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[ビスカリアの星]■四十八.


有蓋廻廊に飾られた、古代彫刻の前に立っていた。
それを彫った工人の払った労力や神経が、かたちとなって昇華した、見事な像だった。
人を象り、その背には、鳥の翼が生えている。
細かな羽根の重なりの隅々にまで、力と優美に満ちて、硬質に美しい。
湖の面に、細かな波が立っていた。
珍しく、雨が降ったのだ。
薄曇りの空から降る細かな雨は、束の間の静寂と、涼しさをもたらした。
リリティスは像を見ていた。
先日、振り回していた燭台が当って破損した箇所は、近づいてよく見てもそれと分からぬまでに
修復されて、像は羽ばたかんとする憧れと真剣をその翼と顔に永遠に固定させたまま、
別荘の主の帰りを待っている。
(雨の中でも、この翼の人は、空を飛ぶのだろうか)
リリティスは工芸品のことは詳しくなかったが、誰に教えられたわけでもない天性の審美眼でもって、
ものの良し悪しの別は、直感でついた。
各国からフラワン家に献上される、あらゆる手の込んだ一級品の品々を見るうちに、
幼い頃から自然と何かが身につき、分かることもあったのだ。
兄のシュディリスは、幾何学的なものを好んだ。弟のユスタスは、洗練の中にも遊び心のあるものを。
彼らがまだ幼少の頃は、三人に、同じものが届けられた。
すこし長じてくると、一つひとつに意趣を凝らした違う品が。
彼らがもう少し大きくなると、その慣例は無くなった。
女の子であったリリティスには、少女だけが身に着けるあらゆる繊細な品々が、
リリティス宛に選り分けられて届くようになったから。
異国のレースや陶器の人形や宝石に埋もれている間に、兄と弟は、
一足先に彼らだけの秘密の世界を築き、そうしてリリティスから離れて行ってしまった。
女の子一人で森に行ってはいけないと云われ、
人前で泣いたり笑ったりするものではないと教えられた。
性情のままに騎士であることを認められる代わりに、フラワン家の娘として生きること。
騎士に許されるあらゆる特赦と引き換えに、耐え忍び、諦めることを学ぶこと。
都に住まうのと変わりなく届けられるあらゆる贅を凝らした品々は、
フラワン家の中に静かにその場所を見出して、日々を構成する調和の一つとなり、
いつの間にか、心に親しく馴染む、見慣れたものとなっていった。リリティスの焦燥と孤独だけを置き去りに。
 「ゾウゲネス皇帝陛下が、フラワン家に届けさせたものの中には、
わたしが手づから選んだものもある」
ミケランは悪びれの無い顔をして打ち明けた。
むろん、フラワン家の方々の心証を考慮してわたしの名は出さなかったし、
それがどの品であったかを教えるつもりも毛頭ないがね。
ここにおられるフラワン家の姫君にも、その生誕の際に、
あれやこれや祝いの品を皇帝の命で選んだことがあった。
幼女がつける、小さな首飾りとか、銀の匙とか、君がもう忘れているであろう、まあそのようなものだ。
「妻のアリアケがそれを手伝った」
ミケランの語る奥方の想い出は、リリティスにとっても、懐かしき方の話を聞くような心地がした。
ミケランがあまり感情を見せぬがゆえに、それは滅多に無い彼の内心の素直な吐露であると同時に、
故人への尽きせぬ哀しみへの彼なりの整理と、決別なのだろうと思われて、
リリティスは淡々と語るミケランを見つめるばかりであった。
国境砦に収監されていたリリティスに、思い遣り深い言葉と情けをかけてくれたあのご夫人は、
その時の旅の無理がたたって重篤の身となり、そのまま帰らぬ人となってしまったが、
婦徳の鑑のようなアリアケ・レイズンのその面影には、ひたすら夫君の影にいる病人としての
目立たぬ存在であった生前の世評よりも何倍も大きな愛惜を人々の胸に呼び起こし、
ましてや夫のミケランたるや、年上妻のアリアケを愛していた分、それも深かった。
アリアケこそは、ミケランにとっての母であり姉であり、彼を見守ってきた、たった一人の女人であったから。
「死んでしまった今となってはどうしてやることも出来ないが、アリアケには悪いことをした」
淡々とミケランは、リリティスを相手にそれを聞かせた。
自身の病弱を顧みればそれは叶わぬことだと、とうに諦めていたのだろうが、
あれはおそらく、子供が欲しかったのだろう。
それを口にすることはなかったが、わたしの愛人たちに対する妻の寛容や、世話のよさには、
どことなく求めても得られぬもののその身代わりとして、よく気をつけてやっているようなところがあった。
皇家の御子がたや、他家の子供たちに贈り物を選ぶあれは、いつも熱心で、
何でもよかろうとわたしが云うのに珍しく首をふり、納得のいくまで、楽しそうに顔を輝かせて、
結構なものを選んでいたものだった。
女人には、世話をするものがいるのだな。
小鳥であれ、花であれ、男であれ、子供であれ、彼女たちの手を焼かせ、彼女たちに、
自分たちが必要だという充足感を持たせてくれる、生きた何かが。
今更ながら、わたしは妻に詫びる。
あの容態では到底叶えてやることも出来なかったであろうが、日々の張り合いに、
手のかからぬ捨て子でも寄越してあれに育てさせる真似事でもさせればよかったのだ、
それならば、もう少しだけ、あれは生きていてくれたかも知れぬ、その天命が変わらぬまでも、
淋しい想いをさせることはなかったではないかと。

 (エステラさんも、そうではないのですか)

口に出かかった言葉を、さすがに露骨な皮肉として、リリティスは思いとどまった。
奥様だけでなく、貴方の愛人だって、留守がちな貴方に囲われているだけでなく、
何か想いを傾けるものがその毎日には必要だったのではないですか。
エステラさんは私を実の妹のように世話して下さる。
アリアケ様と同じだと、想われませんか。
リリティスは雨の音を聴きながら、像を見つめた。
雨音に混じって、誰かがこちらにやって来る足音が廻廊に響いた。
ああ、貴方にはお分かりではない。
影の皇帝と云われ、権力と財を極めた貴方にも、お分かりではない。
長く連れ添われたアリアケ様に対しても、それだけのご理解しかお持ちではなかったのですから。
(可哀想な方)
 「折れたところが、見事に継ぎ合わされている」
真後ろから、正確には、リリティスの真上から、ミケラン卿は翼のある像に手を伸ばした。
ちょうど、後ろから抱かれるような格好になった。
リリティスは身じろぎ一つしなかった。
中庭に降る雨が庭木を打つ音がしていた。透明な雫が軒端から静かに落ちた。
彼が別荘に来ることは知っていたから愕きはしなかったが、それでは、
像の修繕が終わったと聞いて、仕上がりを確めに、真っ直ぐにここに来たのだろうか。
都からは馬車ではなく馬で来たのか、ミケランは雨に濡れたままだった。
「いい仕事だ」
ミケランは感心を隠さず、修繕にあたった工人の腕前を褒めた。
 「たまさか、何よりも大切にしなければならない原型の味わいを、
  つまらぬ自尊心と干渉から自己流に乱して得意がる修繕師もいるが、
  はるばるナナセラから呼び寄せただけあって、修復にあたった者の腕は確かだった。
  ご覧、一抹の自己主張もなく、徹頭徹尾この作品にこめられたその心に沿っている、この抑制を。
  その自己犠牲こそが、かえって彼の美に対する慧眼と、この像の作者に対する敬意の顕れを伝えている。
  それは彼の矜持だ。その精神なくしてよい仕事は果たせぬよ。素晴らしい」
ほっておけば、いつまでも像に魅入っていそうなミケランに、「お帰りなさいませ」、
リリティスは像を見つめたまま云った。「うん」、そう穏やかに応じる声は後ろから響いた。
トレスピアノの両親がやっているのと同じ、それは自然なやり取りだった。
「濡れたままでは、お風邪を召します」
「後で着替える。エステラは」
「生憎と、一度都にお戻りに」
「入れ違いか。買い物かな」
「私も、頼んだものがあります」
「御用商人ならいつでもここまで呼ばせるものを。しかし貴女たちはたくさんの品々の中から
 あれでもないこれでもないと、無駄な時間をかけて選ぶのが好きだから。好きにするといい」
「ミケラン様」
云われたとおり、私はちゃんと、逃げたりせずにこの湖の別邸に居たわ。
像に向かって項垂れるようになった。
私を、貴方の影に入れないで。私を、私のままにしておいて。
貴方を待っていたわけじゃない。
雨の匂いがした。
「お疲れではないのですか」
振り向くと、すぐ間近に男の顔があった。男は像ではなく、リリティスを見ていた。
「君が気遣ってくれるとは。嬉しいね」
「どうして、急にお戻りに」
「出て行った理由も知らぬくせに、それを訊くのか」
「アリアケ様のお墓には立ち寄られましたか」
「君には関係ないことだが、答えは、否だ」
「どうして」
さあ、ミケランは笑った。あやすような笑みだった。
ここにきて、男にはまるで不可解であり、女にはよくあるところの、理由のない昂ぶりにリリティスはとらわれた。
「どうしてお戻りに」
重ねて訊いたところで、それは理由を求めての設問ではなかった。
リリティスは答えを必要としていなかった。
リリティスの眼はミケランから逸らされ、両手を握り締め、
そしてそれしか知らぬ者のように繰り返すのだった。どうして。
「どうして、どうしてですか」
ミケランは鷹揚に、しばらくそんなリリティスを見ていた。
彼はそんなに忍耐強くもなければ暇な身でもなかったが、
女の感情にいちいち苛立つほどもう若くもなく、振り回されること楽しむ余裕すらあった。
絶対に男の言いなりにはならない、そんな無駄な気負いを見せているリリティスをあしらうことなど、
彼からすれば前哨戦にも足りないほどだった。
「こちらを向きなさい、リリティス」
「嫌です」
「何が嫌なのか、それでは分からないが」
「だからお訊きしているのです。どうしてと」
「君は、存外によく泣くね。泣き虫だ」
その言葉に誘導されるようにして、リリティスの眸から涙が溢れた。
すきとおるような白い肌を紅潮させ、きらきらと涙をこぼし、息を弾ませたリリティスは、
雪どけの花のように美しく、危うく、痛ましいほどに処女であり、若かった。
「涙を拭いてあげよう」
ミケランは娘の背に手を添えて引き寄せ、指先でその涙を受け取った。
彫像の薄い影がリリティスの影に重なり、壁際に捕われたリリティスの細影に、翼が生えた。
少女の涙を、ミケランは丁寧に拭った。
「そんな顔をして。誰かに見られたらどうするのだ。しっかりしなさい。君は星の騎士なのだろう」
しゃくり上げたリリティスの背をミケランの手が包んだ。
先天的に超常的な能力を授かりながら、君のその情動の不安定さが、
せっかくの君の才能を並以下のものにしている。
君を見ていると思う。女騎士の持つ苦悩と矛盾のすべてが、極端なかたちで顕れていると。
「見ていられんね。まだ子供扱いをしてやるべきなのかな、君が望もうと望むまいと」
アリアケのことを気にしているのか。
ミケランは懐かしく云った。
あれは、弟のタイランと通じていた。もっとも、実質的に何かあったわけではなく、
わたしへのあてつけや、淋しさから、タイランに心を移していたのだがね。
リリティスは首をうち振った。
聞きたくなかった。
知ってしまえばよりいっそう、この男への憐憫が沸いてくる。
泣いてせいで、頬も身体も熱かった。それを男には知られたくはなかった。
「わたしはアリアケを怒りはしなかった。そうか、と想った。不憫だと」
ミケランはリリティスの耳に囁いて教えた。
「それとも、本物の愛を知らぬまだお若い貴女には、愛は永遠のものかな。
 好きになった男をいつまでも変わりなく想い続けることが出来ると、潔癖に、
 頑なに、そうやって信じているほどに」

(お母さまは、翡翠皇子のことをまだ想っていらっしゃるの)
(昔のことですよ、リリティス。貴女にもいつか分かります)

フラワン家において、両親の仲はたいそう良かった。人前で睦まじくすることこそなかったものの、
それは彼らの品性や慎みというものであって、家族だけの場では、些細な仕草や、
見交わす眼差しの端々に、父母が互いを想う愛情の深さが、聴こえない音楽のように、そこにあった。
父が、「リィスリ」と母を呼ぶ声が好きだった。
母がそれに応える声が好きだった。
二人とも控えめな人々であったが、それはかえって、うつろわぬ精神的な結びつきの尊さを想わせて、
子供たちはそんな両親を目映く想い、憧れた。
ミケランと故アリアケの間にあったものも、おそらくはそのような絆であったであろう。
だから、アリアケの死を悼む彼も、生前のその行状を赦していた彼も、どちらもリリティスには辛かった。
愛は永遠だろうか。
永遠なんてない、と弟のユスタスなら即答するであろう。
私にはどちらも出来ない。ユスタスのように割り切って、その瞬間を最も大切にして生きることも、
シリス兄さんのように、永遠というものから少し身を引いて、そのくせ熱情に身を任せることも。
リリティスはミケランを見上げた。
このところの強行軍で、男はさすがに少し疲れているようであった。
リリティスの頬を、ミケランは両手で包んだ。
男の手は雨に濡れて、冷たかった。
ああ、貴方にはお分かりではない。
母が倖せであったのは、翡翠皇子のことを忘れたからではない。
父が、それを忘れさせたからではない。
女にとって最も大切なものを、変わることのない一定の愛を、安心を、父が母にそそいでいたからだ。
(貴方には、お分かりではない)
リリティスの顔を覗きこむようにして、湿りを帯びた男の黒髪が、ゆっくりと被さった。
「お疲れではないのですか」、リリティスは抗いの小さな息をついた。
「先ほども同じことを」
「見苦しいところをお見せしました。恥ずかしく思います」
「なんの。可愛らしいばかりだよ」
リリティスの顔を掠めた、ほんの僅かな揺らぎを、ミケランは見逃さなかった。
それは、ソラムダリヤのやわらかな愛撫とも、刻印のような、兄の押し潜めたものとも違った。
火のように包み、地熱のように徐々に熱を加えてくる、強いくちづけだった。
閉ざされた唇をほどくその間、男は逃げようと思えば逃げられるほどの力しか抱く腕にはこめてはいなかった。
何故、帰って来たのか教えよう、リリティス。
足許の覚束無い娘の身体を、ミケランは壁に押し付けた。
泣きそうな顔のまま、リリティスは身体を強張らせ、それ以上を拒むように顔を覆った。
顔を覆うその手首を掴み、ミケランは上気した娘の頬への愛撫とともに、囁いた。
「皇太子殿下が、貴女を思し召しだ、リリティス」
「皇太子------ソラムダリヤ様が」
「光栄かな?」
リリティスには分からない。
それを知った上で、自分の身にこのような戸惑いを加えてくる男のことも。
足首まで雷に打たれたように、ふるえが止まなかった。
自分から唇を開き、男の舌を迎え入れてしまった。鉄のように堅いその胸を押し返す前に、
抵抗を止めてしまった。自ら罠に嵌った。ずっとずっと待ち焦がれていたもののように。
「ところが、こちらにはこちらの思惑があり、いつかは貴女を殿下の許へお連れするにしろ、
 その前に役に立ってもらわねばならない」
熱っぽく、ぼんやりとした頭に、その言葉は冷酷と憐れみの混合として聴こえた。
さまよう手が、壁際の像に触れた。その翼に。
氷のように冷たく、堅く、覆いかぶさる男の今の接吻のように不可解なものを秘めて、
像はリリティスを見下ろしていた。
ミケランはリリティスを壁に囲ったまま、もう何もしようとはしなかった。
私を貴方の影に入れないで。それも叶わぬと云うのなら、どうせなら、すっかり、私を。
(何も考えられなくなるまでに)
また、涙が一筋零れ落ちた。リリティスは瞼を閉じて喘いだ。
男の腕が抱きとめた。
触れなば落ちん一輪の花を胸に、しかしミケランは別のことを考えていた。
(ここにまで本家の手が及んでいたらと思ったが、杞憂だったようだ)
(ミケラン・レイズン卿)
都に戻ったミケランを待ち構えていたのは、あらたまった顔をした、ソラムダリヤ皇太子であった。
どうやら本家の人間からさまざまなことを吹き込まれたらしく、
その素直な性質のままに、ソラムダリヤの顔はきつくなっていたが、
それでも、力を抜いて振舞えるほどには、彼も大人になっていた。
ミケラン卿、と彼はミケランの遠征を労った後に、切り出した。
(そちに云っておく。
 わたしはトレスピアノ領主令嬢リリティス・フラワンを、わたしの妃にと考えています。
 そなたが不在の間に、父帝ゾウゲネス皇帝陛下にもその旨、内々に伝えました。
 皇帝陛下はリリティス嬢、いや、リリティス姫ならば、申し分ないと仰せであった。
 ミケラン卿、いかなる讒言を聞かされようとも、わたしはそなたの忠誠心を疑わないが、
 それでもこのヴィスタチヤは、そもそもフラワン家なくしてこの世に在りえなかったことを、
 どうか、忘れてくれぬように。
 フラワン家の方々に邪なる危害及ぶ時には、このわたし、ソラムダリヤ・ステル・ジュピタが、
 皇太子に認められたる権限を行使し、彼らをわたしの名の許に保護します。
 わたしは、わたしを子供の頃から教育してくれた貴方を信じるがゆえに、あえて何も尋ねはしない。
 その上で、ミケラン卿。わたしはそちにはかる。そちはこの婚儀に賛成か、反対か)
即座にミケランは恭しく、片腕を胸につけて、頭を垂れた。
(素晴らしきこと。またとない慶事)
(ミケラン)
(ヴィスタ皇家とフラワン家。この結びつきは古えを彷彿とさせる世紀の婚礼となりましょう。
 このミケラン・レイズン、心よりご婚約を願い、皇太子殿下とリリティス姫のご婚儀の成立を
 諸侯及びヴィスタビヤの民の総意に代わり、ここに殿下にお願い申し上げます。
 そして、御式には重臣ともども、参列の栄を賜りたく)
ソラムダリヤはミケランのそのような白々しい芝居には騙されず、しかし、
いつものようにミケランのその言質は、まったくの嘘ではない、実があることも知っていた。
皇太子は子供の頃彼を教育した男に、ほとんど懇願する調子で念をおした。
(わたしはあなたに育てられたようなもの。今さらですが、感謝します)
(殿下は素直なご気性でいらせられました。お叱りせずともよく学ばれ、
 何の苦労もいたしませんでした)
(ミケラン卿、わたしは貴方が決して帝国の為にはならぬことをしない人であることを信じる。
 だからこそ、他の者よりも第一に、わたしの意向を貴方に伝えたのだ。他でもない、貴方に)
(もったいなきお言葉)
(ミケラン。未来の皇妃に、万全の配慮を頼みます)
(御意)
皇太子にしては、あれはなかなかの口説であった。
リリティスの髪を撫で付けてやる皇太子の元教育係は、それを思い出して満足げだった。
フェララにおいては彼の眼前でリリティスを捕縛したのだ、少し前の皇太子ならば
青年らしく血気に逸って今すぐにその理由を問い質し、
リリティスを解放しろとミケランに詰め寄ったであろう。
それをせず、意を伝え、釘をさす。
(少しは大人になられたか。ソラムダリヤ殿下も、フラワン家に生まれた姫君も)
出立の支度をするように。
嗚咽が止んだリリティスに、ミケランは命じた。
フラワン家はつくづく、独自の流儀で子息子女を育てるのだな。
気取ることこそ洗練と思い違いしている都人には、君のその純粋は、さぞや野暮たく映るだろう。
「わたしには、実に好ましいがね」
雨は上がっていた。
リリティスは弱々しく、腕を取るミケランを見上げた。
貴女を迎えに来たのだ、とミケランは云った。
わたしと一緒においで。
遠からず、君の兄上に、逢わせてあげよう。


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些細な喧嘩を何よりの鍛錬の場として騎士たちが好むことなど、
安穏としたトレスピアノに居る限り、知らなかったことだ。
大事にならぬ限り、諸侯たちはむしろ略奪や侵略を奨励し、戦を通じて他国を知り、
騎士たちの武功を認め、認めることで彼らの忠節を高め、護りの基盤を固めていくようなところがあった。
外交戦略がいかに発達しようとも、まだまだ野蛮の残るこの時代、
国を離れて久しい騎士たちが、挑発されて大人しくしているはずもない。
コスモスに駐屯しているハイロウリーンにもたらされたその一報を聴いた時、
ユスタスがルビリアの顔に見たものは、紛う事なき、悦びであった。
そしてその歓喜は、そこに居る全員に瞬く間に伝播した。
「戦だ」
「フェララめ、思い知らせてやる」
「ルビリア」
ルビリアの前に膝をついて支持を仰ぐエクテマスですら、狩を待つ猟犬のように、その眼を底光らせていた。
ハイロウリーン陣営には、異様な昂奮が満ちた。
場の雰囲気から取り残されているユスタスは、忙しく武具を身にはく騎士たちの邪魔にならぬように
慌てて飛び退き、ルビリアとエクテマスを追った。
天幕の外に出て、コスモスの丘陵を見渡したルビリアの眸はきらりと光った。
「エクテマス」
「はい」
「私の部下を三等分に。予備隊をお任せするオニキス皇子の護衛に一隊、留守役のサザンカに一隊つけて」
「はい」
「何日も野原を眺めて腐っていた息抜きに丁度いいわ」
「はい」
「教えてやりましょう。挑めば倍の痛手を負うことを、コスモスの野はわたしたちが席捲するものであることを」
ルビリアはそこで、ようやくユスタスに気がつき、細眉を吊り上げて、薄く笑った。
自制。慎重。何か云いたそうね。おそらくはそんなことでしょうけれど。
ユスタスは仏頂面だった。
どうせ僕の諫言など聴く気もないんだろう。
「何が気に入らないの、ユースタビラ」
(いい加減、ユスタスと呼べよ)
他の者が立ち去るのを待って、ユスタスは口火を切った。
「ここはハイロウリーン領じゃない」
即座にルビリアは云い返した。
「そしてフェララ領でもないことも確かよ」

コスモスに遅れて到着したフェララ軍に、ハイロウリーンの補給部隊が足止めをかけられ、
迂回を余儀なくされるだけでなく、荷の一部を奪い取られた。
タンジェリン殲滅戦を遡ること数年前、ハイロウリーンが同じことをフェララにしたという遺恨がある。
仕返しを果たしたフェララは、これ見よがしに中隊を組み、
ハイロウリーン陣営から眼につく野道を通って、わざとゆっくりと略奪品を運んでいた。
その報に、ハイロウリーンは色めきたったのだ。
丁度いい、そろそろ暴れたい頃だった。

「荷はくれてやりましょう。取り返すのが目的ではない」
髪を指先に絡めて、面白そうに丘の上からルビリアはそれを眺めた。
「喧嘩を仕掛けて来たのはあちら。フェララも退屈とみえるわ」
「フェララとは同盟を組んだのだろう」
「対レイズンに対してのみね。それとこれとは話は別よ」
「ここはコスモスだ。コスモスはあなた達を抑止できるほどの軍を持っていない。
 それを知りながら、コスモス領内で戦をする気なの」
「不可侵領でありながらレイズン軍の進入をむざむざと許したトレスピアノ」
晴れ晴れしく嘲笑うルビリアの揶揄にかっときて、反駁しようとしたユスタスの肩を突き飛ばし、
エクテマスはユスタスを脇に連れて行った。
「支度をしろ。すぐに出るぞ。参戦したくないというならばそれでもいいが、
 その時には、その騎士団の制服は返してもらおう」
「行くよ」、歯噛みしながらユスタスは装備を整え、剣を持ち、馬に跨った。
実のところユスタスも気持ちが大きく弾んでいた。
剣を持つ者として当然の欲求を、思う侭に解放出来るのだ、何を拒もう。
ましてや帝国にその名を轟かすハイロウリーン騎士団の一員として彼らと行動を共に出来るのだ、願ってもない。
ふと見れば、ゼロージャとソニーの姿も見えた。兜を上げてこちらに目礼する彼らは、
ユスタスも参加すると知って、少し心配そうであった。
「フェララは長槍を得意とする。馬から落とされぬように用心しろ」
エクテマスはユスタスの鎧の留め金を念入りに締め直した。
「大事ではない。これはフェララ側も承知の上での、ちょっとした余興だ。戦いは一瞬で済む。
 君にはいい経験になる。ユースタビラ、出るぞ」
「フェララを叩け!」
整然と馬を並べ、横列のまま、どっと繰り出してゆく。
その先頭が飛び出したと見るや、見る見るうちに、陣形は紡錘型となった。
丘の上にはそれを見送る、オニキス皇子の姿があった。
鎧もまとわぬまま、腕組みをしてうす笑いを浮かべ、戦の神か何かを気取り、こちらを見下ろしていた。
(------嫌な感じ)
ユスタスは吐き棄てた。
おのれは指一本動かすことなく、したり顔をして、あのように高みからの傍観を決め込むことほど、
楽をして、得をすることがあろうか。そのくせ勝利はすべて彼のものなのだ。
恩着せがましく、オニキスは云うだろう。わたしが見守っていたから諸君らは勝てたのだよ。
諸君らはおのれのことを誇りにしていい、さあ感謝しろ、と。
それほど楽で、愉快なことはないだろうね。
生憎だけど、誰もあんたなんか相手にしてないさ。
当たり前だろ、内心で見下げ果てられていることにも気がつかなかった、あんたなんか。
附いて来いと云われたとおり、ユスタスはエクテマスと馬を並べていたが、先頭に立つルビリアから
眼を離さなかった。決して変わらぬ愛とやらに殉じて何ひとつ悔いないルビリア、
僕は貴女が好きにはなれないけれど、それでもオニキスのような唾棄すべき人間よりは、
(数段マシだ!)
ユスタスは剣に手をかけた。
ルビリアの片手が上がった。さあっと紡錘隊形は中央の膨らみから左右に分かれて、半月型になった。
フェララ側からは、まるで大きな鎌が、草を蹴立てながら坂を下ってくるように見えた。
待ち構える装甲歩兵と装甲騎兵の二重円陣を組んだフェララは岩、そこに、
装甲騎兵だけで構成されたハイロウリーンが高浪のように襲い掛かった。
岩と岩とがぶつかるような音が地を揺るがし、両軍の武具が激突する音がそれに重なった。
おおおおお、と唸る風は、両軍の雄叫びだった。
緑に金、白に金。フェララの軍旗とハイロウリーンの軍旗が豪雨のように交差した。
「蹴散らせ!」
「突っ切れ、フェララを突き崩せ!」
「囲まれるな、ハイロウリーンに負けるな!」
その考えがユスタスの脳裡に閃いたのは、脳天を叩き斬られた歩兵が左右に転がり、
馬に蹴られてはるか後になった時だ。
その内の一人はエクテマスが屠っていた。
円陣から三角陣に変容しようとしているフェララの陣容を回る間、
ユスタスの隣にぴったりとエクテマスは附いていた。
エクテマスはルビリアではなく、僕を護っている。フラワン家の人間である、僕を。
冗談じゃない。
(戦場は轟音のような、無音のような、奇妙な風に支配されます)
これは遠い昔、ゼロージャから教えてもらったことだ。
(さあ、それをどのようにご説明申し上げてよいやら。
 ひたすら命令を聞き、生きて還ることだけを信じ続ける、寒々しい一刻を。
 否応なく臓腑の底から突き上げて来る、騎士の熱い血潮の、その慄き、悦びを)
フェララと聞いて、もしやルイがいたらどうしようかと思ったが、遠くからでも分かるあの巨躯は見当たらず、
ユスタスはそれに安堵した。ハイロウリーン騎士団に混じって戦っているところなどをルイに見つかったら、
有無をいわさず馬から落とされ、箱詰めにされてトレスピアノに送り返されること、必定である。
ルイが居ないだけでなく、どうやらここに集ったフェララは数ばかりで、
名の有る騎士は混じってはいないようだった。
その確信を得て、

「エクテマス・ベンダ・ハイロウリーン!」

わざと、ユスタスは大声を出した。
吼えるようなその声に、対面しているフェララ兵がいっせいにこちらを向いた。
ユスタスはもう一度繰り返した。ハイロウリーンの名に特に力を込めた。
「エクテマス・ベンダ・ハイロウリーン!僕の援護は無用だ!」
隣を見れば、馬首の影からエクテマスがこちらを睨みつけていた。
ユスタスは笑った。そうとも、貴方はハイロウリーン家の騎士だ。
フェララにとってはこれ以上の獲物はない、捕虜にとれば、ルビリア姫と同等の金貨が積める。
案の定、エクテマス目掛けてどっとフェララが押し寄せて来た。
「君の名も呼んでやろうか」
怒りを潜めた静かな声で、エクテマスは血剣の先をさり気なく横に突き出し、ユスタスに向けた。
「君の名も呼んでやろうか、ここに、フラワン家の男子が居ると」
誰も信じるものか。
命乞いをする兵が、咄嗟の思いつきでフラワン家の名を騙った、戦場笑い話までもあるくらいなのだ。
エクテマスが自分に附くというのなら、ルビリアの護りが手薄になる。
エクテマスが行かぬと云うのならば、自分がその役目に代わるまでだ。
むろん、ユスタスはエクテマスの腕に万全の信頼をおいている。
(ハイロウリーン家の子息だ。本来ならこの合流軍、エクテマスが司令官になってもいいくらいだ。
 頼みもしないのに、僕のお守りをした罰だ。このくらい一人で何とかしてよね)
襲い掛かって来たフェララ兵に前を塞がれ、忙しくなったエクテマスを残して、
ひらりとユスタスは騎馬の間を抜けた。
鐙と鐙がぶつかるような隙間だったが、人馬一体となって、恐れ気なく前へ飛び出した。
そこに、ルビリアがいた。
解き放たれた赤い風のようにルビリアは駈けていた。
片手綱で少し鞍から身を浮かせたその細身が沈み、その片腕がさっと振り下ろされた。
兵がどおっと地に倒れ、ルビリアはそのまま次の騎士の顔面に剣を振り下ろした。
石が砕けるような音がして、また一人斃れた。
女騎士は踊るように優美だった。
「我が名はガーネット・ルビリア!」
自分から名乗ってるよ。ユスタスは眼の前が暗くなった。
タンジェリンの生き残りの姫なのだ。れきとしたお尋ね者であることの自覚を少しは持ってくれ。
ルビリア目掛けて突進して来た騎兵を、先にユスタスが捉えて出迎えた。
すれ違いざまにその首筋に一太刀を浴びせた。糸のように血が飛んだ。
誰一人、ルビリアに触れさせてなるものか。
(シリス兄さんに逢わせるまで、死なせるものか)
露払いをして駈け戻ると、ルビリアの闘いをもう一度ユスタスは見ることになった。
ルビリアは静止しているように見えた。
頬にかかった血を手甲で拭い、何か考えているように見えた。
その青い眼がかっと見開かれたのは、ルビリア目掛けて突進する長槍の騎士を視界に入れた時だ。
しなやかな枝のようにルビリアの細い肢体が反り、槍先を避けた。
のけぞったその顔が嘲りの微笑みを浮かべて笑っているのを、ユスタスは見た。
「勇敢なる長槍の騎士。高位騎士との力の差を思い知って死ぬがいい」
馬に拍車をかけたルビリアは、自ら長槍に向かって向かって馬を飛ばした。
串刺しになると思われた瞬間、鞍の上でルビリアの身体が深く沈んだ。
その赤錆色の髪を掠めた槍先の行方を見届けるまでもなく、素早く身を起こしたルビリアは
跳ね上がるようにその身を伸ばし、下方から長槍の騎士を斬っていた。
「死ね、女騎士」
長槍の騎士は、その死と引き換えに、渾身の力で女騎士の背に向けて槍を投げた。
馬を駆るルビリアは惜しみなく剣を投げ棄てた。
そして、落馬する騎士が手放した槍の柄を、振り返らぬまま素早く空中で受け止め、
手の中で回転させて槍先を空に向けた。
ルビリアはそれを勝旗のように掲げて戦場を駈け抜けた。おお!とハイロウリーン騎士団がそれに応えた。
潮のように歓呼が満ちた。
「ルビリア!ルビリア!」
「潮時。帰陣する!」
ルビリアの横にはいつの間にかエクテマスが並び、ルビリアの剣がないと見るや、
地に棄てたルビリアの剣を奪い返しにエクテマスは駈け戻り、
それを抱えて逃げようとしていた歩兵を一撃の下に斃して剣を奪い返すと、ルビリアに追いついた。
ルビリアもエクテマスも返り血らしい返り血はほとんど浴びてはおらず、如何に二人が
素早く敵を斃し、穢れる前に離れていたかを思わせて、ユスタスは感嘆した。
そういえば、この二人は師弟関係にあるのだ。
褥を別とすれば長年寝食共にしている仲だ、流石、息もぴったりで戦いぶりも似ている。
速さと身軽さを最大活用するルビリアと異なり、エクテマスの方は、もう少年ではないのである、
もう少しもったいをつけた重厚な闘いぶりを見せたほうが彼の格も上がると思われたが、
(彼はそれをしないんだろうな)
どこまでもルビリアの影に徹している若者の背中を見送って、もったいないような、遣る瀬無いような
そんな気持ちになりながら眼を逸らしたユスタスは、心が突き飛ばされるようなものを目端に捉えた。
右翼と左翼に分かれた軍は、すべて、ハイロウリーンで構成されていると思っていた。
まさか、サザンカからも有志が参戦しているとは思わなかった。ロゼッタが。
ロゼッタの姿は反対側の左翼の最端にあった。
両軍、引き際よく、負傷者や捕虜を連れて引き潮のように分かれたが、
サザンカ騎士と思しき一人の騎士が出遅れて、フェララの中でまだ闘っていた。
それを見て、まっすぐに引き返したロゼッタは騎士を解き放ち、その赤い剣を引いて、自らも馬首を返した。
残された味方が他にいないか見廻して確かめた、その僅かな手間取りが、敵に捕捉されることになった。
そしてユスタスが見ている前で、遠く、離脱しようとする少女騎士の操る馬は大勢に押し包まれ、
いっせいに伸びた敵の手で、鞍から地上に引きずり落とされたのである。
腰をつかまれ、大柄な騎士に抱き上げられるようにしてロゼッタは地に落ちた。
「女騎士を捕まえたぞ」、そんな歓声がフェララから上がった。
縛られたロゼッタは、騎士の馬に担ぎ上げられた。
「いい土産が出来た、女騎士を捕まえたぞ!」
「止せ」
飛び出そうとしたユスタスを止めたのは、エクテマスだった。
エクテマスはユスタスの手綱を奪い取っていた。
「後でどうせ捕虜交換をするのだ。サザンカの彼女はすぐにも返してもらえる。命令に従え、ユースタビラ」
「退け、エクテマス」
「ロゼッタ様をお救いいたせ」
サザンカの従騎士たちがフェララを追ったが、何重にも阻まれて、撤退するフェララには追いつけなかった。
「帰るぞ、ユースタビラ」
「放せ」
遠ざかるフェララは既に丘の彼方になり、そしてエクテマスはユスタスの馬をしっかりと抑え、
戦場から引き離しながら、手綱を手離そうとはしなかった。
エクテマスの指示を受けて飛んできた騎士が、さらにユスタスと馬を抑えた。
ユスタスは抗った。あれは確かにロゼッタだった。
僕は、どこの国の騎士でもない。
フラワン家の騎士ですらない。僕は、兄さんや姉さんと同じ、ただの騎士だ。
「落ち着け、ユースタビラ。彼女はすぐに戻ってくる」
「うろたえるのは止めなさい。見苦しい」
戦いの後の昂奮が夕闇に包まれた陣地を覆い、酒を振舞われた兵の間には、
昨日までにはなかった活気と覇気が満ちていた。
あれは野蛮な傭兵などではなく、フェララの正規軍、心配することはないわ。
私も何度も捕虜となった。そしてその度に、いろんなことを学んだ。
軍律に則って、女騎士の待遇はいいわよ。競うようにして可愛がってもらえる。
捕虜の女騎士を抱けるのは位ある騎士に限られ、それも、女騎士が選んだ相手だけ。
女に飢えている彼らは懸命にご機嫌をとるわ。そして私たちは彼らを利用する。
天幕の中でルビリアは汚れた手甲を外した。
あまりにも居心地がいいので、ハイロウリーンに戻りたくないと思ったこともあったほどよ。
まさか、その覚悟もなしに彼女を恋人にしたとは云わせないわよ、ユスタス・フラワン。



「続く]



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