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[ビスカリアの星]■五.



雪に顔をつけると--------。
真白い雪の上に、中庭に出た女は片頬を埋めて、目を閉じた。
噴水の上の薄い氷片は、夕暮れの明るさを秘めやかに映し、
それぞれが色の違う魚の鱗のように冷たく水面に漂っていた。
降り続く雪の中で、庭園の低木に身を屈めた女は少しだけ、倖せそうだった。
雪に顔をつけると、何もかも忘れそう。
嫌なことも苦しいことも、かつての恋人がつけた深い創痕のある、この顔のことも。
------取り戻せない人生のことも、
屋敷の外に流れていく時のことも、
当たり前のように誰もが持っている四季の起伏ある生活が、わたくしにはもう二度と、
巡っては来ないことも。
葉の上に積もった雪に、女はそっと傷のある側を押し付けた。
火照るように熱かった絶望の記憶がこうしていると、鎮まるようです。
このまま雪の清浄と同化することが叶うのならばどんなに楽なことでしょう。
夕方に降る雪は、と女は雪に手を差し伸べた。
白くはなく、いろんな色をしていますね。
暗い色、青い色、灰色。それとも薔薇色、茜色。
金色に染まって、まるで、冬の太陽が削れていくようです。
そんな女を、シュディリスは背中を抱いてやるしか出来なかった。
粉雪が静かに降る薄明の中で、その心を硬く凍らせていく女のことを、
僅かばかり、温めてやるしか出来なかった。
誰も怨みはしないようにとわたくしは自分に言い聞かせています。女は語った。
そしてそれは永遠に続くのね、
繰り返し、誰も怨まない代わりに、自分自身を呪うしかないのですね、このまま、
あと何回、暗い朝と明るい夜を見送って過ごすことでしょう。
それでも、わたくしは自ら命を絶とうとは思いません。
シュディリスの腕の中で、女のその強い言葉は浮かぶ端から、
大気の中に白く零れて消えていった。
自ら命を断たないのは、そうしてしまったら、
今度こそあの人を破滅させてしまうから。
この空のつづきの何処かに今もいらっしゃるあの御方の為に、そうしないのです。

貴女は醜くなどない、とシュディリスは云った。
お逢いした時にすぐに分かりました。
顔の周りを覆うそのヴェールの向こうに、貴女の心が見えたのです。
誰よりも、誰よりも、愛しています。

女はいつも、シュディスの言葉など聴いてはいないようだった。
慰めも、慰撫の行いも、男たちがそれをすればするほど、
男たちの加えるものの中で女の心は何処かへ彷徨い、虚ろになっていくようだった。
シュディリスに背中を抱かれたまま、女は指先で、冬花の上に溶けていく雪に触れていた。
愕きました。
わたくしに逢いに来る殿方は、今まで一人残らず、顔面を断ち割られた女の姿を
見物に来るだけでした。
そして云うのです。
「恋人が、あのように顔の痛んだ女でなくて、本当に良かった」と。
父上も云うのです。
「家名に泥を塗ったお前に相応しい、当然の贖罪だ」と。
ここに一人、不幸のうちに生涯を終える女がいて、
通りすがりの人々は「せめてあの女よりはまだマシだ」と、安堵を得るのですね。
それでは少しはわたくしも、と雪の上に言葉を紡ぐ女の声音はいつも優しかった。
このような化物となっても、少しは、人様の幸福にお役に立てていると、
歓ぶべきなのでしょうか。
(そんなふうに考えてはいけない)
(では、どのように考えれば良いのでしょう。
 この魂に、静謐が欲しいと願うことだけが、
 今のわたくしの身を支えてくれるのに)
この庭から、あの夜、出て行ったの。
細い指先で、雪の降り続く庭の果ての塀を女は差した。
今は切り倒されてしまってもうありませんが、あのあたりに、大樹があった。
わたくしは二階の屋根から樹に移り、枝を伝って塀壁の上に辿り着きました。
パトロベリさまは下で待っていて、塀を乗り越えたわたくしを、抱きとめて下さったわ。
二人で逃げたの。
窒息しそうだった、いつも、妾腹として生まれて育った、愛のない家の中で。
庶腹パトロベリさまにお逢いした時、わたくしならば、この御方を理解して、
守って差し上げることが出来るのではないかと思いました。
わたくしを信じて。
わたくしは当時ほんの少女でしたけれど、
わたくしからあの方に想いを打ち明けました。
ほら、貴方はとても性根の優しい、誰よりも清廉な人だわ。
思っていたとおりだわ。
貴方の心がわたくしには分かるの。
贈り物なんかいらない、手紙もいらない、ただ傍にいて下さればいいのです。
苦しみも哀しみも、もう、半分こ。

女の話は雪片のように静かに続いた。
何であんなことをしてしまったのかしら。
どうして、わたくし達は引き裂かれてしまったのかしら。
追手の中には唯一、昔からわたくしに優しくしてくれた従兄が混じっていました。
激しく剣を交わすパトロベリさまと、従兄の間に割って入ったわたくしは、
パトロベリさまに斬られました。
絶叫を上げたわたくしの向こうに、
痛みと流れる血のぬるみの先に、あの御方が見えたわ。
雪の夜でした。
人間が味わってはならない苦しみがこの世にあるとしたら、きっとあの夜、
崩れていくわたくしを、雪の上に散ったあの血を、その凝固を見つめていた、
あの御方の顔に浮かんでいたものだと、今も思います。

雪は春になれば消えていくのに、
わたくしのこの傷は、
生きている限り、永遠に消えない。

それでも何とか耐えることが出来そうです。女は胸を押さえて呟いた。
冬空の色を華麗に映しはしても、決して染まらない氷の薄片のように、
女のその諦念と透徹は、どこかしら、厳しすぎた。
シュディリスは雪の中から女を起こし、胸に深く抱いた。
もうそのようにご自分を責めてはいけない。
その男は卑怯者、貴女の身の上に降りかかったものを、払うことすらせずに逃げたのです。
わたしならば、貴女を再び何としても此処から連れ出して、
生涯を春の光で包んで差し上げるだろう。
そうするつもりです。
(どうか、共に)。
しかしどれほど抱いても、女の白い身体のどこにも、何の希望も表れはしなかった。
潰れた左目から唇にかけて引きつりを深く残した顔面から、その唇から、
ようやく聞きだせる言葉は、いつも小さく、
おまじないか祈りの聖言のように、救いのない清らかさに浸されていて、
一心に傾けた心のままのそれを、
シュディリスは己の非力の宣告としていつも苦しく聴いていた。
それでも何とか耐えることが出来そうです、と
粉雪の中に細く佇み、女はいつものように云った。
だからもういらっしゃらないで。もうお帰り下さい。
もういいのです。
わたくしの代わりに誰かが、わたくしが失った分だけ、貴方が、シュディリス、
この世で倖せになってくれるのであれば。


貴方が何処かで倖せであって下さるのならば、パトロベリさま。
シュディリスには、そう、聞こえた。
 


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草をさわやかに靡かせていくそよ風は、
日光を浴びる小さな花の花弁を通りすがりに揺らし、
蜜を求める羽虫がその上に低く舞っていた。
はるか遠い北方山脈の万年雪の峰までくっきりと鮮やかな、快晴だった。
馬を進めるユスタスは隣を往く兄に、
これでもう何度目かになる不平を述べた。

「昨日、父上やルイさまから軽率は慎むようにと小言を頂戴したばかりなのに」

附いてくるならばそうしろとシュディリスが求めたので、
ユスタスは歳の近い下男の服を大急ぎで借りてきて、ついでに
鍔の広い帽子を深々と被って兄と同じように顔を隠していた。
今はその帽子を暑苦しげに片手に持って、ばたばたと煽ぎながら
「ねえ、シリス兄さん」、ユスタスはまた批難がましい声を上げた。
「変装までして。何処まで、あの奇妙な人たちの後を、隠れてつけるつもり」

シュディリスはそれには答えなかった。
仕方なくユスタスは少し先で見え隠れしている旅の一行へと、
文句代わりの舌を突き出した。
朝食を食べたらまたひと眠りしようかな、とのんびりしたことを思いながら
ユスタスが食堂から出て、
その前に昨日よく働いてくれた馬のご機嫌を窺いに厩舎へと回ると、
兄のシュディリスが愛馬に自分で鞍を置いていた。
シュディリスの傍には母リィスリが立っていた。
二人の雰囲気にユスタスは壁に身をつけて聞き耳を立てた。
「母上、感謝します」
馬に乗る前にシュディリスは母リィスリの手を取り、身を屈めてその甲に接吻をした。
リィスリはシュディリスに応えて、云った。
「いつか運命の方から貴方に近付いてくるのではないかと、思っていました」
どんなに逃げようとしても、
どれほど隠そうとしても、
運命は貴方の方へと、その流れを変えて、滔々と押し寄せてくる。
ついにその日が来たのでしょうか。
わたくしはあなたをお預かりしたその日より、その訪れを怖れていました。
覚悟はしておりましたが息の根も止まりそうな想いです。
以前にも申し上げたように、あなたのまことの名は、シュディリス・カルタラグン。
シュディリス・カルタラグン・ウィスタビア・タンジェリン。
聖騎士、カルタラグンとタンジェリン両家の血を受け継ぐ皇子です。
しかしそれでも、
あなたはわたくしの大切な子供に変わりありませんでした。
ですが、透き通る空の高みから狙い違わずまことの宝石を星が光らすように、
あなたに流れる青い血へと、さだめはこうして、それを知らせに来るのですね。
分かってはいても、いざその日をこうして迎えてみると、震えが止まらない。
シュディリス。

心配のあまり青ざめた様子でいる母に、「ご懸念なく」、シュディリスは微笑んだ。
馬を引き出しながら、請合った。
「わたしはフラワン家の長子として育ちました。
 貴女の息子だと今もそう思っております。
 わたしに顕れた騎士の力は、カルタラグンのものでもなければ、
 タンジェリンのものでもない。
 ましてやヒスイ皇子のものでも、顔も知らぬルビリア姫のものでもありません。
 母上、この身に流れる騎士の血は、わたしを育てて下さった貴女の、
 リィスリ・オーガススィより継がれたものだ。
 父上、カシニ・フラワンより薫陶を受けたものだ。
 このトレスピアノの地にご迷惑をかけるようなことはいたしません」
「いつか、貴方は」
手綱を握ったシュディリスをリィスリは追った。
「遠くへ行ってしまうのだろうと思っていました」
「昨夜リリティスもそのようなことを云っていました」

空の蒼さにシュディリスは目線を逸らした。
内心で彼は、どのような母でも子に対しては無分別に見せるこの女の愚かさとその可愛げに、
愛想尽かしの混じる憐れみをこの時、覚えていただろうか?
気丈なことと、その理知では近郊に知れた母でもこの調子なのだから、
まだ少女のリリティスがあのようなのは、仕方がないと理解してやるべきだろうか。
昨夜、無理強いで妹から奪った接吻は、決してリリティスへの愛でも、
取り乱した妹への戒めでもなかったが、さりとて、無でもなかったようだ。
リリティスのあの身体や唇を想い、そこに埋めて触れたくなる情を彼は昨晩のうちに、
(しばらく女を抱いていないからだ)
己の内であっさりと否定することが出来たが、
その反面、否定すればするほど、
闇の中に震えていたリリティスのことが想われて、
かつて雪の中で目を固く閉じていた想い出の女のことが想われて、
シュディリスは持て余すその懊悩を、せめて母への優しさへと変えて、その朝、云った。
「シュディリス」
「どうぞ、ご安心下さい。
 わたしは貴女の子、父上の息子、そしてリリティスとユスタスの兄として、
 これからも生きるつもりです」
「何処へ行くの、シリス兄さん!」、ユスタスは飛び出した。
「国境まで視察に。戻りは二日後」
「ユスタス」、母が後ろから懇願したのを受けて、
それまで立ち聞きしていたユスタスは厩舎から出てきた兄の馬の前に立ちふさがった。
「僕も行く。待ってて、今すぐに用意するから」
「勝手なことを」
「勝手は兄さんだ。どうせ父上には内緒なんだろ。 
 視察だなんて聞こえのいいことを云って、そうやって変装なんかして、
 お忍びで遊びに行くつもりなんじゃないか」
違う、と分かっていてユスタスはわざと恍けて頑強に言い募った。僕も行く。
兄はもしかしたらしばらく戻らないつもりなのではないかと、直感がそう告げていた。
昨日のこともまだ整理がつかないうちに秘密裏に屋敷を離れるなど、兄らしからぬ。
今しがたの母との会話といい、何か、余程の大事が発生したに違いない。
「とにかく一緒に行く」
「静かにしてくれ。気づかれたくない」
「ほーら、やっぱり隠密行だ。だったら僕も行く」
「ユスタスを連れて行きなさい、シュディリス」
二人は振り返った。
リィスリは強い口調で言い渡した。
連れて行きなさい、二人とも剣を持って。
「母上」
「ゆきなさい」
やがてユスタスとシュディリスが、曙の晴れ間に出て行くのを、
リィスリは、厩舎の暗がりの前にその編み上げた淡い金髪を冠のように輝かせて立ち、
いつまでもひっそりと見送っていた。


土地に詳しい者しか知らぬ道を選んだ。
大回りするかたちで馬を飛ばして追いついた後は、
女輿を中に据えてゆるゆると進む旅の一行を常に視界に捉えるかたちで、
木立に隠れながら、彼らの足並みに合わせて、フラワン家の兄弟は馬を進めた。
「変装までして、この道の方面に所用ある者を装ってまでして」
水浴びをしたらさぞや気持ちが良さそうな午後の小川を恨めしげに眺めながら、
「あの人たちをただ単に尾行する行程と分かっていたら、
 附いて来なかったのに」
帽子の中に捕まえた蝶を覗き込みながら、ユスタスはぼやいた。
「リリティス姉さん」
「え」
愕いてシュディリスは振り返った。
ユスタスは蝶を逃がした。
「僕らの後を追いかけてきたわけじゃないよ。姉さん、ルイ・グレダンのおじさんの
 許にお嫁に行けばいいのに、と思ってさ」
何もルイ様じゃなくてもいいんだけど、誰か、包容力のある人の許にね。
僕たちきょうだいの中では姉さんが一番、弱いんだから。
「騎士の能力はリリティスも、ユスタスも大差ない」
「そうじゃなくてさ」
ユスタスは差し掛かった果樹から小粒の実をもぎ取って、皮も剥かずに口に入れた。
「騎士だから女だからというだけじゃなくて、何だかいつも極端から極端へ
 振り切れていて、見ていて危なっかしいよ、あの人」
そりゃ僕らも死命に生きる騎士だから、と
ユスタスは帽子を被りなおして強い日差しを除けた。
人に比べれば湧き立つ血の気は相当に多いのだろうけど、
姉さんみたいに、あんな風に、
きりきりに張り詰めて、そのくせどうかすると、ふつりと弱く切れたりはしないもの。
父上も母上も、最初は姉さんを騎士にはしないつもりだったそうだよ。
騎士になった女ほど、高貴なる悲惨に陥りやすいものはないからって。

「だから余計に責任を感じてるんだ、姉さんのことには」
「何でお前が、ユスタス」
「だって僕らが、シリス兄さんと僕が、子供の頃、
 リリティス姉さんを騎士遊びに引き込んだんじゃない。
 剣の代わりに枝を持ち、三人で野原を駆け回って騎士ごっこをしているうちに、
 オーガススィの血は姉さんの中に呼び覚まされて、目覚めちゃったんだから」

父カシニと母リィスリが案じたとおり、
もっとも高貴で悲惨なかたちとなって、それはリリティスの上に発露した。
通りかかった商人が、あまりにも乱暴に馬を鞭打つというので、
九歳のリリティスは泣きながら、商人を手にしたその枝でぶった。
少女がフラワン家の者と知らぬまま、怒った商人がリリティスの上に鞭を振り下ろすと、
リリティスは飛来したその鞭を片手で握って止めて、
何事かと近くの領民が駆けつけた時には、
逆上した商人の殴打によってリリティスは腕の骨を折られており、
その代わり商人の方はリリティスに、「枝で大腿部を刺されて」倒れていたのだ。

「これが僕らがやったことなら、それならそれでもいいよ」、ユスタスは肩をすくめた。
「いいとこ、正義感が強くて勇敢で、
 高潔なる負けじ魂を持った子供の武勇伝として、
 トレスピアノの津々浦々に歓迎された逸話となっただろうから。
 でもリリティス姉さんは女の子だよ。
 鞭から決して手を離さず、地面を引き回されても反撃に出るなんて、
 しかも、大の男の太ももに枝を突き刺しておいて、
 もう少しで殺してやれたのにと泣くなんて、
 それだけ聞けば、狂人の仕業にしか聞こえないよ」
「それが、お前とわたしのせいかどうかは知らないけれど」
弟が逃がした蝶が目の前に飛ぶのをかいくぐり、シュディリスは云った。
商人に鞭打たれて弱っていた老馬を父に頼んで買い取ってもらい、
値打ちのないその馬を、その最期まで面倒を見て看取った妹。
(リリティス、どこへ)
(お花を摘みに行く。埋葬されるあの馬の上にお花を置いてあげたいの)
(冬だ。野に花はないよ)
遅くなって戻って来たリリティスは、雪にまみれて泥だらけになっており、
傷ついた腕で、土の下に横たわる馬の上に、ヒイラギを乗せた。
ヒイラギは緑。
だからきっと野原の夢を見て眠れるわ。
もう大丈夫よ。
誰もお前をもう、鞭で打ったりはしないから。

確かにお前の云うとおり、とシュディリスは幼い頃のリリティスを想いながらユスタスに応えた。
「早いところ分別のあるしっかりした大人の男の許に、
 リリティスは嫁ぐのがいいかも知れない。
 リリティスはお前やわたしよりも----やさしいところがあるから」
「それ、致命的な欠点だよね」、ユスタスはため息をついた。
「そうかな。女性には誰でもそんなところがあるように思う」
母にもリリティスにも、
まだ見ぬ生母ルビリア・タンジェリンにも、他の女性にも。
愛する対象を自分の分身のように、気にかけて慈しみ、縛ろうとする。
まるで行き場のない情念の投影のように、相手の自由や倖せを願いながら、
相手を自分に繋いでおこうとする。
女の人生を、顔ごと斬り捨てて省みなかった男の平穏を願う女がいたように、
ちょうど、ルビリア・タンジェリンが今だしつこく、翡翠皇子の復讐に生きているように。
(十九年-------)
自分の歳と同じその年月、ルビリア、彼女は、死んだ皇子を恋うて生きてきたのだろうか。
本当にそのようなことが出来るのだろうか。
生み落とした亡き人の形見である赤子とすぐさま縁を切ってまでも、
それほどまでにルビリアは、翡翠皇子の復讐をその燃える心で誓ったのだろうか。
もしそれが果たせるのならば、それも確かに、高貴なる悲惨といえばいえる話だ。
(今も屋敷の奥深くで、自分を捨てた男のことを想っているあの人のように)
アニェス。
心痛を伴う懐かしいその名を、昨晩、シュディリスは懊悩のままに、
妹にぶつけた。幻の恋敵であったパトロベリの姿を知った昂ぶりのままにそうしてしまった。
自分らしからぬ昨夜の暴挙の理由は、きっとそのせいだ。
それだけのことだ。
いつも胸の中の一隅を支配している血の繋がらない妹。
そんなシュディリスの横顔をユスタスは窺った。
リリティス姉さんと、何かあったのだろうか。
こうしてシリス兄さんが僕だけを連れて二人きりで出てきたことを姉さんが知ったら、
また姉さんは傷つくだろう。
しかしユスタスは、それを口に出しはしなかった。
その代わりに、徒歩の者を含めてだらだらと、
しかし可能な限り人気の無い行程を選んでゆく、女輿を含める一行を
木漏れ日の向こうに遣る瀬無く、うんざりと眺め遣るにとどめた。
 

今朝、まだ日が昇り切らぬうちから、昨夜盗賊から辛くも逃れて
トレスピアノに招かれた謎の旅人たちは天幕を片付け始め、
重傷者と、昨日出た死者の埋葬、事後処理の任にあたる僅かな者だけを残して、
早々に立ち去る気配をみせた。彼らはそれでも律儀に、
礼金および、失った食料や馬、武具、医療品の代価として、
ウィスタチヤ版図の共通貨幣である金貨をフラワン家に支払おうとした。
領主カシニ・フラワンは正当な売買としてその幾分かは適正に受理したものの、
残りは受け取らず、
領地に残る数名のことは、傷が回復するまで客人として扱い、
恢復するまでは手厚く看ることを彼らに約束した。
「相互不干渉を条件にな。
 せめて国境まではと護衛を申し出たが、それも断られた」
引き換えにカシニは、怪我人を収容することにあてられた空屋敷の周囲に、こちら側の
自衛団を警護と監視を兼ねて、常駐させることを彼らに承諾させた。
正体不明の者を領内に留めるのだ、それくらいは当然の処置である、とカシニは説いた。
昨晩シュディリスが野営地へと送った騎士は結局そのまま朝まで屋敷には戻らなかったが、
浅からぬ傷を負ったその身体で、無理をおしてまでも一行の出立に随き従うことにしたようで、
負傷者を収容した有蓋馬車に乗り込む前に、見送るシュディリスに目礼を寄越し、
シュディリスが返礼すると、木陰に招いた。
騎士は悪びれもなくシュディリスに微笑んで、
「世話になった」
と、深く礼をした。
「お怪我の具合は」、シュディリスも昨夜のことには触れなかった。
「そうすぐには快癒せんが、それでもこれしきならば杖に縋って動けんこともない」
騎士は応えた。
「それでなくとも騎士の血は、そうではない人間よりも、強いのだ。
 ほら、君のその腕の傷も、ほとんど癒えている。
 君の昨日の活躍は詳しく聞いた。
 仲間の者達をずいぶんと助けてくれたそうだな、ありがとう。
 めざましい働きだったと聞いているが、それもそうだな、
 君のご母堂はオーガススィ主家のご出身、
 つまり君はいにしえにこの国を創った創生七騎士の血を受ける、
 「星の騎士」の一人なのだから」
騎士はシュディリスの両肩に手を置いた。
「感激だよ、星の騎士とこのように、親しく言葉を交わせるとは。
 年々、騎士のその純血は薄れ、数が少なくなっているというのに」
「母には」
「お逢いした。リィスリ・オーガススィ様といえば、その昔、
 まだカルタラグン家がウィスタチヤの施政を執っていた時代、
 その薫るような美貌で宮中に名の知れたお方だ。
 そのような方に、手づから、薬湯や縫合を施してもらえるとは思わなかった。
 寝台の横に置いていたわたしの剣を見るなりリィスリ様は、
 砥ぎに出そうとまでして下されたよ。恐縮してお断り申し上げたがね」
騎士は愛用の剣を片手ではじいて見せた。
別れの握手を求められるままに交わして、昨日あのようなことがあったので、
今度は平地の旧街道を選んで出発して行った一行を見送ったシュディリスは、
騎士の言葉を反芻し、すばやく屋敷へと取って返した。
母に聞いてみなければならない。
襲撃現場に落ちていた一行の剣は、素早く拾い上げられて、
一つも残されてはいなかった。
だが、救援を求めて山道でシュディリスとすれ違い、
先にトレスピアノに単身で入ってそこで昏倒し、母の看病を受けたあの男の剣を
もし母が見ていたのなら、そこには不審な一行の素性へと繋がる、
銘や家紋があったかも知れない。
それにあの男、まだ三十代半ばと見えたが、ウィスタの都での古い事柄に詳しい。
そして母リィスリは、シュディリスが問いかける前に、顔をこわばらせてこう告げたのだ。
旅の騎士の刀身には、星の紋が刻まれていました、と。
七星紋。
滅亡したカルタラグン家の紋章。

(碧色の波濤、雲海、竜を呼べ。
 焔を身の内に供えた風を呼べ!
 我が命尽きるとも、必ずや再興の鐘を鳴り響かせてみせよう)

非業の死を遂げたカルタラグン王朝のヒスイ皇子が、その死に際に
その復活を予言したという、竜の星。
二十年前に滅亡した騎士家の、その紋のある刀を持った者が、
女輿を抱えるあの一行の中にいる。
そして、そのカルタラグン家を滅ぼし、
ジュピタ皇家の御世を復興させた一の功労者である、レイズン騎士家ミケランの名。
(ミケラン・レイズンに裏切られました)
シュディリスはその青い眼を行く手に睨み据えた。
きらめく木漏れ日は何も応えない。
ウィスタチヤ帝国の心臓ウィスタは此処よりはるか。
樹の根元には、夜のうちに落ちて吹き寄せられた花びらが
日陰の中に重なり合い、露に湿って、微動だにもしなかった。 




[続く]




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