[ビスカリアの星]■五十六.
いちばん見たいものは、貴女の、闘う姿。
焔のように赤い精気をまつらわせ、日蝕の太陽のように不吉に眩む。
いちばん見たいものは、貴女の、苦しむ姿。
押し伏せる夢想ばかりを愉しんで、いつの間にか、力は貴女を超えてしまった。
名乗りを上げることよりも、大切なものを選んだ。
その他には何もいらない。貴女の他には、何もいらない。
-----まだ少年だからといって、手加減はしないと云ったはずよ、エクテマス。
-----剣を拾いなさい。膝をついた無様な格好が恥ずかしければ、私にも同じことをするのね。
「エクテマス。手紙だ」
眼の前に文函が突き出された。
明かりを採るために天幕の入り口はもとから巻き上げてある。
エクテマスは下を向いたまま、鉄筆の先で机の隅をさし示した。
「そこに置いておいてくれ。後で読む」
「算盤なんか取り出して、何してる」
「フェララにちょっと取られたからな。分配のやり直しだ。
他に用がないのなら出て行ってくれ、気が散る」
「早く開封しろよ。国許からだ」
人の出入りに伴って風が起こり、折りたたみ式の机に広げた紙が散らばりかけたのを、
エクテマスは肘で止めた。
今しがた持ち込まれた文函を横目に捉える。
検閲を受けていない。
帯にほどこされた封蝋も、文函の上に象嵌された紋章も、実家のものならば当然だ。
平騎士の雑用として補給された食糧の分配率を日割りで計算していたエクテマスは、筆をおいた。
父フィブラン・ベンダ・ハイロウリーンからこのように直接手紙が来ることは滅多にない。
書簡函の紐をほどきかけて、エクテマスは途中でその手を止めた。
読むのを後回しにしようと思うこの心のはたらきそのものが、
最近、報告を怠り勝ちなこちらの自責そのもので後ろめたいのだが、
男子にとって父親からの手紙とは、母親の手紙に対して覚える疎ましさとはまた別の、
生徒のような気持ちにさせる重いものであることには変わりない。
朝から膨大な兵糧の除算に付き合っていたお蔭もあって、今はそんな気分になれない。
どのみち糧秣の算出は何人かで行って、上層に提出した後に平均を出すのである。
独りで躍起になって見積もりを出したところで、それが採用されても、自分の手柄にはならない。
雨上がりのコスモスには、涼しい風が吹いている。
休憩を先にとることにして、エクテマスは天幕の外に出た。
明るい日差しと空の青が眼にしみた。
森を流れる清流は心地よいせせらぎを奏でながらコスモスへと流れ込む。
菌糸類のごとく地を覆い尽くした無粋な天幕さえなければ、実に叙情的な風景である。
白い雲の流れを追って、一望する。
コスモス郊外への領土侵犯はもはや無礼講なった感があり、
神速の呼び名高く一番乗りを果たしたハイロウリーンは、もっとも地形のいい高地を取っていた。
山と丘陵に囲まれたコスモスは平地ではなく起伏に富んでいるために全体は見通せないのだが、
丘の上の陣屋からは、扇状の視界をかなり広く確保できていた。
(レイズンへの牽制として、主要騎士家が顔を揃えていることが肝要だ)
森を背にとったフェララの陣旗が小さくひらめく。
遠くにそれを見据えながら、エクテマスは顎の下に手をあてて、しばし地形を眺めた。
出遅れ組のジュシュベンダは、さて、どこに布陣するだろうか。
(やはり慣例に倣い、我らとは距離を空けて、反対側に陣取るだろうか)
ジュシュベンダ-----。
風になびき、雨上がりの露珠をとばす草木がその名を唱和した。
飛び交う飛沫の中、エクテマスは身を削ぐような畏怖と愉快に震撼した。
ジュシュベンダ騎士団。
永い歴史の中でもハイロウリーンとジュシュベンダは真正面から戦を構えたことがない。
帝国の二大騎士団が真っ向から激突する時、それはヴィスタチヤの終焉である。
二大騎士団が不動にして不沈であることこそ武力均衡を保つのにもっとも望ましく、
片方の騎士団がどこかに大きく肩入れすることなど論外にして、それすなわち騎士世界の破局、
それ故、ジュシュベンダとハイロウリーンの二大騎士国はその按配についての熟知をもって、
常に節度ある武力の行使でもって、全土に睨みと凄みを利かせてきた。
もしも強大な軍事力がハイロウリーンとジュシュベンダのどちらかに偏っていたのなら、或いは、
戴く領主の野心や時勢に押し流されるようにして、
帝国を分割するほどの大戦を引き起こすこともあったかも知れぬ。
だが両国はカルタラグンなき後も、互いに牽制し合いながら関与も干渉もせぬ道を選び、
共存姿勢を崩すことなく、矛先を常に互いからそらし続けることで、
あわやの際にも水際での阻止を決め込んできた。
もっとも、粗野な時代には、その名を今に残すジュシュベンダの豪傑が北上に北上を重ねて
ハイロウリーン領の手前まで迫ったこともあるのだが、ハイロウリーンは冬を待つことでこれを撃退、
雪を蹴立ててジュシュベンダを押し返すハイロウリーン軍の一斉反攻は、
まるで氷河の決壊さながらであったと、帝国年代記には記されている。
それを除けば二大騎士団を有する両国には、引き分けもなく、勝ち負けもない。
誓約によりジュピタ皇家の為に戦う、または国と国の戦に仲介に入る、その折に
互いに遠くからちらりとその旗を認識しあう程度で、双方はそれ以上踏み込むことなく、
勝とうと負けようと、戦を構えれば必ずや帝国の基盤をひっくり返す大戦の引き金となることを知るだけに、
正面衝突は徹底して避けてきた二大大国である。
そのジュシュベンダが、ついに、立ったという。
エクテマスはまだ見ぬジュシュベンダ騎士団の旗波を地平に凝視した。
いずれはこの眼でその軍隊を見たいと願ってきたが、思いがけず、それが近日中に叶うのである。
ハイロウリーンの白金に対して、古代紫に金銀のジュシュベンダのその旗を、
対レイズン同盟国というかたちにしろ、眼の当たりに出来るのである。
腕組みをすることで、エクテマスはこみ上げてくるものをようやく堪えた。
それは奇しくも、先日のフェララがハイロウリーンに対して覚えたような、武者ぶるいであった。
ジュシュベンダ騎士団の名には、それほどの重みがある。
(----さすれば、父からの手紙はそのことか)
エクテマスが思いついて天幕に引き返そうとしたところ、下の道から音がした。
草を掻き分けて下方をのぞくと、サザンカ騎士が片膝を立てて仰向けに倒れている。
眼が合った。
女だ。
エクテマスはひゅっと口笛を吹いた。
「君か。平気か」
「申し訳ありません」
今朝方、一帯に湿らす程度の雨が降った為に、斜面が濡れている。
ついでにその辺りは最初に露営を立てたところで、埋め戻したとはいえ、
草に隠れて柱の跡がまだ残ったままになっている。
坂道の途中で足を滑らせ、躓いて転んだ女騎士はすぐさま立ち上がった。汚れも払わずに、
エクテマスに対してサザンカ式の礼をする。
ハイロウリーン軍中においては本人が強くそれを希望したこともあって平騎士の
扱いであるエクテマスであるが、他家においては彼はれっきとした、ハイロウリーン家の子息である。
当然、敬意を払われる。
それは止めようもないことなので、あえてエクテマスも平然と受けているし、またハイロウリーンの将たちも、
それこそが彼の本来の姿であると、逐一咎めたりはしない。
どのみち、フィブランの七人いる子の下から二番目など、もとより重きをおかれていない気楽もある。
「近道だ。昇って来い」
エクテマスが差し伸べた手に、女騎士は素直に従い、エクテマスは彼女を上に引っ張り上げた。
やって来たのは、ロゼッタ・デル・イオウであった。
亡命していたオニキス皇子を迎えるにあたって、
サザンカから護衛としてオニキス皇子に附いて来たイオウ家の騎士である。
その道中、何度か言葉を交わす機会があった。
彼女に対しては国許の少年騎士団に対してそうするような態度になっている。
実際、小柄な上に色気も皆無で、女騎士というよりは、間近で見ても少女騎士にしか見えない。
ところで、エクテマスは少々感心している。
何となれば、濡れた草にすべって転んだこの少女もとい、若い女は、
咄嗟に手にしていた書簡筒と、それだけでなく腰の赤剣までも空高く投げ上げて、
己は転倒しながらも着地点に向けて腕を突き出して泥一点の汚れもつけることなく、
その二つを次々と受け止めてみせたのである。
先刻のエクテマスの口笛はそういうわけであった。
天幕に招き入れた。
「エクテマス殿。ガーネット・ルビリア閣下にお目にかかりたく」
「閣下はいらないと仰せだ。指揮官は、先刻視察に出て行かれた」
「では、ハイロウリーン軍サザンカ駐屯部隊指揮官殿に、これをお渡し願います」
几帳面に踵を揃え、生真面目な顔で、ロゼッタは書簡筒を差し出す。
「預かろう」、エクテマスはそれを受け取った。
「急ぎか」
「いえ。本日中で結構です」
従者に書簡筒を持たせてルビリアの天幕に送り出すと、エクテマスは筆を取り上げた。
机の上には計算紙や算盤が出しっぱなしになっている。
「ついでだ、オニキス殿下警護隊引率責任者の君に訊く。サザンカ側の糧秣は」
ロゼッタはてきぱきと具体的な残量を述べた。エクテマスはそれを書き留めた。
「不足分については先日ご配慮をいただき、貴軍より分けてもらいました。まだ充分です」
「糧秣支廠はお国のサザンカの方が近いはずだが」
「恐縮です」
顔色ひとつ変えない。軽い皮肉に対しても動じない。
黒髪の女騎士は美しい眸で真っ直ぐにこちらを見つめて口を開く。
「兄のカウザンケントにはその旨伝えましたが、
入れ違いで兄はジュシュベンダに使者として発っておりました。
ジュシュベンダより帰国次第、サザンカ隊の発動に合わせて早急に手配してもらえるものと思います。
お借りした物資はお返しいたします」
「お父上ではなく、兄上殿に頼まれたか」
「彼がイオウ家の次期統領です」
「今回のことは予定を変えてコスモスに向かったこちらにも責任があるし、
たまたま我らの物資に余裕があったからまだいいが、
そちらのお家のいざこざで補給を遅滞させたり、自軍の兵を飢えさせたりしないといいがな」
「兄は先日、主家サザンカのご令嬢と婚約いたしました。
正式な家督譲渡はまだですが、既に実権は兄に移行しております」
「兄君の顔を立てることで、これを機会にカウザンケント殿が次期統領であることを
イオウ家の身内から内外に向けて示したいと?」
「そうお考え下さって結構です」
「諒解した。いい返事だ。ロゼッタ・デル・イオウ殿」
「では、これにて」
短く切り揃えた黒髪をさっとひるがえして、ロゼッタはすばやくエクテマスの前から退こうとした。
無言のまま、片腕を伸ばしてそれを止める。
エクテマスの天幕は入り口が開いたままになっていた。
腕を掴まれたロゼッタは、怪訝な顔でエクテマスを見上げた。
赤い剣がその腰にある。
家司イオウ家は、主家サザンカとは切っても切れぬ縁で結ばれ、
領土を半ば共同統治している名家である。
そして主家と婚姻を深く取り結ぶ手堅さのその一方で、イオウ家は代々、
何故か艶聞に事欠かぬ家である。
醜聞ではなく、艶聞。
見るからに勤勉、謹直一辺倒で、さほど恋多き性質とも思えぬ生真面目な彼らであるのに、
他でもないそのイオウ家から、帝国中の噂になるような恋愛大事件がしばしば起こるのである。
堅気の者ほど一度迷うと恥も外聞もない燃え上がりをするものか、
それともああみえて内に秘めたるものは情熱的で逸脱を好むのか、
現にイオウ家の老統領とて他家の婦人と恋に落ちて、もう長い間、実家を離れ別の処で暮らしている。
年代記の中には、主家サザンカを飛び越えて聖七大騎士家との不倫、略奪愛、
大恋愛をまき起こしたイオウ家の者の名が狂い咲きのように咲き誇っており、
それは収まったかに見えて、どうかすると一族の中の誰かの上にふたたび絢爛と派手に噴出してくる、
薔薇と棘を家紋とした彼らの、恋という名の止みがたき毒の要素であるらしい。
エクテマスはロゼッタの小さな顔を見下ろした。
本当かどうかは判らぬが、他ならぬロゼッタのこの黒髪とて、
これも何代か前にサザンカを訪れたレイズン家の使節とイオウ家のご婦人が、
婿養子をほったらかしにして刹那的な恋愛に落ちた、その名残であるという。
下流の血と騎士家の混血からは、稀にそこらの純血よりも強い騎士が生まれることがあるが、
さすれば、あらゆる階層の血が入り混じったこの女は、その不品行が生んだ淫らな果実というわけだ。
(薔薇の騎士、か)
この色気のない少女じみた女が、ユスタス・フラワンを落としたか。
いつ交戦状態となるやも知れぬ情勢となってからは、ご母堂の形見とかいう、
薔薇の香りがするあの首飾りは外しているようだが、ご婦人の持つ香水瓶なぞなくとも、
深紅こそはサザンカ家に仕えるイオウ家の色であり、まといつく隠微の影である。
色事など興味のなさそうな潔癖な顔をして、
古典的な蠱惑の香りにひそむその棘で、選りにもよってフラワン家の男を捉えたか。
(つまり、先天的な不良だな。他人のことなど云えぬがな)
女の顔やその細い腰を見るともなしに見つめた。
憂さ晴らしに丁度いい。
幸いにして、邪魔なユスタスはルビリアの供をして不在である。
エクテマスは片手に剣を取り、ロゼッタの腕を引っ張って天幕の外に出た。
「何用でしょうか」、ロゼッタは訝った。
「少し暇はあるか」
「少しなら」
「平生、わたしは練習相手に女騎士は選ばない」
「存じております」
エクテマスが剣を交える女は、彼が少年騎士団から従騎士に抜擢されて以来、
その師匠ガーネット・ルビリアだけである。有名な話だ。
「お家伝来の赤い剣を携えているとは丁度いい。お相手願えるか」
「エクテマス殿と?」
ロゼッタは眼を瞠った。
騎士が勝負を申し込むのに大層な理由がいるのか。エクテマスは冷淡に見返した。
オニキス皇子を送還の途上、君はソニーやゼロージャ殿を差し置いて、ずっとわたしを見ていた。
その慧眼が確かかどうか、自分で確かめてみたらどうだ。
「附いて来い。他の者の邪魔が入らぬ森がいい」
エクテマスはすでに歩き出している。
怯むか、と思ったが、追いついたロゼッタはその白い頬を微かに紅潮させて
剣の柄をしっかりと握り締め、エクテマスに歩を合わせ、
「光栄です」
澄んだ声で小気味よく答えた。
或る者は結局は膂力だと云い、或る者は、伎倆だと主張する。
かくも多様な理論と応用と実戦の複合が強いられる時、どちらも正しく、
そしてどちらも命題の解答には至らない。
騎士の階位は国によりさまざまであるが、騎士階級が上がるにつれて
力と技の二派に分かれて激しくなるこの論争は、
そのどちらもが正しいという汎用性の高い、それでいて無意味な解決論と合わせて、
準上位騎士階級あたりで、ぴたり、とかき消える。
口を噤み、彼らはあることを悟るのだ。
何かを云い立てている余裕があるうちは、まだ甘いのだと。
そして、そういった悟りをさらに平然と超えてゆくのが上位騎士、高位騎士であるとすれば、
星の騎士はこう応える。
一度もそのようなことを気にしたことはない、と。
エクテマスはロゼッタの剣先を横に流した。
------面白いでしょう?エクテマス
------女騎士と闘うのは、女と交わるよりも昂奮するでしょう?
対峙しているのは、一人の騎士だ。
黒髪が撥ね上げ、ロゼッタがまた挑んでくる。引き歪んだ女の必死な顔。喘ぎ声。
少年騎士団から抜擢された自分が仕えたのは、異国から亡命してきた若い女だった。
世が世ならば皇妃となるはずであった女。
赤錆色の髪をしていた。
騎士の孤独も誇りも激情も、惜しみなくそのすべてを教えてくれた。
------私が貴方を高みに連れていってあげるわ。
父フィブランは何を書いて寄越したのだろう。
「嘘だ」
ロゼッタが声を振り絞った。
最初にも想った。この女は曇りのない、いい眼をしている。
「嘘だ。エクテマス殿、貴方は欺いておられる。私に手加減を」
「途中で止めるな」
剣を下げたロゼッタに向けて、エクテマスは一喝した。
「止めるな」
「私が愚かでした」
震えを隠した荒い息をはきながら、ロゼッタはふたたび剣を握った。
伝統の宝剣、イオウ家の赤い剣は、竦み上がった女の頬に冷たい色を走らせた。
木漏れ日の緑の中に散る鮮血の色。
「貴方は平騎士などではない。当代一の剣士であられる」
「だったら?」
「構いません。私は貴方のすべてが知りたい」
気丈にもロゼッタは、前のめりに気合を吐いた。その声が恐怖に引き攣っている。
これは怪我をさせるな、掠めあった剣の先を見つめてエクテマスは心中で独りごちた。
どうやら、試み程度では済まぬようだ。
感謝しろ、女。お前をコスモスの地から叩き出してやる。
------さあ、かかっていらっしゃい、エクテマス。いい顔をみせて。
------負けないわよ。
「アアッ」
猛攻を受けて、ロゼッタが膝を沈め、胸先をそらした。
辛くもかわしたその息が、はや、すすり泣くようにせりあがっている。
本気の女を適当にあしらうのはかえって無礼というものだ。
それでは自分は、心の奥底で永年してみたいと切望しながらも果たせなかった慾望を、
この女騎士の上に吐き出すのだろうか。
想像の中で何度も犯してきたものを、別の女を使って見苦しく果たすのか。
それもいいだろう。
エクテマスの双眸に狂気の片鱗が浮かんで、すぐに沈んだ。
霧をくぐったような汗を浮かべながら、ロゼッタは唇を噛んで持ちこたえている。
その脚の間に、ユスタスは踏み込んだ。ロゼッタが退る。
眼にもとまらぬ速さで繰り出す技と大の男でも吹っ飛ぶ重みをロゼッタが見切ったことに
エクテマスは眼を細めた。女騎士の採る常套とはいえ力を受け流すことでロゼッタは最大の防御を果たし、
吹き流される蝶のようにエクテマスの剣光の先で踊りながら、次の動きにもぴったりと附いてくる。
深く吸い付き、意のままに操られるようでいて、勘がいい、一瞬先を読んでいた。
そうしながら、女騎士は反撃の機会を待っていた。
交差した剣をひねって戻し、抱き合うようになったところを互いに突き飛ばし、ふたたび向き合う。
抗おうにも抗えずに、熱く苦しい坩堝に引きずり込まれてゆくのは剣に生きる者の宿命にしろ、
わざと作った隙にも釣られず、短い息を切なく吐きながら、女は強く絡んですがりついてくる。
いい感じだった。
しかし、こちらはさらにその上をいく。
高位の称号を持つルビリアよりも強いと知ったのは、いつだったか。
背丈が伸びて、ルビリアの肩を超えた時か。
或る日不意に階段を何段も上がるようにして、周囲の騎士を軽々と引き離し、凌駕していた。
その気になれば、師匠であるルビリアの細腕をやすやすと剣で叩き折り、
組み伏せられることを知った。それは無窮にして無敵の、孤独世界だった。
ルビリア、わたしは貴女に勝ってはいけない。貴女の傍にいるためには、そうする他ない。ルビリア。
剣光が絡み合い、すぐに離れた。息を引き、ロゼッタが両手で剣を持ち直す。
赤剣が翼のように鋭く舞い、黒髪が横切る。
決して勝ってはいけない最高の娼婦。その代わりにならずとも。
いい眼をしている。
「エクテマス殿。参る」
「来い」
不運だな、薔薇の騎士。
憐憫はこの女を斃す邪魔にはならない。
エクテマスは剣を構えた。
----------------------------------------------------------------------
オニキス皇子及びルビリアと供に
近辺の視察に出ていたユスタスの一行が陣屋に戻った時、
いつもならばすぐにルビリアを出迎えるエクテマスの姿がなかった。
「お帰りなさいませ」
彼らは馬を下りた。
ナナセラ軍の本隊がコスモスに到着したとの報を受け、
ユスタスたちは今朝からそれを視に行っていたのである。
フェララ、ナナセラ、コスモスの三騎士家を三ツ星騎士家、または衛星騎士家と称するが、
そのうちの一つナナセラは、近年では聖騎士家に並ぶ勢いのフェララに半ば
取り込まれたかたちとなっており、それを証明するように、その陣もフェララのすぐ近くであった。
「きれいね」
コスモス入りするナナセラを丘の上から眺めて、ルビリアが述べた感想はそれだけであった。
帝国随一の芸術院を有するナナセラは伝統的に美術工芸をことの他尊重し、
画家や彫刻家の多くは、一度はこの国の高水準の中で切磋琢磨し、
ナナセラ上がりの箔をつける。
そしてナナセラは、高名な芸術家を各地より招聘すると同時に、
無名の者も惜しみなく奨励し、彼らに援助を施した。
たとえどれほど貧しい家の子であったとしても、
才能さえあれば後見人の手であまたある工房の何処かへと推薦されて、
彼が画家であるならば画筆と顔料に、陶工ならば土や釉薬に、その他いかなる道であれ、
修行に必要なものが不足することはない。
こういった保護と援助の気風を背景に、一度ナナセラを出た職人の多くは恩返しのように
その後身につけた円熟した技巧をもってふたたびナナセラに戻って来る。
名を上げた彼らは後人たちの指導を始め、ナナセラの殿堂に高等な作品を遺すことで、
芸術に殉じたその生涯をナナセラで終え、誇らしい墓碑銘の代わりとした。
こうした国策を背景に、芸術の生新は全てナナセラより興り、帝国全土に伝えられ、
そしてまたナナセラにおいて、名品骨董となっていく。
かように、ナナセラの国風は武ではなく、工芸の国であった。
黄に金の旗を立てたナナセラ軍は、こじんまりとしていながらも、異国の王族のように雅であり、
威風堂々といかぬまでも、じゅうぶんに気品高く、金色の聖獣のように粛々とコスモス入りを果たした。
主要騎士家の中でもっとも低い軍力しか持ち得ないナナセラは、
現状では隣国フェララと協定を結ぶことでその傘の下に入るより他なく、
構えたその陣もフェララから予め其処を割り当てられたものかフェララ陣屋の後方の低地であったが、
引けをとるものではなく、麗々しいとさえいえた。
供人を引き連れたオニキス皇子、ルビリア、ユスタスたちは、
それを少し離れた高地から眺めた。
「あれに。フェララからナナセラに向けて、出迎えの一団が」
「ユースタビラ、あれはコスモス駐屯軍総司令官モルジダン侯かしら」
「遠すぎて云い切れないけど。隻眼の方ならば、多分」
「総司令官殿、自らナナセラの出迎えに?」
「ナナセラはフェララと協定を結んだとはいえ、配下に下ったわけではありませんから」
彼らが見ている中、ナナセラの工兵らは、
緻密な設計図に沿ってたちまちのうちに陣屋をおこした。
黄と金の旗を立てた各天幕も野営に相応しく簡素でありながら、
そこには何とはなしにお国柄ならではの計算された美的調和が作用するとみえて、
景観と調和するように按配よく配置されたそれらは、上から見ても整然として、
金箔をほどこしたひなぎくで野を飾る作業に似ていた。
丘の上からそれを見届けると、すぐにルビリアは馬首を返した。
オニキス皇子の馬がぴったりとその横についた。
他国の眼がある外に出る時に、最近いつもそうであるように、オニキス皇子の装いは本日も
実に豪奢であった。
カルタラグンの後継者ここにありと知らしめるが如く、
肩までの銀髪をゆるやかに波打たせ、青と銀の装いに身を包み、これで頭上に冠でも載せれば
見かけだけは一国一城の主として恥ずかしからぬ風体にして美丈夫、
平生の怠惰が嘘のように、たとえそれが見栄と意地のなせるものであったとしても、
馬鞍にあっては背筋を伸ばして堂々たるものである。
ユスタスには複雑なことであったが、オニキスとルビリアがそうやって並んでいると、
たとえ如何なる利害や因縁がその底に臭気を上げていようとも、
既に馴染みを重ねた男女特有の狎れあいで、彼らは似合いの一組であった。
卑腹出のために早々に廃嫡された皇子であったが、
オニキスこそはカルタラグンの第一皇子にして、故ヒスイ皇子の異母兄、
そしてカルタラグンの正統なる後継者である。
ユスタスとしては、このままオニキス皇子がカルタラグンを再興して、兄シュディリスのことは
世に忘れられたままであって欲しいと望む心と、
カルタラグン家の者として煌びやかに装ったオニキスをこうして目の当たりにするにつけ、
シリス兄さんならば、さらにいかばかりかと身贔屓で悔しい気持ちもするのである。
それにしても大胆であった。
滅ぼしたカルタラグンの皇子が今さら現れたことをいちばん邪魔者とするのは、ミケラン卿のはずである。
皇子がハイロウリーンの陣を離れ、野外出てくるところを好機として、
いつオニキス皇子を襲撃しないとも限らない。
もしもユスタスのこの独白が聴こえたら、ルビリアはこう応えるであろう。
だから貴方を連れて来たのよ、ユースタビラ。
用心棒代わりにされたユスタスを知らぬげに、
馬を並べたルビリアとオニキスは今みたナナセラについて語り合っていた。
「如何かな、ルビリア姫」
「さすがのハイロウリーンも、あれに比べれば無粋に見えました」
「吹けば飛ぶような文弱も、ああも洗練を見せ付けてくれれば、眼福の数の内には違いない」
ナナセラは文芸の国なので、武功を求める者はかえって国外に出て他家に仕える。
カルタ=ヴィスタビア王朝時代にも、宮廷はそういったナナセラの騎士を多く抱えていた。
その時代を共有している二人である。オニキスは嗤った。
「しかしながら、姫は当時はまだ幼かったゆえ、このことはご存知ではないかも知れぬな。
芸術家気取りの軟弱に相応しくナナセラの特産物には、男娼があるとか。
カルタラグン王朝において、タンジェリンを差し置いてナナセラ出の騎士が
重用される傾向があったのは、彼らが男色の手管でもってして上官に奉仕し、
その道から栄達を始めたからだとか何とか」
ルビリアは頷くにとどめた。
へえ、そうなのか。ユスタスは知らなかった。
それにしても、御三家からはフェララ、ナナセラが出揃い、
さらには近日中にもジュシュベンダが到着となれば、賑々しいことである。
ナナセラの出動はフェララに引きずられてのことだろうが、
主要騎士国が一所にこれほど集うというのも、過去に前例がないのではないだろうか。
「閲兵大典のようだな」
「レイズンへの牽制には、いちばん確実な手です」
「サザンカは確実として、さて、残るオーガススィは立つであろうか」
「降雪が道を閉ざす季節ではありませんから」
「姫のお望みはユスキュダルの巫女の玉体を巡ってのレイズンとの戦であろう」
「そうなれば上々です」
「焦れる頃合ではないのかな」
言外に別の意図を含ませて、オニキスの眼は略装に包んだルビリアの肢体を見つめた。
手綱を握るルビリアは前を向いたままであった。
澄ましかえった女の横顔に、「まあよい。後で聴かせてもらおう」、オニキスは薄笑いを浮かべた。
「さて、戦になれば、わたしも陣頭に立って巫女をお護りするために戦おう。剣術については自信がある」
「それには、まずは皇帝軍とレイズンを離反させねば」
「如何なる帰趨であれ、カルタラグンの再興を皇帝陛下に奏上することをお忘れなく、な」
「もちろんです。ブラカン・オニキス・カルタラグン皇子」
そこで初めてルビリアは皇子に愛想笑いを送り、ブラカンはそれを舐めるような貌つきで受け止めた。
男と女は上っ面の会話を交わし、それぞれに、別のことを考えていた。
おそらくブラカンの方は今晩にもルビリアに加えるつもりのよからぬことの妄想を、
ルビリアの方は、早速に布陣したナナセラに、
対レイズンへの意向確認を滲ませた挨拶状を送るべく、その文面を。
そういえば、公式文書の中ではオニキスは何と称されているのかユスタスは知らないが、
ルビリアがそう呼ぶのをいいことに、オニキスは依然として皇子を自称している。
手綱さばきも鮮やかに、見てくれだけは一級貴族のそんなオニキス皇子を横目に据えて、
(いつまでカルタラグン王朝期の皇子気取りでいるんだろう)
付き従うユスタスは苦く評した。
現在の皇子は、帝都におられるソラムダリヤ皇太子殿下おひとりだというのに。
「お帰りなさいませ」
「オニキス皇子にお食事を。私は後でいいわ」
帰陣したルビリアは従者に手綱を渡すと、馬から降りるなり、すぐさま書記を呼んだ。
旧タンジェリン領から急行した当初は急ごしらえであったが、本国から物資が続々と届くにつれて、
あっという間にハイロウリーン陣は村でも築くような勢いで着々と大掛かりなことになっている。
特に賓客待遇のブラカン・オニキス皇子の幕やは贅沢に設えられて、皇帝もかくやというほどに、
内部が何部屋にも仕切られた豪勢なことになっていた。
夜になるとルビリアはそこに呼ばれて、朝まで出てこない。
皇子の天幕からユスタスは顔をそむけた。
(オニキス皇子の子が欲しい)
(ミケラン卿が滅ぼしたカルタラグンの御子を、あの男の前に突きつけてやれるわ)
その一念があればこそ、ルビリアはオニキス皇子に自らを与えたのだ。
それとも、案外オニキス皇子が気に入って、愉しんでいるのかも知れない。
そう考えたほうが幾分かこちらの気持ちが楽だという理由で、ユスタスはそう思うことにしている。
さらにそこから踏み込んで考え出すと、ルビリアこそは他ならぬ兄の母であることに思い至り、
シュディリスの弟たる自分が手をこまねいてそれを傍観していることに罪悪感を覚えて、
どうもよくないのである。
気を取り直して、彼はエクテマスを探した。
視察にあたりエクテマスから借り受けていた馬を返さなければならない。
「ユースタビラ。エクテマスはいないぞ。
サザンカのロゼッタ・デル・イオウ殿と出て行った」
訊くと、エクテマスはハイロウリーンの陣屋を訪れたロゼッタと共に、森に向かったという。
ユスタスを未だにユースタビラだと思っている騎士は二人が向かった方角を指した。
すぐ戻ると云っていたのだが、そういえば、遅いな。
ルビリアの専属従騎士エクテマスと、サザンカ代表ロゼッタの両名は、両軍の橋渡しとして
よく顔を合わせているし、何かの用事で行動を共にすることも少なくない。
したがってユスタスは特に深く考えることもなく、二人を探しに森へと踏み入った。
地面を濡らした今朝方の雨も乾いて、森の中は陽光に透ける緑が硝子のように美しい。
各軍は手近な処から薪を取るために、森には最近に出来た踏み分け道が出来ている。
小鳥の声を聴きながらそこを辿っていたユスタスは眉をしかめた。
血の匂いがする。
鉄が擦れて焼けたような生ぐさい匂いがする。
前方にエクテマスの背を見つけた。
ユスタスはその場に凍りついた。
「ユースタビラか」
身をかがめていたエクテマスはちらりとこちらを見た。
まず眼を奪ったのは、地に突き立てられている、まばゆい焔のような赤い剣だった。
木漏れ日の底に横たわり、その赤い影の横で四肢を投げ出して眼を閉じている女の姿。
ちらつく陽光に混じる鮮やかは、点々と落ちた血と、拡げられた女の白い肌だった。
ロゼッタの傍らに膝をついていたエクテマスは、半裸の女に上衣をかけると、
女騎士を抱えて立ち上がった。女の首がゆっくりとのけぞった。
「残りの荷を持って来てくれ」
声もないユスタスの横を過ぎようとする。
エクテマスと眼が合った。
「エクテマス」
「聴こえなかったか。彼女の剣を拾え」
「ああ」
ユスタスは何があったかを悟った。エクテマスの腕に抱かれて気を失っているロゼッタを凝視する。
「ああ、拾うとも」
錆びた声で応えたユスタスは、しかし、ロゼッタを抱えたエクテマスの前から退かなかった。
エクテマスは眼をすがめた。
「君が彼女をはこぶか?応急処置で血止めは施したが、痛みで気を失った」
「ロゼッタをそこに降ろせ」、のろのろとユスタスは地を指した。
「彼女を降ろせ」
「何故」
「エクテマス」
ロゼッタは口に布をかまされており、それはまだそのままになっていた。
顔色は失せて、黒髪も乱れ、上衣から覗く肌には、血の汚れがべったりとついていた。
「ロゼッタをそこに降ろせ、エクテマス」
自分のものとも思えぬざらついた声で、ユスタスは重ねて命じた。
「降ろせ。フラワン家の名において僕はそれを求める。彼女を放せ」
「何の用だ」
「すぐに済むさ」
「後にしろ」
ロゼッタの惨状と比べてエクテマスの方は一筋の怪我もなく、
ユスタスと対峙しながらまったくの平静であることが、いっそ不気味であった。
押し退けて進もうとするエクテマスをユスタスは阻んだ。
エクテマスは冷笑で見返した。
「恋人の仇討ちか」
「ロゼッタの剣で僕はお前にそれを申し込む。彼女をそこに降ろせ」
「三つの理由でそれをお断り申し上げる」
「卑怯者」
「一つ、これは騎士に認められた、他家騎士との、双方合意の上での私闘である。
一つ、わたしはルビリアの弟子であり、そして君はルビリアのあずかりとなっている。
故にハイロウリーン軍規に則り、決闘にはルビリアの許可が要る。
一つ、彼女をなるべく早く従軍医師に診せたほうがいい。よく我慢していたが、
舌を噛みそうだったので口を塞いだら気絶した。見て判らないか」
「エクテマス・ベンダ・ハイロウリーン」
「さらに付け加えるならば、君がフラワン家の方と知りつつ、剣を向けることは出来ない。以上だ」
「エクテマス!」
ユスタスはロゼッタの剣に駆け寄ると、それを地面から引き抜き、
走って戻ってエクテマスの前にふたたび立ちふさがった。
エクテマスによって打ち負かされた女騎士の剣を手に、
ユスタスはその剣先をエクテマスに突きつけた。
真っ直ぐ延びた赤い光が男の顎先に届いた。
「立ち合え、エクテマス。相手が僕で不足だとは云わせない」
「君の程度は先日の対フェララ戦においてよく見せてもらった」
「騎士ルビリアの弟子は臆病者か」
「それが断る理由ではない。騎士の対決は不文律にしろ認められている。文句を云う方がおかしい」
「イオウ家の女騎士を斃したお前を、フラワン家のこの僕が直々に試してやる」
「彼女の名誉の為に云っておく」
エクテマスに抱かれたロゼッタは、その腕の中で力なく意識を閉ざしていた。
歳よりも幼く、歳よりも重責を担ってきた女騎士は、小柄なその身を屠られた動物のように弛緩させ、
ぐったりと血の汚れの中に埋もれ、指先まで作り物のように蒼褪めていた。
変だな、僕は、ほっとしている。
そんなロゼッタの姿を見つめるユスタスは、激昂の一方で、頭の隅では奇妙な安堵を覚えていた。
自分の女がこうまで他の男の手で叩きのめされたというのに、僕はほっとしている。
サザンカから本隊が到着すれば、ロゼッタには帰還命令が出されてお役御免のはずだ。
それでも此処に残ると云ったロゼッタが、こうなってくれたことを、僕はどこかで喜んでいる。
本国送還にしろ、転地にしろ、これでもう、ロゼッタは戦場から離れてくれる。
もう君のことを心配しなくてもいい。
「立ち会え、エクテマス-----……」
「舐めていたわけではないが、正直、ここまでやれるとは思わなかった」
髪を乱したまま失神している女の顔を一瞥して、エクテマスは薄く嗤った。
「彼女が強いからこうなった。
かわいいこの顔を断ち割ることがなくて幸いだった。気魄ではこの女が勝っていた。
精魂を尽くし、粘り強く、技の限りで立ち向かってきてくれた」
「笑うのを止めろ」
「女騎士と闘うのは愉しい-----。一度でいい、それを最後まで味わってみたかった」
ロゼッタを抱いたエクテマスの双眸はうつろう木漏れ日の中に陰気な満足を湛えた。
薄い肉に鋼を入れてゆく感触と、蠕動する血の充血と。
堪え切れずに放たれた細い叫びと、なぶる間にもこちらを睨み上げていた、抗いの激しさと。
「見かけによらず、手ごたえがあっていい女だった」
両手がふさがった男に向けて横殴りに風が走った。
ユスタスの怒りはもはや怒りを通り越して、冷たい泥の中にいるような窒息状態であったが、
男の首をはじき飛ばすかに見えた激怒の剣光は、その首の膚の上で静止した。
喉をそらしたロゼッタのかすかな呻きが、男二人を引き分けたのだ。
首筋に冷たい赤剣を当てられたまま、エクテマスは瞬きもしなかった。
「剣を降ろせユースタビラ。彼女の治療が先だ」
「………」
「君が連れて行け。切れた肩が繋がるまで半年は剣を持たせるな」
荷物のようにロゼッタの身体を渡された。
代わりにエクテマスはロゼッタの赤剣を持ち、先に立って歩き出した。
「エクテマス」
(よく死ななかった)
止血帯代わりに引き裂かれた女の衣が、踏みにじられた蝶の翅のような影を落として、
ユスタスの腕から垂れ下がり、揺れていた。
土と体液が入り混じった匂いに、腹の底まで赤黒く変わる思いだった。
すれ違うエクテマスに、前を向いたままユスタスは乾いた声で告げた。
エクテマス、いつか必ず、僕は貴方と闘う。イオウ家のその赤剣に誓う。
フラワン家の男が情けをかけた女に危害を加えた慮外者には、思い知らせる用意がある。
「たとえ貴方が、ハイロウリーンの血が生んだ稀代の騎士であろうとも、そうする」
「今も昔もただの平騎士。ご容赦を」
「貴方が手にかけた女騎士の受けた痛みをそっくり貴方に返す。僕がそうする。
北の風と雪に磨かれたその血を、同じだけ、貰い受ける」
両腕で抱えたロゼッタの身体を突き出し、ユスタスはエクテマスを振り仰いだ。
それには応えず、エクテマスは無言で立ち去った。
その晩、ロゼッタは創からくる高熱にうなされた。
付き添っているユスタスの手を握り締め、闘いの霊気に毒されたうわごとを繰り返した。
エクテマス殿とは合意でした。私が真剣勝負に応じたのです。
ロゼッタの眸は何か異常なるものを見たかのように見開かれて、恐怖と畏怖に底光りしていた。
彼の正体にお気づきでしたか、ユスタス様。
ユスタスはその手を両手で包んだ。
位の桁が違うあんな男と対峙して、そこから逃げもせずに奮闘し、よくぞ命が助かったものだ。
君の仇は、僕がとる。
「いいからお休み、ロゼッタ」
「ユスタス様」
悪寒に震えながらロゼッタはなおも渇いた唇をうごかした。ご存知でしたか、ユスタス様。
ルビリア姫の従騎士エクテマス殿は、彼は、高位騎士であるその主のみならず、
比類なき天才剣士、あらゆる位階を凌駕しておられます。
あれは、あの方は。
ロゼッタの頬を涙が伝い落ちた。
翼ある騎士、あれほどの天賦を持ちながら、全てを投げ棄てて生きておられるとは。
「もう大丈夫だ、ロゼッタ。君だって騎士の強い血を持っているんだ。こんな怪我、すぐに癒える」
私には分かるような気がします。
体内にこもる熱に身をよじり、苦しそうに膝を立て、ロゼッタは息を継いだ。
軍において超騎士として認められることは、すなわち、騎士世界の体系から追放されることにも等しい。
彼はルビリア姫の下にいるために、それだけの為に、
その真力を隠して身を落とし、周囲を欺きながら生きておられるのです。
そんなことが可能なのでしょうか。
騎士という騎士が渇望する超上を手にしながら、ご自身の手でそれを無効にすることが出来るとは。
自らに重い枷をつけ、自らのくちばしで羽根をむしり続けて生きてゆくおつもりなのでしょうか。
そこまでの自制、さまでの胆力があるとすれば、それこそを私は怖れます。
ハイロウリーンの血にも、竜神の血にも真っ向から逆らって、あれほどの御方が、
あまたの騎士の前にその膝を屈し、平然と仕えておられる。
吹雪の中にも揺るがぬ剣聖の炎があるとしたら、私を打ち砕いたあれがそれに違いない。
この身を揺すり上げてすり抜けた、あの眼光、悪霊のそれのようだった。
天位の高みで羽ばたくことなく俯瞰している北の鷹、あれこそは騎士の理性の最上にして、極致。
当代領主フィブラン様はなんと怖ろしい騎士をお身内に隠してお持ちなのでしょう……。
「続く]
Copyright(c) 2007 Yukino Shiozaki all rights reserved.