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[ビスカリアの星]■六四.


ロゼッタは、サザンカには帰国しなかった。
かえってそのほうが良かった。
ロゼッタを診るなり医師はすぐさま一晩かけて大掛かりな処置を施し、そうしなければ
肩に後々まで不自由が残ったままであったかも知れぬという話であった。
庭に面した室の中には、何かの薬草の香りが常にしていた。
香炉にくべたその草の香りは、患者の気持ちを安静にさせる効果があるとのことであった。
ロゼッタを診た老医師は、名をスウール・ヨホウといい、病は総合的なものであるという観点から
医療組織を組み、臨床的な新式と薬草に頼る旧式を統合させ、その普及と定着に力を注いでいる名士である。
老スウール決まった時間になると姿を現し、弟子と看護人の書き付けを調べ、
薬の量や、室温を指示し、そして必ずロゼッタに声を掛けてゆく。
老いて少し掠れてはいたが、その声は理知的で、そして自信に満ちたものだった。
工人が自分の仕事の工程に絶対の自信を持つように、経験からくる医師のその信念の強さが、
ロゼッタにスウールを無条件に信頼させた。そしてそれは、速やかな回復を意味した。
「ロゼッタ殿。ご機嫌よう」
スウール医師ほどではないが、この屋敷の若主人、名をジレオンというのだが、彼も時折ロゼッタを見舞いに現れた。
書物を読み上げる専門の音読家を附けてくれ、退屈しないようにと気を遣う。
思わぬ成り行きでこの家に運び込まれたものの、外部との通信も許可されており、実家イオウ家からの
手紙も日々届けられて、万事が行き届いていた。
幽霊の存在を除いて。
「何ですって。幽霊」
看護人も医師スウールの弟子たちも、そんなものは知らないと云う。
屋敷の若主人ジレオンにも訊いてみたが、「さあ」、と明らかに青年は何かを知っている口調で、とぼけてしまった。
そもそも帝国一との呼び声の高い、万能の医師スウールが此処にいるのは何故なのか。
どうやらこの屋敷には自分の他にも、高貴なる怪我人か病人がいるようなのであるが、中庭を挟んで対角の棟に
時折、食事や薬をはこぶ看護人の姿を見かけるほかは、それが誰かも知れなかった。
自身は寝台から動けぬ上に、他人の屋敷の内情についてそれ以上詮索することも憚られ、ロゼッタの疑念は解けない。
それでも、ロゼッタはそれを見た。
聴覚まで損なわれたわけではない。はっきりと聴いた。
窓の向こうに、忽然と、何やら大きなものが現れるのを。
その夜、屋敷の中では、管弦の宴がひらかれていた。
ジレオンはロゼッタの寝台の傍の窓を少しだけ開き、こうしておけば貴女にも音楽が聴こえるだろう、
「イオウ家とはやはり奇縁があるのかな。随分と昔にイオウ家のご婦人が
 サザンカを訪れた当家の男と一夜の恋を愉しんだ。その子孫が君ならば、
 われわれはあながち他人ともいえないことだ。おやすみ」
持参の新しい花を花瓶に挿して出て行った。
灯りを消した部屋の中で、ゆるやかな樂の音に誘われるようにして、いつの間にか眠っていたらしい。
眠りの底に流れる音楽の中に異物音を覚え、ロゼッタが目を開いた時には、暗闇の庭に、その影がもう近かった。
その影はそろそろと近付いてくると、開いたままの窓枠に隠れるようにして、寝所のロゼッタに、
「嬢。あやしい者ではござらぬ。御身の名をおきかせ願わしゅう」、月光に隠れるようにして、控えめに頼んだ。
「ロゼッタ・デル・イオウ」
あやしさ満点の深夜の人影に向かってロゼッタが答えると、大きな影は黙って頷き、そして、
「お騒がせいたした」、丁寧に詫びて消えていった。
幽霊だと思った。
あれだけの巨体を持ちながら直前までその気配をこちらに感じさせず、此処まで近寄るなど、あり得ない。
(さもなくば、騎士だ。それもかなりの)
それとも、薬の作用が見せた一夜の夢であろうか。
ロゼッタは動かすことの出来るほうの手で筆をとり、事の成り行きを兄カウザンケントへの手紙に書いていた。
屋敷の若主人の配慮に甘え、経緯を知らせる使者は頻々と送らせてはいるものの、重傷を負い、
サザンカに帰ってくるはずだった妹が途中で行く先を変えたとあらば事は重大、自身からも釈明が必要である。
暗号を取り混ぜて書いた。
 『カウザンケント兄上。此度の件、まことに申し訳ありません。
  コスモスに駐屯中のハイロウリーン軍は礼節を尽くし、不肖のわが身を手厚く送り出してくれました。』
日光浴をする露台からは、青い空と、屋根の向こうに白く伸びる高い塔の尖塔が見えた。
ここは、ヴゥスタチヤ帝国の首都、ヴィスタの都。
ロゼッタは、レイズン本家の私邸で静養しているのである。
それは数日前、このような成り行きであった。


「ロゼッタ様、フェララのモルジダン侯のお姿が、前方の沿道に」
外からの呼びかけに応え、馬車の小窓が開かれた。
ハイロウリーンが用意してくれた特別仕立ての馬車は、怪我人の搬送用のものではなく、
王侯貴族が中で身を横たえて寛いだまま出来るしつらえの立派なものであったから、
ロゼッタはかえってそれを羞じた。
コスモスを去る際、途中まではナラ伯ユーリ、さらには将ルビリアまでもがユスタスと共に馬車の両脇を固め、
破格の礼を尽くして見送ってくれたのであるが、フェララのモルジダン侯は
ハイロウリーンの彼らが引き返した地点よりもさらに先の道で、通過する馬車を待ってくれていたようである。
「馬車を停めて」
従者に命じた。身を起こそうとするところを止められた。
「傷口がひらきます。安静に」
「ロゼッタ様。モルジダン侯より、伝言です。
 ただ帰国の途につかれるイオウ家のご息女をお見送りしたいだけとのこと、挨拶も不要、
 このまま安んじて過ぎられますよう、とのことです」
「こちらの怪我の程度までもご存知か。フェララの間諜、侮れぬ」
ロゼッタは昏く苦笑した。
同乗の従者たちがかさねて首を振った。起きてはならぬというのである。
彼らの中には、ハイロウリーンが従軍医師団の中から特に選んで添えてくれた看護人も含まれているので、
そう無碍には出来なかった。
「そこまで弱ってはいない。しかしながら馬を降りるは双方にとっても時の無駄。
 お言葉に甘えさせてもらい、馬車の中から失礼して、挨拶だけはさせてもらいましょう」
従者の手をかりて、半身を起こした。
隻眼のモルジダン侯と、騎士ラルゴは、停止した馬車の窓まで馬で寄ってきた。
「聴こえますかな、ロゼッタ・デル・イオウ殿」
「このようななりのままで、まことに恐縮です。無様を晒しております」
「何を云われます」
背の高い騎士ラルゴは、いたましげな顔をして、窓からのぞくロゼッタの蒼褪めた顔を見つめた。
「ご災難であった」
「災難ではありません。駐屯地における任務も立場も忘れ、自らが招きましたること」
薄い織物を上に掛けられて横たわっているロゼッタは、その薄物すらも重たく感じるのか、
はねのける力もないようであった。馬車の中にはまだうっすらと血の匂いがこもっているようで、
それは馬車の屋根から差し込む光にも清めることの出来ぬ、戦場では嗅ぎ慣れたうとましいものであった。
半ば義務的な報告のように、それだけは云っておかねばならぬ一念でロゼッタは語った。声は細かった。
お聞き及びのこともあろうかと存じますが、この怪我は、騎士道に則ったる正当な決闘の結果で負いましたるもの。
事実が歪んで伝播することを何よりも怖れております。どうかそこだけはフェララの方々にもお含みおおきを。
「喋るのもお辛いこととお察し申し上げる」
モルジダン侯はすぐに馬車から離れた。
「ご無事のご帰国と、一日も早いご快癒を」
「いたみいります」
「では、さらば」
「ご縁があれば、また逢いましょうぞ」
モルジダン侯が指示を出し、ロゼッタ一行の馬車はすぐに動き出した。
花の香りがすると思ったら、騎士ラルゴが馬車の中に投げ入れてくれた花束だった。
コスモスの花だ。
 ------うちの兄さん、あれでいて結構いい加減なところがあるんだ。
「一冊の本を最後までちゃんと読み通したことがないとかね」、とユスタスはロゼッタの黒髪を指にからめた。
「まさか」
「本当だよ。ぱらぱらとめくって、それでもう読んだ気になるみたい」
岩場の下に、この花が咲いていた。摘んであげようかとユスタスに云われたが、要りませんと云った。
転落でもされたら困る。--------結局、迷惑をかけてしまった。
「筋は大体のところを覚えているところをみると読んでないわけじゃないんだろうけど、
 好みが偏っていて、あまり物語本には身が入らないみたいだ。
 でも意外だな、ロゼッタ、君までシュディリス兄さんに興味があるなんて」
(ないほうがおかしい。トレスピアノの次期領主、そして、貴方の兄上のことなのだから)
ふたたび動き出した馬車の振動に身を任せ、ロゼッタは眼を閉じた。コスモスが後になってゆく。
これで、お別れというわけだ。
あっけなかった。
「必ず逢いに行く」
繰り返しそう約束するユスタスの顔を見つめるばかりで、何も云えなかった。別れの言葉すらも。
「ロゼッタ、待ってて。必ず逢いに行く。君は僕のものだ」
結局ユスキュダルの巫女さまにはお逢いできなかった。
あの怖ろしい男の刃がこの身につけた刀創の他、何も残らなかった。
「ユスタス、約束して下さい。決してエクテマス殿とは闘わぬと。私からのお願いです。ユスタス様」
別離の言葉の代わりに、それだけを頼んだ。
ユスタスは応えなかった。
最後に、少しだけふっと微笑んだ。それで、止めても無駄なのだと知れた。
イオウ家のふしだらな血など、あの時、すべて森の大地に滴り落ちて、消えてしまえばよかったのに。

「サザンカの家司、イオウ家のご息女が馬車の中におられるのか」

強い声がした。
もうコスモスを離れてずいぶんと経っている。新たな騎馬隊に前方を塞がれたらしい。
こちらの護衛はサザンカの兵で固めていたが、彼らは紋章をすべて外し、目立たぬようにしてある。
一行は完全に停止しており、心なしか、緊張に包まれていた。
コスモスへと向かういずれかの国の隊と街道でぶつかりでもしたのだろうか。
訝りながらロゼッタは外の声に耳を澄ませた。
「カウザンケント・デル・イオウ殿の、実の妹御か。
 ご挨拶をと思うが、いや、そのようなご事情であれば、遠慮しよう。
 護衛に囲まれた箱型の馬車がコスモスから出たと聞き及び、
 それを確かめに来ただけである。なるほど、従者の中には確かにサザンカで見た顔がある」
尊大な口調。何者か。
こちらがサザンカの家司イオウ家の者であると知りながら、道もあけず下馬もせず、その態度。
「ロゼッタ様」
従者が止めるよりも早く、ロゼッタは馬車の小窓を開いていた。
窓枠にすがって無理やり身を起し、街道を見遣る。
馬車の窓が開いたことで、周囲は静まった。馬が駆け寄る音がした。
やがて、思いがけなくも、若い女の透きとおるように美しい声がした。
小窓のふちにかけたロゼッタの手に、白い手がふれた。
馬車の中に香っているコスモスの花も色あせるほどに、それは若く、美しい人だった。
「どうぞ。そのままで。すぐに私たちは去ります」
すぐに、手は引いた。
幻に触れられたような気がした。夕映えの空のような、淡い金色の髪がロゼッタの前を過ぎた。
先刻の男の声がした。黒髪の男は、少し離れたところから、鷹揚な態度でこちらに挨拶を寄越した。
脇に控えている兵たちの紋章は、青に黒に銀。
(レイズン)
「お引止めして申し訳ないことをした」
壮年の男は大して悪びれていない調子でおもむろに書記を呼びつけると、板版に挟んだ紙を高く上げさせて
馬に跨ったままさらさらとその上に何かを書き始めた。
「しかし、その怪我、その顔色、ここから拝見するだけでも深刻のご様子。
 サザンカよりも、都の医師にかかられるほうがよいと思う。
 紹介状を書いてあげよう。畏れ多くも、かつて、幼きカリア・リラ・エスピトラル姫を
 死の淵から救った医師がいる。彼に頼んであげよう。
 もう一度剣を持ちたいのであれば、尚更のこと最高の治療を受けたほうがよい。
 失礼ながら、サザンカには彼に勝るほどの外科医はいないはず」
それは、ほとんど命令であった。
判断に迷って、サザンカの供人たちはロゼッタを振り返った。
「一刻を争うよ。そうしなさい。わたしが書いたこの書状があれば、速やかにそうなる。
 それとも、これを機に騎士を廃業なさるかな。
 それならば無理にとは云わないが、貴女のその怪我はどちらにせよ、最高の名医に看てもらうべきものだ。
 名誉の負傷と申し上げよう。ロゼッタ・デル・イオウ殿。
 ハイロウリーンの王子と一騎打ちなさるとは、これはまた、果敢なお嬢さんもいたものだ。
 この紹介状はその勇気に敬意を表しての、ミケラン・レイズンよりの贈り物である。
 このまま、都に向かわれよ」
ミケラン・レイズン卿の後方の人馬の中からは、白い馬に乗った先ほどの乙女が気遣わしげな、
優しい顔をロゼッタに向けていた。
薄青色の外套の頭巾を深くかぶって顔を隠すようにしていたが、かえってそれが風情だった。
その乙女の名に思い当たったのは、馬車が、都への道を辿ってからだ。
供人らがミケラン卿の与えた紹介状に書かれた高名な医師の名をみて驚嘆、
ことはご令嬢の命にも関わることでもあるし、お診立てしたところ、確かにこれは予断ならぬ重創、
ここは卿の好意に授かったほうがよいであろうと一同で相談の上、ロゼッタもそれに同意し、
急遽、都へと進路を変更したのである。
何よりもロゼッタの状態が人々にそれを選ばせた。ひどく、悪そうなのである。
「今しばしのご辛抱でございますぞ」
予定変更を知らせる伝令をサザンカに向かわせた上で、馬車は都へと動き出した。
(リリティス・フラワン嬢。------まさか)
街道を振り返っても、田園風景の夕暮れには、早出の三日月があるばかりである。
すみれ色の空に浮かぶ優美な月は、先刻の乙女のようだった。
精確に云えば、ロゼッタが思い浮かべたのはリリティスではない。その母リィスリ・フラワンの、
若き日の肖像画である。小さな画であったが、サザンカ本家に大切に飾られて、さして美術工芸に興味の無い
男たちまでもが、魂を抜かれたような眼をしてそれを眺めていたものだった。
ナナセラの画家の手によるその絵は少々装飾的であり、乙女の姿の回りを深緑の葉が囲むような意匠に
なっていたため、描かれた佳人はそのまま、秘密の苑の奥深くに埋もれてしまいそうな、そんな趣のある絵であった。

「改新後もう何年も経つのに、フラワン家の領主ご夫妻は一度も復古したヴィスタチヤにお出ましではない。
 かつての恋人を惨殺した者たちが重臣となっているような宮廷には、想い出も多すぎて、
 足を踏み入れたくないのだろう。しかしそれでも、このあからさまなフラワン家側の敬遠に対して
 ゾウゲネス皇帝陛下の方からは往時と変わらず挨拶を欠かしてはおらぬのだから、
 ジュピタ皇家といえどもフラワン家だけは疎かにはできないのだ。
 トレスピアノは不可侵領地、この事実が示すとおりにね」

そのフラワン家のご次男と親しく言葉を交わしていたと知ったら、あの兄カウザンケントは何と云うだろう。
あれがリリティス・フラワンならば、ユスタスの姉君である。それが何故、ミケラン卿と共にいる。
少し速度を上げるとかで、痛み止めの薬を渡された。
おとなしくそれを呑み、ロゼッタは馬車の天井を仰いだ。終わった。
覚悟の上ではあったものの、とにかく、終わった。
国境はずれまで見送ってくれた将軍、ガーネット・ルビリアの顔からは、何も窺えなかった。
峻厳そのもののような顔をして、幾分かの軽蔑------敗れた者への-----を含んだ眼をしており、そして
それを上回る礼節をもって、目礼で別れた。
ナラ伯ユーリと共に、手づから馬車の中にこの身を運び上げてくれたユスタスは、
最後にこの手に手を重ねると、力強く握り、そして馬車が丘を下るまでずっとこちらを見ていた。
今度逢う時があったとしても、その時は貴方はフラワン家の御曹司、そしてこちらは貴方の前に膝をつく立場だ。
(きっと逢いに行くから)
待ってますと、そう云えるはずもない。
何よりも、ユスタスの向こうにいた赤錆色の髪をした女が、その青い眸が、ロゼッタにそれをさせなかった。
あれは、私よりも、誰よりも、何百倍もの重責と辛さに耐えてきた女だ。
その女騎士の前でこれ以上の見苦しい真似を晒すくらいならば、死んだほうがましだ。
(カルタラグン王朝第四代皇帝の、その后になるはずであった女)
感情を隠した無表情が、ひどく美しく思える女だった。
そこには、愛弟子が勝ったことへの誇らしさも少しはあるか。
それとも、規律を乱して面倒をかけた者どもへの上官としての憤りか。
従えている男のその天才にどこまで気がついているのか、もしや知らぬふりをしているのか。
直に教え、剣を交えてきたのなら、相手の器に気がつかぬはずもない。
それとも、高位騎士の眼力をも欺くほどに、完全にその剣をなまくらなものにさせて生きているのか、あの男。
はね上げられた赤剣が回転しながら地に落ちた。
慣れた手で押し伏せると、当然のように覆いかぶさってきた。
嫌かとも、悔しいかとも訊かれることはなかった。草を濡らすのは手荒く縛られた端からしたたり落ちる傷口の血だった。
見る者がいたら、それは互いを貪り合う獣の姿に見えただろう。荒い息の合間に、まだ抗う気力が残っているのかと、
そこだけは少し感心したような笑いをこの耳元で洩らしていた。
そこにあったのは勝者と敗者だ。それ以上でもそれ以下でもない。男と女でもない。ユスタスのことすら想い出さなかった。
聞きたいのなら、きかせてやる。
呻きをしぼり出し、それを堪えるふりをして舌を噛もうとしたら、頬を叩かれて口に詰め物をされた。そのあたりで気を失った。
サザンカへ搬送されるロゼッタの一行を見送るナラ伯ユーリとフェララ騎士ラルゴの眼は沈痛で、
彼女に同情を寄せていたが、対照的に、高官モルジダン侯とルビリア・タンジェリンの態度は
まったくもって平静であった。見慣れたものを見る目つきだった。
イオウ家の女だからこそ礼を尽くして送り出してくれたものの、もしこれが一介の無名騎士であれば
問題視もされることなく、そのまま捨ておかれたであろう。
(そうだ。いい経験になった)
戦場ではなかった。そのまま殺されなかっただけまだましだ。いい経験になった。
ロゼッタは手を握り締めた。あの男に感謝したいくらいだ。
それなら、この恐怖は何だろう。手の震えがとまらない。
(きっと君に逢いに行く。待っていて、ロゼッタ)
(あれほどに私がエクテマスとは剣を交えないで下さいと頼んだのに。
私の向こうに誰かべつの姿を見据えているような眼をしていた)
止められるはずもない。そこまでロゼッタも、ユスタスという男を見くびってはいない。
あれは優しくとも、星の騎士の称号を持つ男だ。相手がたとえ超騎士であろうと意に介すまい。必ず闘う。
そしてその原因を招いたのは、自分なのだ。
ユスタスがもしも自分ごときの為にハイロウリーンの王子と決闘でもして怪我を負うことにでもなれば、
兄は別所に暮らしている父と共にイオウ家の役と所領を主家に返上、自分を勘当の上、隠遁するだろう。
看護人がロゼッタに別の薬を呑ませた。
根が生真面目なだけに、深まる懊悩がさらに気欝をよびこみ、乗り物の中のロゼッタの容態は一段とすぐれない。
苦しいのは、ユスタスとの別れのせいだとの自覚も彼女にはなかった。
ふたたび、馬車が速度を落として停まった。
忠実な従騎士は今度こそ怒気を顕にして馬車から顔を出した。街道には検閲が設けられているものの、
まだ先のはずである。
「何ごとか」
「それが。先刻とはまた別の、今度はレイズン本家の方々でして」
先頭にいた護衛のサザンカ兵は馬を戻して、馬車の中に告げた。
用向きを伝え、ミケラン・レイズン卿の書状を見せたところ、偶然にも該当の医師は現在、
レイズン本家の都のお屋敷にご滞在中とのこと。事情をお話しましたところ、それならばこのままどうぞ
本家の屋敷にお越し下さいとのことであります。破格のご厚情であります。
「莫迦を云うな。本家と卿は不仲であるぞ」
「そこを見越してか、これは人道的配慮にてご遠慮なくと、重ねてのお申し出」
「都の、レイズン本家の屋敷だと」
「宗家の私邸とか」
ヴィスタの都に滞在する折、各国の大使は国ごとに設けられた公邸を利用するのが常であるが、
それとは別に特別に許可された私邸もあり、ミケラン・レイズン卿も幾つか豪邸を所有している。
そのうち、レイズン本家の都にある私邸といえば、かなり皇居にも近い一等区画にあるはずだ。
「どなたがそれを仰るのだ」
「あちらの方が」、兵が指し示す方向、その者の方から馬車に歩み寄って来た。
若い男だった。
レイズン家の特徴である黒髪を長くのばして後ろで束ね、中肉中背、微笑みを口許にうかべて
実に感じよく人払いすると、彼は断りもせずに護衛の横を通り過ぎ、おもむろに馬車に乗り込んできた。
「ロゼッタ・デル・イオウ嬢」
身をかがめ、青年はロゼッタの顔を覗きこんだ。
若い娘を相手に遠慮のない態度であったが、こちらも常日頃から男に混じって剣稽古をしている身である、
特に恥ずかしく思うことも身なりを気にすることもない。それでも、きっとひどい顔をしているだろうと、
青年が髪を梳かす暇も与えてくれなかったことを、ロゼッタは少し残念におもった。
馬車の中に入って来たレイズン本家の青年の足許で、フェララ騎士ラルゴがくれた花が踏まれた。
彼はそれに気がついて、すぐに膝をどけ、手をのばすと、乱れているロゼッタの黒髪をととのえてやった。
馴れ馴れしくはあったが、悪い感じではなかった。
「ロゼッタ殿。ここで行きあったのも何かの縁。
 都のわたしの屋敷に客人としてお迎えして、完治まで責任もたせて欲しいが」
「宗家の方ですか」
「そう」
「それでは、お世継ぎのジレオン・ヴィル・レイズン様でしょうか」
「さすが。よく分ったね、あたりだ」
青年ジレオンは微笑み、ロゼッタの上掛けを直してやると、馬車を出すように命じた。
ミケラン卿ご紹介のその医師、丁度わたしの家にご足労を願ったところなのだ。
彼はロゼッタに許可を求めると、ロゼッタの赤い剣を揺れる馬車の中で確かめた。
それは一件の後、ルビリアの指示で砥ぎに出され、すっかり元の輝きを取り戻して赤かった。
「医師の名はスウール・ヨホウ。私設の医療組織を起して、一流の医師を揃えていることで有名なのだよ。
 ミケラン卿が貴女のためにその紹介状を書いたのなら、貴女は彼に気に入られたのだな。
 ハイロウリーンの王子と一騎打ちしたことは聴いていたものの、このように酷い有様だとは知らなかった。
 六の王子エクテマス殿か。平騎士のままだというが、それで、稽古における力加減も分らぬのかな。
 それとも、かような無茶をしても、それを打ち伏せるだけ師のルビリア姫が強いのか。
 君に負わせた怪我を見るかぎり、これは腕試しの限度を超えている。師匠も弟子も狂っているとしか思えない」
「その剣が、私を守ってくれました」
「そのようだ」
顔の前に剣を立てて、しげしげとその赤い光に魅入りながら、ジレオン・ヴィル・レイズンは目を細めた。
「イオウ家伝来の赤い剣。ばら色のこの剣。親族のエチパセ・パヴェ・レイズンが名剣だと褒めていた」
道が悪所に差し掛かり、馬車が揺れた。ジレオンは片腕を壁について身を支えた。
ジレオン・ヴィル・レイズンは、都の学問所で優秀な成績をおさめ、名実共に本家の世継ぎの若者である。
騎士としての名は聞かない。自らそれに応えるようにして、
「現在のレイズン家には、高位騎士はただ一人だ。それが分家のミケラン・レイズン」
赤剣の刀身に手の平を這わせ、ジレオンはその光の中に何かを凝視していた。
この剣、ミケランおじ上ならば、金に糸目をつけずに欲しがるかもな。
「レイズンはもともと政治寄りの家なので騎士の数も少なく、その代わりに隠密を発達させた。
 それだけに、高位騎士の存在は他家より尊重され、崇められるきらいがある。くだらないな。
 血統的には本家のわたしの方がおじ上よりも上なのに。あの方の増長もそろそろ、いい加減にしてもらわねば」
剣の光を浴びているジレオンの若い顔に、翳りがあった。
しかしそれは青年を留めるものではなく、愉快をゆらりと秘めて、ロゼッタの前に不穏であった。
「伝説にも驕れる者が一夜にして失脚し、惨めに路上をいざる話がある。わたしが子供の頃、
 あの人はわたしに向かって何かあれば力になるのでいつでも頼りに来なさい、そう云った。
 分家者のくせに本家の父母の前でわたしに向かってそのような口を利いたのだ。
 あまりに愕いたので、今でもよく憶えている。当時わたしが子供でなければ、
 口の利き方には気をつけろと、そう云い返してやったことだろう」
旧態依然とした門閥主義よりも人は実力主義を理想として唱えるが、聖騎士家の談合による帝国統治は
成り上がり者の跋扈をゆるさぬだけの、磐石の秩序と平安を人民の上にもたらしてきたものだ。
聖騎士家の権威が堕ちる時、なし崩しにこの世は混沌に陥り、その隙につけ入る怨念や私利私欲による者どもの
勝手きわまる横行と不正と混乱をゆるすことにもなろう。ミケラン・レイズン卿はその獣道を作った。
「彼はレイズン家の恥だ」
今後、不届き者が後に続くことのないよう、調子に乗った者の先に待つのは転落の崖だけであった、
そのようになればいいのだが、道を正そうと切に願うものがいなければ、天も我らにお味方下さるまい。
「わたしはミケラン卿のすべてを否定するものではない。
 カルタラグン王朝を退け、ジュピタの光を取り戻したのは何といっても彼の功績だから。
 しかし、それを本家に無断でやったのが悪い。
 栄えあるレイズン家の末端に連なる身でありながら、私兵を雇い、皇帝陛下を担ぎ出して
 カルタラグン懲罰に乗り出した挙句、聖騎士家カルタラグン及びタンジェリンを取り潰すとは何ごとか。
 二度とあのようなことがあってはならぬ。
 権力の座に居座る彼の存在はそのまま、聖騎士家に泥を塗り、我々の威信を無効化するに等しい醜悪だ。
 いま一度、聖騎士家の面目を取り戻し、帝国の摂理はいち野心家などには揺るがせには出来ぬものであることを
 天下に知らしめる必要がある。何よりも、他の誰よりも、ミケラン卿自身にね」 
身内の恥は身内で斬らねば。
ジレオンは赤い剣をロゼッタの手にそっと握らせて返した。
掟を破り、伝統や秩序をないがしろにする者は、多少なりとも信念と説得力のある最初の者はともかくも、
後続は必ず順を追って見るも無残に劣化していくものだ。
さらにはミケラン・レイズンは流儀でも流派でもない。一代かぎりの個性であり、不世出のものである。
幸運の重なりと彼一人に帰属する彼の才覚が、あの人を今の地位に押し上げたのだ。
卿は回天における改革者でありはしても、その後の平穏なる世の模範とはなり得ない。
それ故に尚更のこと、二度とミケラン卿の真似をする軽率な者が今後出ぬよう、
長い眼で先を考え、世を乱す禍根は今のうちに徹底して断ち切らねばならない。帝国は個人の支配によるものではない。
そしてそれを果たせるのは、ミケラン卿がものを云わせている金銭ではなく、清廉なる理想だと、
わたしはそう考えているよ、ロゼッタ。

 『ジレオン・ヴィル・レイズン殿は二日に一度は見舞いに立ち寄って下さいます。
  スウール医師の許可が出しだい、いそぎ、サザンカに帰参いたします。』

報せを聞いて愕いた兄カウザンケトからはとり急ぎ当座の金がレイズン本家に届けられたが、
「お代を請求するなら、ミケラン卿に求めますよ。彼がイオウ家に無断で勝手に決めたことだ」
ジレオンは頑として受け取らなかった。
事情を説明する手紙を国許の兄に宛てて書き終えた後、ロゼッタは鉄筆をおいて、庭を眺めた。
日光浴をするために日に一度、可動式の椅子にのせられて室からはこばれる露台に、ロゼッタは独りだった。
今が盛りの花木からこぼれる花々がじゅうたんのような色彩を庭の土に敷いており、もう少し先に進むと
欄干に囲まれた高台のそこからはヴィスタの街並みが一望できた。
馬車と馬の乗り入れを制限し、舗装を重ね、建物の色彩を統一した美しい街。
これも全てミケラン卿が私財を投じて再興にあたった恩恵であるのなら、街路樹が涼しい木蔭を作り、
疎水の流れるこの街は、さしずめ巨額の富を築いた男の夢の実現、彼の理想の箱庭だろうか。
そしてそれが完成した時、男は次に何をしようと想うだろう。
分家の出であることを誹られはしても、面と向かってそれをミケラン卿の弾劾理由にする者がいなかったのは、
皇帝陛下の友人であるからというだけでなく、彼が、こうしてその高い理想やその洗練を、どのように黒い噂が
地下に流れようが、その人となりは高潔であることを、人々の前に見せてくれたからではないのか。
(ジレオン様が口にするほど、ミケラン卿は分家のご出身であることを
 露ほども気には留めておられるまい)
それがいけないというのであらば、そもそも裏の政治を司ってきたレイズン家こそ、
叩けば非道と横暴の埃がごまんと出るはずであろうに。
屋敷の庭には果樹園もあり、そこで採れたという橙の果実が椅子の傍の卓の器に盛られて、つややかだった。
手紙を書くというので召使は遠慮してさがっており、毛布に包まれたロゼッタは、庭の木立の向こうに
都の偉容の様を臨みながら、庭の風に吹かれていた。
そのロゼッタの背後にしのび寄る巨大な影。昼間にも幽霊は出る。
幽霊はずり落ちかけたロゼッタの毛布をそっと掛け直した。
「いつぞやの夜の方。私に何か御用でしょうか」
振り向かずにロゼッタは問うた。すでに肌身離さぬ赤剣に手をかけている。
随分と巨きな幽霊もいたものだ、腕の影すらも丸太のように太く逞しい。
野太い、しかし気遣わしげな声が後ろからロゼッタを包んだ。
お休みのところをお邪魔いたす。お初にお目にかかり申す。フェララの食客ルイ・グレダンと申すもの。
主のジレオン殿が皇居にお出かけになった留守のうちに、嬢に少々お訊ねしたいことがあり申す。
「ロゼッタ殿」
黙っていると、遠慮がちにおおきな男はゆっくりと前に回ってきて、あまり動けぬロゼッタの足許に膝をついた。
騎士ラルゴやナラ伯ユーリの同情とも、完璧な無関心を貫く隻眼のモルジダン侯やルビリアの超然とも違う、
その眼には心からのいたましさが満ちていた。女騎士の悲惨は何度みても見慣れぬ、と云っていた。
熊のようなこの男からすれば、自分など、小さな少女騎士にしか見えぬだろう。
それが包帯に包まれた身でしっかと剣を握り締めているとあらば、遣るかたない男の泣きそうなこの顔にも合点がいく。
(甘いことだ)
無論これはこの大男の一面というだけであり、油断させるための偽りではなくとも、この者の全てではない。
積怨なくとも、我々には騎士の理念と義務がある。
「フェララ剣術師範代ルイ・グレダンさま、ご高名はかねてより」
礼をとるロゼッタの毛布に包まれた膝に、ひらりと花びらがかかった。ロゼッタは気にも留めなかった。
この男、何故レイズン本家の私邸にいる。
ロゼッタの黒髪が風にゆれた。
「辱しき姿を晒しております。なれどこれは一身上のことなれば、ご心配なく。お話があるならば承ります」
イオウ家のロゼッタはルイを見つめ返した。



静かな波に揺られて、舟の中で休んでいた。
鳥の声に目を覚ました。
耳もとで鳴るのは、波音ではなく、木蔭にそよぐ草や花。
凭れていた岩から身をずらして顔をあげ、流れる雲に眼を細めていると、誰かの手庇で空が隠れた。
山の中である。
「おはよう。もっと眠っていていいのよ、ルルドピアス」
「レーレ……」
まだ眠りの中にあるような、甘たるい、頼りないその声に、岩の上に座っていたレーレローザの顔はふっとほころんだ。
座っていた岩からとび降りると、
「ずっと見ていたのよ。貴女の寝顔」
ルルドの鼻先をつつき、上にかけていた外套で、もう一度包むようにしてやる。
下方に岩場の水が伝って集まる小さな滝があるためか、起きてからも耳の底にさらさらとした
空っぽの音が鳴っていた。ルルドピアスはまだ眠り足りない子供のように、外套に顔を半分隠した。
「寝顔を見ているなんてひどい」
「ルルドは子供の頃と変わらないなと、そう想って見ていただけ。可愛い」
「ブルティと、ガードは」
「馬車を片付けに行ったわ。誰か適当な者を雇って、馬車だけをハイロウリーンに向けて走らせるために」
櫛を取り出し、ルルドピアスの長い髪を梳かしてやりながら、レーレローザは手早くそこに花を編みこんでやった。
水流のせせらぎの音がする他は、しんと静まった山中だった。時折、小鳥が短い歌をうたった。
雨が近いせいか、ぬるい風があり、頭上を過ぎる雲の動きがはやかった。
「レーレ」
「なあに」
「とても気持ちよく眠れたわ」
「うん」
ルルドピアスの額に額をつけて、レーレローザは熱をみた。
「良かった。熱はないみたい。昨夜は具合が悪そうで心配したのよ」
「小トスカイオお兄さま、きっと、怒ってるわ。イクファイファ兄さまも。私たちが家出をしたと知ったら、
 お城でお待ちのお父さまは、何て云うかしら」
「そのことは私たちが勝手にやったことだから、ルルドは考えなくていいのよ」
ぴしりと遮ると、レーレローザは「朝食を作るわ」と、立ち働きだした。
沢に降りて水を汲み、岩を組んで火を熾し、取っ手を枝に渡した器を火にかけ、携帯食料をそこに入れる。
昨夜のうちにめぼしをつけていたいのか、レーレローザは森の菜も摘んでくると、それも小枝に刺して火で炙った。
「こういうことをするの、好きなの」
やがてよい匂いがしてきた。二人は仲良く同じ器から分け合って食べた。
「ガードたちとよく野宿して遊んだものよ。
 私が嫡男として男に生まれていたら、本当にどれだけ良かったかしら。
 小トスカイオお父さまを補佐して、ゆくゆくは、この手でオーガススィを立派に治めてみせたのに」
「レーレローザなら、きっといい領主さまになったでしょうね」
「そして私が男だったら、その時には、きっとルルドピアスをお嫁さんにしたことよ。
 もしも男だったら、必ずそうしたわ。でも男に生まれていたら、こんな思い切ったことも出来なかった」
「そうね」
「私が男子として生まれていたなら、レーレロードという名だったかもね。
 そしてその時には、世継ぎのお父さまのその長子として、こんな軽率な振る舞いは慎んだはずね。
 でも今でも少しはそう思っているのよ。弟がようやく生まれて、これで世子の問題は片付いたけれど、
 もしもあの小さな弟が途中で亡くなるようなことにでもなれば、私に大役が回ってくるかもしれない、なんてね」
「その時には、ハイロウリーンの王子さまがオーガススィを継ぐことになるのかしら。つまり、
 これからレーレの夫となる人が」
「その時には、女王として、私ひとりでいいわ」
ぱちり、と火の中の枝がはぜた。朝の鳥が騒いでいた。レーレローザはその火を見つめて云った。
私がルルドピアスを護ってあげるわ。
「お祖父さまやお父さま、イク兄さまのように、事なかれ主義でルルドピアスを離宮に追いやったり、
 何処かの荘園に閉じ込めるようなことは決してしないわ。舞踏会も貴女のためにひらいてあげる。
 年に数回も顔を出さない幻のお姫さま。もう、淋しい想いはさせないわ」
「レーレ……」
「それとも、こんなのはどう。このまま貴女を連れて、どこか小さな村に行きましょうか。
 お伽話のようなのどかな村がいい。そこで、小さな家と畑をもつの。
 私、こう見えても畑仕事が得意で好きよ。土をいじったり、耕していると、
 大地からしっかりとした返事が返ってくるような気がするの。人間のどんな作為よりも、雄弁で、正直な、
 虚飾も見栄もない、嘘のない確かなものが」
作物を実らせ花を咲かせ、また枯れて土に還る。その循環の単純さが、余分な雑念を
そぎ落としてくれるような気がするの。
「それともやはり、私も、領主の座に就けばおとなしくなどしておらず
 他国へと攻め入ったりするだろうか。きっとそうなるような気がする。土を耕してばかりいるなど、
 消極的で愚直なだけの農民に任せておけばよいのだもの。
 オーガススィの旗を掲げて、騎士団を率い、侵略のもたらす富と闘いのたぎりを夢みて野を駈けるだろうか。
 そうなるような気がする。竜の血の何と業の深いことかしら。
 どうしたら人は、慾深さや憎しみや執着を手放せるのかしらね」
腕を組んでレーレローザは青空を仰いだ。すらりとしたその姿は若々しい王子のようであり、そして
短く切ってしまったレーレローザの髪は、王冠のように少女を飾って輝いていた。
「鷹狩り見物などでは済まぬ牙や爪がもとより誰の心にも具わっているものならば、
 どうしてそれを解き放って悪いことがあるだろう。これは危険な考えかもしれないけれど、その熱意がなくば
 国とてどうして発展し、土着の豪族を吸収して、ああしてひとつのかたちになっただろう」
「運命を乗り越えていける人ね、レーレローザは」
思い切りのいいレーレローザの意志の強さや豪胆、それに相応しい器量は、
この姫が男でさえあったらと、昔から家中の者たちを残念がらせてきたものだった。
ルルドピアスは微笑んだ。
「強くて賢くて、やさしくて。貴女こそ、わたしの憧れだったわ、レーレ。大好きよ」
「それなら、レーレロードとお呼びなさい、ルルドピアス姫」
片脚を後ろに引いて、レーレローザは女人を円舞曲を誘う男の仕草をしてみせた。
ずっとこのまま、森の中でルルドと暮らせたらと想うわ。けれど、それではやはり私は満足しないでしょうね。
立ち上がったルルドピアスを抱きとめて、レーレローザは森の中の気配に耳を澄ませた。
「そして、誰もがそれを赦すことはしないだろう」
「レーレ……?」
「私から離れないで、ルルド」
ああ、オーガススィの世継ぎの君の一の姫こそ惜しまれる。あれが男子であったなら。
建国の海賊のように雄々しく、祖国に降る雪のように心ましろき、海の姫。
(莫迦げた戯れ歌)
レーレローザは笑ったものだった。
(女にしか出来ないこともたくさんあるというのに。こういっては何だけど、お父さまやイク兄さまをみてよ。
 女衆のことには口を出すものではないと体裁のよい言い訳をしながら、その実、あの人たちは
 面倒事から逃げ回っているだけではないの)
(私が尊敬するのは、ルビリア・タンジェリン。ああすればよい、こうすればよいのにと外から人の行いを
 高みから断じるほど簡単で楽なことはない。頼みもしない親切面をしながら張り付いてくるその人たちは、
 隙あらばこう云いたいだけなのよ。ほら、お前にこうしろと云ったとおりだろう。
 ほら、云わんことではない、だから駄目だったと。
 人の不幸や躓きを待ち構えながら訳知り顔で他人のことを語って回る人間ほど、その正体は
 相手の存在を自分の足許においておきたいだけなのよ。主役気取りの彼らの声の大きさといったらどうだろう。
 運命の裁定者か何かのように口先だけで何かをした気になっている人々とは違い、
 ルビリア姫は、あの人は、文字どおり底辺から這い上がってきた)
(騎士の中の騎士が集うハイロウリーンは英名のその名に恥じぬ。
 当時ルビリア姫を受け入れ、その意を汲み、手厚く保護したのはご当主フィブラン・ベンダ殿だけだった。
 それがミケラン卿への抗議とあてつけであったとしても、少しでも意気ある者ならば、
 あの態度をみならうといいんだわ)
「レーレローザ」
「囲まれてる」
そろそろ戻ってくるはずのガードとブルーティアはどうしてしまったのだろう。
雨粒が落ちてきた。木蔭に潜む気配は、それとはまた別のものであった。
光の反射が少女たちを照らしつけた。振り出した雨の中、レーレローザは剣を抜いた。
 


「続く]


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