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[ビスカリアの星]■五十三.


淵源はとおくさかのぼる。
建国伝説の中にあらわれる、ユスキュダルの巫女の記述は僅かである。
ジュピタの若者はその姿を幻視する。
竜を退治したジュピタの若者と随行の七騎士に、ユスキュダルの巫女は祝福を授ける。
後に、それは、呪いと呼ばれる。

 -------竜はわがしもべにして、みなもとを同じくするもの。
     この星はかつて彼らのものであり、その血脈は絶たれることはない。
     竜の血をすすったそなたらに安らぎはなく、竜の眷族は地に在り続ける。
     あらぶる竜の御霊を鎮められるのは、われをおいて他にない。
     騎士たちよ、その心は、竜神のものである。

ジュピタの若者はこう応える。

 -------巫女よ。それでは、御身に敵うべくもない。われらの魂は御身に還そう。
     われらがうちに宿る、竜の魂、
     われらが死後は御身が星の霊殿に祀りあげて下さるがよい。
     子々孫々、御身こそが騎士のふるさとである。
 
竜の最期の焔はフラワン家の乙女によって浄化され、
その焔は黄金の星となって飛び散り、七つに分かれて、それぞれの地に落ちた。          
その地を賜った七人の騎士は、それぞれ、カルタラグン、ジュシュベンダ、ハイロウリーン、
タンジェリン、オーガススィ、サザンカ、レイズン。
ヴィスタチヤ帝国の基盤を支えることとなる彼ら聖騎士家からは、以後、
代々にわたって高位騎士が輩出され、ジュピタ皇家を支えていくこととなる。
騎士の忠誠はジュピタ皇家に。その魂は、ユスキュダルの巫女に。
竜の血を呑んだ彼らは、ユスキュダルの巫女の前に膝をつく。
ユスキュダルの巫女を女王と仰ぎ、地上の何よりも巫女を至高のものとして崇める彼らは、
未だにその心を竜神に支配されているのであろうか。
写本によっては、ユスキュダルの巫女は一度も出てこない。
ユスキュダルの巫女が古来より騎士の聖母として崇められてきたのは何故か、
それを説き明かすために、巫女の登場箇所は後世に創作されたのだという説もある。
古来より、検証を重ねられてきたのは、この時のジュピタの若者の返答である。
竜を斃したジュピタの若者、
ヴィスタチヤ帝国初代皇帝も、果たして竜の血を呑んだのであろうか。
呑んだか否かは、創世伝説研究家の間での最大の争点の一つである。

聖騎士家との婚姻を重ねても、ジュピタ皇家には超常の騎士が生まれない。
若者がもし竜の血を呑んだのであれば、
本来であればジュピタ皇家の血統も聖七大騎士家と同様に竜神の力を有するはずであるが、
ジュピタ皇家は原則として皇族騎士の育成を禁じるために、偉大な竜の血はその真偽ごと
封印されたままである。
或いはまた、七人の騎士たちは竜の血を呑んだが、
ジュピタの若者とフラワン家の乙女は竜の返り血を浴びただけで、
聖杯に満たされたその血は拒んだのだとも云われている。
その代わり、竜の焔を受けることにより、フラワン家の乙女はその母胎に竜の爪痕を残し、
それゆえに代々フラワン家からは、高い騎士が輩出されるのだとも。
いかなる説を繰り出してみたとて、その真相は確かめようがない。
すべては伝説の彼方である。
騎士は何故、ユスキュダルの巫女に対しては指一本うごかせず、
その身を巫女の前に投げ出し、平伏するのであろう。
騎士の位が高ければ高いほど、それはおのずと竜の血の濃さと比例するのであるが、
彼らは何故、ユスキュダルの巫女に剣を捧げ、絶対の服従をみせるのであろう。
古代文献を幾らあたろうとも、ユスキュダルの巫女の正体は依然として霧に包まれたままである。
悪竜の血に汚れながら、ジュピタの若者とフラワン家の乙女はかたく抱き合い、空を見た。
空には星があった。
霊気を帯びた蒼い星だった。



宮廷に伺候し慣れた大使にとっても、ジュシュベンダは、別格であった。
塔と橋と、霧の街。
雪山と清流の間に広がる花の都、街中の楼閣が和音して刻を告げるその鐘の音は、
華やかに、また寂寥を帯びて、遠い荒野にまで重々しく鳴り渡る。
帝国最古の大學を有し、いにしえの華やぎを色濃く残したまま近代的に整備されたこの街は、
典雅と重厚を濃厚に漂わせながら、洗練された異国情緒に満ちていた。
朝な夕なに照り映えて鮮やかに燃える雪山は、この石の都に素晴らしい借景を与え、
景観条例により黒に統一された馬車が行き交う街路と、
古めかしい高い塔、流れる河と山々の調和は、荘厳にして華麗であった。
そんな街と山と河との明暗を、よりいっそう美しく、
深みを帯びたものに際立たせるのは、朝と夕べに発生する、霧だった。
細かな湿りを帯びた薄霧は、日の光を乱反射させて静かな雨のように街全体を包み込み、
それを透かしてみる街並みは、郊外からも、街中からも、
ちょうど淡色の幻燈画のように、朱や金色や藍色にきらきらと鈍く輝いた。
霧が晴れれば、澄み切った大気に、ふたたび晴れた空が広がった。
些細な瑕といえば、いささか不名誉なことに、この街は自殺の名所でもあった。
弧を描く橋の上に立ち、空をぴったりと対称に映した水面を見ていると、
異郷の星に淋しく彷徨っているような、そんな錯覚を覚えるのであろうか、
心の弱った者がしばしば河に飛び込んだし、
夕霧と鐘の音に包まれて、この街全体が星空の波間に浮遊する夢の島のようになると、
これまた詩人の心に毒された者たちが、感動極まるあまりに、塔の上から身を投げた。
花の都、ジュシュベンダ。
学問の街として他国の学生にその門をひろく開き、永遠の若さを息づかせる一方で、
隙間ない堅牢な石の建造物の間に、憂愁の色と夢想がひそかに鼓動している国だった。
といって、もちろん、ジュシュベンダは、夢幻の国ではあり得なかった。
紫と金銀の国色の旗が翻る、その宮殿。
サザンカからの使者は、深く、その頭を君主の前に垂れていた。
 「ジュシュベンダ君主イルタル・アルバレス様」
 「お楽にされよ、使者殿」
 君主イルタルは、深い紫色の襟の高い衣裳をまとい、
使者から手渡しされた書文を早速に読んでいた。
読み終えると、君主の鋭い眼が、丁寧な様子に隠されて、使者を射た。
痩身にして、威厳と気品ある風貌のイルタルは、眼前の使者に向けて、儀礼的にしろ、
やわらかに微笑んだ。
 「サザンカ家、家司イオウ家のご嫡子。カウザンケント・デル・イオウ殿」
使者は緊張していた。
大使の役目は幾度となく果たして来たものの、父の代わりにサザンカの全権大使として、
ジュシュベンダ君主のような大物と直談判するのは、これが初めてであった。
ゆったりとイルタルは若い使者に呼びかけ、露台へと手招いた。
 「時は無駄には出来ぬもの。
  お国許のお父上からわたしの遣り方については少々お聴き及びのことと存じます。
  天気がよい。外に出ましょう。イオウ家当主殿は、お元気か」
 「はい」
 「当主殿は、たまには家に御戻りに」
 「はい」
名誉を重んじる使者カウザンケントは心もち、羞恥に項垂れた。
当主である父は、もう永い間、愛人と共に別邸に住んでいる。
君主はそれをご指摘なのである。
それでも父がイオウ家の統領であり、その跡継ぎが、正式な結婚によって生まれた
長子カウザンケントであることには変わりない。
イオウ家はそのままに、父がそっくりよその場所へ移っただけで、
母の嘆きを別にすれば、父と子の関係は、しごく、まっとうであった。
他家の事情であるそのことに、
ジュシュベンダ君主があえてここで触れたのには、次なる理由があった。
 「カウザンケント殿。貴殿は近頃、サザンカ家のご息女とご婚約されたとか」
 「はい」
 「おめでとう」
ふたたび、カウザンケントはその頭をジュシュベンダ君主の前に控えめに垂れた。
イルタルはカウザンケントを伴って、露台に出た。
高い処に張り出した露台の左右は、雲をつくまでに高くそびえた宮廷の塔に囲まれて、
はるか彼方の雪山がその塔と塔の間に壮大な絵画のようにはまって一望できるように、
その位置が計算されていた。
稜線をくっきりと陽光に映えさせた岩山は、空の半分を画布としたかのような迫力で、
大洪水の伝説における高波のごとく、蒼白く、高く、力強く迫ってきた。
それはジュシュベンダの国を屏風のように飾る、美しい山脈の、もっとも美しい眺めの一つであった。
雄大な眺めに、しばし、若い使者は言葉を失くした。
空中に浮いて、それを見ているような気すらした。
彼女にこの景色を見せてやれたら。
彼は国許においてきた婚約者の顔を思い浮かべた。
主家サザンカの娘とはいえ、幼馴染である。
妙齢の息女に対して申し込まれる縁談は限りなかったが、此度、ようやくイオウ家に輿入れが決まった。
サザンカ家とイオウ家の間には永年に渡って主家と家司の結びつきとして婚姻が交わされ続けてきたので、
縁談は最初から決まるものと見做されていたものの、
家を出た父の醜聞が少しばかりそれに障碍をもたらし、もしかしたら話が流れるかも知れぬと
人の口にのぼること、限りなかったのである。
イルタルが若いカウザンケントに贈った言葉にはそういったもろもろを乗り越えた若者に対する、
祝いの重みがあった。
言葉は簡素ながら、言外にそういったことを相手に伝えるものを、この君主は持っていた。
そして丁重に振舞いつつも、ちょっとした仕草にその痩身の体躯から重たい風のような
威厳が迫ってくるところは、広く世に知られているとおりである。
 「カウザンケント殿。貴殿も知るとおり、わたしは文面よりも使者のはこぶ言葉を重んじます」
景観に見惚れていた使者は、君主に向き直った。
豪胆と判断力、機知と豪勇を兼ね具えた英明名高きジュシュベンダ君主は、
山並みを背に国色と揃いの紫と金銀の衣裳をひるがえし、両手を広げ、サザンカの使者に促した。
 「忌憚なく、遠慮なく、語るように。どうぞ」
用事を済ませ、退出するカウザンケントを引き止めて、最後にイルタルは訊ねた。
カウザンケント殿、永らくサザンカに潜伏されていたブラカン・オニキス皇子をハイロウリーンに
送り届ける任には、御身の妹御があたったとか。
カウザンケントはそれを認めた。
 「妹御の名は何と申されたか」
 「ロゼッタと」
 「ロゼッタ嬢。薔薇と棘の家紋の許に花ひらいた、薔薇の騎士。
  お連れにならなんだとは、残念至極」
 「妹は、サザンカ部隊を連れてハイロウリーンと合流したまま、まだ帰還しておりません」
 「それは。ご心配であろう」
 「お気に留めていただくほどの者ではございません」
恬淡として、カウザンケントは妹について知ることを語った。
妹が拝命したるは、オニキス皇子を無事にハイロウリーンに送り届ける命なれば。
 「オニキス皇子を迎えに出向いたハイロウリーンは、そのままコスモスに進路を変えて、
  ご存知のようにそこに駐屯しております。さすれば、オニキス皇子の護衛として、妹もそこにおります」
 「ご心配であろう」
 「かさねてのお気遣い、かたじけないことです」
 「わがジュシュベンダ騎士団にも、女騎士がいる」
 「こちらに通される前にも、近衛の中に幾人かお見受けいたしました。
  あれがジュシュベンダの誇るいらくさの女騎士たちかと、興味深く拝見いたしました」
 「ひらひらしておろう」
 「ひらひら」
 「そろいも揃って、腕に金色のリボンを縫い付けておったであろう。
  使者殿、けしからぬことに、彼女たちは騎士団の制服をよく勝手に改造するのです」
 「はあ」
 「こちらが分からぬと思って、上着の丈を肌が見えるほどに短くしたこともある。
  騎士団長が頼むので、やりすぎぬことと、統一することを条件に、いちおうは黙認してはいるものの、
  巷の流行に合わせて、それは熱心に、めまぐるしく仕様を変えよる。
  夜に針を持つならば、その時間を使って帝国古語の一つでも覚えよと云うておるが、まるで聞かぬ。
  あの者たちが消費する菓子代だけでも、莫迦にはならぬというのに」
イルタルの顔は厳しいままだったので、それが冗談なのか本気なのか、判別がつかなかった。
若い使者は世辞の必要を覚え、何とかこの場に相応しいものを咄嗟に思い出した。
 「イルタル様。このような諺がございます。
  女騎士が倖せに過ごせる騎士団を持つ国は、君主のまたとない立派の証しと」
 「して、御国はいかがかな」
 「妹は、騎士になったことを一度も後悔しておりません。そしてコスモスからは、まだ戻りません」
かすかな笑みが、イルタルの口許に浮かんだ。
対するカウザンケントの顔は、謹直そのものであった。
 「では、やはりわたしはこう云おう。妹御のご無事を祈るとな」
使者は面を伏せた。
 「妹はすでに独り立ちしております。
  何があっても、ジュシュベンダ君主のお耳に不名誉な噂が入ることだけはないかと存じます」
サザンカの使者カウザンケントは退出した。
イルタルは腹心のファリンを呼ぶよう、従者に申し付けた。

 「参内しております」
 「では、これへ」

ほどなくして露台に現れたのは、イルタルと同じ年頃の、壮年の男であった。
親しく君主に接する彼は、幼年の頃からイルタルに仕えてきた者であった。
背格好に加えて、面差しが似ていた。
ファリン・サイは、イルタルの片腕にして、替え玉である。遠めには判らない。
もっとも替え玉が必要となるような事態はこの廿年ジュシュベンダに起こったことがなく、
誰もが普段はそれを忘れていた。
ファリンはイルタルの友にして従弟、しかしてその性格は、君主とは正反対である。
 「呼び立てて済まぬな、と云いたいところであるが、近くにおったのか」
 「サザンカの使者殿と、途中で御逢いしました」
ファリンは朗らかに笑った。
 「紫に赤金のサザンカの旗が表に立っておりましたゆえ、
  会見に間に合うかと、急ぎ参りましたしだいで」
 「カウザンケント・デル・イオウ。あの青年が、イオウ家の時期統領だ」
イルタルはサザンカからもたらされた書函を従者にはこばせ、ファリンに示した。
書文を取り出したファリンは、君主の赦しを得て、内容をさっと読み下した。
 「気の毒に。このようなことに煩わされて、
  イオウ家の嫡男がわざわざジュシュベンダまでお越しとは」
一読後、ファリンは退屈そうな顔をつくって苦笑した。
 「それもこれも、わが君が使者の口上添えなくば、書文を正式には受け取ろうとはせぬために」
 「使者の様子を見ておれば、その国の内情の一端が最も正確に知れる」
それがイルタルの持論である。
ファリンは訊ねた。
カウザンケント殿。いかがでござましたか。
イルタルは首を振った。
 「丁々発止で遣り合うほどの胆力もない代わり、慎重この上ない。
  かといって怜悧なひらめきも、覇気の片鱗も見受けられなんだ。
  最初はやや舞い上がっておられたが、実務に入れば、落ち着いたものであった。
  おもしろみは皆無だが、家司の人間としては適材であろう。頭の切り替えは出来る男だ」
 「お褒めというわけですな」
 「そう聴こえたか」
 「イルタル様の人物批評眼は、辛辣この上ないため」
ファリンは主君に並んで露台の手すりに両腕をかけた。
陽光を浴びて真っ白に輝く雪山に眼を細め、気持ち良さそうに世界を深呼吸をした。
遠く掛け声が聴こえて、サザンカの使者が馬車で退出するところであった。
ファリン・サイは大きく伸びをした。
 「使者殿は観光もせずに、そのままお帰りか。わたしは若い者に甘いので、
  ジュシュベンダ君主の眼光に耐えただけでも、あの新人には合格と云ってやりたいですな」
 「ファリン」
 「は」、ファリンは向き直った。
 「ヴィスタル=ヒスイ党の一件、そちに任せる」
 「ミケラン卿の不正を訴えている、レイズン本家の郎党たち」
 「そう」
 「ご不快で」
 「こうしてサザンカが意向を探りに来たからには、こちらも旗色を明らかにしておかねばなるまい」
 「御意。往来で決起書をばら撒くくらいならば、まだ可愛げがありますが、
  このように麗々しく本家の名を繰り出した文書を送りつけて、各国に協力を媚びるなど、
  まあ何といっても、思いあがった者共で」
 「若い者には甘いのではなかったのか、ファリン」
 「イルタル様が許容する範囲で、という意味です。
  わが君が気に入らぬものを、わたしが引き立ててやる義理もない」
  
イルタルは山々を眺めているばかりで、同意をみせなかったが、
その胸中はファリンにも察せられた。
この廿年、ミケラン・レイズンのような小物に帝国が操られているのは
大国ジュシュベンダにとって決して愉快なことではなかったが、
ミケラン卿は、ヴィスタル=ヒスイ党のような、
このような子供だましの甘言を弄することは決してしなかった。
ハイロウリーン及び、ジュシュベンダの二大聖騎士家を向こうに回して、
どちらも懐柔せず、しかして敵には回さず、
カルタラグン無き後、あとに残った二大軍事力の均衡を保つことによって、
帝国の治安を無血のうちに水鏡のごとく平らにしていたミケラン卿の手腕については、
二人とも認めるところである。
 「カルタラグン滅亡直後、どのように荒れてもおかしくはなかったものを、な」
 「ミケラン卿も、ヴィスタル=ヒスイ党には黙殺の構えとか」
おかしそうに、ファリンは自分の袖口を引っ張った。
 「それにしても、聖騎士家カルタラグンを壊滅させてのけたあたりが、
  彼の絶頂期であったかも知れませぬな。
  ちょうどあの頃は帝国の方々で新旧の代替わりや、農民一揆があった直後で、
  当方にしろ、ハイロウリーンのフィブラン・ベンダ殿にしろ、
  旧臣との兼ね合いや、おのが領地のことで手が一杯でありましたから。
  さもなくば、皇帝代行カルタラグンを廃し、ゾウゲネス皇帝陛下の両翼となって、
  陛下を盛り立ててゆく若手の筆頭には、我らやフィブランこそがそれに相応しい役でありましたろう。
  改新劇を起こしたのが、レイズン家の分家の、しかも無名の若者であることに、
  当時はみな度肝を抜かれてしまいましたからな」
 「突如として飛び出して来たかと思うと、私兵を率いて、単身でそれを果たしてのけたのだ」
イルタルは昔を回顧するように、街を一望した。

 「カルタラグンはいずれ、皇帝代行の座から引きずり降ろさねばならなかった。
  だが、それをあのように、ほとんど一夜のうちに、二十歳になるやならずの若者が、
  流血の奇襲でもって果たすなど、誰に予測がついたであろう」

皇居の焼き討ちを果たし、情報が右往左往する間にも、
ミケランはそのままカルタラグン領に進軍し、かの地を焼け野原にしてしまった。
それを当時、静観する他なかったのは、
もし軍を挙げれば、ミケラン卿によって担ぎ出されたジュピタ皇家に剣を向けることとなり、
タンジェリンのようにカルタラグンに寄り添うことそのものが、皇家への叛逆を意味したからだ。
ミケラン卿には大義名分があり、そして駆逐されてゆくカルタラグンには、それがなかった。
三代に渡り皇帝の座を奪っていたカルタラグンは、正義と時流をよく捉えた無名の若者の剣の先で、
さようにして壊滅したのである。
 「そのわりには、ゾウゲネス皇帝を立てての、陰の役者でしたから。
  それと、彼が分家の出であったことも、作用しましたでしょうかな。
  レイズン本家は良きことは本家の手柄に、まずいことは全て分家のミケランに押し付けて、
  これ以上聖騎士家の頭数が乱れることなく、その体面を保っていることが出来たのです。
  たとえミケラン卿の傀儡と成り下がったとしても、彼らには損はなかった」
 「その後のミケラン卿が隠居同然に過ごしていたのは、身を護るためにも、当然の身の振り方である。
  大博打を成功させた後に、速やかに裏方に身を引いたから良かったようなものの、
  そうでなければいかにミケラン卿が皇帝の友人を謳おうとも、
  あのような次に何をするか分からぬ危険分子など、
  とうの昔に他ならぬ本家の手によって、闇討ちにされていたであろう。
  たとえ内心では新たなる野心を燃やしていようとも、ひとたび警戒されては、
  二度と、何ごとも起こせなかったであろう。
  それがどうだ。あの男、ユスキュダルの巫女に目をつけよったわ」
 「しかし廿年の月日を経て、その本家がようやく、此度は抗議の声を上げたわけです。
  ミケラン卿の財力をもってしても抑えられぬ、若者たちの意気と情熱が」
 「それが、ヴィスタル=ヒスイ党?」
イルタルは、気品ある仕草で手を空中に泳がせてみせた。
 「天下に恥を晒して恥じぬ若造どもと、かつてのミケラン青年を同じにされては、
  ミケラン卿もお困りであろう。ファリン、何を笑っておる」
 「時は流れたものだと思いまして」
 「ふん」
 「我等の時代には考えつきもせぬ慮外を、平気でするものだと。
  選りにもよって、翡翠皇子の名を用いるとは。
  皇子には二三、お言葉を賜った程度ではありますが、
  その折の強い印象が忘れがたく、他のどのような女の顔を忘れても、
  皇子のことだけは今も鮮やかであるというのに、それをこのような舞い上がった若造どもがと思うと、
  まるで、我々の時代を軽々しく穢されたような気がして、気分が悪い。
  それが時が流れるということであり、新旧の交代であり、
  我々もまた先人に対して行ってきたことだとはいっても、
  昔日のカルタラグン宮廷を知る我々には到底、思いもよらぬことです」
 「つまらぬ感傷と割り切ることもないぞ、ファリン。
  ミケラン卿には運があり、本家の若い彼らには、どうやら運がないようだ。
  過日とは大きく異なり、いまは、ミケラン卿と同世代の我々が、各騎士家の統領の時代なのだ。
  この廿年、ミケラン卿はカルタラグン王朝時代の怠惰を一掃し、帝国に磐石の安定をもたらした。
  そして我々は安穏と領地で寝ていたわけではない。
  撥ね上がった若党どもが今度なにか事を起こそうとしたとても、奇跡は二度とは起こらぬよ。
  この陳腐な名称。
  ヴィスタル=ヒスイ党。
  この名称ひとつで、すでに彼らに力を貸すものはいないであろう。
 「疫病でも大流行して、廿年前と同じように、盛大に若手に代替わりせぬ限りは、ですな」
 「カウザンケント殿には既に返答いたした。
  ジュシュベンダは、ヴィスタル=ヒスイ党なる賊党には与力いたさぬ」
 「そのことで、イルタル様」
 「フラワン家の奥方が、対ミケランを謳うヴィスタル=ヒスイ党に助力しているとの報か」 
 「リィスリ様がレイズンに入られたまでは、事実のようです」
 「女とは、分からぬもの」
イルタルは、露台から踵を返した。
 「もっとも、フラワン荘園の奥方におかれては、翡翠皇子を殺された怨みからではなく、
  ご令息ご令嬢を案じての、その選択であろうがな」
丁度、塔の下では、女騎士たちが固まって宿舎へ行くところであった。
彼女たちの姿は、そのはなやかな話し声と相まって、ひとかたまりの花のように陽光の下にあった。
紫と金銀の騎士団服に包まれて、剣の影を黒く引いて、日向の中にいた。
手すりに片手をかけて、イルタルはそれを見下ろした。
何かおもしろいことを云うものでもあったのか、女騎士たちは笑い崩れた。
するとちょうどその時、師団長のしかめ面が廻廊の向こうからやって来た。それを見かけると、
彼女たちは慌てて口を閉ざし、笑顔で走り去って行った。
女騎士が倖せに過ごせる騎士団を持つ国は、君主のまたとない立派の証し。
なんの、そなたらにしてやれることなど、何もない。
イルタルはその眼をすがめた。
戦いにおいて、そなたらが惨たらしく切り刻まれる様子を、なるべく見たくないと思いこそすれ、
君主として、それは考えはせぬ。
そなたらの父として兄として、そなたらを擁護し、そして死地に送り出すだけである。
騎士の名誉を授けるその代わり、何の助けもしてやれぬ。
竜の血を分けた者たちよ。
 「騎士は騎士たるべくして生まれ、騎士として死ぬ。
  あの者たちの中にもいるのであろうか-------怨念を胸に抱く者が。
  怨みに突き飛ばされて、その人生をまげて、
  その心、その生涯を、他ならぬ己の手で切り刻まんと-----女の身で剣を握った哀しみの者たちが」
 「イルタル様」
 「騎士の母たることは望まれても、騎士なることは望まれぬ哀れな種族。
  騎士になることそのものがあの者らの業であり、絶え間ない否定と疑念である。
  竜神の血が濃ければ濃いほど、あの者たちへの祟りは尽きぬ。
  それとも女は、煮え湯を呑まずば、本物の騎士にはなれぬのか。
  その業火が、己自身を苛んで灼くものであったとしても、闘うことしか選べぬか」
 「………」
 「ハイロウリーンを率いるルビリア姫は、未だ、本国にオニキス皇子を引き取らせてはおらぬ」
 「……いろいろと、噂は」
 「あの姫騎士には、さすがに同情の念もおこらぬな。
  復讐の一念を保つために、次から次へと自分をわざと苛むことで恨みを新たに燃やし続け、
  悪評までをその動力源に変えておる。見え透いた真似を、いつまでも」
 「ううん」
 「ファリン、そちが云い難いことをゆうてやろう。
  翡翠皇子の后候補であったガーネット・ルビリア姫は、翡翠皇子の異母兄である、
  オニキス・ブラカン皇子を早々にたぶらかし、その情婦におさまっただけでなく、
  その寵愛を利用して、カルタラグンの妃に返り咲こうと目論んでおる。
  卑腹出の日蔭皇子と翡翠皇子。似てもにつかぬご兄弟であられたが、
  あの姫、ミケラン卿への復讐のためには、その身をいかなる者の前に投げ出そうが、厭わぬようだ。
  その志はもはや敵討ではない。自己撞着と、妄執である。好かぬ」
好かぬと云っておきながら、イルタルは本気でそれを想うものではなかった。
彼は女騎士の苦難をよく知るだけに、概ね女騎士には同情的であり、いまの一言も、
ルビリア姫への嫌悪感というよりは、それに便乗したオニキス皇子への唾棄であることを、
ファリンは側近なだけに見抜いていた。
それだけに、親しい仲にだけ可能な揶揄でもって、ファリンはイルタルの感情を鎮めにかかった。
 「御上、ビナスティ・コートクレールのような健やかな例もございますれば…」
 「クローバの従騎士にと最初に命じた時にも、
  ソラムダリヤ皇太子殿下の召喚を受け、極秘のうちに都に向かわせた時にも、
  服命の態度ではなく、あれは諦観で受けておった。
  とうの昔に死んだはずの女です、何なりと、そう云いよった」
 「………」
 「笑顔でな」
そんな時の君主の口調に籠もるものは、先々代のご落胤であり、彼の父とは異母兄弟にあたる、
年下の伯父パトロベリ・アルバレスがそうする時に、ひじょうによく似た。
しかし、次ぎに放たれたイルタルの命は非情であった。
ファリンの見ている前で、彼は書記を呼び、書き取らせた。
各師団に伝達。
常時編制騎士団のうち、偶数に対して遠征の用意。
コスモス領主タイラン・レイズンの返答無きため、最後通牒において通告したる刻限をもって、
ジュシュベンダはコスモスに進軍する。これはコスモスとの開戦を意味したるものではなく、
非常の事態にあるコスモスに対して、帝国治安維持を担うレイズン家が未だ当該地を管掌せざるため、
帝国法に基づき、聖騎士家の権限を行使し、コスモスの監視にあたるものである。  
 「ファリン」
 「は」
イルタルのまとう紫と金銀の衣裳に、雲間から射した陽があたった。
山脈は青空に聳え立ち、その鋭い峰は峻厳に尖り、国を大きく覆っていた。  
ここは、光と影の陰影の国だった。そして君主はその陰を背負う。
歩き出したイルタルの紫の袖が風にひるがえった。
 「瑣末ごとだが」
 「何なりと」
腕を胸につけてファリンは通りすがりに落とされる主君の次なる命令を待った。
ファリン、そなたに頼んですまぬが、近衛の女騎士らに伝えよ。
急迫の時である、明日までに騎士団服を正しく戻し、整えよと。
騎士団はそなたらを遊ばせるためにあるのではない。
昨年、喋るしか能のない女どもと放言した中隊長を井戸端で吊るし上げにしたそなたらである。
その越権行為にふさわしき価値を、今こそ知らしめよ、そう伝えよ。
イルタル・アルバレスが露台から立ち去るのを、ファリンは目礼で見送った。
ファリンの叱責は必要なかった。
宿舎に立ち寄った彼が見たものは、
いらくさ部隊と呼ばれるジュシュベンダ騎士団の女騎士の精鋭たちが、
その眼でサザンカの使者の到着と退出を見届けた後で、自主的に制服を正規の姿に戻し、
身辺を片付け、無言で剣を磨いている姿だった。

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その山々は、フェララやナナセラ、或いはジュシュベンダのものとも、
あらゆる国から遠く仰ぐ、帝国を三日月型に囲むあの山脈とは、
はっきりと趣きを変えていた。
極北を知る者ならば、それを、氷山と呼んだかも知れない。
魔の山は、はるか彼方に細く連なり、途中で凍った津波のように、
海の中から高々と聳え立っていた。
海底が隆起して顔を出しているのではない。漂う氷塊でもない。
しかしそれは幻でもないのだった。
半島の先が大きく湾曲しているために、水平線上に山々があるように見える、その奇観に、
 「まるで、海の彼方に、冬の大陸があるようだ」
若騎士たちは、しばし馬を停めて、海の上に突き出してるその眺めに魅入った。
海崖には、強い風が吹いていた。
変わりやすい北の天気に、空は翳ったり晴れたりを繰り返し、流れる雲のふちは虹色を帯びていた。
季節や時刻によっては、雲と海の中に溶けるようにして、まったく見えない山である。
その空は、いまは晴れていた。
たっぷりとした光と風が半島を包み、頭上には鳥が鳴いている。
こういった景色が心にかなうのか、シュディリスの顔色も明るかった。
麺麭くずを投げ上げると、海鳥がそれを空中でつまんで、すいっと崖を滑っていった。
晴れ晴れとした空だった。
 「話には聴いていたが、本当に海の上に山が浮かんでいるように見える」
 「種を明かせば半島が内陸側に屈曲しているだけのこととはいえ、雄大で、いいものですね。
  パトロベリもご機嫌がいいようだ」
 「彼も、海が好きなのかも知れない」
 「何処かでこの崖を降りることが出来たら、波打ち際を駈けさせてやれるのですが」
 「君がそんなことを云うから、下に降りたがっている」
 「やはり止めておきましょう。パトロベリが大はしゃぎするとろくなことがありません」
パトロベリとは、シュディリスの馬の綽名である。すっかり定着した。
 「パトロベリ」
本人が聴いたら卒倒するようなやさしい声で、シュディリスはその名を呼び、馬の首を撫でた。
本来、馬に名をつける趣味はシュディリスにはないのであるが、どうもこの馬、
パトロベリと呼ばないと思いどおりには動かないのである。
 「賢い馬です」
グラナンなどは投げやりに褒めている。
普段はぐうたらなくせに、勘だけはよい馬で、乗り手を振り落とさんばかりに暴れたり、
ぐずぐずとわき道に逃れて隠れようとするので、何かと思えば、
しばらく待つとその前方からその土地の哨戒隊が現れたりする。便利な馬だった。
そしてそれは、北方に向かうにつれて、頻繁になっていた。
 「レイズンは、ハイロウリーンの動きを牽制しているのだろう」
 「オーガススィではなく、ハイロウリーンを」
すぐさまグラナンはその意味を察した。
北方三国同盟により、通行権がある。
 「軍を率いてコスモスへ至るには、峠の険しいオーガススィからも至る道がある。
  全体の何割かは、こちらに割くのではないだろうか」
 「そうでした。神速と呼ばれるハイロウリーン軍だ。
  邪魔するものなど蹴散らして、あっという間にコスモス入りを果たすでしょう」
 「目立たぬように要所を避けてずいぶんと北上してしまったが、
  お蔭で思いがけず一度見たかった景勝がみれた」
シュディリスは気持ち良さそうに風を吸い込み、青い海に眼を向けた。
同意するように馬パトロベリも首を傾けた。
人間のパトロベリはともかくも、相手が馬になると、行動は似ているのに喋らないだけましとみえて、
シュディリスは癖の強い馬パトロベリを甘やかし、よく御していた。
 「弟のユスタスが二番目にもった馬に似ている」
やがて、崖から離れ、シュディリスはゆっくりと馬パトロベリを歩ませた。
 「我侭で、手を焼かせたけれど、かわいい仔馬だった。乗馬はユスタスがいちばん巧かった」
 「ユスタス様が」
 「そう。競争でもいい勝負だった。
  馬をあやすのも叱るのもユスタスは得意だった。
  荘園ではいろんなものを飼っていた。
  朝から晩まで、きょうだいで餌や散歩の世話をしていた」
 「シュディリス様もですか」
シュディリスは頷いた。
リリティスほど-----動物を愛せるわけではなかったけれど。
返事は、シュディリスの口の中で消えた。
もっとも高貴で悲惨な人生。
それが、女騎士へ与えられる定説だった。
フラワン家の父母はリリティスを騎士には育てぬつもりでいたはずだ。
馬を酷使している商人を見かけたリリティスが、泣きながら手にした枝で商人を打ち、
振り下ろされた鞭を素手で握って止めて、
地に引きずり倒され、殴打されてもまだ闘い、枝で商人の脚を刺したあの時。
あれは、リリティスが九歳の時だった。
見よう見真似で兄と弟の剣稽古に倣ううち、
リリティスは騎士としての領域にいつの間にか踏み出していた。
それとも両親は、トレスピアノの姫君である限り、騎士になってもリリティスには危険はないと、
それほどまでに竜の血を甘くみていたのだろうか。
 (兄さん。私、騎士になるわ)
それが騎士の血を受け継いで生まれた女の、本来辿るべき道だった。
服従もなく迎合もなく、逃げ道もなければ終わりも無い。
剣と高潔だけでその身を飾り、戦いのうちに死ぬことを夢みて生きる。
竜の花嫁、たとえ倖せにはなれずとも。
 
 「シュディリス様、そろそろ、オーガススィ領内に入ります」

海は遠ざかり、海上に山が浮かんでいる名勝もやがて峠の向こうに見えなくなった。
風が冷たくなり、道の左右に揺れる植物も、北にしか見受けられないものが増えている。
 「それで、ご相談なのですが、シュディリスさま、いっそ山越えしてオーガススィを頼りませんか」
 「オーガススィを」
小川のほとりで馬パトロベリに水を飲ませていたシュディリスは意図がつかめず、
怪訝そうに顔を上げた。
 「ジュシュベンダ騎士の君がそれを。グラナン」
 「もちろん、その際には、わたしは領外追放または拘束覚悟ですが」
道々ずっとそのことを考えていたのか、自分の馬にも水を与えながら、
グラナンは意気揚々と続きを述べた。
 「オーガススィは、リィスリ・フラワン・オーガススィさまのご実家です。
  現領主殿は、リィスリ様の御兄上。シュディリス様は歓待されるでしょう。
  聖騎士家の中でもっともフラワン家の力になってくれるのは、
  他ならぬオーガススィではありませんか。頼らぬという法はない」
 「確かにオーガススィからの使者ならば何度もトレスピアノに迎えていて、
  顔見知りの者も多いが」
シュディリスは言いよどむ。
そんな彼に、馬パトロベリが前脚で地面をかいて、餌をねだった。
馬に草を与えておいて、シュディリスはもう一度、グラナンを見つめた。
「情報です」、グラナンは馬パトロベリの鼻先に草を揺らしながら、真面目な顔で応えた。
 「正直申し上げて、こうしてレイズンの網の目をかいくぐり、
  単独で行動しております現在、なにがどうなっているのか皆目不明で、
  元間諜候補だったわたしとしては、これは我慢ならない状況なのです。
  街道沿いで聴き込んだ僅かな情報から流言飛語と事実を区別して、
  二人で立てる推論だけでは、その中から確実と思われるものだけを拾ったとしても、
  心許無いことこの上ありません。
  その点、オーガススィなら、フラワン家とは縁続きで、リィスリ様のご実家です。
  中枢からは離れているとはいえ、連絡網も充実しており、帝国の動向には詳しいはずです。
  ひとまずここで、正確なところを知りたいのですが」
 「オーガススィは交易国であっても、動乱には殆ど関与しない北国だ。それでも」
 「ユスキュダルの巫女さまが争点とあらば、立ち上がらぬ騎士国はありません」
 「グラナン」
 「はい」
北にしか咲かない花。
黒々と広がる針葉樹の森。
極北の風の唄声、母リィスリの国。
 (森の上に流れる光の虹。北の銀河と、星降る夜と)
シュディリスは馬パトロベリの首を引き寄せ、それが甘えてくるのに任せた。
そして馬の首の下からグラナンに、気安い者同士へそうするように、淋しく、かすかに微笑んだ。
 「グラナン。それは口実だ」 
 「はい……」
見透かされている。グラナンは諦めた。
 「申し訳ございません」
 「いや」
馬パトロベリはシュディリスの気持ちも、グラナンの気持ちも分かるのか、
静かにシュディリスに顔をすり寄せている。
 「ここまで附いて来てくれただけでも、ありがたいと思っている。
  本来、そのような義務はなかった貴方なのに。
  パトロベリについては、あれは彼が勝手に加わり、勝手に離脱したのだからともかくとして、
  貴方の行動が軍規違反として咎められぬように、わたしからイルタル様には頼もう」
 「いえ。それは違います」
慌ててグラナンはシュディリスの間違いを正した。
 「先だっても申し上げましたとおり、クローバ殿と共に巫女を探しに赴いた騎士ビナスティは
  巫女の玉体を御護りするために、イルタル様より特命を帯びておりました。
  ビナスティはその暫定的な権限を広大解釈して行使し、
  巫女を追うシュディリス様の護衛をわたしに命じたのです。
  従って、わたしは軍規に背いたわけでもなく、またジュシュベンダ騎士として
  道に外れたことはしておりません。よしんば、このままオーガススィに入ったとしても、
  ユスキュダルの巫女の御命を護ることは国籍問わず騎士としての至上命令なれば、
  ジュシュベンダの騎士と正面から名乗り、紹介状を持たぬまま入城したとて、
  わたしがオーガススィに怪しまれることもないでしょう。-----シュディリス様」
そこで、グラナン・バラスは、草地に膝をついた。
申し訳ございません、シュディリス様。
 「いいよ、グラナン」
シュディリスは馬パトロベリをやさしく押しやり、グラナンの馬と一緒にさせた。
二頭の馬はじゃれあって、草原で遊んだ。
 「当然のことだ。むしろ、巻き込んで申し訳なく思います。友人トバフィルの兄である貴方を。
  ------重大な秘密まで背負わせてしまい、まるで騎士の志操をためすような真似を」
 「率直に申し上げます」
グラナンは頭を垂れた。
 「シュディリス様。各国より軍隊が出動せんとしている目下の情勢に至っては、
  このまま何処へ向かうにしても、
  もはやわたし一人では、シュディリス様を護りきること、かないません」
 「うん」
 「出来ぬことを安請け合いして、御身を危険に晒すわけにはまいりません。
  また、そのような過信が赦される状況でもございません。
  パトロベリ・テラ様が同行しておられた間は、
  まだしもあの方の名が瀬戸際で有効に使えることもあろうと甘く考えておりましたが、
  彼なき現在、そして巫女を巡って帝国が不穏に揺れ動きはじめたこの局面下において、
  わたしごとき騎士一人で、どうして今後トレスピアノの御曹司を無事に護りきることがかないましょうや。
  これは、わたしの弱音から申し上げているのではありません。
  いち騎士としてユスキュダルの巫女を御守りしたい一念と、
  シュディリス様を護衛する義務、この二つを合わせるならば、
  どうしてもここは大国の力を借りる他ないとの結論に至ったものです。さもなくば、
  孤立しているコスモスに辿り着くことも、巫女の御許に馳せ参じることも、
  その成功の可能性は極めて低いものとなるでしょう。また、以前のように三人で奇襲をかけて、
  レイズン小隊を突破するなど、そのような奇跡をあてにしていいような小事でもございません」
互いの口からは決して出ない事実を、二人は無視した。
シュディリスはカルタラグンの皇子であり、リィスリの子ではない。
もとよりオーガススィとは縁がない。
 「その点、オーガススィならば、リィスリ様のご実家。きっと力になってくれましょう」
グラナンの眼は強く、この際、利用出来るものはすべて利用しましょう、と云っていた。
彼は旅の間に培われた友情と、高貴な若者への尊敬と、また彼自身の意思として、
シュディリスの前に膝をつき、熱心に説得にあたった。
 「たとえオーガススィが軍隊を出すことは無くとも、
  護衛の一隊はフラワン家の世子のために貸し出してくれましょう。
  わたしとしては、ルイ・グレダンさまと同じく、シュディリス様にはこのまま
  トレスピアノに御戻りいただくのが、その御命、その秘密を護りきるためには
  最善策と思ってはおりますが、シュディリス様はそれを承知なさいますまい。
  星の騎士である貴方さまこそ、ユスキュダルの巫女さまが必要とされ、
  またその御許に参じるべきだと、わたしもそう考えております。
  それゆえに申し上げます。
  お赦し下さいシュディリス様、グラナン・バラスは、もはやこの身一つで
  御身を護りきること、かないません」
 「よく云ってくれた、グラナン」
力不足であると自ら打ち明け、騎士の恥辱と引き換えに、グラナンはシュディリスの為を想っている。
拝跪するグラナンを前に、シュディリスは立ったままでいた。
それは主従を示すものではなく、この場においてこの二人の青年の間に必要な、友誼の証しであった。
 「その提案------よく考えてみよう、本来わたしは助力を求める資格のない者であり、
  そのせいで、かの地の騎士を危険に晒すことになるかも知れぬのだから」
 「是非に。もちろん、オーガススィがそれを赦す限りは、ジュシュベンダ騎士であるわたしも
  最後までシュディリス様にお供いたします」 
感動しながらグラナンは誓った。 
何としても、レイズンの包囲網をかいくぐり、コスモスへと辿り着かねばならない。
このまま二騎馬でそれを果たそうとしても、各騎士団が続々とかの地へ集結している今となっては、
途中で怪しまれて捕まるのがおちである。
それくらいならば、オーガススィの力を借りたほうがいい。
 「パトロベリ様が立ち去り、妹リリティス様がミケラン・レイズン卿に
  囚われていることをシュディリスさまからお聴きして以来、ずっと考えていたのです」
グラナンは涙をぬぐった。
どうして突然泣けてきたのかは分からなかった。
北の空は透明に清んで、どこまも青く、後にしてきた海鳴りが、
この天地にも静かに鳴り渡っているような気がした。
彼らがいるその野原は古戦場だった。
そよぐ草は、無力な人々の泡沫の命にも、遠い昔に斃れた彼らと同じ騎士たちの囁きにも想え、    
時としていたましく、時として虚しく、そして美しかった。
この世界が陰影に富んで、そして美しいのは、こうして姿を失くした名も無きものが集っているからだと、
グラナンにはそう想われた。  
 「弟トバフィルが、」
グラナンは声を詰まらせた。
弟が、申しておりました。わたしは弟がリリティス姫に懸想していることなど知りませんでしたが、
それでも弟は申しておりました。
初めてフラワン荘園でリリティスさまに御逢いした時、弟は、
リリティスさまをユスキュダルの巫女だと想ったそうです。  
おかしなことを云うと、わたしは笑いました。
巫女が馬を操るなど聴いたこともない。
ですが、弟にはそう見えたのだそうです。
白竜に跨り、気高きものが髪をなびかせ、流れる星のように駈けていると。   
あらゆる偏見に晒され続けている多くの女騎士たちは、それでもそれを乗り越えてきた。
誰よりも強く。誰よりも速く。
男たちよりも、女たちよりも、脈打つ竜の血が滾るままに、男と同じように、女ではない者のように。
時を超えて。



「続く]



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