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[ビスカリアの星]■六六.


 (ミケラン。今日の分は終わったよ。これでいいのだろう)
 (結構です、殿下)
 (最後の二問が難しかった。途中までしか解けなかった)
 (殿下は優秀でいらっしゃいます。さあ、もう遊びに行ってよろしいですよ)
 (ミケラン。質問があるのだが)
 (どうぞ。ソラムダリヤ皇子。できれば復習を兼ねてヴィスタチヤ古語を使って)
 (どうしてジュピタ皇家には騎士の血が出ないの……?)

夜の静寂をぬって、疎水の流れが獄塔の壁に響いていた。
皇居とは地下道で繋がってはいるものの、獄塔は皇居の敷地よりも外、
周囲を水をたたえた深い堀に囲まれて、周辺と完全に隔絶されて建っている。
塔と呼ばれるわりにはさほど高い建物でもないのは、地下に深いからであり、
未決の囚人は地上階に、判決の下った囚人は地下にと分けられて、「水の上か下か」、これが
獄塔に入れられた囚人を区別する時の、罪の重さのめやすともなっていた。
塔は星空を区切って静まり返り、篝火に照らされて、水面に黒々とその影を映した。
その橋のたもとにしのびよる一つの人影。角燈を手にした見廻りの獄史である。
月明かりに濡れたようにひかっている獄塔の前で、その獄史は周囲を見廻した。他には誰もいない。
未決の囚人を収監している三階の高みを橋から見上げて、獄吏の制服をまとったその者は、
そのまましばらく何ごとかを思案していた。
その三階の一室である。
長い時間そこにいたソラムダリヤは、疲れた顔で、尋問者たちを引き上げさせた。
「皇子」
「ここまでにしよう。しばし二人きりで話がしたい。お前たちは通路に控えておいてくれ」
獄人頭は猛反対した。皇子お一人では危のうございます。せめて、その者を壁に繋いでから。
「その者は、騎士ですぞ」
「いいんだ。ビナスティはわたしに危害を加えるようなことはしない。そうですね、ビナスティ」
囚人は何の反応も示さなかった。
獄人や側近たちを追い出してしまうと、ソラムダリヤは狭い牢の扉を閉めた。
砂時計の砂が一回分落ちるまで、固くそう云い渡されたので猶予はなかった。
ソラムダリヤは木椅子にかけたままの女騎士に近付くと、恐れ気なくその腕を掴んですばやく囁いた。
「ビナスティ。貴女はいったい、誰に義理立てをしているのです」
「……」
「ビナスティ」
美しい眸を前方の石壁に向けたまま、ビナスティは微動だにしない。
火影に縁取られたその姿は、檻に捕われた何かの精のように見えた。
その金色の髪に隠れた顔を見ようと、ソラムダリヤは女騎士の前に身をかがめた。
皇子は何日も飽くことなく繰り返している説得を、もう一度口にした。
「皇帝陛下の宣旨が下れば、間違いなく貴女には刑が下ります。わたしはそうさせたくない。
 フリジア内親王もそれを望んでいません。ひと言でよい、
 貴女の身の潔白に繋がることをわたしに教えて下さい」
しかし、ジュシュベンダ軍近衛師団いらくさ隊に在籍していた女は、どのような尋問も誘導も
撥ね退ける強力な自己暗示の術を体得しているものか、依然として人形のように黙ったままだった。
「明後日になれば、皇帝からわたしに下された日数も過ぎて、貴女への本格的な取調べが始まります」
ソラムダリヤは呻いた。地下にある拷問器具の黒々とした尖りを思いおこすと、息苦しくなるほどであった。
「そうさせたくない。ぎりぎりまでわたしは諦めません。
 貴女を死なせたくないからです。分かって下さい、ビナスティ・コートクレール」
「皇子。お時間です」
「一晩ゆっくり考えて。明日は必ず何か希望をくれるものと信じています。
 わたしは貴女が誰かに操られたのだと思っている。
 いかなる高潔な理想がそこにあれ、ひと一人を不当に犠牲にしなければ叶わぬものであるのなら、
 そこに疑問を差し挟むだけの正義がなければなりません。
 貴女も帝国の臣民である限り、皇太子たるわたしには、貴女を守る義務があります。
 誰かが貴女を闇に葬り去ることで誉れと利益を得るのであれば、
 そのようなものはきっと長続きはしないだろう。
 黙秘を貫けば誰も傷つけずに済むと考えているのですか。それは間違いだ。
 エステラも、彼女もたいそう貴女を心配していました。貴女には味方がいる。それを忘れないで」
高貴な青年の必死の説得も、美しい女騎士の心には何も響いてはいないようであった。
ほかに誰も居なくなった独房の灯りは乏しかった。
格子のはまった高窓からは、月の形が少しだけ見えていた。
廃墟の壁画から抜け出てきたような孤独の姿で、女はひとりだった。
膝においた手の上に、灯りの影が夜の星のように、そこだけ眩くとまっていた。
女はそれを見ていた。
牢から出て行く前に、ソラムダリヤが獄吏に見つからぬようにこの手に握らせて返してくれた指輪。
捕縛された際に取り上げられていた、金の指輪。
ビナスティは白い指先でそれに触れてみた。
大切な人の形見であるそれをこの手に握らせてくれた人の、その声や、温もりがしてくるようだった。
女騎士はのろのろと片手を挙げた。額に触れた。そこにある深創に。
この創が好きだと云ってくれた。
父も母も惨たらしく殺された。どうして自分だけがその運命から逃れられよう。
この身ひとつで、大恩あるイルタル様にこたえ、世の流れがよりよき方へと変わるのならば、
どうしてこの命ごときが惜しいだろう。
フリジア姫にはお咎めがないと知ってほっとした。エステラにも迷惑はかからなかったようだ。
巫女さまとあの方も、無事にコスモスへと入られた。他にはもう何も望まない。
どうして、泣くのだろう。
指輪の上に涙が落ちた。この指輪を見ただけで、溢れ出すなんて。
明日になれば皇子に返そう。ゆるされるのならば、エステラに頼んで、指輪と共にあの方に伝えてもらおう。
唇が何かを云おうとしたが、それはもう声にはならなかった。
ほんの少しの間だったけれど、お側にいられて倖せだった。
(クローバ様---------)
時ならぬ喇叭の音が水路の向こうから鳴り響いた。何やら騒がしくなり、すぐにそれは退いた。
その間、ビナスティの耳はそれとは別の異音を近くにとらえていた。
獄塔の中には他にもジュシュベンダ出身の者がいるのか、ジュシュベンダ語で何やらぶつぶつと
呟いている者がいる。どうやら廊下を伝ってこちらへ来るようだ。
紛うことなき生粋のジュシュベンダ方言の他にも、帝国共通語を時々差し挟み、騒がしい。
どうして誰も黙らせないのだと、さすがに不審に思われた。分厚い扉の番号を読み上げている
その出鱈目な発音の持ち主は、特徴のある若い男のものであり、気をつけて聞いていると、
大急ぎで牢の中をひとつずつ確かめて歩いているようである。
行過ぎるとみえて、それはビナスティの牢の前でとまった。
ビナスティは木椅子からとび上がった。指輪を取り落とさんばかりに、眼を見開いた。
独房の覗き窓が開かれて、そこから場違いな顔が一度のぞいたとみるや、がちゃがちゃと
不器用に錠を回して牢が開き、黒頭巾を後ろにはねあげた獄吏の全身が入り口にぬっと現れたのである。
「そんな湿気た顔してないで、はやく、はやく」
ビナスティは呆然としたまま前に踏み出した。獄吏の腕が伸びて、ビナスティを引っ掴んだ。
廊下に引きずり出されても、なおもビナスティは呆然としていた。その頬を叩かれた。
「しっかり。せっかく、この僕が迎えに来てやったんだぞ。べっぴんさん、健在で何より」
「パトロベリ様。どうして此処に」
「あ、どうして?」
それはまさしく、パトロベリ・テラだった。
女騎士の手を引いて塔の中を走り出しながら、早口にパトロベリは答えた。
なんでアルバレス家の者がヴィスタの都に遊びに来ちゃあいけないんだ。なんてのは冗談で、
口封じにあんたが極秘処分されることを聞き及んだ僕が、そりゃあないんじゃないかと、
こうして早馬を飛ばして遠路遥々助けに来てやったんじゃないか、見てのとおりだよ。

「では、イルタル様には無断で」
「うん。でも、あの人には僕を止める権利なんかないよ」

先に立って階段を降りながら、パトロベリは持ってきた予備の剣をビナスティに投げ渡した。
「誰にも僕を止める権利なんかないよ。何たって僕こそはパトロベリ・アルバレス、
 お祖父さまの直系にして、貴重なアルバレス家の男なんだから」
その話のどのあたりが、この勝手な行動を正当化する理由になるのであろう。
受け取った剣を握り締めて、ビナスティは慌ててその背を追った。
「あの。あの、パトロベリ様。どうかお待ち下さい」
「どうしてここまで入れたか不思議だろ。説明してる暇はないから、あんたには教えないけどね」
篝火に照らされたパトロベリの顔は相変わらずへらへらしてはいたが、それなりに緊張しているようであった。
「この獄吏の黒い制服は国のもの。ジュシュベンダのその筋はこんなこともあろうかと、
 各国の制服一式をすべて取り揃えているのさ」
たとえ揃えていたとしても、王子の仮装に備えてのことではあるまい。
これは立派な脱獄幇助であり、捕まればパトロベリも連座である。
廊下に当番兵の姿がまったく見当たらないのが不審であるが、ビナスティはパトロベリの
背中を掴んで彼の身を危うくする無謀を止めようとした。しかしそうするまでもなく、パトロベリは足を止めていた。
ビナスティを後ろに突き飛ばす。
「脱獄か!」、塔の一室で休んでいた非番の衛兵が下の階から駆け上がってきたのだ。
いっせいに剣を抜き放ち、狭い廊下にじりっと構えて行く手を塞ぐその数は五人。
先刻渡した剣をビナスティから取り上げると、パトロベリは自分のものと合わせて剣を交差させて構え、
階段の下から来た衛兵五人を、その双剣でまたたくまに打ち倒してしまった。
それはビナスティも息をのむほどの鮮やかな離れ技で、ほとんど、二人の人間の仕業とも見えた。
左右の壁をうまく使って回り込み、あっという間に向こう側に行ってしまったパトロベリの後には、
斬り伏せられた衛兵から滴り落ちる血がぴしゃりと床を打っていた。
よろめきながらこちらへ倒れてきた兵をビナスティは慌てて避けた。
「双剣の遣い手であられたとは!」
「グラナン・バラスの見よう見まね。心配しなくとも殺してないよ、するもんか。
 そんなことをしたら、それこそ僕までお仕置きされてしまうじゃあないか」
剣をビナスティに返して、パトロベリは怒鳴り返した。
たとえ殺さなくても、これはまずい。
折り重なって倒れている衛兵を踏まないように、這いずりながらも捕らえようとする手からも逃れて
その上を越えながら、ビナスティは必死でパトロベリに追いすがった。
「パトロベリ様、お待ちになって」
パトロベリがアルバレス家の者であること酌量されたとしても、このままでは故国にて幽閉または
身分剥奪である。袖を掴んで引きとめようとするのだが、女を引きずる男の力のほうが強かった。
騒ぎを聴きつけて、方々の囚人が内側から扉を叩き始めた。
上の階に詰めていた衛兵が異常を探してどかどかと塔を駆け回っている音がする。
彼らは急いで階段を駆け下りた。
「お待ち下さいパトロベリ様。いやです待って、ああ駄目、まだ、待って下さい」
「悩ましい声でせっせと僕の名を呼ぶなよ。あんたの男はコスモスだ。逢いに行きたいだろ?」
「いいえ」
即座にビナスティは首を振ったが、パトロベリはその手を無理やりに引っ張って、壁の扉を開くと、
地下へと駆け下りた。
水の音が耳を覆いたくなるほどに大きくなった。
地下に穿たれた水路は、片側に歩道を備え、階段を数段下りると、そこには
黒い水をたたえた地底の運河があった。平生は極秘にはこばれる罪人や、死体、塵芥を出すための
運搬用の荷舟が通る不浄の道である。
そこに暗闇から、一艘の舟がすうっと近付いて来て、舟は篝火の並ぶ岸壁に寄せられた。
それはジュシュベンダの運河を渡る細舟にそっくりの先細りした黒舟で、頭巾で顔を隠した二人の漕手が
うっそりと彼らに頭を下げた。二人共、パトロベリと同じ獄吏の制服を着ている。
地下水流はごうごうと音を立てて天井にこだまし、その轟音は上へ下への塔の騒ぎをもかき消した。
「はやく」
パトロベリにせかされて、思考が麻痺したまま、ビナスティは舳先に角燈を掲げた舟の前に連れて行かれた。
「漕手はお国の暗殺者。僕が早馬で追いかけて、君主の命令に変更があったと云い包めてある。
 彼らはグラナン・バラスのバラス家同様、ジュシュベンダへの移住を認めてくれたアルバレス家に、
 もっと云えば僕の父である先々代に恩義をおぼえ、永代の忠誠を誓って生きている一族だ。
 僕の命令には服従する」
パトロベリはビナスティの背中を舟の方へと押し遣った。
「行くんだよ」
「パトロベリ様。舟には一人しか乗れませんわ」
「いらくさ隊名物のお姉ちゃん。騎士団の男どもが泣くだろうな」
(あの方は脇腹でも妾腹でもない、卑腹よ、卑腹)
(先々代さまのお世話をしていた下働きの好きものの女から生まれたのよ。
 お顔立ちにも振る舞いにも、それが顕れているじゃない)
或る夏の昼下がり、街中に出て隊服のまま氷菓子を食べているところを、パトロベリに見つかった。
見つかれば隊則規定で全員が厳重に罰せられる、違反行為だった。
前を通り過ぎるだけで、パトロベリは何も云わなかった。
その中には常日頃、聞こえよがしにパトロベリを愚弄して憚らぬ女たちも大勢いたというのに。
パトロベリはビナスティを抱き上げると、舟の底に投げ降ろしてしまった。すばやく細舟は岸壁を離れた。
地底運河の流れにのって、舟はすべり出した。
「パトロベリ様」
「もちろん僕もちょっとだけあんたが好きだったよ。いつまでも達者で」
ひらひらと手を振るパトロベリの姿は、すぐに篝火の向こうに回って見えなくなった。
「パトロベリ様」
水門の鉄格子はすべて上がったままだった。その下をくぐると、水路は大きく曲がった。
船尾に身を乗り出してパトロベリを呼び続けるビナスティの声も、瞬く間に暗渠に遠くなった。
パトロベリ様、パトロベリ様。
水流の向こうに舟が消えてしまうのを見届けたパトロベリは、ゆっくりと階段をのぼり、地下から上階に戻った。
制服のおかげでその途中も誰何されなかった。先ほど五人の獄吏を倒した三階へと赴くと、
転がっていた彼らは、ちょうど担架にのせられて運ばれてゆくところだった。
屈強な護衛を幾人も従えて、その様子を見ている立派な身なりの人物がいる。
進み出たパトロベリはおもむろに石床に膝をつき、別人のような面持ちで、
厳かににその貴人の長衣の裾に接吻した。獄吏の服を脱ぎ捨てた青年王子は、
正確かつ流麗な発音で、最上級の帝国共通語を用いた。
「ゾウゲネス皇帝陛下」
「これは、そなた一人でしたことか。一度に五人も」
泰然とゾウゲネス皇帝は問うた。心底感心しているといった風であった。
「たしかに我が身ひとりの所業にて」、臆することなくパトロベリは答えた。
その気になればパトロベリも貴公子として立派に振舞えるのである。
定めし国のファリンがこの様子を見たら、やはり君主の人を見る眼は正しかったかと、
瞠目したに違いなかった。

「非番の者が近くにいたとは不覚でございました。皇帝陛下の兵を傷つけて申し訳ございません」
「女騎士は無事に行ったか」
「はい。陛下のお慈悲と特赦には感謝のしようもございません。
 不意打ちのご視察、呼び出された獄吏たちは陛下の出迎えに追われ、
 ここに傷つけた者たちを除いては、塔はほぼ無人でございました」
「パトロベリ・アルバレス・テラ・ジュシュベンダよ」
「は」
「そなた。おかしな意地をはって騎士の誓いをしておらぬと聞き及ぶが、
 これをご覧。隠しようもないことだぞ」

搬送されてゆく怪我人を指して、ゾウゲネスは笑った。
面を伏せたまま、パトロベリはゾウゲネスの前に控えた。
政変後、復古したジュピタ王朝に即位したものの、お飾り皇帝と呼ばれて久しく、
また親政のかたちをとりながらもほとんど学弟ミケラン卿のいいなりであった皇帝は、近くから見ても
これといって強烈な個性のない、たとえばジュシュベンダやハイロウリーンの君主に比べればはるかに
意思の力と迫力に欠けもする、しかし如何にも貴家の生まれであることを醸し出した、穏やかそうな男であった。
その皇帝は、今宵ジュシュベンダの問題児を呼びつけるにおいて、
パトロベリの母の姓であるテラもそこに加えていたが、そこに厭味なものはなく、ごく自然にそうしていた。
「さてこそこの件、対外的にはなんと説明しようぞ。そなたによい知恵はないか、パトロベリ」
「御心のままに」
「娘の懇願に弱い皇帝と、またぞろ余の評価が下がるかな。ミケランにも怒られる」
皇太子も文句をつけにくるであろう。法を遵守するべき皇帝がそれでは困りますと。
まんざらでもなさそうに、ゾウゲネスは苦笑をもらした。
「ソラムこそ、女騎士を助けたいと思っていたであろうに。皇子も変なところで律儀で頑固ゆえ、
 法と情の間の板ばさみとなって、あれも懊悩したようだな」
「ご迷惑をおかけいたしました、陛下」
いよいよパトロベリは恐縮し、深く頭を垂れた。
「陛下。これは皇太子さま内親王さま、および国許には無関係。
 一切の責は我が身が負うべきであり、またその覚悟にて御前に参りました。
 他の誰にも罪はございません。この身いかようにもご処断下さいますよう」
「イルタル・アルバレスの指示ではないと」
「確かでごさいます」
「嘘も方便である。みなが嘘をつく。
 内親王も、此度のことで、己の身の振りようをしかと学んだことであろう」
ゾウゲネスは長衣の裾を引いて獄塔の窓辺に寄ると、誰にともなく述べた。
我の強い騎士国を束ねるためには滅多なことで旗色を顕にしてはならぬ、それが皇族の立場である。
ひとたびその信条や国々への贔屓や不満を口に出せば、帝国を大きく揺るがす波紋にもなる。
私見を抑え、愚痴をこぼさず、公正な立場でいること、それが上に立つ者の
ただしきありようではないか。皇子も皇女も、そのことをよく考える機会ともなったであろう。
「フリジアにそれを痛感させ、自覚させることと相成った今回の件、女騎士には礼を云わねばならぬな。
 御前会議におけるフリジアの発言は撤回もきかぬが、女騎士が逃亡したところで
 今さら何が変わるわけでもあるまい。そう思い、不意打ちの視察を行い、
 そなたに獄の鍵を渡したのだ。勉強代だと思えば安いものだ」
「しかし」
「全て己で考えしことであったとフリジアは云うておる。
 教唆されてヴィスタル=ヒスイ党に同調を示したわけではないとな。
 腕のいい洗脳者は必ず被験者にそう云わしめるものではあるが、
 女騎士の手管にまんまと引っかかりよって。いらくさ隊の怖ろしさはしかと憶えておこう。
 ジュシュベンダは酔狂で女騎士を優遇してはおらぬとな」
「陛下」
「女騎士は逃亡したのだ。ジュシュベンダにも何処の国とも縁のない、女がひとりな。
 しばらくヴィスタに滞在し、ゆるりと都見物でもして行くがよい、パトロベリ」
夜も遅い、これにて。
踵を返した皇帝に、パトロベリは追いすがった。ゾウゲネスはパトロベリを振り返った。
ふたたび平伏する青年を見つめ、ゾウゲネスは眼を細めた。

「フリジアが泣いて懇願し、ソラムが悩み、はるばるジュシュベンダからそなたが駆けつけた。
 皇太子と内親王と王子が揃い、口々に無実の女騎士を救って欲しいと訴える。
 特赦にはじゅうぶんであるし、何よりもそなたらのその真摯が、それだけは嘘がないと云うておる。
 せっかくフリジアが全て自分でやったことだと頑張っておるのだ。
 女騎士の件は証拠不十分として、余の名において釈放書を書くことで解決しよう」
「皇帝陛下」
「人は何で動くものであるかな、ジュシュベンダの王子よ」
「は……?」
「昔日、余が学弟ミケランの眼にみたものは、理想に向かって駆け上がろうとする、若々しく強い意志であった。
 その歓びの他には何もなかった。上昇を目指して晴れ晴れしいほどに一途であり、
 捨て身とも思えるその無謀が少し不憫になるほどに、若くひたむきで、純粋であったよ。
 この者になら賭けてもいいと思わせるような、こちらの胸まで躍らせてくれるような、何かがあった。
 年をとって気取っておるが、昔はミケランも下町に繰り出して、他愛ないことにもよく笑っていたのだぞ。
 今もまだ、あの時のあの若者の、あの熱さや純度に、余は魅了されておるのやもしれぬな。
 ちょうど此度、そちやソラムやフリジアが余に見せてくれたような真情は、それに近い」
「陛下」
「人は同じことをしようとしても、同じにはならぬ。いかに口巧いことを並べ立てようとも、
 その心に晴れた空の見えぬ者には、到底とどかぬ域がある。
 パトロベリ、これはなかなかに非合理的で、そのくせ人の心に灯るものであるな。
 暗闇の中にも星が見える者はまっすぐにそこを目指して迷わぬのだ。
 昇ればのぼるほど、その者を支える者も理解者もいなくなり、周囲はますます暗くなるというのに」

云わんとするところが、パトロベリには少し意味が分からなかった。
皇帝は獄塔の奥の暗がりに眼を向けた。そこには燃え盛る篝火があった。
人の親になってみて分るわ、とゾウゲネスは呟いた。
「女騎士はコスモスへ行ったのか? そこには、あの者が軍の司令官として駐屯しているそうだな。
 女騎士の解放を訴えにきたフリジアの、髪を乱して泣きじゃくる悲鳴のような声を聴いた時、
 悪い夢を想い出した。あの姫はちょうどフリジアくらいの歳であった」
それは、誰のことなのか。
今でこそ獄塔として使われているこの塔だが、二十年前のあの日、此処にカルタラグン王朝に仕える
女官たちが閉じ込められていたときく。
(出して)
(出して下さい--------……)
或る者はカルタラグン家との血縁ゆえに斬首され、或る者はゆるされて郷里に戻された。
カルタラグンにしか帰るところのなかった者たちは、荒廃したかつての領土で、地を這う虫のように生きている。
パトロベリから返された牢獄の鍵束を手に、ゾウゲネスはじっと牢の並びを見つめた。
皇帝の声音は低く枯れていた。
「もう二度とあのようなことが起こらぬように。その為に余は、帝国皇帝として平和を願う。
 急速な繁栄ではなく、民に恒久の平穏をもたらす方策を最もよきこととして、
 それを固持し、その象徴足るべくつとめることを第一とす。ソラムダリヤにもフリジアにも、その自覚を求める。
 穏便な道を探し、それに努め、ひたすらに和平を求める。
 ミケラン卿、あれこそは騎士の血に呪われし者。
 レイズンの陰謀の血と高位騎士としての高潔の血、これまで彼はその矛盾と葛藤をよく制御し、
帝国の復興と発展に全力を傾け、陰の存在に徹してくれた。
 功と褒美を訴える様々な者共の中、彼だけは、完全にそのような理からは身を引いていた。
 何か他のものに強く心を奪われながら-------どれほど辛い年月であったことだろう」
相変わらず、皇帝の言葉は謎めいていた。
誰かを庇っているようでもあり、誰かを切り捨てることを決めたようでもあった。皇帝はもう一度訊いた。
「人は何で動くものであるか。パトロベリ」
「おそれながら。難しきことゆえ、分りかねます」
「ミケラン卿を動かしてきたものは。そして、そなたがジュシュベンダから駆けつけたのは」
日頃から意識されておられるのだろう、皇帝の穏やかな口調には強弱や抑揚があまりなく、
初めて拝謁する者には、どこにその真意があるのかまるで伺いしれなかった。
もとより温和な気質であることに加えて、曲がりなりにも皇帝の座に長年ついてきたゾウゲネスは
学問所の後輩であったミケランと共に王座を奪い返して以来、もとより目立たぬ性格を
ますます均一化するようにして、若い頃から自分を抑える必要を誰よりもよく知っていた。
「どちらも世間の衆には首をひねらざるを得ない、理解の及ばぬ所業であったろう。
 何ほども自分では出来ぬくせに薄汚く嗤いながら大口叩くだけの者たちには、決してな。
 パトロベリそなたこそ誰よりもそれを知るのではないか?
 おかしなものだな、何故にひとりの人間の運命が他人によって、これは良いこれは悪いと、
 何ひとつその責任をとろうとはしない彼らの手で裁断し、評価されねばならぬのだろうな。
 そのような者共に囲まれて生きてきて、どうかな、
 そなた、かえって本物の心とそうでなきものの区別をつける眼が肥えたのでは」
「自分本位の者ほど、恩に着せるふりをして人の脚を全力で引っ張っているという程度には」
「ミケランは、それをせぬ男であったよ」
傍目には異様に映るほどに、ミケランは自らの功を誇るということをしなかった。
彼の中では何事かを成し得た時点で対象への興味も関心もすっかり終止符が打たれており、
そしてそのことについて何も分らぬ他人の口から後で誉めそやされることほど、彼の自己充足にとっては
無駄で、邪魔なものはなかったのかもしれない。
彼にお追従を述べる宮廷人たちをミケランは如才なくあしらっていたが、その眼には覆い隠せぬ軽蔑があり、
そして人を人とも思わぬ態度を見せながらも、皇帝の影の存在に徹して生きていた。
人々はそれについて、ミケランは分家の人間だから当然だと頷き合い、幾ら頑張ってはみても
分家の人間であるかぎり彼とても自らが皇帝の座には就けぬのだ、そこまではとても出来ぬのだ、
それみたことか臆病者めがと誹ったものだ。ミケラン自身の希望も、本心も、古くからのその夢も知らずに。
 (学兄。貴方が皇帝になったら、ぜひともわたしはヴィスタの都市開発に着手したい。
  君臨するよりもそのほうが自由に動けます。やりたいことがいっぱいある……!)
通路の石壁には、パトロベリが衛士らを倒した時の飛び血がまだ残ったままになっていた。
ゾウゲネスは嘆息した。
ジュピタ皇家には騎士の血が出ぬ。昔からほとんど出ぬ。
竜退治を果たされた開祖さまは竜の血をお呑みではなかったのか。
しかしそれだけでは、聖騎士家と婚姻を重ねてきたことの説明にはならぬ。
ジュピタ家には強い騎士が生まれぬ。それは何よりの天のお達しなのだと、そう想うのだよ、パトロベリ。
そこでもう一度、ゾウゲネスはジュシュベンダ家の青年をちらと見た。
「それなのに、せっかく偉大な先々代の血を持つそなたが、騎士の宣誓をしておらぬとな」
皇帝から再度云われては仕方がない、これはもう、この場にて宣誓をしろとの命令にも等しい。
閉口しながらかたちばかりパトロベリは剣を抜こうとしたが、それは血がついたままであることに
気がついて、そそくさと止めた。
「パトロベリ・アルバレス・テラ・ジュシュベンダ」
「ははっ」
ゾウゲネス皇帝はパトロベリの顔をしげしげと見た。
「人は何のために動くのであろうか。
 パトロベリ・アルバレス・テラ・ジュシュベンダ。良い名である。
 そなたの亡母の姓が星のようにそなたを見守っているようではないか。のう、パトロベリ」
近衛兵を従えて皇帝ゾウゲネスが塔より去ってしまうと、獄塔にはようやく静寂がおとずれた。
パトロベリは床に唾を吐いた。
(イルタルも、皇帝陛下も、実の親でもあるまいに悪評まみれの僕に親身で、お優しいことで)
(病弱な世嗣の王子の為に王宮には近寄らぬのだろう、
 王子を差し置いて自分が出ることのないように、あの子が誰よりも臣民から大切にされるように、
 その為に騎士になることも拒み、忘れられた先々代の私生児として道化を装っているのであろうと
 イルタルはそう云ってくれるけど、そうじゃない)
(僕は臆病者で、面倒なことが嫌いなんだ。それだけなんだ)
窓の外を見た。
無事に遠くに逃げたのだろう。
星空を映す地上の水の流れに、黒い細舟の影は見つからなかった。


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降り出した雨に、木の葉が涼しげな音を立て始めた。
コスモスに集結した各軍は、すっかり慣れた雨に慌てることもなく、火種に覆いを被せ、
濡れては困るものを幕屋に引き入れた。
明け方によく小雨が降るのが、この地の特徴である。
晴れた空から降る霧のように細かな朝の雨は、かえって気持ちよく、好んでそれに打たれる者もいた。
「雨だな。ユースタビラ」
馬上のオニキス皇子は、後続のユスタスを振り返った。
莫迦じゃなけりゃ雨が降り出したことくらい誰にでも分る。そんな憎まれ口を辛うじてのみ込み、
「オニキス皇子、あの樹の下で雨宿りを」、ユスタスは先に馬を駈り、そこへ案内した。
この雨には落雷の心配はない。
朝駈けに付き合えと命じられて、何で僕が、と思ったものの、オニキスは紛うことなき兄シリスの伯父である。
ハイロウリーンとサザンカの眼の届く範囲ぎりぎりの野を、草花を蹴散らして轡を並べて駈けるうち、
(へえ……)
オニキスを見直さないでもないところもあった。
騎士の血にものを云わせてたものかオニキスは馬の扱いに間違いがなく、やや放蕩のたるみは否めぬものの
整った容貌に銀の髪をひるがえし、朝露を蹴散らして雄々しく駈けるさまは、ユスタスの眼にも見栄えがした。
生母の身分が極端に低く、第二皇子の誕生をもって日蔭におかれた不運の皇子である。
政変の混乱の中も忘れられた存在で、サザンカに亡命したものの、この二十年、
その名が人々の口にのぼることはほとんどなかった。
皇子とは名ばかりの妾腹皇子として生きてきた、ブラカン・オニキス・カルタラグン・ヴィスタビア。
本腹の皇子と内外に認められ、短いながらも祝福された生を駆け抜けた弟と比べて、はたしてどちらが
倖せな人生といえるのかユスタスには決められないし、誰にもそれをはかる権利はない。
それにしても、
(そんなに、皇子の座にしがみついていたいものかな)
正統なカルタラグンの後継者でありながら、最初からそれを投げ棄てて
見向きもしなかった兄シュディリスと比べて、未だに自分を皇子と呼ばせて憚らぬオニキスの
このがめつさというか、上昇志向への執着と執念は、必要以上に尊大に構えたその態度と共に
ユスタスには常に軽蔑の対象であるのだが、そう思うこの見方それ自体が、
この皇子が今まで人々から浴びせられてきたであろう侮りそのものであり、恵まれぬ出自の哀れさといえもする。
カルタラグンの皇子の名にオニキスがしがみついていることこそ、この男が望みもしない半生を歩まされてきたことと、
その他には身を立てる術が何もないことの何よりの証であるし、しかもそれすらも非公認なのである。
そう考えると、ユスタスにも少しだけ同情がわいてくる。
カルタラグンの皇子としては生きるつもりはないと云い切ったことのある兄シュディリスとて、もしもフラワン家に
保護されなければ、どのような運命を辿ったかしれない。
兄のシュディリスがいてこそ家族だったという一念がユスタスには強いだけに、そうでなかった時のことが
いっかな想像できないのであるが、物語本などでは、たいていその母が父を殺した男の非道を
息子の耳に吹き込みながら、息子を強い騎士に育てるといったあたりであろうか。
木の幹に凭れたユスタスの襟首に、雨の冷たい雫が落ちてきた。
晴れた朝空から降る雨を眺めながら、雨宿りをしている木の根元にユスタスはかがみこんだ。
高い確率で超騎士として生まれるであろうわが子を、ルビリアは復讐の手先とはしなかった。
生まれた子を優秀な刺客として育てるならば、騎士の精鋭を育成する大国ハイロウリーンこそがそれに相応しい。
それをせずに自分だけがハイロウリーンに立ち去ったのは、シュディリスだけは無事に護らんとする、
壮絶な母の愛といえばいえる。
無論そうではなくては己の復讐しかもとより頭にないようなあのような生き様も叶うまいが、
わが子のあずけ先としてこの世で最も安全なフラワン荘園を選んだことこそ、何やら暗示的ではないか。
レスピアノは不可侵領であり、そこにはヒスイ皇子のかつての恋人であったリィスリ・オーガススィがおり、
聖女オフィリアのご加護があった。
全幅の信頼を寄せるに足る忠臣などまだ持たなかった幼いルビリアは、ヒスイ皇子の友人であった騎士に
赤子を渡すと、そのまま赤子を振り返らずに忘るさることでしか、あの時シュディリスを護るすべはなかった。
(他にどうすることも出来なかった。誰ひとりとして彼女を助けなかった。ただ見ていた。今の僕と同じように)
膝の上で握りしめているユスタスの手はいつの間にか冷え切っていた。
コスモスの丘陵に降る雨は、静かだった。
そんなユスタスの陰鬱を見透かしたように、隣りで雨を眺めていたオニキス皇子が不意に、
「ルビリアの目的はヒスイの仇を討つことであり、カルタラグンの再興などその手段でしかないようだな」
うっすらと笑いながら、雨に濡れた手をひらつかせたのは、もう雨も止もうという頃だった。
どうせ続いて、これだからあの女には大局が見えてはおらぬと嘲るのだろうと、ユスタスは拳を握ったままでいた。
この世にはいろいろと耐え難いことがあるが、
この男の口からルビリアの話を聞かされるほど不快でたまらぬものはない。
(黙れ下種。女ひとり手ごめにして天下を手にしたつもりのご気分か)
「何しろ、あの女には何ひとつ大局が見えてはおらぬからな」
「………」
じゃあ訊くけど、お前には大局などというご大層なものが見えてんのかよ。
うんざりと、ユスタスは前髪に落ちた雨の雫を振り払った。
そうやって人を愚弄するくらいだ、見えているのならば是非とも納得いくまでこちらに聞かせてもらいたいもんだ。
誰かに偉そうに云ってみたかったというだけでしかない内実を伴わぬ上からのご忠告だの助言だの、
肝心の相手があんたを尊敬してなけりゃ意味がないってことに、いい加減気がついてくれ。
何でこう、相手の為には何ひとつならぬことを声高に押し付けてくる者ほど、相手側が低くみえるように
断定的なもの云いをするんだろうな。
しかし、ユスタスの予想に反して次なるオニキスの言葉には少しほろ苦い憐憫がこもっていた。
ルビリアは今はあのようでも、カルタラグン宮廷にいた頃のあれは、小鳥のように可愛い姫だったのだぞ。
「本来ならば、あれの長姉がヒスイの許に上がるはずであった。
 だがあの頃にはもうカルタラグン王朝の先行きは相当に危ぶまれており、肝心のヒスイは他家の姫と
 熱愛中とあって、タンジェリンは長女の姫をコスモス領を継いだクローバ・コスモスと縁組させてしまった。
 タンジェリンにはまだ三人の妹が残っていたが、上の二人は別の家に、そして末姫はヒスイの許へと与えられ、
 ヒスイと違って最後まで、わたしにはタンジェリン家の姫が割り当てられることもなかったがな」
あ、そう。
それで貴方は、ようやく転がりこんできたルビリア・タンジェリンにあれほどに執心してるわけだ。
運命はよくしたものだと感心するよりは、その口ぶりに貴方の卑しさがかえって透けて、吐き気がするんだけど。
オニキスはそんなユスタスをちらりと見て、薄笑いを洩らした。
「そなた。ユースタビラというのは、偽名であろう」
だとしたら?
もう何もかもが面倒くさい。いっそここで正体を明かしてやろうか。家名を振りかざして控えおろう、
二度とルビリアに近付くなとその頭を足蹴にして恐れ入らしてくれようか。
もちろんユスタスはそんな品のない振る舞いはしなかったが、そのかわり黙りこくっていた。
オニキスは気にした風もなく、
「それ、その態度。ルビリアもハイロウリーンの六王子も、そなたに対してはどこか遠慮がある。
 相当の身分の者であろう」
よもやそれがフラワン家とは思ってはいないにしろ、オニキスは訳知り顔をして
ユスタスの肩を叩き、「二人きりなのだ。遠慮なく、寛いでも構わんぞ」と笑い出した。
それははじめて聴くようなオニキスの晴れやかな、打ち解けた親身の笑いで、ユスタスは少々愕いた。
冷や飯食いの身の上の辛さ、肩身の狭さ、その苦労はわたしほど知っている者はいないとでも
云いたげな、年長者の心のこもった慰めであった。
かってに同類にするなと云いたいところであったが、ユスタスはオニキスの顔を見た。
オニキスが誤解するのも無理はない。
拾いものの騎士としてそのままハイロウリーン軍に組み込まれているものの、立場としてはよそ者のまま、
誰の従者でも従卒でもなくルビリアとも対等の口をきき、平騎士の隊服を着て陣中を闊歩している謎の若者。
先だってもあらためてナラ伯ユーリから
「で、ユースタビラ殿。そなたのご出身はどちらかな」
悪気なく真顔で訊かれて、冷や汗をかいたところだ。
ロゼッタに対してもやや強引な口をきいているのを間近で耳にしたユーリとしては、
若者が貴家の生まれのだと思い込むのも尤もなことだった。

「ところでご両親の御名をまだお伺していなかった。ユースタビラ殿」
「えっと、それちょっと。事情があって明かせません。ルビリアの友人というあたりです」
「ははあ。なるほど。いや、深くは訊きません」

それだけであっさり引いてくれるあたりがユーリの人柄の良さではあるが、わざわざコスモスの駐屯軍に
監査役として送り込まれてきた男である、もちろん、ユーリはユースタビラへの憶測を逞しくしていることだろう。
軍中に流布している噂によれば、ユースタビラはさる高貴な方の隠し子であり、
あのように身分を隠してはいてもいずれかの御曹司には違いない。どこを切っても
面白みのないそんな話で、一応は全員が納得して落ち着いているようである。
兵士と同様、ユスタスを自分と同じような徹底的な日陰の人間だと思いこんでいるからこその、
オニキスのこの親しさであろう。
無聊を紛らわすために草を刈って競技場を作り、昨日ひらかれた木刀を使っての稽古試合の最中でも、
オニキスはユスタスに接近して、何だかんだと剣筋についての助言や講釈をたれていたものだった。
ほとんど聞いてはいなかったが、皇子は妙になれなれしく親切で、ユスタスへの贔屓も露骨だった。
お蔭で機嫌が悪くなった若者は、投げやりともいえる態度で競技場の中央にぽつんと立ち、
対戦相手を待っていた。
試合の方はやり過ぎぬあたりで、負けすぎず、強豪を半分ほど打ち負かして引き上げたが、
やんやの喝采の中、ふと振り返ると、オニキスがこちらを見て満足そうにしているのが眼に入った。
考えるだに悪寒ものではあるが、どうやらオニキスにとってユースタビラとは、弟か、自分の分身か、
息子のように思っているらしき節がある。目下の功は自分の功というわけだろうか。
(いつから僕は生徒になったんだよ。誰もお前なんかにご指導頼んでないんだけど)
しかしオニキスはそうは思ってはおらず、この手の手合いにありがちながら、すっかり先輩面でご満悦であった。
そのうちきっと「こちらが教えてやったとおりに彼もだんだんと上達してきたようだ」とか、
「巧くなったのはすべてわたしの御蔭だと認めてもいっこうに構わんからな」とか、云い出すんだろうな。
まあ気持ちは分るよ。そう云っておきさえすれば、自分は何もしなくても上の立場でいられるもんね。
それにしても、まさか古今東西、あらゆる書物に愚か者の代表として炙り出されているその具現化そのままの、
ここまでの酷い自称功労者が、この世に現存しようとは。
(目立つんじゃなかった)
ハイロウリーンにもサザンカにも名と顔が知れ渡り、もはやおいそれと軍から抜け出せなくなってしまった。
せめてこれ以上おかしなことに巻き込まれぬよう、慎重にも慎重を期さねば、兄シュディリスにも、
姉リリティスにも、どのような迷惑がかかるともしれない。
(それから、ロゼッタ、君にも)
サザンカに帰国したであろうロゼッタのことや、最後に見たその顔や声を思い出していると、
むしょうに彼女に逢いたくなってきた。兄や姉を想うよりも、ずっと強く。
ユスタスの隣りで皇子がゆっくりと身を起こした。
「カルタラグン家が再興した暁には、そなた、カルタラグンに来るといい」
雨が上がった。
湿りを帯びた涼しい風があった。朝日にかがやく濡れた花々を踏んで、オニキスは木蔭から出た。
もともとの顔かたちが良いだけに、加齢が渋みとなって表れているその横顔は、そのまま型をとれば、
立派な彫像になりそうであった。
兄シリスよりはもう少し色の濃い銀髪から雨の雫を振り落とし、オニキスはユスタスの差し出す馬の手綱を取った。
「皇帝に認められて新生カルタラグン家の王となり、領土を回復したならば、
 その時にはルビリア姫をフィブラン・ベンダから引き取って、余の妃に据えてやろう」
「ルビリアを」
オニキスは頷いた。ルビリアについては、このままでいいわけがなかろう、そこもともそう思うであろう。
「あれも苦労してきた女だ。何ひとつあれの為に動こうともしなかった、助けの手を差し伸べなかった聖騎士家、
そのくせ散々あれを嘲ってきた者共に、タンジェリンの血を引くカルタラグンの正妃ここにありと、
 その天晴れな意地を見せてやるといいのだ。
 カルタラグン家の後継をルビリアが生み上げること、その子を連れてジュピタの宮廷に乗り込み、
 皇帝の祝福と歴々の挨拶を受けること、それこそ復讐ではないかと、毎晩ルビリアを
 説得しているのだがな。『もちろんです皇子』としおらしく同意し、やわらかく寄り添ってきながらも、
 あれの眼はまったく未来に希望をみておらぬ」
「………」
「はやく、このコスモスの混乱が終結するとよい。ルビリアとて、子を孕めば考えを変えるであろう。
 カルタラグンの再興が叶えば、各地に散って流浪を余儀なくされているカルタラグンの生き残りも
 安息の地を得ることができる。余の妃となり子を生めば、ルビリアも安らぎを見出し、
 残りの半生を穏やかに生きていくことも叶うだろう。
 ルビリアが生む子が女児ならば、タンジェリンの誰かの名を、男子ならばその名をヒスイと名をづけて、
 カルタラグン家の跡継ぎと正式に定めよう」
「翡翠皇子の名を」
「凶刃に斃れた弟の無念も、それで少しは晴れるであろう。
 不肖の兄がカルタラグンを取り戻したと知ったならば、弟も少しは歓んでくれるであろうて。
 日蔭の身におかれていたこの兄のことを、あれほどに気を遣い、
 そして気遣っていることを微塵も感じさせずに、両腕を広げていつでも一番の友のように
 温かく迎えてくれた者は翡翠の他には誰もいなかったというのに、当時はそれこそが
 何よりも翡翠の優位の証におもえて腹立たしく、妬ましく、憎かったものだった。
 あれの代わりに、心が壊れたタンジェリンの女一人くらい、面倒みてやらねばな」
あれは、もうぼろぼろになっておる、とオニキスは低く呟いた。
「明るいところでルビリアを見たことがあるか、ユースタビラ。
 木の人形か何かのように無数の刀創に覆われて、切り刻まれている、あの肌を」
「どうしてそんなことを、僕に」
ユスタスは吐き捨てた。聴きたくない。
「同じ道は歩むな、ユースタビラ」
どうやらすっかりユスタスをどこかの名家の不遇の脇腹の子か何かと思い定めているらしきオニキスは
馬鞍に跨ると、空を仰いだ。
朝の虹は水色の空に半ばとけて、夕方のそれとは違い、露草色の薄明るい線で淡く描かれていた。
鞍の上でオニキスは、雲間から差してきた陽を浴びて、何かを瞑想するようであった。
光に包まれたその佇まいはユスタスがどきりとするほど、シュディリスと似ていた。
(どうかしてる。それを僕に云うために、散歩に連れ出したのかこの人は)
一陣の強い風が吹き、草波が押し寄せて、波のしぶきのように露珠が舞い上がり、また落ちた。
皇帝に再興が認められたら、カルタラグンに来るがよい、ユースタビラ。
馬を並足ですすめて、不遇の皇子は雨の名残の中からユスタスに剛毅に笑いかけた。
如何なる心境の変化か、またはこれこそがこの皇子の隠されてきた本質であるのか、
どちらともつかぬ笑みだった。
ユスタスはその朝をいつまでも忘れなかった。
オニキスのように、そんな当たり前のことを生涯の見果てぬ夢とする者がいるのか。
それともそれこそが、誰もが生涯を賭けて追い求める、虹のまぼろしなのだろうか。
カルタラグンはもうこの世にはない。
(そこになら、そなたにも、居場所があるかも知れぬぞ)
頬を打つ雨粒にユスタスは空を見た。



「続く]


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