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[ビスカリアの星]■六三.


或る日、イクファイファが見かけたのは、小トスカイオ兄の子であるレーレローザとブルーティアの姉妹が
木蔭で午睡しているルルドピアスの傍らに寄り添い、両側からそのやわらかな髪にそっと触れ、
ルルドピアスの白い頬におちる木漏れ日の色や、作り物のように華奢なその手を、さもいとしげに、
少女の眠りを妨げぬようにそっと撫でたり、何かを懼れでもするような遣る瀬無いまでの眼で、
間近から見つめている姿であった。
ちょうど揺りかごの中の赤子を見守る者のようにして、そうしていた。
また、少女たちがもう少し大きくなった頃、姉妹の姉であるレーレローザが、物陰でルルドピアスの
赤い小さな唇に唇を重ねて、接吻している姿を見たこともあった。
愕いたが、不愉快な気はしなかった。
そこには青葉の木蔭で少女の眠りを見つめていた時と同じ、ひそやかな音楽の中にあるような、
憧れの想いだけが、そよ風の中に閉ざされるようにして優しかったから。
兄としても、気持ちは分る、といったところだった。
ルルドピアスは見た目も硝子のお人形のように繊細なつくりならば、その性質も内気でおとなしく、
レーレローザの軽い接吻にも戸惑ったような微笑みを浮かべて、
「レーレ、どうして」、じっと見つめ返すばかりで、本人は無意識であっても、
それは誘惑とも媚ともとれるような、さもなくば、ほとんど無性の花か精霊といった、
人がつい触れてみたくなるのを抑えられないような、受身のところがあったのだ。
苛々してくるほどひたすら鈍いその反応、どことなく浮世のことは夢のつづきにしか
想えてはいないかのような、ぼんやりとした覚束無い、その頼りない様子には、
早熟な女騎士によくあるような女同士の戯れを仕掛けたレーレローザも、柱の陰からそれを
覗き見ていたイクファイファも、苦笑するほかなく、そしてその時のその様子には、さらなる不安を
抱え込むような気がしたものだった。
わざとやっているのか?
ルルドピアスの定まらぬ様子には、そうも疑いたくなるところがあった。
そうであればあるほど、ルルドピアスを取り巻いている人々はこの少女への関心を常ならざる方向へと
濃縮させてしまい、或る者は強い庇護欲を覚え、また或る者は蛇蝎の如くに厭うのであったが、
はたしてこの世の誰に、その罪を問えるであろう。

「ルルドピアスの正体を暴いてやるわ!」
まだ何かを喚き立てようとするスイレンが小トスカイオに無理やり連れてゆかれて、
完全に静かになった後、もう兄夫婦が行ってしまって誰にも聞こえないことを確かめてから、
「こちらこそ、貴女の正体みたり、だ」
誰にともなく、イクファイファ王子は不満を吐き捨てた。
三人の少女が、親鳥を亡くした小鳥のようにぴったりと寄り添って木蔭に眠っていた午後の昔を想い出しながら、
イクファイファは暗い気持ちで壁を蹴り、決まり悪げにシュディリスに言い訳をした。
「義姉の見苦しいところを君にみせてしまった。いつもはあのような方ではないのだ。
 レーレローザとブルーティアのことがかかっているせいで、あの人も取り乱しているようだ。
 君の母上さまについての義姉の発言、深くお詫び申し上げる」
「疲れておられるのでは」
思わぬ現場に居合わせてしまったシュディリスこそ、他に返事のしようも無い。
この腕を振りほどいてきっと顔を上げたスイレンの、その気迫がまだ其処此処に漂っているようである。
要するにスイレンとルルドピアスの仲は円満とはいえず、不仲な嫁と小姑の関係にあったようであるが、
そこに母リィスリの名まで絡んできたとなれば、どうやら、ことはもっと根深いようである、そこまでは察した。
正直、知りたくはない。
シュディリスは「此処にいても仕方が無い」、と先にたって歩廊を戻り始めた。
しかし、途中でイクファイファは、柱に凭れて腕を組んでしまった。
「スイレン様が、始終ルルドについて口出ししておられたのは、僕も知ってる」
複雑なおもいでイクファイファ王子はため息をついた。
女の世界のことだから下手に口を出すものではないと小トスカイオ兄からきつく云われていたこともあって、
立ち入らずに知らぬ顔をしていたのだが、それが悪かったのかな。
それでもたまには、スイレン様が人に云い広めている、ルルドピアスへの上から目線の言い草に
むっときたこともあったんだ。
何故そこまで、この方はルルドにべったりと干渉するのだろう。
何だかあの人の話を聴いていると、いかにも年長者としてルルドのことを考え、気遣っているようにみえて、
その実、本人こそ何にも分ってはいないんじゃないか、この方はひたすらに自分を高くみせる為に、
どこかでこしらえられた話を語っているだけなのではないか、想像の中のご自分の役割に酔いしれるままに、
ご自分主役の美談をルルドを犠牲にすることで得意げに世間に向かってご披露しているだけなんじゃないか、
それが証拠に、思い遣り深そうな言葉の数々なのに、何でだろうな、だんだんと本人の出しゃばりようが
うるさいだけになってくるんだ。
イクファイファは髪をかき上げた。
「事情を知らぬ君には、分りにくいだろうか」
「いや」
自分には関係のない、他家の裏面である。
無関係を決め込むべきところであるが、イクファイファは誰かに聞いてもらいたのであろう。
イクファイファ王子は横を向いた。
「こんなことを云うからといって、
 兄上の奥方についてそこまでの反感をもっていると決めないでくれたまえ。
 リィスリ様の名もああして出てしまったことでもあるし、
 やはり君には知っておいてもらったほうがいいと思って話すのだ。
 今宵限りのこととして、聞き流しておいてくれ」
義姉上のルルドへの度を越した干渉が、何かおかしいと気がついたのは、いつだったかな。
ルルドの周囲の女たちが、よく僕に向かって、
「ルルドピアス様については、スイレン様からいろいろと聞いております」
他意なく口を揃えてこう請合うのだが、しかし、よく聴いていると自信たっぷりのその話の中には、
肝心のルルドピアスの姿がないのだ。
そこには、スイレン様の口から「あの娘はこうである」と決められた、ルルドピアスの歪んだ姿しかなくて、
人々とルルドの間には、常にスイレン様が立ちふさがって絶縁の役割を果たしている、そんな按配なのだ。
あの娘についてこれだけのことをしてあげているわたくしを見て、世間に向けてそれを強調したがっている
女の姿だけがあって、ルルドピアスは完全にその影になっているのだ。
それは、ずいぶんと、僕が知るルルドとは違うものだった。
義姉上は、さも、ルルドピアスの為にやっているようでいて、
まったくルルドピアスの立場をお考えではなかった。
何でこの方はルルドピアスについて、こうも必死で主導権を握ろうとするのだろう。
どうしてそこまで、ルルドピアスの周囲に張り付き、ルルドについて上目線からの解釈を加えようとなさるのだろう。
スイレン様はよくこうこぼされていた。
『せっかく良かれと思ってあれこれしてあげましたのに、
 ルルドピアス姫は人の恩や親切が分からぬようですの。
 せっかく、このわたくしがいろいろと教えてあげようと思いましたのに、
 あの姫に親切にすると嫌われてしまいますの。皆さまも、その点、お気をつけて下さいませ。』

こういった偏見は、ご自分がルルドと不仲であることへの世間向けの言い訳と、
同時に腹いせでもあったのだろうが、そこにはルルドピアスへの配慮など何一つない。
婉曲に自分をよく見せ、ルルドを悪く見せている、そんな体裁のいい流言を聞いているうちに、
かえってこう思うようになるんだ。
ルルドピアスの本質や、本人の希いや立場などはまったく無視してのけて、
この方はひたすらにルルドについて語り続けることで、
ルルドを支配下においたような錯覚に陥り、何がしかの勝利感を得たいだけなのだ。
シュディリスは遮った。
水の上の波紋の輪。
石投げをして遊んでいたルルドピアスのことを、想い出していた。
「人々と姫の仲立ちをするようなふりをしながらも、本音のところでは利に敏い奥方が
 そのようにご自分の利得目的に忠実に従っているのみなのであれば、
 奥方の干渉はルルドピアス姫にとっては害にしかならないし、彼女を損なうばかりだ、それを放置していた?」
「だから、僕とルルドは、普段は離宮で暮らしていた」
それについても、名目上はルルドピアスの静養の為と公表していた。
さもなくばスイレン様が、「わたくしが苛めて追い出したように見えるではありませんか」と
騒ぎ出すに違いないと、レーレローザが云うからさ。
ルルドは僕に対しても何も打ち明けないし、今の話もほとんどは、レーレローザやブルーティアや、
奥の事情に詳しい僕の恋人たちから聴いて知ったことなんだ。
ルルドピアスはあんな性格だから、誰よりも気を遣っていたし、城の中にスイレン様派とルルドピアス派が
生まれることを誰よりも怖れていたのは、実のところ父上でも兄上でもない、ルルドだったんじゃないかな。
「君も思ったろう。似てるだろう、ルルドピアスは、トレスピアノのリィスリ様に」
「一応」、と適当にシュディリスは応えた。
似るも似ないも縁戚関係である。
イクファイファはわずらわしそうに付け加えた。
「そうか、君のところには、さらにリィスリ様の面影が濃いリリティス嬢がいるのだったな。
 それに、失礼ながらトレスピアノのような長閑なところでは、貴人も女官も侍女も下女も入り乱れての、
 女たちがその美や寵や覇権を競うようなことも、こちらほどじゃないだろうしな」
長子の君をはじめ三人もお子がいる方なのに、廿年以上も昔に城を去られた方なのに、
こちらは未だに、リィスリさま賛美が抜けないのだ。
実家だけあって当時を知る者が多いし、若い連中も肖像画を眺めては憧れの女人として、熱烈なことになっている。
その幻想はそのままルルドピアスの上にかかっていたし、そして、そのことを良くは思わない女衆も多いのだ。
表向き、スイレン様はそういう女たちをよく嗜めて、言いくるめておられたよ。
それがかえって、ひじょうにいびつなものを生んだと思う。
ルルドのことを庇いながらも、巧妙に、ルルドの評判を下げているような、そんな話になっているのだ。
構図としてはこんな感じかな、ルルドの評価を下げ、そうすることでルルドに嫉妬している女たちの機嫌をとり、
そしてご自分独りだけが得をする。
僕が義姉上から感じたのは、ルルドピアスを見世物にすることで勝ち誇っている女の姿だ。
それは自己顕示欲の変形であり、ルルドありきの上に成り立っている、醜心のありようだったのだ。
目的がそこにある限り、それらのお言葉は何一つ、ルルドピアスの為になりはしないのは当然だ。
スイレン様こそ他の誰よりも、ルルドピアスの上にリィスリ様の影を見ていたはずだ。
男の僕ですらうっすらとそれを感じて、別にこちらが聴かされなくてもいい彼女の押し付け話や、
ルルドの周囲はわたくしが仕切るとばかりに乗り込んでくる、あの人の笑顔に嫌悪感を拭えなかったくらいだから、
鋭敏なレーレとブルティの二人は、もっとだったことだろうな。
『ルルドはお母さまが考えているよりもずっと聡明な人だわ。
 お母さまにはそれが見えないだけよ。それとも、お認めにはなりたくはないのかしら。
 ご自分と同じ愚かな人間、いいえ、ご自分がご指導しなくては何も成長できない人間に見えるように、
 そんな卑劣な方法で蹴り落とさなくては気が済まぬのかしら。
 ルルドほど人の親切が分かる人はいないわ。あの子はただ、本物の優しさかそうでないかを
 ちゃんと見極めているだけよ。それが気に入らなくて、あんな噂をたれ流していらっしゃるのでしょう。』
そんなことをレーレローザが母親に向かって云い放っていたのを聞いたこともあるくらいだ。

「カルタラグンやハイロウリーンと違い、オーガススィ家はタンジェリンと同じく、女が多い家だ。
 母亡き後、義姉がこの家の中では女統領であったし、
 傍目にはスイレン様も、実の娘同様にルルドのこともよく気を遣ってくれていたから、
 すっかりお任せしてしまうのが最善だろうと思っていた。
 それが、悪かったのかな。
 やはり男にはよく分らないあたりで、彼女たちの中にはもっと複雑なことや、軋轢があったのかな。
 スイレン様と、レーレとブルティの母子が険悪なことになってしまったのは、もしかしたら、僕がそうやって
 ルルドのことをスイレン様やあの二人に負わせてきてしまった、その放任の結果なのだろうか」
スイレン様の云うことを鵜呑みにしていたら、まるで妹は、自分の力では
何ひとつ成し遂げたことのない人間みたいだった。
一度でもそのような立場におかれたら、どうあっても、妹はそうならねばならぬではないか。
スイレン様が云い広めた噂の中では、スイレン様こそが美談の立役者なのだ。
何というのかな、実際にはご自分では何ひとつしてはいないのに、人とルルドの間に無理やりご自分を割り込ませて、
ルルドピアスとはああだこうだと口にすることで、実際には何ひとつ大したことはしていないのに、
何か大層な運命的役割を果たしたようなご気分だけは味わっておられる、そんな感じなのだ。
「ルルドピアスはこう思っているはずだ」とか、「そんなルルドピアスをここまで理解してあげているわたくし」を
外向けに作り上げて、それに沿った自己完結にひたすらご熱心というか。
誰もお呼びではないところにまで顔を出すことで、無理矢理にでもルルドのことについて自分をかみこませ、
強引にでも自分の功をそこに挟み込みたい、何がなんでもご自分が深くかかわっていたかのように見せかけたい、
勝手にルルドの上に影響力を持っていると思い込み、その気分だけを味わうためにそうしてる、
そんな感じなのだ。
もとからお呼びではない存在だけあって、何一つたいしたことはしていないのに、
いつの間にかご自分を何か途方も無く凄い存在か、恩恵者か何かのように仕立て上げ、
ルルドピアスというひとりの人間から上前を撥ねようと、むしろそのことに躍起になっておられるようなのだ。
そのような自分本位の振る舞いが、果たして誰かの心にとどくものだろうか。
スイレン様はまるで全世界に向けて、「わたくしのこの親切さを知っておいてもらわねば」、
ひけらかして、こう叫んでおられるようだった。
その為にわざわざ、ルルドピアスを劣れる者として人々の前に突き出しているようだった。
人の為にと云いながら、人の為ではなく自分の虚栄を満たす目的でやっていたことについて、
他でもない自分こそが誰よりも激賞されて後々感謝されるべきだと目論んでいたその思惑が外れても当然だとは、
なぜ気がつかないのだろう。
交友関係にまで眼を光らせるスイレン様から逃げるようにして、妹は、城の中では貴族の子とは付き合わず、
工房や厨房の者たちと凧あげなどをして遊んでいたが、妹が彼らと仲良くすればするだけ、
「ルルドピアスがいちばん頼るべき人間はわたくしのはず」
それすらも、スイレン様は潰しにかかっておられたからな。

「それでも、表面上は何も問題ないように見えていたのだ。それが、いけなかったのかな。
 ハイロウリーン家との縁談が持ち上がった時にも、あの原因不明の病がある限り
 ルルドピアスは候補から外れるのも、もとより仕方がないことであるし、
 三人で同じ家に嫁ぐなど望んでも叶うわけがないというのに。
 レーレローザとブルーティアが家出を慣行したのも、そのあたりのことが絡むのかな。
 ルルドピアスを恋人の代わりのようにしていたレーレローザはともかく、
 あの慎重で賢いブルティのやつまで、こんな思い切ったことをするなんて」
こうなる前に、どうして誰か一人でも、僕に相談してくれなかったのだろう。
イクファイファは壁に手をついた。
レーレローザもブルーティアも聡明でしっかりしていたから、心配ないと思っていたのだが、
まだまだ彼女たちも子供だったのかな。
「父上よりも小トスカイオ兄上よりも、僕よりも、あの姉妹のほうが妹のことをよく理解してくれていた。
 彼女たちには申し訳ないことをした。スイレン様にも、申し訳ない。
 男が下手に口を出しても悪化するばかりだろうというのは言い訳で、僕も面倒だったのだ。
 ついつい全てをお任せしてしまったところがあった。
 家の中の些事はわたくしにお任せ下さいな、そう云って笑っておられたから、それに甘えてしまっていた。
 女衆を束ねる手腕には間違いがなかったし、そこは、父上も小トスカイオ兄上も常々よく褒めておられたのだが」
「シュディリス様。イクファイファ様」
「こっちだよ。何」
「こちらにおいででございましたか。
 小トスカイオ様の命により今宵の宴は中止となりました。お部屋の方に夕餉を整えてございます」
「そのままおいておいて。後で二人で勝手にとるから」
呼びに来た者を片手を振ってさがらせてから、イクファイファは、木々がざわめく暗い外を眺めた。
夕刻にはなかった雲がたれこめ、風がまた強かった。
このぶんでは明日は午後から雨になるな、とイクファイファは顔を曇らせた。
「ガードを連れて行ったのなら、そのうち彼から伝言でも届くとは思うのだが、無事でいてくれるといいのだが」
そんなイクファイファの肩にシュディリスが手をかけたのは、王子を促すためでも、慰めるためでもなかった。
「ルルドピアス姫は水切り遊びが得意だ」
「はあ?」
振り向いたイクファイファの手から、素早くシュディリスは、イクファイファが持ったままであった
姫君たちの置手紙を取り上げてしまった。
「うわ」
手紙を奪われたイクファイファは抗議の声を上げたものの、あまり慌てはしなかった。
やれやれ仕方がないなという風に余裕の笑みで歩み寄り、
「返せよ。君には、それは読めないだろう」
返却を求めて手を出したものの、あいにくと、シュディリスは母リィスリから教えられてオーガススィ語が読める。
松明の火の向こう側にシュディリスは回り込んだ。
片手で手紙をひらき、イクファイファを見据えると、この男、わざわざ声に出して読み上げたものである。
「--------以上」
「何てことだ」
呆然とイクファイファは頭を抱えた。
「それはただのオーガススィ語じゃない。王族しか用いない古語だ。よく読めたな」
ヴィスタチヤ帝国成立以前、海賊が起源のオーガススィは、海に沈んだ大陸から生き残った人々が漂着して、
超文明の技術を伝えることで栄えた。
リィスリが歌う子守唄は他ではきけない、独特のゆったりとした調べをもっており、
海のないトレスピアノで歌われる海神を称える古代の舟唄は、そこにこもる寂寥ごと、荘園の緑に似合った。
聴き慣れないふしぎな響きは、もうこの世にはない国の、はるか昔に民人ごと海の底に失われた言の葉だった。
君は本当にあのリィスリ様の子なんだなぁ、戻された手紙を手にイクファイファは嘆息した。
まあいいや。ほとんど義姉上が喋ってしまったことだし。
「で、これを読んで君はどう思った」
「今しがたの奥方の発言は感情論として退けるとしても、姫君方を無事に連れ戻せば何の問題もないかと」
「まあね。雄々しくも文中、亡命するとまで書いてあるが、ハイロウリーン側もさすがにそれは認めないだろう。
 それにねえ、何を企んでいるにしろ、あの子たちだけで何が出来るものかと。
 どうせこの手紙で騙したつもりで、三人は別の処を目指してるのだろうよ」
「コスモス」
「だよ、それしかないだろう」
イクファイファは肩をすくめた。
「あの子たちのことだ、『ねえ、ユスキュダルの巫女さまに逢いに行かない?』
 『それいいわね。そうだ、ついでにお父さまとお母さまに少々愕いてもらいましょうよ。』
 どうせこんな流れじゃないのかな。こんな手紙を真に受けているのは義姉上くらいなものだ。
 だから小トスカイオ兄と同じく、僕もそこまで心配はしてないんだ。
 何といっても現在かの地とこちらの一帯はどこの国も、頻々と伝令を往復させているのだから、
 急いで探さずとも、どこかで引っかかるさ」

あの日はびっくりしたろう、ルルドピアスに乗馬をさせたりして。
別室で夕食を二人きりでとった後、イクファイファは、酒瓶を抱えて片頬杖をついた。
でも、妹は馬とは相性がよいのだ。
本人にもうまく説明できないらしいのだが馬に乗っている時には、あの奇病もおこらない気がするそうだ。
乗馬上に意識不明にでもなったら、それこそふり落とされて命にかかわることになるかもしれないのだが、
それを承知であっても、馬に乗りたいというルルドピアスの気持ちを止めることは僕には出来なかった。
離宮でルルドピアスに乗馬を教えたのは僕だよ。
あの子だって、聖騎士家オーガススィに生まれたのだ。
だから、ルルドがそうしたいと云うのなら、僕は止めることは出来ない。
強くそれを希っていた妹のあの眼をみては、たとえ兄であっても、それを止めることは出来ない。
そこには少々、スイレン様への反発もあったのかな。
------このままでは、ルルドが自殺してしまう。
レーレローザはそう云ったんだ。
イクファイファお兄さま、このままでは、ルルドが自殺してしまう。
「何を大袈裟なと思った。その時にはレーレローザが何に対してそこまで危惧し、
 僕の胸倉を掴まんばかりに悲憤慷慨しているのか、さっぱり分らなかった」
それでも、静養の為に離宮に向かう馬車の中で、ルルドの顔は疲れきっていた。
どんな気持ちがするものかな。誰かと知り合うたびに、片端から自分ではない者が
『あの子のことでお話があります』、嬉々として作り話を吹き込まれてしまうというのは。
どんな気持ちがするものかな。誰かと知り合うたびに、
『貴女に親切にすると、お節介と云われて嫌われるそうですね。』そう笑われて、突き飛ばされるというのは。
誰ひとりとして、どうしてその者がそんな話を云い広めているのか、その話の中に隠された相手の真意や
目的には気がつかぬままに、その者が望んだとおりその者を褒め称え、その一方で
ルルドピアスを劣った人間として足蹴にして扱うというのは。

「どんな気持ちがするものかな。
 『どうか皆さん、あの才のないルルドに、わたくしの指示どおりこういうことを教えてあげて下さいな。
  さあ、こうしておけば、過去も未来もルルドの努力は一つ残らずわたくしが奪えるのだ。』
 自分のすべてを片っ端から他人が我が物顔に語り、取り上げてしまうという、そんな味気なさは」

きっと、自分の存在が音も無く消えてしまうような気がしたことだろうな。
人間はただ生きているだけでも他人には分らぬところで重荷を背負っているものなのに、
馬車の中で僕の肩に凭れて眠っているルルドピアスの小さな顔を見ていると、
レーレローザのあの思い詰めた言葉も、あながち嘘ではなかったことに遅まきながら気がついたよ。
日々の義務を淡々とこなす一方で、いったいどれほどの過負担がこの妹にかかっていたのだろう。
レーレやブルティのような少女たちばかりではない、中にはスイレン様におもねる目的で、
またはもっと低級なルルドへの嫉妬から、さあこれでルルドの弱みを掴んだとばかりに舌なめずりし、
無遠慮な発言をルルドに対して上から投げつける女たちだって少なくはなかったというのに、
義姉が云い広めたそういう偏見のすべてがルルド一人の心の上に、
生命が挫けるほどの重石となって、かかっていたんだなと思ってね。
それを知りながらやはり、今日まで僕は楽観していたのだろうな。
繰言のその合間には、憂鬱ついでのようにして空になった酒盃を手の中で転がしながら、
「変なことに巻き込んでしまって、すまないな、シュディリス」
謝ったりもする。
巻き込まれたのは、この場合、どちらかといえばオーガススィである。
知り得たことを繋いでみるならば、リリティスの探索に奔走している母が、対ミケラン組織である
ヴィスタル=ヒスイ党を頼り、党はこれ幸いと、トスカタイオの実妹であるリィスリを人質代わりにして、
オーガススィに協力要請を突きつけた、といったところだろうか。
おそらく、リィスリはシュディリスがオーガススィ入りをしたことも知らされてはおらず、党に唆されたか、または
自発的にそれしかないと思い詰めて、実兄トスカ=タイオにリリティス救出の助力を頼んだのであろうが、
ヴィスタル=ヒスイ党はそこに便乗して、ミケラン卿を共に打倒することをオーガススィに求めた。
(------母上がリリティスを案じるその気持ちを利用するとは。
 また、トスカタイオ殿がいかに血を分けた妹想いであられても、一国がそのような情に流されるわけもないものを)
これは立派な脅迫である。
つくづく、正義の欠片も持ち合わせぬ愚劣な集団とみえる。
まだ何もこれといった成果を挙げぬうちからそのような卑劣な手段に頼らねばならぬとは
ヴィスタル=ヒスイ党も情けない。それにしても解せぬのは、オーガススィの態度である。
たとえ党の要求をそのまま公表したとして、世論は党の非道を唱えこそすれ、オーガススィを責めぬであろうし、
かりにもフラワン家の者に危害を加えるようなことでもあれば、
それこそヴィスタル=ヒスイ党には未来はないのである。
それとも、ヴィスタル=ヒスイ党は、もっと決定的な脅迫要素を握っているのであろうか。
そう思って先刻はイクファイファから手紙を取り上げてみたのだが、レーレローザの置手紙には
それを推測させるような手がかりは書かれてはいなかった。
スイレンの言ではないが、オーガススィがその気になれば北方三国同盟に基づきハイロウリーンとコスモスと連合、
一気に党を踏み潰すことも可能であるというのに、天下のオーガススィを滞らせるに足りるほどの
強力な足枷とは、ほかに何であろう。
イクファイファは意外そうな顔をシュディリスに向けた。
何だ、そんなことを悩んでいたのか。サイビスから聞いて、とっくに知ってると思ってたよ。
ヴィスタル=ヒスイ党の支援には、ソラムダリヤ皇太子殿下の御妹である、
フリジア内親王がお立ちになっておられるからだ。
シュディリスは愕いた。
「まさか」
「本当だ。ミケラン卿が断固慣行しようとしている騎士らの処刑に対し、内親王は遺憾の意を示され、
 はぐれ騎士らの助命を求め、ヴィスタル=ヒスイ党へお味方されているのだ。
 大使の報告では、それを皇帝陛下の前に進言された内親王のご様子は
 なかなかにご立派であられたそうだよ」
『陛下』、と内親王は奏上された。
-----ゾウゲネス皇帝陛下、ユスキュダルの巫女さまのおわすコスモスの地において、
  かつてユスキュダルに逃れた者を含む、騎士ら多くを、
  巫女さまの眼前で処断されるおつもりであるとは何事でございますか。
  陛下、陛下もご承知のように、ヴィスタチヤ帝国はそのなりたちより、騎士に支えられたるもの。
  武運つたなく戦に破れし騎士らとて、全てがその後、民を殺める賊に変わったわけではございません。
  その詮議もなしに、彼らを処罰なさいますおつもりでしょうか。
  戦はもう終わったのでございます。
  タンジェリンの殲滅戦の後始末としても、これはあまりにも行き過ぎ、もはや虐殺に思えます。
  青の一族、赤の一族をことごとく根絶やしにしたとて、これ以上は陛下の御名をきずつけるのみでございます。
  陛下、いま一度、ご寛容をもってお考え直しを。
  ミケラン卿がコスモスの地において行おうとしております公開処刑は、真っ向から、
  巫女の御心に背くこと、ひいては、騎士国家たる帝国への叛逆でございます。
  帝国法に認められたる皇女に与えられた権限など微々たるものではございますが、
  お聞き届けなき時には、このフリジア、いずれかの聖騎士家におすがりいたし、
  ミケラン卿の罷免と追放を、あらためて陛下にお願いしたいと思います。

「しかし、それは。フリジア内親王は、何者かに操られているのでは」
「背後に大国の影があると、君も思うだろう」
こう申し上げては何だが、あのおっとりとされた内親王さまが、お独りでそこまでの
お考えに至るとは到底思えない。
誰かがそれを内親王さまに吹き込んだのだ。
ソラムダリヤ皇太子殿下も、そのことをひじょうに憂慮され、
フリジア内親王の周囲を古くから仕える信頼のおける女官で固め、フリジア姫を
皇女宮から一歩もお出しではないそうだ。
また、その名は手紙の中でも伏せられておられたが、皇居にしのび入った
ヴィスタル=ヒスイ党と通じていると思しき女騎士を捕縛、その身柄を取り押さえ、
目下、厳重に取り調べておられるそうだ。
「女」
「うん。あまりそのあたりは詳しくは書かれてはおられず、それ以上は知りようがないのだが、
 つい最近に客人として皇居に迎え入れていた、ジュシュベンダの女騎士らしい」
「ジュシュベンダ」
まさかとは思うが、ソラムダリヤ皇太子はそれで、ジュシュベンダ騎士グラナンを連れていた自分のことも警戒し、
イクファイファに宛てた手紙の中で、こちらの真意を見定めるまでの間は是が否でも
オーガススィに留めおくようにと命じたのであろうか。
それにしても、ジュシュベンダとは。
「ジュシュベンダの女騎士」
「とのことだ。フリジア内親王の歓心をひくことに成功して、お気に入りであったそうだ」
「その者が、ヴィスタル=ヒスイ党の手の者であったという、その証拠は。
 大国の名を出すことで矛先を他所に向けようとした、党が用意した偽者の可能性は」
「さあ。そこまでは。
 とにかく、その女が内親王にはぐれ騎士らの存在を教え、
 ヴィスタル=ヒスイ党へ協力するように内親王を洗脳した元凶であることは確実のようなのだが、
 殿下が女に身柄の拘束を申し渡した時、くだんの女騎士はその場で剣を抜き、
 皆の眼前で、ジュピタ家の方であられるソラムダリヤ・ステル・ジュピタ皇太子殿下に、その剣を返上したそうだ」
シュディリスはぞっとした。
それは、その女がいずれの国とも決別し、主従関係の誓いをも解き、ジュピタの騎士であることを辞め、
ジュシュベンダの擁護も弁護も、誰の庇い立ても期待できない、孤立無援の存在となったことを示す。
牢に繋がれているのはどのように扱おうともどこからも抗議の出ることのない一人の女。
そこまでの覚悟であれば、拷問されたとしても、女は口を割るまい。
それは暗に、ジュシュベンダの関与を認めたことにもなる。
ジュシュベンダの目的は、レイズン本家と呼応したミケラン卿の追放だろうか。それとも、人道的観点から、
はぐれ騎士らの助命を願ってのことだろうか。否、どちらも違う。
灯りが揺れた。
イクファイファと眼が合った。イクファイファは頷くと、声を潜めた。
フリジア内親王は、こうも口にされたそうだ。
陛下。今こそヴィスタチヤ帝国を、聖騎士家の談判による正道政治に戻す時でございます。


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-----リィスリ。出立の支度はととのったか
-----ようこそ、トスカ=タイオお兄さま

室の中には、午後の淡い日差しが落ちていた。
荷造りは既に終わり、先送りの馬車が先ほど発ったところであった。
トスカ=タイオは妹の為に、露台の窓を開いてやった。
そこからは、海が見えた。
風の調べにのって、遠い波音が、ここにまで届くようであった。
海と雪山を臨む姫の部屋は、すっかり片付けられて、不要なものも運び出された後だった。
風には、まだ冬の匂いがした。
春に咲く花の香りもした。
「持っていかぬものは、離宮の方に、片付けてまいりました」
白夜の光を紡いだかのようだと都の詩人にうたわれたリィスリの髪が、兄の見守る中で風になびいた。
その繊細な横顔を兄に向けて、こうして城から見る、遠い海のほうが好きです、と姫は云った。
海崖にまで行くと、現と夢の断層に立っているような気がして、心もとない。
「これまでのことは波音がみせた夢であり、幼い日のことも、都でのことも、何もかも、
 幻であったかのような、そんな気がしてくるのです。
 波が引いてゆくのを見るたびに、この心が細かく砕けて、千尋の海の底に引き込まれてゆくような、
 子守唄のように、何もかも忘れてお眠りなさいと、淋しくそう云われているような。
 忘却の河とは、きっと、最果てのあの北の海にそそぎこまれているに違いない」
「リィスリ」
「ご心配はいりません。トレスピアノには海がありません」
だから、わたくしも、もう二度と、海を観ることはないでしょう。
何を云うのか、リィスリ。
顔をゆがめて、トスカ=タイオは妹の肩に手をかけた。
やはり、わたしもトレスピアノに附いて行こうか。しばらくの間、お前が向こうに慣れるまでは一緒にいようか。
ようやく、微かな笑みが美しい妹の口許に浮かんだ。
婚家に兄が付き添うなど、そんな前例、聴いたことがありませんわ。
心配はいりませんわ、お兄さま。
あちらでは、よろしく整えてわたくしを待って下さっている由。
そのように、カシニ様が手紙の中で書き送って下さいました。
「尤も、おいおい必要なものは貴女の眼で選んだほうがいいだろうから、とのお話でした。
 必要最小限のものはこちらから送りましたが、ドレスは何棹分必要なのか、
 侍女は何人伴えば間に合うのかとお尋ねしましても、
 トレスピアノは田舎なので気楽にいらして下さればよいと、万事こうですの」
「わたしの許にも、カシニ殿から挨拶の手紙が幾度か届いてはいるがね」
何と書いてありまして、と妹は訊いた。
「別に。毎度過不足のない、ご立派かつ個性の薄い、簡潔な文面であられるよ」
手すりに両手をかけて、トスカ=タイオは若々しいその顔を曇らせた。
他にもっと云いたいことがあるのに、云えないといった態だった。
「リィスリ」
「はい」
「お前、これで、本当に良かったのか」
つまり、とトスカ=タイオは形のいいその鷲鼻をこすり、云いよどんだ。
もともとあまり感情を表には出さぬ妹ではあったが、ここ一年でそこには憂愁というさらなる愁いが深く加わって、
それは妹をますます美しく見せてはいたが、兄である彼としては、その分だけ、気遣わしい。
リィスリ。何も無理に嫁がなくとも、父上も母上も、そしてわたしも、お前を護ったのだよ。
この城が嫌ならば、離宮でもよい、お前さえよければ、このままオーガススィに居ればよかったのに。
「お兄さまは、わたくしがフラワン家に嫁すことに、ご反対なのでしょうか」
「いや」
そうではない。そうではないのだが、なあ、リィスリ。
海風が吹いた。
「カシニ・フラワン殿か……」
言葉を交わした回数は少なくはないというのに、どうも、印象が判然としない。
脳裡に浮かぶその青年は、これといって特徴のない、気取りのないところが好ましいというだけの男であった。
注目度といえば、皇子に次いで、他に並ぶものなき高貴な御方であるはずなのに、
領地からヴィスタ宮廷に遊びに来ても特に自分が中心となって華々しく愉しむこともなく、
歴代のフラワン家当主がそうであったように、一定の敬意と、一定の親しみを享受し、
また人々に対しては、驕るわけでも見下すわけでもなく、かといって軽んじられはせず、
いつも態度が変わらない、そんな感じであった。
人柄が地味だと云ってはそれまでであるが、独身貴族としてもっと女人に囲まれてもよいはずであるのに、
宮廷においても浮いた噂ひとつなく、艶聞も皆無で、郷里でのことは知らないが、叩いても埃も出なさそう。
なので、そのお人柄にふさわしく、そのうちどこかの騎士家の、大人しくて目立たない、
だが心がけのよい姫を娶られるのであろうと、これがまず間違いの無い線として
勝手に決められていたくらいであったのだ。
それが選りにもよって、その美貌と恋のために巷にその名を轟かせた高嶺の花、
リィスリ・クロス・オーガススィを娶るとは。
「カシニ殿は、お前を取り巻いていた求婚者の輪の中にもお姿を見かけたこともなかったし、
 実直なだけの御仁だとしか思っていなかったからな。
 それだけに愕いたというか何というか、いや、もちろん身分からもその他の点からも
 お前がフラワン家に相応しくないというのではないのだが、まったくもって予測外、
 どうして急にそのようなことになるのだと、あまりにも急な展開に、そんな気持ちがまだ拭えぬよ」
トスカ=タイオの驚愕は、そのまま、両名の婚約を知った時のヴィスタ宮廷の愕きであった。
あれから数ヶ月経っても、まだこのように実の兄が釈然としておらぬほどである、
婚約が公布された折にも、ああそうなのか成程やはり、と流すには、意外の衝撃の方がはるかに勝っていた。
(あの方が、あの方と恋仲であった、あのリィスリ姫と)
かといって、無遠慮にそれを口外する者もいなかった。
何よりも、リィスリと親しかった次代皇帝たるカルタラグンの皇子が、真っ先に「おめでとう」と、祝辞を発表することで、
それまで大恋愛の結末の残滓として宮廷に澱んでいたあらゆるものが、一掃されたようなところはあった。
「お前は、あのカシニ殿と、いったい何を話すのだ?」
いささか不躾なことを、トスカ=タイオは妹姫に訊ねた。
彼なりに、ひじょうに心配しているのである。
「この兄はお前の夫君がカシニ様でもよいとも思うし、希ってもないことだと思ってるが、
 本当にカシニ様でいいのだな?
 つまり、互いを伴侶と決めるまでに、カシニ殿とは互いを知るほどに会話を重ねたのか、という意味なのだが。
 あの方とは、気心知れるまでによく話し合ったのだろうね」
それに対するリィスリの返事は、「いいえ」、であった。ほとんど何もお話してはおりませんわ。
「何だって、リィスリ」
「多弁な方ではありませんから」
ふと気がつくと、ずいぶんと時が経っておりますの。
隣を見ましたら、あの方も、わたくしのことなど忘れたようなお顔をしておられるのです。
何をお考えでしたの、そうお訊ねしましたら、
「フラワン荘園のはずれに古い水車があって、それが老朽化して危ないのだそうです」
「水車……」
「新式に造り直してもよいのだが、何とか修繕出来たほうがいい、
 しかしそうなれば、その間は脱穀が手作業になる。どうしようかな。そのようなお話でしたわ」
両手で輪をつくって、水車が動力となる仕組みも説明もして下さいました。
そして思いだしたように最後に仰るの。『考え事をしていたせいで黙ったままでいたようだ。申し訳ない』。

「……リィスリ、それはしかし」

そこまで抜けた男だったとは。
いや、とトスカ=タイオは思い直した。
これほどの美女を前に、あの妙に老けたところのある、女馴れしているとも思えぬ男のことだ、
気の利いた言葉がうまく出なかっただけということもある。大いにあり得る。
にしても、リィスリにそこまで淡白な男がこの世にいたとは。
妹の美貌に迷ったなら迷ったで責めはせぬから、求婚者に相応しく、大切な妹を奪う男として
少しは納得のいく誠意を素直にみせろというのだ。
「しかし、そのようなままでトレスピアノに嫁ぐつもりなのかリィスリ。
 聞いた話では、お前とあの御方は、別棟に分かれて暮らすそうではないか。
 最初からそれでは夫婦とは云えぬし、けじめもないことだ」
「カシニ様は、よい方です」
リィスリの灰色の眸は、彼方の海に向けられていた。
決別を告げているようだった。
あの方がうっかりと考え事をなさっていたのは本当です。でも、わたくしをそっとしておこうという、
なかなか人には出来ない、お気遣いの深さが、わたくしには分かりましたの。
それは同じことをしていても、真にわたくしのことを想ってそうして下さっているのか、そうでなのか、
その別があまりにも明らかになるほどに、そのくらいにはわたくしも長く宮廷人の中に居すぎましたわ、お兄さま。
華やかなカルタラグン王朝。
そこに煌めいていた人々。
夢の中に流れ去る影絵のように、誰もかれもが何かの芝居を演じて笑っていた。
リィスリのその美しい眸は、何かべつの想い出の間を彷徨っているようであった。
「カシニさまは、トレスピアノは田舎だと、そればかりを仰います。森に囲まれた、とても静かなところだと。
 領土を誇る顔をされておられました。そこに、わたくしを迎えて下さるそうです。
 ここに疲れた鳥がいて、カシニ様は、その鳥のために巣ばこを与えて下さろうというのです。
 オーガススィ家の姫として生まれた女が身を恥じることなく嫁げる家は限られて、その上、
 貴家との婚姻により名誉を回復させるだけでなく、最高位の夫人の地位につけて下さろうというのです。
 これ以上、何を望みましょうや」
「お前の気持ちはどうなるのだ、リィスリ」
まるで本を読んでいるかのように抑揚の無い妹姫の言葉に、トスカ=タイオはかえって不安を煽られた。
まだいろんなことの痛手から癒えてはおらぬはずの妹は、自暴自棄となって嫁にゆくのではないのだろうか。
しかし、リィスリ・クロス・オーガススィの顔は静謐であった。
縁とはふしぎですね、お兄さま。
わたくしの上に何としても欠点や弱みを探し出そうとする眼に囲まれて生きてきて、
或る日、そこに鮮やかな青い色をした鳥が空から飛んできましたの。
わたしくが誰であろうと、そのおおきな翼で包んでしまえるほどに、明るくて、華やかで、
ふざけてばかりいる鳥だった。
倖せとは温かな水と光の中にたゆたうような、そのようなものであり、そして永くは続かないのですね。
「リィスリ……」
「ありがとう、お兄さま。ひと言も、何もお訊ねではありませんでした。
 あれ以来一度も、わたくしの前であの御方の名を出すようなことは、なさいませんでした。
 醜聞にまみれた妹のことを、さぞ情けなくお思いであったことでしょう」
「何を云う、リィスリ」
云いたいことも、先方が皇子でさえなければ云ってやりたいこともたくさんあった。
が、やはり云えなかった。
それは誰ひとり立ち入ることの許されぬ、それほどの恋であった。
別れた後も宮廷で顔を合わせ、互いに別々の相手を選びながら、どちらかが退出する際には、
そっとその後姿を見送っていた彼らが、考えて決めた別れだった。
誰の眼から見てもお似合いの恋人同士と讃えられ、また深く愛し合っていた若人たちが、
ジュピタ家を差し置いた皇帝代行という不安定な現王朝の成り立ちを鑑みて、
世の平穏を願い、選んだ結論だった。

(それが分からぬ兄だと思うてか。
 カルタラグンはタンジェリン家と癒着することで、かろうじて現在の地位を保っているのだ。
 カルタラグン王朝に批判的な立場である北方三国から、 もしもリィスリがあの皇子の妃となれば、
 生まれるのは未来の皇帝。これは皇帝の外戚の地位を巡っての、
 他国を巻き込んでのタンジェリンと北方三国との深刻な対立にまで発展しかねない。
 それだけではない。
 タンジェリンからも皇子の妃候補が上がっている現在、
 どちらが次代皇帝を生むかを争うことになれば、タンジェリンが幅をきかしている宮中において、
 リィスリが暗殺される可能性も出てくるのだ。
 そこまで考えてリィスリから潔く身を引き、安全無害なトレスピアノの御曹司に譲ったのであれば、あの皇子、
 見かけほどは案外、暗愚ではなかったということか。帝国の今後のことを思えば重畳ではある。
 だからといってそれを有難がる謂れも無いわ。
 よくも大切な妹を誘惑し、その名誉を散々に穢してくれたものだ。
 皇帝代行などと僭称してはいるが、カルタラグンなど所詮はいち聖騎士家にしが過ぎぬではないか。
 ハイロウリーンとジュシュベンダの二大大国が傍観しているからよいようなものの、
 あの色気過剰皇子の兄君である第一皇子は母君のご身分がいくら低いとの理由により
 知らぬうちにあっさり廃嫡されもしたし、帝国の大事を内々のうちに処理しよって、
 われら聖騎士家をないがしろにするにもほどがある。
 大昔にも郎党を率いてわが国にしのび入り、城下に大火を出しただけでなく、
 あまつさえ姫をかっ攫って心中した大莫迦者がいたことでもあるし、くそ、
 カルタラグンはオーガススィにとってつくづく不吉をはこぶ家だ。
 いったい如何なる天の悪戯かは知らぬが、迷惑千万、この世から消え失せろ)
 
だが、トスカ=タイオの口から出たのは別のことだった。彼は妹を嗜めた。
ほとんど、抗議のような口調であった。
それでは、カシニ殿がお気の毒だ。そのような定まらぬ気持ちのままで彼を夫君にするのは
あちらにとって大変に失礼なことだ。整理のつかぬ曖昧な気持ちのままでは、
お前にとっても、あちらにとっても、何ひとつ良いことにはならない。
このままでいいのか、そのことをもう一度よく考えて、リィスリ。
リィスリは、それには応えなかった。
兄の形のいい鷲鼻が近付いてきたと思ったら、抱きしめられていた。
ほんの幼い頃をのぞいては、戯れにもそのようなことは一度たりともしたことのない男が、妹にそうした。
リィスリ、リィスリ。倖せになって欲しい。
お前が妹でさえなければと、そう想う気持ちの分だけ、誰よりもお前の倖せを願ってきたのだよ。
わたしの妹、トレスピアノのような遠い処へ本当はやりたくない。
だから、せめて、倖せそうな顔をして旅立っておくれ。
「わたくしは、カシニ様を尊敬し、きっと愛せるとおもいます」
リィスリは兄の腕の中で、風に吹かれるまま、オーガススィの空を見ていた。
己を偽るのではなく、心の底から、そう想いますの。
ふしぎですね、それまでさして心に留めたこともない方でしたのに、どのような殿方の慰めの言葉よりも、
彼らの熱意よりも、その真剣味よりも、思いがけなくもあの御方がぽつりと申し出て下さった素朴な言葉だけが、
あの日、わたくしの心には沁みこんできたのです。
トレスピアノは花の野だから、おいでいただければ花にだけは不自由させることはないと思う、
どこまで本気か分からないような、そんなことを仰るのです。
この世にある様々のかたちの愛の中で、あの方がわたくしに差し出して下さったものは、
色鮮やかな万の花々に包まれるようなものではなく、木蔭の中の安らぎでした。
お心の寛い方です。
お兄さまがお考えになっているよりも、ずっと芯の強い、思い遣り深い方です。
「ひと言も-----あの方もね、ひと言も、わたくしに何もお訊ねではないのです」
「リィスリ」
「想い出をそっとしておいて下さるの。わたくしだけのものにしておいて下さるの。
 それを無言の態度で示して下さいますの。
 トレスピアノの花園に、わたくしは伝えよう。舟唄を。
 森の上にかかる月は、それは美しいそうですわ。月に虹がかかれば、あちらでは雨になるとか」
「リィスリ」
「トスカ=タイオお兄さま、わたくしはカシニ・フラワンを選びました。
 自分を取り戻してトレスピアノ領主夫人として生き、もう二度と、このオーガススィに戻ることはないでしょう。
 カルタラグン宮廷に再び上がることも、新領主となられたお兄さまとお逢いすることもない。
 フラワン荘園で、静かに、忘れられたようにして、残りの一生を過ごしたいと思います」
「もう逢えないなどと。どうか、そのようなことを云わないでおくれ、リィスリ、リィスリ」
そのほうがいい。
それは、兄も妹も、よく分かっていた。
リィスリはトスカ=タイオの胸に頬をつけた。
「さようなら、お兄さま」
さようなら、オーガススィ。
海賊が財宝を隠していた洞穴の、その壁に彫られた古代地図によれば、昔は海岸線が
もっと遠くにあったそうですわ。だんだんと、この大陸は海に沈んでゆこうとしているのかもしれません。
時が経てば、この城も、海の底。
冬になればその上を氷の平野が覆うでしょう。
たくさんの流れ星が堕ちる頃、この国は流れ着いたわたくしたちの祖先の御霊ごと、海に還るのですね。
夜の虹の国。
離宮に遺してきた絵も、氷の海に閉ざされる。
青い青い、海の底に。



「続く]


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