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[ビスカリアの星]■六二.


入り江に面した離宮からは、夜の虹がみえた。
夜空の一部をゆがめたようにして現れる、そこだけに色硝子を流し込んだような彩りは、
星座の巣からこぼれる翅のようなうごきで、その色を変え、かたちを変えた。
「トレスピアノに上がられたリィスリ様も、ご幼少の頃はこうして、
 この露台からあの極光をご覧だったのですよ」
もっと近くで見たかった。
だけど、あの光の真下に行った者は、氷の柱に変わってしまうのだそうだ。
火山性の石が、硝子状に変質した珍しいものを、イクファイファお兄さまが宝物箱の中に持っている。
夜空に現れるあの虹は、その色に似ている。
流れ出た溶岩が色彩を閉じ込めたまま冷えてかたまった石だ。
手のひらにおくと、石の中に時をとめた赤、緑、橙、青の透きとおった色々が、
大昔の炎の記憶のままに、日差しに踊った。
ユスキュダルの石?
訊くと、イクお兄さまは、違うと云った。
違うよ、それは海の向こうの火山島で採れるものだよ、ルルド。
そうして、イク兄さまは同じ箱から別の石を取り出して見せてくれた。
こっちが、ユスキュダルで見つかった星の石。
大変に貴重で、少ししか採れない。
地上の何処にもない、強い翠色をしていた。誰かの、眸の色のようだった。
流れ星の力を、今に伝える珍しい石だ。
夜が明ける前、ほんの少しの間だけ、東の空を掠める翠色。その色。
夕暮れの野を染める、淋しい色。
ルルドピアスはその中を走っていた。
夕風にいっせいに揺れる草の葉裏が、時折うす青く残照に浮かび上がり、それは波頭に似ていた。
「ルルド」
「ルルドピアス」
風は冷たく、日の落ちた野は、霧がかかったようにぼんやりと霞み、
黄昏の空は星を浮かべ、地平に朱色を薄く刷いたまま、深い藍色に変わろうとしていた。
駆けっこをしても、いつも負けた。
竜の血を持つ者と比べられては、勝てるはずもない。
それを見てお城の人々が何か云っていた。彼らはこちらを見て微笑んでいた。べつに良いではありませんか。
波の音のように、それはいつも自分の周囲にさざめいていた。
リィスリ姫も、騎士にはならなかったのですから。
「ルルド」
追いついたレーレローザは、ルルドピアスの腕を取った。
駆けっこをしても、いつも負けた。
しかし、レーレローザは少し息を弾ませていた。「追いつけないかと思ったわ」。
あたりの暗闇が一段と濃くなったようだった。
後にしてきた馬車の灯りが、地上に堕ちた小さな星のように、草の向こうに見えていた。
レーレローザはしっかりとルルドを捕まえたまま、
「貴女が前触れもなく馬車を飛び出して、私が追う側であったとしても、貴女は裾の長いドレス姿のままなのよ。
 それなのに、みるみる後ろ姿が遠くなるので、慌ててしまった。
 飛び立つ鳥のように、羽根を持つ者のように、闇に消えてゆくのよ。この私が追いかけているのに!
 捕まえられないのではないかと、本当に怖かったわ。
 忘れていたわ、貴女も、いいえ、貴女こそ、強い竜の血を潜在的に持っているってことを」
「お世辞を云わなくていいのよ、レーレローザ」
ルルドはドレスを握り締めた。きっと汚れていることだろう。
「貴女とブルティが、いつも私に手加減してくれていたことくらい、知ってる」
「いいえ」
レーレローザは、きっぱりと否定した。
レーレローザはルルドピアスの肩を掴んで、睨むようにして云った。
「見間違えることはないわ。翼あるものか、そうでないか、その別くらい」
「レーレ」
「ルルドピアス、突然馬車を降りたりしてどうしたの。わけを云って頂戴。何処へ行くつもりだったの」
「一人でいいわ」
ルルドピアスは差し出されたレーレローザの腕から逃れ、幼子のように首をうち振った。
「あの蒼い星の下にあるはずよ」
それでは、コスモスへ向けてこの娘は走っていたのか。
(呆れた)
レーレローザはまじまじとルルドピアスの顔を見つめた。
赤ちゃんみたいなルルドピアス。こういうところがさっぱり分らない。
私たちがお母さまの悪口を云っていたから、それで辛くなったのかしら。
それとも、ブルティと私がいきなり髪を切ったのを見て、それで、愕いてしまったのかしら。
動揺したのは分るけれど、それが、どうしてこんなに唐突な逃走になるのよ。衝動的すぎるわ。
向こうにおいてきた馬車の扉が開いて、ブルーティアがこちらを見ていた。
御者台にいる騎士ガードと二言三言何かを相談した後で、ブルティの手で馬車の灯りがかなり絞って落とされた。
岩陰に寄せてあるとはいえ、闇が濃くなってきたので、そのままでは灯りが目立つ。
しかしレーレローザは、城砦に遺してきた置手紙の内容に絶対の自信があるものか、
ルルドをせかそうとはしなかった。
荒野の風から守るように、レーレローザは黙り込んだルルドピアスの背を撫でて、あやすようにした。
「何でもいいわ、貴女の声をきかせて頂戴、ルルド」
この姫君たちは子供の頃からこんなことばかりを繰り返していたので、ルルドの感情に訴えることなど造作もなかった。
こちらも泣きそうにしてみせればいいのである。
頬を寄せて、レーレローザは繰り返した。
「貴女がそうやっていると、私まで辛くなるわ、ね、ルルド……」
やがて風に混じったのは、ルルドのすすり泣きであった。
「髪の毛を切るなんて。レーレ、あなた達が、髪まで切ってしまうなんて」
それは小さな泣き声であっても、張り裂けんばかりの怒りと哀しみに満ちていた。
レーレローザは、決まりの悪い想いで肩口に揺れている髪を手でおさえた。
切ったのはこちらの髪であり、ルルドの髪ではないのに、毎度のことながら何故こんなにも、
ルルドピアスは吾がことのように嘆くのかが、よく分らない。
夜明けの光のような美しい色だと、三人とも、それだけは同じように褒められていた髪だった。
ルルドピアスには、三人の絆が断ち切れたような気持ちがするのであろうか。

(莫迦らしい)

とは、口には出せなかった。
顔をそむけたルルドピアスの泣き顔が、薄暮の中にも、はっとするほどに可憐だったから。
「あなた達がそんな風に、私とスイレン様のことを見ていたなんて、哀しいわ」
ルルドピアスはレーレローザの胸に凭れてすすり泣いた。 
白く輝く北の星座が少女たちの上にあった。
「ルルド」
心配してくれなくてもよかったのに、とルルドは訴えた。
「本当の心ある親切と、そうではない見せ掛けの区別くらい、私にだってちゃんとつくわ。
 そうよ、それこそ、翼あるものかそうでないかほどに、それほどに違うものだわ」
前者は無音のうちに、そして後者は無音のふりをして、陰でご自分のご親切ぶりを大声で喧伝して回る、
こうしておけば後々自分が感謝されるだろうことをあてこんで行われる作為的なものであり、
そして、自己中心的な種類のものだわ。
おかしいわね、人って、そんなことに手を染めた瞬間に、取り返しがつかないほど後退してしまうのね。
「だからといって、スイレン様を責めようとは思わないわ。
 それは世間ではもっとも許容され、理解されて生きやすい、認められる方法なのだから」
もし仮に、あなた達の云うように、スイレン様がその目的のために私を使って、
ご自分にとって都合のいいご評判やご同情を得るために、そういった噂をわざわざ流しているのだとしても、
それなら、そうすればいいと、そう思うわ。
人の心がけをすべて取り上げて自分の功績にしてしまいたいなら、
そうすることで、ご自身の人格や品性が数段にも高まったような気分になるのならば、そうすればいい。
「だって、そんな遣り口でどんなに人を足許に落とそうとなさっても、
 その障壁が高くなればなるほど、私のことをちゃんと見てくれる、
 本物の温かな心ある人たちの言葉だけが、私の心には届くのだもの。
 本当に思い遣りのある人ならば、そのようなことは決してしないことを、私は知っているもの。
 同じことをしていても、それはまったく別の作用を果たすのだもの」
「そうよ、そのとおりよ」
「だから、気にしていなかったわ。優しさとは、決して上目線から喧しく与えられるものではなく、
 眠っている間に、何処かから飛んできた小鳥が小さな実を枕元においてくれるようにして、
 知らないうちにそっと優しく差し出される、そのようなものの事だもの。間違えることなんか、ないわ」
「そうよ。なのにお母さまは、
 『これだからルルドピアスよりも自分のほうが値打ちがある。』と、ただそれだけを、
 ご自分や周りに認めさせ、ご自身に納得させたい為だけに、
 ああして、ご親切面した偏見をたれ流したり、上っ面の理解者面を崩さずにいらっしゃるのよ。
 お母さまが本心で望んでおられるのは、ルルドがいつまでも、
 自力で一切努力をしたことのない、何の才もない者でいることなのよ。
 そのための、あの陰での多弁や、善行日記や、過干渉なのよ。
 もしルルド自身の内面から生まれる美質が認められることがあったとしても、
 それはすべて自分の手引きのお蔭だと今のうちから世間に向かって喚きたてることで、
 何もかもを取り上げて、ルルドを突き飛ばし、自分が前に出て勝ち誇りたいのよ。
 お母さまの行動原理にあるものは、恩人の顔をして人を踏みにじり、自分が上に立ったつもりになること。
 思い遣り深そうなご自分を売り込むことで、その対象である人を孤立させて潰すこと。
 都合が悪くなったらすぐに、『わたくしの思い遣りが通じなかった。』、人々の同情を散々に浴びながら、
 舌を出して知らん顔をすること。そのほうが楽だもの」
レーレローザは拳を握り締めた。
それはちょうど、姉妹が髪を切り落としたことでルルドピアスが嘆いたのと同じ、
吾がことではないことに憤りを覚え、理由を問い詰めずにはおれない、やり場のない無念であった。
正直に云うわ。ハイロウリーンとの縁談話が持ち上がった時、私は貴女に勝ったような気持ちが、少ししたの。
ルルドのほうが男の方たちから人気があるのだもの、内心では面白くない時もあったことを、認める。
そしてぞっとした。これでは、まったくスイレンお母さまと同じじゃないかって。
ブルーティアの云うとおり、人は、そんなことを考えて誰かの上に立とうとした瞬間に、
その振る舞いも言葉も、それまでとはまったく別のものになってしまうのね。
恩を押し付けて回った途端に、それは親切という美徳を一切失くし、慾深い自己顕示欲にしか過ぎなくなるのね。
昇っているつもりで、必ずいつか堕ちてしまうのね。そうなりたくはないわ。
「私たち、悔しいのよ、ルルド。
 ルルドピアスの、せっかくの生まれもった良いものが、
 お母さまの手によって片端から値打ちのないものに変えられて、語る資格もないあの口でいいように語られ、
 云い触らされ、見世物にまで貶められてしまうのが。
 お母さまが方々で訴えている口癖はこうよ。
 『ルルドは何もわかっていない。だからわたくしが教えてあげたのです。あの子はこのことを知らないだろうけど。』
 違うわ、偽りの優越感を得るだけの目的で、わざわざルルドに付きまとい、
 上目線からの干渉を繰り返すことで、ルルドという一人の個を、びりびりに引き裂いているだけではないの。
 こうしておけば自分の手柄になる、自分の美談になる、その為に、一人の人間を犠牲にしているだけではないの。
 それのどこが恩人なの、それのどこが善行なの。
 私たちがルルドのことが好きなのは、決して、お母さまの采配でそうしているのではないことよ。
 ルルドピアスが城を離れて、離宮に行ってしまった理由だって、分っているつもりよ」
「あなた達は正しいのかも知れないわ」
優しく同意してやることで、ルルドピアスはレーレローザを慰めた。
だけど、そのことでスイレン様とあなた達が仲違いするのなら、居た堪れない気持ちがします。
「あなた達を、巻き込むのではなかった。
 いつも頼りないといわれるけれど、レーレローザ、私にだって、信じるものがあるのよ。
 でも、その為に、あなた達まで命の危険に晒すことになるならば、私は考え直さなくてはならない」
「命の危険ですって」
レーレローザは眼を瞠った。
強い風が吹き付けた。
それは夜であり、星の風だった。
蜘蛛の糸のように暗闇に踊る淡い金色は、ルルドピアスの髪だった。
失くしたと思っていた物も、この姫がいい当てた。そして、それは何ヶ月も経ってから、不意に、
「あそこにあるわ」、と顔を輝かせて呟かれるものだった。
人々が奇妙に思い、こちらを見てうろんげに囁いていることにも構わずに、幼子のように顔を明るくさせて、
レーレローザとブルーティアの腕をとり、
失くし物が隠れているその場所をはやく教えようと走り出すルルドピアスは、純粋な歓びに満たされて、
この世の者ではない、安らぎか何かのようにして、姉妹の眼には映ったものだ。
オーガススィは雪と光の帳が降りる国。
大地の終わりを告げる北海を見つめて、彼女たちは育った。
春になると海崖には白い花が咲いた。
夕暮れ刻の鐘の音、天に向かって伸びる虹の柱を、城の塔から三人で見ていた。
そうよ、レーレローザ。
私は後悔しています。あなた達に、話すのではなかった。
「付いて来てもらうのではなかった。それとも、もう遅い。それでも、私は往くだろう、コスモスへ」
「ルルド」
「オーガススィにお別れを告げてこなかった。懐かしい人々」
「何を云うの。ルルド、ルルド、しっかりして------。嫌よ」
何やら冷たいものが首筋に触れた気がして、レーレローザは馬車に向けて声を張った。
ブルーティア、来て頂戴。ルルドピアスの様子がおかしいのよ。
妹が馬車から降り立つのを、さらにレーレローザはせかした。
「ブルーティア、早く来て。ルルドを馬車に戻すのよ。嫌よ、ルルド、私たちはいつまでも一緒よ」
悪い予感がした。
風から自分たちを守るように、暗闇の中でレーレローザはルルドピアスに抱きついた。
どうしてそんなことを云うの。不安にさせないで。
いつか、貴女は私たちから離れて行ってしまうような気がしていたわ。でも、こんなに早くじゃなくてもいいじゃない。
あのややこしい宮廷にあって、人々の思惑が入り乱れる、恩着せがましい、
居丈高ないやらしい女たちの中にあって、意地悪ではない人なんて、ほんの僅かしかいなかったわ。
栄達の為、私欲の為、利用するために笑顔ですり寄ってくるような人間ばかりだったわ。
頼みもしない恩を泥のように押し付けて、心を取り上げようとする、あんな人たちから逃げるのよ、一緒に。
私たち貴女に附いて行くわ。知る限りでいちばん無垢な人、私の妹、
貴女を護る為に私たちは騎士になったのに。
ブルーティアは、レーレローザとルルドピアスの様子に愕いて、少し離れたところで立ち尽くした。
独立と決別の宣言のようにして勇ましく断ち切られた姉妹の髪は、かえって彼女たちをか弱いものにみせていた。
風が唸った。
「私のルルド。どうか」
低木の根に躓いたレーレローザを、ブルーティアが支えた。
夜を擦る草の音は、獣の咆哮のようだった。
髪をなびかせてルルドピアスはそこに立ち、もう誰の声も、何も聴こえてはいなかった。
嵐に負けぬものがあるとすれば、嵐を秘めた心である。
荒野に灯る一つの火のように、やさしい顔で、月を見ていた。


ところで、娘たちがどのように母スイレンに対して手厳しい意見を持っていようとも、
母はやはり母であり、そしてスイレンは、何といっても次代領主夫人であった。
小トスカイオに率いられて鷹狩りに来た遊興のご一行は、その晩は城砦で泊まることになっていたが、
何事においても華美を嫌う小トスカイオの意向を反映して連れてきたご家来衆も小規模の仕立であったが故に、
人手が足りないその分、侍女たちも、それを采配する奥方も忙しく、
しばしの間、完全に後回しになっていたところもあった。
そんなスイレンにようやく暇が出来、姫たちの様子を見に行かせたのは、
夕闇もすっかり濃くなった頃であった。
後はお定まりの騒ぎである。
晩餐の支度が整うまでの間、一室に集まっていた男たちの許にふらりと現れたスイレンは、
それを見た男たちが何事かと一斉に立ち上がったほどに、それほどに青褪めていた。
しかし、スイレンは、あの娘たちがこの場に居合わせたなら
きっと母親を見直したであろう立派な態度をみせて、
傍目にも分るほどのおののきを努めて抑え込み、一同に向けては、
「何でも御座いませんわ。どうぞ、引き続きお寛ぎあそばして」
にっこりと微笑みまでみせたものである。
多少なりとは、そのような登場の仕方をすることで、人の耳目を同情寄りに集め、
「ご立派な奥方」の像を意識していなかったとはいえぬものの、
娘たちの置手紙を片手にしっかりと握り締めているスイレンに、それ以上云うことは酷であろう。
「誰かを遣わすよりも、わたくしの口からお伝えしたほうが、
 無駄な時を遣わずにすむと思ったのですわ。あなた」
呼ばれた小トスカイオはすばやく応じ、そんなスイレンの腕を取って歩廊に出て行った。
「どうしたのだろう」
後ろを振り返って、イクファイファは首をかしげた。
駒将棋の盤をはさんで向き合っているシュディリスは「さあ」、と短く応えた。
その声が、ぞっとするほど冷たい。
長椅子に斜めにかけて、窓の桟に片腕をのせ、
少々行儀が悪い態をつくっているのも、常の彼ならずして彼らしく、
心ここに在らずのシュディリスはスイレンが入ってきた時こそ少し顔を上げたものの、
あとは盤の上の駒を適当に動かしては、また窓の向こうに顔を向けてしまう。
あれから、今日のところはとにかく落ち着いてくれ、君の歓待をかねたこの狩りを不首尾に終わらせては
城でお待ちの父上がどのように思うことだろう、ここはひとつ、小トスカイオ兄と僕の顔を立ててくれと、
何とかシュディリスの説得を果たし、
とにかく他に気をそらせることだと将棋を持ち出してきたのはいいが、シュディリスの機嫌はよろしくない。
先刻なども、男同士の付き合いに何の遠慮がいるものかとばかりに狩りの汗を流す風呂にも共に入り、
ご機嫌とりの笑話を次から次へ持ちかけながら、もうもうたる湯気の中でいそいそと世話をしてやったのに、
未だにそのご気色はまったくよろしくなく、変化なしなのである。
(関心を引こうと必死な男をさらに突き放すことで手玉にとろうとする悪女か、お前は)
辟易してイクファイファはそんなシュディリスの顔をうかがった。

(何かこう、あれだな。意志強固といえばきこえはいいが、
 この御曹司は実のところ、相当に頑固で、偏屈な男だな。
 連日の宴や遊興は、歓迎会ではなくオーガススィに留めるための計略かときた。鋭い。
 不満はもちろんのことと思うが、それでもだな。
 弟がいるということだが、このような兄君では、苦労しただろうな)

気遣いも、すでに心労の域である。
シュディリスの眼前に、黒駒をすすめて、イクファイファはため息をついた。
どうもこの駒将棋、こちらの勝ちのようだが、
ここでわざと負けても、「気遣い無用」とそっけなく軽蔑されるだけであろうし、
かといって勝ったところで、事態が好転することは、まずなさそうである。
(こんなことになるのなら、グラナンを連れて来ればよかった)
グラナンの名こそ、禁句である。
なんとなれば、今すぐにでもオーガススィを出て行かんとするシュディリスを押しとどめる為に、
「よかろう。君は自由だ。フラワン家の方のご意志を止めるだけの力は、こちらにはない。
 だが君が軽率な真似をしたら、残されたグラナンは、
 君の後ろ盾を失い、すぐにでもまた監禁されるやもしれぬのだぞ。それでもいいのか」
売り言葉に買い言葉で、うっかり脅してしまったからである。
それにしても、あのグラナンならば、せっかくの将棋にまったく集中しないことで、言外に
不本意と不愉快を強烈に主張している、こんな厭味ったらしい男の扱い方も慣れているであろう。
と、そこまできて、イクファイファには名案が浮かんだ。
いかに、ご機嫌斜めなシュディリスであろうとも、罪なき少女たちにまではあたるまい。
「あ、すまん」
袖に引っ掛けたふりをして酒盃を派手にたおし、まだ勝負のつかぬ盤の上の駒を
修復不可能なまでに転ばせておいて、はははと笑い、
あまりのわざとらしさにこちらを見ようともしないシュディリスに、イクファイファは、
「いやー、今のは絶対に君の勝ちだったよな。台無しにしてしまってすまないすまない。
 そうそう、将棋については、妹のルルドピアスも嗜むのだ。
 そしてルルドピアスよりも、レーレローザとブルーティアの二人が、これまたなかなかやるのだ。
 彼女たちには、僕もたまに勝てない。どうだろう、ひと勝負してみては」
持ちかけてみた。
返事はない。
気まずく、イクファイファは立ち上がった。
「呼んでくる」
すると、シュディリスも立ち上がった。
附いてくるので何かと思えば、
「少し、涼みたいから」、とのことであった。
何であれ、あのまま殺伐とした将棋を続けているよりはまだましである。
連れ立って回廊に出ると、狩りをしていた野が一望出来た。
群青色に冴える夕暮れ刻の空には、流れる雲があった。
蛇行して流れる河の傍の三日月湖は、残照を映してあかかった。
それは淋しい風景だった。
視界いっぱいに広がるたそがれは、夜に塗りこめられる間際の鮮やかに燃えて、上空には、風が唸った。
竜の亡霊の咆哮にも聴こえた。
「怒っているのかな」
イクファイファは柱に手をかけて、身を乗り出し、夕闇に流れる雲を仰いだ。
つけ加えた。
君のことじゃない、シュディリス。竜だ。
「怒ってるのかな。あなたを斃した騎士の末裔が、此処にいることに」
その身に剣を突き立てた、トレスピアノとオーガススィの二つの血脈が、
いぎたなく、こうしてこの世に、未だ健在であることに」
応えるように、吹き降りた風が野を翔け、低木がひゅうひゅうと鳴った。
そんなに怒りたまうなよ、とイクファイファは闇の濃くなる虚空に向かって、笑って云い放った。
「絶滅したあなただけではない。
 緩慢にしろ、僕たちだって、衰退の途上にあるのさ。
 竜の血は確かに恩恵かも知れないが、それは必ずしも、栄耀栄華を意味しない。
 生まれつきの重責であり、枷であり、そしてそれを自覚した時から延々と続く、呪いであり、苦しみだ」
そんな時のイクファイファ・クロス・オーガススィの顔は、確かに、オーガススィ騎士のものであった。
それでも、僕たちはそれを超えるだろう。
断末魔のあなたが最期の炎を吐いたように、
女の身ひとつで、オフィリア・フラワンが騎士を護るため、その前に立ちふさがったように。
「その炎の波をとび超えて、ヴィスタチヤの開祖が、あなたに剣をふるったように。
 人々よ、彼らは何処へ往ってしまったのだろう。僕たちの中に、少しは、彼らの名残があるのだろうか。
 僕が喋っているこの言葉は、この精神は、果たして僕のものなのだろうか。
 あなた方が、再び僕たちの姿を借りてこの生をいきているのではないと、いったい誰に云えるだろう。
 イクファイファ・クロス・オーガススィ。これが、僕の名だ。竜を斃した者であり、そしてその竜の血を有す。
 竜神よ、空の高みからご覧であるなら、霊苑でお笑いあるといい。
 身のうちに滾るこの古びた竜の血を、時にはなだめ、時には開放するを繰り返し、
 僕たちは、見苦しく、あさましく、こうして生きるほかない。いつの日かこの大陸が海に沈み、
 この体内に脈うつ竜の血が溺れて絶える、その日までね」
手すりに凭れて、イクファイファとシュディリスは夜になる空を仰いだ。
星が出ていた。
風は、もう、穏やかだった。
「シュディリス、君はユスキュダルの巫女を、知るのだな」
ああ、僕は想う。
イクファイファは星の輝く天海に向かって片手をおよがせた。
かの方がこの世においででなければ、どれほど多くの騎士が、
身の内から溢れんばかりの異常な力に振り回され、自己を蝕んで果てるほかなかったであろうかと。
超上の能力を持ちながら、まったくその遣い方に道筋を見出せず、いたずらに暴挙を重ね、
悪徳の中に腐り堕ちるばかりの憐れなる者が、どれほどいたことであろうかと。
竜をしもべとしておられたユスキュダルの巫女が、竜の血そのものを支配されることで、
太古と変わりなく我らの高みにおわしますからこそ、我らはかの方を至高のものとして仰ぎ、崇拝し、服従することで、
命賭してもと願うものを心の支えとして、こうして身を律することが辛うじて叶うのだな。
ひとまずはこの愚かな一本道に均衡を見出し、迷うことがないのだな。
永遠の命をお持ちであるかに想われる、その御方とは、どのような方であられるのだろう。
流れ星がこの地に落ちた時、この世に降り立たれた、この美しい星々の后さまなのだろうか。
カリア・リラ・エスピトラル。
亡国の王女であられたその方が、何故、当代の憑り依に選ばれたのだろう。
どうして、女人の姿の中に、その霊力はやどりたまうのだろう。
巫女の力とは、一代一代、ひらいては閉ざされて、
時から時へと受け渡され、受け継がれるものなのだろうか。
「二十年前、先代の巫女は、幼き王女カリアのユスキュダル到着を待っていたように、
 そこで地上の役割を終えられたそうだ。そんな話も、微かに伝え聴くばかりだ。
 その尊き御方が、この星空の続き、コスモスに、おやどりあるとは」
お逢いしたいばかりだ。どうしても、お逢いしたいと想うのだ。
たとえこの逸る気持ち、これこそが、竜の血の呪いの為せる業であったとしても。

「で、僕は君に訊きたいわけだ。巫女さまは、どのような御方であったかと」

おもむろに、イクファイファは馴れ馴れしくシュディリスの腕に腕を絡ませた。
顔は笑っているが、逃すまじという眼をしている。
話が女に及んだ時の好奇心に満ち溢れた男の顔というのは、年齢問わず、
どうしてこうも同じ顔をするのだろう。イクファイファは口許をだらしなくさせて、
「不敬だなんて、かたいこと云うなよ」、肘でシュディリスのわき腹をつついた。
「何しろ当家にはユスキュダルの巫女の姿として選ばれて、しばしば画家の筆にうつしとられた
 リィスリ様がおられたのだ。子供の頃からそれらの画を見て育った僕が、
 巫女さまに人並み以上の関心を持つのは仕方がないじゃないか。
 で、どうなんだ。君はあの方と一晩、森の中でご一緒に過ごされたのだよな。で、で」
「何もなかった」
「当たり前だ。何かあったら困る。許さんぞ」
「なら、もう話すこともない」
少しでいいんだ、出し惜しみするな、美人だったか、どうだった。
結局そこか。
菓子をねだる子のような絡みようをして付きまとうイクファイファ王子を押し退ける。附いて来る。
「いいじゃないか、少しくらい、話せよ」
「断る」
「じゃあ、君の妹の話をしろよ。リリティス嬢はお母さんに似て凄い美人らしいじゃないか」
長い廊下でふざけあううちに、シュディリスは、ふと思いついたことを、そのまま口にした。
カリア、リラの君と呼ばれておられるあの御方、そういえばどことなく、ルルドピアス姫に似ていないでもなかった。
お顔立ちではなく、姫君にも少し不思議なところがあるせいで、そう想う。
風もないのに、隅におかれた松明から、火の粉がこぼれた。
予想外の反応をみせて、イクファイファ王子の顔つきが変わっていた。
「ルルドピアスに」
シュディリスを掴んでいたイクファイファの腕が、だらりと下がった。
「そうか、ルルドに。------そうか、やはり君の眼から見ても、妹は、変か」
王子は、病を宣告された者のような、難しい顔をした。
妹を想うあまり、その口調は痛ましかった。
あれは可哀相な妹なのだ。母が早くに他界したこともあって、家中の者たちで可愛がってきたつもりだが、
どうも過ぎたる霊力に押し潰されそうになっているのか、危なっかしくて見ていられないことがある。
そうか、それならもしかしたら本当に、父上や兄上が云うように、騎士家とは関係のない、
何処か静かな処で過ごすほうが、ルルドにとっては良いのかもしれないな。
「可哀相な妹なのだ。君さえよければ、フラワン荘園にもらってやってくれないかと思うほどだ」
そこへ、廊下の奥から金切声が響いた。
「バラス家の者だろうが、ジュシュベンダ騎士だろうが、今すぐにグラナンなる者を解放あそばして!」
スイレンの声だった。


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シュディリスとイクファイファは互いに動きを止めて、様子をうかがった。
足音をしのばせて声を辿り、階段の一番下の段から角からそっと覗うと、
小部屋のようになったそこには、小トスカイオとスイレンが居て、スイレンは夫に手紙を突きつけていた。
「あなたは、娘たちが心配ではないのですか。
 レーレローザ、ブルーティア、ルルドピアスは、三人だけで行ってしまったのですわ。
 娘たちは騎士だから大丈夫ですって、では、もし賊にでもあの子たちが襲われた際には、
 レーレとブルティの二人が闘って死んでもいいと、そうとでも仰るの」
「落ち着きなさい、スイレン」
「そうですわ、確かに、わたくしの娘たちは騎士ですわ。
 あの子たちにもし何かあれば、勇敢な娘たちのことですもの、きっと闘うと思いますわ。
 それがオーガススィの血統を、最も誇り高く内外に誇示する何よりの証ですもの、
 だから娘たちが剣を持つことを、わたくし、今まで一度たりとも止めたことはありませんわ、
 コスモスと、オーガススィの貴重な青い血が、あの子たちには流れているのですわ。
 でも、わたくし、そのことを今日ほど後悔したことはございません。他でもない、
 あの子たちの父であるあなたが、あの子たちが騎士であるが故にあの子たちを見棄てると、
 そうしても構わないのだと、そんな酷いことをたった今、母親であるわたくしの前で、平気で仰ったのですもの!」
「そんなことは云っていない」
「何という情けないことでしょうッ」
重なり合うようにして物陰にひそんでいるイクファイファとシュディリスからは後ろ姿しか見えなかったが、
こちらに背を向けている奥方は、動転はしていても、さすがというべきか、どうやったら夫を動かせるのか、
その機微だけはこのような際においても外してはいなかった。
一呼吸おくと、ただちにスイレンは頭を働かせて、夫の説得方を別口に切り変えた。
「わたくし、これでもオーガススィ家の嫁ですわ。実家はコスモス家ですわ。
 騎士というものがどのようなものであるか、それくらい、よっく承知ですわ。
 よろしいわ、では百歩譲って、レーレローザとブルーティアについては、
 己が信じる道に向かって歩むが宜しかろう、たとえあの子たちが野辺に無残な屍骸を晒すことになろうとも、
 誰にも止めることは出来なかったのだ、あの子たちは騎士としてその宿命に生きたのだからと、
 そう決めて、血の涙を呑んでも堪えることになってもよろしいわ。仕方がありませんわ、
 あなたはそう仰りたいのでしょう、それが騎士だと仰りたいのでしょう。
 それがオーガススィ騎士の矜持ならば、わたくしには何ももう云うことは出来ませんわ。
 でも、あなた、それでは、ルルドピアスはどうなりますの。あなた方の、小さな妹姫は」
小トスカイオの顔が曇るのが、見えるようだった。
ルルドピアスの名は、スイレンが意図したとおり何か特別の響きでもって、さも諸悪の根源のように聴こえた。
イクファイファが手を握り締め、シュディリスがその手に手を重ねた。
娘たちの置手紙を読んでいる小トスカイオに、スイレンはじりじりと迫った。
夫の顔に表れた苦渋こそ憎たらしいとでもいうかのように、頃合よしとみてスイレンは声を荒げた。
トスカ=タイオ様の大切な末の姫、あなたの歳の離れた妹御である、ルルドピアス姫はどうなりますの。
「私たちの娘たちのように、身を護るすべもなく、気丈な気質でもなく、
 剣を揮うことも出来ない、騎士でもない、あの姫はどうなりますの。
 レーレローザの書き遺したその手紙、その字はレーレの字ですわ、その手紙を信じるならば、
 ルルドを連れ出したのは、私たちの娘ですわ。
 何かあっても、娘たちについては勝手をした自業自得だと諦めもつきますわ。
 でも、ルルドピアスは、どうなりますの」
「騎士ガードが----」
「騎士がひとり、あの子たちに附いているから大丈夫だと仰いますの。その保障がどこにありますの。
 馬車を引き出したそのガードとかいう者、イクファイファ王子が贔屓にしている者でしたかしら。
 若造ではありませんか、それにもましてレーレローザに懸想している慮外者だとか聞いておりますわ。
 あまりにも分を超えてレーレに近づき、無体をはたらく素振りを見せるようならば、
 ガードとやらを沖の離島の防人役にでも流してやらねばならぬと、そう考えていた矢先ですわ。
 あなたはそのような者に信をおかれるつもりですの。
 もしかして、これはブルティとルルドを人質にとった上での駈け落ちではないかと、そうはお考えにはなりませんの。
 レーレローザとブルーティアとルルドピアス、聖騎士家オーガススィ家の姫が、三人も出奔したのですよ、
 ハイロウリーンとの縁組がすすんでいるこの大切な時期において、それを許されますの。
 なんというご立派な父親でしょう、それが男親として示すべき態度ですの威厳ですの、
 次代の領主とはそのような方でしたの、わたくしの夫はそのような方でしたの、あんまりですわ、ひどい」
後は夫を責め立てる女のくだくだしい言葉が続いた。
そこで、イクファイファが首をかしげた。
(ガードがレーレローザに?)
共に壁に身を寄せているシュディリスは、とりあえず首を振って、その疑いを打ち消した。
短い間にも、その両者は間近で何度か見かけた。
レーレローザとガードのその時の様子は、友人同士としてのそれであり、
とてもそのような雰囲気ではなかった。
さばさばとした調子で言葉をやり取りし、交互に鷹に触れては悪ふざけをして、一緒に笑っていた。
どうやら、スイレンは娘たちに近寄る男はすべて悪い虫だと思っているか、さもなくば、
そのような噂話をあえて持ち出すことで、夫に危機感を与えようとしているのであろう。
悲鳴が上がった。
スイレンの自制心もそろそろ限界で、彼女はまことに世の母親らしく、娘たちを心配するあまりに、
煮えきらぬ夫につかみかかり、「早く、探索隊を出して下さいませ、早く」、物狂おしく詰寄り、
逆に小トスカイオに抑え込まれたようだった。
お願いですわ、後生ですわ、手遅れにならぬ前に早くして下さいませ、スイレンは叫んだ。
「トレスピアノの御曹司に頼んで下さいませ。
 グラナン・バラスとやらと一緒に、両名をオーガススィよりすぐさま発たせて下さいませ。
 レーレとブルティの求めるとおりにしてやって下さいませ。
 あの子たちハイロウリーンとの縁談がそんなに厭だったのかしら、
 それならそうと云ってくれれば、決して無理強いなどしなかったのに」
「スイレン」
「それは出来ぬと仰るの。お前には分らぬと、お前には政務のことは理解できぬと仰るの。
 当たり前ではありませんか!
 オーガススィの嫁たるわたくしを除け者にして、いつも義理父さまとあなた達だけで
 万事を決めていらしたことを、わたくしが知らないとでも思っていらしたの。
 ヴィスタル=ヒスイ党、それが、そんなに大事ですか。私たちの娘たちよりも大切ですか。
 ならば、聖騎士家オーガススィも威容も堕ちたもの、
 他家の郎党のご機嫌と顔色をうかがわねば成り立たぬまでにおなりとは。
 誇りだ何だと偉そうに人に向かって云いながら、所詮は、オーガススィの男とはその程度のものでしたのね。
 タンジェリン出の后に自害を迫ってまでして、闘わずして己だけは生き永らえた、クローバ・コスモスと同様ですのね。
 何という薄汚い、意気地のない方々でしょう、ええ、わたくし、今なら云えますわ、云ってやります」
「黙らんか、スイレン」
「わたくしを叩くおつもりなら、叩きなさるがいいわ。
 自らは安泰を決め込み、小さき者に責を負わせてよしとする。
 小トスカイオよ、騎士の名を冠する方々よ、恥も誇りも知らないのは、あなた方のほうですわ!」
奥方のその口を遮り、小トスカイオは不意に、「イクファイファ」と、呼びつけた。
隠れていたイクファイファはとび上がった。

小トスカイオは再度促した。
歳が離れていることもあって、イクファイファにとっては頭が上がらない長兄である。
「イクファイファ。そこに隠れているのは、お前だろう。
 先刻向こうで遊んでいるのがちゃんと聴こえていた。立聞きは止めなさい」
「兄上。義姉上」
しぶしぶイクファイファは角を曲がって姿を現した。火影の後ろに、もう一人立っている。
「シュディリスも一緒なんだけど。どうしますか、彼には外してもらったほうがいいですか」
「ああ。これは。見苦しいところをお見せした」
「シュディリス様」
直ちにスイレンは夫の手から逃れると、この中で最も味方になってくれそうなシュディリスにしがみついた。
「お助け下さい……」
女は、網の中で身をよじる魚のようにして、涙ながらに若者に訴えた。
これは家の問題ではありませんわ、シュディリス様にも関係があるのですわ。
「なのに夫が聴き入れませんの。娘たちの命がかかっているのです、どうか」
片腕にスイレンを抱えたまま、構わずにシュディリスはもう片手を差し出して、小トスカイオに求めた。
「その手紙を見せて下さい」
進み出たシュディリスの青い眼は厳しかった。
「姫君方が、どうされたのです。そしてそれにわたしが関わるのならば、姫君が遺された、その手紙を見せて下さい」
小トスカイオはちょっと微笑むと、置手紙をまず、弟王子イクファイファに渡してしまった。
「小トスカイオ殿」
「年頃になって身を固める時期になると、これを最後とばかりに、若人は羽根を伸ばしたくなるもの」
空いた両手を広げてみせて、父トスカイオと同じ形のいい鷲鼻をした次期領主は、寛大な笑みを返した。
「自由が許されるうちに、思い切ったことをやってみたくなるもの。
 吾が身にも覚えのあること。そして御曹司、単身でトレスピアノを出て来た貴方もご同様では。
 ご懸念なく。うちのお姫さまたちが、妹を連れて、外に遊びに行ってしまったというだけの話です」
「何処にです」
「二重城壁に囲まれた市街からは大変なので、城から離れた今が最初で最後のその好機だと思ったのだな。
 どうりで、狩りに連れてゆけとねだっていたわけだ。これはどうも、娘たちに一杯くわされました」
「ルルドピアス姫も」
「そう」
小トスカイオはスイレンを庇っているシュディリスの顔を注意深く見つめながら、笑みを崩さなかった。
「あの三人は歳も近く、子供の頃から仲がいい。何をするのも一緒というわけです。
 無論あとを追わせて連れ戻しますし、行方もすぐに知れることとは思うが、
 今晩くらいは冒険をさせておいて、少しは親を出し抜いた得意の気分を当人たちに
 味あわせてやってもいいのではないかなと。
 スイレンは母親として当然ながらこの有様ですが、レーレローザもブルーティアもあれでいて腕は立つことだし、
 過剰な心配は今のところは不要です」
「それだけではないはず」
シュディリスは小トスカイオから眼を離さなかった。
柱の灯りの下に寄って置手紙を読み終えたイクファイファは、鎮痛な顔をして、両者を見比べた。
小トスカイオ殿。この一件に、何故わたしとグラナン・バラスの進退が関わっているのです。
「先刻、奥方は、ヴィスタル=ヒスイ党と云われた。 
 イクファイファからも少しは貴国と党の今後を聴いています。
 わたしに何故遠慮するのです。
 こちらの動き一つで姫君がたが無事になるのであれば、是非そうしたいと思います。
 ご遠慮なく、小トスカイオ殿。
 こうしている間にも、三人の姫君がたの上に難儀が降りかかっているやもしれません」
「わたくしの口からそれを申し上げますわ、シュディリス様」
スイレンはますますシュディリスの腕にしがみついた。
スイレン、と小トスカイオが妻を引き離そうとするのへ首を振り、
「猶予なりませんもの。申し上げますわ。そしてお願いいたしますわ。娘たちは、家出をしたのです」
「家出」
「スイレン、止しなさい。シュディリス殿から離れるのだ」
「娘たちは、オーガススィが、レイズンのヴィスタル=ヒスイ党を支援することを知ってしまったのですわ。
 誇り高いあの子たちは、それに腹を立ててしまったのです」
「スイレン!」
踏み出した小トスカイオの今度の叱咤は、本気のものだった。
それは低いひと声であったが、オーガススィ軍を率いる将だけあって、女の横っ面を張り飛ばすような威力があった。
しかし、シュディリスがスイレンを背に庇って逃がそうとするより早く、スイレンは自分から身を振りほどき、
真正面から夫に向き直った。
娘たちの命がかかっているこの時、スイレンの見せた態度はちょうど、先日ナナセラの砦で
シュディリスの母リィスリが見せたのと同じ、異様な迫力でもって、その場に居る男たちを圧してしまった。
しかしながらスイレンのそれは、リィスリがリリティスの無事を希う母の心でルイ・グレダンを感動させたのとはまったく別の、
ぞっとするようなものに満ちていた。
決して美しいとはいえぬその顔立ちには、何やら氷のような念が張り付いており、
もしやそれは、復讐の女神の顔であったやもしれない。
亡霊のように冷たく凝り固まった表情のない顔をして、スイレンは夫とイクファイファ王子、シュディリスを見比べ、
そしてまた小トスカイオへと視線を戻した。
「あなた------」
ざらついた声音だった。
あなたは、次代領主夫人として、城の女衆を束ねることがどれほど大変か、お分かりではないのでしょうね。
あちらにもこちらにも気を遣い、人の顔を立てたり調和をはかったり、云いたいことも呑み込んで
勝手なことばかり云う女たちを束ねる、その苦労や面倒が、お分かりではないのでしょうね。
少しでも隙や弱みを見せれば、すぐさまに傷つけてやれるところを見つけたとばかりに心ない嘲笑や厭味が降ってくる、
そんな女たちの上に立つ、わたくしのことなど、何ひとつ考えては下さらないのですね。
レーレローザとブルーティアのことは、よろしいですわ。
騎士に生まれた娘たちですもの、どうなっても、それがあの子たちの天命だったのだと諦めもつきますわ。
わたくしに反抗ばかりしていた娘たち、今度のことも。
でもそれこそが、騎士の血の証なのだと、わたくしも誇らしかった。
わたくしがこの家に隷属し、あくせくと配慮を重ね、日々をうつろな社交に消耗しているのとは違い、見てご覧なさい、
レーレローザとブルーティア、あの子たちはちゃんと自分の意志で飛び立った。
「天晴れな娘たちだと、褒めてやりたいくらいですわ」
「何を云っているのか自分で分っているとは思えない。倒れそうではないか、スイレン。
 イクファイファ、誰か呼んでくるのだ」
「でも、あなた。ルルドピアス姫のことは、どうなりますの」
スイレンは笑っていた。
今こそそれを夫に向かって云ってやるのだという歪んだ歓喜と気迫に満ちて、その口端はわなわなとふるえ、
そしてその見開かれた両目には積年の恨みの涙が浮かび、奇妙にもこぼれることなく、
スイレンの眸を潤ませていた。
ルルドピアスのことはどうなりますの。あなたが実の娘たちよりも目にかけて、膝にのせて可愛がっていた、あの姫は。
無力でかよわい、風にもあてぬように大切にされ、城中の者が甘やかしてきた、あなた方の妹は。
「スイレン」
「シュディリス様に、お頼み下さい」
真っ直ぐにシュディリスに指を突きつけて、スイレンはそれを要求した。
ルルドピアスを取り戻したいのであれば、ここにおいでのシュディリス様に、お頼み下さい。
それしか手立てはありませんわ、そうして下さい。
トスカタイオ様とて、きっとそう裁断なさるはずですわ。
あの子たちはそれが履行されぬ時には、ハイロウリーンとの縁談を蹴り、
その上でハイロウリーン騎士団に一騎士として入隊し、身分を棄ててハイロウリーンに亡命すると云っております。
オーガススィを見限り、親の顔も忘れ、二度とふたたびオーガススィの地は踏まぬと。
シュディリス様および、シュディリス様の足枷として城に留められているグラナン・バラスを
即刻オーガススィより退去させ、ヴィスタル=ヒスイ党との密約を反故にして下さいませ。
わたくしには分っております。各国に相手にされなかったヴィスタル=ヒスイ党は最後の頼みの綱として、
わが国に対してこう脅迫してきたのでしょう。
天下のオーガススィを動かすに、卑劣な方法を用い、トスカタイオ様をこう脅したのでしょう。
意向に沿わぬ時には、党で預かっている領主殿の実妹、フラワン家の奥方リィスリ様の御命は保障しないと、
そのように書いて寄越したのでしょう。
「リィスリ様が何でまた、ヴィスタル=ヒスイ党に身を寄せることになったのかは存じませんが、
 翡翠皇子との艶聞で鳴らしたあの御方が、此度は何をするつもりで荘園からお出ましになったのやら。
 もて囃された昔が忘れられず、年甲斐もなくまたひと華咲かせようとでもお思いだったのでしょうか。
 それがうかうかとヴィスタル=ヒスイ党などの手に落ちるとは、何とみっともない。
 佳人とは、まこと国の内外にたたり、善良な人々に禍をもたらし、不吉の風と傾国を呼び込むものなのですわね」
癇症な笑い声をスイレンは上げた。
そのくせ、清純ぶった顔で人に手厚くされ、責任逃れをするのですわ。ルルドピアスにそっくりだわ。
だから美人は性格が悪いと云ったではありませんか。いつかこうなると思ったからこそ、
わたくしはルルドピアスを監視し、ルルドのことをいろんな人に頼んでおいてあげたのではありませんか。
ヴィスタル=ヒスイ党の根城であるレイズン本家にはリィスリ様、そして、こちらにはシュディリス様。
滑稽な構図ですこと、そうすることでリィスリ様とシュディリス様の逃亡も封じることが出来ますわ。
リィスリ様に対しては、みだりなことをすればご令息シュディリス様の命がないと、
そしてオーガススィに対しては、シュディリス様を拘束し、云うことを聞き入れねばリィスリ様の命はないと、
そう脅すことが可能ですもの。
双方がフラワン家の方を抑えておくことが、約定締結の代わりというわけですわ。
聖騎士家はいったいいつから新手の傀儡となり、卑劣な手段に屈するようになりましたの。
そのような意気地のない当家のありように失望して娘たちはルルドピアスを連れて出て行ってしまったのですわ。
もしもわたくしの娘たちに何かあったら、それはリィスリ様のせいだわ。
まったく、どこまでたたるつもりなのか。
とうの昔にトレスピアノに去った姫と、これから花開こうというわたくしの娘たちと、どちらが大切なのですか。
わたくしから、娘たちまで、取り上げようというのですか。
お答えになって下さい。
この家の男たちは、いったいどこまで、リィスリ・フラワン様を後生大事になさるおつもりなのでしょう。



「続く]


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