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[ビスカリアの星]■五十一.


ソラムダリヤは、エステラを誘って皇子宮の庭に出た。
 「わたしに仕える者の中に内通者がいるとは思いたくないのですが、
  内密な話は屋外で歩きながらする方がいい。
  昔から、そう云います。故事に倣いましょう」
皇子宮の庭は、涼しい木陰をつくる緑にあふれ、噴水の水が日差しの中に飛沫をとばしていた。
青磁色の珍しい小鳥が枝から枝へと渡るのを、エステラは愉しげに見遣った。
薄影とそよ風に抱かれるような、やさしい心地のする、よい庭で、
可憐な野花があちこちに、彩りの泉のように咲いている。
古代遺跡を模したとおぼしき(エステラはミケランからよくその分野を教授されたので見分けがついた)、
円柱が、わざと草と蔦をからませたまま空にのびており、その上をゆっくりと雲が流れた。
そこには、洗練された自然といったものがあった。
エステラはうっとりとそれを皇太子に告げた。
 「二十年前の改新の折、ほとんどのものが焼失したと聴きましたが、
  その痕跡はどこにもありませんのね」
 「焼け落ちたのは建物です。皇子宮は最も火の手が盛んでした。
  こちらの庭は幸運にして火勢を免れたので、往時の面影をほぼそのままにとどめています。
  折々に剪定させる他は、わたしも手を加えていません」
 「本当に、見事なお庭ですわ。田舎の森の中にいるよう」
エステラは気をつけて、それ以上、二十年前の出来事には触れぬようにした。
何となればそれこそが、若き日のミケラン・レイズンが起こした一大改新劇であり、
まさにこの場所で、ヒスイ・ヒストリア・カルタラグンはミケランの凶刃の下に斃れたのだから。
 (ヒスイ)
 (わたしはお前が好きだよ。騎士の心持つ娘だから)
昔、この庭で語らっていた一人の皇子と、赤錆色の髪をした少女のことを、彼らは知らない。
光の中のその二人を樹の影から暗い眼で見ていた、日陰の皇子のことも。
皇居に居場所のなかった、その日陰の皇子が、今になって騎士家に擁立され、
カルタラグンの再興を求め、その姿を現したことを、エステラは知らない。

 (焔の勢いが激しく、皇子宮の焼け跡からは、翡翠皇子の遺体も見つからなかったというわ。
  翡翠皇子。カルタラグン王朝の第四代皇帝となるはずの御方であられた。
  ミケラン様にお訊ねしたことはないけれど、その方が皇帝におつき遊ばしたら、
  カルタラグン王朝は頂点の時代を迎えたかも知れないと、そう云われていたそうだわ。
  それではここは、そのまま翡翠皇子の墓陵なのね。
  むなしく命を絶たれた方の、その御魂がいまも眠られている、みささぎなのね)

光を透かしてそよぐ緑は、何も応えなかった。
飛び石を渡ったところにある池の中央の瀟洒なあずまやに、二人は落ち着いた。
清んだ池の水の上を渡って、涼しい風が吹いていた。
飛び石を渡る時、ソラムダリヤは「ドレスの裾が濡れないように気をつけて下さい」、そう云って、
手を伸ばしてくれた。
まさか皇居に拉致されるとは思わず、その日は下男を連れて買い物に出かけただけなので、
衣裳持ちのエステラにしては、あまりいい服を着ていなかった。
少なくとも、皇太子を前にするには、全体に宝石が足りなかった。
 (どういうわけか、そういうものなのよね)
巻き髪につけた宝石つきの髪飾りを、目立つように片手で少しなおして、
エステラは自分を慰めた。
要らぬ心配をせずとも、たとえこのまま舞踏会の広間に現れたとしても、
エステラの美しさは飾り立てたどのようなご婦人にも勝ったであろう。
しかし、容姿に自負のある女の女心というものは、自己審美眼の許す限り、
何かと自分に不備を見つけては、いつまでも気が晴れないものである。
ミケランならば女が気にしていることを承知で、
「女の身なりは男の責任。つまり、わたしが悪いのだから気にすることはない。
 それにしても、随分とさっぱりした装いで街に出たのだな」
そのくらいのことは厭味なく、さらりと云ってのけたであろう。
もちろん、ソラムダリヤその手のことには朴念仁であったから、
寵臣の愛人である若い女の、造りもののような繊細な美貌しか眼に入ってはいなかった。
 「お話をお伺いいたしますわ、皇太子殿下」
 「ああ、そうでした」
呑気な声を出して居ずまいをただすと、ソラムダリヤは顔つきをあらためた。
 「難しい話はご婦人にするものではありませんが、あなたにも縁のあることなので」
 「ええ結構ですわ。わたくし、こう見えても、
  ミケラン様から、いろいろ込み入ったことも教えていただいておりますの」
嘘である。
ミケラン・レイズンはその胸襟をほとんど女には見せない男であり、
たとえ何かを語り聞かせたとしても、それはほとんど、騙りであった。
最もミケランが気を赦していたであろう、故アリアケ・レイズンにしろ、
夫の秘密主義、ミケランにとっての思い遣りであるそれらのごまかしを、淋しく想いこそすれ、
その心の色を推し量ることはできても、彼の怜悧な頭脳にはその一端にすら届くことを赦されず、
また、その精神に脈動しているものを、そのままのかたちで目の当たりにすることは
まったくと云っていいほどなかった。
 (アリアケ!やったぞ、カルタラグン王朝を倒した!)
若い顔を歓喜に輝かせながら、返り血に染まった姿で妻の許に帰って来た、あの日の例外を除いて。

 「何でしたかしら。レイズン本家内部に、ミケラン様の排斥を求める
  若手の一派があるというお話でしたわ」
 「そうです。ミケラン卿に対抗する彼らは選りにもよって、
  ミケラン卿によって謀殺されたカルタラグ王朝最期の皇子の、そのみしるしを、
  一党の象徴として標榜しています。便宜上、その名で彼らを呼びましょう。
  彼らはこのヴィスタチヤ帝国を、旧来の姿に、
  つまり七大聖騎士家が皇帝の補佐にあたる議会政治体制に戻すことを理想に掲げ、
  ミケランを皇帝を傀儡にせしめた専制者と決め付けています。
  レイズン本家に母胎を得た、対レイズン勢力、レイズン家の若手集団の彼らは、自らのことを、
  『ヴィスタル=ヒスイ』、と名乗っています」

風が吹いた。
エステラは、黙って、広げた扇を口許にあてた。
笑いを堪えたのである。
どうやら、本家に芽生えた対ミケラン勢力とやらは、お若いだけの、愚蒙の衆らしい。
ヴィスタルヒスイ、この名称からは彼らの、幼稚な、勘の悪い、意気込みというにはあまりにも稚拙な、
つまるところミケランが常日頃もっとも軽蔑している、野卑な意趣返し根性しか、見出せぬのであった。
この下らぬ名の許に、どのような高尚な思想を語れようか。
若気の至りなど問題にもならぬ、これは根本的に頼みにならぬ連中であると、
彼らは自らの頭の程度をわざわざこうして教えてくれたのであろうか。
いったい本家の彼らは、これをもって、ミケラン卿に一矢報いたつもりででもいるのか。
だとしたら、何という、気の毒な若造どもであろう。
死者への敬いもなければ、自らを厳格に律することもあたわず、せめてもの美しい理想もなく、
厭味と冒涜をこめて選んだこの名の出来栄えに惚れ惚れと満足し、
似たり寄ったりの下卑びた顔を突き合わせては、舌なめずりを繰り返し、
やれ密談だ改新だ革命だ、我々の手で時代を造るのだこれぞ勇気だ実行だ何だと、
まだ見ぬ栄達を夢みて、集団心理ですっかり浮かれあがり、はしゃいで回っているのであろうか。
地を這うものは鳥にはなれぬが、この世には鷲がいることすら知らぬとは。
ほほほほほ、と、もう少しでエステラは笑い出すところであった。
そして、うんざりしてきた。
扇の紐飾りを指先で弄りながら、もっと大きな指環をつけてきたら良かったと想った。
ミケラン様は、連中のことをご存知かしら。とうに、ご存知でしょうね。
おそらくは口にするのも穢れとばかりに、頭から彼らを黙殺しておられるのだわ。
先方の身分年齢を問わず、あらゆる卑を忌み嫌う方だもの、きっと失笑でもって、
脇に片付けられたのだわ。
ヴィスタル=ヒスイ。
何という、品のない名であろう。
どのような下劣な発想があれば、このような名義を編み出して、自ら名乗ろうという気になるのであろう。
ここにお住いであられたかの君を、その遺影を、頭から踏みつけて憚らぬ、何という不敬と低級。
彼らに少しでも他人を敬う心があれば、このような名はつけまいし、
ましてや少しでも、彼らにミケラン卿の高度を理解する頭が具わっているのであれば、
見下げられるばかりのこのような名に安手の勝利を覚え、集団でそれに酔い痴れることはないであろう。
何よりも、この名からは何ひとつ、打てば響くような思想や思念を感じない。
高邁とはほど遠く、しかして卑しさとは最も近い。
このような名を選んだ時点で、はるかに相手には及ぶまい、そのことにすら気がつかぬとは。
エステラはつくづく呆気にとられ、遣る瀬無い心地がするほどであった。
 (愚か者ほど、愚かのままに、口うるさい)
皇太子ソラムダリヤはそれについてはどう思っているのか、
けしからぬとも莫迦らしいとも、何とも言及はしなかった。だが、
きらめく緑の彼方に昔の幻を見るような眼をしていた。
皇太子も、エステラも、同じことを想った。
ヴィスタル=ヒスイ党とやらよ。
下郎ども、あなたたちは知るまい。
ヒストリア・ヒスイ・カルタラグン・ヴィスタビアこそは、ミケラン・レイズンの前に立ちふさがった、
最初にして最大の敵であった。
同じように若く、しかし皇太子と臣下の立場に分かれ、
都の学問所に上がった少年ミケランの心に飛び込んできた、燦然と輝く、太陽の人であった。
華の人として、彼はそこにいた。
生まれながらのまことの王として、祝福の春の中に立つ、この世の中心であった。
誰もが魅了されたその優美な微笑みでもって、ミケランの心をも縛り付けた、圧倒であった。
さあ、と皇子はミケランの前にその両腕を広げていた。
わたしはこんなにも無力であり、このカルタラグン王朝が、束の間の露の命であることを
誰よりもよく知っている。生々流転を知る、君と同じようにね。
わたしはその中で遊んでいよう。
滅びの影の中で、踊っておこう。
出来る限り愉しそうに、人々が、そのことを忘れるように、わたしはこの時の花々の中に埋もれる。
君が破壊と創造を目指すのであれば、わたしはその有為転変をも、眠りに任せて忘れておこう。
おいで、ミケラン・レイズン。
君はきっと、わたしのことを忘れない。
きっとね。
エステラはため息をついて、弄っていた扇を膝の上におろした。
ミケランの口からはまったく聴かされたことのない過去の人が、
二十年の月日を経た今になって、こうしてまたミケランの眼前に現れてくるとは、
それもミケランの今までの所業のつけといえば云えるだろうか。
それにしても、悲運の皇子の名を嬉しげに利用しようとは、何という慮外な者共か。
実力では敵わぬというので、あてつけがましく死者の威光にすがろうという、
その性根のいじましさはどうだろう。
恐れ知らずなのではない。もはや、恥知らずなのである。
権力闘争に手段の清濁はなかろうが、死者の名誉を穢して恥じぬ、
そのような低級低俗、低劣低位の輩が、
ミケラン卿に対抗する新勢力であると天下にほざくとは、その醜悪も極めつけであり、
さように愚かなる者共が、貴人中の貴婦人リィスリ・フラワン・オーガススィ、
トレスピアノ領主夫人を担ぎ上げて、いったい何を仕出かそうというのであろう。
ぱちりと、扇を閉じた。
リィスリ・フラワン・オーガススィ。
彼らと手を組んだのだろうか。
過ぎ去った時代、かの佳人は、翡翠皇子の恋人であったと聞くが、
それほどまでに、恋人を殺した男を、お怨みなのであろうか。
(-----怨むも何もないわ。母堂さまが反ミケラン側に与するのは、当然だわ)
慌ててエステラは思い直した。
どのような事情と経緯があったのかは知らないが、
その娘御が、狡猾なことではこの上なしのミケランの虜囚となっているのである。
愛娘をかつての恋人を惨殺した憎い男に奪われたご母堂のお気持ちたるや、察して余りあろう。
 「リリティスは------」
 「彼女がどうか、エステラ」
愛しい人の名をエステラが口にするのを得て、ソラムダリヤは身を乗り出した。
 「リリティスは、何も知らないのでしょうかしら。
  その、ヴィスタルヒスイ党とやらのことも、現在のミケラン様のお立場も、
  ミケラン様がユスキュダルの巫女さまを害しようとしたとかいう、その不届きな風評も」
 「彼女は何も云っていませんでしたか」
 「ええ」
エステラは首を捻った。
訊いても無駄だと思い、ミケランにも訊かなかったが、
どうして、フラワン家の姫君ともあろう御方があのように極秘裏に匿われていたのであろうか。
現在の愛人に、愛人候補(最終的にエステラはそう解釈していた)の若い娘の面倒をみさせようとは、
いかにもあの男らしい余裕であったが、エステラと二人で湖の別荘で留守番をしている間、
リリティスは深い憂愁に沈み、エステラがミケランについて褒めそやし、悪い男ではないと保証し、
どのように気を引き立ててみせようとも、聴いているような、聴いていないような、
そうかと思えば、その美しい灰色の双眸に張り詰めたものを湛えて、
じっと遠くを眺めているといった具合で、
湖の別荘に滞在している間、実のところエステラはリリティスが自殺でもしやしないかと、
相当にはらはらしどおしだったのである。
あの娘がリリティス・フラワンであるならば、あのように世知に疎くかつ気品あるのも当然である。
だが、そのリリティス姫が、何故にあのような閉塞を強いられておられたか。
一度は脱走に成功したものの、また戻されて、その後はおとなしかったのは何故なのか。
 (あの子、何かの病気なのかしら)
いまいちまだ全てが曖昧なままのエステラと違い、この件に関しては、
ソラムダリヤの方が正解に近づいていた。
どうやらフラワン家の一家は、領主を除いてすべてトレスピアノを留守にしているようだが、
もとより、初代皇妃となったオフィリア姫とてジュピタの若者の跡を追って無断で出奔したのである、
あの家の者は気高い使命の為には鳥のように躊躇わずに飛び立つ、そういう家なのであり、
一般的な尺度で考えぬほうがよい、とここは割り切るとして、
さて、それぞれ彼らは今いずこにおられるのか、それを知ることが、全ての鍵であろう。
領主夫人リィスリは、フェララのルイ・グレダンと共に、レイズン本家へ。
仔細は未確認ながらも、ユスタス・フラワンは、どうやらハイロウリーン騎士団と共にコスモス郊外に。
リリティス・フラワンは、ミケラン・レイズン卿の許に。
これだけでは、どうも、それぞれがばらばらに動いているとしか思えぬのだが、
ここに強烈に吸引力のある、そして不明のままの一名が残っている。
エステラと顔を見合わせた。
エステラは急いでかぶりを振った。

 「生憎と。まったく存じ上げませんわ。
  リリティスがフラワン家のお姫さまであることも今日知ったくらいですもの。
  シュディリス・フラワン様については、その名を知るばかりですわ」

云い難そうに、エステラは付け加えた。
それに、フラワン家の方々については、カルタラグンとタンジェリンの名と同じく、
ミケラン様の前では禁句でしたわ。当代の奥方が、かつては翡翠皇子の恋人でいらしたのですから、
そのせいでカルタラグンを放逐したジュピタ皇家とフラワン家は疎遠になったと
云われているほどですもの。
何と申しましても、わざとらしくそのあたりの名を持ち出して、
ミケラン様を試そう、その反応をみてやろうとするような、浅慮で下種な連中を、
あの御方は他人の馬で勝負する輩と呼んで、軽蔑しますもの。
そうですか、と甚く残念そうに、ソラムダリヤは手を組んだ。
どうやらソラムダリヤが街中でエステラを引き取ったのも、
彼女の口からシュディリス・フラワンについての消息を何か聴けぬかと期待したからのようだった。
諜報網をジュシュベンダにまで派遣してあれこれ調査したところ、総合的にはシュディリス・フラワンは、
本件に巻き込まれただけであり、もとより何かの首謀者でもなければ、
「ヴィスタル=ヒスイ」との関連性も皆無なようであるが、
以前として姿を現さないのが、不気味といえば不気味である。
情報収集といっても、皇太子のそれはミケラン卿のそれには遠く及ばず、しかも
ミケラン卿は巧みにもそれを混乱させた上で投げ出していたので、
いつまで経ってもソラムダリヤの許には正確な報は届かなかった。
 「それでも、エステラ、貴女はこちらに居たほうがいいでしょう。
  よからぬことに利用されぬまでも、
  こういう際には、調子づいて、すぐさま直接的な過激行動に走る者が出てくるものです。
  人は煽動に乗りやすい。偏見によってその拳を人の頭に振り下ろすことを、何とも思わない。
  いかなる大義名分があれ、ジュピタの都は治安を乱す者を取り締まりますが、
  ミケラン卿への逆恨みが、友人である貴女の上に不慮の災害として降りかからぬとも限りませんから」
 「ありがたいお気遣いですわ。
  あの、でも、わたくし何も持たずに出て来ましたから、
  一度家に戻って、支度をして参りますわ」
 「わたしの客人として、内親王の宮に部屋を用意させました。
  実はほかにも、滞在中の女人がいるのです」
 「ほかにも?」
 「エステラは、女騎士は苦手ですか」
エステラは少し考えた。
高慢で、自尊心が高く、人を見下したところのある女騎士に対しては、
世間同様にいい感情は持っていないことは確かであるが、
リリティスのような騎士もいることであるし、逢ってみないと分からない。
 「そこに居るのがその騎士です。何かあったのかな。こちらに来るようだ」
ソラムダリアは、「ここだ」というように、片手を挙げた。
さざなみの中から現れた、妖精の女王かと思った。
その人は細首を傾けて、少しの間こちらをうかがっていたが、皇太子が応えたのに応じて、
対岸の森から、蒼い水面の上をすべるようにして飛び石を軽やかに渡り、
吹き寄せる花のような様子で、あずまやにやって来た。
陽の光から生まれた輝ける人のようにして、
 「こちらでしたの。ソラムダリヤ皇太子殿下」
段差の下に立ったまま、気取りのない態度で、息を切らしながら笑った。
あたりが清らかに艶めくような、素晴らしい美人だった。
 「紹介します」
ソラムダリヤはエステラに女騎士を引き合わせた。
 「ビナスティ・コートクレール。ジュシュベンダ騎士団からの客人です。
  ビナスティ、こちらはミケラン・レイズン卿の親しい友人、エステラです」
 「よろしく願いますわ」
眼に見えない美の香気があたりを照らすようであった。
そして、エステラに明るく微笑みかけた女騎士のその額には、惨い刀創があった。



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静かな晩だった。
一人欠ければそれも当然であるが、静寂がこたえた。
シュディリスとグラナンはあえて、そこには触れなかった。
この陰気と沈痛は、馬を失ったせいだ。
ナナセラの兵に射られたものの、シュディリスの馬はよくはたらいてくれたが、
急場を走り抜けた後にその馬脚を乱れさせ、
シュディリスの耳にはかすかな異音が聴こえだした。
走ってはいるが、足取りがおかしい。
馬は痛みを堪えて走っている。
ナナセラ警備隊をはるかに引き離した地点で馬を降りて、みてやると、
矢傷ではなく、右前脚に異常があった。
 「堤靱帯が切れているのかも知れない」
その間、馬は不安気に、頭をがくがくと上げ下げしていた。
その鼻面をシュディリスは撫でた。お別れだ。
ゆっくりと綱を引いて、彼らは随分と歩いた。
馬が大切にされているらしき田舎の素封家を見つけ、そこに馬を渡した。
晴れた空の下、広い庭では、二頭の老いた馬が倖せそうに太って、のんびりと犬の番をしていた。
主人と、厩舎から馬丁が出てきた。
彼らには馬を見る眼が具わっており、
シュディリスの持ち込んだ馬の素晴らしさに、しばらく言葉もなかった。
 「騎士さま、これは神さまの国の馬のようだ」
 「大切にしてやって欲しい」
フラワン家のきょうだいはそれぞれに何頭かの馬を持ったが、
彼らは等しく、その世話に熱心だった。
馬は、馬なりに別れが分かるのか、シュディリスの旅外套の端を噛んで放さず、
頭をがくがくさせたまま、まだ走れるとでも云うように、前脚を空に蹴った。
おやつをねだり、シュディリスの手から砂糖を舐めた。
その様子に屋敷の主人と馬丁は心うたれ、いそいで馬の脚を冷やし、包帯を巻いて固定しながら、
骨を折ってさえなければ、恢復は可能だし、たとえ堤靱帯が切れていたとしても、
元通りになった馬を何頭も知っていると請合った。
 「いい馬ですな。眸が賢い」
シュディリスの馬はその背にユスキュダルの巫女を乗せたこともあるのだと知れば、
彼らは卒倒したかも知れない。
彼らはあまり詮索せず、うちの馬はすべて家族なので譲れないが、隣家に行けば、
馬を売ってくれるかも知れないと教えて、紹介状を書いてくれた。
淋しげに馬が嘶いた。
シュディリスは無言で馬と別れた。
主人と馬丁が馬を宥め、この騒ぎに家の中からも、たくさんの人が出てきた。
天馬のごとき立派な馬の出現に屋敷の人々は愕き、馬のご機嫌を直すためにてんやわんやで、
馬の好物を用意して走り回っているのが、離れた処からも望めた。
あのまま立ち上がれなくなり、心苦しい処置が馬にとられたとしても、彼らならば任せられるだろう。
もの哀しげな馬の嘶きが聴こえなくなるまで、シュディリスはとグラナンは、
間に荷を積んだグラナンの馬を挟んだまま歩き続けた。
 (今度、父上が馬を買って下さる)
はじめて仔馬を持った時、弟と妹は、それに乗ると云ってきかず、しかたなく、きょうだい三人で乗った。
左右に使用人がついて、彼らが落ちないように見張った。
普段は滅多に笑わない母リィスリが、それを見て明るく笑い出し、
父カシニは子供たちを乗せた馬の手綱を引いて、ゆっくりと庭を回った。
シュディリスはいささか不満であった。
馬を持ったらすぐに乗馬を学び、颯爽とそれで駈けたいと願っていたのに、
いつまでも弟と妹が附いて来る。
父にはシュディリスのその気持ちが分かっていたとみえて、何かと用事を作っては長子だけを連れ出して、
リリティスとユスタスの居ないところで、乗馬を学べるようにしてくれた。
シュディリスは振り返った。
馬を置いてきた家はすでに丘の向こうだった。
教えてもらった家で難儀を告げ、馬を求めると、偏屈そうな主人は卑しからぬ若い騎士の
突然の訪問を訝りつつも、隣家の紹介状が利いて、馬房に案内してくれた。
気に入った馬がいれば、それに応じて交渉しましょうとのことだった。
 「貴方が馬を選ぶのではない。馬のほうが貴方を気に入るかどうかです」
一頭の馬が何となく、こちらを見ていた。
近づくと、シュディリスに頭突きをくれた。
シュディリスはすぐにその馬を選び、軽く並足で走らせてみた。
グラナンの馬とも併走させてみた。ためしに借りた鞭を当てると、雷光のごとく飛び出した。
その馬に決まった。
馬の主人は唸った。何であの馬をお選びになったので。
 「とんでもなく、ひねくれた馬でしたのに」
シュディリスにも答えようがない。
ただこの馬の方から、天稟ともいえる勘で騎士を選んだのだ。
空の下に出たことが嬉しいらしくて、馬は飛んだり跳ねたりしていた。
そしてシュディリスの側に戻って来ると、頭を振り上げて、「どこに行きます?」とでもいうような
可愛い顔をした。
 「グラナン」
シュディリスにみなまで云わせず、馬の支払いはグラナンが行った。
巫女の一行を追ってトレスピアノを出たまま思いがけぬ長旅となっているシュディリスと、
トレスピアノの御曹司をくれぐれも頼みますとビナスティから財布を渡されたグラナンとでは、
グラナンの方がはるかに懐が豊かだったのである。
馬の値段はたいしたものであった。
それをシュディリスは淡々と聴いた。
 「後で返す」
 「失礼ですが、不如意ならば少しお持ちになりますか?」
グラナンは金を鳴らした。
今後も不測の事態が起こって、いつ別れ別れになるとも限らない。グラナンの申し出は当然であった。
わたしとてこの金はシュディリス様の供を命じられた際に、
騎士ビナスティから出しなに財布ごと渡されたものです。
はたして公費なのか、彼女のお金なのか、判別がつかないながらも、かなりくれましたよ。
金袋を見もせずに、シュディリスは指摘した。
 「その金は、イルタル・アルバレス様のものだと思う」
 「え」
 「ビナスティ。彼女はジュシュベンダに寄宿していたクローバ・コスモスの従騎士だった。
  クローバ・コスモスは君主の友人であり、
  ビナスティはその君主の命でクローバ附きとなっていた。
  放浪の騎士クローバ・コスモスは公的な客人ではなく、私的な居候であったから、
  彼の滞在費用はすべて君主の私費で賄われていたはずだ。
  ということであれば、その金の出処はイルタル・アルバレスをおいて他はない。
  接待費の一環として、ビナスティに下されていたのだろう」
 「わが君のお金を勝手に遣っていましたか。これは失態」
宿の床に音を立てぬように布を敷き、彼らはそれぞれの財布の中身を広げて、有り金を数えた。
旅のはじめから、グラナンは御曹司シュディリスの金銭感覚を気をつけてみていたのだが、
極めて正常で、貨幣価値の平均をよく知っていた。
どちらかといえば、計画的で、倹約家ともいえた。
それを指摘すると、シュディリスは憮然として、留学時代の仕送りがかなりきつかったので、
家を離れる時には気をつけるようになった、と応えた。
珍しいことではない。
名家と呼ばれる家ほど、教育には金をかけても、浪費に溺れぬことを子息に躾けるものだからだ。
ただしトレスピアノのフラワン家としては、それは少々、品が落ちることのようにグラナンには思われた。
なので訊いた。
 「それは、ご父君のご方針で」
 「さあ。金を渡せば遊ぶのが眼に見えていたからかも知れない」
 「ご留学中のことですね」
金貨を積み上げながら、シュディリスは頷いた。
 「公の場に出る時と、留学費用の経理が別になっていて、
  トレスピアノから附いて来た使用人が双方の支出が混じらぬようにしっかりと見張っていた。
  どうにかして混ぜてやろうと工夫を凝らしたのだが、どういうわけか、全てばれた。
  何のことはない。父上ご自身が、お若い頃に同じことをしていたからだ」
 「それはそれは。ちなみに、お小遣いはいかほどで」
 「充分すぎるほどだった。公費の五分の一くらいはあった。ただし、遣い過ぎるとすぐになくなる」
 「遣い過ぎたのですか」
 「そう。そしてその後は月の半ばで飢えようが、放置だった」
彼らは、この場にいない三番目の人間の発言を待った。
何だそれじゃあ君の自業自得じゃあないか、とか、公費の五分の一ならお大臣だ、とか、
親元を離れたのをいいことにどうせ脱線したのだろう僕に教えろよ、とか、そのあたりを。
この場に居ない者が話に入ってきて、からかうはずもない。
彼らはふたたび金を数え始めた。
まさか本当に飢えることはなかったであろうが、金を借りようと思ったシュディリスが下男を振り返っても、
領主の厳命を受けてきた下男は財布を握り締めて走って逃げたそうだから、徹底している。
宿の床に並べて積み上げてみた帝国共通貨幣は、しばらくの二人旅にはじゅうぶん足りた。
ひとまず安心して、数え終わったそれを財布に納めた。
 「何に遣われたので」
やっぱり興味があったので、好奇心が抑えられず、グラナンは訊いてみた。
シュディリスと親交のあった弟トバフィルは遊興とは縁がない性質で、図書館に籠もりきりであったろうし、
寮暮らしの学生の贅沢といっても、たかが知れている。
ジュシュベンダ宮廷や各荘園に招待される時の諸経費は招待側持ちであるし、
衣裳などの諸経費は公費なので、これも省かれる。
留学といっても、ジュシュベンダ側がどうぞお越し下さいと、それを栄誉として、
トレスピアノの御曹司の前に万事整えて門を開いたようなものであるから、
彼こそは苦学生とはもっとも対極の立場にいたはずで、それが何故、
月の半ばで飢える羽目になるのであろう。
 「慣れない頃は不自由した。友人に借りるのも体裁が悪いし」
 「お話をお伺いする限りでは、さように潤沢な資金を月ごとにお持ちだったならば、
  金欠になりようがありませんが」
シュディリスはそこは首をひねった。何となく、なくなったらしい。
その答えは、実に金策に苦労したことのない御曹司らしかった。
おそらくは無尽蔵に小遣いを持たされた金持ち息子たちの、金には糸目のつけぬ金の使い方を、
こういうものかと思って、素直に真似したのであろう。
さすがにだんだんと気をつけるようになってからは困ることもなくなったそうだが、
どちらにせよ、フラワン家というのは、その名の輝かしさに反比例してかなり
地に足をつけた質実を重んじる家であることは間違いないようで、グラナンは感心してしまった。
他家の名家とは異なり、フラワン家は、田園の中にあるのである。
他国の貴公子ならば、おしのびで街中に出ることもあれば、都に遊びに行くこともあり、
金の遣い方を自然と覚えることもあったであろうが、
時を止めたようなトレスピアノには、そもそも街というものがない。
千年前から変わらぬような、牧歌的な村々が広がるだけで、都会的な喧騒や雑踏とは無縁であり、
そこで暮らす限りは、市井の賑わいというものをまったく知らない知らないままに
一生を終えることも可能であった。
その中にあってフラワン家が鄙びることなく洗練を保ってこれたのは、ひとえに、
名だたる聖騎士家と婚姻を重ねてきたことと、
ひっきりなしに畏敬訪問する各国大使からの情報や貢物をとおして、
流行の最新や都の香気をふんだんに享受してきたからに他ならず、
常に外の風に触れることで独特の清風を作り上げてきた彼らには、
古雅と浮世はなれの調和と超然といったものが漂い、それをして人々を崇敬さしめていたわけであるが、
さもなくば、たいていの上つ方の方々は、すべては空から勝手に降ってくると思っているものである。
それは大袈裟であっても、金品の遣り取りを実際にやるのとやらないのとでは、
貨幣価値への理解も、ひいては領民の生活への関心も、雲泥の差であったろう。
華奢といえばフラワン家の彼らほど、華奢が似合う家はなかったであろう。
そして清廉といえば、彼らほど清廉なる名家はないであろう。
家訓なのか、当代領主カシニ・フラワンがよほどの慧眼なのかは知らぬが、
少なくとも御曹司はジュシュベンダ留学時代の数年間の経験から、
金の価値と遣いかたを適正に知っており、ものの相場をグラナンに一から教わることも、頼ることもなかった。
二人の有り金を比べると、グラナンがシュディリスの数倍持っていた。
馬の代金を支払った後にも減った感じはなかったから、ビナスティも奮発してくれたものである。
新しく加わった馬は、今までの住まいに比べて宿の厩が狭く汚いことが気に障ったのか、
一切の餌を受け付けず、拗ねてそこらを行ったり来たりし、
ついには八つ当たりでグラナンの馬に蹴りをくらわしそうになったものの、
宿の使用人の知らせを受けたシュディリスが夕食を中断して急遽そこへ赴くと、
先ほどまで大暴れしていたのが打って変わって上機嫌になって、
でれでれとした大きな犬のようになり、つまり、人懐っこくなった。
馬はシュディリスの髪をもぐもぐとはんだり、かと思えば、しなだれかかるようにして馬面を寄せてきた。
後ろでぼそりとグラナンが呟いた。この馬をパトロベリと名づけたらいけませんか。
そして、夜は静かに更けた。
隣の寝台で寝ていると思っていたシュディリスは、まだ起きていた。
彼は、お金を持っていただろうか。
それが誰のことを指すのか、グラナンにもすぐに分かった。
グラナンは請合った。はい、お持ちでした。
 「駒将棋の勝負の際にちらりとあの方の財布の中身が見えましたが、
  ジュシュベンダに帰るにはじゅうぶん過ぎるほどお持ちでした。ご心配には及びません」
気にしても仕方が無い。
彼は去ったのだ。




「続く]



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