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[ビスカリアの星]■六十.



見晴らしのよい物見塔の胸壁に並んだ城の女たちは、
身を乗り出し、郊外の一点に眼を凝らしていた。
山脈を背景に、林から飛び立つものがあり、それを追って斜めに上がるものがある。
青空を飛翔する影に、下方からもう一方の影が追いつき、
一瞬、空中に静止したかに見えて、襲われた方が力を失い、石のように落下する。
それを見ると、女たちは手を叩いて歓声を上げた。
「ご覧になって。またあのように」
「よく躾けられた鷹ですこと」
貴女も侍女も一緒になっての狩り見物である。
「近くで見ていると残酷ですが、ここからなら、鷹狩りも愉しめますわね」
「さあさ、姫さまがた、こちらの方がよくご覧になれますわ」
年頃の近い三人の姫は、侍女が招いた隅に移動して、そろって野を眺めた。
「ほら、あれに、イクファイファ様と、シュディリス様のお姿が見えましてよ」
三人の姫は、小トスカイオとスイレンの間に生まれた三人の娘のうちの、年長の二人と、
それにルルドピアスである。
野生を放ったままにしてある禁野は、明るい陽に照らされて、光の島のように視界に広がっていた。
その草波の間を大勢の貴人が馬をかり、鷹匠を引き連れて移動してゆく。
「どこ」
「ねえ、どれがイクファイファお兄さまと、シュディリス様よ」
「見つけた。あそこ、ほら。先頭に」
「スイレンお母さま、イクファイファ様が、シュディリス様に鷹をお渡しだわ」
スイレンの娘たちは、ハイロウリーンとの縁談が持ち上がってからこのかた、
母スイレンの言いつけどおり、衣装や髪型に特に気を配って、
なおさら淑女らしく、仰々しく装っていた。
つま先立ちして野に眼を凝らし、明るい声を上げている娘たちのこの日の装いは、
郊外の遠足には少々不似合いなほどに華美であり、
彼女たちが動き回るたびに、あしらわれた宝石が目障りなほどに、風の中にきらきらと輝いた。
縁談に向けて気合の入ったスイレンが、娘たちにもっとも似合うものをと、よく気をつけて、
都から最高のものを取り寄せて揃えさせたそれらは、
スイレンがルルドピアス姫の手持ちのものを意識して、ルルドの持ち物と似て非なるあたりで、
ことさらにその差をつけるものばかりであった。
それでも、スイレンの努力むなしく、衣装の差はかえって少女たちの本質の差をはっきりさせる、
残酷な結果にしかなっていなかった。
スイレンの娘たちとて、まだ乳母の手にある幼い三番目はともかくも、上の二人については、
父を小トスカイオに持つ聖騎士家に生まれた者ならではの気品に満ちて、
その精神性が顕れた姿かたちについても、並の少女たちと比べて決して見劣りするものでは
なかったのであるが、それだけにいっそう、
ルルドピアス姫の何ともいえない物腰やわらかな感じ、控えめな表情や、清んだ声、
ふとした折の快活な笑顔や、時折みせる神秘性、朝露に輝く花々のような、或る種の瑞々しさは、
明らかな差異となって、見る者に感じられていた。
凝った髪型に結い上げて飾り立てた少女たちの中にあっても、ルルドピアス姫の周りだけは、
そこだけ何やら柔らかな色か、静かな音楽に包まれているような、調和的なものがあり、
それは場所が宮廷であろうと街中であろうと、この姫の最大の美質として、
人々の心に深く残るものであった。
薄い羽根に包まれているような、特別なもの、それこそは、他の少女たちと一線を画する、
ルルドピアス固有の魅力であった。
それでも年頃の娘にとって、縁談話というのは何においても勝る
人生の一大行事であり、祝いごとである。
それに先んじたスイレンの娘たちは、聖騎士家との縁談話にすっかり舞い上がるままに、
容姿において勝てた例のないルルドピアスに、これでようやく白星を収めたような気分で、
このところ母スイレンともども、少々浮かれすぎるほどに、ご機嫌なのであった。
かといって、年頃の近いこの三人の少女たちは、仲が悪いわけでもなかった。
昔から、母のスイレンが躍起になってルルドピアスと娘たちの差をつけようとすればするほど、
かえって賢い娘たちのほうは、彼女たちなりの正義心から、
当面の反抗相手である大人たち、
つまり、母親の思惑の裏をかいてやれという心理がはたらくものか、
母親がどうしてそんな意地悪をするのか、よく見えるその分だけ、
あのような女とは同化したくないとばかりに、離宮に篭りきりのルルドがたまに城に戻ってくれば、
母親の前でべったりとルルドピアスに懐いてみせて、ルルドを母から庇い、
「私たちの大好きなルルドピアス」に、あれやこれやと少女たちにしか通用しない
他愛のない内緒話を聞かせるのに、余念がないのであった。
無理もないことながら目下のところ、
その話題の焦点は、
姉妹の縁談候補であるところのハイロウリーン家の三人の王子たち、
五男インカタビア、六男エクテマス、七男ワリシダラムの、誰が、それぞれどのような若者なのか、
誰を夫にするのが一番いいか、その話ばかりに限られてしまっていたのだが、
ルルドピアスの方は少し寂しく想いはしても、見知らぬ国の見知らぬ話を聴くようにして、
にこやかに姉妹の縁談話のいい聞き役となっており、
そうなればスイレンとしては、少しは悔しがれとばかりに、
よりいっそうルルドピアスのその余裕や、栄達への慾のなさが気に喰わなげに、
どこかにこの娘の弱みはないか、どこかに領主トスカイオに告げ口出来るような落ち度はないか、
どうにかしてこの娘の髪を掴んで引きずり落とし、その若く美しい姿を突き飛ばして
踏みにじってやれはせぬかと、ひたすらルルドピアスの動向を、じっと見つめ続けているのであった。
スイレンは、自分の娘たちが何故そのように、自分よりもルルドピアスに心を寄せているのか、
まったく理解できなかった。そして考えた末に、結論としてこう決めていた。

『ルルドピアスが、わたくしの悪口を娘たちにうまいこと吹き込んでいるからに違いない』。

-----心あさましき愚か者ほど、自分のものさしで人を測るものである。
良くも悪くも、スイレンは、まこと凡庸にして、狭い視野の、その中でぐるぐると回る、
真価よりもずっと自分を過大評価している、心の狭い普通の女人であった。
それだけに、スイレンはルルドピアスの身辺にも常に気を配り、ルルドに新しい侍女がついた、
新しい友人が出来たと聞けば、すっ飛んで行って、
彼女たちを残らず己が手下につけてやらんと、さも善良そうな顔をしながら、
ルルドピアスへの偏見をあらかじめ根回ししておくことを、怠ってはいなかった。
そんな時のスイレンは、本人が自分の姿を何倍にもして売り込みたいと願っているとおりの、
さり気ない上から目線を得意とした、親切の権化のような、思慮深そうな女であった。
曰く、わたくしがこれほどに気を遣ってあげているのに、
あの姫は気位が高すぎるのか、まるで懐いてくれませんの、
あの姫のためを想って、随分と陰日なたにわたってわたくしはこれほどに気を遣い、
親身に力になってきてあげたのに、何か誤解でもあるのか、ルルドピアスの気難しい、
ひねくれた心にはそれが通じないようですの、せめてあなた達だけでも、
神経質なルルドピアスへの橋渡しをして、姫のよき友人となり、姫の歪んだ性格と、あの怠惰を矯正させ、
あの子の間違いをただすのに、いろいろ協力して下さいね。
もちろん、中傷で高みに立った優越感からも、よりいっそうルルドの心象が悪くなるようにも、
何よりも保身のためにも、スイレンは最後にこう付け加えることも忘れてはいなかった。
ルルドピアスが怒るので、いまのお話は内密のことにして下さいませ。
そんなわけで、物見の塔におけるスイレンのなりふりも、其処に集まっている女たちの
好奇の眼を重々に背中に意識した、これみよがしの偽善に満ち満ちた、
自分がいかに親切で、同情深く、よく出来た人間なのかを津々浦々にまで知らしめずにはおられぬ、
押し付けがましい、いかにもなものであった。
そして縁談間近な姉妹たち、後にそれぞれ賢母として名を残すことになる
小トスカイオとスイレンの娘たちは、母親への愛情とはまた別の、手厳しい、辛らつな眼で、
そんな母を冷ややかに見ていた。
「ルルドピアス姫、寒いのではなくて」
「いいえ、平気です。ありがとう、スイレン様」
「神経質に、また倒れたりされてはいけませんわ。過敏な方なのですから、お大事になさらないと」
「見て、ルルド、シュディリス様が狩りをなさるわ」
「あなた達、ルルドにうるさくしないのですよ。ルルドピアス姫は、お節介や、
 干渉されることが、大のお嫌いなのですからね」
「お母さまのその、上からのものの云い方。まるでルルドが悪い子みたいに聞こえてよ」
「そうよ。ご親切がわざとらしいわ。干渉しないふりをした、それこそ要らぬ干渉だわ。
 ご自分のための美談を売り込み、小細工でもってルルドを貶めたいのであれば、そう云えばよろしいのに」
「お母さまのやることは、お母さまがご自分の為に騒ぎ立ててやることばかりで、
 本物のやさしい心や思い遣り深い気持ちとはほど遠い、ただの自己顕示欲に過ぎぬ、自分本位のものだわ。
 それが証拠に、ルルドピアスにとっては何ひとつ、いいことになっていないではありませんか。
 あらかじめ、自分の為のあらすじを書いて、それに乗せて人を操ろうとするなんて、愚かだわ」
「まあ、何ですって」
「ルルド、いいから後で、昨日のシュディリス様とのお話を聴かせて頂戴ね」
「羨ましいわ。お二人きりで海に散歩に行かれたのよね。
 雨に濡れて戻ってこられたところを、ちょうどお見かけしてよ」
ルルドピアスはあいまいに微笑んだ。
波の音。雨の音。
髪に手をやった。
ほどけたリボンを結んでくれた。
肖像画とは違う、優しい人。
そして、肖像画のあの人よりも、イク兄さまよりも、心の遠い人。
誰にも内緒にしておこう。
もう二度とないほどに、ほんの少しだけ、髪が触れ合うほどに近くにいたことを、
二人で波打ち際に出て小石を投げ、水切り遊びをしたことを、
これからもずっと、私は、想い出すことになるのだから。
想いを胸におさめ、昏い眼をしたルルドピアスの様子に、誰も気がつかなかった。
ルルドピアスは姉妹にそっと頼んだ。
「レーレローザ、ブルーティア、あとで、お話があるの。お二人に、力を貸して欲しいの」
「ええ、いいわよ」
姉妹はほがらかに頷き、そしてまた野に眼を向けた。
「シュディリス様は、鷹は初めてお持ちになるのかしら」
「うふふ。そのようよ。どうやら、鷹司にいろいろとお尋ねのようだわ」
「あれは猛禽なのよ。お怪我をされなければよろしいけれど」
「姫さまがた、そのように身を乗り出されては、危のうございます」

そんな女たちの声など聴こえるはずもない。
シュディリスは、腕に乗った鷹の頭を指先で撫でていた。
イクファイファ王子は小トスカイオの許を離れてシュディリス近寄ると、声をかけた。
「シュディリス。鷹は、いいだろう」
「尾の先まで、武器のようだ」
素直に感心して、シュディリスは頷き返した。
専用の手袋をはめていても、鷹の爪が手首に喰い込む。
腕から肩へと飛び移る、その猛々しさ、重量の重さ、舞い上がらんとする力強さは、
飼い慣らされ、餌づけされてもなおも失われぬ、この鳥の力そのものだった。
鳥類ゆえに無表情なのがいっそ恐ろしいその目玉も、とがったくちばしも、
釣爪から予断なく伝わってくるその攻撃性も、闘うために生まれたものの持つ、強さと尊厳に満ちていた。
シュディリスが腕を伸ばすと、鷹司が進み出て、鷹の頭から頭巾を取り払った。
鷹が厚い翼を広げた。
投げ上げた手から離れた鷹は、空に狼煙の火玉のようにかけあがり、
林に放った猟犬に追い立てられた獲物の、上昇する速度の遅いところを、横合いから爪で捕らえた。
獲物が鳴声を放ち、その羽根が散る。随行の供人たちが手を叩く。
イクファイファとシュディリスは落下地点に馬を走らせた。
帆翔し、闘争を終えた鷹は、屠った獲物のからだの上に直立し、翼を休めていた。
一国一城の主のごとく、誇らしく、踏みにじった命の上に轟然と構えて、
静かにその勝利を踏みしめ、知性が宿っているかのような、その目玉を正面に向けていた。
餌を差し出すと、ようやくそこから離れ、悠々と鷹司の許に戻り、もはや斃した獲物には見向きもしない。
これは、狩りではない。
戦見物である。
狩りをする鷹の姿を観賞し、空中を舞う鷹の一騎打ちに、自身の闘争心を重ねて胸を熱くする、
目の前で繰り広げられる野生の闘いは、血生臭く、また勝者が力強く優美であるだけに、
狩りに参加する者たちの心にも、言い知れぬ高揚を生むのだった。

「鷹狩りがこれほど面白いものだとは」

シュディリスは率直な感想でその日のお膳立てをした小トスカイオをよろこばせると、
手なづけた鷹を鷹司の持つ籠に戻した。
合図の笛が吹かれて、四方に散っていた人々が集まってくる。
空と地の覇権を主張するのか、猟犬の鳴き声と、鷹の高鳴が盛んに交じり合い、係りの者の手で
双方に引き分けられていった。
「休憩しよう」
イクファイファは天幕にシュディリスを誘った。
「どうだった。感想は」
「興味深かった」
「いや。鷹狩りではなく、妹の贈り物の件」
シュディリスの顔を覗き込んだイクファイファの、その眼が笑っている。
かの御仁とご対面した心境はいかに。
「似ているので、愕いただろう。あの絵は、リィスリ様がトレスピアノに嫁ぐ前に、離宮に納めたものだ。
 その後、政変が起こって、肖像画は不吉なものとして宝物庫に隠された。
 ある日、まだ幼い頃のルルドピアスがその扉の前に立ち、泣きじゃくりながらこう求めた。
 『ここから出してあげて。あの人には、暗いところは似合わない。』
 お付の者たちが、これかあれかと宝物庫から取り出した品々を見せるのだが、ルルドは首を振る。
 肖像画の存在は限られた者しか知らず、
 ルルドが生まれる前にはすでに宝物庫の奥で埃をかぶっていたから、誰も、それが何か分からなかった。
 『出してあげて。これでは、お可哀相。』
 ルルドは自分から蔵の中に入ると、かの方の肖像画を見つけ出して指差した。
 大きな彫像の裏に、何重にも包まれて、木箱の中に納められていたというのにね」
「ルルドピアス姫は、ちょっと感傷的すぎるようだ」
口で指先を引っ張り、餌掛けを脱ぎ取ると、シュディリスは鷹の爪がつかんでいた手首をこすった。
血の味がした。
死んだ人間は何も感じない。
互いに顔も知らぬまま、生き別れた男だ。その男が、絵の中から語りかけることもない。
イクファイファは声を低めて、もどかしげに絵の感想を促した。
「他でもない、君の母上さまの元恋人さまじゃないか。どうだった」
「肖像画は、姫にお返しした」
「御曹司」
「どうと云われても」
馬を進めて、シュディリスはイクファイファの注視からのがれた。イクファイファが追いすがり、
「教えてくれたら、その代わりに、いいことを教えて差し上げようと思っているんだが」
昨日のルルドピアスと同じようなことをしつこく云い出す。
シュディリスは適当なところを教えた。
母が、あの絵姿の君と恋仲であったことは、何となく納得がいった。
昔日はさぞかしお似合いのお二人であっただろう。
「似てるか否かについては、客観的に検分していたグラナンに訊いてもらいたい。
 これが討たれて若死にした皇子かという他は、こちらには特に想うこともなかった」
「フラワン家はカルタラグンとも血を重ねてきたお家柄だ。
 だから他人のそら似よりは、近しい特徴が出てもおかしくないのだろうな」
「それならそれで結構。どちらにせよ、無関係の昔の人だ」
野の外れに設えられた天幕に入ると、用意された軽食を早速つまみながら、
やがて、イクファイファは本題を切り出した。

「人払いをしたのは他でもない、実は、そのリィスリ様から、手紙が届いたのだ」

衝立の向こうで上着を着替えていたシュディリスは、振り向かず、「それで?」と促した。
「君が知っているかどうかは知らないが、リィスリ様は、現在、レイズンにおられる」
「母が、レイズンに」
「ヴィスタル・ヒスイ党に招かれたらしい。
 彼らの根城であるところの、本家にご滞在ということらしいのだが、手紙はそこから届けられた」
背を向けたまま、シュディリスは襟元の紐を結んだ。
ナナセラで別れた母が、ミケラン卿不在の、レイズン領にいる。
「それで」
「途中の成り行きがよく分からないのだが、リィスリ様はまず、フェララのルイ殿を単身で訪ねられ、
 そこからお二人でナナセラに渡られて、そのままレイズンにお入りになられたらしい。
 といっても、お一人ではなく、
 フェララの剣術師範代ルイ・グレダン殿がリィスリ様の従騎士として供について、
 現在もそのまま、リィスリ様に付き添っておられるそうだ」
衣装を整えたシュディリスは、折りたたみ式の卓をはさんで、イクファイファの対面に腰掛けた。
「ルイ・グレダン殿が」
「うん」
「ルイ殿は先日、トレスピアノにご滞在であった」
「あ、そうなのか。何の用で」
「父母は黙っていたが、おそらくはフェララのダイヤ公のご息女との、縁談のことだろう」
「どこもかしこも縁談話だな。まあ、それはどうでもいいよ。とにかく、ルイ殿は、国許フェララに対して、
 フラワン家の奥方の供をしてレイズンに向かうと、そう言い残したらしい」
母がルイと共に、自分の意志でレイズンに向かったとすれば、その理由は一つである。
リリティスを助け出す為に、対ミケラン勢力であるヴィスタル=ヒスイ党の力を借りようとしたのに違いない。
「イクファイファ王子」
「なんだい」
「その報を、どこから」
「オーガススィにも、諜報網くらいある」
シュディリスの疑いの視線に負けて、イクファイファは前髪をかきあげ、白状した。
「第一報は、帝国皇太子ソラムダリヤ殿下からだ」
「ソラムダリヤ皇太子」
「殿下とはもったいなくも学友のひとりとして、親しく友人付き合いをさせていただいているのだ。
 つまり、父上や小トスカイオ兄上とはまた別の情報源や、強力な人脈が僕にもあるってことさ。
 愕かないのだな、シュディリス」
イクファイファは頬杖をついて、云いにくそうに、しかし決然としてシュディリスに伝えた。
そんなにも平静でいるところをみると、君、ご家族がいまどうなっているかまったく知らないのか、
それとも全てを承知の上で、オーガススィを頼ろうとしたのだろう。
シュディリスは先を促した。
母からの手紙には、何と。
「レイズン本家から母がそのような手紙を書いたとすれば、
 オーガススィの動向如何で、トレスピアノ領主夫人である母の立場も微妙なものになる。
 父の名代として発言するならば、母が何を求めたのであれ、
 貴国はそれを拒絶し、そして、母をトレスピアノに送り届けてくれるよう、
 トスカイオ様の名において、レイズンに勧告してはいただけないだろうか」
「シュディリス。書文からくみ取れる限り、ご母堂はレイズンにおいてご健勝であられる。
 そして、君とグラナン・バラスの安全は、誓って僕が保障する」
「イクファイファ」
「聖騎士国オーガススィは、当国、当代領主トスカイオ・クロス・オーガススィの御妹であられる
 リィスリ・フラワン・オーガススィ様の切なる要望にお応えし、
 フラワン家の姫君の不当なる拘束を続けていると思われるミケラン・レイズン卿の許へ
 使者を差し向け、聖騎士家の権限において、リィスリ様が訴えるところの、リリティス姫の捜索と、
 事実確認の代行を行うつもりだ。
 それに伴い、シュディリス・フラワン、君の安全を考慮し、
 事態が明らかになるまでの間、一時的に、御身を当家に拘留させてもらいます」
「拘留」
どちらが先だったか分からない。
二人の若者は卓を挟んで、立ち上がっていた。
「フラワン家の嫡子であるわたしに対して、いち聖騎士家にしか過ぎぬオーガススィが、慮外をはたらくと」
イクファイファがぎょっとしたことに、シュディリスの青い眸は凍結した太陽のように
ひたとイクファイファに注がれて、その沈黙の憤りのほどは、先刻の空翔る鷹に似て、
今にも眼前のものに飛び掛らんと、その手にはいつの間にか剣までもが握られているのであった。
二人の青年は互いを牽制しながら、卓の周りを移動した。
「待ってくれ。こちらの云い方が悪かった」
「王子。知らぬとは云わせぬ」
「いや、知ってる、知ってる」
「家名の格の違いを知らぬというのであれば、トスカイオ伯父上ならばそれをよくご存知のはず。
 身分を表沙汰には出来なかった旅の間はともかくも、貴国へはフラワン家の者として正面から入り、
 またオーガススィも公式に、それを認めたるはず」
「そのとおりだ」
「妹リリティスが、何者かの許に囚われているとあらば、その探索において、
 フラワン家の男子であり、リリティスの兄であるわたしが率先して母の求めに応じ、
 その役に発たずして、何人がそれに代わるのか」
「まあ、普通はそれが妥当だな」
「貴兄は、リリティスが拘束中であると云われた」
「うん」
「その段において、わが身を拘留とはいかに」
「すまない。言葉が悪かった」
本気ではないとは分かるものの、理づめのシュディリスのこの剣幕は予想外で、
身の危険を覚えたイクファイファは天幕の入り口にまでとび退いた。
ご存知のように、シュディリスがかような過敏反応をみせるのには、過日、
旧カルタラグン領において、エチパセ・パヴェ・レイズンの姦計にはまり、
情けなくもナナセラへ送還されるという過去の出来事が背景になっているためであり、
イクファイファにとってはこれは半ばとばっちりであったのだが、
そのくだりの詳細については、このオーガススィの王子が知る由もない。
シュディリスは言葉を継ぎ、語気を強めた。
「ヴィスタチヤ帝国に掲げられたる法において、
 フラワン家のわたしを侮辱し、罪人扱いするおつもりか、イクファイファ」
天幕の上部に開かれた明かり採りから、シュディリスの手に持つ剣の上に、日差しが落ちた。
ここにきて、再び足止めなどされては堪るものではない。
イクファイファを片腕で退かさんばかりにして、シュディリスは詰め寄った。
「それならば、それなりの覚悟がおありのことと思うが、いかに」
「ただいまの発言、左様に赦しがたしとあらば、どうぞ斬ってくれ」
イクファイファはシュディリスに跳びついて、かたちばかり、項垂れた。
見かけに騙されて、彼を「白馬の王子さま」などと呼んだ奴こそ、おめでたい。
相手から漂う怒りの迫力は、眉間に錐か何かを打ち込まれるような気がするほどであった。
「貴方がそのように、言葉の綾にまで厳しいとは知らなかった。深くお詫び申し上げる」
最後まで言い終えぬうちに、斬られそうだ。
しかしながら、顔を上げたイクファイファは、剣柄を握るシュディリスの手に手を重ねて抑えたまま、
オーガススィ家に生まれた男の鉄の意志を浮かべていた。
相手の眼を離さぬまま、イクファイファは云い聞かせた。
致し方のないことなのだ、シュディリス。
君を保護せよとのお達しを受けた。
これは、御上からの命なのだ。
ヴィスタチヤ帝国皇太子ソラムダリヤ殿下が、それをお望みである。


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皇帝および、ソラムダリヤ皇太子の名を掲げられた際に、
それにびくとも動じぬ者がいるとすれば、その者は、ここにいた。
「それが、なにか」
というのが、シュディリスの応えであった。
傲然と顔を上げ、彼は片手でイクファイファの手を振り払った。
名門中の名門、フラワン家の、その嫡子として育った彼にとって、
ジュピタ皇家はフラワン家と共に古い歴史を誇る、そして、あちらは事実上、
代々の帝国統治家であるというほどの名の重みしかありはしなかった。
初代皇妃オフィリア・フラワンの存在なくば、ジュピタ皇家もありえず、
またヴィスタチヤ帝国そのものが成立しなかったのであるから、
代々継承されてきた選民意識、ジュピタよりもこちらが格上であるという潜在的な彼らの誇りは、
ジュピタがその地位を認めるとおりである。
さらには、シュディリス・カルタラグン・ヴィスタビアにとっては、
ジュピタ、それこそは実父を殺めた家の名であり、現皇帝ゾウゲネスこそは、
ミケラン・レイズンと共謀してカルタラグンを廃都と変え、
カルタラグン侵攻の折にはその途上にあったカリアの故郷エスピトラルを蹂躙してまでして、
血塗れた皇帝の座についた、悪の片割れである。
イクファイファを見据えるシュディリスの顔つきは、再びの憤りで、いよいよ厳しかった。
フラワン家、カルタラグン家、どちらの名を名乗ろうとも、何を畏れる必要があろうか。
世が世ならば、シュディリスこそが、ソラムダリヤの地位にいたやもしれぬ皇子である。
そのようなものに対しては何ら執着も未練もないが、
その自分に対して、誰が、この身に、何をするとほざくのか。
皇太子ソラムダリヤ・ステル・ジュピタ。
先日、ナナセラの城砦において、ルイから聴かされた思いがけないその名をかみ締め、
シュディリスの口端は引きつった。
どうせ、たいした男ではあるまい。
経緯は知らぬが、その皇子、何を思ってかリリティスをトレスピアノではなくフェララに送り届け、
そのくせリリティスを臣下ミケラン卿に引き渡すことをむざむざと許し、ルイと共にそれを見ていた、
男の風上にもおけぬ卑怯者である。
その出しゃばりの腰抜けが、女ひとりも護れぬ軟弱者が、何用あって、
今度は自分を拘束せんとするのか。
次代皇帝の座を確約された唯一の後継者にして、十重二十重に手厚く養育されてきたであろう
その甘ったれた皇子が、お飾りの人形の分限をも弁えず、いったい何の好奇心で、愚かにも、
これ以上こちらのやることに皇居から首を突っ込み、しゃしゃり出てこようというのか。
(無能な上に、無作法者めが)
かりにも帝国皇太子に向かって、ここまで暴言を吐ける男も、この世に二人とはおるまい。
が、そのくらい、シュディリスにとってその名は、
ルイから聴かされた話から組み立てた、あながちはずれでもない想像からの嫉妬も手伝って、
もはやミケラン卿に匹敵するほどに、不愉快なものであったのだ。
(皇子がもしもリリティスに手を出したのであれば、ソラムダリヤ、ただではおかぬ)
母リィスリのことはよい。
何を思って母がレイズンに向かったのかは知らぬし、その件について考えるだけのゆとりもないが、
こうしてオーガススィに書簡を出すだけの自由があり、そしてフェララ側も認可の上でルイ・グレダンが
母に随行しているのであれば、その身はひとまず、レイズンとフェララ、
そしてそのことを知る、オーガススィの三国に護られているも同然である。
リリティスの身を心配するあまりに、実兄であるオーガススィ領主の助力を請うたことは感心せぬまでも、
そこまで追い詰められたその心情は想像するだにいたわしく、それで母の気が済むのであればと、
大目に思われもする。
だが、こと、この身に関しては話がまったく別である。
リリティスをミケランに譲り渡した張本人である男に、
それがたとえ皇太子であろうとも、唯々諾々と従う遠慮など、どこに持ち合わせがあろうか。
また、オーガススィ家がこの身に対してさような無体を本気で強いる気なのであれば、
それは、リリティスをかどわかしたミケラン卿と同じ蛮行、フラワン家への挑戦、
無礼千万な仕打ちでなくて何であろう。
「オーガススィは、頼むに足りぬこと、よく分かりました」
イクファイファに向けて、ようやくしぼり出したシュディリスの声は、
真上から冷水を浴びせるような、冷淡なものであった。
グラナンを城においてきたのが悔やまれるが、どうとでもなるだろう。
狩りは禁野でおこなわれるために、グラナンは、次官補佐サイビスと共に、小宮殿に残っているのである。
もはや一刻もオーガススィにはいられぬ気持ちで、シュディリスは云い放った。

「皇太子殿下のそのご命令には、不服従でお応えする。
 せっかくの鷹狩りなれど、これにて切り上げ、
 これ以上ご迷惑をおかけせぬよう、グラナン・バラスともども、早々に貴国を出て行きます。
 本日、この午後にでも。すぐに」
「待ってくれ。シュディリス、短気をおこさないでくれたまえ」
「当人不在とあらば、保護すべき相手もおらぬはず。
 ソラムダリヤ皇太子殿下のお心遣い、無下にするのは心苦しきことなれど、
 わけも分からぬまま、さような命に従うつもりも、遊んでいる暇も、こちらにはない」
「理由なら、ある」

両腕を広げて、イクファイファは天幕の入り口に立ちふさがった。
人を呼べばよいものを、騒ぎにするつもりはないらしく、
その意を汲めという眼をして、シュディリスの前に踏ん張っている。
ふと、シュディリスは既視感にとらわれた。
思う侭、信じるまま、心に従って生きようと、それだけを望むのに、
その他には何もいらないと願うのに、
そのたびに、クローバしかり、ルイしかり、眼前のイクファイファしかり、人をひどく愕かせ、
グラナンにも、パトロベリにも、いつもこうして必死に制止されている。
シュディリスがその気になって剣をふるえば、上位騎士、高位騎士でも呼び込まぬ限り、
彼を止めることは容易ではないのである。
ましてやイクファイファ一人など、赤子の手をひねるよりも簡単に斃せるであろう。
腰の剣は飾りではない。
それを知りつつ、イクファイファは対峙し、そうやって構えているのである。
それがもどかしいような、ありがたような、滑稽なようなで、いったい自分は、何事かのために、
こうまで目先のことに、他人のことに、何かのために、懸命に取りすがることがあったであろうか。
それとも、自分では自分の姿が見えていないだけで、周囲の眼からすれば、
己こそ、そのような一途な、よほど危なっかしい姿に見えているのか。
誰の想いも、妹弟の懇願もはねつけて、ここまで来て、焦燥と我慢を重ねに重ねてきたものを、
ここに至って、帝国皇太子なぞが、まだ立ちふさがるというのなら、
自分はよほど誤った、人には理解されぬ間違えた道を、歩んでいるとでもいうのだろうか。
シュディリスは息を鎮めた。
否、そんなことはない。
そうであれば、リラの君をあのように、ミケランの魔の手から救い出すことはできなかった。
永年暗く抱えたままであった出生の秘密を、あの夜、
森の中で思いがけなくあの御方に打ち明けてしまうこともなければ、
星の下に一気にほどかれたそれを、カリアがその胸にこの身ごと静かに包んで下さったことで、
懊悩の半分をあの御方が、こうしている今も分け合って下さっているような、
そんな心強い気持ちの支えも、安らぎも、得られはしなかったはずだ。
もしも、カリアがクローバの手紙を通じて、エチパセ・パヴェ・レイズンに自分の隔離を
お命じであったのだとすれば、その理由は、一つしかない。
カリアは、自分と、ミケラン・レイズンを逢わせるにはしのびないと、そうお考えなのである。
それが、口惜しい。
進退を求めて地におとしたシュディリスの剣の先は、しかしそこから、動くことはなかった。
剣柄を把ったまま、
「それで」
シュディリスは俯いた。
「都におられる皇太子殿下が、面識のないわが身をさほどにお心にかけて下さる、その真意は」
「君の身を、実に心配されておられるのだ」
落ち着いたとみて、イクファイファは怒れる騎士の手から剣をもぎり取った。シュディリスは逆らわなかった。
降参したわけではない。
並みの能力しかもたぬイクファイファにとっては、
確かにそれはいつなんどき雷のごとく脳天に落ちてくるとも限らぬ恐怖の逸物であろうから、
フラワン家の御曹司とオーガススィの王子との間に血が流れることがあってはならじと頑張る、
というより、むしろまだ死にたくないのが本音であろうイクファイファに、ここは譲ったのである。
「いい剣だな。おお、これはコスモスの紋章。
 これが本物ならば、オーガススィからコスモス辺境伯の手に渡ったものではないかと思うのだが、
 どうして手に入ったのか、後で聴かせてくれ」
そんな世辞を口にしながら、いそいそとイクファイファは奪い取った剣を天幕の支柱に立てかけて、
戻ってくると、シュディリスの肩に手をおいて椅子に座らせて、自分も向かいに腰を下ろし、
「君、ユスキュダルの巫女を誘拐したそうだな。それで、
 無理もないことながら、レイズンに参考人として、追われているそうだな」
年長者ぶった態度をつくると、シュディリスを説き始めた。
鷹狩り見物について来た城の女たちは、もう帰ったであろうか。
馬車に乗り込む貴女たちの中に、ルルドピアスの姿を見かけたが、
小トスカイオの息女二人に挟まれて、何か可笑しなことでもあったのか楽しそうに笑っており、
こちらに気がつきもしないその笑顔は、見ているこちらまで倖せになるような、健やかなものであった。
大勢の家族に囲まれても、どことなく、孤独の濃い影のある姫だった。
束の間、うわの空で聴いているように見えたのだろう。
その兄である男は、じろりとそんなシュディリスを睨んだ。
「さいわいにも、君は早いうちに巫女とは別れて別行動となっている上、肝心の巫女の玉体は、
 コスモスにご無事であることが確認されているからまだいいようなものの、
 一歩間違えば天下を敵に回すような、何でそんなことをやったんだ」
「なぜ、そんなことを知りたい」
「何故でもだ」
そんな、基本的な質問を今さらされても、答えようもない。
その場の勢いで、とは、あまりにも不埒な回答ながらも、それが真実である。
たいていの出来事は熟考よりも、その場の勢いのままに起るのではないかとも思うのであるが、
まさか、イクファイファにそのままそう伝えられるはずもなく、
「その時は、巫女だと知らなかったので」
シュディリスは簡潔にそう答えるにとどめた。
嘘ではない。
輿の中にあの御方がいると、あの時は確信していたわけではなかった。
何かの大きな風に突き飛ばされ、導かれるようにして一行を追い、
肌が粟立つような直感に従っただけのあの衝動を、
説明できるだけのことわりが、この世には存在しないだけである。
「大胆なことをしたなぁ」
感に堪えないとでもいうように、イクファイファは心底、呆れた様子をみせた。
素朴すぎるその反応は、うららかな鷹狩りの野にふさわしかった。
しかし、そんなイクファイファ王子の口から次に発せられたのは、
昨晩話し合っていた時の、グラナンとシュディリスの予測を超える、想定外の言葉であった。
これからの話は内密に願いたい。
前置きの上、イクファイファは声を潜めた。
まず、最初に云っておく。
オーガススィは諸国と反し、ヴィスタル=ヒスイ党を、支援する。
天幕の周囲は、静かだった。
話の行く末はまだみえない。
いざとなったら、この王子を人質に取って逃げるつもりで、
イクファイファの背後にある剣との距離をはかりながら、
シュディリスはイクファイファの顔を見つめ続けた。

 

「第三部・完]


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