンダの女の、
少女の頃の姿を描いた焼き絵がシュディリスの手で砕かれていた。
「いつまで、悪夢をみている」
破片で傷ついたシュディリスの手の平には、小さな血の珠が浮かんだ。それはみるみる溢れた。
焼き絵は三つに割れていた。
砕けたそれを、シュディリスはその血で汚れる前に、駆け寄ったグラナンに突き出した。
グラナンは慌ててそれを引き取り、丁寧に手巾で包んだ。そして茫然と二人を見比べた。
パトロベリは悲鳴も上げられずに、凍り付いていた。
「シュディリス様、手が」
グラナンには構わず、シュディリスは拳をパトロベリに突きつけた。
パトロベリは血に染まるシュディリスの手を凝視していた。
「いつまで悪夢をみている。パトロベリ」
聞いたこともないような、憤りの、冷たい声だった。
「貴方が傷つけたあの人は、アニェスは、
 貴方の刻んだ刀疵を持ちながら、終生癒えぬ傷を持ちながら、
 一度たりとも、今のお前のような、無様な真似を見せたりなどしなかった」
鞍の上に血が落ちた。
坂の上で揉めている三人の騎士を遠巻きに眺めて、徐々にナナセラが騒ぎはじめていた。
「そこの騎士。何処へ向かわれる!」
シュディリスは聴こえぬふりをした。
「貴方のお母上が、心ない人々の間でその顔を上げられたのは、
 逃げ回り、陰に隠れることばかりを考えている、貴様の為などではない。
 アニェスが耐えていたのは、言葉も交わさずにその前から姿を消した、
 かようなお前の為などではありはしない。あの人たちは誰にも、何にも、
 すがれる先の袖などなく、味方もおらず、頼れるものなどない苦難の中でも、
 それでも口先ばかりのお前よりも、何倍も立派に、そして毅然として生きておられた。
 それはお前の為ではない、断固として、今のような惰弱きわまりないお前の為などではない」
後ろでグラナンは蒼褪めた。
パトロベリのような思考回路を持つ人間には、そのようなお題目を並べたとて、
奮起するよりは、余計に惰弱ぶりを見せつけ、ここぞとばかりに後ろ向きに拗ねるばかりであろう。
(逆効果です)
首を振って合図を送ったが、二人とも、グラナンのその諌めなど視界に入っていなかった。
諦めたグラナン・バラスは、馬首を返し、坂を下る道をとると、
押し包むナナセラ警備隊に向かってわざとゆっくりと向かって行った。
自分一人の方が、彼らを丸め込めるかも知れない。
このまま二人が乱闘でも始めてくれたら、かえって好都合、何とでも話を作って、
警備隊を説得することが叶うかも知れない。
一方、シュディリスは、坂を下っていくグラナンを止めもせず、追いかけもしなかった。
手の平に唇を当てて溢れる血を吸い、刺さった細かな破片を吐き出した。
怪我をした手に止血の布を巻きつける、その間も、彼はパトロベリを睨みつけていた。

 
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シュディリスには、憤る理由がじゅうぶんにあった。
彼こそ、どんなにこの状況に矛盾を抱いて耐えていたことだろう。
それが許されるならば、彼は今すぐにでも、リリティスの許に駆けつけてやりたかった。
たとえ叶わなくとも、見棄ててはいないことを、気にかけていることを、
せめてリリティスに伝えてやりたかった。
その逸る心を殺しに殺して、身を裂かれるような想いでここに居るというのに、
婦女子よりも情けない男が、さらにそれに足手まといをかけてくるのである、
いい加減、堪忍袋の緒も切れようというものだった。
「シュディリス------」
ぎこちなく、パトロベリは片手で不自由しているシュディリスの止血布を
代わりに結んでやった。シュディリスは拒まなかった。瞬く間に血は布を染めた。
「すまない。時々、こうなるんだ」
パトロベリは悄然と項垂れ、眸を虚ろにさせたまま、身をふるわせた。
止められないんだ。僕が剣を揮うと、良くないことが起こるような気がするんだ。
彼は血に染まるシュディリスの手を、怖いもののように見つめた。
全てが僕のせいで駄目になる気がするんだ。
母が死んだ時も、大人たちは僕を指差してこう云った。
『あの子さえいなければ、あの女もいびり殺されることなく、長生きできたでしょうに。』
アニェスだってそうだ。僕さえいなければ、アニェスはあのようなことにはならなかった。
夢に見るんだ、僕のこの手が、この剣が、あの子の顔を斬るところを。
雪の上に倒れたアニェスを、その顔を、何度もこの剣で斬り刻む夢を、
もう何も見たくないと願いながら、何も見えなくなるまで、粉々になるまで、
あの子と、僕自身を、斬り続ける夢を。
偉大な竜神の騎士の血。
祖父からもらったそんなものは、僕には重荷でしかない、僕は、僕に係わる人々は、
その血ゆえに僕を疎み、その血ゆえに、僕の犠牲になってきた。
もし僕が騎士でなければ、もし僕がジュシュベンダ家などに生まれなければ、
ジュシュベンダの問題児は、呼吸が苦しい、といった風に両手を喉に当てた。
そうだ、もし僕が生まれなければ、この世にいなければ、すっかり消えてしまえば。
その両手の指は首にくい込み、彼はしだいに自分の首を絞めていた。
もう嫌なんだ。どうしようもなく、辛いんだ。
パトロベリは鞍の上で身悶え、その発作はふたたびぶり返そうとしていた。
いつ果てるとも知れぬ繰言のそのあたりで、シュディリスは、「パトロベリ」、と遮った。
(大仰で、大袈裟で、甘ったれる術を知っていて、見ているだけでうんざりする)
だがシュディリスは自制し、今度はパトロベリにやさしく呼びかけた。心配はいらない。
パトロベリがこちらを向くまで、何度か呼んだ。
心配はいらない、パトロベリ。
シュディリスは馬から降り、地に落ちていたパトロベリの剣を拾い上げた。
そしてそれを下から差し出し、パトロベリに受け取らせた。
手に手を添えた。
彼は、しっかりと、パトロベリに云った。心配いらない。わたしや、グラナンが、力添えをする。
「貴方は騎士であることを怖れているのではない。
 貴方が剣を揮うことに重みを覚えるのは、その先に、貴方が傷つけたアニェスの姿を見るからだ。
 いつまで悪夢を見ている。
 いつまで悪夢の中に、アニェスを、そして貴方のお母上を、暗い姿で閉じ込めている。
 貴方が変わらない限り、その方々はいつまでも、お前の縋るその罪の夢の中で、
 哀れな姿で貶められているばかりだ。それが貴方の傲慢でなくて、何だろう」
「違う」
「パトロベリ」
シュディリスはどこまでも、声を荒げることなく、
自分の身を地に落としてまでして、馬上のパトロベリを見上げ、語りかけた。
手綱を握り締めたままパトロベリは鼻をすすり上げて、泣いていた。
(こんな男に、何故、負けた)
後先あれども同じ女の愛を競ったことのある恋敵の男である。
手こずらされているシュディリスの苦々しさ、情けなさは当然であった。
しかし、彼はここは保護者役に徹することにした。
一抹の優越感をせめてもの代償に変えて、兄が弟にそうするように、
持てる限りの温情をもって、シュディリスはパトロベリに歩み寄った。
パトロベリ、想い出の中の人々を自分のせいで不幸にしたと決め込むことこそ、
何ひとつ貴方を責めなかった、あの人たちへの、裏切りだ。
「自分のせいで人を不幸にした、人を不幸にしてしまった自分はこれほどに不幸だ、
 裏を返せばそれは、『あの人たちのせいで自分はこうなった』、繰り返し自分ではなく、
 他人を責め続けているも同然なのだから。
 焼き絵を壊してすまなかった、パトロベリ。だが、アニェスの想い出に、そのようなかたちで
 縋る限り、アニェスはお前の手によっていつまでも、ご不幸だ。
 パトロベリ、アニェスは一度たりとも、
 『自分のせいでパトロベリ・テラを不幸にしてしまった』、とは云わなかった。
 傷ついたのはあの方の外見だけで、その心は何ら損なわれることなく、傷ついてはいなかった。
 お前を責めなかった。
 騒ぎ立てて同情を集めるような卑しい真似など、なさらなかった。
 お前の幸福を願い、お前と、自分自身の尊厳の為に、沈黙を守られていた」
「………」
「独りきりで、ご自分の痛みに耐えておられた。いつまでも心配し、懐かしんでおられた」
シュディリスはパトロベリの手に剣を握らせ、手を放した。
そして、横を向いた。
そのアニェスを、あの方を、お前は、お前のだらしのない夢の中で、飽くことなく切り刻んでいただと。
調子にのるな。
パトロベリの許から離れたシュディリスは、寄って来た馬の首を撫でながら坂道の下を見た。
ナナセラ警備隊に十重二十重に囲まれているグラナンは、
物の数ではない男たちを相手に、彼らに向かって口から出鱈目の役職や旅の目的を説明していたが、
オーガススィとの野戦の直後ということもあり、大勢を回してのグラナンのその落ち着きぶりが
かえって怪しまれ、説得は捗々しくないようであった。
馬に乗ると、シュディリスは辺りを視まわした。

(ルイは、まだ、追ってきていない)

夜中の間に三人が城砦から行方をくらましたと知れば、
早々にもルイは必死でこちらを探すはずである。
それを見越して放浪の画家の弟子ミカが教えてくれた抜け道を辿っていたのであるが、
ここがナナセラであることを考慮に入れても、グラナンを囲んだ警備隊のあの様子では、
彼らがルイの命を受けて追って来たわけでは、やはりなさそうであった。
追跡に手が回らぬほどの、よほどの大事でも起こったか。それともフェララに帰ったか。
城砦に戻って確かめるわけにもいかぬことだった。
下方からグラナンがこちらを見た。シュディリスとグラナンの眼が合った。二人は頷いた。
「これ以上の問答は無用、先を急ぐので通してもらいます」、グラナンが剣に手をかけた。
「パトロベリ。ここは、わたしとグラナンの二人で十分」
騎乗する際には留めてある剣と鞘を繋ぐ掛け金を外して、馬の腹を蹴った。
「追いかけてくるならそれもよし、立ち去るなら止めない。勝手にしろ」
一気に坂を駆け下った。
地面がせり上がり、木々が頭上を掠めた。グラナンのかざした剣の光を超えて、
シュディリスの馬は穴底で始まった乱闘の中に飛び込んだ。
パトロベリのことも、ミケラン卿のことも、リリティス、ユスタスのことも頭から消し飛んだ。
「行かせてはならぬ。彼らを捕えよ!」
二騎士を目掛けて兵が押し寄せた。
剣と剣の連打が青空に高く響き、斬りつけられて次々と倒れていくのはナナセラの兵だった。
ふとした空白があった。いつものようには動けなかった。
怪我をした手から、剣がすべった。
手綱を引いて均衡を戻し、剣柄を握りなおした。その隙に、前方を何重にも塞がれた。
「馬を狙え。彼だけでも捕えるのだ、馬から引きずり落とせ」
飛来した矢がシュディリスの馬にあたった。
どっと兵が押し寄せた。
それを見て、先に抜けていたグラナンは駈け戻った。
グラナンが見たのは、人垣の中でゆっくりと鞍に身をかがめ、
馬の背に身を伏せていくシュディリスの姿であった。
「シュディリス様!」
だが、シュディリスはグラナンが恐怖した、そのような理由で、動きを止めているのではなかった。
押し包んでくるナナセラの兵の中で、シュディリスは馬の首を撫でた。
じりじりと近づいてくる兵たちを、シュディリスは一瞥した。
騎士道も知らぬ卑怯者。騎士から馬を奪おうとするか。
馬は怯えてはいなかった。
それは星の騎士に従う馬だった。
(一緒に行こう)
シュディリスは馬を進めた。
それを何とたとえてよいか、誰にも分からなかった。
霞のような血が上がり、騎士の銀色の髪がその中にひるがえった。
まるで誰にも邪魔をされていないかのように、真っ直ぐに彼は突き進んだ。
援護に間に合ったグラナンが大きく一巡りした後にシュディリスに追いついて並んだ。
彼らはそのまま駈けた。
人々は目を瞠った。
馬は再度加速をした。兵の頭を飛び越え、彼らは初速を保ったまま、飛ぶように全てを抜き去った。
ようやく一隊が乱れた陣を立て直した時には、既に二つの騎馬影は、
彼らが追いつくことなど到底望めぬはるか先を駈けていた。
木立の間に消えてゆくその二騎を、他にも見届けていた者がいる。
坂の上で、パトロベリは馬首を返した。
蒼褪めて、ふらふらと、彼は何処へともなく反対の方角へ馬を歩かせた。
誰からも忘れられ、彼を追う者も、呼ぶ者もいなかった。
頬には涙の痕があった。
いつもの癖で、彼は胸元をさぐった。
求めても、そこに過去の肖像はなかった。



「続く]




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