[ビスカリアの星]■五十五.
竜の焔が彗星の尾を引き空の高みで七つに分かれ、それぞれに堕ちた地は、
もとより、未開の大地だったのではない。
オフィリアの生家フラワンをはじめ、ヴィスタチヤ帝国建国以前にも、
大陸にはさまざまな小国があり、部族がいた。
それでも、永く人々を悩ませた悪竜が退治されたことは、悪霧が晴れた世界の一新として歓迎され、
人々は熱狂的な歓喜をもって竜討伐を果たした騎士をその土地に受け入れ、
彼らをあらたな支配者と認めた。
北部には、ハイロウリーン、オーガススィ。
帝国首都を囲む中部には、カルタラグン、タンジェリン、レイズン。
東南から西南にかけて、サザンカ、ジュシュベンダ。
それに聖騎士家と縁を結んだ衛星騎士家、フェララ、ナナセラ、コスモスの三家が加わり、
それらは土着の民族を丸ごと引き受け、国としての機能を保ちつつ、ジュピタ皇家に従った。
幾多の戦を経て、主な豪族は各騎士領に併合されたり、または自然に衰退していったが、
帝国があまたの国と豪族の集合体であることには変わりない。
七大騎士家の中で唯一、ジュシュベンダだけが、「ジュシュベンダ家」ではなく、
「アルバレス家」の名を冠した君主が立つのもその一例であり、
それはジュシュベンダに分与された土地には古くからアルバレス一族という大豪族がすんでいて、
ジュシュベンダ騎士はそこの豪族の娘と結ばれることで「アルバレス」の名を残し、
いわば婿養子となって彼らの体面を立てた当時の経緯を、伝統として今に引き継いだものである。
或る国は滅び、或る部族は四散した。
その盛衰の中、七大聖騎士家と三ツ星騎士家、
初代皇妃オフィリア・フラワンの故郷トレスピアノだけは不変だった。
ジュシュベンダとサザンカに護られるようにして、その土地を永久安堵されたトレスピアノ。
フラワン家はジュピタ皇家や聖騎士家との婚姻を繰り返しながら、聖女の産土、不可侵領に存続した。
トレスピアノは、いわば、ヴィスタチヤ帝国の記念碑であった。
竜の焔を撥ね返したオフィリアの伝説は畏怖と尊敬をもって聖騎士家の間に語り継がれ、
その家名への尊意はカルタラグンの治世の間も変わることがなく、
そこから派生したさまざまな伝承と共に民衆の間にも深く浸透し、親しまれた。
それゆえ、フラワン家と縁組することは、たとえ実利はなくとも、最高の名誉とされた。
当代トレスピアノ領主カシニ・フラワンの許に嫁いだのは、北方オーガススィのリィスリ姫。
両名の結婚には誰もが納得し、そして誰もが、遠いトレスピアノへ去る美しい姫を惜しみ、
婚礼の前後は身も世もないほどに嘆く貴公子が後を絶たなかったという逸話まである、
絶世の美女でもあった。
一般的に聖騎士家に連なる者の婚姻は男女ともにひじょうに早く、
女子もそれぞれ子供といってもいい歳で親許を離れて他家に嫁いでいる。
騎士であることに拘泥しないジュピタ皇家やフラワン家をべつにすれば、
主要なところを取り上げても、クローバ・コスモス、ミケラン・レイズン、イルタル・アルバレス、
トスカイオ・クロス・オーガススィ、フィブラン・ベンダ・ハイロウリーン、
彼らはみな、十代半ばでそれぞれ妻を娶っており、
純血の騎士の数が年々減少していることと、血統の保守、お家存続を合わせ、
また下世話な云い方をすれば、
強騎士の母胎である有力家の女子を取るのは早い者勝ちであるためにも、
生まれた子の成長をしばし待ち、能力の高低の目星がついた途端、
彼らの縁組は急いでまとめられるのが常だった。
そして、肝心の子が出来ぬまま妻を喪ったクローバやミケラン、または、
遅くに授かったものの病弱であったり、女子であったジュシュベンダのイルタルに比べれば、
北方系は多産の傾向にあり、オーガススィもハイロウリーンも歴代子宝に恵まれ、
あれは交配に失敗しない秘伝があるのだと下々に囁かれるほどに、その系譜は安定していた。
「わたしが気を回すようなことではありませんし、それは僭越というものですが」
グラナン・バラスは躊躇いがちに切り出した。
風の強さと空の広さ、流れる雲の低さ、それらが相まって、劇的な彩りをみせる、北国の黄昏である。
金海のように空は輝いて波打ち、雲に反射する夕陽はせわしなくその明暗を変えて、
鏡の破片のように地にこぼれ、あらゆるものに濃厚な陰影を与えた。
冬になれば一面の雪景色と変わる大地も、今は草花が揺れており、それがかえって淋しげに、
郷愁を誘う夕暮れである。
グラナンはちらりと隣で馬をすすめているシュディリスの顔を窺った。
シュディリスはその横顔を夕陽の光に縁取らせて、並木の影の落ちる街道の先を見つめている。
それでも、云うだけは云っておかなければとの思いから、グラナンは咳払いをした。
男子ばかりのハイロウリーンに比べ、これから向かうオーガススィは、タンジェリンと同じく女系である。
フラワン家の独身貴族にとっては母の親族であり、従姉妹にあたる若い姫君がいっぱいのはずである。
グラナンはそのあたりについて余計な心配している。
目下、颱風の眼となっているコスモスへ向かいたいと願うフラワン家の御曹司には歓んで護衛を附けよう、
しかしてその見返りに、暗にオーガススィ側からフラワン家との縁組を匂わされては如何しよう。
だが、
「縁談の話なら、とっくに」
グラナンの心配をよそに、シュディリスは軽く流して馬パトロベリを歩ませた。
彼らの本音としては一刻も早くオーガススィ領に向けて馬を飛ばしたいところなのであるが、
オーガススィに向かう本道に入った途端に、伝令の早馬や先触れと行き逢い、
何処かへと急ぐオーガススィの武装部隊を何度も道端に避けてやり過ごす羽目になり、
しかも何所にレイズンの隠密が隠れているとも知れない、
下手にひと眼を引くことを怖れて、彼らはなるべく軽く馬を進めているのである。
意外な話にグラナンはへええと眼を丸くした。
「オーガススィからのものですか」
「そう。もっとも、まだわたしがジュシュベンダに留学中のことだったので、父上が断って下さった」
シュディリスは首を傾けた。その姫君の名も、もう忘れてしまった。
もとから少し無理のある話だったので、後ですぐに何処かの家へ嫁がれたはずだ。
「だから、もしも再びオーガススィから同様の話が持ち上がるとしたら、
持ち込まれるその先は、弟のユスタスになるはずだ」
「それでも」
「はっきり、グラナン」
「つまるところ、興味がないといえば嘘に」
素直にグラナンは認めた。
何といっても、かのリィスリ・フラワンの血族である。
エチパセ・パヴェ・レイズンの手によって送られたナナセラの城砦において、
はからずもその眼で名高いトレスピアノ領主夫人の姿を見たグラナンにしてみれば、
この世にこれほどの美しい方がおられたかと瞠目することしきりで、衝撃はまだ覚めやらぬのであった。
美人といえば彼の密かな憧れである女騎士、国許騎士団のビナスティとて美しい。
しかしながら、ビナスティは本人の気取りのない性格と相まって、
まだしも隣の家の綺麗なお姉さん的な親しみがあるのに比べ、リィスリの美には、
高貴なる者特有のおかし難さがあり、それはナナセラの砦の中庭、
たくさんの灯を星のように従えてリィスリが幻の人のように現れたその時より、
グラナン・バラスの胸に深くくい入ったものであった。
リィスリ様がこれほどに美しければ、その娘リリティス嬢はいかほどであろう、さらにはご実家、
北国オーガススィ家のご令嬢方はどのようであろうかと夢想するのは若者としては当然で、
生真面目一辺倒なグラナンとて、それは例外ではないのであった。
オーガススィ家とフラワン家の間に縁組の打診があったのは事実である。
しかしそれは、オーガススィ家からもたらされた、いわば社交辞令といったものであった。
順繰りにともいかぬまでも、特定の家に偏ることのないように、
満遍なく方々の聖騎士家と婚姻を取り結んできたフラワン家としては、
二代続けて同じ家から嫁を迎えることはないこと、双方最初から承知の上のことであったから、
形式的なやりとりの終わりに父カシニが丁重に断り、立ち消えとなってそれきりのはずであった。
(縁談相手の、その姫の名も忘れた)
不実なのではない。数が多すぎた。
シュディリスだけでない。リリティスもユスタスのものも、子供たちの知れぬうちに、
フラワン家にもたらされる縁談の数々は、父母がかなり裏で処理してくれていたはずだ。
もしかしたら、リリティスの見合い相手だけは父母も真剣に考慮して選考していたかも知れないが、
当のリリティスの拒絶反応が著しいために、時の解決待ちといったところであったろう。
誰よりも、母のリィスリが、娘のリリティスには好きな男と添い遂げさせてやりたいと、
自分が結ばれなかった後悔と同じ想いを味あわせたくないと、そう願っていたはずだ。
その相手が兄のシュディリスではどうしようもないが、
そのうちにと、娘の眼が外に向くことを待っていたふしがある。
「フラワン家のお姫さま」を欲しがらぬ騎士家はない。
思い切ったことをするオフィリアの血を引くものらしく、長い歴史のうちには、
たまには無名のどこかの馬の骨と駆け落ちをして、
そのまま何処かの空の下でたくましく生きた姫君も二三人はいるようであるし、
家風として、あまり厳格にこだわらぬところがあるフラワン家は、
娘の嫁ぎ先に、当人がそれでよければというので、あっと愕くような下級騎士の家を選ぶこともあるのだが、
概ね、フラワン家に生まれた女子は家系図のしっかりした良家に嫁いで、平穏に生涯を終えている。
ただし、フラワン家の娘が他家に嫁ぐにあたっては、厳しい条件が一つある。
先にも触れたとおり、聖騎士家の婚姻はことのほか急がれるのである。
年頃の貴公子の数が不揃いであることと、帝国皇太子ソラムダリヤが未だ花の独身であるために、
遠慮もあってか昨今は少し出足が遅いようではあるが、
このままリリティスがいたずらにフラワン家に留まっていたら、下手をしたら、
花嫁の方が花婿よりもはるかに年上、または親子ほどに歳の離れたやもめの許に嫁ぐ道しか残されず、
それが悪いというのではないが、興味本位の余計な噂に寄り憑れることにもなりかねない。
本人の反発が確実なので極力そのような話はしないのだが、
ずいぶんと前に、何かの折に家族の間でその話になった時、
「レイズン分家のミケラン・レイズン卿だって、奥様はお年上だわ」
リリティスはもっと他の何かに対して怒っているかのような顔つきで、
その男こそ愛する兄の実父の仇と知りつつ、その分だけ挑発的に、潔癖な口調で述べたものである。
「奥様のスワン家は騎士の家でもなく、アリアケ様もお年上で、
本家から押し付けられたご縁だったそうよ。
ご結婚の時にはミケラン様もまだ分家の一貴族というだけで、
今のように栄えてはいらっしゃらなかったから、スワン家のような地味な学者の家、
しかもほどなくして重い病に就かれたアリアケ様が奥方であることは、
今のお立場からは考えられなかったことかも知れないわ。
でも、その後も離縁もされずに、奥様をとても大切にしていらして、仲良くていらっしゃるそうよ。
何よりのことではありませんか。外の者があれこれ取り沙汰すことではないわ」
馬鞍の上でシュディリスは手綱を持ち直し、姿勢を正した。
いちばん考えたくない悪い想像が性懲りも無く、癒えぬ病となってまたもや胸をよぎったのである。
そのアリアケ・レイズンは先日病没し、となれば、ご夫人亡き後、
もはや誰の遠慮も要らぬ男の許に、リリティスは囚われているのである。
いかなミケランといえどもフラワン家の息女に対してそうそう無体ははたらくまいと思うからこそ、
ぎりぎり何とか堪えているのだが、煮湯を呑むとはこのことで、想像するだけでも寝取られ男ばりに、
不快なこと極まりなく、悪寒すらしてくる。
せめて、ミケランが大人の男としての分別をみせて、世間知らずの娘を保護するにとどめ、
リリティスを両親の許に送り届けてくれればよし、
それともやはり、リリティスをその薄汚い姦計に利用せんとして不当なる留置を続けるのであれば、
妹の味わった恐怖と恥辱を倍返しにして彼奴に与えてくれよう、そう決めることの他、
どうやってこの懊悩を耐えて過ごそうか。
シュディリスの心配をさらに増幅させているのは、卿の細君アリアケの死であった。
妹のあの情深さや優しさに、妻を亡くした男が哀しみに暮れるふりして
巧みにつけ込んでおらぬとは限らず、またリリティスが、そういう際にはころりと騙され、
敵味方の立場も何も忘れて掛け値なしの同情を寄せる純な娘ときているのである、
情にほだされたリリティスの方からその白い腕を差し伸べて悪漢ミケランを慰めにかからぬと、誰に分かろう。
そして気の毒にも、流石は幼い頃から共に育った兄妹、シュディリスの立てたこの予測は、
現在のリリティスの状態をほぼ正確に、云い当てているのであった。
「シュディリス様。馬パトロベリが」
「分かってる」
思わず知らず強く握り締めていた手綱を、シュディリスは緩めた。
騎士のもっともたる特徴は、竜神の怒りにも喩えられる、その誇り高い激情である。
すれ違う北国の人々の眼は、何やら強く怒っているらしい馬上の異国の若い騎士の様子に怯え、
眼を合わさぬようにして急いで彼らの横を過ぎて行った。
それでなくとも、シュディリスは、目立つのである。
フラワン家の父母の躾教育の賜物により自制は利くものの、
貴公子中の貴公子としていつでも立派に振舞うことが出来る、その青年が傍目に分かるほど
怒っているのである、それは目立つ。
シュディリスの内心を知らぬグラナンは同情をこめて嘆息した。
要らぬ気を回すだけでも余計なお世話とは承知の上ながらも、いったい、フラワン荘園のご当主は、
ご子息の縁談についていかなるお考えをお持ちなのだろう。
ジュシュベンダへの留学も怪しまれることなく成功したことである。
匿ったカルタラグンの遺児をわが子と押し通して、領主カシニ・フラワンはこのままシュディリスを
トレスピアノの世継ぎとして立てるつもりなのであろうが、
実子ユスタス・フラワンという正統なる後継者がちゃんといるにもかかわらず、それでもよいのであろうか。
それを想うと、他家のことながらグラナンには釈然としない。
そこまで赤の他人の子を大切に出来るものなのか。
(とはいえ、フラワン家の三きょうだいの仲睦まじさは有名だ。
弟のユスタス様も、兄君が家を継ぐことについては異論なく、
心から賛成しているのだろう。慾のないことだ)
(それにしても、元々は妻君の恋人だった男の遺した子ではないか。
シュディリス様を引き取るにあたっては、カシニ様とて生半なお覚悟ではなかっただろう。
トレスピアノのご領主はまことに豪胆な御仁とみえる。
それとも、皇帝といえども手出しを赦さぬフラワンの家名に絶大な自信をお持ちなのか。
両方だろうな。
それとも、カシニ・フラワン殿とても騎士の血を引く男、
都を遠く離れて、そのくらいの冒険は世に対して仕掛けてみたかった、というところだろうか。
あの麗しき奥方に骨抜きになる程度では、カルタラグンの毒を掬えまい)
ともあれ、オーガススィに助力を願えば、そこではシュディリスはトレスピアノの世子の君、
御曹司に舞い戻り、気安い口を利ける二人旅もこれきりである。
その寂しさも相まって、グラナンとしては少し立ち入った話なども今のうちに、という思いである。
グラナンはジュシュベンダの騎士である。
現在の彼は特例中の特例としてシュディリスに付き従っているに過ぎない。
だが、フェララのルイ・グレダンが貴人を保護する名目でリィスリに附いて行ったように、
その信義の立ち位置は、最終的には個人に任されている。
この先どう転ぶにしろ、弟トバフィルの学友であったこの青年に、
どうやら最後まで付き合うことになりそうな、そんな予感がしないでもない。
(トバフィル)
グラナンの弟はシュディリスとは学友の仲である。胸裡で弟に呼びかけた。
学び舎にいた頃、お前はこのフラワン家の御曹司を、どうやってお諌めしていたのだ。
(何事につけ、信念に基づいた、昨今では珍しいはっきりした御方だ。
純血の騎士とはそういうものなのかも知れないが、それだけに、先には崖しかないと知っても、
そこに向かって走るようなところがあられる。その危うさを、お前はどうやって止めていたのだ)
(ああ、そうか)
ふと、グラナンは思い至った。
もしかしたらカシニ・フラワン殿は、カルタラグンの血統そのものよりも、純血の騎士を保全することを
最優先事項にされているのかも知れない。
(何となれば、フラワン家の血筋を受け継ぐ器には、ユスタス様がちゃんと別におられるのだ。
次代にひとまずシュディリス様を据えておいて、そしてその次にユスタス様の御子を跡継ぎにすれば、
フラワン家の血も濁ることはないわけだ)
それにしても、名家の長子ならばそろそろ整ってしかるべきご婚約がまだであることについて、
シュディリス自身はどのように思っているのであろう。
「候補はある」
それに対して、意外にも、シュディリスは事も無げにあっさりと打ち明けた。
「左様で」、面喰ってグラナンは訊き返した。
まさか今さら恋愛でもなし、よもや相手がユスキュダルの巫女さまでもないだろうから、
「ご縁談が?」
心ここにあらずのまま、シュディリスは頷いた。
肝心の本人は、そういえばそんな話もあったという程度の関心しかなさそうである。
「もっとも父上がそれとなくわたしにはかっただけで、回答していないけれど」
「して、それはどちらのご家中の姫君で…」
「皇女フリジア姫」
それを聴いたグラナンは呻いた。
「それはまた」
「父上のお考えは分かる」
シュディリスはどことなく面倒くさそうな顔だった。
このまま皇家とフラワン家が分たれたままであることは、人心の不安を呼び、帝国にとっても良くないことである。
皇家ジュピタとフラワンは、現皇帝がミケラン卿と謀り、
フラワン家の奥方のかつての恋人を殺害したという経緯があるために、
皇家の方からリィスリ夫人の心情を配慮してフラワン家に遠慮したかたちを取り、
またフラワン家としても、ご存知の重大な秘密を皇家に対して抱えていた為に、
互いに表向きは没交渉を決め込んだというのが正しいが、その疎遠も、もう二十年である。
シュディリスは手綱を握っている皮手袋を口許に当てて、引き下がっていたのをちょっと直した。
「父上は昔のことは昔のこととして、どこかでけじめをつけたいのだろう。
理知的な方だから、母上の想い出を大切にする一方で、物事の整理をつけたいのだろう。
ジュピタ皇家と歩み寄りが出来るのであれば、それに越したことは無い。
内親王の降嫁先は、ジュピタの係累でなければ、フラワン家が選ばれることが多い。
縁談は当然であって、不自然ではない」
「それはそうですが。それはまた、大胆な」
冒険も過ぎるというものである。
父親を殺した男の、その娘を娶れと養父に云われた気持ちとは如何なるものであろう。
言葉もないグラナンをよそに、そのこと自体は、
シュディリスの方はさほど気にしてはいないようであった。
それほどに彼はフラワン家の子として育ったのであるし、何よりも父カシニが、
彼をそうとしか扱わなかった。
父がその膝に、幼いシュディリスとユスタスとリリティスを代わる代わるのせてくれたことも、
つい昨日のことのように温かく想い出せる。
もっともそれは、もののついでに父からちょっと持ちかけられただけの話なので、シュディリスも、
「まだ幼い姫のはず」
その程度の返事で流して済んだのだが、
永い眼でみてジュピタと復縁することは、リリティスにとってもユスタスにとっても利になることを考えると、
(そうしてもいい)
さばさばとした気持ちでそう思わぬでもない。
シュディリスの意向ひとつで、父はその話に向けて大きく動くかも知れない。
恩返しといってもそれくらいしか出来ぬ身である。騎士家同様、結婚くらい親に任せてもいい。
「いや、しかし、それは幾らなんでも」
グラナンの方が衝撃を受けている。
いかにフラワン家の名を名乗ろうが、
縁組となれば、翡翠皇子と因縁のある人々のど真ん中に入ることになるのである。
成功すれば世紀の詐欺師、失敗すれば直ちにひと知れず闇に葬られる命懸けの賭けではないか。
よしんば、フリジア姫がシュディリスにお熱になるとしても(なる、とグラナンは確信している。大当たりである)、
父が友人と謀って殺した男の息子の腕の中に何も知らずに迎え入れられるフリジア姫も、
何とも無残で憐れであろう。
並木道のつくる光と影の中、夕空を、シュディリスは仰いだ。
その口許を、らしからぬ冷たい笑みが掠めた。
(生涯に渡る賭けと嘘ならば、もうついている。
カルタラグンの名を自覚したことなど、一度もないものを)
完全に屠ったはずの男の息子がその娘の夫として堂々と宮廷に乗り込み、
父の身体に剣を突き立てた男たちから最上級の世辞と敬意を払われる。
カルタラグン一族の報復としては、それ以上はない痛快ごとなのかも知れない。
しかし、父カシニとしては、老いに向かうにつれて若い者たちが古いことを忘れることで
時代は初めて一新するのだと、妻リィスリへの思い遣りとは別に内心では
密かにそれを希うようになったのであろうし、
また自分も、身も知らぬ過去の人々に対する義理などついぞ覚えたこともない。
政権奪回における戦の傷は、その後に生まれた世代、ましてやトレスピアノのような楽園において、
いったいどれほどの重みを持っていたというのか。
小さな月。
フリジア内親王。どんな少女であっただろう。
ジュシュベンダでちらりと見かけた肖像画は、まだほんの幼い頃のもので、
ばら色の幼い頬をしており、学友たちと「可愛い」と騒いだまま、それきり忘れ果てていた。
彼の性向としてどちらかといえば大人びた落ち着いた女人に惹かれるせいもあって、
今のところまるで現実的ではないのだが、
とてもではないが、あの幼い少女を実父をミケラン卿と共謀して殺した男の娘として
憎むことなど出来そうにはないし、与り知らぬ何がしかの復讐を彼女の上に果たしたとして、それで
こちらの胸が晴れることがあるとも考えられず、フリジア内親王との縁談が決まれば、それでもいいのかも知れない。
そのシュディリスの背に、木々の影が黒々と覆いかぶさった。
黒い蝶の群れのように心に張り付き、ばたついて止まなかった。
記憶のどこかで、光とそよ風の想い出のまま、溶かすことなく大切にしておきたい氷の面影。
しかし何もその最愛の妹を譲り渡す相手が、ミケラン卿でなくてもよいではないか。
木々の影を振り払うように馬を進めた。
それくらいならば、いっそパトロベリにくれてやるほうがまだマシだ。
馬パトロベリが同意を示すように、機嫌よく首をふった。
お前じゃない、と思うにつけ、ますます馬の手綱を握る力も入ろうものである。
日没の最後の光が赤い雪のように彼の前に舞った。
街道を行くそんな彼らの往く手に、ようやく、薄暮に沈むオーガススィの街影が見えてきた。
---------------------------------------------------------------------
天窓から死んだ羽虫のように落ち込む日光。
囚われの男たちの冷え切った心身を温めているのは、
ざらついた床をいたずらに照らす、僅かばかりの光ではなかった。
父母の許で育った子供時代や、また、旗を掲げて野を駈けた、遠い昔の記憶でもない。
砦の納骨堂を丸ごと牢屋と替えて押し込められた騎士たちは、総勢百人余り。
今しも、一人の男が、同牢の男を殴りつけて正気に戻したところである。
「近くで弱音を吐くな。うっとうしい」
殴られた男は、壁に頭を打ちつけた。
男の怒気は納骨堂の中の澱んだ空気を一掃するどころか、さらにどろりと濁らせた。
地下は広間ほどの広さがあり、窓から光も入れば、手足に鎖をかけられることもなく、食事も日に二度入る。
それでも男たちの間には、倦みきったものが全体に重く立ちこめ、換気の悪さもあいまって、
地下の納骨堂の中は、彼らの知性、彼らの腕力、彼らの生涯、その矜持を無意味と無為に繋ぐ、
男たちの墓場と化していた。
終日ぶつぶつと独り言を吐き出す者も、朝も夜も壁際でふて寝したきりの者も、
癇症に歩き回り、咆哮を上げて柱や壁を蹴る者も、所詮は閉じ込められた空間での
無駄な足掻きにしか過ぎず、やがてはぐったりと力尽きた。
毎朝、点呼の際に何人かの男が選ばれて、尋問の為に外へ連れて行かれる。
そのまま戻って来ない者もいれば、新しくこちらの集合牢に降ろされる者もいた。
牢から牢へとたらい回しにされている者の話では、
拷問にかけられて既に何人か死んだとのことであった。
「拷問」
「我々から何を訊き出そうというのだ」
「さあ…」
会話は重たく途切れてしまう。
彼らは、はぐれ騎士と一般に呼ばれている、無法者たちであった。
罪を犯してお尋ね者となったり、軍隊から脱走して野盗と化した成れの果てで、
正規の騎士団によって国外に追放されることもあれば、
定期的に巡邏しているレイズンが領主の要請に応じて出動し、それを捕えることもある。
タンジェリン殲滅戦の後、その残党が帝国中に分散したため、
帝国治安維持を担うレイズンははぐれ騎士狩りと称して、
此度は大々的に片端から怪しいものを探したが、二年近く続いたそれもそろそろ終盤であった。
「俺たちはタンジェリンの連中と共に、全員が死罪になるのさ」
それはこの牢に入った者ならば全員知っていることだった。
二十年前、カルタラグン王朝の崩壊と共に失墜したタンジェリンは、その後細々と圧制に耐えていたが、
自滅間近にして無謀な叛旗をひるがえし、それが各国の騎士団により制圧されたのは、
記憶に新しいところである。
ミケラン・レイズンは彼らに投降も降伏も許さず、また彼らもそれを求めなかった。
徹底的な抗戦を見せた後、十重二十重に囲まれて、タンジェリンの騎士たちは滅びていった。
親は子を庇い、子は親を護り、そしてどちらも槍の林に消えていった。
『タンジェリンの誇りをみせてやる。』
闘い続ける彼らの口からそれを聴いたミケランは見物を決め込んだ高台の幕屋で片眉を上げた。
『勝たぬ者に誇りなどない。』
「だが、ルビリア姫がまだ生きておられるぞ!」
掠れた声が納骨堂の高い天井に響いた。
またか、という顔をして男たちは顔をうっそりと見合わせた。
それは、最近になってこの地下牢へと移されてきた騎士であった。
噂ではタンジェリンの騎士とのことであったが、どうせ末端なのであろう、しかも片腕がなかった。
「ルビリア姫はハイロウリーンに逃れ、そこでご成長あそばされ、騎士となられたのだ」
「うるさいぞ。お前も殴られたいか」
「いいから、云わせてやれ。奴の日課だ」
何度冷やかされても、それしか云わぬ。
「ルビリア姫がある限り、タンジェリンは滅びぬ。
ミケランめ、貴様に出来ることは、我々のような雑魚を捕えることだけだ。
タンジェリンの赤い星をその額に戴く、ガーネット・ルビリア・タンジェリン姫は、まだ生きているぞ」
「ハイロウリーンのフィブラン・ベンダ殿の前に脚を開いてな」
暗い笑い声。
「世が世ならば皇妃であった女を好きに扱えるのだ、ハイロウリーンの連中も嬉しかろうて」
「保護を求めてどんな男の前にも膝をついたと云うぞ」
「黙れ、黙れ」、片腕のない男はある方の片腕を振り上げて憤ったが、誰も構わなかった。
「ハイロウリーンに居る女は、ルビリアの名を騙る偽者じゃないのか」
「いや、本物のルビリア姫だそうだ。あまりにも淫乱なので偽者説がでるほどにな」
「それで気がふれたのか、もとから頭がおかしいのか、どちらなんだ」
「よがり狂うまで騎士団の中でまわされたのさ」
どこまでも暗い卑猥な話に、囚われの男たちは隠微な笑いを浮かべた。
金星のごときガーネット・ルビリア・タンジェリンのような高貴な騎士など、
ここの連中は実際にはその眼で見たこともないのであるが、帝国中に膾炙したルビリアの醜聞と、
男たちの想像の中では、すっかりそういうことになっていた。
「まあそう侮辱するな。女は高位騎士だ。俺たちの敵う相手ではない」
「だから、あれのなにの、高位だろ?」
「昇りつめたわけだ」
「ハイロウリーン騎士団の皆さまに鍛えられましたってか」
蔓延した倦怠の中にもひやひやと腐ったあぶくのように漏れていた男たちの下品な猥談を、その時、
「もう止せ」
張りのある声がぴしりと止めた。
閉じ込められた男たちは、しんと静まった。
先程の片腕のない男の肩を叩いて座らせると、代わりに立ち上がったその者は真ん中に進み出た。
日に焼けた、一見して農夫かと思うような、三十過ぎの男であった。
それは、片腕のない男と同時期にこの地下牢へと降ろされて来た新顔であった。
獄吏がこの男に対してだけは口調が丁寧なので、最初から、
いったい何者だと訝しく思われていた謎の者である。
身分があるようには見えぬ。だが押し出しには立派なものがある。
こちらを見つめている百人の有象無象を見廻して、男はまずは、軽く笑った。
天窓から差し入る光が、男の日に焼けた顔を斜めに照らした。
「もうそのあたりにしておけ。諸兄らの誰一人、ルビリア姫を知らぬのだから」
何を云い出すのかと注視している男たちを前に、農夫風の男は彼らを宥めた。
「何しろ、ミケラン卿を向こうに回して、
あの姫だけが挫けもせずにタンジェリンの気焔を独りきりで放ち続けているのだ。
親きょうだい一族を皆殺しにされても、まっすぐにミケラン卿をその視界に捉えている。
男にも出来ぬことをされている。
自分にも同じことが出来るかどうか考えてみるといい。
ここに群れている者には、彼女を謗る資格なぞないだろうが」
痛いところを突かれて、はぐれ騎士その他らは、うっそりと黙った。
農夫風の男はなかなか人の心のからくりに長けており、もともとから陽性の、賢い男とみえて、
狭い場所に押し込められて死を待つばかりの男たちに尊厳を保たせ、励ますのに、
それ以上の頭ごなしのお堅い説教を繰り出すのではなく、くだけた迎合から始めてみせた。
「それよりも、どうせ夢想を愉しむのならば、もっと夢のある話がいい。
いいか、この牢の中には、毎朝、美しい娘がやって来る」
「……なんだそれは」
「いいから聴け。毎朝、美しい娘がやって来る。諸兄らのご母堂や妻や、恋人でも構わん。
とにかく美しい女だ。思い浮かべてくれ。そして、やって来たその娘はそこの隅にいる。
祈祷台の近くでも、柱の陰でもいい」
男の話につられて見廻してみても、牢獄代わりの納骨堂は陰気に暗いばかりである。
憔悴しきった顔で、騎士たちは鼻を鳴らした。
「誰もいないぞ」
「いるんだよ」
男は声を強めた。いいか、毎朝、美しい娘がやって来る。そしてその隅に座って、我々を見ている。
夜になると出て行く。何故なら若い娘だからな。悪さをする者がいたら困るだろう。
虚ろな笑い声が上がる。
男はなおも語り続ける。
想像するんだ。そこに、美しい娘がいると。お前たちの母でもいい、姉妹でもいい、
郷里で待っているはずの恋人でもいい、理想の女でもいい、とにかく、その女だ。
「我々を見ている。心配そうな顔で。そして少し可笑しそうに微笑んで」
「………」
「おいおい、田舎者」
白けきったものが男たちの間に満ちる。
いかなる状況にあっても皮肉を忘れぬ者の口からは、疲れきった失笑すら上がる。
「何だか知らねえが、うるせえよ。お前から先に死ね、このくそ真面目な熱血詩人ばか野郎が」
だが、その揶揄も盛り上がらぬままだった。
納骨堂の真ん中で彼らにそれを語りかけているのは、強い態度と声を持ち、
信義の土台にしっかりと足を踏みしめて立っている、見るからにしっかりとした男である。
しかも、一見農夫にも見える彼が相当な剣の使い手であることは、それとなく、一同に知れ渡っていた。
そして獄吏の態度から推し量るに、身分ありげな彼が、彼らと同じ牢獄に入れてくれるように自ら願って、
この不潔な地下に降りて来たことも、まことしとやかに囁かれている事実であった。
あらためて男の全身を眺めて、
「………上位騎士か」
「そうとも」、農夫風の男はそれを認めた。
「上位騎士のお前さんこそ、俺たちを責める前に自分を恥じたらどうだ」
「そうだな。俺とて、レイズンに捕まったのは諸兄らと同じだ。剣もない。恥だな」
からかいに向けて悪びれもせず、男は傲然と陽にやけたその顔を上げた。
「この方に無礼な口を利くな」
農夫風の上位騎士を庇い、彼よりは年嵩の別の男がその前に立ち上がった。
牢の中では古株の一人であり、具合が悪いようでいつも柱に凭れている、怪我人だった。
その声は弱々しかったが、その眼は力を失ってはいなかった。
「誰だ、お前は」
「引っ込め、怪我人」
野次に向けて、怪我をしている騎士は名乗った。
「わたしはカルタラグンの騎士だ。名はモレスィド・ゴトレ」
囚われの男たちはどよめいた。カルタラグンの残党。まだ生き残ってたのか。
モレスィドは男たちを睨み付けた。
「ここにおられるサンドライト・ナナセラ殿は、
怪我をしたわたしを庇ってレイズンに捕われなすったのだ。無礼な口を利くな」
「ナナセラ」
「そうだ」
「サンドライト・ナナセラ。あの?」
怪我人に代わり、サンドライトは落ち着いて応えた。
「そのとおりだ。俺は、ナナセラ家の庶子サンドライトだ」
納骨堂はざわついた。
「サンドライト・ナナセラ」
「誰だそれは」
「衛星御三家ナナセラの係累にして、現ナナセラ当主の異母弟だ。
家中の反対を押し切ってカルタラグン王朝に仕え、
政変の混乱の中に生死不明となった。貴方は、あの少年騎士か」
「そうだ」、サンドライトは頷いた。
「二十年前の話だ。生きておられたのか」
「ご覧のとおりだ」
「何処に隠れておられた…」
「ユスキュダルに」
納骨堂の中には今度こそ引き潮のような沈黙が落ちた。
サンドライトはそれに注釈を加えた。
といっても、俺は聖地に居たのではない。その近くの寒村にいた。
政変の混乱の最中、カルタラグンの方々に連れられて落ち延びた。だが俺はまだ
隠者となるにはあまりにもまだ子供であったので、年長者たちの配慮で、途上の村に預けられたのだ。
「以来、表向きは農民として生きてきた。だが、俺の心は、騎士のものだ」
サンドライトは胸を張った。
「隠すことも無い。俺や、こちらにおられるカルタラグンのモレスィド・ゴトレ殿は、
ユスキュダルの巫女の御幸に従い、彼方の地からはるばる帝国に降りて来たのだ。
その途上、ジュシュベンダとトレスピアノの境において、
我らはミケラン・レイズンの傭兵と思しき謎の一団から襲撃を受けた」
その言葉の効果は絶大であった。
ユスキュダルの巫女と聴いて、水に落ちた犬のように惨めに腐れていた男たちの眼の色は一新した。
「巫女さま」
「巫女さまに御逢いしたことがあるのか」
「俺は、ない」
それに対するサンドライトの応えは明解であった。彼には指導者的な魅力があり、
返答がどうあれ、明瞭なその言葉で、たちまちのうちに百人の男たちを魅了してしまった。
サンドライトは、傍らのモレスィドを引き寄せた。
「その代わり、ここにおられるモレスィド・ゴトレ殿は巫女さまの近侍であられた。その為に、
ジュシュベンダの山間道でこのお怪我を負われ、またトレスピアノにおいては、
不可侵領に進入してきたレイズン軍と剣を合わされたのだ。------が、その話はまた後だ」
農夫に身をやつして生きてきた男の双眸は輝いた。
騎士サンドライトは手を腰にあてて、死刑を待つばかりの男たちに告げた。
「いいか。必ず助けが来る。信じろ。俺たちはまだ見棄てられはいないぞ」
武器を取り上げられて押し込められた牢獄内において、その様子はあまりにも確信に満ちていた。
かえって男たちは疑いを浮かべた。
こいつは騎士かも知れないが、自分をナナセラの係累と信じ込んでいる妄想者で、
頭がおかしいのかも知れない。
「いいか諸君」
その雰囲気を察したサンドライトはすぐにそれを覆すべく、いよいよ声音に自信をこめた。
「俺の素姓を疑うのは無理もない。ここではモレスィド・ゴトレ殿の他に、
俺がナナセラ家の者であることを証し立ててくれる証人もいない。
いくら訴えたとしても、かえってレイズンの手の者かと疑われるだけかも知れない。
俺のことなどどうでもいいのだ。諸君らと同じ立場で語らせてくれ。
ここに居る諸兄らよ。古くはカルタラグン、新しくはタンジェリン殲滅戦により、その騒擾に巻き込まれ、
わりをくうかたちで、野党、はぐれ騎士、またはお尋ね者として身を落とし、
身分剥奪の上、仕える国を失くし、正騎士の軌道を外され、帝国から放逐された諸兄らよ。
そもそも、それはいったい誰のせいか」
誰も声を立てない。その答えは明白にして、一つである。
「非道なる奇襲によりカルタラグンとその無辜の民を追い落とした男。
そして今、聖騎士家タンジェリンの消滅に伴い、
それに危機感を覚えたハイロウリーンとジュシュベンダの二大強国の連携を見るや否や、
ユスキュダルより尊き巫女を呼び寄せ、身を隠すその盾として利用せんとしている男。それは誰か」
誰もが知っている。
隠密を使って各地に潜伏、放浪していた彼らを捕え、こうして閉じ込めた男の名を。
きらりと眼を光らせて、サンドライトは一同を手招いた。
牢内には獄吏の姿はないが、内密の話をするには、人数が多すぎる。
それでも、潜めたサンドライトの声は、生気を取り戻した者たちの輪の内側によく響いた。
「諸兄ら。絶望するのはまだ早い。我らには外部の味方がいるのだ」
ひそひそとサンドライトは、打ち明けた。
一方、モレスィド・ゴトレはそっと後ろに下がり、牢の入り口に向かうと、その階段下で見張りについた。
脱獄不可能の地下牢であるが、いつ監視が降りて来ぬとも限らない。
モレスィドとサンドライトは、この数日ずっとこの機会を待っていたのだ。
「俺はずっと、諸兄らを観察していた」
サンドライトは一人ひとりの顔を見廻した。
もしかしたら、この中に、ミケランの隠密が混じっておらぬとも限らぬと、そう思ってな。
モレスィド殿と俺とで、ずっとそれを探っていた。
「だが、ミケランの手の者は混じってはおらぬようだ。
仮に、もし隠密が居ても構うものか。
我らへの救いは、いかな卿であってもおいそれとは動かせぬ、
高貴なる方から差し伸べられているのだ。
そしてその方も、まったくミケラン卿に対してそれを隠してはおらぬ」
「何だと」
今こそ、囚われの騎士たちの顔には愕きが浮かび、彼らは絶望と抵抗の狭間で疲弊しきったその心を
ぎしぎしと開けようとする、このナナセラの騎士への不信と期待に、静まり返った。
それを聴きながら、納骨堂の入り口、階段の下に腰を下ろしたモレスィド・ゴトレは、深い息をついた。
怪我を負ったまま捕えられて、その後不摂生を強いられたため、身体が恢復しないのだ。
それでも、外部に物音がする度に、身についた癖で、つい剣を腰に探した。
捕われた時に取り上げられた、カルタラグンの剣。
(山間で賊に襲われ、巫女の御輿を囲んでの攻防戦の間に、不覚にも太刀を浴びた。
無我夢中でトレスピアノに助けを求めた。その祈りが天に通じるようにして、
眼にも鮮やかな青年騎士が夕暮れを裂くようにして忽然と現れ、谷間からリラの君をお救い下された。
あれこそが、フラワン家のご子息。----星の騎士であったとは)
「サンドライト殿」
男たちの間からは、当然の疑惑が上がった。
「国許も出自もばらばらな、はぐれ騎士や帝国の敵と見做された我々に、
一体誰が救いの手を差し伸べてくれると云うのか」
「答えよう」
片手を挙げて、サンドライトはさっと一同を静粛にさせた。
「皇帝の片腕であり、枢機の黒幕ミケラン・レイズン卿。
彼はレイズン分家の統領に過ぎぬ身でありながら、
本家までをも牛耳っていることはご存知だと思う」
いよいよ登場したその名に、百人の男たちは押し黙っている。
「まさにそのミケランに対抗せんとする一派が、ようやく、レイズン本家におこったのだ。
その名を諸兄らに教えよう。ヴィスタル=ヒスイ党というのだ」
「そのような党、聴いたこともない」、すぐさま懐疑。
「タンジェリン壊滅を契機として、つい最近に本家の由緒正しき貴公子たちの手により結成されたのだ」
サンドライトは男たちに説明した。
他ならぬレイズン本家が、打倒ミケランをその指標に掲げたのだ。
他家の有志をも取り込みながら、こうしている間にも、彼ら一党は次第に大きくなっている。
「レイズン本家の若者たちが、卿に反抗を、だと」
「そうだ。そして敵を同じくする彼らは、ミケランによって利用されようとしている
我々の解放のために、動いてくれているのだ」
「サンドライト殿」
続いてあがった尖った声は、男たちの総意を代弁するものであった。
「それが本当であったとして、その報を、貴殿はどこから手に入れられた」
サンドライト・ナナセラはにやりと笑った。
だから、さっき云っただろう。女の幻を信じろと。
「それでは、意味が分からん」
「内通者が女という意味か。この砦にさような女が出入りできるものか」
「諸兄ら」
ナナセラ家に列なるサンドライトは、そればかりは隠せぬ名家の誇りの高さをみせて、
僻地で不遇をかこってきたこの二十年の重みを、その言葉にこめた。
「諸兄ら、助けは来る。信じるのだ」
(帝国にこうして戻ってきても、カルタラグンはもうこの世にはない)
彼は独学で、剣術を鍛えた。
寒村で見る月は大きかった。
カルタラグンの落武者の一人は、危険も顧みずに彼をナナセラに
送り届けてやろうと云ったが、それも断った。
俺のふるさとは、カルタラグン王朝があった、あの都だ。
(妾腹の身に甘んじたくないと、縁故を頼り、独りで宮廷に上がった。
俺はまだ子供だった。ルビリア姫とも歳がそんなに変わらなかった。
華色の髪をした小さな姫。翡翠皇子は、姫をルビイと愛称で呼んでいた)
「サンドライト殿」
「-----……何でもない」
追憶に引きずられそうになったサンドライトは姿勢を正した。
今も忘れぬ翡翠皇子の声。
片隅では、同じ追憶に沈むモレスィド・ゴトレがいた。
そのやせた頬を、天窓からの光が照らした。
モレスィド・ゴトレ、彼もまた、ハイロウリーンに収容されたゼロージャと同様、
もっとも働ける騎士の黄金期を奪われて、いたずらに歳を重ねた身であった。
ユスキュダルは安らぎの地であったが、落陽に雪山が燃えるのを見上げては、
カルタラグンの終焉のあの夜を、皇居を燃やした無念の焔を想い出さぬわけにはいかなかった。
階段に腰を下ろしたモレスィドの手は、幻のそれをさぐった。
七星紋の剣。
モレスィドの口許に苦い笑みが浮かんだ。
トレスピアノ領内に避難した巫女の一行は、領主の厚意で荘園内に天幕を張ったが、
馬から落ちて先に収容されていたモレスィドだけは、フラワン家の屋敷で手厚い看護を受けていた。
手づから手当てをしてくれた領主夫人の眼は、
モレスィドの剣がカルタラグンの騎士が持つものであることを看破していた。
それを砥ぎに出しましょう、静かに云われた。謹んで断った。
それも運命の綾だった。
手当てを受けたフラワン家のお屋敷で、あの剣が、
翡翠皇子のかつての恋人であった高貴な女人のお眼に留まるとは。
(フラワン家に生まれた三人の星の騎士。そして、ご長子のシュディリス殿)
(レイズン軍が不法侵入してきた混乱の最中、蒼い風のように飛び出してこられた。
御輿から巫女を奪い去って行くのを馬車の中から見ていた。
ミケラン卿の手に落ちる寸前に辛くも巫女を攫って下さった。
あれこそ奇跡であった)
土地勘のあるシュディリスの姿は瞬く間に森に消えて、
後に残された彼らは、レイズンに捕縛されたり、罪状の見当たらぬ一部の隠者は
女人と共にユスキュダルに戻されたと聴いているが、定かではない。
(帝国においては、我らはお尋ね者なのだ。
いかにトレスピアノの領主殿が不可侵領を盾にして我らを保護しようとも、
皇帝の宣旨があれば、領内に不当留置している騎士を引き渡さぬわけにもいくまい。
我らが帝国にふたたび降りることが叶ったのは、巫女がお傍にいたからこそだ。
逃げに逃げて、ユスキュダルまで逃げた。
お家再興と敵討ちの時期を待つなどと落ちぶれた自分を慰めてみても、
カルタラグンの正統なる後継者であられた翡翠皇子がいないのであれば、
もはやどうしようもないことを虚しく知りながら)
(モレスィド!皇子宮が燃えている)
(逃げろ。ここは逃げろ。レイズン家の、いや、あれはレイズン分家の旗と、そしてジュピタの御旗だ!)
(------ジュピタ皇家の、御旗……)
(逃げろ、勝ち目はない。翡翠皇子は殺された)
(嘘だ)
(モレスィド・ゴトレ。こちらへ)
(翡翠皇子)
(貴方に剣をあげよう。七星紋の剣だ。
剣闘士として国から国へ流離うこともこれまでだ。
七星はカルタラグンの紋章。そなたをカルタラグの騎士に任じる)
(皇子)
(汝、カルタラグンの騎士たらんことを。なんてね)
(------は?)
(タンジェリンの騎士団が少し頼りないのでね。
未来の皇后のために、若くて強い騎士を今から揃えておきたいのだよ。
わたしが求めるものは、頭の悪い騎士だ。その点、君なら申し分ない)
(は、はあ…)
(真面目で愚直な者でなければ、騎士を騎士たらしめるあの不文律に盲従出来ようか)
翡翠皇子は、活けられた花に眼を逸らした。
かたちなきものに忠誠を誓い、その屈辱に耐え抜くことが出来ようか。
それを貫ける者でなくば、そぎ落とされた強さなど、持ちえようか。
騎士は最大の侮蔑にして、最高の尊敬と憧憬を得る。
(いつか分かるよ。その時にこそ、君はカルタラグンの騎士だ)
(翡翠皇子。何のお約束も果たせずに)
最後に見たのは、燃え堕ちる皇子宮の火炎だった。
それは翡翠皇子の焔だった。星空へ昇る白い影だった。
モレスィドは項垂れた。
(燃えさかる宮の中、御許に馳せ参じることも叶わず、ルビリア姫を救出することも叶わなかった。
ルビリア姫に関する醜聞を耳にする度に、あの夜、姫を護れなかった己をどれほど責めてきたか)
(あの日戴いた剣も、ついにレイズンに取られてしまった)
最大の侮辱にして、最高の尊敬と憧憬。------屈辱にして、最高の栄誉。
それを知る方の許でしか、騎士は騎士足りえぬ。
二大騎士団率いるハイロウリーンのフィブラン・ベンダ、ジュシュベンダのイルタル・アルバレス、
騎士の生かし方も殺し方も心得ている彼らの如き、非情にして厳格な、父的な視点の許でしか。
(功労者ミケラン・レイズンとはよく云ったものよ。彼はもしかしたら、
強い魅力を持っていた翡翠皇子の許で帝国が中央集権へと転換することを
水際で阻止した男かも知れぬのだ。考え過ぎかも知れぬがな。
翡翠皇子があのまま皇位にのぼられていたら、もしかしたら、
それまでは皇帝の周囲に集う騎士家の均衡によって保たれていた帝国も、
泰平の続きでは済まぬかったかもしれぬ)
それとも、翡翠皇子はそのことも承知であっただろうか。
だからこそ、あのように軽佻浮薄に振舞っていたのであろうか。
カルタラグンの強い血を持って生まれながら剣を持たず、騎士であろうとはしなかった翡翠皇子が、
騎士として生きたのは、皇子宮を襲われた、その最期の夜だけであった。
(------宮廷と田園。あまりにも背景が違うせいか、あの時には気がつかなかった。
翡翠皇子の面差しが、シュディリス殿に重なる。たくさんのものを
言外にこめているような、あの微笑み方)
(翡翠皇子。自ら剣を持ち、闘われての、見事なご最期であられたそうだ。
ユスキュダルの巫女を奪い去って行った時のシュディリス殿に、その幻が重なる)
「我々にお味方下さるその高貴なる御方の名を明かそう」
騎士たちは顔を上げ、次ぎなる言葉を待ち受けた。
納骨堂の片隅では、片腕のないタンジェリンの騎士が、まだ騒いでいた。
ルビリア姫は生きているぞ。
カルタラグンの亡霊。彼らはそう呼ばれる。
昔の栄華に縋る現実を見ない愚か者と。
サンドライト・ナナセラは、そのような亡霊を振り払うがごとく、力強くその希望の名を告げた。
ジュピタの都におわす、フリジア皇女だ。
ゾウゲネス皇帝陛下の一人娘、フリジア内親王殿下が、
俺たちの助命のために奔走して下さっているのだ。
ヴィスタル=ヒスイ党が、それを皇女にはたらきかけてくれたのだ。
「嘘ではない。その証拠に、この砦には、使いとして皇女の侍女が出入りしている」
ナナセラ家の家名に免じて、俺は囚人の代表として、その彼女と面会することが赦された。
諸兄ら、楽しみにしておけ。すごい美女だ。逢える日を愉しみに、日々の支えにしておけ。
その人が、毎朝この牢に来て俺たちを見守ってくれていると、そう想像するんだ。
たとえ囚人であっても我らが騎士であることを忘れるな。
彼女は危険をおかしてまで力添えをしてくれるのだ。勇敢な女に醜態を見せるな。
一つだけ教えておこう。その侍女は、額に創がある。
「続く]
Copyright(c) 2007 Yukino Shiozaki all rights reserved.