back next top






[ビスカリアの星]■四十九.


フェララ陣中は、浮き立っていた。
ハイロウリーンの補給部隊と行き逢ったフェララは、数年前、
ささいな諍いからハイロウリーンに荷を強奪された往年の借りを返す時はいまとばかりに
部隊を強襲、補給物資の一部を奪い取った上、ハイロウリーン陣を横切るようにして彼らを刺激、
狙いどおり、コスモス郊外において一戦を交えた。
それは双方合意の上でのお祭り、毎日のようにどこかの国境で頻繁に行われている、
非公式の騎士の競技試合のようなものだった。
それが証拠にハイロウリーン率いるルビリア・タンジェリンは深追いせずにさっと兵を引き、
フェララもそれに倣って、奪うものを奪った後は大急ぎで陣に帰り、
さらなる遺恨を残すよりは、双方、久方ぶりに暴れたさばさばとした満足感に満たされて、
勝敗をあえてぼかしたまま、その日を引き分けたからだ。
荒っぽい交流のつき物として死傷者も出たのだが、
フェララの騎士たちにとって眼の届く範囲にハイロウリーン騎士団が駐屯しているというのは、
それだけで腕の高鳴る、何とかして帝国最強の騎士団と剣を交えてみたいと昂ぶりを覚える、
意気を上げるのに丁度いい目標であったし、ハイロウリーン率いるルビリアにとっても、
兵の息抜きと軍の士気を固めるには実戦の他に凌ぐものなしと、この機会を大いに利用した。
それ故、コスモス駐屯軍フェララ司令官モルジダン侯は、これもよい修錬となったとばかりに鷹揚に構えて、
陣に戻って来た中隊長を叱責することはなかった。
露営に夜が来た。
昼間に参戦したフェララ騎士たちは、酒を酌み交わし、ハイロウリーンといかに戦ったかを大いに語った。
白金の鎧を煌かせ、丘の上から白波のようにハイロウリーンがざあっと駈け下って来た時、
迎えうつフェララの中隊長は自軍の兵にしっかと申し渡したものである。
者共よく見ておけ。
「あれが、帝国最高峰の騎士団だ」。
戦いの後には、死者の始末と、負傷者の手当て、捕虜の世話が待っていた。
彼らはまるで実戦の戦争の時と同様に、取れるだけの捕虜を奪い取り、陣に連れ帰っていたが、
フェララとハイロウリーンは敵対関係にあるのではない。
従って、両軍、その捕虜の扱いも、ひじょうに懇ろなものであった。

「ご案じなさるな。諸兄らはすぐに釈放されるであろう」

フェララ騎士たちは、捕虜としたハイロウリーン騎士たちをまるで学兄のように扱い、
捕われの身となっても、矜持高く、その白と金の鎧すがたをしゃんと保っている彼らに、
憧憬の眼差しを注いだ。
フェララとていまや大国、ハイロウリーンやジュシュベンダに劣るものではないのだが、
ハイロウリーンとジュシュベンダは何といっても聖騎士家の二大巨頭である。
ナナセラ、コスモスと並ぶ三ツ星騎士家のフェララにとっては、彼らこそが騎士の中の騎士であり、
自国の剣術師範師にハイロウリーン騎士団に籍のあったルイ・グレダンを厚遇で迎え、
フェララ公ダイヤがルイを重用していることからみても、意識の中には、明確なる序列があるのであった。
従ってフェララ陣営において、ハイロウリーンの捕虜は客人のようにもてなされた。
その彼らとは別にされ、指揮官モルジダンの厚意でさらに待遇よく、
単身用の天幕に入れられた騎士がいる。
「騒がしくて、申し訳ありません」
他の捕虜とは別にされ、一人用の天幕を与えられたロゼッタの世話係となったフェララの少年兵は、
幕の入り口の布を垂らし、異国の女騎士をひと目見んとする男たちの好奇の眼からロゼッタを遮断した。
捕虜となった女騎士の存在は瞬く間に陣中に知れ渡たるものであるが、ご他聞にもれず、
今宵、兵士たちの間の話題はまさにそれに席捲されていた。
「サザンカの女騎士を捕えたぞ」
彼らはまるで若鹿をしとめた狩人のように大いにはしゃぎ、見張り付きで遠く離れた場所の天幕に
引っ込んだ女騎士についてのあれこれを繰り返し語って飽きるということを知らなかった。
「一人残された騎士を助けるために、あの少女だけが駈け戻って来たのだ。
 真赤な剣を手に、黒髪をなびかせて、小鳥のように我らの中に飛び込んで来た。
 そして仲間の騎士を鮮やかに助け出すと、彼を逃がす代わりに、
 彼女がその身代わりとなったのだ」
「この兜の傷はその女騎士の剣でつけられたものだ。俺の誇りだ」
「ううむ。まだ戦法を知らぬのだな。真っ向から勝負を仕掛けるあたりが、初々しいではないか」
「天晴れなる女騎士だ。そしてこれは余計なことだが、よく見れば顔も可愛いぞ」
「どれどれ」
ロゼッタへの好意的な評判と相まって、すっかり人気爆発といったところだった。
そのあまりの過熱ぶりに、フェララの少年兵が、
「外には顔を出さないようにして下さい。野次馬を追い払うために見張りを立てていますが、
 貴女を見たいが為に、用事もないのに周囲をうろうろしている輩が後を絶ちません」
天幕に案内すると同時に、真顔でロゼッタに忠告したほどである。
当のロゼッタは、捕虜の分際をわきまえていた。
少年の手を借りて、鎧を脱ぎ、顔を洗い、無表情に椅子にかけた。
天幕の内壁に映る影は、フェララ兵がロゼッタを初陣の少女だと誤解したのも無理のない、
頼りない影だった。
若い女騎士に同情している少年兵は、灯りに油を足しながら、ご安心下さい、と請合った。
「フェララの軍律は厳しいです。
 捕虜に手を上げるものは如何なる者であれ、厳罰に処されます。
 貴女はよく闘われました。今晩のところは、よくお休み下さい」
囲まれて馬から引きずり落とされた。
鞍から身が浮き上がった時、捕まるのだと察して、血が冷えた。
馬と引き離されて、直ちに縛り上げられた。
いたずらに大勢の男たちが圧し掛かってこようとするところを、騎士の一人が一喝し、
取り上げられた剣は、その騎士のものとなった。
「心配いたすな。この剣、後でちゃんと、そなたに戻してやるゆえ」
思い遣りあるその声の主を、見ることも出来なかった。長身だということだけは分った。
持ち上げられた身体が馬に乗せられ、連行される間、唇をかみ締めて、俯いていた。
捕虜には捕虜に相応しい振る舞いというものがある。
観念したロゼッタは抵抗もしなかったが、その内心は、ひたすら己が情けなく、惨めだった。

(------フェララの雑兵ごときに不覚をとるとは)

女騎士への同情と好奇心を半々に、しかしフェララの少年兵は、礼儀作法をよく仕込まれて、
物腰も丁寧だった。それも当然で、後で聞けば、この少年はさる貴族の子弟で、
コスモスに遠征中のフェララ軍を率いるモルジダン侯の従者ということだった。
「お怪我はありませんか」
「お気遣いなく。かすり傷です」
「お顔に擦り傷が。唇から血が出ておられます。痛むのではありませんか」
「さあ。落馬の際に打ったのでしょう」
「薬をお持ちします。その前に、騎士殿。あらためて名をお聞かせ下さい」
「ロゼッタ・デル・イオウ」
名を偽るのは騎士の恥である。他に答えようもない。
「ロゼッタ・デル・イオウ殿。サザンカ家の家司イオウ家の方に相違ありませんね」
少年は手早く書類に書き付けた。
捕虜の中にはサザンカの騎士もいて、ロゼッタの即時解放を求めて騒いでいるのだという。
「湯を運ばせます。着替えも用意します」
「余分があればで結構です」
「捕虜条約に則り、フェララ陣中における身柄の安全はお約束します。ご安心してお寛ぎ下さい」
運ばれた湯で身体を清めている間に、衝立の向こうには、食事の用意が出来ていた。
いみじくもルビリアが云ったとおり、捕虜となった女騎士は競うようにして
可愛がってもらえるというのは本当であった。
何となれば、捕虜の中に女騎士がいると知ったフェララの兵たちは、身分の上下問わず、
持ち物の中から最良のものを選んで使ってくれるようにと差し出し、不自由がないように
取り計らってくれただけでなく、女騎士を大切にすれば霊力が宿るのだと
民間信仰的なことを口実にしては、過分に尽くしてくれた為である。
彼らはとにかく、女に、しかも女騎士に、何とかしてお近づきになりたいのであった。
その為、ロゼッタの為に用意された天幕の内部は、狭いながらも充実した住居となっていた。
これしかありませんが、と差し出された小姓用の服をまとい、腰を飾り紐で締めた。
身の丈には余ったが、清潔だった。
「外に居ます。御用があれば、お呼び下さい」
少年兵がロゼッタを残して出て行くと、ロゼッタは、素足で邪魔なクッションを蹴った。
何処から持ってきたのかは知らないが、天幕の中には鏡や、花瓶に挿した花まであった。
小道具だけを見れば、まるで、ご婦人の一室だ。
ロゼッタは敷物の上に座り込んだ。隅にある、折りたたみ式の寝台に上る気力もなかった。
食事の匂いが、いまは胸に重かった。
疲れた。
湯をつかったのに、まだ身体の節々が熱く痛い。
食事に手をつける気分にもなれず、敷物の上に身を倒して横になった。
敷かれた厚手の敷物はひんやりと気持ちがよく、頬をつけると、夜の大地の匂いがした。
一人用の天幕を与えられたのは女騎士だからではなく、フェララ側が、イオウ家の名に
配慮をみせたからだ。聖騎士家サザンカの成立と共に、サザンカを護る棘と薔薇として、
イオウ家の名はそれなりに知られており、フェララとも浅からぬ縁がある。
ロゼッタはフェララ軍の規律のよさを知っており、捕虜となった時の段取りも覚悟もとうについていたので
今更慌てることもなかったが、捕えられた女騎士の前にその寵を競って膝をつく騎士たちの姿も、
こうなってみると一度は見てみたい気がした。 
捕虜となって、そのままその国の騎士の妻となった女騎士たちも多いのだ。
女騎士の数は少なく、騎士たちは、次代の強い騎士の血を求めて、女騎士と結ばれたがる。
それだけでなく、なよやかな姿で闘う女騎士の存在そのものが、彼らの神秘であり憧れだった。
それが証拠に、天幕の外には何とかしてひと目女騎士の姿を見れぬものかと、
性懲りも無く遠巻きにうろついている兵たちの気配がある。
捕虜となった女騎士に近づけるのは位ある騎士に限られ、
さらには捕虜の方にしか情人を選ぶ権利はないことがいつの間にか不文律となって久しいが、
そのまま自然に任せておくと雌をめぐる雄の戦いとなって要らぬ流血沙汰に発展するために、
軍規としてはそれも当然の予防策であろう。
しかし、どうやら今回はそのようなお愉しみの機会もなさそうであった。
あっても困る。自分はどうしてやることも、どうすることもないだろう。
横になったまま、ロゼッタは額にかかった黒髪をかきあげた。
捕まったことは悔しいが、これも、いい経験になる。
(ロゼッタ。ほら、比べて)
敷物の上に腕を投げ出した。
幻の影を追った。この腕に触れ、耳もとを掠めた、若者の声を。

(腕の長さ、骨格の太さ、どれをとってもこんなにも違うのに、
 こうして、かんたんに君は僕のものに出来るのに、
 女騎士を見ていると、時々、この僕でさえ負けるような気がする。
 騎士の血を濃縮して持っている君たちは、突然変異だ。
 女騎士こそ、星の力をうけた人々、男たちとはまったく別の使命をもった
 騎士なのではないかと、そんなことを想うことがある。
 -----こんなの全部、兄さんの、受け売りだけどね)

最近ずっと、むしゃくしゃしていた。
ユスタスを避け、避けることにも疲れ、解決のつかぬまま積み重なることばかりが増えて、
知らぬうちに大渦の中に巻き込まれるような気がした、そして戦いの夢ばかりを見た、
戦っても戦っても、戦いが終わらない悪い夢を。
それならばこうすれば落ち着くかと思い、真夜中にユスタスを頼った。
それしか、自分を守る方法がなかった。
私はもう迷いたくない。
(戦になります、だから-----)
ユスタスは怒っていた。女騎士など大嫌いだと罵られた。
フラワン家の人間といえば雲の上の人のように思っていたものを、彼は最初から、
飾りのない、真正面の付き合いを求めて、年上のロゼッタ相手にも気取らなかった。
それでも、その本来の立場を離れて偽名を名乗っている彼は、ユスタスであってユスタスではない。
この身を抱いたのはユースタビラと名乗る若者であって、ユスタスではない。
おしのび中の無礼講など、あちらの方ではものの数にもしておらぬかも知れず、
トレスピアノに仲のいい恋人がいるような、そんな話も聞かされた。
「君とは違うよ。あれは何ていうかな、そう、友だちだ」
友だち。
寝転んでロゼッタは敷物の模様を指先で辿った。膝と膝を重ねて、身を丸めた。
たかがサザンカ家の家司の女が、フラワン家の若君と釣り合えようはずもない。
頼ったところで、いつかは別れなければならぬ仲である。
それは分かっている。
浅ましいことだった。
いつか、彼も気がつくだろう。この身に巣食う、汚さに。
いつか私も思い知るだろう、このまま誰にも知られぬままに独りで腐らせていくであろう、
未来のない、希望のない、一時の情事のそのむなしさを。
もの想いが我ながら重たくて、ロゼッタは自嘲した。
ユスタスとは歳が幾つ違うのだろうか。
「リリティス姉さんよりも君のほうが年上だなんて信じられない」、そう云っていたから、
三つ四つは違うのか。
自分のほうから服を脱ぎ、抱きついた。
あの人は心配してくれているだろうか、考えることすら、許されないのだろうか。
それとも彼がフラワン家の若君などでなければ、こんな想いをしなくて済んだのか。
(------ユスタス)
「ロゼッタ・デル・イオウ殿」
外から呼ばれた。
「お入り下さい」、身を起こして、身なりを整えた。
ロゼッタは天幕に入って来た人物を迎えた。
聞き覚えのある声だと思ったら、捕まった時に、ロゼッタの手から剣を取り上げた騎士だった。
長身の身を屈めて狭い天幕に入って来た騎士は、ラルゴと名乗り、
持って来たロゼッタの剣を両手で差し出した。
「従者に磨かせてあります。見事な剣だ。主と離しておいては剣が泣こう。お納め下さい」
「ご厚意、傷み入ります。受け取りましょう」
騎士の作法に則った所作で、ロゼッタは剣の返還を受けた。
立ち去ろうとはしないラルゴに、礼を述べた。
「片時もわたしと離れたことのない剣です。お持ち下さり、有難く思います」
「イオウ家伝来の、血と薔薇の剣。まことに抜き身が赤いとは愕きです」
何をしに来た。
剣を受け取ったロゼッタは、それを片手に持ったまま、長身の騎士を見上げた。
今宵は無礼講なのか、野営のフェララ兵たちは呑めや歌えやの大騒ぎの最中である。
彼らの歌う故郷の歌がここにも聴こえて来た。女騎士の天幕の周囲のみがひと気なく、
ひっそりと闇だった。
ラルゴの背の高い影に入ると、ロゼッタはそのまま後ろに転んでしまいそうな気がした。
ロゼッタの顔立ちや、小柄な肢体を、騎士ラルゴは感慨深げに見つめて、微笑んだ。
「お召し物はそれしかありませんでしたか」
「これで充分です」
男の服を着ているロゼッタが不憫らしく、ラルゴは気遣わしげな顔までする。
「それではあまりに御いたわしい。ドレスは無理でも、せめて女の服があるといいのだが」
「………」
何のために。
ロゼッタは剣を握り締めた。
実はわたしの他にも来客があるのです、と騎士ラルゴは困った顔で丁重に述べた。
騎士は感激の面持ちであった。
「これは我が軍の司令官、モルジダン閣下も承知されたこと。どうぞ、安んじられて
 ご対面下さい。しかし内密のことゆえ、くれぐれもお静かに」
謎の言葉を残して、ラルゴはそのまま外に出て行った。
入れ違いに、誰かが天幕の中に入って来た。
至尊の君がおなりになる時には、こうも威風を漂わせるものであろうか。
その者は天幕の帳を片腕で上げて、躊躇せず、遠慮なく踏み込んできた。
赤い剣が床に落ちた。
ロゼッタは膝から崩れ落ちそうになった。ユスタス。


愕く間もなかった。いきなり肩を乱暴に揺すられた。
ロゼッタは我が眼を疑った。
「ユスタス様!?」
「嫌なんだよ」
それはまさしく、ユスタスであった。夢ではなかった。
案内も請わずに天幕にずかずかと踏み入って来た彼は、ロゼッタを引き寄せ、
ロゼッタが身を引かなければ、そのままロゼッタを両腕に抱え上げて出て行きそうな勢いであった。
「ユスタス様」
驚愕のあまり、ロゼッタは珍しくうろたえた。両手を突っ張ってユスタスを押し退けた。
「ユスタス様。どうして此処に、ユスタス様」
ユスタスは、ロゼッタの両肩を掴み、咬み付くように云った。
天幕の外に洩れぬよう、声は潜めていたが、恋人を胸に抱き寄せたその口調は熱かった。
君をこんな処においておくのは、堪えられない。
「誰にも何もさせるもんか、誰にも、触れさせるものか」
「ユスタス様、どうして、此処に。どうやって」、眼を瞠り、性急にロゼッタは問いを重ねた。
「もしや、ユスタス様も、捕虜に」
もちろん、そのようなことがあるはずもない。
二人は声を潜めてはいたが、その昂奮は隠しようもなく、ましてやユスタスときたら、
何かを思い定めた時の男が見せる、決然とした、暴力的なまでの意志を顕わにして、
ロゼッタを掴んだまま離そうとはしない。
夜が来るのを待って、ユスタスはハイロウリーン陣屋を抜け出し、露営しているフェララに使者を出した。
密使を受けて野に出てきた騎士に、彼は捕虜の受け取りを要求した。
申し出ではない。威令である。
ユスタス・フラワンと名乗った。
君にも見せてやりたかったよ。さっきのあの男、ラルゴとかいうフェララの大騎士が
僕の前に平伏した、あの様子を。
「名乗られたのですか」
「肝心な時に役に立たぬなら、フラワンの姓など意味がないも同じだ。幸い、フェララの大将は、
 一度トレスピアノを来訪したことのある顔見知りだった。すぐに僕だと分かってくれたよ」
「何ということを------」
絶句したロゼッタは、みるみる眼を険しくした。
「ハイロウリーンを勝手に抜け出て来られたのですか。フラワン家のご威光を嵩にきて、そんな真似を。
 お立場をわきまえぬ、呆れ果てた、そのような軽挙を」
「君を連れ戻す為でなければやるものか」
「一人でお帰り下さい」
「はあ?」
「お帰り下さい、ユスタス・フラワン様」
ユスタスを押し退け、ロゼッタはつんと横を向いた。
「このようなことをして、私が嬉しいと思うとお思いですか。自惚れないで」
「何だって」
「供も連れずに独りで乗り込むなんて。自己過信が過ぎるのではないでしょうか」
「あのね、ロゼッタ」
「トレスピアノの若殿様はその気まぐれで何でも思い通りになさる。
 しかし、私には私の負う義務があります。気楽な貴方と一緒にしないで」
ユスタスは絶句した。
僕がどんな決意をしてここまで来たと思ってるんだ。
しかも、どうやらロゼッタはユスタスに対して本気で怒っているようなのだ。
恋人が助けに来たことに感激して抱きつき、可愛らしく泣けとまでは云わないが、なんだ、この態度。
「どうぞ」、ロゼッタは顔を上げ、ユスタスを睨んだ。
また私の頬を打つのですか。打つというのなら、そうすればいい。
「ロゼッタ」
「他の捕虜を見棄てて私一人、陣に戻ることなど出来ません」
「そう云うと思った」
「それならば」
「我侭を云うな」
「そちらこそ」
「いいから」
無理やり連れて行こうとするユスタスの腕を、ロゼッタが跳ね除けた。二人は睨み合った。
ロゼッタは冷然たる拒否の態度で応えた。
「担ぎ上げてでも君を連れて帰る」
「まるで人攫い」
「おい」
「フェララの方々のほうが貴方よりも何倍も礼儀正しいわ、ここに残ります」
「いい加減にしろ」
「大声を出しますよ」
「出してみろよ」
「誰か、誰かある。ここにハイロウリーンの間者がいます」
「本当にひっぱたくぞ!」
「お帰り下さいッ」
「何という騒ぎか」
天幕が開いてそこに現れたのは、コスモスに駐留しているフェララ軍を統率するモルジダン侯であった。
入って来た彼は大きな手で二人の若者を引き離した。

「双方、お若いのは分かるが、少しお静かになさいませぬか。
 幾らそのように声を潜められたとて、騒ぎが外の兵に知れたら何とされる」

騎士モルジダンは、入り口を塞ぐように仁王立ちになった。
候は恰幅のいい壮年の男で、その顔は髭におおわれ、そして、隻眼であった。
その、眼帯をはめていない方の片目がユスタスに向けられた。
ゆるやかに侯は若者に云った。
ユスタス・フラワン様、先に申し上げましたとおり、
フェララはハイロウリーンと戦争をしているわけでは御座いません。
ましてやサザンカ、トレスピアノの御両名を長々とこちらにお引き止めしておく謂れもない。
「お好きに出て行って下さればよい、と云いたいところでありますが、
 さてこそ、それには条件が御座います、ユスタス様。わしは、それを申し上げに参りました」
「条件」
横幅はともかくも、身長では負けていない。ユスタスはモルジダン侯に正面から問い返した。
「条件とは。フェララ領主ダイヤ公お従兄モルジダン侯爵殿」
ここでロゼッタは、常日頃見たこともない、ユスタスの本領を見ることになった。
領主家に生まれた者として当然ながら、
ユスタスは時と場合によればいつでも公人として振舞えたが、
この時彼はその態度を急変させ、聞きなれぬ者の耳には冷ややかにも聴こえる、
淡白な、そして底の知れぬ曖昧な、柔和にして冷淡な貴人、といった様子になった。
そこに居るのは、ロゼッタの見知らぬ、フラワン家の男子だった。
そして完全に目上の猛勇モルジダン侯を、格下に見ていた。
ユスタスはわざとそうしたのである。
モルジダン侯は目許で笑った。
「これはしたり。お願いと、申し上げるべきでした」
「おうかがいしましょう。ただし、ルイ・グレダン殿のご友人の言葉としてなら」
威を崩さずユスタスは申し渡した。
「ユスタス様は、すっかり大人になられた」
特に恐縮することもなく、モルジダンはにっこり笑った。
「最後に御逢いした時は、まだ、兄上のシュディリス様がすべてに代わってお返事であったものを」
「彼が嫡男です。兄がいる時には兄に任せています」
「それで、気楽なご次男の御身としては、諸国を放浪の上、軍隊に御入隊ごっこを」
「それは、わたしへのお説教ですか、モルジダン侯」
「左様です」
穏やかにモルジダン侯は頷いたが、しかしその隻眼は、
ユスタスにしかと重大な何かを諌めて聞かせるべく、深刻に光っていた。


沈黙の後、ユスタスは天幕の中を見廻した。
天幕の中に三人もいては窮屈ですね、とおもむろにユスタスは云った。
「ロゼッタ」
ユスタスは傍らのロゼッタを呼びつけた。
ロゼッタ、こちらにおられるモルジダン侯のお許しは得ている。
コスモス駐屯軍フェララ司令官モルジダン侯は、君の身柄を捕虜としてでなく、
客人として陣に迎えられたそうだ。
だからいつ出て行こうと自由だ。ここに許可証もいただいている。
「ロゼッタ。一足先に、サザンカ陣屋へと帰参して構わないよ。馬もお借りするといい」
それは恋人としての言葉ではなかった。
ロゼッタを従騎士か、さもなくば侍女扱いにした、命令だった。
こちらを見たユスタスの顔は取り付く島もない冷ややかなものだった。
意味するところはこうである。
モルジダン侯と二人きりの話がある。席を外せ。
ロゼッタは譲歩した。
独りで陣に帰るつもりは毛頭なかったが、ここまで公言されては、抗うわけにもいかない。
ロゼッタは赤剣を拾い上げた。ユスタスは無視した。
「-----天幕の外で、お待ちしております」
ロゼッタの気配が遠ざかったのを確かめてから、モルジダン侯はユスタスに椅子を勧め、
自身は長持の上に腰を下ろした。
「ルイの友人としての言葉なら聞くと云われた、では、騎士同士として
 話をしても構わんかな、ユスタス殿」
「どうぞ」
素っ気無くユスタスは応じた。
フェララに乗り込んだのは、ロゼッタを返してもらう為だ。
ここで無駄な足止めを喰らっているのは不本意であったが、事を荒立てても仕方がない。
「飲むかね」
モルジダン侯は卓上の酒瓶を持ち上げ、返事も待たずにそれを盃に注いで
ユスタスに差し出し、自分にも一杯作った。
この酒も、ここにある花も花瓶も、どこぞの騎士が鼻の下をのばしてロゼッタの為に贈ったのだと想うと、
(人の女に勝手な真似を)
腹が煮えたが、ユスタスは酒ごと苛立ちを飲み干すことにした。
(シリス兄さん-----どうしているだろう)
(ユスタス。肩を貸して欲しい)
或る夜、遅くに屋敷に戻って来た兄は、見たこともないほどに酩酊していた。
肩を貸し、部屋まで送り、家の者には知られないように介抱した。
シュディリスは寝台に崩れるように倒れ、額の上に腕をおいたまま窓の外の月を睨んでいた。
懊悩に煩わされることにも疲れ果てた、そんな静かな顔だった。
窓を開けてやると、涼しい夜風に少しほぐれた顔をして、眼を閉じた。ありがとう、ユスタス。
子供の頃から仲がよく、互いの好みも熟知し、何でも話せる仲だと自負しているわりには、
気がつけば、兄は兄だけの悩みに沈み、貝のように口を閉ざして語らない。
それだけに時が来ればいつか思い切ったことをしそうで、見ていて不安な時もあった。
(兄さんは、この家を出て行くんじゃないだろうか)
巫女を奪い去っていったシュディリスは、ユスタスのまったく知らない兄だった。
モルジダン侯の隻眼が、そんなユスタスを見つめた。

「本日の戦闘には御身も加わられたとか。お怪我がなくて、何よりでござった」
「それよりも、貴方の言い分を聞きましょう。モルジダン侯。
 わたしはその為にここに残ったのです」

ユスタスは両腕を卓において、モルジダン侯の言葉を待ち受けた。
長持ちに腰掛けたモルジダン侯は、野太い声で云った。
「ならば申しましょう、ユスタス・フラワン様。即刻、トレスピアノにお帰りあれ」
(家に、何かあったのだ)
すぐさまユスタスは察したが、酒盃を傾けるにとどめた。
「僕は、家出をしたのではありません、侯」
ユスタスは、慎重に体裁のいい言い訳を考えて、それをゆっくりと述べた。
ここは若者らしく、初心らしく、年長者の理解と寛容をいかに引き出すかだ。
ユスタスは、不服そうな、そして素直な、それを見た年配の者が優越感を持つであろう、
いかにも直情な、若輩者らしい不服顔をつくって、侯に申し開きを始めた。
僕が此処にいるのが、そんなにおかしいですか、侯。
僕はユスキュダルの巫女がヴィスタチヤにご光臨あったと聞いて、
千年に一度もない巫女の御幸を拝し奉る栄に浴したいと希い、トレスピアノを旅立ちました。
ハイロウリーン騎士団と行動を共にしているのはまったくの偶然で、道中、
賊に追われて落馬した僕を、フラワン家の人間と知らぬままに彼らが助けてくれたからです。
モルジダン侯、僕はユスキュダルの巫女をひと目見たかった。
そして騎士中の騎士と謳われるハイロウリーン騎士団を、この眼で実際に確かめてみたかった。
彼らが巫女のおわすコスモスに向かうと知った時、僕は迷うことなく彼らとの同行を決めました。
その為に、僕は名を騙った。
フラワン家から離れて、ひとりの騎士として、旅をしてみたかったのです。
偽名を名乗り、他国の軍隊に紛れ込んだことをお咎めならば、それについての苦言は受けます。
ですが、一度くらい遍歴の騎士のように、フラワン家の名を離れたところで、
僕は自分を試してみたかったのです、モルジダン侯。
(嘘はついていないよ)
神妙な様子でユスタスは語り終えた。
「同じ騎士ならば、貴方にもお分かり下さると思います」
もちろん、モルジダン侯はそのような体裁のいい若造の話に騙されはしなかった。
若者の殊勝ぶった言質などは聞き流すだけに留めて、感心も、迎合もしなかった。
侯は切り込んだ。
「それで。それ故、ご家族の現状をまるでご存知ないというわけですな」
ユスタスは表情を動かさなかった。兄、姉が出奔していることは、おそらくは
諸国にそれとなく知られているのであろうから、自分からそれを認めることもあるまい。
侯は何を云おうとしているのだろう。トレスピアノの父か、母に、何かあったのだろうか。
モルジダン侯は悪い人間ではなかったので、弱みを見せることの出来ぬ若者の立場をよく理解し、
家族を心配する若者を、それ以上いたずらに焦らすようなことはしなかった。
ユスタス様、フェララ剣術師範師ルイ・グレダンと親しい者の言葉として、どうぞ、
今からわしが申し上げることをお信じ下さいますように。
「事態は、御身の知らぬところで、急変いたしております。単刀直入に申し上げましょうぞ。
 御母上リィスリ・フラワン・オーガススィ様はレイズン本家に、そして、
 御姉上様リリティス姫は、そのレイズン本家と反目しているミケラン・レイズン卿の許に、
 目下のところ、それぞれ身柄を押さえられております」
「-----身柄を押さえられているとは、穏やかではありませんね」
侯の言葉を疑うふりをして、ユスタスは両手を顎の下で組んだ。
「いったい、母と姉は、大罪でも犯したのですか」
「そのような」
「では、彼女たちの意志でそうしているのでしょう」
「客人として遇されてはおられますが、実情、留置されていると、申し上げて宜しいかと存じます。
 気休めにもならぬかも知れませぬが、御母上リィスリ様にはわが友ルイ・グレダンが
 ご婦人に従う騎士の務めとしてレイズンに同行し、お傍にお仕えいたしております」
「ふうん」
腑に落ちぬ様子でユスタスは首を傾げた。何気なく訊いた。
「それで。兄さんは?」
モルジダン侯は、若者の沈着冷静ぶりに、内心でいたく感心した。
母と姉の現状を知って衝撃を受けたであろうに、ユスタスは大仰に騒がず、モルジダンの言葉を
腹に落とすようにしてひとまずは現状の把握に努めようとし、思いがけない凶報にも、
びくりとも動かなかったからである。
ユスタスとしては、実のところ、慌てふためきようもなかった。
若者の胸に去来したのは、疑問符だらけの、そして背筋が凍るような、どす黒い不安であった。
(母さんがルイさんと一緒に。一体なんで。そしてリリティス姉さんがミケラン卿の許に。最悪)
モルジダン侯は慎重に最後の報をゆっくりと告げた。
御兄上シュディリス様はユスキュダルの巫女の行方に関与する参考人として、
ミケラン・レイズン卿に追われておられたことはご存知か。
しかし、コスモス領内にお入りあられた巫女は、道中、兄上様でなく、
別の騎士を伴っておられたことが判明しております。
従って、御兄上シュディリス・フラワン様の安否は未だ不明、忽然と消えたままです。



「続く]



back next top


Copyright(c) 2007 Yukino Shiozaki all rights reserved.