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[ビスカリアの星]■五十七.


フラワン家の御曹司が領内に姿を現した一報は、オーガススィに衝撃を与えた。
何といっても、フラワン家こそはその昔、お家ご自慢のおひいさまが嫁いだ家にして、
不可侵領地トレスピアノを統べる大名家、
そのフラワン家へリィスリ姫を花嫁として送り出した当時の家臣がほぼそっくり残っている上に、
折々に彼の地へ往復する使節の口からも、リィスリ姫の生んだフラワン家の子供たちの麗質については、
まるで当家の手中の珠であるかのように麗々しく伝えられてきたのである。
あまり中央には関与しない方策を貫いている帝国最北オーガススィであったが、
さすがにフラワン家の長子が出奔したことは既によく知られるところとなっており、
それがどうやらユスキュダルの巫女の安否にもかかわるとあっては、
一連の事態が重く受け止められていた、まさにその矢先であった。
城壁の詰所から報せを受けた宮内は、続く検問所からの伝令で
それが紛う事なきシュディリス・フラワン本人と判明した途端、大騒ぎとなった。
「お一人でかッ」
「いえ、従者を一人連れておられます。従者はジュシュベンダの騎士とのこと」
「ジュシュベンダ!」
「いかなるご事情でジュシュベンダ騎士を伴われておられるのかは判りかねますが、
 御曹司どのはグラナン・バラスなるその者の身許を保証しておられます」
「バラス家ならば聴いたことがある。まこと、その家の者か」
「その従者と共にでなければ、歓迎は不要、引き返すと」
「急ぎ、ジュシュベンダ騎士団の内幕に詳しい者を複数名、探し出して、参内させよ」
日課の職務をすべて放り出して、ばたばたと準備に慌しくなる中、矢継ぎ早に指示がとぶ。
「まずは、グラナン・バラスなるその従者がまことにかの国の騎士団の者であるか否か、
 問答表を作らせて、回答させるのだ。御曹司にはすぐにもお迎えの馬車を差し向け、
 ひとまず小宮殿にてご休憩いただくように」
「従者騎士殿の随行をお赦しに?」
「致し方あるまい。そういたせ。粗相のないように、急げ。
 トスカイオ様にもご報告いたせ。御前会議中でも何でも構わん!お耳に入れよ、すぐにだ」
北方オーガススィは、他所者の出入りにもっとも厳しい国である。
一旦受け入れば温かく迎えてくれはするものの、オーガススィは鎖国と揶揄されるほどに、
鑑札や紹介状を持たぬ者に対しては、街を取り囲む城壁の内側には決して入れない。
外街、内街と呼びならわされている二重城壁は、
城壁と城壁に囲まれた「外街」だけでも、大きな村の規模はある。
ちょっとした商売ならば、出店の出揃う外壁の間でじゅうぶんに事足りたし、市も立つのであるが、
そこから一歩内壁の中に入るとなると、そこには厳しい検閲が待ち構えていて、
不届者の多くはオーガススィの真の姿を見ることも叶わぬまま壁の外に追い払われる。
オーガススィは最北端にして、他国とは隔絶しているために情報も少なく、それが為に、
隠されているものほど美味しそうに見えるの喩えどおり、
かえってよからぬ悪心を抱く者や密偵が侵入を試みることおびただしく、そうなれば
オーガススィ側も厳重に警戒を強めていくといった具合で、
このいたちごっこが無駄ではない証拠に、密偵や盗賊は実際に始終検挙されて、
強制送還、国外追放、または領内法にて裁かれて、
裁きの壁からは首に縄を巻いた罪人の骸が日を空けずに次々とぶら下げられては、
鳥の餌となっていた。
警務機関はその稼動率を内外に誇示することで、尚更のこと、この国の閉鎖性をさらに
高めているのであって、たまに田舎物が外街だけを見てオーガススィを知ったと早合点するほどに
外街には外街なりに風情があるものの、内壁と外壁に分かたれた街は同じオーガススィでありながら
別の国といってもいいほどに、やはり壁の内側に広がる旧市街の威容には届かず、
ほど遠いのであった。

そして、シュディリスとグラナンはまだ外街にいた。

外の新市街で目立つのは、宿稼業である。
内壁の旧市街に入る許可が下りるまで、入国申請をした人々は外壁の周辺に
鈴なりになっているそれらの宿を利用するのであったが、
実はこれらの宿主は警務機関と通じており、宿泊客の中に怪しいものがいれば
通報することになっている、さように念が入っているオーガススィである。
シュディリス・フラワン様に間違いないと判った後、お偉いさんの指示を仰ぐまでの間、
ひとまずの休憩所として詰所からそんな一つに案内されたシュディリスとグラナンは、
先刻その宿から飛び出して、急ぎ差し向けられた要人警護の衛兵たちに押し包まれて、
そしてそれをそのまま引き連れて、中央広場の真ん中で途方に暮れていた。
大勢の人が集まっている市を見て昂奮した馬パトロベリが預けた厩から脱走し、
何処かへ行ってしまったのである。
そうなれば旧市街から御曹司を迎えに出てきた上方の者たちも主賓を探してこちらに集まってくる。
仕方なく階段状になった立像台の土台に身を寄せて、何ごとかと眼を剥いている人々の注視の中、
往来で順々に挨拶を受けながらも、シュディリスとグラナンは馬の嘶きがするたびに、
そちらへと眼を走らせていた。
「シュディリス様、これは何という不手際。迎えが整いますまで、
 どうぞ、あちらの公邸でお休みを」
「ここで結構です。宿が不満だったのではありません。馬を探しています」
「お捜しの馬とは、ここまでお乗りだった馬のことでございますか」
「ナナセラ産の馬です。馬蹄にその印があるはずです。悪戯好きで、癖が強い。
 街の人々に危害を加えることがあるかも知れないと案じています」
「シュディリス様。三年前にフラワン荘園で御逢いしました。ルカラでございます」
「久しぶりです、ルカラ侯」
「お懐かしゅうございます。お馬については、こちらでお捜しいたします。
 本日はたまたま所領より上っておりました」
「ルカラ侯、こちらはジュシュベンダ騎士グラナン・バラスです」
「ようこそ、騎士グラナン・バラス殿」
「ジュシュベンダ大君よりお借りして、無理を云ってここまで供をしてもらったものです。
 彼はわたしの友人の兄です」
「シュディリス様、こちらへ」
「椅子も日よけも結構です」
「次官補佐のサイビスです」
「よろしく。なるべく目立たぬように貴国に入ることを望みます」
「シュディリス様。実はシュディリス様とはジュシュベンダ大學での期を重ねておりまして、
 学内では何度かお姿をお見かけしたことがございます」
「三級上に居た方だ。寮が同じでした。憶えがあります」
「これは光栄。憶えていただけておりましたとは」
「サイビス次官補佐、こちらのグラナン・バラスは、
 当時大學でわたしとよく行動を共にしていた、トバフィル・バラスの兄です」
「おお、あの秀才トバフィル君の。オーガススィへようこそ、グラナン・バラス殿」

駆けつけた歴々に対してシュディリスは必ずグラナンを紹介し、恐縮したグラナンが
後ろに控えようとしても、「グラナン」、強い語調でそれをおし留め、
肩を抱くようにしてグラナンを傍から離さなかった。
排他的なオーガススィにおいて、もっとも警戒すべき筆頭に挙げられているのが、
他国騎士団所属の、騎士なのである。
それには、不幸な過去がある。
その昔、カルタラグンの騎士に率いられた郎党が内壁を越えるや否や旧市街で大暴れを開始して、
制止に入ったオーガススィ騎士団にも少なからぬ損害を与えた。
その混乱に乗じて城に迫った別働隊は小宮殿にいたオーガススィ家の姫君の略奪に成功、
これは姫に横恋慕したカルタラグン騎士の計画的な仕業であり、
脅された姫もそれに協力したといわれている。
恋に血迷った特例であろうと笑い飛ばすには、被害が甚大であった。
発生した火災は折りしも吹きつけた海からの強風にのって街中を炎に包み、
二次被害を含めて死傷者は無辜の民を含めて二百名を超え、
それだけでない、騎士は愛する姫の奪取と共にオーガススィの機密文書のを持ち逃げを画作、
それについては当直書記たちの命がけの抵抗で阻止されたものの、
書記は全員殉職、文書庫は焼け落ちた。
オーガススィの討伐隊はただちに派遣されたレイズンの治安維持部隊と協力して彼らを追いに追い、
ついにカルタラグン国境において激しい激闘の末、一味は制圧されたものの、
奪われたオーガススィの姫君は、その最中投身をはかり、谷底で冷たい骸となって見つかった。
オーガススィは怒った。
北方三国同盟に法って、ハイロウリーン及びコスモスの助力を請い、
三国の力を持って、カルタラグンへの一斉報復を開始、これは当時のヴィスタチヤ帝国皇帝のとりなしと、
カルタラグンの賠償をもって戦いが長期化する前に引き分けられたものの、
実はこの騒動における首魁にして、レイズンに討ち取られて闘死したカルタラグンの騎士は、
オーガススィ所有鉱山の、鉱脈調査に関する機密文書を手にせんとする
他ならぬレイズンの手の者によって愛する姫君の身柄と共に亡命の確約を餌に操られていた節があり、
その疑惑を裏打ちするかのように、証拠隠滅のためか、カルタラグンの騎士に従っていた一党は
レイズン治安維持隊に討たれてことごとく死亡。
オーガススィ側が捕縛した数名も、日をおかず獄中にて謎の毒死を遂げるに至った。
さらには、投身したオーガススィの姫は穢された己が身を恥じたのではなく、
まこと、カルタラグン騎士と愛し合っていた上での合意の駆け落ちであり、
死んだのは自殺ではなく、真相を知る姫の口封じに混乱に乗じてレイズンの隠密の手で
谷底に投げ込まれたのだとも云われていて、真相は何百年経った現在でも、闇の中である。
加害国と見做されたカルタラグンが求めた真相究明に対してレイズンは、
オーガススィの街で火を放ち、陽動作戦を請け負った一党の頭目は、
カルタラグン騎士が雇った「ジュシュベンダ騎士団が解雇したごろつき」であると、
これは紛れもない事実であるところを公式発表したこともあり、事態は二転三転、以来、委細は混迷のまま、
他国の騎士は誰も信用ならない、そんな根強い偏見だけが、オーガススィには残ることとなった。
そのような白眼視がさらなる悲劇を引き起こすことも数多く、
疑わしき者はすべて黒とばかりに、オーガススィの監獄は年中、満員御礼なのであった。
さらに、このご時勢である。
オーガススィの動向を探るため、有象無象が流入するのを防ぐため、
詰所には平生の数倍が動員されており、巻き添えをくう形で摘発された不法侵入者は、
朝となく夜となく、馬車に詰め込まれて続々と退去させられているという有様だった。
そんな中、
-----トレスピアノ領主カシニ・フラワンの子、
   フラワン荘園シュディリス・フラワン。
   わが母リィスリ・フラワン・オーガススィの郷里を訪ねたく。
   門を開かれたし。
名乗った時の彼らの顔こそ、見ものであった。
あえて下馬もせずに馬上から、帝国共通語と、これは母リィスリのお蔭であるところの、
正確なオーガススィ公用語をすべらせて、若者はそれを求めた。
しかし律儀にも、彼らはシュディリスを通した後で、ジュシュベンダ騎士の前には槍を交差させて、
グラナンの往く手を塞いだのである。
シュディリスは無言で取って返して、片手の動きで槍を下げさせ、グラナンを解放させた。
聞きしに勝る他国騎士への警戒ぶりであった。
したがって、シュディリスはグラナンを従者ではなく友人としていることを、
ルカラ侯にや次官補佐サイビスをはじめ、礼を尽くして迎えに集まった者たちに、これを機会として、
片っ端から公然と知らしめているのであった。
「彼はジュシュベンダ騎士グラナン・バラス。同窓の兄にして、わたしの友です」
馬パトロベリはまだ見つからない。
一体何処からやって来た貴公子であろうかと、十重二十重に見守っている街の人々を尻目に、
延々と続くかに思われた挨拶のやりとりも、馬車の到着でようやく途切れた。
サイビス次官補佐が即座に馬車の側面に走りより、彼らの前に恭しく馬車の扉を開いた。
「馬パトロベリは何処に行ってしまったのでしょう。
 わたしは残ってもう少し探します」
駄目もとで立ててみた伺いは、即座にシュディリスにはねつけられて、
差し回しの有蓋馬車は、ゆるゆるとオーガススィの内壁へ向けて動き出した。
(一介の騎士の身で貴賓の馬車に同乗するなど。国許に知れたら降格処罰ものだな)
あくまでも職務に忠実なグラナンは端に寄って、せいぜい真向かいのサイビス次官補佐の
邪魔にならぬように縮こまっていたが、しかしそれも、内壁の城門をくぐり、馬車の左右にながれる
オーガススィの景観がはっきりとその姿を現してくるまでだった。
彼らは感嘆の声を上げた。
「ヴィスタチヤ帝国の七不不思議のひとつ。”竜の褥(しとね)”です」
ルカラ侯は後続の馬車におり、護衛を従えた馬車の中は、彼ら若い者たちだけである。
それもあって、濃い眉をしたサイビス次官補佐は、シュディリスの記憶にある真面目な、
そしていかにも有能そうな精力的な態度で、後輩にあたるシュディリスと、
バラス家の若者に対して親しげな微笑を向けた。
シュディリスとグラナンは窓から身を乗り出すようにしてそれを眺めた。

「すべて、岩とか」
「これはすごい。まるで天に届く滝が、半ばで切り倒された跡のようです」

先日の海の彼方に浮かぶ山影といい、奇観の多い北国にあって、話には聴いてはいても、
実際に眼にするそれは、心を奪うものであった。
家並の向こうに忽然と聳え立つ、高い塔を三つ重ねたような巨大な巌崖。
遠めには、空に向かって伸びる針に見えた。
山を切り崩したものでも、人口に積み上げたのでもない、
大理石によく似た白く輝く表層を見せながら、それは空から落ちてきた塩の結晶の塊のごとく、
海際に鎮座して、陸と海の双方を睥睨している、巨大な一枚岩の塔である。
”竜の褥”の名のとおり、その頂上に空を翔ける伝説の竜が翼を休めて横たわれば丁度いい奇巌。
奇怪なことに、表面は樹木の繁殖を拒んでごつごつとしているのに、
その上辺は巨人の刀ですっぱりと切られたかのように大地と水平になっており、
何かを空に捧げるための、供物の塔とも見えるのだった。
あの上には登れるのかと、シュディリスとグラナンが同じ問いを発したのも無理はない。
登れる、との返事であった。
「五十年に一度の割合で、試みる者がいます。
 上に登ったら何があるのかと思われますでしょう。何もありません。
 登頂を果たした者の話では、鏡を張ったかのように、太陽や雲影を映し出す、
 吹きさらしのまっ平らな岩断面があるばかりとか。
 学者はさらなる調査を希求しておりますが、何しろ三人登れば二人は転落死する難所のため、
 何百年かに一度の、奇跡の生還者の証言に依る他ないようです」
「虹の根、」、シュディリスはこぼした。
「よくご存知ですね。リィスリ様からお聴きでしたか」
サイビスは濃い眉をほどいて、お国自慢丸出しに微笑んだ。
「光の加減で、あの岩はたまに虹色に輝くのです。それゆえ、虹の根と呼ばれることもあります」
シュディリスは馬車の窓枠に肘をつき、オーガススィの街を一望した。
空と海の光を織った、北国の涼しい風が吹き付けた。  
------お母さまの国では、昼間だけでなく、銀河にも、虹が架かるのですよ
「ああ、それは、離宮での光景ですね。
 森林と入り江に囲まれたその城で、リィスリ様はご幼少の頃をお過ごしでした。
 そこでなら夜空に光の帯がかかるのが見えるのですが、生憎と、この街からは見えません」
ここからは極光は拝めぬのか。
そんな失望よりは、幼い頃から何度も聴いた北の国に辿り着いたという、感慨のほうが深かった。
此処こそが、母リィスリの国。
それは、フラワン家きょうだいにとっては、まさしく「妖精の国」を意味していた。
あまり装飾を交えぬ母の端的にして静かな語り口調が、なおさら
幼い彼らの想像を刺激したのかも知れない。
街外れに聳え立つ”竜の褥”についても、母はこうである。

「お母さまはその天辺に竜が翼を休めている姿など見たことはありません」

馬車に揺られているシュディリスの口許に微笑みが浮かんだ。
わが育ての女人ながら、ああいうところが、可愛い人だ。
リリティスと並んで、まだ小さかったユスタスを膝に乗せて、聴き入っていた。
「空と大地を繋ぐ氷柱が、途中で切れたような岩なのです。
 雪のように白く、夕陽に朱く染まり、
 光の乱反射で、時々、虹色に変わります。
 だからお母さまたちはその岩の塔のことを、”虹の根”と呼んでいました。
 雲が低い日にはまるで、お空を支えている小さな柱に見えましたよ」
子供相手に生真面目な顔で、母は、せがまれるままに他にもいろんな話をしてくれた。
正直、そろそろそういった「お伽話」は、シュディリスには退屈なものになってからも、
下に妹弟がいる分だけ、同じ話を三回聴いた。
そのために、オーガススィの街については、幼少の頃そこで
過ごしていたかと錯覚しそうになるほどに、記憶鮮明である。
母の話どおり、街並みは整然として、灰色の石を組み合わせた道が日に照り映えて美しい。
(母上の国-----ユスタスとリリティスの血の源。雪と森林の、北の国)
海が近いことを示すように、空には海鳥が飛んでおり、
風向きによってはうっすらと海が香った。
オーガススィの城に向かって、石の街中を馬車は進んだ。


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三日月型の山脈と深い森林に囲まれた帝国において、海はまだまだ神秘のものである。
絶えず波の打ち寄せる青い茫漠を前に、しばし放心するのはシュディリスとて例外ではない。
空と繋がった果てを見つめながら、湖の穏やかとはまた違う波音の高低に、眠るような、
覚醒を誘われるような心地で、一夜明けた朝風の中、
波頭の反復を眺めて、シュディリスはいつまでも飽きることを知らなかった。
早朝の散歩、城から海岸まで城の供人は附いて来たが、グラナンの姿はない。
声を掛けてはみたのだが、内扉で繋がっている隣室を覗くと、グラナンはまだ深く眠っていた。
道中、彼たった一人で、パトロベリと自分に仕えてきたのだ。
グラナンの肩に圧し掛かっていた重責は、何かの間違いがあれば彼一人の首がとんで
終わりといった類のものではなく、時として守役よろしくシュディリスとパトロベリを叱咤しながらも、
内心では両名に危険が及ばないかと、毎日が薄刃を渡る心地であったのに違いない。
大国の懐に入ったことでグラナンの張り詰めていたその緊張もようやく解けたのであろう、
物音にも目覚めず、帳を降ろしたままの明け方の室内でよく眠っていた。
シュディリスはそっと扉を閉めた。

「シュディリス様」

城から岩棚の海岸へは王家所有の専用の散歩道がついていて、
この海岸も、民人は入れぬようになっているとのことであった。
それなのにぞろぞろと附いて来た警護の者は、早朝のさわやかな海には眼もくれず、
ひたすら陸側を見張っている。
弟ユスタスが此処にいたなら、
(海から賊が這い揚がって来たらどうするつもりなんだろう)
皮肉をこめて、明るく笑うところだ。
束ねぬままの銀髪をなびかせ、シュディリスは振り返った。
見つめ返す海よりも青い眸に魅せられながら、供人は
「そろそろお戻りを」、控えめに帰城を促した。
トレスピアノに嫁いだリィスリ姫の長子がオーガススィに到着した報は雷鳴のように
オーガススィの城内を駆け巡り、シュディリスたちが迎えの馬車に乗りこんだ頃には、
知らぬ者とていない大騒ぎとなっていた。
さすがに昨日のうちには覗き見するような輩はおらず、せいぜいが今朝方、
朝の散歩に出るシュディリスの姿を、はさみや桶を片手にした園丁たちが
くい入るような眼で見送った程度ではあったが、それで済むのも、この早朝だけのことであろう。
半ば気重な、しかし慣れていないわけでもない気持ちの切り替えをすると、
シュディリスは差し出された馬の手綱を受け取った。
その左右に警護の者が徒歩で付き従う。
馬パトロベリはまだ見つからない。
元気だけはある馬だから、郊外にでも走り出してしまったのであろうか。
本心を云えば、拝みたおしてでも昨日のうちにも護衛兵を借り、
一路コスモスに向かいたいところではあるのだが、さほど格式が複雑ではないこの世にあっても、
踏むべき手順というものはやはりある。
小宮殿に戻って朝食を済ませ、着替えをし、対面の城に向かって、領主と直談判に持ち込んで、
さて、母の兄、トスカイオ伯父上をいかに説得したものか。
こういう時にこそ、父カシニを頼り、
トレスピアノに早馬を飛ばしてオーガススィ領主宛に一筆書いてもらえば容易なのであろうが、
これ以上フラワン家の父には迷惑をかけられない。
(オーガススィはコスモスに向かうだろうか。巫女の御許に馳せ参じるだろうか)
目下の焦点はそこである。
もしもオーガススィが常のごとく一切の不干渉を決め込むのであれば、
コスモスへ向かいたいと願うトレスピアノのシュディリスにも一切の助力を拒むだろう。
その際には、大人しくトレスピアノに帰るのだと嘘をついて、無理やり兵を借り出す他あるまい。
皇帝の名において直通の街道が閉鎖され、
レイズンの手でコスモス封鎖の監視網が行き届いた現状においては、
単身でのコスモス入りはほぼ不可能である。
願わくばオーガススィ軍と同行することで正面からコスモスへと下りたいものだが、
それにはやはり、オーガススィが立つか否かが肝要となってくる。
シュディリスは嫌な予感がした。
ナナセラからこちら、道なき道を進むようにして大回りの末にオーガススィに辿り着いたものの、
軍隊が立つとなれば、オーガススィは当然、山越えの道を選ぶだろう。
それだけに、オーガススィはこのまま冬を待ち、降雪で山道が閉じるのを待つ算段かも知れない。
潮騒で頭がすっきり洗われたとはとてもいえぬ、そんな懊悩をシュディリスが抱えて
城への道を供人を従えて辿っていると、霧の残る散歩道の向こうから蹄の音も軽やかに、
こちらへ向かって来る騎影がある。数は二つ。
何者かと思う間もなく、護衛の者たちが道の両側にさっと退き、
シュディリスの馬の手綱を取っていた供人が顔色を変えて、「当家の御子さま方です」、小声で教えた。
その声音がどことなく恐々としている。
蹄の音は高らかに鳴り響いて、いっこうに緩む気配がない。
まさか、このまま突っ込んで来るつもりだろうか。
先方に二騎馬を認めてシュディリスが馬を降りようとするより早く、

「そのままで。トレスピアノ御曹司どの!」

清んだ声と共に、朝日にきらめく霧の帳を撥ね退け、馬ごと飛び込んできたのは若い男女。
「挨拶失礼!また後で」
「邪魔をしてごめんなさい、シュディリス様」
微笑みながらも、一瞬探るような眼差しをこちらにくれて、
シュディリスを真ん中に残して左右に分かれた二人は真横を駈けて、
彼を追い過ごすと同時に後方で合流し、たちまちのうちに駈け抜けていった。
「イクファイファ様、ルルドピアス様!」
その後から徒歩で走って来たのは、侍女を含めた大勢の気の毒な供人である。
「イクファイファ様、ルルドピアス様。-----ルルドピアス様、ご無理はいけません!」
彼らは霧を掻き分けた道の中央にシュディリスの姿を認めると硬直した。
「これは。怖れながら、
 昨日ご到着のシュディリス様でいらせられますか。
 お怪我は御座いませんでしたか」
ぜいぜいと息を切らして、彼らは腰をかがめた。
馬上のシュディリスは、まだ、彼らが駈け去った方を向いている。
「ご無礼を致しました。申し訳ございません」
「いまのは?」
さぞや呆れて、いや、怒っているのかも知れぬと窺った馬上の御曹司は、
彼らを安心させるように、それを訊ねた。
ほっとして、彼らは言葉を継いだ。
「トスカイオ様の第四子、二十二歳になられますイクファイファ様と、
 十四歳の御妹ルルドピアス様です。
 お二方はちょうど離宮より城に遊びに来られておりまして」
「では、いとこだ」
「左様に御座います」
そういえばオーガススィ家には、長男長女次女三女の下に、
ジュピタの皇太子と内親王と、同じ歳の兄妹がいるのだった。
母の兄の子ということは、ユスタスとリリティスのいとこである。
先頭を切っていた青年イクファイファは、どことなくユスタスに似ていた気がする。
末の姫ルルドピアスの方はよく見なかったが、ひるがえった絹糸のような白金の髪は、
リリティスと同じだった。
しかしまずは、叔父上との対面だ。
シュディリスは城を見上げた。


螺旋状の道を辿って丘を登ると新旧の二重壁に囲まれた街並みと、
陸と海の境目に立つ灯台のような奇巌”竜の褥”、広がる海が、眼下に一望出来る。
昨日、次官補佐サイビスは彼らをひとまず、城とは対角に建っている小宮殿へと案内した。
オーガススィ当代領主トスカイオは城から出てきて、馬車から降りるシュディリスの姿を
物見の胸壁からちらりと見下ろしていたようである。
というのも、次官補佐サイビスがそちらへ向けて、深く一礼をしており、
それに釣られてシュディリスが振り仰ぐと、何ともいえぬ鷹揚な所作で、
その人は軽く片手を挙げたから。
トスカイオ・クロス・オーガススィ。
母の兄であり、リリティスとユスタスの伯父である。
真名はトスカ・タイオ・クロス・オーガススィなのであるが、
トスカ・タイオの部分がトスカイオで通じるようになって、現在では公式にもそのまま併用されている。
世継ぎは長子の小トスカイオ。第二王子イクファイファの他、
残りの四人は全員女子で、一番歳下が先刻のルルドピアス姫ということになる。
既に嫁いだ三人の年長の姉姫とは別に、ルルドピアス姫だけは兄イクファイファと共に、
平生は森林と入り江に囲まれた、離宮で過ごしているとのことであった。
「ルルドピアス姫さまが馬で?」
フラワン家御曹司の接待係に任じられた次官補佐サイビスは、眉を曇らせた。
昨夜はグラナン共々食事と酒を共にして、大學時代の話や
ジュシュベンダの話に華を咲かせたこともあり、サイビスとはすっかり親しくなっている。
これはグラナン・バラスも大いに認めるところであるが、とっつき難そうにみえて、
口を利いてみれば存外に気さくなのがシュディリスの美点で、
いかにもトレスピアノの緑の中でのびやかに育ったものらしく、それとも弟と妹がいるせいか、
気難しくてやりにくいということはない。
サイビス次官補佐のシュディリスへの好感度は上々で、いろいろ教えてくれた。
オーガススィは港を有する国である。
とはいえ、城壁に囲まれた街中からは、塔に登るか、
高台にでも立たない限り何も見えないのであるが、北側に海が広がっている。
ヴィスタチヤ帝国は海軍が発達しなかった。
天然の要塞とも云うべき雲をつく山脈と、未開の大森林に囲まれた内陸に国が偏っているせいで、
軍港を設けたところで発展性が見込めず、また軍港を設けようにも、
海岸線の多くは崖となって急激に海に落ち込んでいるせいで、
港に適した河口がほとんどないのである。
必然的に、船団を組んだとしてもそれが上陸できる入り江が限られ、
船を用いたとしても、目的地まではかえって遠回りに延々と未開の陸路を進む羽目になるとあれば、
あえて海軍を持とうという酔狂を試みる国もないのも道理であって、
海の向こうの植民地との交易にしろ、植民地の確保にしろ、
航海用船舶を所有できる財力と、飽くなき航路の開拓に腐心する一部の金満家においてのみ、
海は、船の難破という損害の危険性と引き換えの、金の小箱であり得た。
「港の一つは、ミケラン・レイズン卿に抑えられてしまいましたがね。
 こちらが売却したものですが、
 その資金の出処はミケラン卿であったというわけです」
苦々しいとも苦笑ともつかぬ顔で、次官補佐サイビスは肩をすくめてみせた。
さらには海軍放棄の要因として、もっと根源的なところで、
騎士と船が相容れないものであったというのも大きい。
理由は判らない。
乗ろうと思えば彼らは馬を連れて船にも乗るのであるが、それは移動手段に限られて、
軍船を組んで火矢を浴びせ合う、または船ごと突入して敵船に乗り込み
海上白兵線を展開するなどの、大規模な海戦という段階には決して進まなかった。
戦いの主力である竜神の騎士たちが、海を厭うのである。
それは空と地上のものである竜の血がものいうところの、海への説明不可能の
生理的嫌悪とも恐怖とも、精巧な剣術で生死を分ける彼らが揺れる波の上という
不確定要素の介入を良しとはしないからであるだの、仮説は諸説あるにしろ、
大型の船が船団を組んで一気に内陸を目指せる河もなければ、騎士の意気の面からも
海上での戦が事実上不可能である限り、諸国は海軍の導入に対しては古来より
頭から論外のものとして、考えもせぬのだった。

「お蔭さまでオーガススィは潤っております。
 元々は海賊のすまう国。それをオーガススィの高祖が受領したわけですが、
 そのオーガススィ騎士も、元々は海賊だったとか」

海上の覇権がもっと重要視されていたら海港のある国は奪い合いとなったであろうが、
そこはよくしたもので、冬場は雪混じりの大波や流氷によって海が閉ざされてしまうために、
海を持つオーガススィおよび周辺の小国、豪族は、富みすぎるほどは富まぬあたりで、
一律ほどよく海の恩恵に授かっているとのことだった。
「侍女らは何をしていたのだ」
朝の散歩の途上で思いがけずルルドピアス姫と邂逅したことはともかく、
姫が馬に乗っていたことをシュディリスから聴いたサイビスは、まだそのことをこぼしている。
その口調に、シュディリスは湯船の中から、衝立の向こうにいるサイビスに応えた。
煉瓦で組んだ浴室は天井が高く、もうもうと湯気が立ち込めており、
香草を浮かべて半身浴の湯を満たした風呂桶の上にも、天井から水滴が落ちてくる。
「兄上のイクファイファ殿とご一緒だった」
「ああ、相乗りでしたか」、ほっとした声。
「いや。お一人で難なく乗りこなしておられた」
と思う。
何しろ突風のように霧を蹴破って現れた上、あの時は挑発的に真正面から駈けてきた
イクファイファ王子の方に眼を奪われていたので、よくは見なかった。
しかし、それを聴くとサイビスは手にしていたその日の段取りを記した書記版を手から取り落とした。
衝立を除けて見ると、彼は首をふりふり、濃い眉をゆがめて悩ましげに嘆息している。
朝の湯あみにあたっては、どれをご用意いたしましょうかと訊かれた。
乾式の蒸し風呂が北欧の名物であるが、慣れぬ者はかえってその熱気に疲れるために、
外国からの客人のために小宮殿には各種浴場が設えられているとのことだった。
時間がおし気味なのか、その中にまでサイビスは半裸になって附いてきて、
水時計を睨みながら、あれこれオーガススィ家についての講釈を垂れるのだった。
「ご用意いたしましたお召しものはすべて、小トスカイオ様からのものです。
 背格好が似ておられて、ようございました」
まだ袖を通したことのない新しい衣裳を湯あがりのシュディリスに着せかけながら、
「ルルドピアス姫さまは、ご幼少の頃から病に罹っておいでなのです。
 離宮でお過ごしになられておられるのも、その為です」
「病?」
豪奢な衣裳に袖を通しながら、今度は、シュディリスのほうが訝った。
頭半分低いサイビスを見下ろす。
病ある少女が、あのように健康的に、朝駆けなぞするものだろうか。
「病と申しましても、ふしぎの病というか、その、ルルドピアス姫さまは時折、
 突然に意識を失われてしまうのです。貧血の一種だろうと典医は申しておりますが、
 たとえばこうしてお話ししている途中でも、階段を上がり降りしている途中であっても、
 脈絡なく、ふっと」
眼に見えぬ雨に打たれるようにして、ふらりと倒れてしまうのだそうである。
母もリリティスも、時々真っ青な顔をしていることがあったから、
医師の云うようにオーガススィの血をひく婦人特有の血の病なのだろうか。
しかし、ルルドピアス姫のそれは、そうとも云い切れず、
「実際にわたくしも間近で見たことがあるのですが、何というか、
 姫の上だけに刻が止まるような感じです。
 眼の前で元気いっぱいに笑ったり走ったりされておられるところへ、前触れもなく、
 本を閉じるようにして、ぱたんと姫とこの世界が断絶されるような。とにかく突然のことなので、
 それがいつ起こるのか、誰にもまったく予測がつかぬのです」
そしてそのまま、眠りに落ちてしまうのだそうである。
そんな奇病を持った少女が馬で駈けているとなれば、誰もが蒼褪めるのも無理はない。
「落馬されなくて何より」
サイビスと顔を見合わせて、シュディリスもそれしか云えない。
支度を終えて、鏡の前に立つと、
深青に金銀で刺繍を凝らした衣裳をまとうトレスピアノ御曹司の姿に、
居並ぶ者はほうっと感嘆の声をあげた。
グラナンの姿はそこにない。
ジュシュベンダ騎士団所属の者であることを証し立てる為に、彼は朝から別室に呼ばれ、
丁重な扱いのうちにも、その身許に関する詮議を受けているのである。
彼がバラス家の人間であることは確かであり、かの国の騎士団員につけられている識別番号も
照会すれば真偽が判るはずであるから、シュディリスはあえて抗議しなかったものの、
こちらの物々しさに引き比べ、他所者の出入りに対して寛容だったフラワン荘園とは、やはり、
不可侵領地に対して害をなすものなどいないと決めてかかっていた楽園だったのだろうか。


朝の海は凪いでいた。
騎士家の兄妹は追いついた供人に馬を預けると、二人きりで岩と砂の海岸をそぞろ歩いていた。
「あれが、トレスピアノのシュディリス様ね」
「何だルルドピアス、そうだよ、彼だ。
 何度か肖像画を見たことがあるじゃないか。僕たちのいとこというわけだ」
出来のいいね、付け加えるイクファイファの口調は少し尖っていた。
ついでにこの青年は、オーガススィ家特有の特徴で、かたちのいい鷲鼻である。
色味の薄い金の髪と灰色の眸をした青年貴公子は、海辺の貝殻を靴先で蹴った。
「まあ昨晩から侍女たちのかしましいこと、都の人気俳優でも訪れたかのようだ。
 リィスリ様の子だし、同年代ということもあって彼のことは意識しないでもなかったけれど、
 こんなかたちで実物にお目にかかれるとは思わなかった」
何しろ我がいとこ殿ときたら、
都の学問所ではなく隣国ジュシュベンダの大學に留学したから、
僕やソラムダリヤ皇太子とはついぞ逢わないままだったのだからね、
とイクファイファは過去を振り返る。
「びっくりしたわ」
ルルドピアスは、兄イクファイファと並んで海を見つめながら、両手を胸にあてた。
そこには先ほど、兄に続いて馬を駈けさせていたすがすがしい少女の姿はなく、
八歳年上の兄よりも大人びた、考え深げな美少女の顔があった。
「そうだな、多少はね」
イクファイファは仕方なくそれを認めた。
「ちょっとばかり愕かせてやったのに、御曹司どの、流石だね。
 僕たちの馬の突撃を受けても、馬鞍の上で背筋を伸ばしたまま、微動だにしなかった。
 こちらを流し見るに留めて、見送っていた彼の、あの落ち着きぶりといったらどうだろう。
 まあいいよ。これで、ソラムダリヤ皇太子殿がお探しの彼を、こうしてオーガススィで
 抑えることが出来たんだ。この時期に僕たちが離宮から城に戻って居合わせたのも運命だ」
靴の先で跳ね上げた貝殻を、片手で受けて、
片脚を踏み込むとイクファイファは小さな貝をそのまま思い切り海に投げ入れた。
放物線を描いて飛んだ貝殻は、すぐに遠くの波間に消えた。
「早速にソラムダリヤ皇太子に手紙を書くよ。お求めの御曹司はこちらだとね。
 それにしても、彼、何をしたんだろう。まがりなりにも友人だというのに、
 ソラムダリヤ様はそれについては具体的に教えてはくれなかった」
皇太子ともっとも親しい学友あがりの臣下と自負しているイクファイファはむくれている。
それから、ふと、
「-----どうした、ルルド」
波音に放心しているような妹を気遣って、イクファイファはひと呼吸おくと、
その身を支えるように妹の肩に手をおいた上で、わざとらしく冗談めかした。
「云っておくけれど、お前の身体のことを承知の上でもたされた縁談のすべてを
 何だかんだ理由をつけてすべて断っておいて、
 ここにきて、トレスピアノの君に落ちるなんて真似はやめてくれよ。
 家の者はみな、お前を皇太子妃にすることをまだ諦めてはいないのだから」
兄と、そして従妹リリティスと同じ白金に近い髪を海風にそよがせて、
ルルドピアス姫は灰色の眸を伏せ、そうじゃないわ、と呟いた。
私が愕いたのは、そのことじゃないわ。
びっくりしたのよ。
(胸の中にいつも、貝殻のかけらがあるよう)
(私の胸を引っかいて、血を吐かせる)
(何かを告げようとしている。波音が繰り返し-------星の音が、繰り返し-------)
(私に話しかける、やさしい声。胸の中に押し寄せてくる、私の心を、覘かないで)
砂浜を崩す波の音、鳥をはこぶ風の音。
ルルドピアスは、はっとなって、片手で口許を抑え、兄の視線から顔を隠した。
しっかりしなければ。
イク兄さまに心配をかけてはいけない。
朝の海は静かだった。
しばらく待っても、いつもならばそうなるような、何処かの昏みに落ち込むようなことは起こらなかった。
吐息をついて、ルルドピアス姫は眼全に広がる北欧の海を見つめた。
霧の向こう、オーガススィに現れたあの人。
飛び込んだ私たち二頭の馬を真正面に迎え、手綱を軽く持っているだけで馬を御していた。
私は貴方を知っている。
氷色の髪。青い眸。
リィスリ姫が離宮に遺された、『あの方』の肖像画にそっくりだった。


「続く]


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