[ビスカリアの星]■五十四.
本来であれば縁もゆかりもない類稀な美しい女が二人、
顔を突き合わせているというのも、奇妙な夜ではあった。
かのリィスリ・フラワン・オーガススィほどの佳人は別格としても、美しい女も様々である。
そこにいる二人の若い女は、どちらにも容姿に小さな難があり、そしてその難点がそのまま魅力となって
人の眼には映る、そんな女たちであった。
年頃は同じである。
どちらかといえば、片方がより美しく、そして片方よりも、より深い欠点を持っていた。
白い額から眉間にかけて、惨たらしい縦の傷痕があった。
それさえなければ、帝国一の美女といっても差し支えない、女らしい華やかさと、
人好きする優しさを持った顔立ちであるだけに、乾いた泥が張り付いたような女の額のその醜い傷痕は、
初対面の者をぎょっとさせ、何となく後ろめたくさせ、同情を覚えるよりは、悲惨を見た気持ちにさせた。
しかし見てはならぬものを見るようにして、しばし彼女の顔を見つめるうちに、
しだいに、顔の欠損をまるで気にしてはおらぬ女のその笑顔や、
実に気さくで感じのいい声音や、こぼれるようなその微笑に魅了されて、
女の顔の致命傷とも思える額のその傷痕すら美貌には外せない要素であるかのように、
顔の上に傷のない女よりもますます輝いて見えてくるのは、やはり、美人は得だと云うべきであろうか、
それとも他の女であればこうはいくまいと、女の愛すべき性質に感心するべきであろうか。
後者であろう。
どちらにせよ、その額の醜い裂傷はその女を外観を損なうよりも、「額に傷のある美人騎士」として
多くの人々に好意的に認識され、いわば名工の手になる工芸品のうちに、
珍しくもわずかな損いのあるものの方が、そうでない品よりもより珍重されて貴ばれるようにして、
つまるところ時代の流行や好みを超えて老若男女誰が見ても美女と認める、さほどに美しい女なのであった。
美しい女。
同性の嫉妬と羨望の的である。
だが、対峙した相手もこれまた美しい場合には、はたしていかなることになるのであろうか。
互いを褒めあい、愛で合うか、それとも、さまでに美しい容姿を持ちながらも、
やはりやや劣るほうが、やや勝るほうに、女たちがしばしば抱く、あの熱く苦しく、また見苦しい、
出口なき女の嫉みを抱くものなのであろうか。
「エステラさん」
ミケラン・レイズンの愛人エステラは、夢から醒めるようにして、眼の前の女の顔から
現実にたち戻った。
見惚れていたのである。
ジュシュベンダの女騎士ビナスティは、香りのいい湯気の向こうから朗らかに、
「夜のお茶が届きましたわ。お砂糖は幾つ」、にこりと微笑みかけた。
それだけで、何やら春風にも似た嬉しいものがふわっとこちらに流れてきた気がする。
柔らかそうな金髪に、若さをぴんと満たした白い肌、うるみを帯びた眸と唇。
女にしては上背があるほうであるが完璧な均衡を持っており、
華奢すぎず、ふくよかすぎず、ちょうどよく盛り上がった豊かな胸も細い腰も、
女の気品と健康的な色香を余すところなく満たしており、最高に抱き心地がよさそうな、そんな美女である。
愛想のよさも、厭味なく、白い手で茶器を扱うその仕草も、気取りなく、
そのくせ無駄な媚も動きも微塵もなくて、
すらりとした長い脚をはこぶ手際のいいその働きぶりの隅々に天性の細やかな気遣いをみせており、
エステラの眼にも、見ていて実に感じがいい。
皇居の、内親王の宮である。
女騎士は砂糖壷を傾けた。
「お砂糖の形もいろいろありますわ。細かいのと粗いのと、茶色いのと白いのと。
さすがは皇女さまの宮ですわね。器の柄も、かわいらしいですわ」
路上で拉致されるままにエステラは皇太子ソラムダリヤの客人として皇居に迎え入れられていた。
数日早くジュシュベンダから都に到着して勝手の分かっているビナスティがエステラの侍女よろしく、
エステラの身の回りを不自由のないよう整えてくれ、エステラの屋敷から必要なものを取り寄せる手配も済ませ、
そうこうするうちに気がつけばもう夜のいい時間となっていたのであるが、
夜にも、ご婦人方には就寝前のお茶の時間というものがあるそうで、それが運ばれて来たところだった。
いろいろと訊きたいこともあり、エステラはもう何度もビナスティに話しかけようとしているのだが、
機を捉えようとしては、気がつけば、この美女の姿にぼんやりと魅了されている。
しかしようやく、落ち着けそうであった。
ビナスティは、はたして何の用事で、
ジュシュベンダからジュピタにまで遥々やって来たのであろう。
「夜だから…」
「はい」
「太るかしら。お砂糖、二つなんて」
女には共通の悩みである。ビナスティは少し眉を寄せた。それから、
「そんなにも細身のエステラさんにはそんな心配はご無用ですわ。でも、気になるのでしたら、
明日のお茶のお菓子を一つ減らせば同じです。ほら、わたくしも二つ入れましたわ」
自分の茶の中にも砂糖のかたまりを落として、ほんのりと笑ってみせた。
その笑顔にエステラは全面降伏した。
保護欲をそそるような繊細な表情、母性の包容力、
大人びた顔立ちのうちにも、その笑顔は屈託なく、性格も素直で実にいい。
ビナスティ・コートクレール、これはまことに、美女である。
その女性美、健気ないじらしさに、男性ならば一撃で悩殺されるのではないだろうか。
しかし、帝国の都ジュピタの、その皇居の中に手厚く護られているというのに、美人騎士は夜になっても
まだ簡易武装を解いてはおらず、しなやかなその肢体の傍には常に、怖ろしげな剣を引き寄せ、手離さなかった。
習慣なのだと云う。
「国の騎士団では、いらくさ隊におりましたの。
女騎士ばかりで構成されていて、要人警護が主な役目ですが、その他にもいろいろと」
いらくさ隊。
それはジュシュベンダの誇る女騎士の精鋭部隊にして、
俗な説明するならば、女騎士のいいとこ取りをした隊である。
容姿端麗なる上に、平均値以上は腕が立つ女騎士を揃えた、騎士団の花園。
その成立の裏話は少し下らない。
その昔、各隊に配属された女騎士を巡って男たちの間で遊び半分、本気半分の決闘が流行したことがあり、
日夜争いが絶えなかったのに業を煮やした当時の君主が、
そこもとらは発情期の動物なのか、女たちを隔離せよ、と命じたのが、そもそもの、いらくさ隊の起源であるらしい。
監視の眼が行き届くように美しい女たちが近衛隊の中にいるのにはそういった由来がある。
かといってそれは、彼女たちの真価を損なうものではない。
二大騎士団の一つ、ハイロウリーンと肩を並べるジュシュベンダ騎士団に入隊を許されることそのものが、
大いなる栄誉である上に、近衛騎士団の名誉にかけても、そこに集うのは、
あらゆる点からみて恥ずかしくない、優れものの騎士であり、華やいだ女たちであるからである。
どうせ女騎士になるのならばいらくさ隊、騎士の嫁さん選ぶのならばいらくさ隊、そんな戯れ唄もあるほどで、
半ば歌劇団ふうの扱いにしろ、彼女たちは騎士のみならず一般人からも憧れのまとであった。
しかし、幾らいらくさ隊所属といっても、これほどに美しい女ならば他にも生きる道は幾らでもあったであろうに、
(リリティスといい、ビナスティといい、どうして騎士になったのかしら)
騎士の血を持たぬエステラには、それでも、やはり女騎士には決定的に理解不能なところがある。
騎士と、そうでない女を隔てているもの。
(ぞっとする)
肩で風きって歩く女騎士は、しばしば女たちの間で、陰口の対象となってきたものであった。
(なによあれ。偉そうに気取って)
(睨まれたわよ。おお、おっかない。近寄ったら酷い目に遭わされるわよ)
ところが、さような誹謗中傷を一蹴する、かように可愛い、色っぽい女騎士もいるのである。
女たちの羨望の全てと、男たちの願望の全てを兼ね合わせ、なおかつ、
しばし女騎士に見受けられる独りよがりな悲壮感とも、
これ見よがしに漂わせている不吉感、不幸感とも無縁の、可憐な美人が。
それに、高潔なのか潔癖なのかは知らないが、どことなく切羽詰った感じのあったリリティスと違い、
ビナスティには、「騎士ですのよ」とでもいうような、のんびりとしたところがある。
気立ての良さが滲み出たその声を聴いているだけでも、何やら毒気が抜ける気がして気持ちがいい。
その姿を見ているだけでも、馥郁とした花に包まれたような気分がしてくる。
同じ女のエステラでこれである。
さぞやジュシュベンダ騎士団の男たちにとっては、高嶺の花、見かけた日にはいいことがありそうな、
そんな存在なのであろう。
実際、歳のいったる者には愛人候補、同年代のグラナン・バラスあたりにとっては、
ぜひとも恋人になって欲しい、一度でいいからお願いしたいあたりでは、あった。
「父も母も騎士ではありませんでしたわ。でも、先祖のどこかで、
竜神の騎士の血が混じることがあったのではないかと思いますの」
ビナスティはお茶に口をつけて、はにかみながら言い添えた。
「残念ながらわたくしの場合、竜の血の恩恵は、ちょっとだけですけれど」
どうやら、ビナスティについては腕よりもその容姿に比重をかけられて、いらくさ隊に抜擢されたらしい。
「そうですわね、たとえば」
果物皿を見つめ、女騎士は小首を傾けた。
飛んできた林檎を瞬きのうちに、高位騎士ならば十個、上位騎士ならば七、八個、
竜の血を持たぬ騎士なら一個、わたくしは三つ四つ、やっと両断できるほどですわ。
露台つきの窓から夜風が入った。
エステラは首を振った。
一瞬のうちに落とせる林檎の個数の、一つ二つのその違いが致命的な差を生む過酷な世界なのであろうが、
やはり想像が及ばず、よく分からない話だった。
(当然だわ。ミケラン様が剣をふるわれている姿すら、わたくしは見たことがないのだから)
高位騎士として常に鍛錬を重ねておられることは知っている。
が、ミケランは平生はそれらしきところのまったくない文官であった。
ビナスティはいらくさ隊やジュシュベンダ騎士団の日常について、エステラのその他の質問に快く答えた。
外国使節団相手に説明し慣れているのであろう、的確に過不足なく、そして面白い話であった。
しかし、夜に女二人が集っているとなれば、話はやはりそこになる。
その話題になった。
「恋人はいらっしゃるの」
ビナスティは茶碗を卓に置いたところであった。
真っ直ぐにエステラを見つめて、女騎士は応えた。
いいえ、おりませんわ。
即答であった。
しかし、いきなりビナスティが立ち上がったのは、そのためではなかった。
エステラの眼の前で剣を握ると、
美人騎士は風に舞う黄金の葉のように身をひるがえして、扉のところへ音もなく移動した。
そして、愕いているエステラには人さし指を唇にあてることで黙らせた。
エステラも咄嗟に短剣を手にとった。護身用にソラムダリヤから渡されていたのである。
(エステラ、その細腕で貴女がそれを使って立ち回る羽目になる時には、その時には、
このミケラン・レイズンも終わる時だな)
エステラとて、多少の護身術は学んでいる。細剣も扱える。
自主的に少しだけ学んだのである。
ミケランはそれを勧めず、止めもしなかった。
苦笑していた。
養女の名目で好色な老人の妾となり、老人の死後は相続財産を全て取り上げられた。
路上に放り出されていたエステラは、頼る者もない少女だった。そして次の日には、豪邸にいた。
(道楽だよ。人づてに貴女の話を耳にしていたのでね。少々手助けをしてあげよう)
善人だろうと悪人だろうと、縋るほかなかった。
なぜ親切にしてくれるのかも承知だった。
もしこちらがそれを拒んだとしても、この男の態度も恩恵も変わらぬことも。
(今まで辛いこともあったであろうが、わたしの庇護の下にいる限り、もうそんなこともない。
財産も取り戻してあげよう、元々貴女のものだ)
数年後、結局はミケランの愛人となったが、それはエステラも望んでいたことだった。
どうせ愛人になるのならば、一流の男がいいわ。
私は幸運を手に入れた、私のような女が望みうる最高の愛を。
愛を。
(エステラ)
低く響く、忘れがたい、ミケランの声。
あれを、愛だと呼ぶのならば、愛とは何と味気ない。
(人は誰かに理解されたいといつも切実に願うけれど、本当は、理解されてしまっては困るのではないかしら)
室の扉の陰に控えたまま、ビアスティは耳を澄ませている。
エステラには何も聴こえない。騎士にしか分からぬ気配なのだろうか。
次の間にも、廻廊にも、護衛が詰めているはずだ。
エステラは露台に眼を走らせた。
ここから逃げることは可能であるが、同時に、ここからも賊が侵入してくるかも知れない。
ミケラン・レイズンの排斥を企む本家の若手勢力があり、エステラにも危害が加えられるかも知れないと、
ソラムダリヤはそう云っていた。
よもや皇居にまで徒党が押し寄せてくることはあるまいが、
廿年前、実際にそうやって、ミケランの手で皇居は制圧されたのではなかったか。
(私はとうに覚悟を決めているわ)
エステラの瞼の奥、紅蓮の焔が見えるようだった。
此処は他でもない、若き日のミケランが傭兵を率いて、殺戮を繰り広げた場所だ。
(ミケラン・レイズンの愛人の座に昇った時から、覚悟は決めていたわ。
亡霊どもの復讐の手が伸びることがあるかも知れないことくらい。怖くはないわ)
『余計な心配などしなくとも、他人のことを全て理解することなど不可能だよ、エステラ』
ミケランの返事が聴こえてくるようであった。
『相手の心理を読むなどと云うけれどね。それとて、自分の心理の範疇しか探れはしないのだよ。
他人を分析しているようでいて、己を語っているのだよ。
それだけに、その者の品性が、もっとも顕わにされるのだ。頭の中身の程度もね。
他人を分析してみせている人間の弁を、よく聴いてみるといい、
相手の心理を解きほぐし尤もらしく真実を突くかたちを取りながら、結局のところ、
彼らはみな自分にとってもっとも都合のいいように、相手のかたちを歪めて貶めているだけなのだ。
そのようなものを、尊ぶべき真実と呼ぶのかね。
理解とは、寛大のことだよ。
そしてね、エステラ。他者の心理をよりよく読み込み、寛大なる理解を示す者ほど、
しだいに周囲に理解者を失くす、これもまた、皮肉なる事実ではないかな。
心理分析の腕前を誇る者が、敵に対しても己にそうするが如きの尊重と庇い立てをみせ、
また己に対しても敵に対するほどの侮蔑と軽蔑をみせることがあったら、この考えを変えるとしよう。』
(ああ、だから、そんな貴方にすっかりこの心を見透かされたとしても、
そのせいで自分がないような、そんな心許無い虚しさを味わったとしても、
女たちは貴方をほうってはおけなくなるのですわ、ミケラン様)
「どうぞ、お入り下さい」
ビナスティは剣を下げ、礼をとっていた。
「エステラさん。内親王殿下が、もうじき、こちらにお渡りになられます」
「え。内親王さま」、我に返ってエステラは短剣を卓机に戻した。
「フリジア姫殿下ですわ。気楽になさっても大丈夫ですわ」
ソラムダリヤ皇太子の、歳のはなれた御妹君。
こんな夜中に。
確かにここは皇居の中の、内親王の宮の一隅であるが、エステラが挨拶に伺うのは明朝と決まっていたはずだ。
「フリジア様は、とてもお可愛らしい、ご気性の素直なお姫さまですわ。
あんな可愛らしい少女は、見たことがございません」
ビナスティはそう請合うが、相手は皇族、しかも世間の荒波を知らぬ温室育ちの少女である。
臣下の愛人などが、どの面を下げてその前に出られようか。
そうこうするうちに、開かれた扉から内親王の侍女たちが準備を整えに先にやって来た。
客室といっても寝室と二間続きでかなり広い。そこに卓や椅子が運び込まれ、
昼間のように燭が灯され、花瓶には新たに花が活けなおされるといった具合である。
今さら着替えも叶わず、無駄な足掻きとは知りつつも壁にはめ込まれた大きな鏡に向かって
髪や襟ぐりを整えているところへ、内親王の訪れが告げられた。
最初からそう云い付けられていたのであろう、侍女はすぐに全て退出して、
エステラ、ビナスティ、フリジアの三人だけとなった。
女騎士ビナスティとフリジア姫は既に知り合いであった。
「フリジア姫殿下」
「ビナスティ。お昼に逢ったきりで、淋しかったわ」
「わたくしも」
挨拶もそこそこに美人騎士と姫君は、顔を合わせた途端に、ひしと抱き合った。
「夜遅くにお邪魔してごめんなさい。ビナスティ」
「いいえ、とんでもございませんわ」
女子にしか生み出せぬ異様な親密さ、完全に、百合の世界である。
たじろぐエステラそっちのけで、仲のいい姉妹のごとく、二人ははしゃいで両手を繋ぎくるくる踊った。
夜である。
もちろんフリジアは「天下のシュディリスさま」の話を、目撃者ビナスティから聴きに来たのであった。
もう何度目であろうか。
恋する少女の熱心と視野狭窄でもって、フリジアは同じ話を何度聴いても飽きるということはなく、
また、いい大人の女であるビナスティもいったいどういうつもりなのか、
年端のいかぬフリジア相手に、根気よく、愉しげに、それを語り描いてみせる。
完全にエステラの入りこめる世界ではなかった。
「でも、少し、蔭りがある方ですのよ」
「それはどういうことなの、ビナスティ」
「浮ついた殿方ではありませんから、そう見えますの。神秘的と云いましょうか、ちょっとぞくっとするような」
「しんぴてき…」
「お素敵でございましょう」
人のよいビナスティにとっては、まだ見ぬ王子さまに恋焦がれて阿呆と化した少女も
可愛くて可愛くて仕方が無い様子であったが、少女らしい少女時代のなかったエステラにとっては、
見知らぬ生き物でも見ているような心地で、フリジアの少女少女した幼い顔を眺めているしかない。
髪を貝殻のように両耳の脇でまとめている姫君は、このまま大きくなったとしても、
可愛いとか、感じがいいとか、そのあたりに落ち着くのであろう、印象の薄い、ごくごく平凡な容姿であった。
(善良。なによりのことだよ)
ミケランがそう評していたとおり、フリジア姫は人を疑うことを知らず、無防備で、
つまんで引っ張りたくなるような幼い丸い頬をしており、そして確かに、誰からも愛されるような少女であった。
「やっぱり、シュディリス様ですわ」
「そうよね、シュディリス様よね。フリジア、もう決めているの」
女たちの間で盛り上がるだけ盛り上がり、
本人が知らぬ処で勝手に何かを決められているシュディリス・フラワンが、気の毒である。
「あら、ごめんなさいね、エステラさん。ほったらかしにしてしまって」
くるりとエステラの方に向き直ったフリジアは愛くるしく微笑み、
「ミケラン卿の、お従妹でしたわね、エステラさん。
卿はあまりお身内の話をされませんから、フリジアも初めて聴くお名前でした」
夜も遅いというのに、客人を迎えて昂奮気味であるのか、元気いっぱいであった。
フリジアは、兄ソラムダリヤから教えられたとおりのことを信じきっているようで、
「お屋敷が火事になるなんて、災難でしたのね」
そのすべすべした手をエステラの手に重ね、心の優しさをのぞかせた。
エステラは、ミケランの愛人ではなく「従妹」であり、失火で家が燃えたところを、
都を離れている多忙な卿に代わって、かねてよりエステラとは旧知であったソラムダリヤが
窮状をみかねてその避難場所を皇居内に提供した、ということになってる。
苦しい言い訳だと思ったが、あまりにもソラムダリヤが巧いことを考え付いたと得意そうであったので、
ありがたく、そういうことにさせてもらった。
もちろんフリジア以外の者はエステラがミケランの愛人であることを知っている。
フリジアも薄々は察しているのかも知れないが、そこはお行儀よく、
客人としてあたたかく、エステラを迎え入れていた。
「どうぞ、いつまでも、この宮にいらして下さいね、エステラさん。
ご不自由はないですか。足りないものがあればすぐに揃えさせますから」
「ありがとうございます、内親王さま」
「ソラム兄さまに、こんなにも美しいご友人が二人もいらしたなんて、フリジア知りませんでした」
「フリジア姫さま。わたくしはジュシュベンダより使者として参っただけですわ」
「それでも、大切なお客さまよ、ビナスティ。
羨ましいわ、本物のシュディリス様に御逢いになっただけでなく、言葉を交わされたなんて。
エステラさん、貴女はいかが」
「はい?」
「シュディリス様。ご面識がありますかしら」
「生憎と……」
「そう。でも、シュディリス様の御名は聴いたことがありますわよね」
「ええ、まあ。フラワン家のご長子ですわ」
「では、ぜひ明日、肖像画をご覧になって下さい。とってもお素敵な方なのよ」
どこまでもフリジアはそこから離れない。
初恋にお熱な乙女はその対象が、万人の女にとっても素晴しいものであると
頭から信じて疑わないものではあるが、それにしても、これはひどい。
話を聴くうち、最初はあきれ返っていたエステラも、だんだんと「シュディリスさま」に興味が出てきた。
ミケランのような男の許で貴婦人に育ててもらったエステラには、若い男にも美貌の男にも
さっぱり関心は沸かないが、あのリリティスの兄であり、この美女ビナスティをして、
ここまで賛美させる御仁である。いったいどれほど、
------どれほど、あんぽんたんな男なのであろう。
(女たらし、なのかしら)
あたらずとも遠からずであった。
その間にも、ビナスティはせっせとフリジアを構ってやっていた。
同性同士の親切というのも、これまた、按配が難しいものである。
しかし、相手が十も年下のフリジアのような少女であれば、ビナスティは幾らでも手放しで
フリジアが歓ぶようにしてやれるようで、恋する者にとって耳障りのいい話を次ぎから次ぎへと
繰り出すのであった。
「いいえ、いけませんわ。フリジア様のような可愛らしいお姫さまが、
シュディリス様のような貴公子の前に無防備に出られたら、
きっとあの御方の視線だけで、赤ちゃんが出来てしまいますわ」
どんな男だ。
「皇家と交流が断絶していることは本当に残念ですわね。舞踏会?
ええ、ジュシュベンダ宮廷では踊っていらしたはずですわ。でも、あまりお好きではないようですわ。
いつも途中でご友人たちと外に出て行ってしまわれたそうですから」
田舎者ではないか。
「駄目ですわ、シュディリス様は旅に出ると仰っておられましたもの。
御逢いになりたいお気持ちは分かりますが、
ジュシュベンダにはちょっとした御用事でお立ち寄りになっただけで、
お手紙を出されましたとしても、もうわたくし達がいた狩猟館にはおいでではないのです。
そのご出立を、わたくしがお見送りいたしました。
フリジア様も、もうご存知でしょう。ユスキュダルの巫女さまが行方不明になられていて、
帝国中の騎士が、巫女さまを探しておいでなのを」
「………」
どきりとして、エステラはビナスティの顔を窺った。
エステラの真向かい、長椅子に並んでかけた女騎士と少女は、微笑ましい一幅の絵であった。
両手を胸にあてて、うっとりと聴いている姫君のドレスの膝に手をおいて、
微笑みながらビナスティは言葉を継いでいた。
「星の騎士のみなさまは、わたくし達凡百の騎士とは異なり、
巫女の御意志や命が直接、その心に聴こえるのだそうですわ」
姫の髪を撫で、ぴったりと身を寄せ合い、
美しい女騎士はその優しげな微笑の中に、ゆるやかな催眠効果とも云うべき誘導をもって、
何かの暗示を注意深く、繰り返し姫に与えているようであった。
シュディリス様は、弟君、妹君と共に、その星の騎士さまでいらっしゃるのです。
「巫女さまが野に下られたとなれば、フラワン家の三人の騎士さま方もきっと、
ユスキュダルの巫女さまの許に馳せ参じられておられましょう。
姫さまが耳にされたシュディリス様トレスピアノご不在の噂は、まさにそれですわ」
「それで、シュディリス様はトレスピアノを出られたのね」
「はい」
「では、今はシュディリス様はどちらにいらっしゃるの」
「それは、コスモスに」
「コスモス。其処に、シュディリス様はいらっしゃるのね」
「ええ、そうですわ」
エステラの注視の中、これ以上はないというほどに、ビナスティは優しく微笑んだ。
あまりにも優しげで、懐かしいことや淋しいことを回顧している最中の、心破れた女のようであった。
大国ジュシュベンダから派遣されて来た女騎士はその形のいい唇をひらき、
長椅子に身を寄せ合ってこちらを見上げているフリジア姫に、
童話を語るような甘い声で、ひっそりと囁き続けた。
ええ。コスモスに。現在は勅令により、そこへ向かう街道はレイズンによって封鎖され、
一般の者は通行出来なくなっている、コスモス。かの地です。
「ユスキュダルの巫女さまは、コスモスにお入りになられたのです。
シュディリス様は、各騎士団に混じって、きっと其処におられるのです。
逢いに行きたいとは思われませんか、フリジア内親王殿下」
向かいのエステラは椅子の上でたじろいだ。
フリジア姫は眼を丸くして、ぴくりと身をふるわせた。
「逢いに」
ぽうっと視線を彷徨わせている姫君に、女騎士は、にっこりと頷いた。
「そうですわ。皇家とフラワン家のままでは隔たりがあります。でもシュディリスさまが
トレスピアノを離れた今なら、ジュピタの都でもない、トレスピアノでもない、
コスモスの地での、非公式の会見も可能ではありませんか」
それを聴くと、小さな想いがいっぱい詰ったため息をついて、フリジアは両手を絞った。
「そうなの。フリジアも、それが出来ればいいと実はそう思っているの。だってフラワン家とは
もう永い間疎遠にしているのですもの。ご一家を都にお招きすることも考えたわ。
お父さまに頼んだり、ソラムお兄さまに頼んだり。でもそのうちに、皆忙しくなってしまって。でも」
「フリジア姫さま」
「きっと無理だわ。お父さまもミケラン卿も、そんなことはお赦しにはならないわ」
いよいよ、ビナスティの笑みは沁みるようになった。
誰の心にもいつまでも残るような、罪の意識を帯びた優しい笑みだった。
花に棘があるとしても、棘まで美しい花というものも、この世には存在している。
いかにもふと気がついたかのように、そうですわ、こうなさったらいかがでしょう、
信頼しきって身を凭せ掛けているフリジアの小さな耳に、ビナスティは唇を近寄せた。
内緒話を打ち明けるように、女騎士はそれをそろりと告げた。
各騎士団が集結しつつあるといっても、コスモスを掌握しているのは、
何といっても、レイズンですわ、フリジア姫さま。
ミケラン卿に頼むのが無理ならば、レイズン本家に、コスモスまでの供をお願いしてみては。
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もう深夜だと云いきかされて、
半ば無理やり女官長や侍女達に抱え上げられるようにして、フリジア姫はようやく去った。
それを見届けたビナスティは続き間に向かい、
「お疲れでしょう、エステラさん。すっかり遅くなってしまいました。申し訳ありません」
エステラの為の寝所の用意が整っていることを確認すると、戸締りを確認して戻って来た。
「わたくしも、もう休ませてもらいます。隣にお部屋をいただいておりますの」
それを追いかけ、エステラは騎士の往く手を塞いだ。
「ビナスティ。お待ちになって。何故、あんなことを」
「はい?」
「何故、あのようなことを、内親王さまに持ちかけたの」
両腕を広げて入り口を塞ぎ、エステラはそれを聞き出さぬまでは動かぬ構えをみせた。
少し考える様子をみせた後で、ビナスティは、仕方なさそうに微笑んだ。
それから、何故か顔を少しあからめた。
躊躇をみせていたが、云い難そうにビナスティはぽつりと打ち明けた。
「あの、ご心配はいりませんわ。目下もっとも危険地帯と目されているところのコスモスなどに、
内親王さまが近づかれることは絶対にありませんわ。
シュディリス様とわたくしはジュシュベンダの郊外で御逢いしたのですが、
そのような気楽な機会がフリジア様にもあるといいと、つい、そう思ってしまったのです。
わたくし如きが口を出すのも畏れ多いながら、
フリジア様がトレスピアノの御曹司に恋をされているのは、悪いことではございませんもの。
皇家の女子は聖騎士家に降嫁されるよりも、フラワン家と結ばれるのが慣例ですわ、
お年頃もちょうどよく、もしかしたら実るかも知れぬご縁談で」
「そんなことは訊いていません」
エステラは遮った。
この女は何と云ったか。
ミケラン卿を飛び越えて、レイズン本家に直接願い事をしてみよと、内親王にけしかけなかったか。
「--------困りましたわ」
本当に困っているのであろう。ビナスティは悩ましい顔をして、エステラの顔をじっと見つめる。
「そうですわ、エステラさんは、ミケラン・レイズン卿とはお親しい方でした。
うっかりと失礼なことを申し上げてしまいました」
「ミケラン様は関係ありません。あの方はわたくしなどに何かを打ち明けることはありません。
それよりも、昼間ソラムダリヤ様から聴いたお話と、今のお話との関連性が気になりますの」
「どんなお話でしょう」
「ビナスティ。貴女は内親王さまを使って、
レイズン本家に萌しつつあるヴィスタル=ヒスイ党に
何かをはたらきかけようとしているのではないですか」
「………」
「打倒ミケラン・レイズンを企む一派に、皇家筋から接近をはかっているのではないのですか」
苦しむ美女というのも艶なものであるが、はからずも、ビナスティはそんな顔をした。
女騎士は眸を潤ませた。そんなことありませんわ、と云いたげだった。
「ジュシュベンダは、大義を持たぬ党などに与力はいたしません」
「それでも、様子を探る内通者はいるのではなくて」
思いがけぬことを云われたかのように、戸惑った顔をしてビナスティは小首を傾けた。
嘘も云い抜けも下手くそな女を追求したとて、この女が国許の命を受けて此処にいるのである限り、
ビナスティは本当のことは云わないであろう。
無能な女であれば、もとよりいらくさ隊になどおらぬ。
女騎士とエステラは真正面から見つめ合った。
その気になれば、この女はその剣で邪魔をする女ひとりくらい一瞬で断ち割れるのだろうが、
ビナスティの腕は力なく下げられたままだった。
「ソラムダリヤ様は、どうしてジュシュベンダから貴女を呼んだのです」
「あ、それは」
またもや、美女は頬に片手を添えて顔をあからめた。
「あの、それは。それも、恋ですわ」
「恋」
「ご存知でしょう。皇太子さまも、フラワン家のお姫さまに恋されておられることを。
ソラムダリヤ様はリリティス嬢に、フリジア姫さまはシュディリス様に、
皇家のご兄妹はフラワン家のご兄妹に、それぞれ想いをかけられておられるのです。
もっともフリジア姫の場合はあのようにまだ幼くていらせられますから、一過性のものかも知れませんが、
皇太子さまのほうはご本気です。それはわたくしも疑いませんの。
恋、恋と軽々しく申し上げているとは思わないで下さいませ。
ジュピタ皇家とフラワン家は、初代皇帝と初代皇妃オフィリア様の御世より、
幾たびも婚姻を繰り返してきた間柄。
復古したジュピタ皇家の次代を担うソラムダリヤ皇太子さまが、
フラワン家のご息女リリティス嬢を思し召しであることは、帝国にとっても、
昔に戻ったかのような、泰平の訪れを告げるまたとない慶事となりますわ」
「昔に戻ったかのような…?」
「はい」
竜の血を持つ者は、聴覚にも嗅覚にも優れていることが多く、真昼でも星の影が見える者もいる。
窓の外に、ビナスティは眼をそらした。
此処にはかつてカルタラグン王朝があった。
窓の外、夜の雲の流れに、額に刀創のある美しい女騎士は何を視ているのか、
死霊を慰めるようにそっと呟いた。
カルタラグン滅亡後、都の繁盛のその裏で、敗れた側の者たちは辛酸を舐めましたわ。
落武者に襲われた村、荒廃した村、人を疑い人を殺め、人の心はすさむだけ荒みました。
ソラムダリヤ様とリリティス・フラワン様が結ばれ、その御子がご成長あそばした時、
その時にはじめて、ようやく人々は、カルタラグンの時代を過去のものに出来るのではないでしょうか。
死人の記憶とは生者の記憶のことです。そうである限り、
戦火の哀しみや苦しみが完全に時の中に癒えるのは、一代のうちでは、無理ですわ。
エステラはその袖を捉えた。
「百年前カルタラグンが皇帝代行に乗り出して、他の騎士家を従えようとしたその時より、
七大聖騎士家の勢力図は、徐々に崩れ始めていたのです」
ミケランを弁護するわけではないが、エステラは言い募った。
「あのままカルタラグンが皇位についていたとしても、いずれにせよ、
カルタラグンの凋落は時間の問題だったはず。
単身でカルタラグンを排除し、ジュピタの御世を取り戻したミケラン様は、レイズンも、そして
ハイロウリーンとジュシュベンダもカルタラグンに代わって擡頭することを許さず、
ご自身は身をひくことで、騎士家の勢力均衡と帝国の平穏を今日まで保ってこられたのです。
もしもミケラン様が私兵でなく本家の軍隊を、また、他の騎士家の軍隊を利用していたのなら、
帝国中が大戦争となったでしょう。
ミケラン様は、政権転覆に抵抗を示し、カルタラグンと連座したタンジェリンの排除にも、
十年以上の月日をかけられました。
中枢から遠ざけた上で彼らの手足をもぐ、人はそれを残酷と呼びますが、
七大騎士家のうち、二つが同時に滅びることで残りの騎士家の間に、
不穏と動揺が広がるのを防ぎ、彼らが同盟を結ぶことを抑えるには、それが最善だったからです」
(エステラ。もし私の為したことに後世の評価がつくとしたら、それしかないだろう)
そんなものは本意でもないし、ちっとも気にしてはいないがね、と酒を片手に男は笑った。
そう、それとも、そのような肯定的なありがたいものは、やはり生きているうちに
私の手で改変しておくべきかな、貴女が知るとおり、私はそんなご立派な人間でも、
計画性のある人間でもないことだし。
(今度はジュピタ皇家の皆さまに退いていただき、カルタラグンを擁立でもしてみようか。
さいわい、カルタラグンの第一皇子はサザンカに逃れ、まだご存命であることだ。
不可能ではない。その為に生かしておいたわけではないが、
ブラカン・オニキス・カルタラグン皇子、彼をフリジア姫と娶わせればよい。
タンジェリンでは芸がない。やはりカルタラグンだ。
もっとも他にもっと遣り甲斐がありそうなことがあるので、そのような無駄は止めておくがね)
中天に昇った月をかすめる雲は虹色を帯びて、幾重にも重なった翅のように夜空にたなびき、
それを見上げる者の想念を、遥かな地へとはこんだ。
皇居の一隅から二人の女は並んでそれを見ていた。
いつかの夜もこうだった。ミケラン様と他に何を話していたかもう憶えてはいない。
(少しでも本意でないのならば拒むことだ。気にしない。貴女のことを悪くはしない)
もういつ死んでもいいほどの、倖せをもらった。
二人で作るものではない、男から一方的に与えられるだけの、豊潤な退屈を。
(いつも考えていたわ。もしかしたらこの方にとっては、奥様のアリアケ様も、わたくしも、
その他どのような女たちであっても、誰がどの位置にいても、まったく等分に、
変わりなく同じように愛するのではないかと。それが女に対するあの方の理解と寛容なのだとしたら、
ミケラン様の傍にいる女たちが、みな一様に虚無感に覆われるのは、当然だと)
(詰りたい、我侭を云いたい、せめて困らせてやりたい。御逢いしたい夜に限って、貴方はいらっしゃらない)
(いっそ、殺されておしまいになるといい。ヒスイ皇子がそうされたように、
ヴィスタル=ヒスイ党の若者たちの手にでもかかって)
もちろん、エステラは本気でそのようなことを望むのではない。
明日はどうなるのであろう。フリジア姫の許にあらためて挨拶に伺い、
それからフラワン家の御曹司の肖像画を前にせいぜい感じ入ってみせ、
ソラムダリヤ皇太子には想い出す限りのリリティスの話を語り聞かせるのであろうか。
「わたくしも」
「はい」
「コスモスへ行きたいわ」
「エステラさんが」
「貴女も騎士なのでしょう、ビナスティ」
「はい」
「貴女こそ、ユスキュダルの巫女がお宿りになられているコスモスに行きたいのではないの」
「もちろんですわ」
これまた、即答であった。
そこに何があるのか、ビナスティは胸に手をあてていた。首飾りだろうか。
「引き止めてごめんなさい。ビナスティ」
「いいえ」
「今夜の無遠慮は許して下さい。わたくしはミケラン様の愛人だというだけの女でした。
出すぎた真似でしたわ」
「いえ」
「また明日」
「はい。おやすみなさい」
今度はエステラも止めなかった。一礼するとビナスティはその脇をすり抜けて、出て行った。
-------特命を与える。いらくさの騎士、ビナスティ・コートクレール。
-------何なりと、イルタル様。
-------断ってもよい。
-------いいえ。
何なりと。とうの昔に死んだはずの女です。
女の顔を月の光が包んだ。
(お父さん。お母さん)
ビナスティは額を鏡につけた。
額の創は蒼褪めた亀裂となって、女の顔面を裂いていた。
ビナスティは鏡に映るその創を見つめ、少し微笑んだ。
何なりと。笑顔で、ちゃんとそう云えました。
君主さまはお優しい。ほかに生き方のない我ら騎士たちに、死に場所をお与え下さる。
(もう想い出さないことのほうが多いのに。それでも、お父さんお母さんに、聴いてもらいたい)
(ビナはまだ、甘えんぼうですね)
今宵は宴もなく、宮中は静かであった。
細鎖をつまむと、首から下げているものをビナスティは取り出した。
フィリア・コスモス・タンジェリンの指環。
(クローバ様が大切に持っていらした。私に、これを預けてくださった)
(好きな人がいます。もう一度逢えるかどうかも分からないけれど)
御逢いしたい夜に限って、貴方はいらっしゃらない。
「続く]
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