[ビスカリアの星]■五十.
帰り道、ユスタスは無言であった。
ロゼッタ、陣に帰ろう。
重ねて誘ったものの、ロゼッタはなおも承服せず、
ハイロウリーンとサザンカの両騎士が解放される時に彼らと一緒でなければ
フェララを動かないと頑張る。
「勝手にしろ」
乗ってきた馬に跨った。
ロゼッタとモルジダン侯がそれを見送った。
「明日にでも捕虜交換は成立しましょう。ご心配なく」
請合うモルジダン侯には、頷き返すにとどめて、ユスタスはロゼッタの姿をもう見返ることなく、
星空に馬を出し、フェララ陣を後にした。
ゼロージャがその馬を曳いた。
ハイロウリーンの陣営から伴う者を人選するにあたって、身許を暴露する以上、
頼れるとしたら、彼しかいなかったのである。
片手に角燈を持ち、ゼロージャが前に立ってユスタスの馬を引いた。
数刻前に通った同じ野の道を、彼らは二人きりでまた辿った。
ロゼッタを引き取れず、喧嘩までして、ユスタスの得た土産といえば、
モルジダン侯から聞かされたフラワン家にまつわる心配事が増えただけである。
未練たらしく振り返ることだけはどうにか堪えたものの、自分を見送るロゼッタは、
最初に逢った頃によく見た、白蝶貝の細工物のような、生真面目な、表情のない顔をしていた。
(分ってるさ。勝手なのは僕だ。ハイロウリーン騎士団の世話になっているくせに、
いざとなれば、フラワン家の名を持ち出さずにはいられないんだ)
ロゼッタが怒るのも当然だった。
主家サザンカに仕え、人の上に立つ者として自分を律して生きてきた彼女の眼には、
今宵ユスタスの取った行動は家名を嵩にきた、自分勝手極まりない、
言語道断の越権行為でしかなかったのであろう。
「せっかく捕虜になったのです、この際、
自分の前に膝をついて寵を得ようとする
フェララ騎士たちの群れを見たかったほどです」
売り言葉に買い言葉で、ロゼッタは云ったものである。
「生まれてこの方、騎士連中にもてたいとは思ったことのない私ですが、
そんな簡単な方法で騎士たちが思い通りになるのなら、そうしてもいい。
何の覚悟もなしに私がこの戦場に立っているとお思いであるなら、それは私への侮辱です。
男であろうと女であろうと、ひとたび剣を持ち、ひとたび人を殺めた限り、
いつかこの身にその報いを受けることは承知です、それを怖れて何が騎士か。
さもなくば何の為に、あの夜、私はユスタス様のお情けに縋ったのですか。何の為に」
ロゼッタの剣幕におされながら、ユスタスこそ訊き返したかった。
何の為なんだよ。お情けって何だよ。
じゃあ、あの夜のことは、何だったんだ。
ユスタスの天幕を訪れたロゼッタは何かを思いつめた顔をして、
その肌に触れるのも怖ろしい気がするほどに、その心身は張り詰めていた。
嬉しかったのは僕だけか。それとも、戦になる前に、いつかはこうなる可能性を見越して、
せめて最初の男は知り合いの方がいいってか。
君にとって僕はそんな認識でしかないのか、ロゼッタ、君は。
莫迦にするな。
(それなら、サザンカの騎士とそうなれば良かったんだ。イオウ家の女なら、
さぞかし有難がってくれるだろうさ)
まさか、云えるはすもない。
波立つユスタスの心中に合わせたかのように、夜風にさわさわと草が揺れた。
丘陵の黒々としたうねりの向こうに、コスモスの街の灯りが魚の鱗光のように、
ぼんやりと夜の底に見えていた。
追いかけても逃げていく、幻の街。
領内を侵犯して続々と各国からの軍隊が集結しているというのに、コスモスはいまだ、
何の動きも見せない。
不気味なその沈黙こそが、聖なる巫女を擁したコスモスの覚悟と、
皇帝陛下のお達しだけを待つ姿勢、そして帝国へ向けての篭城として受け取られ、
現段階ではどこの国も目立った接近はしておらない。
唯一、レイズンのみが、頻繁に使者を繰り出して、城主タイラン・コスモスとの
接触を図っているとのことであったが、その成果のほどは捗々しくないことのみが伝わるだけで、
れいによって隠蔽されたままである。
もしもここでレイズンが武力行使に出て、コスモス城下に侵攻し、
ユスキュダルの受け渡しをコスモスに要求するようなことがあれば、その時こそ、
帝国の主要騎士家はルビリア・タンジェリンの狙いどおり、レイズンに対して反旗を翻すことであろうが、
レイズンは賢くも踏みとどまり、ミケラン・レイズンがユスキュダルの巫女を害しようとした疑惑を
努めてこれ以上刺激することなく、あくまでも事態の収拾役を決め込んで、
他国同様コスモス郊外に静かである。
ヴィスタチヤ皇帝に対してミケラン・レイズン卿の排斥を強く求めたい騎士家と、
巫女を立てて己の正当性を帝国全土に証し立てたいミケラン・レイズン卿とが、あやうい均衡で
コスモスに集っているこの状況下において、
ミケラン卿の実弟、コスモス領主タイラン・レイズンは、再三に渡る兄の要請には答えず、
また、いまだに領民からの絶大なる支持を受けている旧コスモス領主クローバ・コスモス辺境伯が、
密かにコスモスに潜伏しているとの報もある。
ロゼッタの云うとおり、一個人の色恋沙汰などに血迷っている場合ではないのかも知れない。
それなら、何故。
(騎士にならなければ、ユスタス様とお逢いすることもなかった)
あの夜のことを想い出して、ユスタスは手綱を握り締めた。
自分のどこを探しても、ロゼッタが好きだという、熱に曇るような気持ちしかなかった。
せっかく、ようやく、あの夜あそこまでいったんだ。
普通はそれまでよりも仲良くならないか?
「ユスタス様」
丘の上にハイロウリーンの陣屋が見えて来たところで、ゼロージャは馬上のユスタスを仰いだ。
不機嫌真っ只中のユスタスではあったが、関係のない人間に八つ当たりする彼ではない。
「あ、ごめん」
ややこしい物思いから覚めて、慌ててゼロージャの方を向いた。
「附き合わせてしまった。すっかり遅くなって。
陣を抜け出したことで何か問題があれば、僕が責任を取ります、ゼロージャさん」
ゼロージャは馬上の若者を頼もしく仰いだ。
今日の戦いぶりを間近で拝見いたしまして、感じ入りました。
もう、ユスタス君とは気楽に呼べぬほどに、ユスタス様は本当にお強く、立派におなりです。
「そうかなあ」
「確かですとも」
騎士ゼロージャはタンジェリンの係累の末端に属し、ナナセラに身を寄せていたこともある。
そしてタンジェリン殲滅戦の後、残党狩りの手を逃れてユスキュダルを目指した。
彼はその波乱と不遇の半生の諦観を浮かべた顔をして、
「御兄上様シュディリス様にも、いつか、再会したいものです」
夜風にそっと兄の名をのせた。
「カルタラグンの滅亡に合わせて、タンジェリンも凋落し、
国から国へと放浪していたあの頃、立ち寄ったトレスピアノで
御きょうだいに剣術を教えて差し上げたのが、百年も前のことのように想われます。
楽園とはよく云ったもの、トレスピアノこそは御父君カシニ様の優れた治世が行き届いた、
薫風の国でございました。
そこでお育ちになられた、シュディリス様、リリティス様、ユスタス様をお見かけした時には、
このような見るからに貴人の方々に果たして剣が揮えるのかと危ぶまれたものでしたが、
今ならば分かります。シュディリス様は、わたしを相手に、手加減をしておられたのだと」
「………」
「妹御、弟御の前で、教師を打ち負かしてはならないとお考えであったのでしょう。
よく自分を抑えられて、基本を守られておられた。それでも、
純血の騎士とは、かくも他と違うものかと、わたしを驚嘆させるには充分でした」
「………」
モルジダン侯にも、その兄の行方は分からなかった。
フェララ陣屋でモルジダン侯から聞かされた話によれば、どうやら姉のリリティスは
放浪の後にフェララに辿り着き、そこでルイを頼った。
ミケラン卿はそれを察知し、巫女を攫った兄の行方に関する重要参考人としてリリティスを
レイズンに連行、一方、リリティスの無事を知らせるルイ・グレダンの手紙を頼りに、
リリティスの後を追って母リィスリが入れ違いにルイの屋敷を訪れ、
上意を受けたルイ・グレダンがナナセラに赴くところへ母もルイに同行、そのナナセラにおいて、
今度はミケラン卿ではなく、卿を出し抜かんとするレイズン本家が母とルイを拉致しさった、
ということらしい。
「ルイがナナセラに出向した頃には、わしはコスモスに向けて軍を率いて立っておりました故、
そのあたりの詳細は不明であります。傍で見聞きしていたルイの従騎士に尋ねても、
要領を得なんだ」
天幕の中で、隻眼モルジダン侯はユスタスにありのままを述べた。
ルイはレイズンから手紙を寄越し、リィスリ・フラワン・オーガススィ様は御身分に相応しく、
申し分のない待遇で丁重に扱われておられること、そしてルイは、
ご婦人に仕える騎士の役目を優先して、突然ナナセラから出奔した勝手を詫びると共に、
手短に、ただ一つのことだけをモルジダン侯に頼んだのだという。
「フラワン家の騎士を見かけたら、彼らを保護し、速やかに故郷に送り届けてくれるようにと」
侯の隻眼がユスタスにひたと当てられた。
「さて、しかしながらユスタス殿、むろん御身はおとなしくトレスピアノに帰るつもりなど
毛頭ないのでありましょうな」
「無論です」
ユスタスは素っ気無く頷いた。つまらなさそうに話の打ち切りを態度で示し、
「話はそれだけですか。では、これにて。
僕は世話になっているハイロウリーン陣に帰らせてもらうとします」
ユスタスは立ち上がった。
(さあ、僕を引き止めるつもりならば、
もっと母さんや姉さんや兄さんに関する情報を、僕に渡すんだ)
ユスタスは賭けに出たのである。
そんな若者に、モルジダン侯は、眼を眇めた。
「ここに留まられる。それは戦争見物ではなく、一人のサザンカの女騎士のためですかな」
「無礼でしょう、侯。貴方には関係のないことです」
なるほど、とモルジダン侯は頷いた。
なるほど、関係はございません。
しかし、それならば尚のこと、ユスタス殿、軽率な振る舞いは厳に慎まれたい。
「フラワン家の若君に意中の女騎士がいることを、その存在を、
このように自ら外部に表沙汰にして何となさる。
それを知った者の中に、御身を危うくする餌として女騎士を利用しようとする者がいたら、何となさる。
彼女を大事に想うのであれば、決して戦場において、その情を見せてはなりませぬ。
ロゼッタ殿を想うそのお気持ち、ご自身には油断と隙を生み、
敵においては悪心を呼び込むだけであること、他でもない女騎士の身の上には、
災いとしかならぬ場合もあることを、ユスタス・フラワン殿、この際とくと心得えて帰られよ」
侯の言葉はいちいちご尤もであるだけに、胸に突き刺さった。
それだけでなく、
「トレスピアノにお帰りではないというのであれば、
それではここにおいでなのはフラワン家の若君ではなく、ハイロウリーンの方とお見受け致す。
御用が済み次第、即刻、我が陣を立ち退かれたい」
モルジダン侯こそ、急にその態度を変えて実際家に立ち戻り、
「他に語ることもござらん。そしてもしも、御身がその本分に立ち戻られ、
お国にお戻りになるご決意が固まった時には、フェララは歓んで、
自軍の中から護衛を差出し、尊き御身を無事にかの地へとお送りいたすでありましょう」
さっさと会談を纏め上げ、ユスタスを追い出してしまったのである。
古狸に遣り込められたユスタスであるが、目的はロゼッタを連れ帰ることであるから、
何とかその場は我慢が出来た。しかしその当のロゼッタは、
「帰ろう」、促したユスタスの腕を再度払いのけ、
あろうことか、モルジダン侯の背中に隠れてしまったのである。
これでは、何のためにフェララに乗り込んだのか分からない。
「ユスタス様が、ロゼッタ嬢をそのように大切に想われておられたとは」
浮かない顔のユスタスを、ゼロージャは慰めた。
イオウ家には主家サザンカをはじめ、有力騎士家とも婚姻を重ねたお家柄、そのせいか、
ロゼッタ嬢にも騎士の血は濃く出たようで。
エクテマス殿と、ソニー、そしてわたしとでサザンカにオニキス皇子をお迎えにあがった時、
オニキス皇子を警護するサザンカ隊を率いるのが、あのようなうら若き少女と知った我らは、
最初は不安に思ったものでした。
しかし、その心配と怪訝はすぐに、同行していたエクテマス殿が晴らされた。
エクテマス殿は苦笑して我らに云ったものです。
『下方の家からごく稀に高位騎士が生まれることがあるが、
イオウ家の彼女も、どうやら混血の血の奇跡のようだ。
あの黒髪、きっとレイズン家の血が先祖のどこかで混じっているのでしょう。
落ち着いた、いい騎士だ。特に眼がいい』
『お手合わせをしたいお気持ちになられるのではないですか、エクテマス殿』、
とわたしが訊きますと、
『わたしは稽古には女騎士を使いません。戦いとなれば別ですが』
「-----そのようにお答えであられた。かえって彼の自信の深さのほどが知れました。
エクテマス殿こそは、ハイロウリーンの血を受けた超騎士であられる。
ルビリア姫の下にいつまでも平騎士として仕えているのは、何とも惜しいことです」
ソニーもしきりにそう云っておりました。
「ところで、ユスタス様。そのソニーのことです」
「ソニーさんが何か」
「彼の前身を、お伝えしておこうと思います」
ユスタスは馬を停めた。何やらあらたまった話のようである。
ゼロージャは角燈の灯を岩の上に置いて、切り出した。
ユスタス様、我らはユスキュダルから巫女の随身として、帝国の野に降りて参りました。
そして、ジュシュベンダとトレスピアノの国境沿いの山岳の道で賊に襲われ、
フラワン領主殿のご厚意により、思いがけずもトレスピアノに立ち寄ることとなりました。
ユスタスは頷いた。それがそもそもフラワン家きょうだいが巻き込まれた、事の発端である。
「途中、わたしとソニーは一行と袂を分ち、騙まし討ちをしたミケラン卿に対抗すべく、
襲撃に遭った巫女の保護を求めて、信のおける国を探しに出立致しました」
「知っています」
謎の輿の一行の跡を追っていたユスタスとシュディリスは、野宿した朝、
ユスキュダルの幕屋から二騎馬が何処かへと出て行くのを、
離れた処から見ていたのである。あれが、ソニーと、ゼロージャであった。
「我らが巫女の救済を求めて頼った先は、
ユスタス様も既にご承知のように、ハイロウリーンです。
ソニーが、熱心にそれを勧めました。彼は、あらゆる国の諜報機関に精通しており、
ハイロウリーンへの一連の仲介も、ソニーが取りました」
ソニーとゼロージャの意を受けて、急遽ハイロウリーンからルビリア隊が南下中、
両者が合流する寸前に、ユスタスがレイズンに追われていた彼らと先に邂逅した。
後は知ってのとおりである。
ゼロージャは、ユスタスに衝撃的なことを打ち明けた。
「彼はまったくそういうことに長けていた。
それも道理です。ソニーは、ミケラン・レイズン卿の手先だったのですから」
「えっ」、鞍の上でユスタスは飛び上がった。
「本当です」
ゼロージャは頷いた。
ソニーの名も偽名。出身はレイズン、彼は家族を人質にとられ、ミケラン卿の為に働き、
そしてミケラン・レイズン卿がユスキュダルに送り込んだ間諜なのだという。
「それゆえ、ユスタス様が我らをお助け下されたあの時、追っていたレイズンは
はぐれ騎士ではなく、ソニーという裏切り者を追っていたのです」
今宵モルジダン侯より愕く話をたくさん聞かされた直後では、さほど愕かなかったが、
それでもユスタスは愕いた。
それを知っていて、彼を放置し、生かしておいたとは。
「ユスキュダルでは、誰もが承知でした」
夜風に揺れる角燈の灯に照らされたゼロージャの顔は、やわらかな苦味を浮かべていた。
他でもない、ソニーの方から白状したのです。
「ユスキュダルの聖地とは、敗残の騎士、はぐれ騎士、罪人の騎士、
それら帝国を追われた騎士たちが、浮世から離れて静かに棲息する雪山の里です。
ミケランの意を受けて、長旅の末、そこに辿り着いたソニーを迎えたのは、
巫女その人でありました」
ユスキュダルの谷底には、永久凍土が残る。
地底の河のように氷が細く伸びたその底に、崖壁に反射した西陽があたると、
そのうつろいは氷の中を飛ぶ鳥影のように見える。
ユスタスはそれを知らない。
風が吹いた。丘の上に天幕を構えるハイロウリーン陣を見上げた。
陣屋は微かな灯りを残して寝静まっていた。
そこは戦う兵士たちの宿、自分の居るべきではない場所だ。
僕は、ユスキュダルの巫女の姿を見ていない。
兄さんが巫女を奪い去るところを、離れた場所から見ていただけだ。
僕は兄さんが、巫女を連れてミケラン卿の眼の届かぬ処に逃げおおせたのだと思っていた。
それなのに、コスモス領には兄さんの姿がないという。
「巫女は、ソニーに何と云ったの」
「何も」
巫女はソニーを迎えて、やさしくその前にあった。
山岳の影が長く伸びていた。
輪郭だけを残した太陽が、大きな輪となって、夕暮れの空に浮かんでいた。
密偵としてユスキュダルに送り込まれたソニーは、
崩れ落ちるようにして巫女の前に膝をついた。
「それだけで、ミケラン卿から離心を?」
「ユスタス様も、巫女と御逢いになれば分かります」
目に見えぬものに祈るようにして、ゼロージャやそれを請合った。
「あの御方こそは、まことの聖女。
連綿と続く我ら騎士の血を、その苦しみを、一身に宿しておられます。
ソニーはもはや巫女の御為にしか働いておりません。
疑う者こそ、それを思い知ることになるでありましょう。ソニーが、そうであったように」
(------そうかな)
ゼロージャの言を疑うのではないが、悪い予感に、ユスタスの気はかえって沈んだ。
むしろ、ミケラン卿はまさにその禁忌を暴きたく、
巫女の御幸を願ったのではないかとユスタスには思われるのである。
対レイズンに結集しつつある騎士家への対抗手段とは口実で、卿の目的は、
誰にも果たせぬことを己が手で果たしてみたいという、原始的な慾望なのではないだろうか。
避けるよりは挑むことを選ぶ人間、カルタラグン王朝を転覆さしめた時のように、
何かの轟音を世に鳴り響かせてみたいと希求が、
そして既存の価値観をひっくり返してみたいというひねくれた戯れが、
そうすることでたまさか人の上に立つ満足を味わう傲慢が、
それらの感情が、ミケランをして、巫女を野に引きずり出したのではないだろうか。
天罰を怖れよと云われたら、彼はあえてその天罰を超過した罪をわざと犯し、
果たしてどのような運命の綾が自分に被さってくるものか、それを愉しみに待っているような、
そして彼のそれは、それを知るためにはいかなる犠牲をも、
おのれ自身すら投げ捨てても構わぬほどの、止みがたい衝動として、
この世のどこかでじっと潜伏していたのではなかろうか。
私財をはたいて整備した都、帝国中に張り巡らせた彼の諜報網、それらは全て、
あらゆるものを己が足許におきたいという彼の強い上昇志向の結果に過ぎず、飽くことなく、
古いものを憎み、古い概念を憎み、次の倒す目標を探して、
そしてその終局として、彼はユスキュダルの巫女に目を留めたのではないだろうか。
もちろんその一方では、現人神のような存在を確かめてみたいという彼の学究心や、
蒙昧なものを怖れることをよしとしない、彼の理知もあるだろう。
それでも、ミケラン卿。
僕はまだ貴方に逢ったことはないけれど、一つだけは、確かなことがある。
ユスタスは手を交差させて、馬の手綱をふたたび握った。ゼロージャが馬を引いた。
人も世も、そうそう、貴方の思い通りには動いたりはしない。
貴方も結局は、動かせる範疇のものだけを従えているに過ぎない。
金であれ人望であれ、
その分限を超えたことは、なに一つたりとも為し得てはおらず、為し得ようはずもない。
そうしたかのような気になることは出来ても、本当はそうじゃない。
カルタラグンも、タンジェリンも、なるほど、貴方が一人で倒したものだ。
しかしそれらとて、いつかは滅びるさだめの有限のものでしかなく、
貴方は永遠のものをそうでないものに変えてみせたのではない。
人が踏むを怖れることをあえて踏む、そんな貴方も、僕と同じく、うたかたの泡の有限の命にしか過ぎず、
この世の悩みや哀しみを等分に与えられた幼子に過ぎず、瞬きほどの時間の中で
少々得意がっているに過ぎない、人の好奇の眼に晒されているだけの、哀れな見世物だ。
僕は貴方とは違い、とても単純で、そして愚直な人間なんだ。
だから僕はあなたのように、世の中を手の内に握ったつもりでいるような、そんな錯覚は持たない。
僕の前にはやっていいことと、悪いことの区別があるだけだ。
でも、もしかしたら、それは意のままに振舞うことよりも、
とても難しいことなのかも知れないよ、ミケラン卿。
父カシニ・フラワンに育てられた僕の心がはっきりとそれを告げる。
領民のささやかなる幸福や、日々の糧や、祭りの愉しみを、それらの取るに足りぬものを
何よりも重んじ、彼らの生活を地道に護り続けて来た家に生まれた僕の眼には、
驕りと慢心からいたずらに人の幸福を切断することほどの、大罪はないのだと。
だから、こうしてコスモスに押し寄せた軍隊を見ていると、いったい何の為のこの干渉なのかと、
僕は不愉快で仕方がない。
これ以上、コスモスから何を毟り取る気なのかと、その慾深さが不可解で仕方がない。
(叔父上クローバ・コスモスは、この事態を、いったいどんな想いで眺めているだろう)
タンジェリン殲滅戦と、その余波としての、先代領主夫人のご自害、辺境伯の失踪。
禍根を断つ為タンジェリンの血を根絶やしにしようとするミケラン卿に、領民を挙げて抵抗しようとした
領主を思いとどまらせたのは、フィリア・コスモス・タンジェリンの自害だった。
夫君の見ている前で胸を突いてみせた奥方は、まだしばらく、息があった。
そのとどめは、クローバ・コスモスが自らほどこしたと聞く。
妻の手に手を重ねて、クローバは妻を楽にしてやった。
そしてレイズンに妻の遺体と城を明け渡し、自らは放浪の身におちたのだ。
苦々しいものをユスタスはかみ締めた。
コスモスに集結しつつある、主力騎士家。
此度のことも、諸国はさぞや大義名分を掲げ、聞こえのいい、自国に都合のいい理由を流布しては、
コスモスを貶め、自国が得することばかりに腐心するであろう。その彼らの誰ひとりとして、
コスモス側の意などしん酌もせず、気にも留めないであろう。
どうして誰もそのことに気がつかない。
零落したと嘲笑われているクローバ辺境伯こそは、領民の命と国土を護り抜いた、
見事なる領主であることを。
この一連の激変の中にあって、コスモスは一度たりとも、どこの国にも、刃を向けていないことを。
(ハイロウリーンを、抜けようか)
夜風が沁みた。
誰も止めるまい。
そして、コスモスへ行こうか。巫女の許に。
少しでも、こんな僕でも、孤立している彼らの何かの役に立つのなら。
(-------やっぱり出来ないな)
もしそうすれば、それは、もしかしたら、
ハイロウリーンやサザンカと敵対することになるかも知れぬということだ。
いまの僕にはもっと大切なものがある。我侭かも知れないけれど。
二日後は、よく晴れた。
捕虜交換はあっさりと成立し、ハイロウリーン兵と共に、サザンカ兵も朝のうちに全員返還された。
風が吹き、青波のように草がそよいでいた。
帰還者の中には、ロゼッタの無事な姿もあった。
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ヴィスタチヤの都ヴィスタは、にわか雨に見舞われた。
軽やかな音を立てて降る雨は、石造りの街をしばし湿らす、恵みの霧に似た。
織物を買い求めたエステラは、引き止められるままに、店内でお茶を飲んでいた。
たてに長い店内には小さいながらも庭があり、屋根に囲まれた四角い空から降る小雨が
庭木をやわらかく打っていた。
雨が上がるのを待って店を出たところで、エステラは近づいてくる男たちと顔をつき合わせた。
貝殻で擦って表面に光沢を出した高価な織物は、空の虹を映していた。
三人の男がエステラを取り囲んだところで、正面に位置する男が丁重に申し出た。
「エステラ嬢。手荒なことはしません。このまま我らと同行願いたい」
行き交う人々が巻き込まれては大変とばかりに足早に離れていった。
エステラは、最初、まともに応じなかった。
石の舗装で覆われた街路には、ところどころに小さな水溜りが残っており、
ミケラン・レイズン卿の愛人エステラは男たちの靴がその水を跳ね上げたとでもいうように、
少し身を引き、不快を伝えて、片眉を上げた。
エステラは動じなかった。
荷を持った従僕がエステラを護るように踏み出しかけたが、「おやめ」、エステラは従僕を止めた。
取り囲んでいる三人の男たちを見据えると、雨上がりの涼しさの中、嫣然と微笑んだ。
編み上げた髪に挿したかんざしがきらりと輝いた。
「わたくしの名をご存知ということは、わたくしが何者なのかも承知の上で、そう仰るのね」
「左様です」
「あなた方は、どちらのご家中の方々でしょう」
「此処では、お答え出来ません」
「どちら様の御遣いですの」
「お答え出来かねます」
「それでは、このままわたくしをお通し下さい。そのほうが互いの為ではないかしら」
悠然とエステラは頭に手を遣り、かんざしをちょっと直した。
耳飾りが揺れた。
歳は若くとも、並みの人間の三倍は人生経験を積んだ女である。
平生世話になっている男が男なだけに、さしてうろたえることもなかった。
それにしても、このようなまだ日も高い往来で、大胆な。
エステラは微笑みと共に云い渡した。
「お人違いとも思われませんが、わたくし、
帝国治安維持を皇帝陛下よりお預かりする方の、その友人ですわ。
御用があるなら、どうぞ、わたくしを訪ねて屋敷にいらして。
このような不躾な申し出に従う謂れはありません」
「エステラ嬢、貴女は従わなくてはなりません。これは、上意です」
男たちは引き下がらなかった。
上意、と聴いて、エステラは少し考えた。
この男達の慇懃な態度。
近くには目立たぬながらも造りのいい輿まで用意され、担ぎ手の奴隷たちが膝をついて待っており、
その奴隷の容貌や体格、揃いのお仕着せも、下が使うものではない。
屋根つきの輿の四方は垂れ布が下がっていて、中に誰か居るようであった。
「上意とは、何ごとでしょう」
まずエステラの胸に去来したのは、ミケランに何かあったのではないかということだった。
一夜にして失脚するようなことはあるまいが、陰の皇帝とも云われる男の囲う愛人に、「上意」を
振りかざしても赦される相手といえば、極めて限られる。
それでなくとも政敵の多いミケランのこと、ここで誘拐されることが、
彼にとっての不利にならぬとも限らない。
それゆえ、さすがにエステラは不安を覚えたが、顔には出さず、
男たちの返事がないのに「そう」と頷いてみせた。
どのみち、あの人は愛人ごときを人質に取られたとしても、それでその信念を曲げるような男ではないわ。
ひとつ、試してみるわ。
「それなら、何かよほどの理由があってのことでしょう。分かりました。
ただし、家の者が騒がぬように、いつ帰していただけるのかだけはお聞きしたいと思います。
今晩、それとも明日」
「エステラ嬢」
進み出た男は無表情に頭を下げた。
わたしどもには分かりかねます。
「--------それは、どういうことかしら」
エステラは道行く人々の関心をこちらに引きつけるように大仰に胸を抑えた。
逃げ出す素振りを見せたら、彼らがどう反応するのかを確かめたかったのである。
従僕に目配せを送り、すぐに助けを呼んでくるようにと、その口を動かした。
男たちは、素早く走り出そうとした従僕の行く手を塞いだ上で、あくまでも丁重に女を取り成した。
「お屋敷から必要なものがあれば、すぐに届けさせます。
ご不自由はおかけ致しません、さる御方がエステラ様を客人として遇したいと仰せです」
「何処へ連れて行こうと仰るのでしょうか。これは随分とおかしな話に思われますわ。
用件だけでもお聞かせ下さい」
「もういいよ。わたしが話す」
若々しい声がした。
輿の垂れ幕が少し上がって、そこから貴人が呼びかけていた。
「エステラ。その者たちの無礼は赦して下さい。そしてどうぞ、こちらに。目立たぬように」
聞き覚えあるその声に、エステラははっとなった。
「エステラ様」
おそるおそる従僕が伺うのへ、「荷を持ってお帰り。心配いりません」、打って変わってエステラは命じた。
「しかしエステラ様。ミケラン様には何と」
「お前が見たものをそのままお伝えすればいいわ。それと、
その布はミケラン様の別荘にお送りして。頼まれていたものだと云えば分ってもらえます」
エステラと貴人を乗せた輿は、エステラが乗り込むと同時に四方に目隠しを垂らすと、すぐに
担ぎ手に持ち上げられて、ゆっくりと動き出した。
輿の中は広く、ゆったりと座れる椅子が設えられていた。
ジュピタの街は閲兵式や凱旋行進でもない限り、幾つかの主幹道路を除けば、
平生は馬の乗り入れを禁じてある通りが多い。
その為に上流階級の移動はもっぱら担ぎ輿が使われた。
夏場は紗を、冬場は厚布を垂らすか壁で囲むかして、外からの眼を遮断することもあれば、
季節の変わり目には貴女たちが流行の衣裳を見せびらかしながら華やかに通ることもあり、
それらは都の風物詩となっていた。
「エステラ。久しぶりです」
「ソラムダリヤ皇太子殿下」
向かい合ったエステラは緊張して応えた。
そこに居たのはまさしく、次代皇帝ソラムダリヤであった。
二人が顔を合わすのは、ミケラン卿がユスキュダルの巫女に害を加えたという噂の真偽を
確かめにソラムダリヤがミケランの私有地を訪ねて以来である。
生憎とミケランは不在で、代わりに応対したのが、このエステラであった。
あの時には、対面の別邸に軟禁されていたリリティスのみならず、
客人の皇太子までもが姿を消し、後でエステラはミケランを前に言い訳に苦慮したものであった。
ソラムダリヤはまず、そのことから詫びた。あの時は貴女にも迷惑をかけました。
エステラはあえて、くだんのその件については根掘り葉掘り問い訊ねることは止めた。
雑踏の中を奴隷に担がせた輿は進んだ。
膝の上でエステラは所在なく扇をいじり、月並みなことを口にした。
「皇太子さま」
「なに」
「このような街中に、護衛もお連れでなく、無用心で御座いますわ。
皇家に叛逆する者など帝国にはおりませんでしょうが、それでも属州からの移民も多く
都には流れ込んでおります。お命を狙われでもしましたら」
「ありがとう。でも、こうした散歩は少年の時分から慣れています」
輿を担いでいる男たちは、近衛兵の精鋭であり、屈強な護衛なのだということだった。
エステラ、突然のことで愕かれたと思います、皇太子はエステラを安心させる言葉を口にした。
「しかし貴女に悪いようにはしないことは、お約束します」
片や帝国皇太子、片や、その臣下の愛人という立場でありながら、双方、若い男女である。
急速に仲間意識のようなものが芽生え、「皇太子様、これは何ごとでしょうか」
直裁にエステラは訊ねてみた。
先ほどからそれが気になって仕方がなく、エステラは少なくともそれだけは、はっきりさせたかった。
「もしや、ミケラン様に何か」
しばしばおしのびで街に出ているというのは本当のようで、ソラムダリヤは輿の側に従えている
側近に命じて、下々の屋台から気楽にものを買った。
通りで買わせた飲み物の一つをエステラに渡し、素焼きの壷に入ったそれを自らも飲み干しながら、
皇太子は「確かに、ミケラン卿に関わることではあります」、口重く云いかけたが、
「後で話します」
それきりにしてしまった。
エステラは引き下がらなかった。しばらくして、覆い布を透かして外の様子を窺い、
「わたくし、何だか怖い。この輿はどちらへ向かっていますの」
声を震わせ、しどけなく必殺の流し目をくれた。
媚態に負けたソラムダリヤは仕方なく困り顔で苦笑して、「皇居です」、打ち明けた。
「皇居へ」
「皇居の一隅へ。正確には、内親王の宮の近くです。そこがいちばん、貴女の身には安全でしょうから。
しばらく、そこで過ごしていただくことになるでしょう」
「何のためにですの」
すっかり愕いてエステラは問い返した。
何故、皇居などに収容されなければならないのであろうか。
「エステラ、酔いましたか。顔色が悪い」
「あ、いいえ。思いがけない話をお聞きして、動揺しただけですわ」、エステラは扇で胸をあおいだ。
女の香水が薫った。
「エステラ、貴女も噂には聞き及んでおられると思う。巫女が聖地よりお出ましであることを」
「ユスキュダルの巫女さま」
ソラムダリヤは左右の垂れ布を少し上げさせた。
輿の中に風がとおった。
「エステラ」
「はい」
「わたしは、貴女を友人と思っています。ミケラン卿にはいろいろと問題がありますが、
それでも人品を見誤ることだけはない男です。彼が選んだ女人を見てもそれは分かります」
「お世辞を」
「その彼の親しい友人である貴女を信用して訊きます」
「はい」
「リリティス・フラワンは元気にしていましたか」
「はい?」
「レイズン家には及びませんが、わたしも、少々、特務機関を持っています。
先日まで、貴女がミケラン卿の別荘で、リリティス・フラワンと一緒であったことの調べはついています。
リリティスは一度別荘に軟禁されていたところを、脱走、この脱走は実はわたしが手伝ったのですが、
その後ふたたび湖の城に戻されていた。
滞在中、貴女とリリティスは姉妹のように仲良く連れ立っていたと聞いています」
「ええ。まあ」
リリティス・フラワン。
リリティスというのは、あの、ミケランが目をかけている美しい娘のことである。
そのような名であったとは知らなかった。フラワン。
「ええっ」
声を放って、エステラは手にした扇を握り締めた。
帝国広しといえども、フラワンという神聖な家名は唯一無二、ただ一つしかあり得ず、
これからもないであろう。
フラワン家といえば、ジュピタ皇家よりも歴史古く、そして初代皇妃オフィリア・フラワンを生んだ家である。
ソラムダリヤは細密画を取り出して、エステラに見せた。
極秘に肖像画を模写させて、携帯用に作らせたそれは、
皇太子が肌身離さず、持ち歩いているものであった。
「リリティス・フラワン。トレスピアノの姫君です」
フラワン荘園らしき緑の野を背景に、手に一輪の花を持った、物憂げなる美しい娘。
遠くを見つめる眼をして、やさしく閉ざされた唇。
確かに、それはエステラの知る、リリティスであった。
「知りませんでしたか?」
「存じませんでした」
「少しの間、輿を停めましょうか」
「いいえ、お気遣いなく。……とても愕いただけですわ」
あの娘がフラワン家の姫。
それで、と頷けることばかりが脳裡にあれこれ浮かんだものの、エステラにとって
トレスピアノの姫君といえば、仙境の仙女にもひとしき、伝説の彼方の人物である。
どこかの高貴な家の子女であろうとの推測はついてはいたものの、まさかその姫君が
朝な夕なに剣を振り回して鍛錬に励んでいるとは、想像外のことであった。
(柄はそんなに握り締めません)
手が荒れないのかとの女人らしい問いに対して、リリティスは手袋を外し、
そのやわらかな繊手を見せながら、剣の扱いについて講釈をしたものである。
(同格の騎士と闘えば、女の私が負けます。私は相手の動きに軽く呼応し、
押されれば引き、引けば押し、ゆるやかにまとわりつく布ように剣を走らせます。
決して真っ向から力で圧すことはありません。竜神の血を分けた騎士の眼には、
並みの騎士の動きは、止まっているようにしか見えません。
勝つのは容易で-------そして、難しいのです)
何が難しいのかと重ねて訊くと、リリティスは淋しそうな笑顔を見せた。
(あまりにも相手が弱いので、つい、一刀のもとに斬り捨てたくなってしまう。
そうしてしまえばとても楽でしょう。その代わり、私には驕りが生まれ、
その傲慢は私を駄目にしてしまう。誰かと渡り合うためには、私はいつも、互角で、
真剣でなければならないのです。つまり、勝っても、負けてもならないのです)
リリティスの言葉はエステラにはまるで意味不明であった。
しかし、ミケランからもらったという剣を見えぬものに向かって繰り出しているリリティスを見ていると、
その姿とその周囲だけが冷たい水の中に在るようで、見ているうちに総毛立った。
いつか、その厳しさに負けて、この娘は水底に沈む硝子片のように、
宿命の中に溺れてしまうのではないかしら。
(そういえば、フラワン家の方々はオーガススィ家から嫁がれたリィスリ様の血を引いて、
星の騎士の称号を有していると聞いたことがあるわ。では、あの子、本当に)
そうこうしているうちに、皇太子を乗せた輿は目立たぬ通用門から皇子宮へ入り、
幾つもの門をくぐり、幾つもの角をまがった。
踏み台を使い、輿から降りたエステラの前には、皇居の素晴らしい偉観が広がっていた。
「まあ、なんて見事な」
遠くから望んではいたものの、目の当たりにするヴィスタチヤ皇居は、
贅沢には馴れた女の眼にも、それは目覚しいものであった。
白を基調とした建造物はすべて統一された品と瀟洒を保ち、幾つもの中庭を繋ぐ通路には
風が吹きぬけ、森を模した庭園は果てが見えぬほどに広く、そこには珍しい鳥や獣が放し飼いにされ、
人口のせせらぎが澄み切った音色で緑の中に涼しげに流れている。
庭から反対側を振り仰げば、空に伸びた尖塔が光かがやき、
幾つも並んだそれはまるで地上から雲に向かって伸びた、氷の柱を思わせた。
「ここはわたしの住いです。敷地の片隅にしか過ぎません。皇帝と皇后は、もっと奥に」
「まあ……」
口許を扇で隠し、エステラは感嘆のため息をついた。
これが全てソラムダリヤ一人の為の皇子宮にしか過ぎぬとは。
「エステラ」
耳元で不意にソラムダリヤから名を呼ばれて、エステラは飛び上がり、慌てて笑顔をつくった。
「皇太子さま、皇子宮にお招きにあずかり、光栄ですわ。素晴らしい御座所ですわ。
典雅も豪華も行過ぎるとかえって厭味で窮屈ですけれど、こちらはそのようなこともなく、
草花などもそのままに咲いていて、心が落ち着くような気持ちがいたしますわ」
ソラムダリヤは、「そう?」、と今はじめて見るもののように、自分の家を見廻した。
それから美女エステラがじっと見つめていることに気がついて、横を向いて咳払いをした。
(まあ、この方、本当にウブでいらせられるのね)
しみじみとエステラは好ましく想った。
(とびきりの才知もなければたいして男前でもないけれど、そこがいいじゃないの。
悪心のない、いい方だわね。
ミケラン様のような複雑怪奇な、そのくせ女に甘える殿方よりも、
長い眼でみれば、女にはこちらの方がいいのよ。
この皇子となら、リリティスも倖せになれるわ)
何ともいえぬ笑みを浮かべて女の眼がじっと自分をはかっている、その意味するところなどには
まるで気がつかぬ、ソラムダリヤはそのような青年であった。
「エステラ。貴女をここにお招きしたのは、貴女の身を護るためです」
「そのようなお話でしたわね。わたくしごときに、一体どのような危険があるのでしょう」
「これは極秘の話です、そのつもりで聞いて下さい」
ソラムダリヤの真面目な顔には、憂慮と、そして焦りが見て取れた。
「ミケラン卿の友人である貴女に対して、このようなことは申し上げ難いのだが」
「ミケラン様のことならばどのようなお話であっても、愕きはしませんわ。どうぞ」
「レイズンの本家が卿の排斥を求めて、皇帝に働きかけています。
ご存知のように、レイズン本家は分家のミケラン卿に枢機機関を奪われたかたちとなっており、
それに対して本家では、若手を中心とした反分家、反ミケラン卿運動が活性化、
旧世代と異なりミケランに敗北したことのない彼らは、意気軒昂に、政権奪回を求めて
ミケラン卿をすっかり敵視しているようです」
「分家出のミケラン様への、本家の不満。今までにも幾度となくあったことですわ」
「そうです。しかし此度は、各有力騎士家の後押しを受けての、強い動きとなっています」
「他国の騎士家もミケラン様の敵に回ったということでしょうか」
「ミケラン卿にはユスキュダルの巫女を害しようとした疑いが持たれています。
それは帝国を構成する主力騎士家にとって、その疑惑があるだけでも、断じて許されぬことです」
「それは、大ごとですわね」
とはいっても、騎士ではないエステラには、それが帝国を構成する騎士家にとってどれほどの
不敬であり、騎士の心を怒りでおののかす大激震であるのか、いまひとつ理解が及ばなかった。
ただし、ユスキュダルの巫女に危害を加えるなどという大それたことは、
カルタラグン王朝転覆に匹敵する、いやそれ以上の一大暴挙であり、
そしてミケラン・レイズンならばそれをやりかねないということを、この女は疑わなかった。
本家の不穏な動き。
各騎士家に根深く残る、ミケランへの積年の嫉みと、その才覚への危険視。
それを抑える為にミケランがユスキュダルから巫女を招いたとして、それの一体何が悪いのか。
エステラの知る限り、ミケランが行った事業の規模は、帝国に繁栄と安定をもたらしこそすれ、
いたずらな浪費はしてこなかったはずだ。
カルタラグンとタンジェリンを根こそぎ地上から消し去って退けたのは確かに遣り過ぎとも思われたが、
旧態なるものへの彼の憎しみは、決して帝国を後退させるものではなかったはずだ。
ミケラン卿の若い愛人はその手にしっかりと扇を握り締めて、帝国皇太子の顔から眼を逸らさなかった。
何の為に、皇居に呼び込まれたのであろう。
ここにいるこの青年、次代の皇帝は、ミケランの敵か、味方か。
女は持ちえる限りの、もっとも己が美しく見えるであろう、最高の笑みを浮かべた。
少女の頃から浮世の泥に浸かって酸いも甘いも噛み締めてきたこの女にとっては、
世間知らずの皇太子なぞ、たとえ敵対することになったとしても、怖るるに足りぬ。
エステラは微笑んだ。
「それで、皇太子殿下」
悩ましくエステラはソラムダリヤを見上げた。
「それで。ミケラン様は皇帝ゾウゲネス陛下のご不興をかったのでしょうか。
お裁きはもう決まったので御座いますか。さしずめ、私領と財産の没収といったところでしょうか。
それで、ミケラン様のもちもののうちであるわたくしも、ミケラン様と共にその罪に連坐して
お仕置きを受けよと、そう仰るのでしょうか。そのようなお話でしょうか」
「いや、エステラ、そうではなく」
「もしそうであっても、わたくし、甘んじて受けますわ。
ミケラン様にはたいそう良くして戴きましたもの。それはそれは身寄りのないわたくしには
過ぎるほどの過分な倖せを、女にとって最高の倖せを、あの御方からは戴きましたもの。
喜んであの御方と同じ罪に下ろうと思いますわ。
蟄居ですか、流罪ですか。それとも死罪でしょうか。さ、仰って」
「貴女が罪に問われる。とんでもない」
「だって、それでは、わたくし何のことやらさっぱり分かりませんわ」
皇太子殿下、エステラはじりじりとソラムダリヤに迫った。
「はやく、教えて下さいませ。一体何事が起きたのですか」
「困ったな」
「殿下を困らせるつもりなど御座いません。でも、わたくし買い物の途中で
突然このようなことになりまして、女の身としては当然ながら、ひどく戸惑っております。
それに、買い物の中には他ならぬ、リリティス・フラワン姫から頼まれたものもありましたの。
ミケラン様が、何か、いけないことになりましたの?
それで、その関係者を、帝国皇太子さま御みずから保護、または収監しなければならぬ
非常事態となった。それならば、湖の別荘にいるお姫さまも、危ないのではありませんか」
「そのとおりです」
女に気圧されつつも、ソラムダリヤは顔を引き締めた。
「貴女を信じて話しますが、レイズンの本家はミケラン卿へ対抗する手立てとして、
巫女のみならず、フラワン家を利用しようとしています。
わたしはレイズン本家よりも、わたしの師であったミケラン卿を信じています。
彼にとって具合の悪いことや、不利になることはしたくない。
だからこそ、リリティスはまだミケラン卿の手許にあるほうがいいと判断しました。
何故ならば、本家は、フラワン家のもう一方のご婦人を手中にしているからです。
彼らはフラワン家の者の口からも、ミケランの非道を唱えさせ、
皇帝と天下を納得させようとしているのです」
「んまあ。そのような」
心底エステラは愕いて眼を丸くした。
フラワン家といえば、不可領を統べる方々、皇帝に次ぐ高位、そして代々、
一切の中央治政には関わらず、たとえ皇妃を出そうとも枢機機関に名を連ねることのない、
清廉といえばこれ以上の清廉もない、その高潔をもって崇められている名門ではないか。
そのフラワン家の方々がこのような汚い陰謀に利用されるようなことがあっていいのだろうか。
「リリティスがミケラン卿の許にあることは、わたしとしては正直、心中穏やかではありませんが、
彼には彼の考えがあるのだと思う。
このようなことは考えたくないが、本家についたフラワン家のご婦人の動きを封じるために、
リリティスを人質にとっているとも考えられます。そしてわたしは、心情としてミケランの味方をしてやりたい。
それゆえ、リリティスを今すぐに解放しろとは求められぬ状況です」
「フラワン家のもう一方のご婦人と云いますと」
「リリティスの母。オーガススィ家出身の、リィスリ・フラワン・オーガススィ」
「トレスピアノ領主夫人の」
「そう」
「その方が、レイズン本家に協力していると」
「そうです」
「御息女リリティス姫を、ミケラン様から取り戻すためですかしら」
「その通りです」
「続く]
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