back next top






[ビスカリアの星]■六一.


竪穴の底は陽が差し込む時刻になっても、冷え冷えと、じめついていた。
もとは、不要物を埋めるために掘られた穴の一つである。
それがそのまま懲罰用の牢として流用されて、高さは大人の背丈の三人分、
中は人ひとりがしゃがむのがやっとな、低地に掘られたその縦穴の底に、軍規に背いた男、
エクテマスが放り込まれて五日経つ。
ルビリアがそれを命じたのである。
「騎士の私闘は認められたるものなれど、軍内における此度の騒ぎ、
 サザンカの家司であるイオウ家に対して、このままではしめしがつきません。
 平騎士の分限もわきまえず、私の留守中にかような騒ぎを起すとは、
 いつからお前はそんなに偉くなったの。思い上がるな、エクテマス・ベンダ・ハイロウリーン」
ハイロウリーン軍中が見たのは、サザンカ隊の男たちの前に引き据えられ、
剣でもって女騎士にしたたかに打ち据えられる、ハイロウリーン家の若者の姿であった。
木の幹がはじけて折れるような音、肩に落ちた打撃を、エクテマスは地に膝をついたまま俯いて耐えた。
返す刀身は、続いてエクテマスの頬も張り飛ばしていた。
鞘入りとはいえ、刑罰見物に参集したつわもの共が思わず退くほどの殴打である。
後ろ手に縛られたエクテマスの耳と口端から血が流れ出た。
高位騎士の苛烈な一打を受けて、呻きひとつ上げずそれに持ちこたえ、
姿勢を保ったまま崩れ落ちぬ分だけ、むしろ悲惨な姿であった。
「サザンカの方々。これでそちらの気が晴れたであろうとは、申しません」
エクテマスを打ち据えたルビリアは息も乱さず、サザンカの者共に向き直った。
「この者は私の従騎士。身柄を引渡しの上、どうぞご随意にと申し上げたいところですが、
 この者、ハイロウリーン家の六男なれば、私の一存では叶いません。
 お腹立ち限りないことでしょうが、決闘はエクテマスおよび、
 ロゼッタ・デル・イオウ殿との間の合意であったことが、両者の証言から得られている以上、
 遠隔地における過剰な制裁は、私裁の疑いを呼び、今後の風紀を乱し、騎士道にもかえって背きましょう。
 異議なくば、この者の処分はこちらにお任せありたい。
 ハイロウリーン軍規に法り、陣中を騒がせた罪状にて、適正に処罰することをお約束します。
 事実をもみ消すつもりではありません。
 イオウ家のご息女に対する暴行については、後ほど、正式にイオウ家に陳謝いたし、
 相応の慰謝をもって、こちらの誠意を尽くす所存です。以上、よろしいか」
女騎士の厳然たる態度に気圧され、集められたサザンカ側には、否も応も、声もない。
突然、イオウ家の姫君が重傷を負って運び込まれた上に、
それがハイロウリーン家の若君との決闘の結果となっては、ここにいる者たちの中には、
本国の支持を仰ぐことなしには、本件を裁量できる位ある者など、誰ひとりいないのである。
一件を知った時の、ルビリアの指示は迅速であった。
直ちに従軍医師をサザンカ陣営に差し向けると同時に、エクテマスの身柄を取り押さえ、引き据えさせた。
逃亡防止に後ろ手に縛ろうとする従卒の手は、エクテマスの眼に拒まれた。
ルビリアに仕えるこの男が、陣中から逃げ出すわけもない。
が、ルビリアはそれも許さず、
「縛り上げなさい。サザンカの方々の前に突き出します。
 隊長を砕かれたサザンカ側の浴びた屈辱が、その程度で鎮まるはずもない」
ハイロウリーン家の子息を縄にかけることをなおも躊躇う従卒を叱り飛ばし、
「何なら、首輪もかけて、狗のように地を這わせてやってもいい」
とまで云った。
ルビリアをとりなしたのは、意外にも、オニキス皇子であった。
さしもの彼も衆目の中で思慕をかけている女にこてんぱんに罵られている若者を見ては、
同姓としての憐憫がわいたとみえて、恋の勝者としての優越感からも、
激昂している女から若者を庇ってやるべく、いかにも物分りのよい年長者といった風に、
頃合をはかって出てくると、馴れ馴れしくルビリアの肩に手をおいた。

「まあまあ、ルビリア姫。騎士同士が剣を合わせたら、往々にして、やり過ぎになるものだ。
 男と女、双方ともに若いのだ、彼らにも加減がきかなかったのであろう。
 油断めされものか、ロゼッタ殿は気の毒なことになったが、さいわいにして命には別状ないことであるし、
 平騎士のわりには、エクテマス殿も奮戦したではないか。運がよかったのだな」
 
ぬかりなくエクテマスを侮辱しつつも、二人の間を引き分けてやった。
剣も剣帯も上衣も剥ぎ取られて縛られた上に、サザンカ衆の面前で女に殴打され、
罵倒されているエクテマスの姿に身が縮む思いを味わったのは、同郷同軍の男たちばかりではない。
少し離れた場所の木の幹に背をつけて腕を組み、努めて無表情を保って眺めていたユスタスも、同様である。
自ら手をかける際には、こちらもそれに見合うものを因果応報として浴びるので何とも思わぬものの、
反駁できぬ者が一方的にひどく叱責を受けている様をただこうして見学しているのは、たとえその対象が
憎い仇であったとしても、ユスタスの性格上、ざまあみろ、いい気味だ、とは、とても云えない。
国籍の違う軍の間で起きた事件である。
ユスタスとて、このままで済むとは思ってはいなかったが、
なにぶんにもエクテマスはハイロウリーン家の人間であり、エクテマスに打ち負かされたロゼッタからも、
合意の上の決闘であった、何ひとつ遺恨はないとの言質が本人の口から取れていたために、
せいぜいが、謹慎か、本国送還だろうと踏んでいたのである。
それだけにルビリアのとった見せしめは、騎士の名誉剥奪にも似た公開処刑ともいうべき震撼を軍中に与え、
まさか、ハイロウリーン家の王子に対してルビリア殿がここまでするとはと、かえってサザンカ側の面々が
蒼褪めて、思わぬ成り行きに動転して、驚懼するほどであった。
従容として罰せられている若者と、剣を地に立てて、その前に傲然と構えている女騎士。
この両者の間には昔から隠微な噂が絶えることがなかっただけに、男たちの中にうごめく感情には
好奇心が勝っており、それもあって誰も、何も云えなかった。
本国からの監察として、その朝、派遣されてきたばかりのナラ伯ユーリが、
騒ぎを聴きつけてサザンカ陣営に駈け付けてきたが、打ち据えられているエクテマスの姿に仰天し、
「何をされる。ルビリア殿。問題となりますぞ」
慌てて割って入ったものの、ルビリアは「それが、なにか」、同年のユーリを睨みつけ、
「これなる者、私の弟子にして、従騎士。
 弟子の恥は私の恥。フィブラン様からも一任されております。
 始末は私に任せてもらいましょう」
男がいちばん見たくない女の顔、虫けらほどにもこちらに意をとめておらぬ、
そんな顔をして、ナラ伯をぴしりとはねつけたものである。

エクテマスは、ハイロウリーン陣とサザンカ陣の境界に深く掘られた、狭い縦穴に降ろされた。
野営にある軍において、それは一般的な罰であり、見せしめである。
その傍を通るものが、穴の淵から下を覗き込んで野次を飛ばしたり、
残飯や食べかすを投げ入れたりするのも自由なら、
たまさか調子にのった酔っ払いが「では、俺もはいるぞ」、上から落ちてきたりすることもあるのであるが、
期間と季節によっては凍死または衰弱死、或いは発狂する者が出るほどに、時として過酷な罰であり、
穴底の罪人はひたすら屈辱に耐え、窮屈に耐え、閉塞感を噛み締めて、許しが出るその日を待つしかない。
じめついた地下にあって、エクテマスは壁に背をつけて座っていた。
からだがなまるのを防ぐために、できるだけ立ったり座ったりを繰り返して動いてはいるのだが、
座ったところで脚を伸ばせるほどの幅はなく、穴の中は氷のように冷たく、半ばこれは生き埋めにも等しく、
骨も臓腑も、鉛のように重く感じる。
頭上には、狭い空があった。
眠っている間のことは知らないが、サザンカの者は遠慮してか一度も穴の近くに来たことはなく、
エクテマスの身分が身分なので、わざわざひやかしに来るような者もおらず、
何よりもルビリアの逆鱗を怖れて、誰も土牢には近寄らず、
日に二度の食事と水が上から籠で降ろされるほかは、ひたすら忍従の刻だけが過ぎていた。
一度、ナラ伯ユーリと、オニキス皇子が、それぞれ様子を見に来た。
国許からやって来たナラ伯ユーリは、懸命にルビリアの説得にあたっていることと、激励を云い残し、
彼は悪い人間ではなかったので、辱めの中にある若者にそれ以上の恥をかかせることなく、
エクテマスを見ないままに静かに去った。
オニキス皇子の方は、「寒いであろう」、羽織っていた外套をおもむろにエクテマスの頭の上に投げ落とすと、
「ルビリアがなぜかように怒ったのかを考えていると、笑えてならぬ」
穴の淵からエクテマスを見下しながら、しみじみとした苦笑をもらし、愉快そうであった。
「そなたを誘惑しておいて、他の女に手を出した途端に、あの悋気。
 女はまことに、嫉妬深く、狭量なものだな。
 てっきり自分にのぼせ上がっているとばかり思っていた飼い犬が
 ほかの女に色目をつかったことが気に入らず、裏切られた気がしたのであろう。
 このようなことをすれば、
 何とかしてあの生意気なルビリアを潰してやりたいと躍起になっている本国の方々の、
 かっこうの批難材料になるだけであるのにな。
 騎士だなんだんと生意気に大見得きっているが、あれも所詮は大局の見えぬ、その程度の女というわけだ。
 恥を知らぬ女とは、まこと、見苦しく、迷惑なものだな。
 あの愚直な莫迦女を反面教師にして、ここから出たら、そなたも少しは賢くなることだ」
笑い声を残してたち去っていった。
オニキス皇子が落として寄こした毛皮つきの外套は、食料の籠が引き上げられる際にそれに乗せて穴から退けた。
罪状によっては縛られたうえで縦穴に水を注ぎ込まれることもあるだけに、
手足の自由がきくぶんだけまだマシだったが、時折上から少なからぬ土塊が落ちてくるのには閉口した。
こうして見棄てられ、生き埋めにされた兵もいる。
頭の中は薄灰色の空白、特に思うこともなく、感情を封印して、起きている間は腕をこすり、足踏みをし、
弱らぬように食料はすべて口にし、彼は身体を動かし続けた。
ルビリアは一度も顔を見せに来ない。
来るとは思わないし、そのような生ぬるい関係ではない。
唯一、エクテマスが頼んだのは、まだ読まぬままであった父フィブランから届いた手紙を
穴に降ろされる前に読ませてもらいたいということだけだった。
それが叶えられた以上、ほかに望むこともない。

「今日、ロゼッタ殿が国許に戻られる。
 街道に出るまで、こちら側からはルビリア様とユースタビラが付添って見送った。
 お前の減刑を最後まで願われておられたぞ」

誰か知らないが、それを報告してくれた者もいる。
そのユースタビラこと、ユスタス・フラワンも、自分を侮りには来なかった。
もとより、謝るあやまらないの世界の話ではないし、あちらも謝罪など不要であろうが、
牢の真上から厭味の一つでも投げて寄越してもよいようなところを、それをせぬとは、
トレスピアノの御曹司にも、それなりの意地があるとみえる。
エクテマスの口許に、皮肉な笑みがかすめた。
(それとも、悔しすぎて、怒りのあまりにそれもできぬか。
 お育ちのいいその面でも穴の淵に見せてくれれば、
 お前が一生涯味わうことのないであろう、女の話の一つでも、語り聞かせてやるものを)
(お育ち、か)
いかにも良家育ちを漂わせたユスタスの姿を脳裡に思い浮かべて、エクテマスは首筋にはりついた土を拭った。
自分とて、六の王子と呼ばれる身ではある。
もっとも男子が七人もいれば、公の席においても注目を浴びるのは年長からせいぜい四人目くらいまでで、
年少組のこちらは、年齢の近い兄と弟と共に何ごとにおいてもひとくくりの扱いであったから、
ついぞ自分が王子だなどと思ったこともない。
その年少組に、まとめて縁談がきたという。
森の中でロゼッタと対決する前に届けられた父からの手紙には、そう書いてあった。
お相手はオーガススィ家の姫君二人。
次代領主小トスカイオの、一の姫と二の姫である。
まるで家畜のこう配のように、こちらの男子三人と見合いをさせて、よろしきあたりでまとめようということらしい。
父フィブランは一切の無駄を省き、どうせこの話に肯んずることはない六男エクテマスに対しては、
先方にとって失礼のない理由を考えて、適当にこちらでお断りするつもりであることを最初に告げていた。
どこかの騎士家との縁談は避けられぬものであるし、
それがおおよそはオーガススィ家であろうとの見当もはるか昔からついていた以上、
格別の感慨もまるでなかったエクテマスだが、自分が外れるとなれば、ほかの二人、すぐ上の兄と下の弟、
五男インカタビアと七男ワリシダラムに、縁談にまつわる今後の面倒のすべてを押し付けることになる。
穴に落とされる前に、定期連絡の早馬に書付を渡し、
諸事万端いっさいを任せることを伝言で父に頼んだエクテマスだが、
後日、インカタビアとワリシダラムには、勝手を許してもらうことへの詫びを入れておかなければなるまい。
兄弟といっても親しみも薄く、彼らは、少年騎士団からそのままルビリア姫にくっついたままの六男の自分のことを、
半ばあきれ、半ばからかい気味に、完全に放任して放置してくれているのが、まだしもの救いである。
これで、オーガススィが切ってきた札は二枚。こちらも二枚。これでちょうどいい。
エクテマスは、手の中で土くれを握り潰した。
コスモスは、よく明け方に小雨が降る土地らしい。、穴の上に覆いをかけてくれる者がいるでもなし、
今朝方も降りかかる雨に結構濡れて、泥にまみれた身体がすっかり冷えていた。
そういえば、オーガススィにはもう一人年頃の姫がいたはずだ。
病もちのためか、それとも皇太子妃をあてこんでか、このたびも秘蔵されて出てこぬままのようだが、
末娘だというので、トスカ=タイオも溺愛しているのであろうか。
噂ではその姫がいちばん美しいというのに、お目にかかれぬとは、インカもワリシーも残念なことだろう。
オーガススィ領主と、フラワン荘園領主夫人リィスリは、兄妹である。

(ルルドピアス姫といったか。ユスタスの従妹だな)

絶世の佳人と謳われたリィスリ夫人の面影があるというので、
かなりはやいうちから他国にその名はきこえていたオーガススィの姫である。
離宮に篭りきりでほとんどその姿を見たものがいないことが想像に拍車をかけて、
見合い相手として確実に名が挙がる候補であったルルドピアス姫のことは、幻の姫として、
フラワン家のリリティス姫と同様に、いやがうえにも若者たちの想像を刺激したものである。
(-----リリティス。リリティス・フラワン)
目下、トレスピアノを出奔しているらしき、ユスタスの姉である。
「きょうだい揃って、傍迷惑だこと。そのフラワン家のお姫さま、生きようが死のうが知ったことではない」
第一報を聴いたルビリアの裁断は簡潔なものであった。
「たとえこのあたりに迷いこまれているのだとしても、
 フラワン家からも本国からもまだ何も頼まれてもいないというのに、
 こちらがその姫君の探索のために多くの手勢を割くという法はない」
フラワン家に生まれた三人の騎士たちは、若いのか無分別なのか、はたまたそれこそ
人智を超えた運命なのかは知らないが、
オフィリア・フラワンの御世から変わらぬ無謀さをもってトレスピアノをそれぞれに旅立ち、
それぞれが消息不明続行中であるという。
うち、末子ユスタスは運よくハイロウリーン軍と邂逅し、ユースタビラと変名を使って陣中に潜伏しているわけだが、
そもそも、彼らは長兄シュディリスの後を追って郷里を出てきたらしいのに、肝心のそやつは巫女ともわかれ、
いったい今ごろ何処に隠れ、何処の空の下を彷徨っているのであろうか。
穴の底で思いのほか深く考え事をしていたようである。
エクテマスの前に、綱が投げ落とされてきた。
「釈放だ。上って来い。ルビリア様がお呼びだ」
すぐさまエクテマスは立ち上がり、太綱を半身に巻きつけ、自力で穴壁を登り始めた。
穴の幅が狭いので、かえって動きが制限されて困難ではあったが、日々鍛錬している身である、
弱ってはいても腕の力だけで登りきり、すぐに穴の淵に手が届くところになった。
雨に湿った土が、大きく崩れた。
縄が大きくうねった。転落する前に、エクテマスの腕を、誰かの腕が掴んだ。
そのまま、強い力で引き上げられて、倒れこむようにして、地上に這い出た。
土がもう一度崩れた。完全に無事な処に移動するまで、誰かの腕がずっとエクテマスを掴んで、離さなかった。
その者はすぐにエクテマスを突き飛ばして立ち上がり、衣についた泥をはらうと、背を向けた。
「借りは返したよ」
ユスタスであった。
借りというのは、ユスタスがカルタラグンの廃墟でレイズンを相手に闘い、古井戸に落ちた時のことを指す。
あの時は、エクテマスが井戸の底に降り立って、ユスタスに力を貸した。
その借りを返したと、ユスタスは云うのである。
立ち去るユスタスのその背中の意味するところはこうである。
ロゼッタは国に帰った。もう、僕たちを邪魔をする者はいない。
エクテマス・ベンダ・ハイロウリーン。これで晴れて、僕はいつでも貴方に決闘を申し込むことができる。
「エクテマス!早くしろ。国許で大事が起きた。火急の用件だ、急げ」
冷え切って汚れた身体に、後ろから誰かが外套をかけてくれた。
永い間暗いところにいたせいで、視界がまだ悪かった。
ロゼッタ・デル・イオウの退場と入れ替わりに、サザンカからは本隊が到着したようである。
ハイロウリーンとサザンカの両陣営から、ぽつぽつと、立ち上がってこちらを見ている者の姿が眼に入った。
少し風があった。
エクテマスは、走り出した。
 
 

----------------------------------------------------------------------------------

三人いるのよ。
「だから、こちらも三人がいいわ」
ルルドより一つ年上のレーレローザと、同年のブルーティアは、
両側からしっかりとルルドピアスの腕を掴んだまま、ルルドピアスを促して、というより、
ルルドピアスを引きずるようにして、強引に歩いていた。
オーガススィの野も暮れて、そろそろ晩餐の支度にかかる頃である。
鷹狩りに来た一行は、その日はそのまま狩猟館がわりの城砦に宿泊することになっていた。
女手が足りぬため、伴ってきた侍女たちは貴婦人たちの諸事を片付けるのに大わらわとなっており、
姫君たちの世話係りもスイレンの指示のもと、別の用事に使われて、部屋を出たり入ったり忙しない。
狩りを終えた男たちは入浴中で(いったいこの国の人々は入浴が好きである)、小トスカイオたちも近くにいない。
オーガススィ家に生をうけた三人の姫たちが、そっと室を出て、城砦の外階段をおりて行ったのに、
気がつく者は誰もいなかった。
「レーレローザ、ブルーティア」
姉妹に連行されているルルドは何とか二人の気持ちを変えさせようと、
石柱に片手をついて身体を突っ張り、悲鳴に近い声を上げた。
しかし二人の力に敵うわけもなく、一段一段と階段を下ろされてしまう。
ルルドから話を聴いたレーレとブルティは、ルルドを待たせている間にすばやく
今朝ほどまで着ていた豪奢なドレスを脱ぎ捨てて、いったいどこから調達したのかしらないが、
騎士装束に凛々しく身を固め、ルルドピアスの前にとんで戻ってくるなり、
「ルルドピアスは、そのままでいいわ。私たちは、お姫さまの従騎士という役割になるから」
晴れ晴れしく笑って、片膝を床につき、略式の礼までとったものである。
それで、二人の覚悟がしれた。
あとはルルドピアスがいくら抗議しても、抵抗しても、うそ泣きをしてみせても、いっかなきかず、
剣帯に剣をかけた姉妹は微笑みさえ浮かべて、
「さあ、行きましょう!」
扉を開いたものである。
引きずられながらも、ルルドは、まだ彼女たちの説得を諦めてはいなかった。
「あなた達に相談するのではなかったわ。打ち明けるのではなかったわ」
懸命に足を踏ん張り、柱に手をかけ、身体をそらして二人を引き戻そうと試みる。
しかし、小トスカイオとスイレンの間に生まれた娘たち、
レーレローザとブルーティアは、頑として聞き入れず、これからの冒険への期待にむしろ楽しそうであった。
まことに、この二人の少女たちは、オーガススィの聖騎士の血を濃厚にその身に受け継いでいた。
レーレもブルティも、かなり早いうちからその才能を開花させて、姉妹背中合わせになって
剣術師範たちを相手どっているそのさまは、花に群がる蜂をさらさらとかわす蝶に似て、
昨年に行われた御前披露においても、馬に乗って槍的に向かい、盾に切り目を入れた後、
回転する錘を避けて次々と走り抜ける少女たちの剣さばきとその鮮やかは、
「レーレ様! ブルティ様!」
闘技場に集まったオーガススィの民を熱狂の渦に巻き込んだものであった。
しかし、それとこれとは別である。
「こんなことをしたら、お城でお待ちのトスカイオ様が、お怒りになるわ。
 その時は誰が怒られると思って。あなた達のご両親、小トスカイオのお兄さまやスイレンさまが、
 私のお父さまから怒られるのよ。ねえ、お願いだからレーレ、ブルティ、思い直して」
姉妹はルルドを連れてぐんぐん歩いて行く。
困じ果てて、ルルドピアスは最後の切り札を出した。
「私がお父さまに怒られるのよ。それでもいいなんて無情よ。
 すべての責任は私が負うことになるのよ。ねえってば」
「ルルドピアス」
男装の姉妹はルルドを振り返った。
一つの魂を二つに分けたらこうもなろうかという具合に、ルルドの両脇に立っているのは、
気圧されるような品位をもった、りりしき若騎士であった。
うら若き乙女なれども、その心、風と火の気性をそなえ、雲海を翼もて渡る竜神のもの。
そこにいる少女たちこそは、雪の山脈を睥睨し、海のはるかに挑みにかかる、
雪原と雪吹雪にみがかれた、オーガススィの聖騎士にほかなかなかった。
年長のレーレローザは腕をのばすと、ルルドピアスの肩を掴み、その眼をのぞきこんだ。
母スイレンの見立てた華美なドレスよりも、自分たちで選び取った騎士装束のほうが、彼女たちには似合っていた。
どのような宝石よりも、その眸は誇りに満ちて輝いていた。
騎士にはなれなかったルルドピアスがいつも憧れ、まぶしくみてきた、そのままのその姿であった。
そのレーレローザの紅いくちびるから、強い言葉が放たれた。
「私はね、怒っているのよ。ルルドピアス」
妹のブルーティアはその間、先に立って周囲の気配をうかがい、
夕闇に包まれはじめた城砦の壁に身をひそめていた。
あたりは赤銅色に暗く、裏庭の木々が夕焼けの中にそよいでいた。
「怒って……?」
「お母さまが何と云おうと、夫は自分で選ぶわ。
 それが強国ハイロウリーンの王子ならば申し分ないというだけのこと。
 お祖父さまも、お父さまも、縁談相手が気に喰わぬのなら
 遠慮なく断ってもいいと、そうおっしゃって下さったわ。
 それなのに、スイレンお母さまはもう決まったことのようにして、
 うちの娘たちはハイロウリーンに嫁ぐのだ何だと今からの大騒ぎ、
 あの羽目を外したお得意げな様子にはこちらまで苛々してきてしまう。嫁ぐのはご自分ではないのに、
 私たちをご自分の分身のように思われておられるのか、ご自慢ぶりがいっそ気持ちが悪いわ。
 このたびの見合いのことで、お母さまはますます増長し、鼻が高くおなりなのよ」
「増長だなんて」
かりにも母親に対するこの辛らつな発言に面食らい、ルルドピアスは顔を曇らせた。
「スイレン様は、ただひたすらに、あなた達のことを思われておいでなだけなのよ。いいお母さまじゃないの」
「いいお母さまならば、ご自分の子供たちのことだけでなく、いずれ国母とおなりになる身をわきまえて、
 公務だけでなく家中のものに対しても、公平に、慈愛をもって、親身によりよきをはかられるはずだわ」
「スイレン様が、そうなさっていないとでも云うの」
「そのことは貴女がいちばんよく分っているのではないの、ルルドピアス」
馬車が近づく音がした。
ブルーティアが外階段をそっと駆け下りて、薄暮の裏庭に現れた馬車に走り寄る。
それを見て、ルルドピアスは、いよいよ恐ろしくなった。
踏み台のところに片足をかけてブルティと共に四方を窺っている背の高い巻き毛の青年は、
兄イクファイファの友人のひとりではないか。
「ねえ、待って。私は確かに、腕の立つ騎士をひとり、護衛として貸して欲しいとお願いしたわ」
「そうよ。騎士ガードはイク兄さまの幼馴染で、私たちとも親しいのよ。彼なら信頼できるわ」
「私は、あなた達まで巻き込むつもりなんてなかったわ。
 行くのは私ひとりでいいのよ。お願いよ、貴女とブルティは残ってちょうだい」
「どうしてルルド。私たち、三つ子のようにして秘密を共有して、いつまでも一緒だと決めたじゃないの」
「それ、子供の頃の話だわ」
「子供の頃の誓いであっても、約束は約束よ。ぐずぐずしていたら見つかってしまう。ガード、用意はいい?」
「姫さま、お早く」
狼狽しているうちに、ルルドは騎士ガードに抱え上げられるようにして、馬車に押し込まれてしまった。
すばやく姉妹も馬車に乗り込む。
御者台に上ったガードが鞭を振り上げて、馬車はすぐに走り出した。
主導権は完全に姉妹の手にあり、少女騎士に挟まれたルルドピアスには、この先どうしたらいいのか分らない。
もちろん、レーレローザとブルーティアの姉妹は、ルルドピアスのそういうところを見越して、
ルルドに同行することを決めたのである。
前塔のところで、レーレローザは扉を開いて内側から身を乗り出し、
「ご苦労さま。私たち、退屈なので今宵のうちにお城に戻ることにしましたから」
門衛に手を振った。
槍を手にした門衛はそれでも不安そうにした。
「護衛が少ないのではありませぬか、姫さま」
「私たちは騎士です。ひとりの姫に騎士が三人付いているのであれば、不足とはいえないでしょう」
文句がありますかとばかりに、レーレローザは門衛たちをねめつけた。
御者台の騎士にも、馬車の中の姫君たちもどこにも疑わしいところはない。あっさりと門は開いた。
落とし格子がふたたび降りるより早く、馬車は壕を超えて塔を回り、街道を走り出していた。
「おばかさん」
揺れる馬車の中、対面に座ったレーレローザは、出来の悪い妹をからかうようにして、
向かいに座るルルドピアスの膝をつついた。
「ルルドピアス、貴女、シュディリス様のお役に立ちたいのね」
「え……」
「隠さなくてもばれてよ」
ルルドの隣りに座ったブルーティアも微笑む。
「それはいいとしても、貴女と護衛騎士が二人きりで城砦からいなくなったりしたら、
 周りの者がどう思うか、そのことについては、まるで考えてはいなかったようね」
レーレローザとブルーティアは笑い出した。
ぼんやりさんにも、ほどがあってよ、ルルドピアス。
「まだ分らないのね。それではまるで、駈け落ちのようじゃないの、と云っているのよ」
「駈け落ち」
「もしくは、騎士ガードが、ルルドピアス姫を拉致誘拐したか」
「あるいは、姫を護ろうとした騎士ごと、ルルドピアス姫が悪漢に連れ去られたか」
「え。----ええっ」
「ほら、レーレお姉さま。ルルドったら、やっぱり何も考えてはいなかったようよ」
「そんな頼りない人を、おひとりで遠方に旅させるわけにはいかなくてよ」
レーレローザとブルーティアはひとしきり笑い転げると、自信たっぷりに、
「大丈夫よ。私たちが、書置きを残してきたから」、と請合う。
ルルドピアスはいよいよ、びっくりしてしまった。

地味なつくりの馬車は、すれ違う者もいないオーガススィの黄昏の平野をひた走った。
レーレローザは御者台に通じる小窓をひらいて、騎士ガードに何かを頼むと、すぐにまた窓を閉めた。
「まだ誰も気がついていない、今のうちが勝負よ。このまま、国を出てしまいましょう」
毅然とした顔つきで、てきぱきと持参してきた地図を開いた。
「この馬車、何処へ向かっているの」
「ハイロウリーンよ」
地図から顔を上げぬまま、こともなげに、レーレローザは応えた。
「書置きにもそう書いておいたわ。でも、途中で馬車を乗り捨てて、私たちは別の道を往くの。
 もちろん、馬車は誰かに操ってもらって、追手を引き寄るために街道を走らせておくわ。
 そして私たちは、ハイロウリーンには向かわずに、山越えをするの。ガードも同じ考えだわ」
「山越え」
「鷹狩りの野からこちら、砦は少ないとはいえ、そのうちすぐに狼煙が上がって、
 私たちは探されることになるでしょう。
 砦では、誰もがほかの用事に気を取られていたから、
 私たちが居ないことに気がつくまで少しは時間がかせげるかもしれないけれど、
 日が暮れるまでにこの宿場は通過しておきたいところだわ」
騎士装束に身を包んだレーレローザは、華奢な足を組み、印をつけた地図をにらんだ。
「考えるのよ------私たちの失踪がばれた時に、後に残してきた彼らが、まずどう動くのかを」
うつむいたレーレローザの顔に、同族であることを示す淡金の髪がかかった。
それだけはリィスリと遜色ないほどに三人揃って美しいと褒められる、自慢の髪だった。
「考えるのよ。
 まず、先発隊がどの程度の騎馬を組んで私たちを追いかけてくるか、
 最初にどの道を重点的に探すだろうか、書置きの内容を鵜呑みにした時、しない時、
 城にいるお祖父さまに知れてから、ご命令で探索部隊がいよいよ出動するまでに、
 どのくらいの時間がかかるものなのか、それは今晩のうちなのか明日なのか、そういったことのすべてよ」
「こんなことをして。スイレン様が、どれほどご心配なさるか」
「スイレンお母さまのことは、考慮に入れなくてもよいわ」
ぴしりとレーレローザはルルドピアスを遮った。
お母さまがとる行動なんて判でついたように決まっているもの。きっと私たちの書置きを握り締めて、
まずはご自分が誰からも非難されることのないように、たっぷりと愁嘆場を演じることを優先されるはずだわ。
方々にすがりつき、「そんなつもりではなかった」とか、「わたくしは娘たちのことを想ってやってあげたのに」とか、
いかにも相手のためをおもってあげていたようなふりをしながら、大騒ぎをすることで暗に相手を咎め、
その話で盛大に同情をひくことでしょう。
「どうすれば自分の得になるかを考えて、立ち回る。女らしいといえば、女らしいことね。
 かわいそうなお母さま。あの人のように、これほどまでに娘たちから覚めた眼で見られている、
 愚かな女もいるかしら」
「まあ。なんてことを云うの、レーレローザ」
「うんざりなのよ、ルルドピアス」
横から妹のブルーティアも同意した。
「私もお姉さまも、もううんざりなのよ。幼い頃から何かにつけて、
 ルルドにだけは負けてはいけませんよと云われ続けて、いったいスイレンお母さまは、
 私たちのことをどれだけ、本当に見て下さっていたのかしら。
 つまり、私も、レーレお姉さまも、ルルドピアスも、それぞれ独立した人間であることを、
 私たちの生き方や人生は、お母さま一人の影響下にあるものでもなければ、
 お母さまがすべてを掌握できるものではないことを、陰でご自分のいいように操れるものでもなければ、
 私たちの間にうるさく割り込んだり、関係を仕切ろうとしたり、そんなことをするものではないということを、
 それは人間の誇りや自立をまったく理解しない、
 誰かの足を引っ張ることで自己顕示欲を満たそうとする卑しい人間がやる無駄な干渉であることを、
 あの人は、いったいどれだけお分かり下さっていたのかしらって」
「どうせ、わかりっこないわよ。そんなご自分の姿も見えてはおらぬ人なのだから」
レーレローザは地図に顔を埋め、あくびをもらした。
「誰かに執着することでしか、自分が勝った気になれない人なのよ。
 だからあれほどまでに、誰かの為に何をしてあげただの、誰それのあれは自分の助言のおかげだの、
 ご自分の口から上機嫌で云い触らして回っているのよ。
 踊る猿でも、もうちょっと行儀がいいものだわ。
 そう云っておきさえすれば、人の日々の努力はすべてご自分の手柄なのよ。
 そこまで裏で根回しをしないと、人の上に立った気分が味わえないなんて、惨めな人ね。
 さも人のためにやっているような顔をしながら、人の耳に囁いているのは、結局は相手の悪口なのよ。
 相手を理解してあげているようなふりをしながら、人に吹き込んで回っているのは、
 べつにその人が聞かされる必要のまったくない偏見であり、ご自分のための美談なのよ。
 それが証拠に、お母さまのお言葉の多くは、すべて、とんでもない上から目線でしょ。
 頼まれていもいない教師面をして要らぬ干渉することで、相手を足許においた気におなりなのよ。
 そうしないと、安心できない人なのよ。
 だから見ていて御覧なさい、お母さまは、相手が本当に助けが必要な時には、
 それまで散々親切ぶって余計な過干渉をしてきたくせに、
  『あの方にそのようなことをすれば、余計なおせっかいだと云われて嫌われますから。』
 決して相手のためには、動かないから。
 それはそうよね。だってお母さまのご親切とやらの目的を煎じ詰めれば、
 『干渉している相手より自分のほうが優っていることを世間さまにひけらかしたい。』、これなのですもの。
 そしてそんなお母さまが大勢の人から同情を浴び、褒められるのを近くで見ているのは、
 なかなかぞっとする見ものだったことは確かだったわ。
 だって、そのような時、慎ましそうに下を向いたお母さまの顔に浮かんでいるのは、会心の笑みなのだもの。
 この世でもっとも醜い、ね」

この姉妹は、どちらかといえば姉のほうが感情的で、妹のほうが理性的であった。
外見的には、姉は父である小トスカイオに、妹のほうは母スイレンの特徴を受け継いでいたが、
その容貌に合わせてか、姉のほうが手厳しく、妹のほうが、もう少し女の知恵が回るようだった。
なので、ブルーティアは姉のレーレローザのように母スイレンをきつい口調で批判することは、ほどほどにとどめて、
しかしもう少し穿った、女ならではの見方を、やわらかに述べた。
「不思議ね、人の親切って、同じことをやっていても、それが相手の為ではなく、
 自分のための作為になった瞬間に、まったく効力を失うものなのね。
 人の努力をすっかり自分の功績にしてしまうにはどうしたらいいか、どんな噂を流せば効果的か、
 そんなことを考えた時点で、その人間は、「あるもの」から未来永劫見放されているというのにね。
 そして人を操ることに失敗したら、それを認めたくないために、わざわざ、
 『あの人はこういう性格だから気をつけたほうがいい』、なんていう噂を親切ごかしに流すのだわ。
 偏見を聴かされたら、誰もがその人のことをそういう目でしか見れなくなるわ。
 そして云うのよ。
 『ほら、やっぱりね。あの方はそういう方だったでしょう。』って。
 相手を困難な立場に追いやることで、ご自分はかわいそうな被害者の評判をとる。
 相手が叩かれているのをみて、ほくそ笑み、溜飲を下げる。そして、
 自分はこんなにも誰かのためにはたらいてあげているのだという日記を、万人の見えるところにおいておく。
 それが、スイレンお母さまという人がこの世で得ることの出来る、上限であり、限界なんだろうと思うわ」
「率直に云うわ。お母さまの、ルルドピアスへの仕打ちに、私たちは怒っているのよ」
足許にあった、積み込んでいた籠をレーレローザは足先で脇にどけた。
誰だって、他人の眼からみたら、
目立つ欠点や、もっとこうしたらいいのにと思うことはあるわ。誰にだってよ。
それを本人に告げたい時には、誰にも分らぬようにして、そっと教えるのが配慮というものではなくて。
「それをどう?
 お母さまのやり口を見ていたら、人の拙い点を、いたずらに方々に喧伝しておられるではないの。
 何故か? それが、もっとも楽をして、ご自分の価値を引き上げる手段だからよ。
 『ルルドの至らぬところを城中に云い触らしておいてやらなければ、
  そうすることでルルドの世評は下がり、わたくしの値打ちは上がるのだ。そして、
  それでもこのようにルルドのことを親身に気を遣ってあげているわたくしのことを、
  皆々様にもよく知っておいてもらわなければ。そうすれば、わたくしの評価はますます上がる。』
 お母さまの頭の中では、人の努力はすべて自分が陰でご指導したおかげであり、
 人のまずいところはすべて、『わたくしの云うことをきかなかったから』、ということになっているのよ。
 『あの子が人間不信だという噂も併せてばら撒いておけば、わたくしが何を云っても、わたくしは悪くは思われない。』
 私とブルーティアは知っているわ。お母さまが世間にそう思わせたがっていたルルドと、
 本当のルルドピアスの姿との間には、とてつもない乖離があったことを。
 そして、この話の恐ろしいところはね、ルルド。
 この手の過干渉をする人間は、口先ではどのように思いやり深いことを云っていても、終局的には、
 実は、相手の不幸を望んでいる、ということなのよ」
「不幸……」
「気にすることないわ、ルルドピアス」
手荷物の中から扇を取り出すと、ブルーティアはそれでルルドピアスを横から扇いでやった。
その扇は都の職人に注文してこしらえさせたもので、三人の姫君が同じものを持っていた。
扇に染込ませた香の良いにおいが馬車に薄くたちこめた。
「レーレお姉さまは大げさだし、頭がよすぎるわ。
 私はそこまで思わないわ。スイレンお母さまが誰かのために何かをしてあげたと云う時には、
 ご本人は本当に、いいことをしてあげたとお得意に思っていらっしゃるのよ。
 善行日記をひと目につくところに置いておくことが示すように、
 たとえ相手の為にではなく、それがご自身の自己顕示欲のために押し付けがましくそうしたのであっても、
 お母さまの中では、それはすべて「してあげた」という言葉で、何十倍にも効果が膨らんでしまっているのよ。
 それに、たまさかその善行が、本当に相手の為になることだってあるわ。
 偽善でも、しないよりはましと云うではないの」
「そこが問題なのよ、ブルティ」
曲がり角に差しかかり、馬車が傾いた。
長い髪を肩越しに背中にやって、レーレローザは妹に云い返した。
「過度の干渉を好む人というのはね、
 結局は相手を自分の下流においておきたいから、わざわざそうするのよ。
 そうでなければ、ご丁寧にも口止めした上で、一方的な偏見を云い触らす必要があって?
 巧妙な云い回しよね。相手を心配するふりをしながら、相手を貶めておくなんて。
 あの子のためにこうしてあげたいと思っているけれど、あの子の性格が悪くて伝わらない、
 だから、あの子に嫌われている可哀想なわたくしの代わりに、あの子を矯正するのに協力して下さい、
 これほどまでにあの子のことを思い遣っているわたくしって、いい人間でしょう……?
 ルルドの欠点を云い触らし、してやったりと舌なめずりしながら、ご自分は多大な評判と同情を得る。
 一言でもこちらが反駁すれば、『ほら、ご覧のとおりでしょう』、示し合わせた周囲と目配せする土壌を作る。
 これで、完全に有利な立場が確保できるわよね。
 注意深く、お母さまの話を聴いているといいわ。
 結局は、お母さまは、上から目線でこう云っているにしか過ぎないこと判るから。
 『わたくしってあの子よりも凄いでしょう?』。
 ひとりの人間を噂で封じ込め、自分の目的のために利用し、見世物にしたことの罪は、いつか必ず、
 お母さまの頭上に恐ろしいものとなって降りかかることと思うわ。
 ご自分が描いた、ご自分のための美談の筋書きどおりに、相手が自分よりも下流にいること、
 相手が絶対的に不幸になること、これが、お母さまの本当の望みなのよ。
 だってそうしなければ、今までの自分の話が、すべて嘘ということになってしまではないの」
「そんな……」
「はっきり云うわ。
 お母さまにとって、ルルドピアスはいつでも、自分よりも劣っていなければならないの。何故ならば、
 ルルドピアス自身の美質や美徳が、その日々の努力が、もしも公正に人々の認められるとこになってしまったら、
 今度は、何もかも自分のお蔭だと、自分は悪くなくてすべてルルドが悪いのだと、
 ルルドの良いところは、すべて自分が与えてあげたものなのだと、あれほど盛んに、
 自慢気に云い立てていたお母さまの面目が丸つぶれになり、その評判が、失せるからよ。
 だから、わざわざ、何の関係のない人々の間にまで精力的に「自分の顔」を突っ込んで、
 自分にとってももっとも都合のいい話を汚い声でせっせと触れて回っておられるのよ。
 お母さまは、いろんな人を相手に、こうおっしゃりたいのよ。
 『何も知らないルルドピアスの為に、わたくしが陰であれやこれや、
  いろいろと便宜をはかっておいてあげましたの。
  ですから、今あるルルドピアスはすべてわたくしのお蔭なのですわ。
  もちろん、これ、ルルドはまったく知らないことですけれど。』
 『まあ、ご立派ですわ、スイレン様。』
 誰がそんなことをしてくれと頼んだの? 
 そして、何故お母さまはそういった話をあちこちで恥ずかしげもなく上目線たっぷりに、話しているの?
 何もかも、お母さまがご自分のために、そうしていることではないの。
 そのためにはルルドがどうなったって構やしないんだわ。
 お母さまがもっとも見たいものは、ルルドが人に叩かれている姿であり、
 お母さまがもっとも恐れていることは、ルルドピアスが自分抜きで認められることなのよ。
 だから親切ぶってはいても、本当に相手のためになることについては、指一本動かそうとはしないのよ。
 いつか、その裏工作のいやらしさが、お母さまを躓かせることになると思うわ。
 もっとも、もう堕ちていらっしゃるけれど」
「まあ、その時には、お母さまお得意の泣き言でいっさいの責任を逃れることと思うけれど」

ブルーティアは扇をしまい、動揺しているルルドピアスに水を飲むようにとすすめた。
姉のレーレローザに較べれば、ブルーティアの容貌には、
コスモスの血が流れていること示す幾つかの特徴があった。
それらは同じ母娘であっても、母スイレンの上には欠点となって、そして娘ブルティの上には、
人目を惹きつける一種の好ましい魅力となって映っていたのだが、そのことは、
女の容貌は確かに女の人生を左右するものではあるかもしれなくとも、それぞれの精神性によって、
高まったり低まったりするものであることを、如実に示すものであった。
みようによっては少し険のきついところがある中性的な姉のレーレローザと違い、妹のブルーティアのほうは、
少し低くて丸いその鼻のぶんだけ、可愛らしい印象があった。
ルルドピアスの前に、水筒が差し出された。
あの短い時間の間によくも整えたと思うほど、
姉妹は必要最小限の荷物のほかにも、食料を詰めた籠まで馬車に積み込んでいたのだが、
後できけば、姉妹に同行を求められたガードが、昼間の鷹狩りのお弁当の残り物であるそれらを
籠ごと厨房から盗んできたとのことだった。
ブルーティアは籠の中のものを取り出しながら、「大丈夫よ」、とルルドを肘でつついた。
「見てる人はちゃんと見ているわ。お母さまのやっていることは、
 表面上だけのさざ波にしか過ぎないわ。つまりね、あの人が何を画策しようとも、
 それはルルドの内面にまでは、影響も、害も、及ぼすことは出来ないってことよ。
 何がなんでも恩人になることで、相手の上に立とうとする人は、実はずっと低い位置にいる人なのよ。
 頼んでもいないことで、恩に着せられる必要はないことよ。
 その動機が、相手の自己顕示欲の為ならば、なおさらね。
 お母さまがルルドを見世物にしていたように、そんなお母さまも、人から見下されているものなのよ。
 尊敬もできないような人間の言葉が、人の心に届くことはないのだから、放っておきなさいな。
 人と人との関係を善い方向には導くものは、作為などとはかけ離れた、目立たない好意に基ずくものでしかないのよ。
 そのことを裏切った瞬間に、人というものは、階段を上がったつもりで、下がってしまうものなのよ」
「本当の恩人というものは、恩を売りつけたりはしないものよ。
 いざそこを突かれたら、ぽかんとした顔で悪気はなかったと言い張るなんて、
 ずいぶんと思慮深い、ご立派な心がけもあったものよね。
 悪気はなかったの一言で、こちらの蒙った大迷惑のすべてを済ませることが出来るのなら、
 この世に正義はないことね。しかも、それをも、あの人は全部ルルドのせいにしているではないの」
「二人とも、もう、よしてちょうだい」
岩が満潮の波の下に沈むように、暮れてゆく平野は、三人の姫君を乗せた馬車をしだいに
闇の中に塗りこめようとしていた。
少し靄のかかった菫色の空の下には、山脈の輪郭が化石の骨のように白く浮かんで、
地平近いところには、早出の月が出ていた。
火打ち石を叩き、レーレローザは馬車の室内に明かりをつけた。
ルルドピアスは膝の上で手を握りしめた。
「よして頂戴。スイレン様のことを、そんなに悪く云うのは。
 スイレン様は、小トスカイオお兄さまの奥様で、
 お母さまが亡くなった後も、実の姉のように私のことを気にかけて下さった方だわ。
 人のことを悪く云おうと思えば、どのようにでも云えるものだわ。
 あなた達こそ、スイレン様を批難するのに、私のことを持ち出して、スイレン様と
 まったく同じことをしているじゃないの。
 そして、ルルドのことを思って、そう言い訳をするのでしょう?
 だったら、何の違いがそこにあって。
 だいいち、あなた達のお母さまのことではないの。そんな話、聞きたくないわ」
「本当にルルドピアスのことを心配し、あたたかな心で気にかけているのなら、
 母は貴女にこそ、
 まず最初に縁談話を用意するはずじゃないこと?」
不愉快げに、レーレローザは窓に顔をそらした。
「あちらには王子が三人いるのよ。だったら、こちらも三人で見合いをするのが筋ではなくて。
 家同士の縁組ですもの、一組でも二組でも、成立する組があればそれでいいのよ。
 なのに、スイレンお母さまは、お父さまを唆して、私たちだけに縁談を調えさせたのよ。
 お父さまもお父さまだわ。実の娘の私たちよりも、リィスリ様に似ている貴女のほうを、
 昔からかわいく想われていらっしゃる。そういった露骨な贔屓が、お母さまをあのようにしてしまったのよ。
 だからといって、母の愚かさの申し訳にもならないけれど」
「それは」
ルルドピアスは抗弁を試みた。
弁の立つ彼女たちに勝てたためしはなく、そして誰を擁護してよいのやらまるで分らぬが、
姉妹のような剣幕でずばずばやられていては、誰もが多少想うところはあったとしても、
スイレンの味方につき、彼女の弁護にまわりたくなろうというものである。
何もかもどうやら原因は自分にあるらしいルルドピアスとしては、ここは黙ってはおられなかった。
「それは、私とは違い、あなた達には騎士の才能が顕著だから。
 だからハイロウリーンも、私ではなく、あなた達のほうが望ましいと」
「私や、ブルティから生まれる子が確実に騎士になるという保証がどこにあって。そして、
 ルルドピアスから生まれる子が次代のハイロウリーンの超騎士ではないという、その保証はどこにあって」

世に気性のまったく合わぬ母娘がいるとしたら、
オーガススィ家のスイレンとその娘たちこそ、どうやらそれであった。
そしてその原因は、やはり、母スイレンにあるといってよかった。
同情の余地はある。
国許を去り、トレスピアノに嫁いだ後も、なおも絶世の美女と誉めそやされるリィスリの後に、
その家の嫁として入ったスイレンは、どう努めてみても、「リィスリ様に比べれば」
そんな比較がついて回るだけ、不必要な重荷を背負わされて、オーガススィ家に入ったのである。
とはいって、オーガススィ家中の人々は、お家ご自慢のおひいさまであったリィスリのことは
その他と比べようもない別格であることをよく分っており、そうそう無闇矢鱈とスイレンと
比べるものではなかったのであるが、まずいことに、リィスリに近づこうとした若い頃のスイレンが躍起になって、
肖像画のリィスリの髪型や衣装の真似をしたことから、一時期、その嘲笑が決定的になっていたことがある。
うわべばかりを真似たところで、優劣はあまりにも明らかである。
真似たところで、スイレンがリィスリの美の足許にも及ばぬことがますます
はっきりするばかりで、その時のことは、若奥さまは性根まで悪いと陰口まで叩かれる結果に終わった。
これで、スイレンがもう少しさっぱりした性格であれば、
嫁いだ当初の失敗談として笑い話にすることも出来たのであろうが、
スイレンはスイレンで、お姫さま育ちゆえの吾こそは一番が身についた女人であるがために、
大人になってから味わう屈辱は、そこに女の嫉妬も加わって、深く彼女の胸にくい入り、燃え盛ったものである。
美貌のリィスリと自分が比較されていると思うだけ、スイレンの悔しさや惨めな感情はそのまま、
リィスリの面影のあるルルドピアス姫への対抗心へと向かい、
そして、そんな母親があまりにもルルドピアスとの勝ち負けに拘泥するがゆえに、
そこに窮屈な束縛と、浅ましい女の嫉妬と、圧迫を覚えたスイレンの娘たちは、真っ向から、
そのような母親に対する軽蔑と、嫌悪と、反逆心を育てながら育ったといったところであろうか。
ルルドピアスにしてみれば、スイレンの気持ちも、姉妹の気持ちも、うっすらと理解できるだけに、
間接的にも直接的にも、彼女たちの感情の波立ちの原因となっている自分の
身の置きどころがないような心地になり、それもあって、奇病を理由に、なるべく城を離れて、
離宮で暮らしてきたつもりだった。
あらゆる意味で女らしいスイレンは、城中の女たちのほとんどを噂と陰口と嘲笑の力によって掌握してしまい、
またルルドのほうは、スイレンのたれ流した偏見の見世物として一段も二段も低い立場におかれながらも、
なるべく一緒に暮らさぬことで面倒を回避し、離宮に引き篭もることで、表向きは平穏を保ってきたはずだった。
そうやって有耶無耶にしてきたことが、このような、最悪な結果となってあらわれるとは。

(どうしよう。私ひとりでよかったのに。
 私ひとりでも、------コスモスに行くつもりだったのに)

ところで、ルルドピアスがもう少し平凡な、といっては語弊があるが、
人並みに世渡りに長けた少女であったなら、こんなことにはならなかったのも確かである。
本人の自己主張が薄いために、かえってそれが強い者にとっては、思わぬ
「強敵」として映ったのが、そもそもの因縁の始まりであった。
宮廷で生きる女たちにしてみれば、ルルドピアスという少女は、
少し茫洋とした、夢霞の中にいるような、掴みどころのない、そのくせ、その美しい賢そうな眸で
じっとこちらの心の奥底を冷徹に見つめているような不可解な少女であり、
そこには決して意図的なものではなくとも、
何となくこちらを見下しているかのような雰囲気が付いて回っていたことは、否めない。
事実、理解が及ばぬその分だけ、大方の人々にとって、この姫は薄気味が悪かった。
病のことはさておいても、もう少しルルドが周囲にきちんと目を配り、
他人に遠慮するばかりでなく、自身の保身を第一に考えて動いていれば、
その振る舞いは、そうも奇抜でもなければ、奇異なものでもなく、
人々に畏怖を覚えさせるような、どことなくこの世ならぬ者のような超然とした謎めいたところや、
傲岸不遜とも受け取られかねぬ部分は、皆無であったはずなのである。
ところがルルドピアスは、誰も見ていなくても歌う鳥のようにして、人の嫉みや思惑などにはあまり頓着せず、
風評に神経を尖らせている宮廷の人々の中にあってはあまりにも無防備、
彼らが何よりも気にしているものを、まるで意に介してはおらぬことを隠そうともせず、
彼らとはまたべつの価値観をしっかりと持ちすぎていた。
それがためにルルドを下流においてやろう、何とかして引きずり落として侮ってやろうとする
スイレンの干渉も意地悪も加熱したのではあるが、実際、その横行を許すだけのことはあり、
ルルドピアスはあちこちが隙だらけで、
騎士を一人借りれば何とかコスモスまで辿り着けるであろう、それで万事うまくいくだろうと、下準備や、
後のことは何も省みずにそう思っていたほどに、夢と現の区別があまりついていないようなところがあった。
このこと一つとってみても、姉妹の指摘するとおり、世間知らずにもほどがあるというものである。
「だから、私たち、貴女に付いてゆくことにしたのよ、ルルドピアス」
レーレローザとブルーティアは、馬車に備え付けの折りたたみ式の卓を出してくると、
それぞれの前に布を広げ、御者のガードに少しの間、馬車を停めてくれるようにと頼んだ。
「そろそろ、私たちの残した書置きに気がつく頃かしら」
そして短剣を引き抜くと、何をするつもりなのかと見ているルルドピアスの前で、その頭を傾けた。
続いてあがった馬も愕くほどの絶叫は、ルルドピアスのものであった。
「レーレ!ブルティ!」
視界に揺れたのは、手鏡の反射だった。
麦を刈るような音が続いた。美しかった姉妹の髪は、肩のあたりで、ばっさりと短く切られていた。
落ちた髪を布にたたみ込み、短剣を仕舞うと、
「せいせいしたわ。長い髪、面倒だったのよ」
唖然としているルルドピアスの顔を見つめて、
「生意気にも、私たちとの縁談を断った者が一人いるそうよ。
 待っていらっしゃい、ハイロウリーンの王子さま。
 あちらがこちらを選ぶのではない。私たちが、あちらを見定めて選ぶのよ。
 そして追っていらっしゃい、トレスピアノの御曹司。もう誰も、貴方のことを、止めなくてよ」
男装の少女たちは、そう云った。

 

「続く]


back next top


Copyright(c) 2008 Yukino Shiozaki all rights reserved.