[ビスカリアの星]■五十二.
コスモスの街並みは、時を止めて化石化していると他国から揶揄されるほど、
数百年来、ほとんどその外観を変えないのであった。
落雷や火災や崩落によって石造りの家が壊れても、すぐにまた、
同じようなものが同じ場所に建てられる。
しかも、ひじょうに堅牢かつ、細部まで見事であった。
一説には、あの美しいジュシュベンダの古都の基礎を構築した工人は、
すべてコスモスからの移民であったという学説もあるほどで、
そう云われてみれば、両国に残る、弧を描く古橋や、
古雅と優美の趣を保つ古塔を見比べれば、その類似は顕著であった。
唯一の違いは、ジュシュベンダがその後、花の都と謳われるほどに都市開発を続けたのに比べ、
こちらは、古色蒼然と、いにしえの優雅をそのまま保全したまま、
旧来のものを伝統として守ったことであろう。
従って、コスモスこそは、帝国の中でもっとも帝国創立期の面影をそのまま
現代に遺している古い国であり、建造物の礎をよく見れば、そこかしこに、
帝国に組み込まれる前のコスモスの碑文が古語で刻まれたままに苔むして、
街全体が、歴史家が泣いて歓ぶ、博物館のようであった。
街中を流れる清流、橋や塔、広がるのどかな耕作地。野や森にいたるまで、
黒と金を国色としたこの国にはどことなく、古典の威厳と、お伽話の趣があった。
これといって見どころも無い地方とも思えるのだが、
低い丘に囲まれているせいであろうか、雲も太陽も月も、他所で見るよりは大きく見えて象徴的であり、
何となく旅人に懐かしい温かみと寂寥を抱かせる、そんな国であった。
街が夕闇に沈む頃、コスモスの空は黒い山陰に縁取られ、その色をより鮮やかに蒼く変えてゆく。
色硝子を砕いたような暁の空、朝露をたたえた野原、
星を並べた空に沁みるやさしい夜風、水車の回る音。
時の底にまどろむまま、コスモスの丘陵は昔から変わることなく、人々を見守ってきた。
他の国々が進取に向かっても、此処だけは目覚しい発展をさほど見せなかったのは、
それは、コスモスの人々が変化を嫌うからではなく、この国を、いまの暮らしを、
ひじょうに大切にして愛しているからであった。
それはすなわち、コスモスの内的な誇りの強さである。
先祖伝来のものを壊して進むよりは、それを慈しむことを選ぶ頑固な彼らは、
お国自慢コスモス、そう侮られても胸を張って、それを肯定した。
父も母も祖父も祖母も、そのまた曾祖父曾祖母も、そのまた先も、
ずっとこうやってきたのだ、何が悪い。
彼らは父母や先祖の記憶ごと、故郷コスモスを熱愛しているのであった。
何百年も前からここに暮らしている、そのこと自体が、彼らの誇りであり、
そのせいか、他国に比べれば、あまり人口が流動しなかった。
黙々と働く彼らは、また、ひじょうに勤勉であった。
どんな仕事でも熱心に打ち込み、夕方になると仕事を切り上げて、家路につく。
愚直で素朴な生活を守り、尊ぶことが、彼らのすべてであった。
頑迷なまでの保守、それこそが、小国コスモスを国たるべく支えてきた誇りである。
従って、コスモスへ帰還を果たしたクローバ・コスモスの前に差し出されたのも、
そんな仕事道具であった。
「どれになさいますか、領主さま」
どれになさるも何もない。
手に手にいろんなものを持って、嬉しそうにこちらを見ている領民の顔ぶれをクローバは眺め回した。
領民の顔は子供のように輝き、鋤や鍬を手に、期待をこめて、じっと彼を見ていた。
クローバは咳払いした。お前らの笑顔はちょっと怖いぞ。
「では、こうしよう。日替わりだ」
一番近くにあった釣竿を引っ掴んだ。
「今日は、俺は、釣りをする」
そう宣言すると、わあっとその場が沸いた。今日の領主さまは釣りをなさるそうだ。
こくこくとクローバは頷いた。何とかこの場を切り抜けることが肝要だ。
領地のはずれの一軒の農家を頼って、クローバはそこに泊まっていたのだが、
その家に前領主が潜んでいることはまたたくまに村民に知れ渡り、
さわやかな本日、朝食を食べ終わった途端に、どっと村人が押し入って来たのである。
再会の感激を受けている間はまだ良かったが、その後がこうだった。
この辺りは、若い頃に、よく遠出をして遊んだ場所だった。
無茶ばかりをしていたので、よく怪我もしたし、腹が減ったらそのあたりの農家に上がりこんで、
よく食べさせてもらっていた。
というわけで彼らにとってクローバは、もういい歳した領主といえども、いまだに彼らのやんちゃ坊ずなのであった。
連中は、まだ去らなかった。
頭が上がらないクローバは釣竿の先を手の中でいじった。
「明日は、畑に行く。そしてその次は鍛冶場だ。その翌日は果樹園、次は酒造を手伝う」
「それから」
「それからだな、順番だ。岩掘り、井戸掘り、レンガ造り、お前は何だ、ああそうか煙突掃除だったな、
煙突掃除、木材の切り出し、革なめし、乾酪作り…」
「乳絞りはしねえだか」
「する」
「できれば別の乳のほうがよかんべ」
「誰もそんなことは云ってないが、ここだけの話だ」
「わはは、領主さまは変わらねえだ」
「わあ、はやく、おらの番が来るといいだ」
領民は歓声を上げた。領主さまがおらたちを手伝ってくれるだ。
釣竿を片手に、クローバは唸った。が、口に出しては何も云わなかった。
とりあえず釣りをすれば、彼らは満足するのだ。
潜伏先として、土地の者しか知らぬ抜け道が多いこの村を選んだのがまずかったのかも知れぬが、
彼らなりの歓迎の方法で歓待されていることを、拒むものでもない。
洗練されたジュシュベンダに行っていたせいか、俺の領民はこんなにも田舎ものだったのかと、
あらためて涙が滲んできたが、それはそれで、いとおしかった。
ただし、念はおしておいた。
俺はもう、お前たちの領主ではない。
いいや、と村人はいっせいに首を振った。おらたちの領主さまはあなた様の他をおいていねえだ。
お城に入ったレイズンのお殿様も、いい方だが、それでもここはクローバ様の治めなさる御国だ。
クローバ・コスモス様が、おらたちの領主さまだ。
黙ってクローバは釣竿を肩に担いだ。他に返事の仕様もない。
他の者たちをそれぞれの仕事場に追い払い、河に出て、小舟に乗った。
村の女たちが張り切ってこしらえてくれた豪華弁当の重みで舟が傾くのではないかと危ぶんだが、
そんなこともなく、船頭の竿さばきで、舟はするりと流れに乗った。
放牧に向かう男が、土手の上から帽子を脱いで頭を下げていた。
果樹園の横を舟が流れると、果実をもいでいる女たちが手を振った。
こんな調子では、旧領主がひそかにコスモスに舞い戻ったことなど、
レイズンだけでなく各国に、とっくに知れ渡っていることであろう。
状況が逼迫しているこのような時に、こんな処で悠長に釣りなどしていることもなかろうが、
釣り糸を垂れているだけでも、けっこう釣れた。
こうしていると、帝国中に渦巻く野心や陰謀などの、きな臭い全てのことが、下らなく思えてくる。
コスモスとて騎士団を持っていて、稀には戦を構えることもあるのだが、それは領土侵犯を受けた時や、
野盗集団の類を相手に已む無く武器を取る時に限られて、平素は至って平和主義である。
古い盟約に従い、幼い頃にオーガススィ家からコスモス家の養子となったクローバは、
若くしてそのままコスモスを継いだが、領主であった間にも領内においては大きな戦はなく、
せいぜいが、領民の眼の前で盗賊の首魁をクローバが討ち果たし、大喝采を浴びた程度であった。
その頃にはもう結婚していて、フィリアが傍にいた。
『貴様のようなこわっぱ領主に何が出来る。』
盗賊の頭目に嘲笑された若いクローバは、護衛を押し退けて前に出た。
『コスモス領主クローバ・コスモス。
高位騎士が何たるかを知らぬ者にそれを教えてやるのはもったいないが、
お前に殺された領民の仇は、俺が討つ。』
双方は走った。
飛んできた棍棒を首の動き一つで避けて、
黒と金の国色衣裳に身を包んだ軽装の若者はすれ違いざま身を跳ね上げ、
盗賊の頭を脳天から断ち割った。
固唾をのんで見守っていた領民は狂喜乱舞したが、何ですかあの格好つけは、
一騎打ちなんて自信過剰にもほどがあります、後から散々、侍従スキャパレリと妻フィリアから叱られた。
(コスモスは田舎だ。だが、他の国に勝るとも劣らぬ、いい国だ)
「夕食にはこの魚を出しましょう」
船頭が釣った魚を魚篭ごと河に垂らした。
釣りに飽きたクローバは竿を投げ出して、舟底に寝転がった。
白い雲が流れていた。
河を見れば、鏡のような流れにも、雲が映っていた。
上も下も空だった。
空に浮いているようだ。
クローバは眼を閉じた。
ジュシュベンダからコスモスへの、巫女カリアとの旅は、愕くほど速やかで、
そして障壁のないものであった。
彼らがコスモスを目指して、旧カルタラグン領を突っ切って北上したのではないだろうかという
シュディリスたちの読みはあたっていたが、しかし、彼らは陸路を採らず、早々と馬を乗り捨てていた。
彼らは舟を使った。
巫女はその時、河に眼を向けて、
「エスピトラルを、過ぎます」
希望のような、預言のような言葉を、青い流れに囁いた。
そのとおりになった。
馬と古い舟を交換すると、クローバは自ら櫂を握った。
古びた粗末な舟で貴き御方をおはこびすることに対しては気が引けたが、
クローバに抱き上げられて浅瀬から舟にはこばれる間も、巫女は何ひとつ不安を見せず、
黙ってされるがままになっていた。
日暮れを迎えた河は、薄紅色にけむるように輝き、空は紺碧のまま濃く色を変えて、高く深かった。
夕方になると咲く花が岸辺に静かに揺れていた。
亡霊の花と呼ばれて、迷信深い舟乗りたちが厭う花だったが、クローバの眼には心に沁みて、美しかった。
そして巫女は、舟が河の流れに浮くのを見届けると、舟底に横になり、夢に落ちるように瞼を閉じて、
そしてそのまま昏睡状態になってしまったのだった。
エスピトラルの廃墟が対岸に見えて来ても、まったく目覚めなかった。
呼びかけてもまるで反応がなく、舟を柩と変えて眠る人のように、その瞼は微動だにしなかった。
睡る前に、巫女はクローバにこれからのことを少しだけ話した。
旅には何事もありません。
そのとおりだった。
たまに、レイズン軍と思しき斥候隊や捜索隊の姿を岸に見つけても、彼らは舟には気がつかず、
クローバの姿も眼には入っていないかのように、舟を見逃した。
だんだんとクローバは大胆になってきて、睡る巫女の上に旅外套をそっとかけた上で、
一度なぞ、レイズン隊が通過中の橋の真下に舟をくぐらせてみたこともあるのだが、
何処に行くとも詰問されることもなく、舟を止められることもやはりなかった。
それは騎士装束を脱ぎ捨てて舟乗りに化けたクローバがそれだけ板についた
船頭ぶりを発揮したというだけでなく、
(まるで、舟が見えていないかのようだった)
そのことに、今更ながら、クローバは気がつく。
見えていないはずはない。
だが、誰にも見えていないようだった。
もしクローバがそれについて巫女に訊ねたら、カリアはこう応えたであろう。
------時は二度と同じかたちを紡ぎません。彼らが見ていたのは、
わたくし達が通り過ぎた後の、そのかたちです。
ゆらゆらと心地よい振幅で舟は揺れた。
実のところクローバは、睡ったままの巫女がかなり心配であった。
ためしに触れてみたその頬はぞっとするほど冷たく、しかし安らかであり、
失礼承知で覆いかぶさり、その胸に耳をつけてみると、微かながらも鼓動の音はした。
水の底、風の果て、まったく別のところから響いてくるような、遠い、幽かな音だった。
恐れ入りつつ、身を引いた。
睡る巫女を乗せて、霧の朝や星降る夜に、流れのままにそうして舟をすべらせていると、
黄泉の河を下る姫とその守役の死神に変わったかのような、
虚実の境が滲みだしてあやふやになり、伝説の世界に踏み込んだような、そんな気分だった。
そんな気がしてくるほど、時として心許なかった。
清流に、また、日没がおとずれた。
まるで出発点の夕闇から、終着点の夕闇まで、
巫女だけが先にそこに一瞬にして到着していたかのような様子だった。
深々としたところから、ようやく覚醒した巫女は、微笑み、クローバの旅を労った。
早出の白い月をコスモスの空に仰いだ、その横顔は、何人も寄せ付けぬほどに厳しかった。
「ヴィスタチヤの、都、コスモス」
帝国の首都は、帝国皇帝のすまうヴィスタの都である。しかし、クローバは何も訊ねなかった。
旅の間、巫女の言葉は万事その調子で、まともな人らしい時と、
何かに憑依されたような夢うつつな時とが、交互だった。
岸に舟をつけると、巫女が先に岸に降り立った。
クローバは剣を持って、どこまでも巫女の護衛を果たすつもりでいた。
それを止めたのは、巫女の命だった。
現コスモス領主タイラン・レイズンの人となりを、わたくしは知っています。
何も心配いりません。
水の上をすうっと横切ったのは、ねぐらへ還る蝶だった。
巫女の姿は岸辺の向こうへと消えていた。
それきり別れて、巫女には逢わない。
城の中に手厚く保護されて、無事であることだけが伝わるものの、それも伝聞である。
幾たびか、夢の中で巫女の姿を見たような気もするが、朝になると忘れた。
星を従えて、目も眩むばかりに清くあられた、その面影だけが、胸を灼いた。
超常の力というものを、クローバは無暗には信じない。
それでも、現に己をはじめとした竜神の騎士たちが、並み居る凡百の騎士と比べて
はるかに強靭で俊敏であることの神秘を思うと、この世には、確かに、
人のかたちをした人でなきものが或るやも知れぬような気がしてくる。
それほど、ユスキュダルの巫女は、不可解をあたりまえのものとして、クローバの前に見せていた。
まさか、人々がこうしてこの星にあることを、時の流れを、人智の及ぶ限りで語れるとは思いますまい、
そう告げるように。
(俺には-----。俺には、わからん)
クローバはそれ以上の想念をあっさりと放棄して、別のことを考えた。
領民がどう云おうとも、現在コスモスを治めているのは、
ミケラン卿の実弟、タイラン・レイズンである。
タンジェリン殲滅戦において、タンジェリン家の係累への根絶やしは、徹底的であった。
殲滅戦が勃発した折、奥方がタンジェリンの出であることを理由に
領主クローバはレイズンの呼びかけに応じてタンジェリン殲滅戦に出兵することをよしとせず、
どちらにも与しないことで中立を保ったが、
戦の終結後レイズンは、その奥方の命を求めてきた。
皇帝に叛旗を翻したタンジェリンの血統は根絶やしにしなければならぬというのである。
領主と領民はこれに対して憤然と立ち上がり、叛旗を翻すことを決意、
その矢先に、事態の収拾を求めてフィリア・コスモスは自ら命を絶ち、
領主夫人の自害をもって、一種触発であったレイズンとコスモスは流血の事態を回避したのであるが、
一連の事態において、最初から最後までコスモスは義を通し、
それに対してレイズンは、権高に一方的な無理難題をコスモスの鼻先に突きつけていたことは、
誰の眼にも明らかであった。
フィリアには三人の妹がいたが、末妹のルビリアを除いて、すべて婚家と縁を切られ斬首、
領民に敬愛されたフィリア・コスモス・タンジェリンはコスモス城において自害、
タンジェリン殲滅戦に兵を出さなかったクローバ・コスモスは、辺境伯の称号を返上のうえ、出奔。
事実上の乗っ取りとしてその跡地にミケラン卿から派遣されてきたタイラン・レイズンの前には、
領民の怒号と批難が待ち受けて、渦巻いていたのも、無理からぬところであった。
したがって、その統治のすべり出しには相当に強い反発が予測されていたのであるが、
ミケラン卿の実弟は、意外にも、あっさりとコスモスに溶け込んでしまった。
片脚の悪い不具者と聴いていたとおり、新領主は輿に乗ってやって来た。
学術造詣の道に深いことは、この分家兄弟に共通の特徴であったが、
兄のミケランがそれを基盤に、新進と改革に邁進するのとは異なり、弟のタイランはあくまでも、
あるものをあるがままに、そうあるべく、大切にすることを選ぶ人間であった。
ミケランはそれを見越して、あえて弟をコスモスに送り込んだのであろうか。
もしそうであるならば、タイランは充分に兄の期待に応えた。
新領主到着のその日、コスモスの男たちは手に農具を持ち、
女たちは腐った野菜を用意して、何とかして領主夫妻を追い落としたレイズンに一矢報いてやらんと、
復讐の念に煮えたぎっていたのだが、その不穏の中へ、
タイラン・レイズンは、ほとんど単身で現れた。
コスモスの民の前にはじめてその姿を見せたタイラン・レイズンは、優しげな、
学者か僧のようであった。
生まれつきの身体的不便を長年耐えてきたまだ若いその容貌には、柔和と、理解と、受容があり、
物々しく武装兵を率いることもなく、威勢を誇ることもなく、たまに輿から身を乗り出して
コスモスの美しさに眼をほそめる様は、その立場を忘れた好事家ならではの、心からのものであった。
敵地に乗り込むにあたっての、虚勢もなければ、媚もなかった。
弱々しげな若さと老人の智慧を半々に持つ、誰からも悪意の持たれようがない、
見るからに控えめな人物であった。
みなぎる反感の中に登場したタイラン・レイズンは、コスモスの民に対して飄然と構えて、
真正面から彼らの悪意を受け止め、受け流すだけでなく、
その落ち着いた態度ひとつで、それらの全てを無効化してのけていた。
輿の両側に旗を立てていなければそのまま見過ごしたかも知れないほどに、
彼は、実に、目立たなかった。
その様子に、人々は気勢を殺がれてしまったのだ。
彼らとは異なり、もしそこにクローバが居合わせていたならば、さすがはミケラン卿の弟であると、
安堵するよりは感じ入り、その名を深く胸に刻んだかも知れない。
タイラン・レイズンは、一枚の枯れ葉のようにして人々の間を通り過ぎ、
取り立てて強い印象を残さぬままに、コスモスの城にするりと入った。
草木に興味があるとかで、城内の庭園に感心し、その世話を熱心にしているとのことだった。
さらに領民の心情を和らげたのは、タイランが新領主として最初に発布した触れだった。
態度には出さぬまでも、タイラン・レイズンはコスモスの人々に深く同情していた。
兄ミケランの所業は時として強引で、タイランにとっては暴虐としか思えぬこともあったが、
タイランが見る限り、タンジェリンとコスモスに対して兄ミケランがとった策は、
徹底していたが故に、公平にみても、非道であった。
それゆえ、タイランは領民に対して述べた。
この地を変わりなく保ち、引き継ぎの役を果たすことを約束する。
その裏にある意味を、領民は正しく理解した。
『皆々の正統なる領主が帰還するまで』。
新領主はそう云っているのである。
それが、領地を治めるためのその場しのぎの方便でも詭弁でもないことは、
タイランがその後何らこれといった新政策を打ち出さず、旧来どおりを続行することに
その努力を傾けたことや、人々が最も怖れた軍備増強や納税についても、
向こう五年間は据えおくことを明言したこと、
さらにはレイズン軍を一兵たりともコスモス領には入れなかったことで、証明されていた。
さらにはコスモスの城においても、タイランが領主の部屋は使わずに、そのままを保つように命じた上で、
本人は客間を利用して過ごしていると聞き及ぶにいたっては、おいたわしい気がするほどであった。
そんなわけで、コスモスの民にとってタイラン・レイズンは、
今のところ歓迎こそしないが許せないわけでもない、
「いい領主さま」であった。
それもこれも、出奔したクローバ・コスモスがまだ生きていることを彼らが知っているからであり、
さもなくば、いかにタイランが人畜無害な人物であろうとも、
領主を殺した男の弟など、彼らは赦すものではなかったであろう。
タイランは兄ミケランの傀儡ではなかった。
領地を与えられるにあたっては、完全なる統治権を兄に要求し、それを兄が認めぬうちは、
コスモスに出立しようとはしなかった。
兄と弟の間で交わされた往復書簡を眼にするものがいたら、
兄ミケランが、最大限、この実弟に対して寛大な譲歩をみせたことを知って、愕くであろう。
それは身体に不自由のある弟への肉親的な愛情などではなく、
タイランのやりたいようにやらせておくことが、コスモス統治の初期段階にあたっては
最善策であることを、ミケラン卿が知っていたからであった。
舟が風に揺れた。
雲が流れていた。
空は、地上の騒動も知らぬ、青だった。
(シュディリス。彼の双眸がこのようだったな)
森の中で若者と対峙した時、何か煌く強いものが、クローバを打った。
何か真っ直ぐなもの。
捨て身とも違う、魂そのもののようなもの。
リィスリ姉の生んだ三人の子は、全員が星の騎士の称号を有していると聴くが、
さて、その実力たるや、クローバにも判別がつかぬものであった。
高位騎士と星の騎士が戦った場合、どちらが勝るのかという命題は、論じるだけ無駄である。
何故ならば、戦いとは総じて相対的なものであるがゆえに、
或る星の騎士に高位騎士が勝ったからといって、別の星の騎士にその高位騎士が負けることもあり、
年齢や経験によるさまざまな条件を公平にすることなど、土台、不可能な話であったからだ。
クローバにとってシュディリスとは、星の騎士であるよりも、まず、一人の若い騎士であった。
そのつもりで、剣を交えた。
(清み切って強く、どこまでも晴れていた。それなのに底が知れなくて、解らん奴だった。
あれが星の騎士というものならば、星の騎士は、決定的に脆い側面を持つのだな。
しかも、自覚の上ときた。
氷片のように透明に尖り切り、その危うさを、そのままこちらにぶつけてきた。
俺など見ていなかった。それも道理だ、彼は俺の向こうに、この空を見ていたのだ。
久遠を相手に戦うような、本気の莫迦者に、誰が勝てるものか)
「どのような御方でしたか」
重石を水底に投げ込んで、船頭が訊いた。そちらに首を向けた。船頭は鼻をこすった。
どのような御方でしたか、ユスキュダルの巫女さまは。
「お美しい御方だとお聴きしますが」
クローバは身を起こした。好奇心丸出しのおやじには曖昧に頷いておいた。
誰にも、俺にも、語るに足りる言葉がない。
船縁に肘をついて、悠々たる河の流れを見つめた。
青に青を重ねて、空がそこに映っていた。どちらも空だった。
この透明なる、幻の空のような御方。そう云っても、理解できまい。
美人といえば美人だが、そのような美は超えていた。
星空に似ている。我々には届かない。
流れ星、我々には、追いつけない。
領主さま、間延びした声で船頭が呼びかけた。
ここらで、そろそろお昼にしましょうや。
「丘の反対側に陣取っているハイロウリーンとフェララが、ちょっとばかり衝突したそうだなあ、領主さま」
クローバは頷いた。
旧領主に忠誠を誓うコスモスの騎士たちは密かに集い、
三々五々に散っては最新の情報を手に入れて、間断なくクローバに報告をすることを怠らなかった。
ハイロウリーン、それに、フェララだと?
コスモスは田舎だが、他人の領域を尊重することくらい知っている。
俺がまだ領主なら、両軍の指揮官に決闘を申し込んで、双方に思い知らせてやるところだ。
小舟の中で麺麭をかじり、果実酒を瓶ごと呷った。
お前らにあいまみえることあらば、領民の見ている前でお仕置きしてやる。
ルビリア姫、それにモルジダン侯。
ここはお前らの遊び場ではないぞ。勝手な真似しやがって。
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彼ら兄弟にとって、子供時代は、極めて短かった。
大人の庇護の下にいた記憶がほとんどないほどに、彼らは早熟であり、
大急ぎで、独立を求めた。
他にきょうだいがいないこともあって、幼い頃の一時期は一緒にいることもあったが、
同じ部屋にいる時でさえ、それぞれが眼の前の玩具に執着し、
生まれつきそういったことが得意であった兄がまたたくまに木切れと工具を駆使し、
立派な町並みを床一面に創ってみせるのを、弟は驚嘆しながら隣りで見ていることのほうが多かった。
硝子を透かして見るようなぼんやりとした幼少期の想い出の中、
弟がいまも憶えているのは、具合が悪くて寝付いていた弟の許に兄が見舞いに訪れて、
その部屋の床いっぱいに、町を造ってみせたことだった。
兄が積み木を重ねて創った町は、ちょうど小さな都市の模型のように、
彼の頭の中に記憶された地図と、現実から受けた印象を、
そのままそこに新たなものとして再現した、子供らしからぬ精巧なものであった。
しかもこの少年が少し特異であったのは、心ゆくまで熱心に創り続けたものが完成した瞬間、
凝りに凝ったそれを自分の手で惜しみなく、ばらばらに壊してしまうところであった。
床に出現した小さな町の姿に瞠目し、いつまでもそれを眺めていたいと願う弟とは違い、
兄は自分の手で創り上げたものを少しの間、隅々まで点検するように眺めるだけで、
あっという間に始末してしまった。
出来栄えに不満足でそうするのならばまだ分かる。
そうではなく、この少年は創作を充分に愉しんだ上で、出来上がった創作物には急速に関心を失い、
また新しい方法を試みるために、すぐに完成品を一掃してしまうのだった。
まるで、そこまで自分の手で決着をつけねば、満足せぬのだと云うように。
そんな時の兄は、奇妙なほど、機嫌がよかった。
あまりにもこれは崩してしまうのが惜しいので、せめてもう一日だけ置いておいて下さい。
弟がそう頼んでも、兄は聞き入れなかった。
仕上がりが見事であればあるほど、彼はあっさりと分解して、積み木を片付けてしまった。
壊しがたいと想われるものを自らのその手で壊す時、呆気にとられている弟とは正反対に、
兄の顔は満足を浮かべて、さっぱりと輝いていた。
そして、弟にいつもこう云った。
「いい考えが浮かんだ、今度はもっとすごいものを作ってみせる」
そのいい考えとは、たとえば、
二階建てになっている橋や、地上の起伏には関係なく都の下を縦横する地下道や、
人口の島と島を連結させて繋ぐ、海上道路などだった。
また、箱庭を築く兄の頭の中では、どうやら山脈が部屋の窓枠あたりにあるようで、そこの柱と
都市の塔を二重の紐で繋ぎ、滑車によって常にそれを回し続けることで、
物を載せた小さな駕籠が山頂と往復できるような、巧妙な仕掛けを作ったこともあった。
このような遊びをしていた頃、彼はまだ、本当に小さな子供であった。
概ね、こういった素質を持つ人間は一様に創造方面に伸びるものであり、
少しばかり頭の発達がよい、集中力と空想力のある子供であれば、この程度のことは誰でもする。
それ自体は珍しいことではなかった。
この少年の場合にも同様で、上機嫌でそれを創り、それを惜しみなく潰している間にも、
その生涯を貫く、何もかもを掌握したいという止みがたい欲求に突き動かされて、
子供の頃の箱庭の遊びをそのまま現実に移管して実行することに、
その後の人生においても、何の矛盾も疑問も抱かなかった。
ただし、己が手で創り上げた世界を見下ろしている兄は、その全体像を眺め回す眼の底に、
はっきりと非凡なる光を宿して、時としてそれは物騒にさえ、弟の眼には映った。
彼は、実は、まったく愉しんではいないのではないかと、そう想われるほどに。
兄は、騎士として生まれた。
その頭脳は、政治や経済にも極めて高い適性を示し、
家柄に抗うことなく、後年、兄はそちらの世界で生きることを選んだが、
それでも根本的には、騎士だった。
子供の頃、走るにしろ、跳ぶにしろ、兄が軽々とやってみせることを、
弟は自分がそれが出来ないのは自分の身体が不自由なせいだと想っていたが、
彼ら兄弟に剣術を教えに来る教師が昂奮気味に父母に話しているのを聴いていると、
どうやら、兄は、特別な才に恵まれているらしかった。
騎士は早熟なものである。
孵化した竜の仔が見る間に翼を広げて素早く大空を飛ぶように、
個体差はあるものの、騎士の血を持つ者は、並みの少年の数倍は先んじる。
そして少年期に開花した能力を上限として、もうそこからは伸びないのだとも云われていた。
つまり、経験値という得がたい研磨を別にすれば、生来能力の如何によって、たとえ歳は若くとも、
騎士の階級のはるか上位に、彼らは不動の地位を築くことが可能なのである。
そして、騎士の血の濃度が高ければ高いほど、彼らはその能力を、決して原石のままにはしなかった。
何もかもに秀でていた兄は、努力に裏打ちされたその強い自信でもって、
その場に居ると、黙っていても、知らず知らず人の眼には、その座の力の中心のように見えた。
沈思黙考型で、平素は地味な学生や、長じてからは役人の風体を好んで装った兄は、
それでもその眼光の鋭さを隠し遂せるものでなく、
或る時には権威ある学者のように、或る時には騎士の中の騎士のように、そのどちらにも見えた。
剣術教師の証言と、立証から、彼が何千人に一人といわれる高位騎士であることが判明すると、
弟の兄への尊敬は極限にまで高まったが、当の兄はその当時、選民意識丸出しに、
少年らしからぬ醒めた顔で、薄く笑ってみせただけであった。
強い目的と実務能力を持ちながら、常に身を引いたところからそれを操ることを好む兄の態度は、
創った箱庭を見下ろす時の、あの真上からの凝固した視点、そのままであった。
兄は脚の不自由な弟に優しく、そして弟は兄を景仰し、そして双方、
互いに深くかかわらぬことで、兄弟としての情を辛うじて保っていた。
兄の名はミケラン。弟の名は、タイランといった。
七大聖騎士家の一つ、レイズン家の分家に生を受けた彼らは二人とも、
かなり早いうちから、それぞれの道を歩き出した。
机の上に重ねられた文函を、一つひとつ、丁寧に、その手は開封していった。
複雑な手順を踏んで城に届けられた手紙を読んでいるその人物は、
もう若くはないものの、風貌にまだおとなしげな青年の面影を残して、
生命的な加齢とはまた別の年齢の刻み方をしている、そんな類の御仁であった。
読み終えた手紙は、また丁寧に丸めて、文函に戻す。
いつ果てるとも知れぬその作業は、延々と、歯がゆいほどのゆっくりとした動きで続けられた。
そして読んだ内容については、まったくその顔色には顕わさず、
どのような要請についても、どのような挨拶に対しても、一定の時間をかけて、
じっくり吟味し、処理していた。
読み終えた手紙は文函に戻され、返信するものとそうでないものに分けて、机の横に並べられる。
するとそれを控えている従僕が函ごと引き取り、仕舞うものには蓋をして、
その上から紐をかける。
タイランが返信の必要を認めたものは、全体の一割にも満たなかったが、
この領主の遣り方に慣れてきた城の者たちは、それに対して異議を唱えようとはしなかった。
彼らの主は、この新領主であった。
そしてレイズン家から派遣されてきたこの領主は、自らを暫定的な領主として扱わせる一方で、
コスモス内部のことについては出来うる限りの良策をもってことにあたり、
本日の政務についても、対策の必要ありと認めたものは、すべて、国内の陳情のみに限定されていた。
帝国中が揺れ動くこの情勢にあって、よほどの暗愚か鉄の意志がなければ到底為し得ぬ、
それは完全なる外部無視であった。
思うところあって、コスモス領主タイランは、コスモスの外のことなど一切あずかり知らぬと、
この際決めたかのようであった。そして新領主と意を同じくする頑固なコスモスの人々は、
それに暗に賛同し、従容としてしたがっていた。
太陽が雲に隠れて日が翳った。
タイランは、やわらかに、傍の者に問いかけた。深みのある、若々しい声だった。
特に声を張り上げることもないのに、人を自然と畏敬さしめるその声音の効果は、
城に仕える者たちの間に瞬く間に伝播して、
つまるところ、タイランとコスモス城に勤める者たちの間の関係は、
城主不在の間に迎えた賓客をもてなすような按配で、万事が円滑にいっていた。
「そろそろ」
「はい、何でございましょう、タイラン様」、従僕は書簡を整理する手を止めなかった。
「そろそろ、休憩ではないのか」
「はい」
「行っておいで」
「いえ、大丈夫でございます」
従僕は次ぎの函に手をかけた。
反対側には書記が立ち、御用があればすぐに領主に応じられるよう、紙を用意して待っていた。
扉が叩かれ、城の侍女が茶の用意をはこんで来た。
「タイラン様こそ、少しお休みになって下さい」
「うん。……うん」
「タイラン様」
「ああ。うん。そうしよう」
従僕と侍女と書記は協力して、領主を手紙と書類の山から引き剥がし、
無理やり軽食をとらせて、それを見守った。
さもなくばこの領主は、人に休みは与えても、自分には休みを与えようとはしなかったからである。
「先日よりこちらに籠もりきりでございます。お身体に悪うございます。少しお庭に出られては」
「タイラン様、タイラン様が種を撒かれたお花が」
「日当たりのいい場所から」
「もうこんなにも芽を出しておりますわ」
気を引くように、従僕と書記と侍女は、揃って両手を広げて、
それがどんなに可愛らしい青い芽なのか、
誇張の限りを尽くして説明してみせたが、本日の領主は、珍しくも、
彼の生甲斐である園芸に関心が傾くことはなかった。
茶を飲み終わると、タイランは全員を部屋の外に引き取らせ、独りきりになった。
眼の前に積み上がっている文書の数々は、ユスキュダルの巫女入城以降日を追うごとに、
その数を何十倍にも増して、頻々と各国から届けられているものだった。
あらゆる国の、あらゆる思惑が入り乱れた文書。
こちらが知らぬ存ぜぬを決め込んでいると、さらなる説明を求め、
考え付く限りの脅しや謙虚を匂わせて、返答を催促してくる、それらの書簡。
修辞学大全でも編纂出来そうな、それらの対外的な書面において、
各国がコスモスとその領主に求めていることは、どの一通を選んでも、簡単なひとことに
集約されるものであった。
タイランに繋がる個人的なつてまで駆使し、国々はコスモスに求めていた。
ユスキュダルの巫女の許に馳せ参じたく候。
それに対して、コスモス領主タイラン・レイズンは、無視で応えた。
鍵を持ってタイランは立ち上がった。
その部屋は、仮の政務室として使っているところの客室であり、
コスモス到着後、解く必要のなかった荷物が、まだ隅にそのままになっていた。
長持の鍵を開け、中から一枚の絵を取り出した。
持って来るつもりはなかったのに、荷物の中にまぎれて、彼と一緒にコスモスに運ばれて来た絵であった。
タイランは絵を腕に抱えて、それをよく見える位置においた。
椅子にかけた弟と、その椅子の背に片肘をかけた兄。
レイズン分家の若き兄弟を描いた肖像画であった。
兄弟は黒と青を基調としたお揃いの服を着て、
弟は内向的に、後ろに立つ兄は外向的に勝気そうに、そしてどちらもまっすぐに前を向き、
その内面的な特徴を画家の手で見事に活写されていた。
タイラン・レイズンは少し離れたところに椅子寄せ、絵と向き合った。
絵を見つめるタイランの眼は、自分の姿よりも、
弟を守るようにして椅子の後ろに立っている、黒髪の兄の方に向いた。
そこに居るのは、既に一人前の顔つきをした若者であった。
皮肉な笑い、自信の笑い、挑戦的な兄の笑い。
(それの何がいけないのです、母上)
当時の兄の声が、聴こえてくるようであった。
生まれつき背骨が曲がり、脚が不自由であった弟を、
彼らの母親は不憫に想ってかたいそう甘やかしたが、
一方そんな母に対抗するかのように、兄の方は弟の不具についてはまったく頓着せずに、
ほとんど外出させようとはしない母に代わって、弟が望む限り、たびたび外に連れ出した。
そして、どういうわけか、くだくだしい心配を重ねる愚かしい母よりも、
そんな兄のほうが、心ない人間にみえた。
そんなことは造作もないことと、弟の外出が速やかにはこぶように手を打つ兄は、
何もかもを自分の頭の中で処理しているように思え、そしてそれは必ず実行され、
完遂された、おそらく相手が誰であっても、彼は同じように、そうしたであろう。
「この子は本当に可哀想だ。みっともない」
脚の悪い下の息子を眼の前にして、重々しい溜息と共に母がそう口にするたびに、
兄は涼しげな顔をして、弟を庇い、すぐさま応えたものだ。
たとえ百人の健常者と引き換えても、わたしの弟は彼がいい。
「母上が何をお嘆きなのか、わたしには分からないな。
タイランは愚か者ではありません」
そんな時の兄は、彼には珍しく、かなり強めの口調でもって、母をやり込めてしまうのが常だった。
弟の為にというよりは、兄が何かと戦っているようにタイランには感じられて、
母が気の毒になってくるほどであった。
「みっともない?タイランはそれを補って余りあるものを持っている。
園丁の真似事。結構。彼がそれを好むならば、そうさせてやりましょう。
宮廷に出たとて誰に遅れをとるでもなし、誰にも何も云わせませんが、
それでも、それは彼次第だ。
領地で過ごしたいと望むのであれば、それもよろしい。
タイラン、自分で決めるといい」
およそ、脆弱や引け目などというものからは最も遠いところにいた兄であったが、
唯一の瑕は、財政難を抱えた分家の人間であるということだった。
しかしそれすらも、いますぐに困るといったような逼迫とは無縁であったし、
彼の才能を認めた本家側の引き立てと援助により、
最年少で都の学問所に入学が許可されるなど、その前途は洋々たるものであるはずであった。
兄は、いったい、何に挑んでいたのだろう。
体制や浮世のくさぐさや、旧弊な因襲に対して、若者が反発を覚えることは当然であるにしろ、
あれほどまでに天稟に恵まれた兄が、ほかに、何を欲していたのであろう。
積み木の町を見下ろしていた時の、兄のあの、不気味なほどに昂じていた眼。
絵の中の少年は、晴れ晴れしい顔つきで、
どのような障碍をも打破する不敵さをその微笑みの下に隠し、
世界は自分のものだと云っていた。
この頃の兄が何をしていたのか、タイランは知らない。
兄は都の学問所に通い、そして本家の肝いりで見合いをし、若くして妻を娶った。
この絵は確か、兄が学問所から休暇で帰宅した折に、記念として描かれたものであったはずだ。
レイズン家の分家に生まれた無名の若者が、軍隊も持っていない若者が、
いつの間にか築き上げた巨万の富を手にカルタラグン王朝を一夜にして攻め滅ぼし、
血刀を引っさげて人々の前に現れるのは、これより、ほどなくであった。
絵の中の少年は、その計画を、この時すでにその胸に秘めていたであろうか。
母よりも弟よりも、その後のミケランの人生に付き合うことになった兄の妻アリアケは、
それを知っていたであろうか。
カルタラグン王朝を転覆さしめ、ジュピタの御世を取り戻した若者は、その後、
もしかしたら余生を生きていたのではなかったか。
その眼前に、彼の敵がふたたび立ち上がるのを、その生涯を賭けて、待っていたのではなかったか。
(兄上。兄上が高位騎士ならば、では、星の騎士とは何ですか)
(ただの騎士だ)
(本当、ですか)
(彼らは流星の命に喩えられる。
純真といえば聴こえはいいが、地上の理からは、はみ出すのでね。
御空の勅命に従うものと、そう云われている。それに相応しい力を持って生まれる。
高潔にして、盲目。
騎士の心の聖母であられるユスキュダルの巫女の護衛にするには、
まず適任といったところかな)
コスモス城の領主の私室はいつコスモス領主が還って来てもいいように、
何も動かすことなく、そのままに整えておくようにとタイランは命じた。
城の者は困惑した。タイラン様、壁の焼け跡だけは片付けてもよろしいでしょうか。
城の者の話では、そこに架けていた絵が燃えたのだということだった。
辺境伯は、皇帝の使者として訪れたミケラン・レイズン卿の眼の前で、その画を燃やしてみせたのだそうだ。
星霜のひと。
それは、星を指し示す、巫女の絵だったそうだ。
兄の手には入らなかった。
(そして、巫女は、コスモスの城にお戻りあられた。コスモスの正統なる領主とともに)
タイランは昔の絵を片付けた。
飾るつもりもなく、誰かに見せることもない。
タイランが返事を出さぬと決めて積み上げた書簡の束の中には、兄からのものも混じっていた。
ヴィスタル=ヒスイ党なる輩からの再三の書文も同様に、その中にあった。
「続く]
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