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[ビスカリアの星]■六五.


正午近くなって皇子宮に戻って来たソラムダリヤは、そこに待っていた女を見ると、疲れた顔にそれでも
微かな笑みをうかべて、挨拶の片手を儀礼的に差し出した。
すでに椅子から立ち上がっていた女は、縋るようにその手に両手を重ね、すぐに離した。
「お待たせしたようですね。エステラ」
「殿下」
約束の時間をとうに過ぎている。
ソラムダリヤは上着を脱いだ。
「貴女の用件を訊きましょう。お茶をはこばせます。好きなものを頼んで。
 着替えぬまま、このままで失礼していいかな。わたしも少々、疲れた」
「ソラムダリヤ皇太子殿下」
女の両腕を軽く押しやり、ソラムダリヤは椅子に深くかけた。
前のめりにうな垂れて坐った、その髪が乱れている。
皇子は額に手を遣りしばらく黙っていたが、怯えた顔をして立ち尽くしている女をちらりと見遣ると、
「そんなに疲れた顔をしていますか。確かにあそこは陽気になるような場所ではありませんが、
 それでも皇太子として生まれた限り、罪人の処罰にも処刑の場にも
 幾度となく立ち会ったことがある。気遣いは不要ですよ、エステラ」
わざと茶化して応える、その顔色が酷く悪かった。エステラは息を呑んだ。
エステラは正面の床に膝をつき、ソラムダリヤの膝に手をおいた。
「殿下。ふるえておられますわ」
「かえって貴女に怖ろしい想像をさせてしまったようだ。ほら、お茶がきました。さがっていい、誰も入れるな。
 エステラすみませんが、わたしにも一杯もらえますか。立つ気力がない」
「ソラムダリヤ殿下」
どちらともなく互いの手を握り締めていた。どちらの手も、血が凍ったように冷えていた。
「エステラ」
疲労の中にあっても、ソラムダリヤ・ステル・ジュピタはそれ以上、皇太子として
だらしのない態度は女には見せなかった。
しばらくすると、彼はゆっくりと言葉を選んで語りだした。
貴女が訊きたいことは分かっているつもりです。面会を断り続けて申し訳なかった。
伝言にはすべて眼を通しています。貴女にはわたしの口から説明をするつもりでした。
でもこうしていざ貴女の顔を見ると何から話していいのか。
エステラは両手をもみ絞った。
「フリジア内親王さまは、どうされて」
「皇女宮でおとなしくしているようです。周りの者には、フリジアが何を云っても決して
 取り合ってはならぬと云い付けてあります。中庭での散歩は許していますが、宮からは出していません」
「どんなにか、お心細いことでしょう」
「たとえ貴女でも、妹に逢わせるわけにはいきません。皇帝が臨席していた御前会議において
 自分が何をしたのかフリジアはその罪をよく理解していないようですが、それでもビナスティの
 拘束については胸に堪えたものか、自分を責めて終日そのことで泣いているようです」
「何をしたと仰るの」
「フリジアは内親王として、政治に口を出すべき立場にはありません。
 宮廷に偏った派閥を作らぬためにも、決して信条を明確にしてはならぬのです。
 唆されたにしろ、妹は皇族の身でありながら、それをしたということです」
エステラはふらふらと立ち上がった。
お茶を淹れてソラムダリヤに渡すと、ソラムダリヤは熱いそれを飲み干し、それから
今気がついたように女の様子に眼を留めて愕き、「エステラ。あれからよく寝ていないのでは」、
憔悴した女を気遣い、椅子をすすめた。
実際、ひとまわりもエステラは痩せたようにみえた。
つい先ごろ、就寝前の茶に砂糖を入れるか否かを気にしていた女とも思えぬほど、この女を彩っていた
鮮やかな生気がそげて、そこにいるのは、若く、美しいだけの女であった。
あれほど身なりに熱心だった女が、今朝は装飾をまったく身に付けてはおらず、眼の下をうす青くさせて、
その髪も片側に束ねたままになっているというのは、どのような抗議よりも直裁にソラムダリヤの胸をついた。
近衛兵を連れて皇女宮に踏み込んだ時、エステラはビナスティと共にいて、女騎士が
連行されるのを見ていたのである。
「何事ですか。何をなさるおつもりですか」
「そこを退くのだ! その女騎士をこちらへ渡しなさい」
咄嗟にビナスティを庇ったエステラを、あの時、衛兵に命じて遠ざけさせたのは、ソラムダリヤ自身だった。
女騎士は皆が見ている中でソラムダリヤに作法どおりその剣を差し出し、従容として連行されて行った。
室を出る前に兵の槍の間からエステラを振り返り、謝るように頭を下げた。別れの挨拶のようだった。
あの後、あのビナスティが叛逆容疑で獄塔に入れられたと聴いて、どんなに愕いたか。
「心労をおかけしたようだ。すみません」
「わたくしのことなど、どうでも宜しいのです。皇太子殿下」
「改まって呼ばれるとかえって辛い。貴女はミケラン卿が親しい付き合いをゆるした方であり、
 わたしとっては友人です。どうぞ、思うようにして下さい」
「では申し上げますわ」
「その簡素な格好。牢の中の人に合わせているつもりですか。捕縛の際のあの態度からも
 ビナスティの有罪は明らかだというのに。貴女はいい人ですねエステラ」
「しっかりとお応え下さいませ。わたくし、朝からずっとこちらで殿下をお待ちしておりました」
事情を知ろうと何度も皇子に宛てて伝言を頼んだ。
フリジア内親王とのめどおりも許されず、皇女宮の一室に客人として丁重に扱われながらも、
軟禁に等しい日々だった。
獄塔は皇居の敷地よりも外にあり、そこに行くことも叶わない。
何よりもエステラを怯えさせたのは、ソラムダリヤの変わりようである。
皇子さま育ち温室育ちと、それまで適当に甘くみていた青年が、こと公人として動き出すと、
厳粛な役人のように態度を変えて、押してもひいても動かぬ者のように、
人ではなく岩にかかれた碑文に対峙してでもいるかのような、そのような様子なのである。
温和なところのあったその顔つきも一変しており、それはまさしく、私情を殺し、
皇太子としての責務と本分を全うしようとつくす、帝王学を受けて育った青年の姿であった。
そしてその本分を彼に授けたのは、彼の教育係であったミケランではなかったか。
しかし、エステラは自分を励ました。此処には他に助人も頼める者もいない。自分が何とかしなければならぬ。
彼女は直裁に切り出した。

「フリジア姫さまを利用し、政治に加担するように謀った者がいるということでしょうか。
 政治向きのことはわたくしには分かりません。
 けれど殿下が目下拘束され、日夜尋問されておられるジュシュベンダの女騎士
 ビナスティ・コートクレールこそ、何者かに利用された、犠牲者ではありませんの」
「どうしてそう思うのですか、エステラ」
「少しはミケラン様の傍にいたわたくしを信じていただけますならば、
 あの方、悪いことが出来る人ではありません。きっと何者かに騙されたか、脅されたかして、
 厭々ながらにフリジア内親王さまを口説いておられたのに違いありませんわ」
「これは、いいとか悪いとかの問題ではないのですよ、エステラ」

ソラムダリヤは首を振った。
「それに、そうやってミケランと親しいことと貴女自身の見解を重ねては、
 かえって信憑性が薄くなります。そこに何の関連性があるのです。残念ながら、
 わたしの前ではミケラン卿の地位も名も、さほど意味をなさないよ。
 せいぜいが、ミケランが自分を選んだその眼を信じろと、わたしに対して縁故を楯に理不尽なことを
 貴女は求めているだけにしか過ぎません。それは一部の層にしか通用しない驕った手段です」
「ビナスティはヴィスタル=ヒスイ党などとはまったくの無関係ですわ」
声をはげまして、エステラはさらに決然と抗議した。
どうしてジュシュベンダのいらくさ隊におられたあの人が、レイズン家の彼らの為にはたらくことがあるでしょう。
「ビナスティが、フリジア姫におかしな考えを吹き込んだと仰るのですか。
 彼女がヴィスタル=ヒスイ党の構成員だと仰るのですか。
 街頭で反ミケランを標榜し、何やら騒いでいるだけの誹謗中傷好きな若者ならば過去にも大勢いましたわ。
 それがレイズン本家を拠点として興ったというだけで、対処がここまで変わるのですか。
 それとも問題はそこではなく、罪状は、皇族である皇女さまに特定の思想を吹き込み、
 現行の体制への不満を公の場で口にさせ、皇帝にはたらきかけさせたという点にあるのでしょうか。
 そうなのですね。ではそれをお疑いなのであれば、それならば、
 同じようにフリジア姫さまと直に言葉を交わしたわたくしも牢に入れて下さいませ」
「他ならぬ貴女が、ミケラン卿を追い詰める行動をとるはずもない」
ソラムダリヤは黙ってエステラの手をとった。
いつもなら乳液で丹念に磨かれ、爪を染め、高価な宝石付きの指輪で飾られている女の手は、
何の飾りもない先細りしたほっそりとしたかたちのままソラムダリヤ皇子の手の中におさまった。
本当によく眠っていないのだろう、切々と語る間にも、化粧のないエステラの顔には疲れが濃かった。
「貴女はわたしが此処に招いた客人だ、エステラ」
「わたくし弁論術は苦手ですの。騎士たちほど自制心を鍛えてもおりません。女は感情でものを云うものですわ」
「そのようですね」
「ですが、殿下はわたくしの心情を汲んで下さることと信じておりますわ」
ため息をついて、ソラムダリヤは頷いた。
エステラ、貴女がいちばんご心配であろうことを先に教えておきましょう。
「獄舎のビナスティ・コートクレールは参考人の扱いで、虐待も受けてはいない。
 わたしがそれを赦してはいません。今のところはね。
 皇帝に頼み、十日間はわたしの預かりとし、その間は拷問も禁じています。
 ビナスティはジュピタ家のわたしに剣を返還し、そうすることで騎士の身分を離れましたが、
 わたしはまだそれを正式に受理していないし、ぎりぎりまでする気もありません。
 現在のところ、彼女はジュシュベンダ騎士としてそれに見合った待遇にて獄にいる。
 尋問中も必ずわたしが立会い、拘束の鎖も外してあります」
「本当ですの」
「誓って」
それを聞くと、エステラは一筋の涙をこぼした。
女の涙に弱いソラムダリヤははじめて暗い夢から醒めたように、あわててその涙を拭ってやった。
貴女は本当にいい人ですね、エステラ。さほど付き合いが深かったとも思えぬのに、
ビナスティに友情を覚えているのですか。それとも、気の毒な立場の人を見過ごせませんか。
こう云っては貴女に失礼かもしれないが、貴女を選んだミケランはまことに趣味がいい。
情や親切を自分の手柄や美談のために喧伝して回る人間は世に多けれど、
人のために無言の心を尽くすことのできる人は稀です。
きっと卿は貴女のそういうところを気に入ったのですね。
そんな貴女にこんなことを告げるのは不本意なことですが、状況はかなりビナスティに不利です。
「もとよりビナスティは覚悟を決めていたようです。頑として口を利きません。
 さすがはいらくさ隊の女だと、尋問者もお手上げになるほどにね。
 食事も摂ろうとしないのを、無理やり食べさせてはいますが、
 それとても、食べないと獄塔にいる全員の食事を取り上げると繰り返し説得して、今朝方もようやくです。
 こちらも定められた期間内に何とかビナスティに有利な証言が彼女から得られはせぬかと必死なのですが、
 彼女はいっさいの自白を拒んだままです。このままでは第一級の政治犯、不敬罪、
 叛逆者として判決が下ってしまう。致し方なき処置とはいえ、薄暗い牢にいるあの人を見るのはわたしも辛い」
「おゆるし下さい」
鼻を赤くして、エステラは顔を手で覆った。
わたくしには、どうしても、ビナスティが大それたことを考えるような人には思えませんの。
これには何か、深い事情があるに違いありません。
「ビナスティは何者かの計略に乗せられただけなのではありませんか。そこをどうか、よくお調べ下さいませ」
「何者かとは、誰です」
「わたくしには分かりません。ですが、ビナスティが断れぬような立場の誰か。
 戦火の動乱のうちにご両親を亡くした彼女ほど、倖せな世の訪れを夢みていた人はいませんわ。
 そこに付け込まれて利用されたのではないでしょうか。
 為政者であるミケラン様に代わって帝国を動かそうと画策する、何者か。彼らの仕業なのではありませんか」
「そう、たとえばジュシュベンダの君主イルタル・アルバレスとかね」
「殿下!」
はっとして、エステラは顔を上げた。ソラムダリヤは沈痛な表情で、「これから客人が来る」と、断りを入れた。
「客人の名はジレオン・ヴィル・レイズン。逢ったことは」
「いいえ。でも、その方確か、レイズン宗家のご長子ですわ」
「貴女も同席しますか。構いませんよ。
 ご存知のとおり本家と分家の間には確執がありますが、
 わたしがいる限り、ミケラン卿の友人である貴女への不愉快な発言は謹んでもらいます。
 貴女を皇居に招いたのはわたしであるし、ご婦人に失礼な態度をとらぬだけの礼儀は
 彼も知っているだろうから。もっとも、同席といっても軽食をとる間に限らせてもらって、
 あとは貴女には遠慮してもらいます」
ソラムダリヤは組んだ手の上に顎をのせて、人が違ったような思い詰めた顔をした。
「今回の件で、彼と話があるのです」。


ほどなくして皇子宮に通されてきた青年貴族は、今までにも何度か訪れたことがあるものか、
勝手しったる様子で、幾多の中庭と歩廊を渡ってきた。
あらかじめエステラの出迎えについては聞かされていたものか、ジレオンはまずは
無遠慮にミケラン卿の愛人である若い女をよく眺め、好奇心のまじった薄ら笑いを浮かべながら
男が女を見る時の品定めを行ったものの、それでも感じよく身をかがめるとその手に接吻し、
「ジレオン・ヴィル・レイズンです。ここで御目にかかれるとは、エステラ嬢、噂に違わずお美しい」
まんざら嘘ではなさそうな賛辞をミケランの愛人に寄せた。
エステラはソラムダリヤに促されて一度部屋に引き取り、今度は化粧もして髪も結い上げ、
涙の痕を残さぬように、そして何よりもミケランの名誉の為にも、申し分なく着飾っていた。
指輪をはめた白い手を差し出して、堂々とエステラはジレオンの挨拶を受けた。
美人であることは誰もが認めざるを得ない魅力を全開にした時のエステラほど美しいものはなく、
嫣然と微笑み返してみせると、ジレオンは素直にエステラの容貌に感心した。
「貴女を見出したおじ上が羨ましくなりますよ。尤も貴女は莫大な私有財産をお持ちとか。
 つまり、貴女は最初から自由の身というわけだ」
「ええ」
すっきりとした深紫のドレスに身を包んだエステラは、その姿に相応しく、落ち着いて応えた。
「年老いた夫が死んだ後、無一文で路上に放り出されていたところを、訴訟のすべも知らぬわたくしの為に
 ミケラン様が相続財産を取り戻して下さいましたの。感謝しても足りませんわ」
「その時以来、彼と親しく」
「いいえ」
顎を少し上げて、エステラは悠然と扇をつかった。
「三年の後のことでしたわ。わたくしがもう独りでも生きていけるようになってから」
「成程。それで、貴女は彼の申し出を断らなかった」
「もちろん」
扇を顔の前に広げ、挑発的な眼差しでエステラは微笑み返した。それはまるで、こう云っているようであった。
(お前のような青二才より、ミケラン様のほうがずっといい)
ジレオンはあっさり肩をすくめると、「それも当然かと」、室内の洗練された調度を見廻しながら、
物分りのいいところをみせた。
「寄る辺のない若い女が、頼りがいのある年上の男に惹かれることはよくあることです。
 たとえおじ上と貴女の関係が、アリアケ・スワン・レイズンの生前からのものであったとしても、どうぞご勝手に。
 そこまでわたしは他人の私事に眼を尖らせる趣味はない。道徳家ほど無粋なものはないのでね」
微妙に皮肉を取り混ぜて、一本返されたといったところであろうか。
扇の陰から、エステラはレイズン本家の跡取りの姿をあらためて注意深く眺めた。
伸ばした黒髪を後ろで束ね、中肉中背、精悍なその若い横顔。
つと、エステラは胸をつかれた。
もしもミケランに息子がいたら、彼のようではなかったか。
それとも在りし日のミケランは、ちょうどこのような雰囲気の若き壮士ではなかったか。
ミケランの方がより思索家であり、ジレオンはいかにも甘やかされて育った本家の男という違いはあれども、
陰謀に生きるレイズン家の男に共通する小昏い炎のようなものはジレオンの眸にも同じように宿り、
他人を見る時の嘲笑や傲岸なその様子に、野心家としての特徴がくっきりと顕れて、
強い輪郭のうちに底知れぬものを湛えたその精力的な印象は、ミケランともそっくり重なるものであった。
愛人の前では滅多に家の内情については口にすることのないミケランであったが、
本家の跡取りジレオンについては、多少は見所のある若者だと、軽口のついでのように
ミケランも褒めてはいなかったか。
「お酒はいかが」
エステラはいつもミケランにそうするように、小さな盃をジレオンに渡した。
同時に悟った。この若者こそ、本家の若手で結成されたヴィスタル=ヒスイ党の頭目なのだ。
眼が合った。ジレオンは向き合って盃を掲げている女がそのことを知ることを知り、真上から笑った。
「乾杯。貴女がどうしてここに保護されているのかは知らないが、わたしに責任がありそうです。
 ミケランの愛人であるというだけで、危害を加えられると思いましたか。
 我々が暴徒同然と思われていたとは、心外だ」
含み笑いで余裕を持たせた男のその口調、その声音に既視感を覚え、エステラは扇を握り締めた。
盃のふちをあわせると、澄んだ音がした。
段取りどおり、そこにソラムダリヤがやって来た。エステラは、一刻も早くこの場から退きたかった。
「皇太子殿下のおなりでございます」
「エステラ」
何かあったかと不審気にこちらを見るソラムダリヤには、
「失礼いたしますわ。やはり、少し疲れているようです。お酒が回ってしまいましたの」
丁重に断って室を横切ったところ、
「足許に気をつけて。途中まで送りましょう」、ジレオンは一緒に廊下に出てきた。
酒が回ったわけではない。
ミケランの面影が濃いこの男をこれ以上見ていたくなかったのである。
レイズン家のお家芸ともいえるような、あの大胆不敵で傲慢な様子、押し出しの強いその態度が、
ミケランを彷彿とさせて、どうにも不吉だった。
列柱の影を抜けていると、「何故いそぐのです」、青年の笑い声が真後ろからかぶさってきた。
眼の前を腕でふさがれて、ドレスの裾がもつれた。
「どうしました。貴婦人らしくお高くとまってはいるけれど、実はいまでも、路上が恋しいのですか」
「此処は皇太子殿下の宮であり、わたくしはその客人です。無礼でしょう、ジレオン・ヴィル・レイズン」
「ミケランおじ上なら、そんなことは云わないと?」
扇を持った手首を掴まれた。
背中に流れた冷たい汗を吸いとるように、ジレオンが後ろから抱いた。
押し付けられるようにして、エステラは柱に腕をついていた。
ジレオンはエステラを支えてやると、柱に押し付けたまま、その耳に熱い声で囁いた。
いいことを教えてあげようか。
「ミケラン排斥の気運がたかまっていることはご存知ですね。その先鋒としてヴィスタル=ヒスイ党が
 方々に協力を求めて飛ばした文書は、あれは実は眠れる獅子を揺り起こすための、撒き餌だったのですよ」
「撒き餌ですって」
「そうです」
打倒ミケランを性急に唱えたところで、これまで静観してきた聖騎士家がすぐさま動くはずもない。
昨日今日結成されたようなこちらの煽動に操られ、すぐに同意を示すようなお目出度い国があろうはずもない。
したがって、あの文書は二十年前の改新劇の折に出遅れ、
ミケランの後塵をきしたことを悔やんでいるであろう国々へ注意をばら撒くことだけを目的とした、刺激剤だった。
もしも彼がまことに救国の英雄であったなら、二十年前、諸国はこぞってミケランを讃えたことだろう。
それがそうならなかったのは、彼があまりにも独りで動いていたからです。
無名の若者の突然の躍進に誰も附いていけず、彼の理想や目指すものが、誰にも理解できなかった。
分家者の分際で、本家を無視して勝手なことをするからそうなるのだ。
「おじ上の今日の孤立は、諸国と調和をはかり、
 足並みを揃えようとはしなかった自らが招いた、当然の結末です。
 人はおじ上がばら撒くような金の力ではなく、誇りで動くものですよ」
後ろからジレオンの手がエステラの耳飾りをもてあそんだ。
「それとも、おじ上が聖騎士家を軽んじておられたのは、
 若き日に彼らに賞賛されなかったことで態度を卑屈に硬化させた結果かな。
 これ見よがしに独力で何かをやればやるほど、助力を請われなかった他国はその尊厳を傷つけられ、
 ミケラン卿の偉業への無視を決め込んだ。人は使いようですよ。
 彼らの顔を立ててやりつつ持ちつ持たれつの相互補助の道を拒むとは、
 あの人も意外と視野狭窄で、愚かな人だったというわけだ。自己過信もあそこまでいくと盲目と同義だな。
 個性の天下は一代限りのものであり永くは続かない。これは芸事ではないのです。
 聖騎士家間の協調が帝国の基盤である限り、今のままでは困る。ミケラン・レイズンにはご退陣願わねば」
若者の声は毒のようにエステラの胸を焼いた。
いずれにせよ、遅まきながらとはいえ成り上がり者の成敗をジュシュベンダから始めてくれたとは、ありがたい。
我々に従うのではなく、自主的に何処かの国が動いてくれるのを待っていたが、
権勢交代に今度こそ乗り遅れてはならないと、これで各国は次々と大国ジュシュベンダに倣うことだろう、
またしてもレイズン家に出し抜かれてはならじとね。
イルタルは低く笑った。
その為にわざわざ、あの滑稽なヴィスタル=ヒスイ党を立ち上げたのだ。
昔の苦い事を喚起させ、ミケラン卿の神経を逆撫でする、いい党名だとは思いませんか。
レイズン家の若手が再び先陣をきろうと顫動するのは、方々にとっては
二十年前の再来を思わせる悪夢であり、脅威であったことだろう。

「大君イルタル・アルバレスは素晴らしい。
 彼はただ、ジュシュベンダの騎士を通して、反ミケランの意向を皇帝陛下に伝えるだけでよかったのだ。
 それもあからさまにではなく、ジュシュベンダの名をそれとなく一件に差し挟むだけでそれを果たした。
 最小にして最大の効果です。関与を否定することにより、ジュシュベンダの名は傷つかずに済むからね。
 あとは、ミケラン卿を寵臣と信じて庇っておられるソラムダリヤ殿下をこちらの味方につけるだけだな。
 妹想いの殿下はご立腹のご様子だが、それを逆手にとって何とでも云い包める自信はある。
 フリジア内親王だってそうなったではないか。それについては、獄塔の中の女騎士に礼を云わねば。
 伝統ある宗家に生まれ、それを誇りにしているわたしです。
 まさか誰かのように、薄汚い私利私欲まみれの野心で動いているとは思わないでしょうね。
 ヴィスタチヤ帝国はふたたび、権威と秩序を取り戻すのだ」

耳飾りが揺れた。
硝子が砕ける音に聴こえた。
ジレオンは紫のドレスに包まれたエステラの腰を抱き、そのうなじに唇を寄せた。
柱に押し付けられた女の胸がよく見えた。
「ミケラン卿が失墜したとしても、貴女まで付き合うことはない。大丈夫、悪いようにはしませんよ。
 おじ上と、その甥と、レイズン家の男二人を通わせた女として世に名を残すのも貴女しだい。
 同年代の男には興味はありませんか。わたしは貴女に興味があるな。細い腰ですね、エステラさん。
 おじ上は貴女を愉しんだことだろう」
未だかつて一度もしたことのないことを、エステラはした。
振り返って手を上げると男の頬を叩こうとした。
その手は直前で止められた。ジレオンは女の手首を掴んだまま、エステラを見下ろした。
エステラは怒りをこめて青年を睨んだ。わななく女の細指をジレオンは一瞥した。
「このように指輪をはめた手で人を殴ると、相手に怪我を負わせることもご存知ない?」
「そうなればいいと思いましたの」
「鉄火肌なところがまたいいな」
哄笑を放ち、ジレオンは掴んでいるエステラの手首に力をこめた。
胸を隆起させて、エステラはそれに耐えた。
エステラ、わたしはおじ上とは違い、高位騎士の冠は持たないが、それでも竜の血はひいています。
「黙って女に殴られているほど腰抜けではない。勝負はまた別の場所でやりたいものだ。
 おじ上の寵を受けた女は皆それぞれに特色があるが、貴女はまた、とりわけわたしの好みにも適う。
 気に入ったよ、エステラ。わたしは勝ったふりをして、せいぜい、貴女に負けてあげますよ。
 貴女は蹂躙されたふりをして、勝つといい。その時は、互いに優しくありたいものだ」
エステラは呼吸を整えた。
「ジレオン様」
「なに」
「眼の前から消えて下さいませんか」
「穢らわしいなどと云われなかっただけでも脈はある。今日のところはこれくらいにしようか。
 皇太子殿下をお待たせしていることだし」
笑いながらエステラを放すと、ジレオンは礼儀正しく挨拶をして、背を向けた。
解き放つ前に、エステラの耳飾りを直すところも、頤を指先で撫でるところも、あの人と同じだった。
それはどんな女であれ、翻弄され、のみ込まれずはおられぬような、自信家の男が醸す余裕であり
手管であり、こちらの受容を確信した抱擁だった。
熱に包まれるような余韻は、そこに怖ろしさもあった。
胸をかきむしられるような想いで、エステラは黒髪の青年の背を見送った。
この身など、どうなっても構わない。
増長した若造なぞ真っ平御免だが、こちらから近付いて必要なことを訊き出してやろうか。
それとも、短刀を探し出して追いかけて、あの傲岸不遜な若者の背中を一突きしてやればどうだろう。
しかしその想像の中、刃を手にしたエステラの足許に血を流して横たわるのは、ジレオンではないのだった。

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万年雪の山脈を一望する露台には、青空を渡る雲の影が落ちていた。
側近ファリンの読み上げる報告を、イルタル・アルバレス・ジュシュベンダは
椅子の腕木に肘をつき、眼を閉じて聴いていた。
寛衣をまとったその姿は彫像のように端整で、額にかけた略冠を太陽が祝福のように照らしつけていた。
帝国の南方に位置するとはいえ、冬は雪が降り、凍てついた風が山から吹き付ける。
気候のよい時期には、こうして屋外で思索することをイルタルは常とした。
やがて眼を開いたイルタルは、うとましそうに眉根を寄せた。
「剣を返還してもビナスティ・コートクレールは依然として、騎士として扱われているのか。
 切り捨てたいところであるが、それがソラムダリヤ皇太子殿下の思し召しとあれば仕方があるまい。
 あくまでも無関係を貫くほかあるまいな。ファリン、いらくさ隊のほうは」
時としてイルタルの替え玉となることもあるファリンは、次の書面を取り上げた。
股肱の友としても、主従としても、長年の付き合いである。
淡々とファリンは報告した。
「正式な除籍処分は既に済んでおります。日付は辺境伯付きになった、その翌日のもの」
「では、本人が勝手にヴィスタル=ヒスイ党の思想にかぶれ、国を出て行ったのだ。
 ジュシュベンダに責はない。その旨、除隊の事実と併せて都からの使者殿にも御見せするように」
「御意」
「あれは、フリジア内親王の関心を掴むことに成功したようだ。
 皇族の中からもミケランへの反発を示す方が出たとあらば、他国もこれからのなりふりを変えるであろう。
 皇太子殿下が、ユスキュダルの巫女について直に対面を果たした者をお求めになり、任意の参考人を
 召喚あられたのが、此度の幸いとなったな」
「急ごしらえではございましたが、捨て駒としてはあの者は首尾よく成果を出してくれたといったところですかな」
「獄においても口は割るまいと思うが、拷問にかけられればそれも定かではない。始末の手配を」
「かしこまりました。獄中で急死するよう、とりはからいます」
「苦しませぬようにな」
「そのように」
「ファリン」
「はい」
「あれは、愛いやつであったな」
「……左様ですな」
紫に金銀の旗が豪奢にひらめく宮殿の中庭には、小さな花が咲いているのが見えた。
「何というか、本当に可愛い美女でありましたな」
もったいない、という不謹慎な言葉を辛うじてファリンは呑み込んだ。
国の暗部として過去幾たびも同様のことを謀り、見届けてきたとはいえ、此度は格別に
遣る瀬無く、不憫をおぼえるのは、年のせいだろうか。
ものすごい美少女が入隊したと聴いて思わず見学に行った十年前のことが、つい昨日のことに思われる。
その場ですぐに、
(あれはいかん。あれは、すぐにいらくさ隊に入れてしまえ。このままでは問題が起こる)
即決したほどに、額に創のあるその娘は美しかった。
「見た目のわりには身持ちがかたく、気取ったところもなく、いじらしいまでに良い子でしたな」
「他に身寄りもおらず、亡命してきた辺境伯に与えた時点でいらくさ隊からも離籍しており、この任務を
 任すにはあれが最適であり、あれしかいなかったのだ」
イルタルはじろりとファリンを視た。
「わしがあれを選んで此度の密命を任せたのだ。それ故ファリン、そなたがそのように
 罪悪感で苦しまずともよいのだぞ」
「は。いえ」
「責任と罪を負うのが君主である。そのことをよく知る眼をして、あれは、あっさりと任を引き受けよった。
 時折淋しげな顔をするのがちと気になってはいたが、気立てのいい、健気な女であった」
「まことに」
「クローバの奴には怨まれるやもしれんな。俺の従騎士に勝手なことをしたと。
 もっとも奴こそあれをおいて勝手に出て行ったのだから、文句を云えるような立場でもあるまいが」
せっかく最上の女を与えてやったというに妙なところで遠慮しおって、あれの為にもそれがよいと思ったに。
最後は独り言のように苦く呟くと、扇のように広がる山脈にイルタルは眼を向けた。
白く尖った稜線を青空にくっきりと描いて、雄大な山並みは太古と変わらず地上の全てを睥睨していた。
「ファリン。わしはあの者に一つだけ嘘をついたのだ」
雪山のまぶしさにイルタルは眼を細めた。
国は今後一切そなたの擁護も弁護も抗議もせぬが、もしも釈放されることあらば、コスモスに行ってよいぞとな。
その時に浮かべたあの者の笑顔の、美しかったこと。
わしが気休めに騙していると知りつつ、それでも、うれしいといったように、微笑みよった。
イルタルは風に流れる雲へと眼を向けた。輪郭を白く輝かせた、ふわりと明るい雲だった。
「ファリン」
「はい」
「なかなか全てを倖せにはしてやれぬな」
「は……」
塔と弧橋が運河に影を落とし、水の上を細舟が行き交っていた。古都は穏やかであった。
夕方になると深い金色の霧に沈む花の都ジュシュベンダの外郭はコスモスからの移民によって
築かれたものであり、何百年経ても、その名残は街の礎となって、そのまま残されていた。
帝国最古の大學の鐘が、朝の講義の終わりの四点鐘を告げて鳴っていた。
「時は流れたな、ファリン」
「はい」
「若き日、エチパセ・パヴェ・レイズンと共にコスモス領に遊びに行った。
 クローバはもう結婚しており、タンジェリンのフィリアが迎えてくれた」
兄妹のように仲のいい夫婦で、羨ましく想ったものだった。口やかましい侍従がついていて、
名をスキャパレリと云った。クローバは「スキャ、スキャ」と呼び立てては実の兄のように扱っていた。
「山と川と森に囲まれたコスモス。先祖代々そこに住む人々と共に、穏やかに其処にあった。
 お伽話に出てくるような、小さなのどかな国だった。そこに進軍する日が来ようとは」
「ハイロウリーン軍が待ち受けていることでございましょう。我ら二大騎士国が顔を揃えれば
 ミケラン卿が何を企もうと、かの地でみだりなことは出来ますまい。その為の軍隊派遣です。御前」
「うむ」
「ハイロウリーンは、領主フィブラン殿御自ら、ついにご出陣になるとか」
「あちらは世継ぎには不自由しておらぬからな」
自嘲して、イルタルは欄干に手をついた。羨ましきことよ。
我が長子は病弱で医師から静養を宣告されている上、次は娘で、まだ幼いときておる。
「せいぜい長生きして、次代に任せる時がくるまでは、ジュシュベンダを治めねばならぬ。
 跡目に不自由しないハイロウリーン家や、
 作物の収穫と徴税だけを気にしておればよいそこらの小国の領主のように、政務を投げうって
 気楽にコスモスに馳せ参じることが叶うほど、帝国の要ジュシュベンダ君主の座は甘くも容易くもないわ」
「そのわりには、ゆくゆくは姫の婿殿にと見込まれて、本来であらば片腕にも補佐にもなろう御方を
 気侭のままにされておられる」
「彼はあれでよいのだ。惰弱に見えても誰よりもよくものを見ておる。間違えたことはせぬ男だ」
「あの王子を大物だと、いつか化けると、高くかわれているのは気長なイルタル様だけのようですが」
「わしの人物眼が間違えたことがあるか。それならば、君主としてのわしもそなたも、たいしたことはあるまい」
「そこまで仰るのであれば」
「わしが付いている限り卑腹出などと誰にも云わせぬ。それにしても何があったか知らぬが
 いい歳した男が泣きそうな顔で帰ってきて、『お上。僕は疲れた』、とはなんのつもりぞ。
 どうせわしに遠慮して王宮には近寄ろうとはしないのであろうが、王座が欲しいというのならば喜んで譲るぞ。
 偉大な祖父の直系としてもうちょっと図々しく振舞えば自信も後からつくものを、彼には精神修行が足りぬ。
 しかしよいかファリン。人は信じてやることから、始まるのだ。人材を育てるとはそういうことぞ」
「ご機嫌ななめで」
「ななめにもなるわ。旅先で横死しようが溺死しようが、後事をたくせる息子が揃うておるフィブランが妬ましいぞ」
「愚痴ですな。口の悪い」
「そなたにしかこぼせぬわ」

しかし数刻の後、コスモスへ送る本隊の前に現れた練兵場の君主は、
あるかなきかの悔いも懊悩も完全に払拭した姿であった。
識別色である深紫に金銀を織り混ぜた豪奢な衣に痩身を包んだイルタルが閲兵台にのぼると
数万の兵は一斉に剣を掲げた。陣を築く一隊は先に発っており、本日出立のこれが本隊である。
「ジュシュベンダ万歳。イルタル様、万歳」、地を轟かせて湧き上がる歓呼を、イルタルは手で制した。
紫の長衣が風をはらんで旗のようにたなびいた。
「ジュシュベンダ騎士よ」
低いがよく通る声で、君主は騎士団に告げた。
はるか後方には正確にそれを伝える伝令が走った。
「精鋭としてふるさとを護る諸兄らよ。先発隊に続き、遠征を担わせるのは他でもない。
 コスモスの地において孤立されたるユスキュダルの巫女を巡り、諸国不穏にしておさまらず」
平素よりあまり声を荒げたり派手な振る舞いを見せることのない君主であったが、
その威厳ある姿の前に、誰ひとり、しわぶき一つ立てなかった。
「事は既に茲に至る。貴き巫女を護るには、聖騎士家ジュシュベンダに与えられし権限をもって、
 今日これを諸兄らの旗鼓の間に求めるより外になし。
 忠実にして勇武なる友人よ、ジュシュベンダの栄光を担う騎士団よ。
 帝国の平和を期してコスモスに赴き、査監、静圧にあたられよ。
 聴くがよい。これは、ヴィスタチヤ帝国皇帝陛下の待命を待つ臣としての決意にはあらず」
騎士団は息をのんで、朗々と響く次なる君主の言葉を待ち受けた。
イルタルの背後で側近ファリンは苦笑をこらえた。
ハイロウリーンのフィブランのように自らが軍を率いて赴けぬだけに、せめてものこれはイルタルの意地であろう。
山脈に挑むように両腕を広げてイルタルは声を張った。
「コスモスで待つは同じ志で結ばれたる、ハイロウリーン。
 聖騎士イルタル・アルバレス・ジュシュベンダの名において、諸兄らに命ずる。
 保全破れるその時には命賭して闘い、余に捧げたるその剣にかけてかならずや巫女をお護りせよ。
 栄えあるジュシュベンダの旗幟の許、汝ら騎士の至純を十全にみせてくれるよう」
帝国臣民としてではなく、ジュシュベンダ騎士としてはたらけ、
もしやの時にはハイロウリーンに遅れをとるなと云い切ったことで、騎士団の高揚は最高潮に達した。
「ジュシュベンダ万歳」
「イルタル・アルバレスさま、万歳」
居並ぶ騎士らは皆剣を抜き放ち、それを垂直に天に向け、イルタルの前を過ぎる時にはそれをイルタルに捧げた。
整然と出立する騎馬の流れにイルタルは閲兵台から重臣らと共に片手を挙げて応え、長い時間をかけて
隊伍の最後尾が出るまでそれを見届け終わると、宮殿に続く直通地下通路にさっと踵を返して「ファリン」、と呼んだ。
これから沿道を通る軍勢の道筋と沿道の警備について最終的な指示を出してから、ファリンは駆けつけた。
重たい外衣を脱ぎ捨てたイルタルがそれを放り投げるのを慌てて受け止めて、近衛兵を後方にさがらせる。
「これに」
「例の方は」
「医師の話では、脱走の折に負われた怪我は軽傷にて。栄養失調の方もすぐに恢復されるかと」
「対面叶うかな」
「是非に。ご本人がそれを切望しておられますれば」
イルタルはその額の略冠に指先をあてて思案した。
土着の豪族であったアルバレス家と、竜退治の後にこの地を与えられたジュシュベンダ家の
融合の印である紋章の刻まれたその略冠が、君主のしるしである。
イルタルはその紐を頭の後ろで結わえなおした。
「母国ではなく、こちらを目指して逃げて来たとはな」
「イルタル様ならば亡命を認めてもらえるものと、見込んでのことでありましょう」
「よくぞ、単身で逃げて来られたものだ」
「では、レイズンの間諜である可能性をお疑いで」
「逢おう」


隠された一室をイルタルは訪れた。
護衛の兵を遠ざけてファリンが扉を開くと、愕いたことに怪我人は起き上がって室の中央に平伏し、
君主を待っていた。感極まって、男は面を伏せたまま声をしぼり出した。
それは日に焼けた、農夫のように逞しい男であった。
「イルタル・アルバレス大君」
「顔を上げられよ」
イルタルは自らも膝をまげて、男の両肩に手をおいた。
「サンドライト・ナナセラ殿」
ねぎらうように温かい声を掛けながら、しかし君主の慧眼はじっとその逞しい男の上にそそがれていた。
「よくぞ、レイズンの砦から無事に逃げてこられた。
 まずは落ち着かれよ。そのままでは話すのもお辛いかと。ファリン、手を貸せ」
「逃亡が叶いましたのは、ひとえに、ひとえに、フリジア内親王殿下のお志と、そのお蔭です」
サンドライト・ナナセラは怪我を負っていたが、意識はしっかりしていた。
恐縮しながら、怪我の身を寝台の背に凭せ掛け、生来の気丈さの顕れた眼をして、イルタルを仰いだ。
「定めし、わたしがレイズンの間者であることをお疑いのことと思います」
「少しく」、イルタルは手づから水を渡してやった。
「話を聞きましょう」
「タンジェリンの残党を含むはぐれ騎士らと共に、わたしはレイズン領の砦に収監されておりました」
「脱獄したのは、貴殿だけか」
「ええ。仲間はまだあそこに」
後ろめたい影がサンドライトの顔に流れたが、彼はそれを恥じてはいなかった。
「わたしはナナセラ家の者であることを理由に、他の者よりは自由があったのです。
 逃亡が叶いましたのも、その御蔭です」
「しかし、ナナセラ家は貴殿との縁を切ったとか」
「無理のないことです」
サンドライトは腕を膝の上において、首をふった。
わたしは確かにナナセラ家の傍流に生を受けましたが、少年の日、文芸色の濃い国で過ごすことよりも
騎士として立つことを夢みて故郷を家出し、当時のカルタラグン王朝にあがった、いわば一族のはみ出し者です。
もはや父母も亡く、きょうだいもわたしのことなど忘れていることでしょう。
直後に起こったあの政変の折りには、まだ十二歳でした。
「火炎を噴き上げる皇居からカルタラグン騎士に護られながら、逃げて逃げて、
 途中で何人も討ち死にし、散り散りにもなり、それでも彼らは子供のわたしを見棄てはしませんでした。
 しかし、やがてもうすぐユスキュダルにたどり着くというところで、
 騎士たちはわたしを山の麓の村にあずけたのです。
 このまま聖地で隠遁するには、まだお前は若すぎるからと。
 しかし、そこで土を耕して暮らしながらも、わたしの心はずっとカルタラグンの騎士でした」
イルタル様ならば、往時をご存知でありましょう。サンドライトは眼を上げた。
カルタラグン王朝には、独特の華やぎと洗練があった。カルタラグンの亡霊と呼ばれても、
都を遠く離れた落魄の身には、それはとりわけ、誰の胸にも忘れられるものではなかったのです。
「………」
「聖地に隠れた騎士は時たま里に降りて来ては、必要な学問や剣技をわたしに教えてくれた。
 彼らは望郷の念を抱きながら、その多くが古傷がもとで死んでゆきました。
 時が流れてやがてタンジェリン殲滅戦が起こり、傷ついた騎士が大量にユスキュダルに流れて来た。
 今度こそ、ミケラン卿の横暴に対して、聖騎士家が憤りの念を募らせているとも風の噂に聴きました。
 麓の村で、わたしはそれらの帝国の騒乱と騒擾をずっと見てきたのです」
「そして、ミケラン卿の要望に応えたユスキュダルの巫女の御幸に附き従って、此度、山を降りてこられたと」
「後のことは、あなた方のほうがよくご存知でしょう」
サンドライトは両手を組み、見えぬ敵に向かってぎらりと眼を光らせた。
ジュシュベンダとトレスピアノ国境にあたる寂れた峠道を指定してきたのは、ミケラン卿です。
彼が何を目的として巫女の玉体を奪おうとしたのかは知りませんが、
わたしたち一行は再びトレスピアノの外れで不可侵領を侵犯してきたレイズン軍の強襲を受けた。
トレスピアノ領に保護された若干者を除いては、カルタラグンおよびタンジェリンの残党を含むお尋ね者として、
ばらばらになったところを片端から捕縛されたのです。
水を呑み、サンドライトは息を継いだ。
「一筋の光明が差したのは、先日のことでした。ジュピタ皇家のフリジア内親王が
 捕らえられた我らのことを知り、深い同情を示して下さったのです」
「そのようにきいています」
「それには、先ごろ皇居に招かれた、貴国の女騎士の蔭の尽力があったとか」
「その者がフリジア姫を説いたと仰るか」
「サンドライト殿、お待ちを」
ファリンが口を挟んだ。 
「その件については、皇太子殿下の御使者にも正式にお答えしたところを、貴殿にもお伝えしたいと思います」
用意の書類をファリンはサンドライトに掲げて見せた。

「該当の女騎士ビナスティ・コートクレールは、一年前に軍から離籍しており、
 騎士の軍籍がその国の戸籍と同義である点からも、ジュシュベンダとは既に無関係です。
 元コスモス領主、放浪の騎士クローバ・コスモスの私的従騎士として本国に出入りしていたことは
 確認されているものの、その後のことは不明。
 それなる女はヴィスタル=ヒスイ党なる、レイズン本家の集団との関与を疑われているとのことですが、
 ジュシュベンダ騎士を名乗っていたとは騙りにも等しい、筋違い。
 如何なる手段で皇居に入り込んだのかは、こちらでは把握できません。
 軍の書類上でも認識番号は永久抹消されており、皇太子殿下の御下問にも
 返答不可能だと正式に回答いたしました」
「額に深い創のある女騎士のことならば、よく憶えている」

ゆったりと寝台の傍の椅子にかけて、イルタル・アルバレスは脚を組んだ。
窓から差し込む光が花びらのような模様を床の上につくっていた。
「コスモスから亡命してきた辺境伯の護衛にと、いらくさ隊からわたしが選んだのだ。
 その後、本人の希望どおりジュシュベンダ軍近衛師団いらくさ隊からの除隊を正式に認め、
 放浪の騎士クローバの従騎士となった。そうであったな、ファリン」
「はい。よって、その者は当国とは一切関わりがありません」
「美人であったな。しかしクローバ殿はコスモスに帰られたとのことであるし、
 都の獄塔に入れられている女が、はたしてその者と同一人物かどうかは分からぬが。
 サンドライト殿、どうやら、巫女に対面した者を皇太子殿下が召喚された折に
 勝手にその者が応じて、ジュシュベンダの騎士身分を騙り、皇太子殿下および、
 フリジア内親王殿下に接触したようなのです」
「当国としては実に迷惑な話です」
「その段についてはあちらで取り調べがすすめばはっきりするであろう。
 しかしそれと貴方の亡命の件は別です。サンドライト・ナナセラ殿」
イルタルは椅子の肘掛に両腕をかけたまま、両手を男に向けて差し出した。
「苦難に耐えて、よくレイズン領から此処まで逃げて来られた。
 罪なき不遇の騎士を保護するのは騎士国のつとめ。
 亡命を希望されるのであれば、貴殿に相応しき地位と役職をお約束します」
「いい加減にしてくれ!」
その怒声は室いっぱいに響いた。水差しの水が揺れた。
敷布をわし掴みにしてサンドライトは呻き声をしぼり出した。
イルタルとファリンは、そんなサンドライトを静かに見つめ返した。
サンドライトの眼はレイズンの砦から脱獄を果たした疲労以外のものに血走り、激情にとらわれて、
それはそのまま、彼の胸をも裂くかとも思われた。
俺がどうしてここに居ると思う。どうやって、レイズンの砦から逃亡できたと思う。
「フリジア内親王は、巷で云われているほど幼いばかりの方ではなかったのだ。
 一件の後、皇女宮で厳重に監視されておられるあの方は、それでも腹心の女官を通じて、
 俺をすぐさま脱走させてくれたのだ。それは何故だと思う」
「そなたのみ、他の騎士を見棄ててジュシュベンダに逃げよとでも仰られたと申されるか」
「そうとも」
身を揺らして、サンドライトははげしく頷いた。そうだとも。
それは一体何故だと思う。あんた達がそれを知らぬはずはない。
「フリジア内親王さまは、涙ながらに、こう云われたそうだ」
俺はそれを、脱獄の手引きをしてくれたフリジア姫附きの女官の口から聴いたのだ。
フリジア姫は少女のもてる知恵と勇気の全てを賭けて俺を逃がし、
そしてジュシュベンダに行ってくれと頼まれたのだ。
「フリジア姫はこう云われたのだ。『ジュシュベンダのイルタル様に、お報せして欲しい。
 コートクレールをお助け下さいと、フリジアがそう頼んでいると、必ずやお伝えして欲しい。
 あの者はわたくしの姉とも友とも想う者であり、そして此度のことは、
 ひとえに子供じみたわたくしの軽率から引き起こされたことであり、外の世界に眼を向けさせてくれた
 ビナスティにはまったく罪はない。ビナスティはただわたくしの質問に偽りなく答えてくれただけなのです。
 あの者はわたくしに何ひとつ強要しなかったことを、どうか信じてもらいたい』と。
 そして俺からもそれを頼みたいのだ。
 あの女騎士は悪いことが出来るような人ではない。疑いがかけられているような皇女を洗脳したる
 政治思想犯などではありえず、また、現行体制、ひいては皇帝に叛逆する気などまったくないことを、
 あの人を知る俺は誰よりも信じている。あの人は無実だ。それを誓える。
 そして、皇帝の詮議からあの人を助けることができるのは、ジュシュベンダのあんただけだ。
 俺はその為にレイズンの砦を脱獄し、追捕をかわし、のまず喰わずでここまでやって来たのだ。
 お願いだ、あの人を助けてやってくれ。あの人が投獄されるなど、そんなことがあっていいわけがない。
 フリジア内親王の御意志だ。どうか、このとおりだ」
サンドライトは頭を垂れた。
「このままでは、あの人には極刑が下ってしまう。どうかお願いだ、助けてやってくれ」
椅子にかけたままイルタルはわずかに眼を眇めた。
イルタルはサンドライトには気づかれぬように、横目でファリンを見遣った。
ファリンは眼の動きだけでそれに応えた。彼は一度だけまばたきをすることで、君主に返答した。
イルタルは命令撤回の合図をファリンに返さなかった。
もう、遅い。
牢獄の中の美しき囚人を口封じする暗殺者は、既に都に向けて出立した後だった。


「続く]


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