[ビスカリアの星]■五十八.
入城は華やかな喇叭の音色で迎えられた。
音色は北国の青空高くに鳴り渡り、風に散りながら、眼下の街全体にながれた。
「ようこそ、シュディリス・フラワン殿。わが甥どの」
「急な訪問にもかかわらず、貴国のあたたかなもてなし、ありがたく思います」
身分としては、皇家に次ぐフラワン家の方が格上である。
だが、トスカイオは母リィスリの実兄にして、ここは彼の国であるのだから、
シュディリスのとる態度としては初対面の伯父と甥のそれでちょうどいい。
「トスカイオ・クロス・オーガススィ伯父上。お目にかかれて嬉しく思います」
作法どおり、シュディリスは差し出されたトスカイオの手に手を重ねた。
訪れたのが父カシニ・フラワンその人であるのなら、典範どおりフラワン家当主の方が
格上であるが、まだ跡目を継いでいないシュディリスの場合には、御曹司が頭を下げぬその代わり、
差し出す手はトスカイオの方が先ということで、ややこしい作法に一応の決着がついたようである。
というのも、これらすべてはオーガススィ側が昨夜、徹夜で頭を悩まして決めたことであり、
従うだけのシュディリスには、もとより否も応もない。
その他にも事細かに諸事全般、次官補佐サイビスが今朝のうちに手順を説明してくれたのであるが、
実をいって、朝風呂を愉しんでいたシュディリスはほとんど身を入れて聴いてはいなかった。
よほど一触即発の緊張関係にある国同士でないかぎり、
礼儀作法の一つや二つの手違いに目くじら立てるような君主もおらぬ上に、
かしずかれることにも尊意を寄せられることにも慣れている者同士の間では、
少々崩して振舞うくらいのほうが経験上、互いにやり易いのである。
むしろ貴人たちはそうしてみせることで、真の気品とは云い立てぬところにこそ顕れるものであることを
言外に知らしめることが可能なのであって、そのくせ何人よりも、優雅に振舞うものである。
ご存知のように、シュディリスはカルタラグンの血統ではあっても
フラワン家とは無縁なのであるが、永年それで通してきたこともあり、
こういう際には頭で考えるよりも早く、不可侵領地を統べる家の者としての顔が自然に表に出てくる。
それは名乗りを上げてオーガススィ入りを果たしてからこのかた、もはや隠す必要もなしとして、
生まれ育ちにものを云わせた迫力でもって万人を納得さしめてきた彼の第二の本性であったから、
シュディリスにしてみれば、かえって何となく、
久方ぶりに羽根をのばしているような心地さえするほどであった。
この日、城に集った人々の眼に映ったフラワン家の若き御曹司の姿とは、
その所作の隅々にまでびっしりと或る種の特別な雰囲気を漂わせた、
柔和な態度の中にも高貴な者に特有の威厳をおびた若者であり、
大急ぎで登城してきた名士や貴顕の心にも、一生忘れられないような深い感銘を与えたものである。
そして彼らはもう一つ、そのことにも気がつかぬわけにはいかなかった。
フラワン家は騎士家ではないが、聖騎士家との婚姻を重ねた、騎士の血統の頂点である。
謁見の間に現れた貴人には、優美だけでない、
騎士特有の金気くささと、常人ならざる者のまとう、静かなる鬼気とでも呼びたいような異質さがあり、
それは冷たい風のように、今更のように、迎える人々の間に無言のおののきを呼び起こした。
(そうであった。リィスリ様が生み落されたこの方は、星の騎士であられた)
若者の腰には剣があり、その鋼の重みをものともせずに、彼はトレスピアノよりやって来た。
それは、背中に幻の大軍を率いているかのような高位騎士の超然とも、
降り注ぐ血汚れを金箔のように誇って笑う上位騎士の不遜とも違う、
そこだけが清く光っているような、遠いものであった。
この日、殿上が許されたオーガススィの名だたる騎士のうち、
星の騎士をひと眼見ようと、儀仗兵よろしく道を飾って前列に立ち並んでいた彼らこそが、それを見た。
静謐な面の裡に、純血の騎士の血を滾らせた、時を超えて受け継がれてきた竜の血の、
まったく損なわれていないそのかたち、そのものを見たのである。
彼らはシュディリス・フラワンを見たのではない、
最高階の騎士たちの中を、作法どおり真正面に剣を据えて柄に両手を重ねている彼らつわもの達を、
下級騎士ならば対面するだけでも脚の震えてしまうような高位上位騎士が混じるその間を、
野原を渡るようにして通り過ぎて行ったのは、伝説の騎士である。
もしそれが、リリティスやユスタスであったとしても、同様の感動を彼らに与えたことだろう。
トレスピアノという聖地において、原点の魂のままに純粋培養され、
必然的に敵はおのれ自身しかいないその孤独の環境で、
ひたすら己と厳しく対峙してきた彼らが、幼竜が天地の間でその爪を磨くようにして、
空の久遠と闘っては完敗の無念を呑んできたそのような彼らが、
地上の芥にまみれ、少々の勝ち負けに拘泥する、地上のことわりに繋がれた者共ごときを、
何で気にとめようか。
郷里においては、妹、弟しか知らぬ彼も、外においては、めずらしきものである。
--------彼らは、星の騎士と呼ばれる。
--------いったい何と闘っているのかまるで判らぬところがある、変わった騎士で、
ユスキュダルの巫女の御声が直に聴こえるそうだ。
大広間を満たしたものは、ただの感嘆ではなく、身を砂で摺られるような、慄然が混じっていた。
「シュディリス。わが妹リィスリの子か」
オーガススィ家の色である、白と灰色の正装に身を包んだトスカイオ・クロス・オーガススィは、
そろそろ白髪の混じる、かたちのいい鷲鼻をした御仁であった。
トスカイオは目を細めて、甥シュディリスを見つめた。
衆目の中、トスカイオは年長者特有の親しみをこめて、見つめるシュディリスの頬をかるく撫でた。
まるで親族の小さな少年にそうするような、君主の温かみあるその仕草は、
その場の緊張を一気にほどくものであった。
「わが妹リィスリの息子か」
若者の肩を引き寄せて、トスカイオは微笑んだ。
「リィスリ・フラワン様はお元気であられるか。御父君、領主殿は」
目下、フラワン荘園は父を残して全員が出奔中という異常事態であることを、
オーガススィ領主が知らぬはずもない。
「わたしがトレスピアノを出る時には、父母ともに」
トスカイオの言葉の裏に含まれているものは、温かいものでは決してない。
シュディリスは薄く微笑んで、無難なところを答えるにとどめた。
続いて紹介されたのは、嫡男、小トスカイオである。
トスカイオという名は世襲ではないものの、オーガススィでは歴代、
大トスカイオと小トスカイオが交互に出る。
こちらは既に妻帯して、直轄領で保養しているところを、わざわざ此度の歓迎の宴のために
馬車を立てて所領から出てきたもので、妻を連れていた。
「従弟シュディリス殿。憶えてはおられないでしょうね。
一度、貴方がまだお小さかった頃に、
ルカラ侯を伴ってトレスピアノに寄ったことがあるのだが」
小トスカイオは父に比べればよほど精悍な感じのする、背の高い男で、
客人を値踏みする鋭い眼つきをしていたが、それをほどいて、気さくにシュディリスに笑いかけた。
「もっともその時には、少年だったわたしは
美人で名高いリィスリ叔母さまに逢えたことで舞い上がってしまい、
わたしの方こそ幼子であられた貴方のことなどほとんど記憶にないのだが」
快活に笑って場をほぐす。
シュディリスを引き立てている今日の衣裳が自分の衣裳函から出たことにも、
「貴方のほうが似合う」
まんざら世辞でもなさそうに、大満足といった様子であった。
その隣に控えている小トスカイオの妻、スイレンは、衛星騎士コスモス家先代の弟の娘である。
オーガススィ側からはトスカイオの末弟、クローバをコスモス家へ養子に出して、
その代わり、コスモス側からは先代弟が遺した娘スイレンがオーガススィ家に嫁いだということらしい。
子息子女交換のような、複雑に絡み合う騎士家同士の縁戚関係については、
いちいち憶えてはいられないほどであるが、次代のオーガススィの長に嫁いだコスモスの女は、
立派に役割を果たして、この十七年で十六歳を筆頭に一男三女を生みあげた。
トスカイオ長子小トスカイオと、コスモス家のスイレンは政略結婚の常で、十代のうちに結ばれた夫婦である。
小トスカイオ夫妻との挨拶を終えると、シュディリスの眼は奥へと向いた。
実は広間に入った時から、柱の傍に立っている彼らには気がついていた。
その二影はぴったりと寄り添って、こちらへ向かうことを遠慮しているようだった。
小トスカイオが二人を手招いた。
青年が少女を促して、彼らはこちらへやって来た。
「弟で四男のイクファイファ。そしてこちらが、末妹のルルドピアスです」
「ようこそ、シュディリス殿」
「ようこそ、シュディリス様」
イクファイファは力強くシュディリスの手を握った。
今朝のことで気まずいであろうから、こちらから先手をとっておくのも礼儀である。
そ知らぬ顔をしているイクファイファにシュディリスは、かすかな皮肉を混ぜて伝えた。
「今朝ほど、オーガススィ式の歓迎をいただいたと思います」
イクファイファの眼は泳ぎ、ルルドピアスは恥ずかしそうに俯いてしまった。
「何の話だ。イクファイファ」
「いや、その」
父トスカイオと兄の注視を受けて、イクファイファは口ごもり、たじろいだが、
シュディリスに責める口調がないことに気がつくと、
「明日の朝の散歩は、是非ご一緒に」
そう誘うことでその返事とした。青年らしい覇気のある、感じのいい態度だった。
それが終わると、二階の張り出しに居並んだ喇叭手が、高い音色を吹いた。
それを合図にして、左右に分かれて後方に控えていた廷臣が、フラワン家の御曹司に
挨拶を捧げるために歩み寄ってくる。
毎度のこととはいえ、これからが延々と長い。
慣れているので苦痛ではないものの、こちらにはまったく興味がない人々が、われ先に貴人に
自分を売り込んで印象づけようとするその暑苦しさというものは、頭半分で別のことでも考えているか、
または明確な目的でもない限り、有意義に過ごせたものではない。
そのあたりはユスタスの方が妙に得意で、顔と名前と特徴を一発で憶えるようなところがあった。
----彼らの容貌を動物に喩えて分類すると楽なのだそうである。
「お一人で、こちらまで」
訊かれるたびに、
「ジュシュベンダの騎士グラナン・バラスに供をしてもらいました。彼を紹介できぬことが残念です」
この際である、巻き添えをくらったグラナンについて、きっちり不満を訴えることにした。
「その方は?どちらへ」
「他国騎士団の彼はこちらの法に従い、目下、従容として詮議を受けています。
彼がいなければ此処まで辿り着けなかった。
わたしの友人の兄にして、わたしの友です。
彼が不当に罰せらたりすることのなきよう、皆さまには最大限の配慮と温情を願います」
「シュディリス様、ようこそ」
「オーガススィへようこそ、フラワン家の御方」
その合間合間にはふたたび喇叭が喨々と鳴り渡り、
あちらこちらの広間から広間へと城の中を移動するだけ移動して、
夕方近くになって、ようやく休憩になった。
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新市街と旧市街を分ける二重の壁だけでなく、
冬季に備えてオーガススィの城は、外側の廻廊も二重仕様になっている。
季節のいい今の時期には外も内も開け放されているが、
悪天候の時期には外の窓をすべて閉ざして内側の熱を外に逃さぬように工夫し、
そしてそのような時には女たちは日照の差し込む硝子天井ある部屋に移動して、
そこで刺繍をして過ごすのだそうだ。
母リィスリが教えてくれたことであるが、なにぶん女の話であるから、冬場、
この国の男たちが如何様にして永い冬を過ごすのかまでは聴いていなかった。
後で知ったところによれば、たとえ大雪になろうとも男たちは室内で剣の稽古に余念なく、
また、競うようにして寒風吹きすさぶ城の屋上へ上がっては臣従まじえての球技を愉しむなど、
男の方は寒さをものともせぬあたりに、その豪胆さを示して誇るお国柄らしい。
「寒さに負けていたら、いざと云う時に役に立ちませんから」
騎士団は吹雪の中で海に飛び込み、寒中水泳まで催すそうである。
その二重廻廊であるが、平生は内側と外側の間の仕切りを取り払っていて、
広めの歩廊として機能していた。
丘の上に建つ城からは、雪山と海が見えた。
その時刻には廻廊の柱の影がちょうど額縁のような効果を生んで、景色は色鮮やかなままに
明度が統一に落ち着いて、オーガススィ城ご自慢の借景により、
天然の絵画の中を歩いているような効果があるのだが、
肝心の主賓には、それを眺めて愛でる余裕が残ってはいなかった。
何はともあれ、水が飲みたい。
たとえ付き添いがサイビスだけになったとて、襟元を寛げるわけにもいかない。
ここはトレスピアノではないのである。
「大丈夫ですか」
「………」
気遣うサイビスには、無言で頷いた。
頭の中にわんわんと、いろんな人間の(それもすべて初対面の)、その声が遠慮なく回っていて、
記憶に刻まれたものも、そうでないものも、それぞれがそれぞれに微熱を帯びてちりちりと跳ね回り、
脳内を侵食してくるその余韻に、午後の疲労感も二乗である。
「お疲れでしょう。晩餐まで、どうぞこちらでお休み下さい」
衛兵に前後左右を囲まれたまま、廻廊を辿り、てきぱきとサイビスが室へ導くと、
愕いたことに室内には先客がいる。
さては、お通しする部屋を間違えたかとサイビスは慌てたが、
「サイビス。構わないよ」
「これは、イクファイファ様」
奥の部屋の露台で涼んでいたのは、イクファイファであった。
彼は隣にいた青年をシュディリスの方へと押し出した。
それは、取調べから解放された、グラナン・バラスであった。
「シュディリス様」
半日離れていただけなのに、それまでいつも一緒にいたせいで、ひどく懐かしい気がする。
彼らは腕を取り合って再会を喜んだ。
「ご心配をおかけしました」
「こちらの城の中に入れてもらえたということは、放免してもらえたのだろうか」
「ええ、一応。イクファイファ様のお蔭です」
グラナンの肩越しにそちらを見ると、イクファイファは俯いて顔の前で手をふった。
彼は笑っていた。気さくな口調で、
「貴殿があのように方々のお偉方に彼の解放を訴えたら、そうならぬわけがないでしょう。
グラナン、疑いをかけられてさぞ不愉快だっただろうが、悪く思わないで下さい。
何しろ騎士がその統率のくびきから外れ、暴走した時の恐ろしさについては、
わが国ほどそれを知る国はないのだから」
シュディリスとグラナンの肩を叩く。
「感謝します。イクファイファ」
「今朝ほどはまことに失礼しました。妹の分まで、お詫びします」
失礼とはもちろん、海への散歩道で馬ですれ違ったことを指している。
そこで、次官補佐サイビスは気を利かせて三人分の軽食の用意を云いつけると、
「後でお迎えに上がります」
自身はまだ用事があるとのことで、丁寧に礼をして退出して行った。
窓から入る海風が涼しかった。
軽食がはこばれてくると、イクファイファはあとは自分たちでやるからと召使も全員追い出してしまい、
これ幸いと、シュディリスは自分で杯に水をそそぎ、思うさま飲み干した。
グラナンが給仕につこうとするのを見て、イクファイファは椅子を押しやり、
「座って、グラナン。
いつからジュシュベンダ騎士はフラワン家の従僕に?」
無理やり席につかせると、
「オーガススィは、グラナン・バラスを客人として認めたのだから、遠慮なく。
こう見えても、僕も騎士です、シュディリス殿。
そして僕は騎士として、騎士シュディリス、騎士グラナンと対等に話がしたい。
それでどうかな、従弟の君」
「随意に。合わせます」
この後に晩餐が控えているので、軽食をつまむ程度にいただきながら、
若い彼らは早速に仲良くなって、雑談に興じた。
騎士としてのイクファイファの腕前がどの程度のものなのか、とくにそのような話を聴いたこともないが、
何しろ騎士家の数が膨大なので、帝国中の噂になるようなめざましい者でもない限り、
逐一憶えてもいられないというのも事実である。
オーガススィ家に生まれた男子が騎士であられるのは当然なので、
ジュピタ皇帝に仕える騎士、その程度の枠内にしろ、イクファイファが騎士だというのならば、そうなのであろう。
当代トスカイオ、母リィスリ、コスモス家の養子となったクローバ、
このきょうだいの流れに関しては近年稀に見る傑出した竜の力を持っていると謳われたものの、
竜の血の神秘は気まぐれであり、
そのトスカイオから生まれた子供たちについては、
星の騎士として開花したフラワン家のいとこ、リリティスやユスタスとは異なり、
さほどのものは見受けられないというのが巷説である。
その代わり、世継ぎの小トスカイオと、コスモス家から嫁いできたスイレン姫の間に生まれた
四人の子どもたちに関しては、これまた上位級と見込まれる高い才能の片鱗が見えているそうで、
スイレンの生んだ一男三女のうち、年長の二女についても、姉妹一組で、
既にハイロウリーン家へ輿入れの打診が始まっているとのことであった。
シュディリスが水を向けた。
「グラナン、」
「あ、はい。-----ご存知のように、ハイロウリーンは男系であり、
北方三国同盟においても、オーガススィとハイロウリーンは盟友であることが不可欠であることから、
オーガススィ家の姫君がご姉妹でハイロウリーン家に嫁がれることは、ご両国にとって慶事です。
あちらには七人の男御子がおられますが、ご婚儀が決まっていない方のうち、
ご年齢的にこちらの姫君がたと相応しいのは、
五男インカタビア様、六男エクテマス様、七男ワリシダラム様でしょうか」
「へええ。グラナンはまるでシュディリスの、私設秘書官のようだな。完璧じゃないか」
「そういうわけではありませんが、お家事情に立ち入るような発言、申し訳ございません」
「彼はジュシュベンダの間諜候補であったので、いろいろ詳しい」
「シュディリス様」
「聴かなかったことにするよ。これ以上、後から余計な疑惑をもたれぬように、
ここでグラナンの過去の経歴を明かしておくということなのだろう。オーガススィ家の僕の前であえてね」
「ご婚儀は成立を?」
「まだ見合いの日取りを決めているところ。肝心の六男エクテマス殿が
ガーネット・ルビリア将軍にくっついてコスモスに駐在されておられるので、
彼に一時帰国していただくか、さもなければ、
コスモス情勢が落ち着くまで、一旦この話は延期だろうな」
「見合いといっても、もう話は決まっているのだろうに」
「そこがそれ、昔の者たちは伝統や形式に拘って、融通がきかないから」
「貴方自身は、イクファイファ」
「僕の結婚話については、もっと素晴しい。父上や兄上は、僕とソラムダリヤ皇太子殿下との
友誼にかこつけて、僕をフリジア内親王の婿にしようとお考えなのだ」
顔色も変えずに、シュディリスとグラナンは適当に相槌を打つ。
縁談話に名の上がる名家の子息子女は、婚約が決まるまではいろんな家の間を
たらい回しになるのが普通である。
こちらで候補に挙がっている名を、他家からも耳にすることなど珍しくもない。
フリジア姫が聖騎士家オーガススィに嫁ぐことも、可能性としては大いに有である。
その場合、フリジア姫は臣籍降下となり、いち貴族女性としてオーガススィに嫁ぐことになるのだが、
イクファイファは、
「しかし、それだけはない」、
やけに力をこめてそれを否定した。
彼は学友でもあるソラムダリヤ皇太子から、フリジア内親王が目下、「白馬の王子さま」に
お熱であることを聞き及んでいるのである。
三人でいつの間にか二瓶の果実酒を空にして、三本目を飲み干しながら、
イクファイファは拳で机を叩いた。
「ここにおいでの白馬の王子さまが邪魔をして……」
「シュディリス様のことですか」
「身に覚えはないけれど。よければ別の方を紹介してもいい」
「リリティス様のことですか」
若い男ばかりで騒いでいるうちに、そろそろ晩餐のお時間です、という刻限になってしまった。
着替えを済ませ、迎えに来たサイビス共々、まだ下らない話で盛り上がりながら、外廻廊に出た。
列柱の影が縞模様になっている歩廊に、侍女を連れた姫君が立っていた。
夕映えの雪山を背にした、小さな影だった。
彼らは足をとめた。
「ルルド」
兄イクファイファに促されて、ルルドピアスはシュディリスの方へと片手を差し伸べた。
シュディリスは身を屈め、少女のほっそりとした手にやさしく接吻した。
日没の光が紗のように揺れた。
「ご機嫌よう、ルルドピアス姫」
「お話が弾んでいらっしゃるようでしたので、此処でお待ちしておりました」
「それは。可哀想なことをしてしまいました。ご無礼お赦し下さい」
「私の方こそ、あられもないところをお見せしてしまいました」
「今朝方のことを、まだ気にされていますか」
「はい。謝りたくて」
「謝罪は、こちらにおられる兄君イクファイファ殿からもう頂戴しています」
「愕かれたでしょう」
「乗馬がお上手です。今宵のドレスもよくお似合いですが、
思いがけなくあのようにご活発なところを拝見できて、光栄です」
「ほっとしましたわ」
まったくもって白々しい、出来合いの会話であるが、彼らのために申し添えるならば、
社交の一環として、彼らはこのような儀礼的やりとりを重ねるものなのである。
ルルドピアス姫は淡い金髪を背に流したままにして、そこに一輪だけ花を飾り、
薄黄色のドレスを着たその姿は、まことに可愛らしかった。
年齢よりも大人びて見えるのはオーガススィの血なのであろう。
容貌の点では親族のリィスリやリリティスには及ばずとも、あちらが月の精なら、
こちらは雪の精ともいうべき趣きがあり、好ましかった。
段取りどおり、晩餐へは主賓のシュディリスがルルドピアス姫を伴うことになっている。
イクファイファとグラナンにも、それぞれ相手の淑女がついた。
位置を入れ替わり、「お手をどうぞ、姫」、シュディリスは腕を差し出した。
シュディリスを見上げて、微笑んだルルドピアスが、何かを呟いた。
「-------空に、雷雲が」
「姫?」
(その肖像画が好きなら、想い出にあげるよ。夜へと暮れてゆく空の色合いが、
オーガススィの黄昏に似ていると云っていたね)
夕映えの山脈、金色の雲。
風の流れと、遠い海鳴り。
(不思議な気持ちがするよ。わたしが死んでも、遠い北の国に、貴女の故国に、
わたしの肖像画が残ったままでいるなんて。もう二度と、わたしはそれを見ないのに、
時を超えて、そこにあるなんて。いつか塵と化すまで、誰がそれを見るのだろう)
(碧色の波濤、雲海、竜を呼べ。
焔を身の内に供えた風を呼べ!
我が命尽きるとも、必ずや再興の鐘を鳴り響かせてみせよう)
天空から冷たい風が吹いた。
「ルルドピアス姫」
その人は、夕暮れの空を背にして立っていた。
シュディリスに支えられたまま、ルルドピアスは告げた。
「その声。その顔。貴方からは、カルタラグンの血の匂いがする」
「ルルド!」
「姫さま、何を仰います」
でも、あれは貴方の声ではない。カルタラグンの祈りでも、復讐の叫びでもない。
永遠に受け継がれてきた、騎士の誇り、その魂の、断末魔だ。何という無念だろう。
(カルタラグンとオーガススィは、所詮、惹かれ合い、求め合いながらも、
結ばれてはならぬのだろうか)
(わたくしはトレスピアノに嫁ぎます。そこで子を生み、育てます。
苦しくとも、哀しくとも、どれほど、後悔しようとも)
山際に日没の太陽がゆっくりと落ちた。
突風のように押し寄せ、嵐の中の木の葉のように音を立てて舞っていたあらゆる音が、
ルルドピアスの脳裡で一つに繋がり、鎮まるかにみえて、ふたたび大きくうねり上がった。
誰の声、だれの声。
私は貴方を知っている。ようやく、辿り着いた。
「姫-----?」
少女はシュディリスに、微笑んだ。
夕べにひらく花のような笑みだった。
夕陽の金の光の中に、少女は消えるように見えた。
髪が風にひろがった。
ドレスの布の波に溺れるようにしてルルドピアスは手を泳がせた。
そして、シュディリスやイクファイファがそれを支える前に、侍女たちのあげる悲鳴の中、
床に崩れ落ちてしまった。
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古今東西、父親の叱責は、「ばかもの」呼ばわりから始まるのが定番である。
開口一番、イクファイファの上に落ちてきた雷も、まともにそれであった。
「莫迦者!お前がついていながら、何たる失態かッ」
低く押し潜めた声ではあったが、それでも卓上の盃がかたかたと揺れた。
夜更けて、オーガススィの城、領主の室である。
全員がまだ礼服を着たままであった。イクファイファは首をすくめた。
「しかし、父上」
「言い訳するか、イクファイファ」
「言い訳するつもりはありませんが、ルルドのあれは、わたしにも如何ともしがたいことで」
「だからそれがいかんと云っておるのだ。如何ともしがたいだと、
では、それを知っておるお前には、その如何ともしがたいことを、如何にすればよいか、
如何にすれば最善か、それを考える義務があったのではないのか?!
そうではないのか、違うのか、イクファイファ」
「ええ、はあ、まあ」
「返事がだらしないッ」
「はい、そのとおりです。父上」
「イクファイファ。お前の認めた、今のその、そのとおりとは、一体何についてか。
シュディリス殿の前でルルドピアスを気絶させたことか、それとも、
己が行き届かなかったことを認めて反省する、そのことについての、そのとおりか」
「僕が、ルルドを失神させたわけじゃありませんよ」
「口ごたえを」
「父上、そのあたりで」
小トスカイオが仲裁に入ったものの、父と兄を前にしてイクファイファはむくれている。
「父上、イクファイファにあたっても仕方がないではありませんか」
兄は弟を庇い、後ろにやった。
「幸い、シュディリス殿は気にしておられませんでしたし、サイビスの話では、
小宮殿に戻られてからも、ルルドの失言によって居合わせた者が罰せられることがないようにと、
重ねて願われておられた由」
「それは、気遣いというものを知る者ならば、誰でもすることだ」
「晩餐の間も、御曹司は朗らかにお過ごしのご様子だったではないですか」
「それは御曹司がよくわきまえた方だからであって、
こちらの手落ちがそれで帳消しになったわけではないッ。
よりにもよって、『カルタラグンの血の匂いがする』などと、ルルドピアス、何ということを」
小トスカイオの傍で、その妻のスイレンがびくりと身を縮ませ、
イクファイファと小トスカイオも、暗然たる顔つきになった。
「不吉、ですね」
「であろうが。お前たちもそう思うであろう」
椅子の肘を握り締めて、トスカイオは身を乗り出した。
「お姿がお見えになるのが遅いので、様子をみに行かせた者の口からそれを聴かされた時には、
久方ぶりに、髪の毛が逆立つ想いを味わったわ。ルルドは何故に、
失神するなら失神するで、口を閉ざしたまま黙ってそれが出来ぬのだ。
云うにことかいて、カルタラグンの名を、シュディリス殿の前で口にするとは」
「ああ、父上もそろそろ白髪の方が目立ってまいりましたか。白金なので目立ちませんが」
「小トスカイオよ」
「はい」
「わしの髪などどうでもよいわ!
最上級の歓待で迎えるべき貴賓に対して、滅亡の血を奉るとは、何たる無礼」
端正なトスカイオの顔は、猛禽のごとく険しくなった。
カルタラグンの名こそ禁句中の禁句だと、あれほど云っておいたではないか。
「シュディリス殿とてもう大人、
ご母堂リィスリと亡き皇子が恋仲であったことは聞き及んで、ご存知であろう。
それへ向けて、『カルタラグンの血の匂いがする』などと、
これではまるで、リィスリが、カシニ殿を裏切って、
ヒスイ皇子と姦通して子をもうけたかのようではないか」
「そこまで深読みはされないかと」
慌てて、小トスカイオはとりなした。
リィスリ叔母上は、嫁がれてよりフラワン荘園から一歩も出られておられませんし、
それに、その頃にはヒスイ皇子には、タンジェリンの姫がお傍に上がっておられました。
「事実はどうでもよいわ、礼儀の上で、取り返しがつかぬと云っているのだ」
苦虫を噛み潰した顔で、トスカイオは椅子の背に凭れた。
「さぞ、北国は粗野で野卑なので、客人の扱いを知らぬと、甥は味気なく、
また内心では残念に思ったであろうな」
「ルルドの症状についてはサイビスの口から事前に聴いて、
御曹司は知っておられたそうですよ。いきなりなら、相当に愕かれたでしょうがね」
「ルルドピアスは?」
「父上、ルルドを怒らないでやって下さい」
「分かっておるわ。その代わり、父はお前に怒っているのだ。
父の顔を見てそれが分からぬか、イクファイファ、控えよ」
「はあ」
「本日のことは、すべてお前のせいであるぞ、イクファイファ」
「そうかなあ」
「ルルドピアスは眠っております。朝まで目が覚めぬでしょう」
「誰ぞ、様子を」
「では、僕が」
「お前は此処にいるのだ、イクファイファ」
すると、隅に控えていた小トスカイオの妻スイレンが、
それでは、わたくしがお見舞いに参りますわ義父上さま、申し出た。
「そして、姫が何事もなくお休みのようであれば、ご様子をお伝えして、
そのままわたくしも、今宵はさがらせてもらうことにいたしますわ」
「そうしてくれるか、スイレン。すまぬな」
「いいえ」
「よく眠っているようであれば、使いもいらぬでな」
「はい」
「あ、でも、もしルルドが僕を呼んでいるようであれば、すぐに呼んで下さい」
「その時も、使いはいらぬでな」
「分かりましたわ。では皆さま、おやすみなさいませ」
そろそろと領主の室を退出し、扉が後ろで閉まった途端、スイレンはほっと息をついた。
オーガススィ父息子、相変わらずの、親子漫才である。
(近くで聴いていると笑いを堪えるのが大変だわ。嫁いで十七年経つけど、オーガススィの男って分からない)
やれやれ首をふって、歩き出した。
義父上さまも、うちの人もまるで分かってないわ。
(-----ルルドピアス姫は、私の娘たちと同じ年頃なのよ。
それなのに、私の娘たちだけにハイロウリーン家との縁談が持ち上がって、
その華やぎからのけ者にされているルルドピアス姫が、年頃の娘として、
哀しまないはずがないではないの。心も、不安定になろうものだわ。
遅くに生まれた女の子だからトスカイオ様も孫のように姫のことがお可愛いのでしょうが、
離宮に遠ざけておいて、まさかこのまま本当に、何処にも嫁がせぬおつもりではないでしょうね)
廻廊の向こうには、万年雪を夜空に白く凍らせた、北の山々が見えた。
スイレンは夜風にほどけた髪を直した。耳飾が揺れた。
ルルドピアスは子供の頃からおかしな言動が多い子で、普段は遠い離宮にこもっているせいもあり、
親しみといってもそうない姫ではあるが、その行く末については、
三年前に亡くなった領主夫人から、しかと頼まれている。
病床から息子の嫁の手を握り締めて、しきりに奇病の娘のことを願う領主夫人の臨終は、哀れであった。
ルルドピアスについても、最初は人の注目を浴びたいばかりにわざと
奇矯な振る舞いをしているのかと気に食わなく思ったが、眼の前であれをみると、
さすがにルルドピアスに降りている未知の病の存在を信じぬわけにはいかず、
それだけに、頭が痛い問題である。
病もちで、なまじ騎士家の位ばかりが高く、そのくせ騎士の血の発露は薄い姫など、
押し付けられる騎士家にとっても、迷惑であろう。
そう思うと、夜の歩廊を歩むスイレンの唇には笑みが浮かぶ。
小トスカイオ様との間に生まれた、高貴なる竜神の血を引く私の自慢の娘たちは、あの子とは違うわ。
美女で名高いリィスリ姫に、もっとも面影が似ていると云われているルルドピアス姫は、
残念ながら生来ご病弱で、まるで出来損ないのようにして、誰からも望まれることなく、
兄イクファイファにくっつているだけだわ。
駆けっこをしても、私の娘たちの方がいつも、ルルドよりもうんと速かった。
面倒ね、気位ばかりが高い、何の役にも立たぬ姫なんて。
(あら-----。でも案外、思わぬ方向へ転ぶかも知れない。
シュディリス様は、晩餐の間も倒れた姫のことを気にされておいでのようだったわ。
殿方は珍しい女がお好きですもの、かえってご興味を惹かれることだってあるわ。
騎士の血はどこでどう開花するか判らぬのだから、多少の難点があったとしても、
フラワン家の御曹司がそれを望まれるのであれば、
オーガススィの血統の重みが、それをものともしないでしょう。
それに、そうだわ。フラワン家は聖騎士家とは違い、何も、高い騎士の血など必要としていないのよ。
ルルド姫のあの奇病も、もう少し大人になられたら落ち着いて、治るかも知れないし)
しかし、或ることに気がついたスイレンは、すぐに思いなおして首をふった。
フラワン家は、二代つづけて同じ聖騎士家からは嫁を取らぬのだ。
ルルドピアス姫は、皇家に次ぐ貴家、フラワン家には嫁ぐことはない。
それを思うと、スイレンの顔にはついつい笑みが浮かぶ。
まったく、どこまでも運のない、惨めな姫だろう。
それに比べて、私の息子や娘たちは祖父トスカイオ様や、クローバ・コスモス様に似て、
騎士の血も高そうだし、あのようでなくて本当に良かったわ。
(私が悪いんじゃないわ。
私の娘たちよりも、ルルドばかりをお可愛がりになる、トスカイオ様がいけないのよ。
確かにルルドの方が、リィスリ様に似て、お顔立ちは可愛いわ。でも、あのようにあからさまに、
私の娘たちとの差をつけなくてもいいではないの。
だから私、小トスカイオ様に頼んで、早々に娘たちとハイロウリーン家との縁談をすすめてもらったわ。
何といってもハイロウリーン家こそは、カルタラグンなき後、
ジュシュベンダのアルバレス家と並ぶ聖騎士中の大聖騎士家。
そこに私の娘たちが先に嫁げば、ルルドピアスはまずもって、ハイロウリーン家に嫁ぐことはない。
ハイロウリーンとジュシュベンダが仮想敵国である限り、
ルルドは遠国ジュシュベンダにも嫁ぐことはないし、その先例もない。
もしあの娘を嫁に引き取る家があったとしても、その家は、必然的にハイロウリーン家よりも格下でしかないわ。
生涯にわたり、私の娘たちの前に頭を下げることになるのは、ルルドです。
私が悪いんじゃないわ。ルルドピアスばかりを溺愛される、トスカイオ様がいけないのよ。
妹ばかりを気遣っている夫や、イクファイファや、
リィスリ様賛美が抜けきらぬ、この家の者たちが、いけないのよ。
見比べられてきた、私や、私の娘たちが、どれほど辛かったか。
ルルドを皇妃にですって。とんでもないわ。
その時には私、ジュピタの皇太子さまに、ルルドピアスがいかに頭がおかしい娘なのか、訴えてやるわ。
可哀想な子だし、家の恥だし、外部には黙っていろと云われてきたけれど、
その時には今度こそ我慢しないわ。
万人に分かってもらえるように、あの子の異常を、云いふらして回ってやります)
かといって、このままルルドピアスがいかず後家というのも、やはり後味が悪いことである。
そろそろルルドピアスの室が近づいてきたので、いかにも親切らしい、情け深い、
理解ある顔を作りながらも、娘たちだけでなく何処か適当なところにルルドピアス姫が
片付いて落ち着いてくれなければ、その日まで心の平穏もないような気がする、スイレンであった。
一方、スイレンが別棟に去った頃を見はからい、領主トスカイオは隠し扉に鍵を入れ、
奥の間に移動した。
小トスカイオ、イクファイファもそれに続いた。
戸を閉めると、外には音が漏れない。
室の中央に据えられたがっしりとした卓の上には、届けられたばかりの、書文があった。
集まった彼らは、先刻とは別人のような、オーガススィの真の男の顔を、そこに集わせていた。
「続く]
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