[ビスカリアの星]■五十九.
夜が更けて、小宮殿。
グラナンの部屋は、間に居間を挟んだ、シュディリスの室の続き部屋である。
先刻、専属の召使がようやく退いて、グラナンはようやく気楽になった。
何に遠慮するでもないが、この丁重な扱いはやはり自分には不相応で、
かえって寛げず、やはり疲れる。
ここでのグラナンはシュディリスの友人としての扱いとなっているために、
これも致し方がないとはいうものの、寝酒はお召しになりますか、ほかに何かご希望はございますか、
明日は朝食の後に仕立て屋を呼んでございますのでお好きなだけお好きなお召しものをお仕立て下さい、
これが北国名物の乾式風呂でございます、微温室と交互におつかい下さい、どうぞどうぞ。
攻勢の果てに押し込まれた風呂では、熱くて気持ちがいいを通りこして、完全にのぼせた。
寝椅子に臥せっていたグラナンは、ようやく半身を起こし、釈然としない思いで豪華な部屋を見廻した。
シュディリスにしろ、旅の間はともかくも聖騎士家国オーガススィに入ってからは
すっかり本来の立場を取り戻し、傍目には水を得た魚のような上つ方の態度で、貴公子然、
右から左へされるがままとなっている。
その様子は、儀礼的愛想笑いを時折浮かべるほかは、淡々と頷いているばかりの、
貴人という名のひとつの記号のようで、当人は苦にもしておらぬようだったが、
妹や弟がそうしろと云ったので伸ばしていたはずの髪にも軽く鋏を入れさせて、
昨日からは束ねぬまま背に流しているあたりも、係りの者の云うがまま。
なるほど、宮廷貴人というものは瑣末ごとに対してはすべて周囲任せなのだと、
稀少で貴重な華か何かのように振舞うことで、周りの者を仕えさせ、尊意の念をおこさせているのだと、
あらためてグラナンは感じ入ったものである。
先日まで馬パトロベリにしゃぶらせていたとは思えぬ見事な銀髪をひるがえし、
次官補佐サイビスとグラナンを従え、護衛に囲まれて歩廊の中央を歩むシュディリスの姿は、
すっかり雲の上の人のものであった。
それも彼なのであろう、大方の貴人は、幼い頃から公的な顔を強いられるために、
二重人格では済まぬほどに、人格が多岐にわたって分裂しているものである。
そういったことを、旅の間のどこかでグラナンは弟トバフィルに宛てた手紙の中でも書いたが、
結局、街道を行き交う顔なじみのジュシュベンダの者に頼んで
故国へ出すことの出来た手紙は、それきりだった。
それはパトロベリの不用意な発言により帝国を根底から揺るがすシュディリスの秘密を知って以後、
彼としては当然の自粛である。
本来であれば、知り得た機密は何であれ、早急に本国に報告してしかるべきところであるが、
グラナンがその義務を怠っているのは、何もシュディリスに対して
友情を持つようになったからというだけではない。躊躇う理由は一つである。
(もしかしたら、本国ジュシュベンダはとうの昔にそのことを掴んでおり、
何らかの事情により、あえて知らぬ顔をしているのではないだろうか)
つまり、ジュシュベンダはフラワン家の御曹司がヒスイ皇子の子であることを承知の上で、
隠し矢としてその事実を握ったまま、皇帝にもレイズン家にも報せることなく、この二十年、
思惑あって門外不出の機密としてきたのではないだろうか。
さもなくば、いかに聡くとも、改新当時はまだ少年であったパトロベリが、それを知るだろうか。
もしそうである場合には、余計なことを知った邪魔者として本国の手で
消されかねないのはこちらの方である。
一身上のことならば、気楽な独り身、まだ諦めもつくが、
実家バラス家や、僧籍に入った弟のトバフィルや、
騎士団で親交のある仲間にまで、詮議や制裁の手は伸びるかも知れない。
世間に露呈すれば大問題になりかねぬ事柄であればあるほど、
大国がそれを闇に葬ろうとする時には、しらばっくれと証拠隠滅は徹底して行われるのが常である。
さればこそ、ヒスイ皇子の子と知りながら、
ジュシュベンダは両腕を広げてシュディリスの留学を認めたのではないのだろうか。
そうしておけば、後に知れるところとなったとて、当時は知らなかったと公にもしらが切れる。
いずれにせよ、何がしかの大波が押し寄せてくるのは必定で、
それだけに、グラナンとしては知らぬ存ぜぬを決め込めるだけ決め込んで、
秘密の霧が渦巻く魔物の函が開くその日まで、あとは野となれ山となれの境地であった。
識者がいかに大局を論じたところで、大局を論じる向こうには、同じく大局を論じる相手がおり、
それはさまざま利害を呑み込みながら、理念とはほど遠いところに着地するのであろう。
そんな説にも、今宵のグラナンは大いに賛同できそうであった。
(しかし愕いたな、今日は)
暖炉に薪を足し、今さらのように、グラナンは身をふるわせた。
日頃の鍛錬のお蔭でうろたえることこそなかったものの、
シュディリス目掛けて放たれたルルドピアス姫のあの言葉は、それこそ、
頭の上にそれこそ大斧が落ちてきたかのような衝撃であった。
「誰か、早く!」
気を失ったルルドピアス姫を抱えあげて指示をとばしたのはシュディリスで、
自身で連れて行きそうな勢いであった。
慌しく大勢の侍女や典医が駆けつけて、意識を失ったルルドピアスがはこばれてゆき、
後は何事もなかったかのような顔をして歓迎晩餐会に顔を出したはいいが、
食事の間も互いに知らぬ顔をしながら、そして小宮殿に戻って来てから召使たちが退くまで、
グラナンとしては忍耐の限界を試されているような心地で、シュディリスと二人きりになれる深夜を待っていた。
やがて扉が叩かれた。
すぐさま、グラナンは立ち上がって扉を開いた。
「グラナン」
「シュディリス様」
両方から相手の室へと踏み入ろうとした。まともにぶつかった。
これがご婦人であるならば胸に抱きとめることにもなろうが、背丈の同じ男同士、
真正面からの衝突である。
「これは粗相を。痛かったですか」
「いいから」
素早く、シュディリスの方からグラナンの室に飛び込んで、扉を閉める。
寝室に入るなり、夜着の上に豪奢な室内着を羽織ったシュディリスは、寝台の柱に凭れてしまった。
見れば、打ちつけた額に片手を当てている。
慌ててグラナンが水差しの水で濡らした布を差し出すと、それを額にあてて、
まだ痛むところを冷やしながら、やがて彼は吐息をついた。
「-------カルタラグンの血の匂いがする。どういう意味だろう」
「そのままではありませんか。つまり、カルタラグンの方であるという」
シュディリスから投げ寄越された濡布をグラナンもぶつけたところにあてながら、
まさかとは思うが、念のために寝台の下や壁を叩いて、
耳をそばだてている間者がいないかどうかを確かめた上で、ひそひそと二人は囁き交わした。
イクファイファが咄嗟に取り繕ったところを鵜呑みにするならば、何でも離宮にヒスイ皇子の肖像画があるそうで、
その絵とシュディリスがあまりにも似ているために、ルルドピアス姫は愕いたということらしい。
「その肖像画を拝見していない上は、何とも申し上げられませんね。
同じその絵を知るイクファイファ様の方は、
さほどその類似に気がつかれてはおられないようでしたから」
そのわりには、世話になった寡婦ルシアも最初は失神しそうなほどに愕いていたではないか。
オーガススィ宮廷にはカルタラグン王朝時代をよく知る者も多いのに、
今日逢った限りでは、古参の彼らとて、特に故人の名を持ち出すことはなかったから、
どうも女人のほうが、そのあたりには敏感らしい。
父子とはいえ、もとより別人である。容姿が似ていたとて、育つ環境が違えば、
まとう雰囲気も別の家のものになり、気風も、性情も違ってくる。
第一、あのような最期を遂げた方に似ているなどと、たとえ思ったとしても、
誰も迂闊には口には出来ないであろうから、それが今まで、フラワン家のシュディリスを護ってきたともいえる。
両手の指先を組み合わせ、それを顎の下にあてて考えていたグラナンは、
もしかして、ルルドピアスには正体がばれたのかも知れぬという危惧を、とりあえず却下した。
「シュディリス様、わたしとしてはさほど心配することもないかと思います。
実の兄君が、肖像画とよく似ていると証言しているのであれば、
ルルドピアス姫のあの言葉も、それだけの話として、説明がつくでしょう。
むしろ、姫君の不用意な発言に、オーガススィの方が慌てているかと存じます」
「まるで憑依か霊異のようだった」
「確かに何かに憑かれているような、尋常ではないご様子でした。
我々のオーガススィ入りに合わせて、偶然にも、普段は静養されている離宮から
姫が城に遊びに来ていたとは、これも何かの因縁でしょうか」
そこで、グラナンは提案してみた。
「如何でしょう、さほどに似ているのであれば、いっそのこと、
ルルドピアス姫に頼んでその肖像画を離宮から取り寄せていただくというのは」
「肖像画を?」
政変後、非業の死を遂げたヒスイ皇子の肖像画は不吉なものと見做されて、
ことごとく焼却処分され、都であれ何処であれ、残されてはいないはずだった。
この時代、強い未練を残して死んだ者の魂はその肖像画に宿るという迷信が根強くあり、
生前のヒスイ皇子が耳目を奪う華やかな存在であったその分だけ、その非業の死は深く悼まれ、
惜しまれると同時に、彼の肖像画は大急ぎで遠ざけて、浄化の焔で焼いてしまわねばならぬものであった。
さもなくば死者の魂は彷徨って、虚しく殺された怨念ごとその絵姿の中にこもるのだと、
ひいてはそれを見る者の心に、悪しきものを呼び覚まし、祟るのだと、
古くからそのように伝えられているからである。
もちろん、中にはそのような俗信仰を一笑に付して、
形見の品や名品を迷信と切り離されたものとして愛で、棄てない者もいるのであるが、
カルタラグンにまつわるあらゆるものが、他ならぬ再興したジュピタ皇家への反抗と叛意のあかし、
ヒスイ皇子の死を嘆くことそのものが、ジュピタ皇家への不満であると見做されかねなかったあの当時、
それは極めて稀なことだった。
シュディリスは、ヒスイ皇子の顔を知らない。
自分を見て、懐かしげな顔をする母リィスリは、女の顔をしていることもあったが、
何しろこちらは乳飲み児の頃から育てたわが子である、
彼女の心にある追憶の君と、育てた息子との間には、やはり決して埋まらぬ断絶があり、
シュディリスを見ることで、リィスリは、「やはりあの方とは違う、あの方はもういない」、
淋しい眼をしてそれを確認してるようなところがあった。
思えば奇妙な母と子ではあったが、自分を見て、まばゆげな、辛そうな、そんな顔をしている
おし潜めたものを隠した美しい女の姿というのは、シュディリスの心に深く沁みて、
かなり自分の女の好みにも影響を与えたと思うのだが、それは生涯、リィスリとシュディリスの双方が、
墓場まで隠してゆく、隠しておくべき繊細な秘め事、ではあった。
そのヒスイ皇子の肖像画が、母の手で隠されて、このオーガススィにあるという。
「いっそのこと、こちらから認めてしまうのです。確かにトレスピアノに居た頃から、
かの人に似ていると云われることがあったと。
あのようなかたちで果敢なくなられた方なので、遠慮がちにしろ、そういった話は耳にしてきたと」
グラナンは興味津々で、さかんに勧めた。
見上げる寝台の天蓋には、北の街の古い地図が描かれていた。
海には、見たこともない大きな魚がいて、その口から、竜巻を吐き出していた。
わざと稚拙に描かれたその絵の中、海と陸の境目に立つ、『竜の褥』の奇巌のその真上には、
北の星が輝き、星は小さな光を放って、眠りの中に真実を探す旅人を山々へ導いていた。
「見間違えられるほど似ている人間のことは気にならぬほうがおかしいのですから、
いかにも興味を惹かれたふりをして、それを見せて欲しいと頼んでみるのです」
窓の向こうの夜の木々が騒いだ。海鳴りのようであった。
惨殺された皇子の、しかも自分とよく似ているらしい故人の姿絵と対面するのは
少し薄気味悪いような気もする。が、
「では、そうしよう」
シュディリスは応じた。
その動機は、グラナンとほぼ同じである。
何となくその語尾に挑戦的なものがあるのは、いい加減、その男の顔が見たいからで、
その底にとぐろを巻いているのは、父恋しの感情やルルドピアス姫の言質の神秘性など吹き飛んだ、
低次元の、男の嫉妬である。
肖像画が現存していたとは好都合、母を惑わし、数々のご婦人を誘惑し、
しかる後に彼女らの心に今なお華やぐカルタラグンの皇子、父とも思えぬ軽佻浮薄なその男、
果たしてどれほどの面なのか、いったいどれほどのものなのか、この際とくと拝んでくれる。
ここにおいて、シュディリスとグラナンの意見は完全に一致した。
「では、そのように」
「明日はルルドピアス姫を見舞う予定だが、昨日今日のことなので、
ヒスイ皇子の名を出していたずらに刺激したり、愕かせてはいけないので、
直接ではなく、女官の口を通じてでも、事前にルルドピアス姫にそれを頼んでおきたい」
「承知しました。お任せ下さい。それはサイビス殿に頼みましょう。何なら私が離宮へ使いに走ります」
グラナンは請合う。
いっそのことジュシュベンダ籍を離れてシュディリスの侍従になるのが丁度いい、
すっかり遣い走り役のグラナンであるが、彼は彼なりに、その機会を利用して確かめたいことが別にあった。
(次官補佐サイビス。
----ジュシュベンダ大學を卒業後、各国に国費遊学し、
オーガススィに任官後は、次官補佐として、イクファイファ王子とも親しくしている男)
今宵の晩餐の後、王族のみの語らいの場にシュディリスが案内されてゆき、
残された者たちに歓談室で酒がふるまわれた時である。
「グラナン殿。少しよろしいでしょうか」
こちらが明日サイビスを利用しようとするのと同様に、
次官補佐サイビス側も、シュディリスではなく、まずグラナンに声を掛けてきたのである。
グラナンは徹頭徹尾、自分はジュシュベンダ騎士団に所属する身であり、
守秘義務がある旨を伝えてはぐらかし続けたが、
その間、サイビスの方は、相手の毛筋ひとつの変化も見逃すまいと、こちらの顔をしっかと見つめたまま、
あえて親切ごかしにいろんなことを教えてくれた。
注意深くその話に耳を傾けていたシュディリスは、その名が出たところで、グラナンの話を遮った。
「ヴィスタル=ヒスイ党?」
「タンジェリン殲滅戦の前後、レイズン本家で旗揚げした若手中心の新興の一派で、
カルタラグンの治世とその崩壊、それに続く治安の乱れと集権の偏りを憂い、
ヴィスタチヤ帝国を、ジュピタ皇家と聖騎士家の談合による、
正常な政治体制に戻すことを理想に掲げている一党です。
と申しましてもさしたる実権もなく、不発のまま終わるであろうと見做されていた、
取るに足りないレイズン家内部の小集団なのですが」
しかし、ここにきて、にわかにその名が浮上しているらしい。
「旗揚げの名にヒスイ皇子の名を冠するところが、何とも幼稚で、彼らの程度のほどが知れますが、
そうやって、はっきりと反ミケラン・レイズンを表明しているあたり、
かえって油断ならぬと、サイビス殿はお考えです。
案外、老獪なミケラン卿の足許をすくうのは、その手の卑しき集い、愚昧の輩かも知れないと。
そこが何だか、わたしにはかえってあやしまれるのです。
サイビス殿の言い草は、まるで、こちらの反応を見極めようとして、
あえてヴィスタル=ヒスイ党を軽んじてみせているようでした」
「そのレイズン家の郎党と、こちらに何の関係が」
「勢力分布図に変化があるやも知れませぬ」
「反ミケラン勢力など、レイズン家の内外問わず、これまでにも多々あったはず。
ミケラン卿は皇帝陛下の親友にして、一の臣下だ。
彼らによほど強力な後ろ楯がついたとて、まさかそれが、オーガススィではないだろうに」
「ヴィスタル=ヒスイ党単体ではとても無理でしょう。
ですが、目下のコスモス情勢に便乗することは可能です。
聖騎士家ハイロウリーン、ジュシュベンダ、オーガススィ、サザンカ、御三家からはフェララ、ナナセラと、
これだけ揃ってコスモスに向かえば、構図的には、ミケラン卿の孤立です。
ヴィスタル=ヒスイ党はこの機に乗じて、各騎士家と連動し、卿への反感を利用して、
ミケラン卿の排斥を目論んでいるのではないでしょうか」
シュディリスは首を振った。
「大義とも理想ともかけ離れた、ただの私怨で動いているらしき
そのような狭義的集団の煽動に、聖騎士家が動くとはとても思えない」
言下に否定したものの、ふと考えた。
かつて学兄学弟関係であった、ゾウゲネス皇帝とミケラン卿の癒着が深いからこそ、
この二十年、表立っては誰もミケラン卿を糾弾出来なかったのである。
タンジェリン殲滅戦後、明日は我が身かとにわかに騎士国が警戒を強めようと、そこは賢く、
ミケランはそれ以上の強行策を今のところは打ち出してはいない。
しかし、もしも卿がユスキュダルの巫女を害せんとするならば、その時には、
たとえ皇帝の権威をもってしても、ミケラン卿へ押し寄せる騎士たちの怒りの白刃は止められぬであろう。
タンジェリンを滅ぼしたことで、にわかに色めきたって不穏な動きをみせ始めた騎士家の動向に対抗するために、
ミケランはユスキュダルから巫女を呼び寄せ、巫女の威光をもって彼等を沈静化させようと試みた。
ところが、その巫女を、意図したことではないにせよ他でもない自分が横合いから奪ってしまい、
結果、巫女はミケランから逃れるようにして、クローバを連れてコスモス領へとお入りになられたわけだが、
「お隠れになるにしても、何故、遠いコスモスだったのだろう」
シュディリスは上体をグラナンの寝台に倒して仰向けに転がり、天蓋を仰いだ。
どう考えても、トレスピアノに侵入してきたレイズンから巫女を連れて辛くも逃れたあの時、
隣国ジュシュベンダを頼るのが、最善の策であった。
コスモスならば、その背後に北方三国同盟で結ばれたハイロウリーンとオーガススィも控えており、
心強いといったところで、ジュシュベンダとて、大騎士団を有する剛の国である。
加えてジュシュベンダ君主イルタル・アルバレスは英明にして、果断の君。
ミケラン卿の専制への反感を隠さぬ彼ならば、巫女を聖地ユスキュダルへと
無事に送り届けてもくれたであろう。
峠での攻防戦の一報をパトロベリ・テラから伝えられたジュシュベンダ側からも、
亡命中のクローバ・コスモスが使者に立ち、巫女の迎えが出ていたのだ。
あのままジュシュベンダの懐に入れば、ミケラン卿にも手出しできなかったというのに、
巫女はそれを選ぶことなく、クローバ・コスモスを連れて、ジュシュベンダから姿を消してしまった。
(貴女がお命じさえ下されば、それだけで、
おそらくは貴女がもっともご懸念であるところの、はぐれ騎士らの命、
すべての騎士が合力し彼らを救い出すことも、ミケランを討つことも、厭わぬものを)
何故、ユスキュダルからさらに遠い、コスモスだったのだろう。
やがて躊躇いがちに、グラナンはサイビスから聞き及んだことをシュディリスに告げた。
それを聴いたシュディリスは、沈痛に、眼を閉じた。
ミケラン・レイズン卿はタンジェリンの残党、及び、捕えたはぐれ騎士たちの処刑地に、
実弟タイラン・レイズンが治める、コスモスの地を選んだとのことです。
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やわらかな小雨が晴れた空から降っていた。
オーガススィではよくある天気とのことだった。
雨は陽に透けた糸のように、草地にも、波の上にも、細い軌跡で落ちていた。
その上には雲があった。
午後の光をたっぷりと含んだ色をして、たくさんの船を寄せたように、空に流れた。
散歩の途中で雨に見舞われた彼らは、上部が張り出した濡れない岩陰に寄り、そこから海を見ていた。
濃く沈むのは、雨に湿った砂濱の匂いと、風の匂いだった。
雨の森とも、夜の森とも違う、深い香りだった。
砂が砕ける音がした。
寄せた波は、雨に濡れた砂を巻き込み、また引いていった。
風はあったが、波は穏やかで、何枚もの薄い布がゆっくりと揺れているようだった。
それを眺めているうちに、訊きたいことも忘れた。
「夜になると、ここも海の底」
砂地には貝殻があった。
薄紅色の貝。妖精の細工もののような貝。
ルルドピアスはそんな一つを拾った。
「空と海の境目に、ほんの束の間こうやって埋もれているだけの、
この小さなものが、私は好きです。
お花も、貝殻も、誰にも見られずに、それでもこんなに美しい」
シュディリスはルルドピアスが差し出す貝殻を受け取った。
貝殻は花の蕾のかたちをしていて、真珠色の光沢をもっていた。
「命が宿るお家のように、見えませんか」
日差しと雨が渾然一体となって揺れている海岸は、光と影の明暗が強く、
それはまるで、朝でも昼でも夜でもない、時の隙間のどこかに落ちたようだった。
シュディリスは貝殻を握り締めた。
「同じことを云っている人がいた」
ルルドピアスは風に乱れる髪を手でおさえ、微笑んだ。
「それは、どなたですか」
「姫なら、当てられるのでは」
「そんな。無理です。人の心は見えません」
笑って首を振ったルルドピアスのその笑顔には、少し無理があった。
それで、やはり、気にしているのだと知れた。
厭味のつもりではなかったにしろ、
昨日見せたルルドピアスの異様を、揶揄したように聴こえただろう。
本人にも説明がつかず、憶えていることもないらしいので、問い詰めるつもりも蒸返すつもりもなかったが、
『カルタラグンの血の匂いがする』
あの時のルルドのあの様子には、神託のようなところがあった。
ルルドピアスはシュディリスを見上げて、次の言葉を待っていた。
望まぬ宿業を背負って生まれてきた者に特有の空っぽの明るさと、控えめな笑みだった。
それはかえって、この者を普通の人間の輪からは遠ざけてしまうのだったが、
そのことを痛感するほどには、オーガススィ家に生まれたこの少女は、世間というものを知らない。
ルルドピアスのリボンが風に揺れた。
ドレスの裾が雨にあたらないように、シュディリスはもう少し奥へと、姫を招いた。
此処に二人きりなのは、
「姫の護衛はお任せを」
シュディリスが供人たちに剣を見せて、申し渡したからだ。
「姫をお預かりします。見えぬ場所には行きません」
海岸の片隅に残してきた供人たちは、こちらを窺いながらも馬を連れて、
雨を避けて反対側の岩場に逃げ込んでいた。
右往左往するその小さな影も、少し強まってきた雨脚にかすんだ。
光の祝福のようなこの雨も、冬となれば、冷たい霙となって北国の人々を打つ。
視界の端には、奇巌”竜の褥”の影が、灯台のように空に高く伸びていた。
思いついて、少女は手を打ち合わせた。
「リリティス姫。そうでしょう?」
雨を見つめていたシュディリスは、ルルドピアスに向き直った。
黒い岩壁を背にした少女は、好奇心に満ちた眼差しをして、あどけない唇をひらいた。
「リリティス様が、云われたのでしょう。花や貝殻にも、命が宿っていると」
シュディリスは首を振った。
少々、素っ気無さ過ぎる態度だったかも知れない。
付け加えた。
「別の女人です」
ルルドは、「そうでした、トレスピアノには、海がないのでした」、自分でそこに気がついて、俯いた。
乾いた岩の端へルルドは腰を下ろした。
海を見つめるその眸は、音色なき音がしんしんと篭っているところの、貝殻の底の、あの影の色だった。
迂闊なことは云えないが、あらためて眺めるその横顔は何となく、あの御方と似たところがあった。
その声や、その物憂げな沈黙。
そのために、話したいとこ思っていたことを忘れた。
昨晩はあれほど、何かをこの姫に訊かずにはいられないと、そう想っていたのに。
想い出してしまう。
示現者としてのやさしい声や、仕草。
どこにも似ているところなどないというのに。
少女の声がした。
「どんな方ですか。----リリティス様」
ルルドを見返したシュディリスは、別の人のことを訊かれたような、そんな顔をしていた。
問われるままにイクファイファにも伝えたのと同じ、無難なところをシュディリスはルルドに教えた。
妹リリティスは、オーガススィの血が濃いようで、母の若い頃によく似ていると。
「とてもお美しい姫さまだと聴いています」
「兄の眼には、ひとりの妹。姫の可愛らしさとはまた別です」
別の女を賛美する女への男の義務として、当人への世辞
(あながち世辞でもなかったが)を忘れずに述べておいて、
「妹は姫のようにおとなしくはしていない。従姉妹同士であっても、姫と、リリティスは、随分と違います」
断りを入れておいた。
嘘ではない。リリティスとは似ていない。
それはルルドピアス姫に、何ら竜の血らしきところがないせいであろうか。
弱々しいとは云えないまでも、リリティスの持っているような烈しさや、騎士の気位の高さとはほど遠く、
純潔は同じであっても、それはリリティスのようなむき出しの壁ではなくて、
世の中に対してうっとりと心をひらいているようなところがあった。
だから余計にあの御方に似ている気がしたのであろうか。
お抱きもうしあげている間も、こちらを包んで下さっているようであった、あのひとに。
「騎士さまなのでしょう、リリティス様は」
「弟ユスタスと共に」
「勇敢な方なのですね。女の身で騎士になるのは、とても怖いことだと聴いています」
適当に頷くシュディリスに、ルルドは首を振った。
いいえ、そうではありません。フラワン家の姫君である限り、戦には出ずに済むだろう、
どうせお姫さまの遊びだろうと云いたいのではありません。
「私も、聖騎士家に生まれたものです。
騎士として身を削ることは、そのような言葉で片付くものではないことくらい、存じています」
「では、どういう意味で勇敢と」
シュディリスは手の中で貝殻を転がした。
騎士ではない者と話していても仕方がない。それでも、姫と語るのは不本意でもない。
別の者とではこうはいかないであろう。
「姫にとって、騎士とは何です。誉れだろうか、それとも、
かたち無きものに身命を賭して燃え尽きる、愚か者だろうか」
「流星の命。孤独の極みだと」
シュディリスとルルドピアスの眼が合った。
波音と雨音が交互に響き、それはまた遠のいた。
ルルドピアスは立ち上がると、雨の中に出た。
「きつく張り詰めた弦をさらにまた削ぐようなその苦闘を、その挑みを、私は想像するしかありません」
細い腕が振りかざされた。
波の上に、小さな波紋が生まれた。
手にしていた貝殻を小石がわりに海に投じてしまうと、ルルドピアスは、
光の雨の中からシュディリスを振り返った。
「伝え聞くばかりであった星の騎士さまとは、どのようなものなのか、
こうしてその御一人を前にしても、私には貴方たちが判りません」
「そこから得たものが、孤独の印象ならば、それは否定しない」
腕を伸ばしてルルド抱きとめ、雨宿りの場に戻したシュディリスは、ルルドを放して、海に視線をそらした。
「妹も、弟も、それぞれに自分の意志で剣を握った者たちです。
聖騎士家の血を受けているのだから当然だと人は云うが、そこから逃げて、その道を選ばぬ者も多い。
彼らは己の欲するものへ、ひたむきであり、愚直です。
身のうちに潜む、已むにやまれぬそれに忠実である者のことを、騎士と呼ぶのだと云う者もいる」
「そんなごきょうだいを、誇りに?」
「姫が水切り遊びをするとは思わなかった」
「子供の頃はもっと遠くに、たくさん波紋を作って飛ばせました。やってみせて」
シュディリスは濡れた砂の詰った貝殻を拾うと、それを海に投げた。それは低空を飛ぶ鳥のように雨を切り、
幾度か波の上に鋭く跳ねて、魚の鱗のように踊り、はるか遠くに消えて沈んだ。
「彼らを誇りには出来ない」
冬場になれば、彼方に氷山の影が見えるという北方の海には、今は、緩慢な波の高低だけがあった。
雲間から差す弱い陽に、砂濱が淡く輝いていた。
降り続く小雨の中、風の中、地を埋める貝殻は氷のようにひかり、ただ雨に濡れていた。
シュディリスは答えた。
「彼らの誇りは、わたしが決めることではないから」
「………」
「それでも、妹と弟が、己の誇りに相応しく生きるならば、彼らはわたしの誇りにもっとも近しい友です」
「それでは、その他の大勢の騎士も、誇りあれば、貴方の友ですか」
「少なくとも、そうではない者よりは」
「シュディリス様にとって、誇りとは何でしょう。人はもっと、いじましく生きるものでは、ないのですか」
「それがお分かりの姫には、誇りの何たるか、その悲惨も、お分かりだろうに」
「頑固なのですね」
「仰せのとおり」
「では、妹さまと弟さまとも、ことあらば剣を交える覚悟がありますか」
「姫のその口調が、ますます似ている」
海を見つめながら呟かれたそれは、ルルドにも届いた。
「私の知らない方。その方に?」
「貴女の知らない、その方に。姫」
また陽が濃く照りつけて、雨の流れる線がはっきりと見えた。
ルルドピアスは眼を伏せ、ドレスから砂を払った。その様子はまるで、
「その方、シュディリス様の想い人でいらっしゃるのですね」、とでも云いたげであった。
濡れた砂はなかなか落ちなかった。
やがて、ルルドは拗ねた顔をした。わざとそうした。
「教えて下さらないなんて、ひどいわ」
シュディリスから離れて、横を向いた。
「いいわ、イク兄さまにお願いして、その方のこと、聞きだしてもらいます」
頬を膨らませて、脅しのようなことを云う。
「トレスピアノから来た男は口が堅いと、イクファイファ兄さまがお嘆きだったわ。
シュディリス様が私に似ているという、その方の名を教えて下されば、
私にも一つだけ、従兄のシュディリス様に素敵な贈り物ができますのに」
「ご機嫌を損ねずとも、よく知られている方です」
シュディリスは岩壁に凭れた。
「だから、どなた」
「イクファイファもその名を知っている」
「シュディリス様の口から聞きたいの」
ルルドピアスは髪に指をからめた。
男の方って、すぐに誰それに似てるって騒ぐのだわ。
都で評判の美人芸人や、街で評判の麺麭屋の娘、誰でもいいのよ。
誰だろうと、全然似てないのに、少しばかり見た目のいい誰それに似ていると勝手に思い込んでは、
それで、こちらを褒めている気におなりなのよ。
「私、知ってます。父上やイク兄さまや、小トスカイオお兄さまや、城の者が私に優しいのは、
私がリィスリ様に、ほんの少しだけ似てるからです。
リィスリ様ほど美しい方と比べられるなんて、そんなの、辛いばかりだわ。
子供の頃からみんな云うの。リィスリ様に似ていると。でも、リィスリ様とよく似ておられるという
リリティス様とは似ていないのでしょう。では今度は、誰に似ていると仰るの。
それを教えて下さるまでは、贈り物はおあずけです」
「ルルドピアス」
「なんですか」
「あまりに頬をふくらませ過ぎると、戻らなくなる」
「私の頬です。もともとこうなの。ほっておいて下さい」
「失礼なことを申し上げたようだ。姫は誰にも似ておられない」
「今更。勝手です」
「怒った?」
「しらない」
「妹に似ています。それで気が済むのならば」
シュディリスはルルドの頬についていた砂を払ってやった。
贈り物を頂戴しても、返すものがない。その理由で、謹んでご辞退を。
ルルドの不機嫌はなおらなかった。
「イク兄さまに云い付けてしまうわ」
「では、こちらもイクファイファ殿に告げ口を。妹君が、ドレスの裾を膝まであげて、
年頃の姫に相応しからぬ格好で、客人の前で水切り遊びをしていたと」
「一度きりではありませんか、あれは、あれは」
「あれは」
「あれは。----貴方へお手本をみせて差し上げたのです」
「兄君に訊かれたら、こう答えるといい。石など投げていません」
「そう、私が投げたのは、貝殻でしたわ」
「嘘はついてない」
「お上手です」
「たくしあげられたドレスよりも、姫の横顔しか見ていなかった。少々、残念」
「そんな戯れでごまかされたりしない。素敵な贈り物ですのに」
空が晴れて、視界が澄んできた。
雨が上がりそうだった。
涼しい風に、巌だなの雫が飛んで水溜りにぱらぱらと落ちた。
ルルドピアスは澄ました顔で礼を述べた。
「散歩にお付き合い下さってありがとうございました、シュディリス様。
身体のために良いからと典医にすすめられて日課にしておりますが、
いつも一緒に散歩をしてくれるイク兄さまは昨夜はよほど遅かったようで、
お昼になっても、まだお休みでしたの」
「乗馬も石投げも、典医のすすめ?」
「あの。それ、そろそろお忘れになって下さい」
「姫をからかっていると愉しいので」
「では、もう何も云いません」
向こうをむいて岩肌を伝う雨に指先を打たせていたルルドピアスは、その濡れた冷たい指先で、
風に乱れていた髪の毛をとかした。解けかけのリボンが指にからまった。
その手を、シュディリスの手が止めた。
ルルドピアスは素直に手をおろした。
兄が妹にする、もっとも優しい仕草で、シュディリスの手がルルドピアスの髪に触れるその間、
彼らはこの世のどのような仲のいい兄妹よりも、兄妹のようにして寄り添い、黙っていた。
ルルドピアス姫の「贈り物」は、その日の夕刻に届けられた。
昨日のうちに、離宮に使いを出したのだという。
何重にも包まれていた。
「縁起でもない」
そう云って、サイビスも、召使たちも、全員逃げるようにして出て行ってしまった。
かつての栄華も跡形もなく、忌むものとなってその名を遺している、若い男。
「こちらから頼むまでもありませんでしたね」
包みを解いてしまうと、グラナンも気を利かせて室を退いた。
宵の星が出ていた。海の底のように、北の空は暮れていた。
独りきりになったシュディリスはそれと対峙した。
何の感慨もなかった。
トレスピアノに去ったリィスリも、もう二度と、これを見ることはないだろう。
もう誰も、この者の声を聴かぬであろう。
生き写しというほどには似ておらず、赤の他人と呼ぶには類似性のある、肖像画というだけだった。
「続く]
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