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[ビスカリアの星]■六.



「かたじけない、ルイ・グレダン殿」
ルイと並んで玄関表に出ながら、カシニ・フラワンは嘆息した。
「せっかく遠路はるばるお越し頂いたところを、
 思いがけないご面倒をおかけした上、頼みごとまで」
「なんの、領主殿」
ルイ・グレダン、フェララ家剣術師範は、カシニ・フラワンの前に
その巨体をゆすって歩き、従者に馬を引き出させた。
国許から連れて来た愛馬の手綱を握り、
「貴人の物見遊山を装ってはいてもあのような隠密行はひと目を引くはず。
 彼らの、そしてそれを追って出た、ご子息らの跡を見つけるのは容易いことです。
 それにこれはこちらから申し出たこと。
 フェララへの帰路でシュディリス殿をお見かけしたら、
 トレスピアノに戻るよう、お伝えいたそう」
「かたじけない。あれは、弟のユスタスまで連れて行ったようだ。
 まったく二人共いつまでも子供で」
「まだ若者です。あのくらい気概と、やんちゃがあるほうが良い。
 フラワン家は良い跡継ぎを持たれた」
「昨日の騒ぎの処理も済まぬのに。
 ジュシュベンダ国境警備隊との現場検分から戻って来てみれば、
 今度はシュディリスとユスタスが出奔しているときては、気の休まる暇もない」
客人の手前、息子たちの所業に親らしく憤りながらカシニ・フラワンは、
「ルイ・グレダン様が御立ちになられる」、と従僕に妻リィスリと娘リリティスを呼ばせた。
そして平素は温厚なるその面を公的なものに改め、出立するルイに云った。
「その件、よしなに」
声を落として囁くカシニ・フラワンに、
「フェララ公には、こうお伝えいたすつもりです」
ルイは請合って頷いた。

「婚姻の打診に伺いましたが、これはフェララ公、ダイヤ様にはお忘れ頂く他ない。
 フラワン家当主カシニ様および、御曹司シュディリス殿におかれては、
 フェララ家の姫を迎えるつもりは、毛頭ないと」
「光栄なるお申し出。
 このフラワン家は古来より聖騎士家と婚姻を重ねてまいったが、
 フェララ家といえば、婿はとっても嫁は国外には出さぬのが慣例のはず。
 また、フェララ公ダイヤ様には、姫君はお一人だけ。
 その姫君をこのトレスピアノの地へ、わが子シュディリスにとは、
 フェララ公ダイヤ様のご意思、ありがたく受け止めました、そのようにお伝え頂きたい」

慇懃にカシニは礼を取った。そして親の顔に戻って、悩ましげに笑った。
 
「シュディリスも、もうじき二十歳。
 しかるべき家柄ならば幼少の内に整うのが当然の縁組を他家との間に
 取り交わすことなく今まで育ててきたものの、
 良き縁があればあのように遊んでおらず、身を固めるべき年頃です。
 しかし、見た目は青年となっても、あのように中身はまるで子供で。
 しっかり者に見えても、何か興味を惹くものがあれば、
 今朝方旅の一団を追って行ったように、跡目を継ぐ立場も責任も忘れ、
 無分別にそちらへと走っていくような子で」
「お気になさらぬよう。
 これは非公式の、我々の間での内密の話でありましたから」
「それにしたところで、シュディリス本人がこの縁談話を聞けば、
 あれは笑い出してお断り申し上げたことでしょう。
 他家から同様の申し出があっても、答えは同じだとお含み下さい。
 あれはまだまだ若輩者なのです」
「カシニ殿におかれては、分かっておられるはず」

なだらかな遠くの丘は涼しげな薄緑の紗のように、午後の日に輝いていた。
荷を積んだ馬や従者たちの様子を横目に眺めながら、ルイは云った。
「特にわしが拝命を受けてこちらに参ったのは、フェララ公より、
 ご子息の人品を見極めよと仰せ付かっていたからです。
 わしとても姫君との縁談はその上で、切り出すが宜しかろうと。
 シュディリス君は申し分なき好青年、フェララ公もまだ幼き姫君も、彼には文句の
 つけようもありますまい。
 しかしわしは、本音のところ、こうして断られて良かったと思っております」
「とは」
「シュディリス君に領内を案内してもらい、論を交わしてその人となりを量り、
 また、稽古で剣を合わせるうちに、
 たとえ由緒あるフェララ家とフラワン家の間に合意が成り立ち、
 婚姻がめでたく相整ったとしても、わし一人は最後まで、
 この結びつきには内心で危ぶみ、反対したでありましょうな。
 諸事万端よろしきに計らうことが出来たとしても、姫が倖せになるとは
 到底思えませんのでな」
「これは率直な」、柔和にカシニ・フラワンは破顔した。
「今後の参考までにその理由をお伺いしても宜しいか、
 ルイ・グレダン、フェララ公ダイヤ様のご信任篤き、フェララ家剣術師範どの。
 愚息がフェララ家の姫に相応しからずという、その理由を」
「父君たる貴方には、よくお分かりのはず」

そこへ、リィスリがやって来た。
「リリティスはどうした」振り返ってカシニは妻に尋ねた。
「娘は具合すぐれず、臥せっております。今朝方より部屋から出て来ません」
慎ましくリィスリは応えた。
「具合が?」
「病人がお見送りに並ぶのは不吉なれば、
 お顔を見てのお別れが叶わぬのは残念ながらも、
 ルイ様に宜しくお伝えしてくれと」
「何をバカな。起こして来なさい。
 昨日危ないところをルイさまにお救い頂いておきながら、そのような無礼、我儘」
「構いませんよ、カシニ殿。お疲れなのでしょう」

鷹揚に、ルイは屋敷の棟を見上げた。
そこからは窺えないが、何処かの部屋であの娘は本当に臥せっているのだろう。
昨夜シュディリスに遅れて戻って来たリリティスは、夢遊病者のように蒼ざめて、
一塊の花びらを、大切な哀願のように胸にか弱く虚ろに抱いて、
ルイにも気がつかずに、階段をゆっくりと上って廊下に消えた。
その淡い金色の髪から落ちた花びらを、ルイは想う。

(わしが若く、容貌に優れておれば。
 わしが如才なく、娘心を歓ばせるような軽やかな機智に富んでおれば。
 リリティス嬢、貴女は知るまいし、知る必要もないことではありますが、
 貴女はわしが若い頃に虚しく重ねて諦めた、夢そのものですぞ。
 トレスピアノを訪れたわしの前に、「初めまして」と貴女が現れて出てきた時、
 わたしのこの心臓は、すっかり忘れていたもので温まる思いがした。
 美しい娘、若い娘というものは、
 その存在だけで、わしのような男であっても、世界にぱあっと明るい華を添え、
 浮かれさせるものではあるが、それでもリリティス嬢、
 勇敢で一途な、危なげなをとめごの盾となることほど、
 騎士がその本懐として夢見るものはない。
 その娘が、若くもない上に醜いこのわしの前に膝をつき、あろうことか友誼を誓ってくれた。
 それだけで、この先いつでも、わしは歓びで満たされるだろう。
 ほんの束の間、建国伝説に出てくるオフィリア・フラワン姫が
 目の前に降臨して下されたような気持ちであったよ。
 『私の盾となる者の、私は剣となるであろう』。
 はやい頃からわしはこの世の愛というものから疎外されていたが、それで良かったのだ。
 諦めることを知っているからこそ年甲斐もなく頭に血を上らせて、付文や告白など、
 見苦しい真似をこの歳で晒すことなく、
 わしごときの為に友情を捧げようとするあの娘の美しい誓言を無傷のまま、
 丁重にお返しすることが出来、
 こうしてささやかな想い出だけを頂戴して、
 穏やかな気持ちで、お別れすることが出来るのだから)
 
独白とは裏腹に、ルイの眼つきには未練がまだ十分にこもっていたが、
それでも健気に口に出してはこう云った。 
「リリティス嬢は十七歳におなりでしたか」
「嫁になど行かぬと、あれもききません」、仕方なさそうに微笑んで、リィスリが答えた。
「その話を口にするだけでも、向こうを向いてしまいますの」
「それはしたり。いっそのこと、フェララからは令嬢への縁談をお届けするべきでしたか」
「お話は昔から降るほどに上がってきておりますし、
 親としても、娘が一番きれいな時に何の苦労も味合わせることなく
 良き方の許に出してやりたく思うのですが、またどうしたことか、
 その年頃の娘ほど、押並べてもっとも頑固で、反抗的で、潔癖ときているのですから。
 送られてくる肖像画など、見向きもしません。
 わたくしの身にも覚えがあることと、つい甘やかしてしまいます」
「どこのどのような御仁の許に嫁がれるのかは知りませぬが、
 ご婚礼には是非、わしも出席したいものです」
ルイはフラワン夫妻に別れを告げた。
「見送りは不要です。カシニ殿」
「せっかくのご滞在が慌しいものとなり、申し訳ない」
「何の。トレスピアノの地を堪能しましたぞ。全てが大変結構でありました。
 森があり山があり、豊かな作物の実る大地がある。
 -------ここはまこと、この世の不可侵領ですな」
ルイは丘陵のまろみに目を細めた。
「いつまでも、この土地だけは、戦乱とは無縁であって欲しいものです」
「では、やはり」
言葉を落とす領主にルイは頷いた。

「何のために婿取りしかせぬフェララ家が、手中の珠と愛しむ一人娘を 
 トレスピアノへと嫁がせようと思い立ったのか。
 先年、レイズン家へ叛旗を翻して敗れ去ったタンジェリン。
 タンジェリンの次はフェララへと、いつなんどき、レイズン家の触手が伸びんとも限らん。
 ここ数年石高が伸びず、またタンジェリンとの戦に兵力を大きく割いたことも手伝って、
 フェララの国力は芳しくないのです。
 そこへレイズン家から、姫の婿がねとして、レイズン家との縁組の申し入れが内々にあった。
 これにはどうやら、分家のミケラン・レイズンの差し金が働いたようです。
 フェララの体内深くに、皇帝を操るレイズン家という名の毒を入れてお家を
 乗っ取られるよりは、先手をうって、
 慣例に背いてもレイズン家の裏手をかき、フェララの姫君をこちらの地へと出そうとした次第。
 もっともそれが叶わぬ場合には、姫がまだ若年であることを理由に、のらくらと
 レイズン家の申し出をはねつけるつもりではあります。
 しかし相次ぐ不穏や懸念には、その裏に、それなりの必然があり申す。
 タンジェリン家とコスモス家が潰えてまだ間もないのに、
 レイズン家はさらなることを起こそうとしておるのだ。風雲は迫っておると見てよいでしょう」
「再びウィスタチヤに戦が起ると」
「遠からぬうちにも」
「ルイ・グレダン殿」

顔を暗く引き締めて、カシニ・フラワンはルイに訊ねた。
シュディリスを、と彼は云った。
「我子シュディリスを、貴殿は、どのように判じられました」
「申し分なき御曹司と」
「主君であられるフェララ公のご意向を承知の上で、
 婚姻にご反対のお気持ちを覚えたという、貴殿のお考えをお聞かせ願いたい」
「では申し上げる」
フェララ家剣術師範、かつてはハイロウリーン騎士団でその腕を鍛えた騎士、
ルイ・グレダンは、しかとそれを述べた。
カシニ・フラワン殿、そしてリィスリ・フラワン・オーガススィ奥方さま、と彼は呼びかけた。
「お二方にも、よくお分かりのはず。
 ご子息シュディリス・フラワンは紛うことなき、「星の騎士」。
 しかも真正なるそれです」
一凪の冷風が、フラワン夫妻を打ったようだった。
鎮痛に眼を伏せる夫の隣で、
リィスリは何かを耐えるようにしっかりと顔を上げていた。
ルイは続けた。

「彼の身の内に猛る青き血は、やがて、彼を平穏から遠く連れ出していくでしょう。
 騎士として生まれ、騎士として死ぬ。
 それを止めることは誰にも出来ぬのです。
 あまたの騎士の中にも、紛い物とそうでなきものがある。
 それは強いか弱いか、
 その生涯が栄誉に縁取られたかそうでないかには、まるで関係なきこと。
 よしんば彼が農夫の子として生まれても、
 その印はその者の上に燦然と熱く輝いておるのです。
 彼のあの清廉とあの誇りの強さ、あの激情とあの恬然は、やがては彼を、
 燃える時の渦の中心へと運んでいくでありましょう。
 彼はそこでこそ、その命を輝かせるであろう。
 気高い星として生き、たとえ武運拙く叩き潰されたとしても、その星の輝きは、
 我ら騎士が夢に描く、まことのものだ。
 その蒼い光を、我ら、どれほど追い求めて、古来より武芸を磨き戦ってきたことか。
 しかしそれは宿る者にしか持ち得ぬ宝石の資質、稀有なるまことである。
 幾らそれを分かったように嘯き、装ったとしても、
 我ら凡百の騎士とは、はっきりと違うのです」
「どこでその異質にお気づかれましたか、ルイ様」
秘密の子としてシュディリスを育てたリィスリが問うた。
「わたくしの子供たちはみな、オーガススィの血を持つ星の騎士として
 優れた能力を有しております。
 どこで、我子シュディリスがただの星騎士ではないと、お分かりになったのです」
「侮られては困りますな、奥方さま」
「お答え下さいませ。どこでそれを」
「このルイ・グレダンは、今はお抱え剣術師範として名誉職に安穏と就いておりますが、
 だからといって風雪の中に見開いてきたこの眼力が曇るものではありませぬ。
 騎士の中の騎士である星の騎士、さらにその頂点に立つ天星なるもの、
 その光は隠しても隠しきれるものではないとだけしか、
 言葉にてはお伝え出来ませぬ」
「リィスリ」、横合いからカシニが妻を支えた。
俯いたリィスリはひっそりと呟いた。
「………わたくしはそれを、聞きたいような、聞きたくないような気持ちで、
 あの子を、シュディリスを育ててきました」
「なに、彼は賢く優しい。いかなることが起ころうと、恥ずかしい振る舞いだけは
 致しますまい。安んじて、信じておあげなさい」
思い遣り深く、ルイはリィスリを励ました。
「騎士として天命を全うするといっても、夭折すると決まったわけではありもうさん。
 長い旅に出たとしても、彼が戻って来るのは
 やはり父母の地である、このトレスピアノであるかも知れないのですから」
「期待は喜ばしいことであるのに、震えます」
「ご長子には、奥方さまのご実家オーガススィの血が濃厚に顕れたのでありましょうな」
シュディリスのまことの素性など何も知らぬルイは、運命の綾に思いを馳せるように、
腰の剣をしみじみと握った。

「リィスリ奥方様の弟君であり、
 養子となってコスモス家を継いだ辺境伯クローバ・コスモス殿も
 すぐれたること近隣では及ぶ者なき騎士だと聞き及んでおりました。
 何百年経ても、その昔、成敗した竜の血を飲んだという聖騎士の血は、
 それが呼び覚まされる時に、時を同じくして、こうして出揃うものなのですな。
 タンジェリンより嫁がれたコスモスの奥方が帝都への召喚を拒み
 天晴れにもご自害なされた後、
 クローバ殿は国を出て失踪なされたというが、騎士は騎士を見抜くもの、
 そして反発し、引きあうもの、
 クローバ殿のことも、シュディリス君のことも、
 星の導きにお任せあるが宜しいかと存じますぞ」


自室に引きこもっていたリリティスは、母の訪れにようやく寝台から身を起こした。
もつれた髪を撫でつけ、衣服を整えて、部屋に母を通した。
「ルイさまは、もうフェララにお帰りになりましたか」
母は庭園から持ってきた花を硝子の器に生けた。
薄紫の柔らかな花びらの重なりは、硝子と水の上に広がって、薄い虹影を作った。
その淡い菫色の虹に照らされている母の横顔を、リリティスは見つめた。
お若い頃、北欧オーガススィ家には名だたる画家が方々からやって来て、
母の姿を画布に競って写したというけれど、よく似ていると云われるわたしよりも、
その頃のお母さまはもっと美しかったに違いない。
滅ぼされたカルタラグン家の第二皇子からも望まれていたと聞くわ。
何故、お母さまは他の騎士家に嫁がずに、トレスピアノに来たのかしら。

「お見送りもせずに。いけないことですよ、リリティス」
「あとで----、あとでフェララへ手紙を出します。
 山賊との闘いで、彼はわたしを守って下さった、そのお礼状を書いて送ります」
「怪我はまだ痛みますか」
「お母さまが塗って下さった薬が効きました」

リィスリは娘を長椅子に腰かけさせて、古い包帯を取り去り、
持って来た薬箱から取り出したもので手当てをした。
「ルイさまがいらっしゃらなかったら、貴女の怪我は
 この程度では済まなかったかも知れませんよ」
「はい」
「騎士に男も女もありませんが、それでも、父上やわたくしのことも少しは考えて、
 無茶をしてはなりません。お父さまは昨夜、何度もリリティスが無事で良かったと
 安堵なされて、ルイさまに繰り返しお礼を申し上げておられました」
「はい、お母さま」
「いつも、返事ばかりが良いのですから。顔に傷でもついたらどうするの。
 嫁入り前の娘が、取り返しのつかないことになりでもしたら」
「ルイさまも、そのように仰いました」
「あの御方が、はるばるフェララからお越しになった理由は知っていますか、リリティス」
「フェララ公の名代で、トレスピアノの地を敬意訪問にいらしたと」
「シュディリスに、お見合いを運んでいらしたの」
「え」
「お相手はフェララ公ダイヤ様の、一人だけいらっしゃる姫君で、御年十三歳になられます」
「お見合い」
「お父さまはお断りになりました。
 たとえ先方が譜代の大国であっても、初代皇妃をはじめ数多の皇妃をジュピタ皇家に
 上げてきたこのフラワン家は、ジュピタ皇家よりも崇敬を頂く古い家柄です。
 初代皇帝をお守り申し上げた伝説の乙女はこのフラワン家より出たるもの。
 オフィリア・フラワンの産土であるトレスピアノの地は、このウィスタチヤの、いわば象徴です。
 さもなくばフェララのような大国からのお申し出を、
 お断りすることなど到底叶わなかったでしょう」
「シリス兄さんは、それを」
「シュディリスは知らないことです。でも貴女には話しておきましょうね。
 これから幾度も貴女は兄のために、このようなことを耐えなければならないのですから」

リリティスは優しく娘の頭を抱え寄せた。
器に漂う紫の花の色は、どこまでも透明に澄み切って、
寄り添う女たちの哀しみを静かに浸していた。
「お母さまは-------」
動揺したままリリティスは母の肩にその白い頬を寄せて、ぼんやりと尋ねた。
母はどうしてカルタラグンの皇子と結ばれなかったのだろう。
シリス兄さんの本当のお父さま、ヒスイ皇子と、お母さまは、恋仲だったのに。
「どうして-----」
「カルタラグン第二皇子翡翠殿下は、今のシュディリスよりも、
 もっと、そうね、明るくて軽薄で、軽口ばかり叩いている、華やかな浮気者でした」
娘の髪を撫でながら、リィスリは懐かしそうな顔をした。
母がもっとも美しい顔をするのは、
若い頃を過ごした宮殿でのことを回想する時だ。
菫色の光の中に、母の想いはすべっていく、舞踏会の優美な影の中へ。
いとおしい音色を不意に一和音、耳にした時のように、心弾む遠い日へ。
ヒスイ。 <
貴方は愕くでしょうね、わたくしにはもうこんなに大きな娘がいますのよ。
夜明けの菫色の空を、そこに浮かぶ残りの月を、皇居を抜け出して
貴方と手を繋いで眺めていたわたくしは、こうしてここに、独りきりです。

(美しい方、御名をおきかせ下さい)
(皇子ともあろうお方が、よもや霜に凍る屋根を伝って御忍びされるなんて)
(貴女に逢いたいが一心で。露珠は凍れる星空ほどに月光に細かく、
 なかなか風情ある道のりだった。雲の淵には白虹が見えた。
 散歩にお誘いに来たのです。リィスリ、さあ手を貸して。窓を超えて。
 屋根の上から眺める夜景のウィスタは、まるで雲の中の城だ。
 寒ければ、わたしが貴女をガチョウのように、この胸に抱いて差し上げようから)
(ガチョウ)
(白鳥の方がいい?)
(どちらでも一緒ですわ。そのようにお笑いになって、失礼だわ、ヒスイ皇子、お帰り下さい)
(貴女を、連れて行くよ)

「強引で稚気のある人だった。いつも優しくて、冗談ばかり。
 でも彼の底にはカルタラグンの気高い血が、華やぐ雪花のように厳しく降り注いでいました。
 リリティス、お母さまがもし後悔していることがあるとすれば、
 それはヒスイ皇子とお別れしたことでも、こうして別の方の許に嫁いだことでもなく、
 彼の最期の時に、どうしてその傍にいて共に戦い、
 死出の旅に彼と共に旅立つことが出来なかったのだろうという、無念です。
 お一人で、あの方を、逝かせてしまった。
 今も見えるような気がする。
 私に侮辱を浴びせた男へ即座に切り口鋭い皮肉を返して笑ってみせた、
 あの大胆不敵な笑顔。眼が離せなかった」
「今でも------いまでも、ヒスイ皇子のことがお好きなの、お母さま」
編み上げた母の髪は、窓からの光に薄く輝き、
昔を語るそんな母の姿は、ぞっとするほど美しくリリティスの眼に映った。
「ヒスイ皇子は死にました」、と母は云った。
「皇子宮になだれ込んできた多勢を前に剣を抜きはなち、
 ルビリア姫を逃がすと、最後まで闘って死にました。もう死んでしまった人のことです」
リリティスは母の胸に顔を埋めた。
母からはいつも、淋しげな花の香りがした。
亡くした人の想い出が、その亡霊の面影が、そうしてそこに、母の胸に香っている。
不安に襲われてリリティスは顔を上げた。
「シリス兄さんは、何処へ行ったの」
母はそれには答えず、ただリリティスの髪を撫でた。
「お母さま。シリス兄さんは何処へ行ったの」
「この世で最も倖せな女とは、どのような女人のことでしょうね、リリティス」
母の声は微かに湿りを帯びて、
浮かぶ端から報われることなく散華していく女の想いを、
器に生けた花の影の上に追っていた。

「もしこの母が、貴女に何かしてしてあげられたとすれば、
 貴女が騎士になることを許したことでしょうか。
 それは、貴女を、倖せから遠ざけたでしょうか。
 貴女の祖父母である、オーガススィのわたくしの両親は、それを怖れて、
 家に生まれる女子を決して騎士にはしませんでした。
 わたくしもそうすれば良かったでしょうか。貴女にこのような想いをさせてしまうとは。
 仔の度はフェララのお姫様とはご縁がありませんでしたが、 
 それでも、いつか貴女の兄は、シュディリス、あの人は、貴女から離れていってしまうのですよ。
 可哀相なリリティス」
 


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ユスタスが火を焚いてもいいのかと訊くと、シュディリスはそれを許した。
空は濃く暮れて、もはや道も森も区別がつかぬほど暗くなっていた。
「あの人たちに僕たちの存在がばれてしまわない?」
ユスタスの問いにシュディリスは、とっくに見つかっている、と答えた。
「大方、こちのことには気が付いていて、
 トレスピアノから寄越されたお目付け役の尾行だと思っているだろう。
 当然の処置として、見て見ぬふりをしているのだよ、あちらは。
 フラワン荘から遠く離れたらそのうち帰るだろうと踏んでね」
「夜間も強行されては堪らないと思っていたけど、
 怪我人を伴っていることもあってか、
 ああして今日のところは野営をするようで助かったよ。
 こうして眺めていると、普通の旅の一行と変わらないな」
「あれなら適当な身分を偽って、何処の関所でも通してもらえるだろう」
「ミケラン・レイズンに追われていても?」
「彼らがミケラン卿に追われているとまだ決まったわけじゃない」

小川から水を汲み、焚き火に小鍋をかけると、
ユスタスは油紙を開いて、持って来た野菜や豆を煮立った鍋に入れた。
遠乗りが出来るような歳になると、彼ら兄弟は何度となく気の向くままに
こうして二人旅を重ねてきたので、野宿をするのも慣れていた。
ユスタスが十五歳になると、兄は弟を伴って、娼館へと連れて行った。
リリティスには秘密だ、と変装した兄は笑って云ったが、
云えるかこんなこと。
心の準備のなかったユスタスは薄着の女たちの間で、その夜、ぶっ倒れそうな思いをした。
シュディリスは年頃になると隣国ジュシュベンダへと留学してしまい、
したがって兄の友人関係はジュシュベンダに限定されて、
弟のユスタスは話に聞くばかりであったが、
どうやらかの国で、兄は悪友たちと相当、このようなことを嗜んで学んだらしかった。
フラワン家の者と知られることこそなかったものの、
もし知れたら、あの厳格な父母のことである、勘当ものだったに違いない。
童貞喪失の感動よりも、脳裏にちらつく父母の叱責の恐れよりも、
兄と姉を案じて明けたその日の朝日は、ひたすら眩しかった。
夜明けの道を帰りながら、シュディリスは「どうだった」と弟にやさしく訊き、
どうもこうもない気分のまま、にこにこしている兄のこの顔は、兄のことを愛しているらしき
姉のリリティスにだけは絶対に見せられないとユスタスはその時思った。
実はその頃、そして今も、ユスタスには好きな娘が領民の子の中にいたのだが、
その子の顔を次に見れるのはいつだろう、と彼女を恋しがりながら、
ユスタスは鍋を匙でかき混ぜた。

「明日はもう領内を出てしまうけど、そうしたらどうするの」
「まだ決めていない」

馬に水と草を与えながら、シュディリスは答えた。
鍋に塩を加えて味を見ながら、ユスタスは匙を片手に、
離れたところに昨夜と同じように立ち並ぶ天幕を胡散臭げに顧みた。
「急いでいると云ってトレスピアノを発ったわりには、
 休憩を多くとった、ずいぶんとゆっくりした足並み。
 人目を避けている様子だったわりには、今度は表街道を堂々と渡っている。
 彼ら、何がしたいんだろう。まるで、目的地へ向かっているというよりは、 
 当てもなく彷徨っているように見えるけど」
「待っているのだと、思う」、馬を繋ぎ終えたシュディリスは木の幹に凭れた。
「誰を。何を」、鍋をかき混ぜてユスタスは訊いた。
「迎えが来るのを」
「それにしちゃ、ずいぶんと無計画な話だね。
 ミケラン・レイズンに邪魔をされて予定が狂ったのかな。
 行程を変更して、ああして街道を鈍行しながら、見つけてもらうのを待ってるってわけ?」 

出来上がった煮込みを碗によそって兄に差出し、
自身も湯気の立つそれに口をつけると、
ユスタスは昼間に考えていた推測を思いつくままにあれこれと並べ立てはじめた。
「ミケラン・レイズン。
 十九年前の政変で、ジュピタ皇家を担ぎ上げ、カルタラグン王朝を滅ぼした男。
 レイズン家の、分家の生まれ。
 幼少の頃よりその才覚は家中抜きん出ており、
 レイズン家の実権はミケランが陰で一手に握っていると云われている。
 カルタラグンを潰した政変の折には二十歳。
 先年のタンジェリン家との内戦にも暗躍し、タンジェリンを殲滅したのみでなく、
 タンジェリンの係累であったコスモス家を乗っ取ることに成功。
 今はミケランの実弟が、旧コスモス領の新支配者となっている。
 ジュピタ皇家の信頼篤く、皇居を我が物顔で闊歩しているわりには、
 称号を受け取らず、決まった要職には就いていない。 
 彼はただミケラン・レイズン卿と呼ばれて、事実上の宰相として皇帝権を行使している。
 何だかひどく、名を捨てて実利を取る、老獪な感じがするお人だね」
「それはあくまでも巷の風評で、本当はどうかは分からない」
「”ミケラン・レイズンに裏切られました”」

ヘタな声真似をして、ユスタスはじっと遠くの天幕を見つめた。
中央に貴人の仮宿を据えて平野に固まる彼らは、
翅を広げた蝶が一つの花に集まったようにここからは見えた。
それぞれの天幕からは橙色の明かりが透けていたが、
すでに闇の帳が下りて、人の顔まではもう判別出来なかった。
「僕にも聞こえた。女の人の声だった」
ユスタスは煮込みの汁を飲み干した。
「ミケラン卿の名が出て来たということは、
 あの輿の中にいる方は、ミケラン・レイズンの命で郷里を出て来たのかな。
 そして裏切られたということは、では彼らを襲った山賊はミケラン卿の手の者で、
 ああして旅の途中であの人たちを葬り去ることが目的だったのだろうか。
 それとも最初から輿の中の人が目的で、その人を誘拐するために、
 ミケランは何かの口実を設けて、旅におびき出したのかも」
「狙いは人ではなく、物かも知れない」
慎重にシュディリスは可能性を上げた。
弟には、母から聞いた、一行に随身する騎士の一人が、カルタラグンの紋を
刻んだ刀を所有していたことは告げてはいなかった。

(騎士の刀身には、星の紋が刻まれていました。
 滅亡したカルタラグン家の紋章である、七星紋が)。

兄の言葉を受けて、ユスタスはお代わりを碗に入れながら、頭を働かせた。
「じゃあ、たとえば彼らは、ジュピタ皇家にとって意味のある宝物の提出とその運搬を
 内密のうちに皇家から命じられた人々で、
 それを運ぶ途中、レイズンによって横取りされかけた、なんてのはどうかな」
「宝物とは、ユスタス」
「レイズン家ミケラン卿は、あそこにいる彼らの有するその宝を狙っている。
 きっと何かすごいお宝なんだよ。ヴィスタチヤ全土がひっくり返って大騒ぎするようなね。
 ミケランは、皇帝の名代を装っておびき出し、
 それを奪うことで、ジュピタ皇家の実権をも手中にしようとしている。
 襲われた彼らが今度は人目のある道を選んで進むのは、レイズンを警戒して、
 皇家からの使者か、迎えを待っているからなのかも。これ、いい線かもね」
「そのような宝がこの世にあるとすればの話だ」
「きっとそれは、
 皇帝の神聖を裏打ちするか、もしくは反故にするような、ものすごい品なんじゃないかな。
 それこそ初代皇帝が竜退治に使った聖剣とか、王冠とか。
 それとももっと夢なく、即物的に、金銭に代わる莫大な値打ちのものか。
 いにしえの皇帝の隠し財産や、
 滅ぼされたカルタラグンやタンジェリンの、財宝のありかを印した地図とか」

話しているうちにわくわくしてきたと見えて、夕刻まで退屈な道行をぼやいていた
ユスタスは勢い、元気になってきた。
ジュピタ皇家が欲し、レイズン家に狙われているらしき、その、『ものすごい品』を
思いつくままに彼は挙げた。
竜の骨、聖七騎士が血判状の代わりにその上に血を垂らしたという聖石、
初代皇妃オフィリア・フラワンの聖衣の切れ端、
竜を眠らせるためにサザンカ家の騎士が吹いたという笛、
竜の血を回しのみした時に使った聖杯、
夫につき従う途中で迷信により海中に身を躍らせたオーガススィの妻の遺した首飾り、
出逢いがしらに終生の敵と見做し、三日三晩闘った後は、終生の友と変わった
ハイロウリーンとジュシュベンダ騎士の、決闘で使われてその時折れた剣、
赤毛の騎士タンジェリンのその見事なる髪の毛ひとふさ、
レイズンが仙女のなぞなぞに百問答えて湖底から拾い上げた銀の斧、
そして竜の牙から打ち鍛えたという、カルタラグンの焔の剣。
「どうかな、シリス兄さん」
「聖遺物だらけだ」
とうとう、シュディリスは笑い出してしまった。
「それだけ揃えば、ジュピタの御世は磐石だろう。
 もしお前が推測するとおり、
 あの御一行が本当にそのような大事の品を抱えた旅路にあるとしても、
 いっそ捏造した方が、ミケラン卿も手間が要らないだろうに。
 行き倒れの死者から骨を抜き、それを伝説の竜の骨だと偽ったところで、
 誰も気がつかずに有難がって拝むだろう。
 少なくともわたしはその手の品にはあまり魅力も感じないし、敬意を払う気もしない。
 たとえそれが本物だとしても、それはかつての彼らの手にあってこそ、
 彼らの命と共に意味を持ち、役割を果たしたのであり、
 その抜け殻を後生大事に陳列し、過ぎし昔や逸話やその真偽に思いを馳せるほど、
 わたしは詩人でも学術的でもないからね。
 使えるものならば嬉しく頂戴するにしろ、目の前でこれが誰それのものだと
 突き出されたところで、もはやその品はこの世にはおられない偉人とは懸絶している上に、
 現在のその持ち主の真価とは何ら係わりのないことだから」
「彼らは、どこの人たちなんだろう」
そのように穿ったものの考え方をする兄は
十分に探求者の素質があると思いながら、
最初の疑問に戻ってユスタスは果実をかじった。

「旅の方々の構成は熟練の騎士、従者と女官、そして女輿の中に鎮座されている、
 さるやんごとなき御方。おそらく女人。
 結束が固いというよりは何かを死守している模様。
 つまり、女輿の中にいる御方、或いは「物」は、人の心にそれだけの
 献身を払わせる力、或いは価値があるものだとういこと。うーん、早くはっきりさせたい。
 輿の中にいらっしゃる御方の顔も見てみたいよね」
「そのことだが、少し気になっていることがある」、焚き火を見つめてシュディリスが云った。
「どんなこと」
小川で鍋や碗をゆすいで戻って来たユスタスは、荷袋を広げて、
野宿の支度を始めた。
フラワン家の三きょうだい、ユスタス、リリティス、あの場にいた星の騎士だけに、
彼女のあの声は届いた。
だから、もしかしたら。
「----------あ、まさか」
ユスタスは飛び上がった。
その拍子に大きく焚き火の火が揺らいだ。
焔の、その影と明かりが、何かを思案しているシュディリスの顔の上を流れ落ちた。
夜の火と風の中、彼の銀色の髪とその青い眼は冷たく冴えて、月がその上にあった。
ユスタスはそんな兄の前に立ち尽くし、呆然と口を開いた。
シュディリスはかぶる火の粉を払いもせず、一度だけ眼を閉じた。
そして眼を開くと、もしかしたら思ったまでだよ、と愕いて絶句している弟に、
やわらかく、苦笑した。



[続く]




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