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[ビスカリアの星]■六七.


馬車の中は、狭かった。
近くの田舎屋敷から二台調達したはいいものの、病人を乗せた片方はともかく、
彼らの馬車は年代物のぼろ馬車だった。高貴な若者たちはこのような安定の悪い旧型の馬車に
乗ったためしがかつてなく、しかも揺れを緩和するばね装置のどこかに不具合があるらしく、悪路に
差し掛かるたびに馬車の箱ごと揺さぶられ、座席から転がり落ちそうになり、今も前のめりに
投げ出され、互いにぶつかったところであった。
「っと。大丈夫」
「ええ」
「おみ足に、まだ踏まれてるんだけど」
「あら、ごめんなさい」
対面の若者の足をわざと踏んでおいてから退けたのは、断髪の少女であった。
馬車の中には、男二人女一人、そして、後ろに続くもう一つの大きな馬車には、少女がひとりいた。
「あちらは大丈夫かしら」
不揃いに切られた短い髪を馬車の窓から出して、気遣わしげに若い娘は後続を振り返った。
そぼ降る雨の中、後ろの馬車はゆっくりと進んでいて、ともすれば視界から消えそうになる。
「居心地が悪くはないかしら。気分が悪くなってないかしら。馬車の揺れがひどくなければいいけれど」
「こちらに比べれば」
同時に答えたのは、対面の兄弟であった。またしても、がたんと馬車が大きく揺れた。
狭苦しい馬車に揺られる若者たちは、三人とも、軽い怪我をしていた。
「コスモスへ一緒に行くのはいいけど、後ろのお姫さまだけは、大事をとってオーガススィに
 帰ってもらったほうがいいんじゃないのか」
むすっとして口を利いたのは弟王子の方であった。
彼は腕に包帯を巻いており、三人の中では一番傷が深く、そのことを彼自身が
恥じていたから、機嫌も悪くなろうものだった。彼に斬りつけたのは眼前のこの少女、
先刻馬車の揺れに乗じて彼の足を踏みつけた、この女騎士なのである。
彼は、わざとらしく腕の怪我を庇った。実際、馬車が振動するたびに、そこが痛むのだ。
皮肉を吐かせると、七人いる兄弟の誰よりも、末弟王子の彼の口はよく回った。
「鷹狩りに便乗して、君たちお姫さまたちだけで家出したのはいいけど、甘いよね。
 ハイロウリーンの諜報網はそちらのお国より優秀だってこと、これを機会に覚えておいても損はないよ。
 ブルーティア姫と騎士ガードについては、こちらで保護して、先にコスモスに送らせたよ。
 彼らの頼みを引き受けて、時間の浪費と知りつつも君たちを回収しに来たこちらに対して、何だい、
 いきなり斬りかかってくるなんて。たいした挨拶じゃないか。これがオーガススィ式ってわけ」
「そのことについては、謝ったわ」
「北国の女は、野蛮だね」
「お言葉を返すようだけど、ハイロウリーンだって北国じゃなくて」
断髪の女騎士、レーレローザ・クロス・オーガススィは、負けずに云い返した。
「それに、私のことはどうでも、後ろの馬車にいるルルドピアス姫のことは野蛮人だなんて呼ばせなくてよ。
 オーガススィとハイロウリーンを二つ合わせて、北国の女が押し並べて野蛮人であったとしても、
 ルルドだけは違うわよ。訂正するなら今のうちよ、ワリシダラム王子。
 私は貴方と決闘することも辞さないわ」
「むちゃくちゃ云うなよ」
ワリシダラム・ベンダ・ハイロウリーンは、呆れてレーレローザを見返した。
隣りに坐っている年長王子の方がたまらずに吹き出した。彼は彼で、弟のワリシダラムほどではなかったが、
同じように腕を少し切っていた。兄のそれは、レーレローザと弟ワリシダラムを引き分けた際に、
弟が誤って剣の勢いを止められなかったものである。
そしてその隙に、レーレローザの剣先がワリシダラムの腕を掠めていたのだから、誰がどう悪いとも、
誰の勝ちだともいえないのであった。
「今のはわざとじゃなくてよ、ワリシー王子」
「じゃあ、さっき踏んだのは、わざとかよ」
「まったくこの馬車は揺れること。インカタビア王子、お席を代わりましょうか。そちらにお二人が
 並んでいるよりは、入れ替わったほうが、まだ窮屈ではないと思います」
「もう足を踏まれなくて済むしね」
「どういたしまして。こうして横からも踏めますわ」
「痛いな。何すんだよ」
「何よ」
「何だよ」
「頼むから仲良くしてくれるか。狭いのだから」
七人兄弟のうちの、五男の彼は、良くも悪くも老成したところがあり、
末弟のワリシダラムよりは、もう少し落ち着いた態度で、レーレローザに対することが出来た。
インカタビア王子はレーレローザのためにさらに全員に席を入れ替わることを求め、レーレローザと
怪我をしている弟が楽になるように、自分は進行方向とは逆向きの座席についた。
狭い馬車の中で立ったり坐ったりする間も、「何よ」「何だよ」は続き、レーレローザとワリシダラムは今や、
そっぽを向いて、互いに窓の外を見ていた。
(やれやれ)
インカタビア青年はレーレローザの膝の邪魔にならぬよう、弟のほうへ寄り、そこから
レーレローザを眺めた。彼は馬車の中の険悪な雰囲気を緩和しようと、少女に話しかけた。
「傷は平気か、レーレローザ姫」
「これしき。何ともありません」
レーレローザは騎士らしく、少し気取って、年上のインカタビア王子に応えた。
ワリシダラムが兄のインカタビアを誤って斬り、そしてレーレローザがワリシダラムを傷つけて、
その時不運にもインカタビアの剣先は、その下をかいくぐった少女の頬を糸刃程度に掠めたのであるが、
本人の言葉どおり、それはかすり傷であった。それでも血は流れた。
インカタビア王子は事故とはいえ、そのことを酷く気にしたが、レーレローザはさばさばしたもので、
消毒だけはおとなしく受けたものの、その他の大袈裟な手当ては一切断り、
「この程度の怪我は騎士団にいるかぎり日常です」
雄々しいところをみせ、鏡を見ようともしなかった。
したがって、その頬には誇らしい勲章のように一筋の赤い傷がそのままになっていた。
朝から降り出した雨は、止むことなく、平野を灰色にかすませていた。
ルルドピアス姫を乗せてゆっくりと歩む後ろの馬車を置き去りにせぬよう、一行は進む。
そのくせ揺れるのであるから、とても快適とはいえなかった。

『囲まれてる。ルルドピアス、逃げて』
『レーレ!』

「だからって、いきなり焚き火の上から飯盒を抜いて、棒ごと投げつけることはないだろう」
ワリシダラムは襟元をいじった。
するとそこから、乾いた野菜屑がこぼれ落ちた。
宙を飛んできた野営用の簡易鍋は、中身を撒き散らしながら、身をかがめたワリシダラムの
真上を過ぎたのである。
彼は野菜屑を馬車の窓から外に捨て、無視しているレーレローザに再度云った。
「火傷したらどうするんだよ」
「投げたのは私じゃなくて、ルルドよ」
「いい腕をお持ちで」
「あの子、水切り遊びが得意なのよ」
「石で風紋を描くあれのこと」
「そうよ」
振り向くと、レーレローザは我がことのように得意げに、顎を上げた。
「ルルドピアスは特別なのよ。綺麗な子でしょう。あの見かけどおり、彼女はとても繊細な人なのよ。
 とても優しくて、かよわい人なの。あなた方にはどうせ分らないでしょうけどね。
 荒々しいばかりで、無神経で、けがらわしい、いやらしい男たちなんかには、誰ひとり、
 彼女に指一本触れさせわよ。ルルドが壊れちゃうわ」
「はっ。何それ」
遠慮なく、ワリシダラムは鼻で嗤った。
「乙女妄想には申し訳ないけれど、いやらしくない男なんか、見たことないね」
彼は脚を組み、彼の足を踏もうとするレーレローザから足を遠ざけた。
そうやって嘲笑的に、皮肉らしくする時、彼はすぐ上の兄のエクテマスに似ていた。
ワリシダラムは兄のインカタビアとまったく同意見であった。
「いわゆるあれか。ご不浄へ行く時にも手を繋いで行く、女同士の双子仲良し」
「男が近づけないような雰囲気で仲睦まじく、花よ蝶よと、べったりの」
「いけなくて」
そんなからかいごときでレーレローザは怯みはしなかった。むしろ彼女は若者たちを挑発しにかかった。
男二人を見比べ、レーレローザは悠然と笑みを浮かべた。
「ええ、何処にでも手を繋いで行くわ。子供の頃から私があの子の面倒をみてるの。
 可愛いのよ、とっても。寝る時だって隣りで寝かすわ。もちろん寝巻きはなしよ」
「ふうん」
「寒そうだな」
ますますレーレローザは得意気にルルドについて語った。彼女はいつもこの話を折にふれて
持ち出しては、ルルドピアスといえば、リィスリ様、リィスリ様といえばルルド姫であるところの、
騎士団のおめでたい男どもを悶絶させてきたのである。
「お風呂だって一緒に入ってるわ」
彼女は余裕をみせて、腕を組んだ。
「お湯の中では、私がルルドピアスを洗ってあげるのよ。隅々までね。
 『レーレ。疼くの。お腹が』あの子がそう云って抱きついてきたら、一晩中、傍に寄り添って
 介抱するわ。あの子のお腹を撫でて、あの子が気持ちよくなるまで、私が温めてあげるのよ」
馬車に奇妙な間がおちた。
「嘘つくなよ」
「無理すんなよ」
「無理なんかしてないわよッ」
「話に無理があるだろうが」
ハイロウリーン家の男子の方が上手であった。
インカタビアは窓枠に肘をつき、憤慨しているレーレローザを宥めた。
「いくら君が女騎士で、女騎士にありがちな、庇護欲をそそる同姓への愛情を傾けたとしても、
 ルルドピアス姫はどうやら違うお気持ちでいるように思われるのだが」
「インカ兄さんと同感」
ワリシダラムが手をあげて同意を示した。
「あちらのお姫さまは君のことなんか、たいして眼中にないと思うよ」
「------知ってるわよ。そのくらい」
唇を噛んで、レーレローザは項垂れた。ハイロウリーン王家の王子方は、レーレローザ姫が
泣くのではないかと身構えた。
「あなた達に、何が分るの」
実際に、レーレローザの声は少し鼻にかかり、その眸には涙が潤み出した。兄弟が同時に
差し出した手巾を握り締めて、レーレローザはそれを顔にあてた。
「あなた達に何が分るのよ。あの子が今まで、どれほど不憫な境遇だったか」


近隣諸国の殿方にとって、ルルドピアス姫はながらく、謎に包まれたままの存在であった。
ひじょうにお可愛らしいとか、かのリィスリ様に似ているとか、
少し奇妙なことをするとか、虚実混じった噂ばかりが盛んに流れるわりには、肝心の本人は
ほとんどオーガススィ城にはおらず、離宮に引き篭もり、姫の遊び相手は兄イクファイファと、
小トスカイオの娘である、レーレローザとブルーティア姉妹にほぼ限定されて、逢おうにも
滅多に逢えず、「病もちだから」という理由で、その実体は常に、霧か虹の彼方であった。
それであっても、むしろそれであるがゆえに、年頃の若者たちは、姫への関心を募らせた。
しかしそれも、小トスカイオの妃であるスイレンが、
「あの姫はかわいそうに、病もちで、少しおかしいのですわ。
 人の優しさや、親切が通じない子なのですわ。わたくしの、せっかくの助言や親切も、
 感謝してもらえるどころか、まったく受け付けてはもらえませんの。
 心がひねくれているというか、性格が悪いというか、頭が悪くて、人間不信なのでしょう。
 このことは広く皆さんにも知っておいてもらわなければと思います。今後もあの姫について何か
 ありましたら、全てわたくしを通して下さいませ。それもこれも、病のせいでお気の毒」
気の毒そうな、憂いた、しかし断定的な物言いと、まるでそれ以上の詮索は
失礼にあたると云わんばかりの居丈高な圧力を言外に含ませた態度にて、彼らの好奇心を
ぴたりとそこで堰き止めてしまい、後にはまたしても、よく分らぬ、曖昧な輪郭の、あまり印象のよくない
噂ばかりが残されるのであった。
(それがまさか、よもや、『レーレこそ逃げて』一声上げるなり、こちらに飯盒を投げつけてくるような
 姫君とは思わなかったよ)
夢が打ち砕かれた気がしないでもない、ワリシダラム王子である。
あの時は、続いて、『ルルドに何をするの。離れなさい』まだ何もしていないのに間に割り込んできた
レーレローザが、ものすごい勢いで剣を彼の眼前に繰り出してきて、その剣幕に彼としては
剣を抜かざるをえず、きぃんと音が鳴ったその剣戟の音に、「レーレ、レーレ。やめて」
ルルドピアス姫の悲鳴が入り混じり、集中できず、インカタビア兄が仲裁に入るまで、ワリシダラム王子は
情けなくも女騎士におされっぱなしになったのだった。
(ちぇ。なんて見合いだよ)
ワリシダラムが兄インカタビアを、インカタビアがレーレローザを、レーレがワリシをそれぞれに
傷つけて、そこで初めて彼らは顔を見合わせ、
「オーガススィ家の姫か」
「ハイロウリーンの王子ですか」
三人が三様にはっとなり、それぞれの剣を下げた途端、それまで真っ蒼な顔で見守っていた
ルルドピアス姫が、「あ」と小さく叫んで失神するにいたっては、もう何が何やらだった。
「後ろの馬車に乗ればよかったな」
本音を隠さず、ワリシダラムはぼそりと口にした。彼は窓の方をむいて眼を拭っている
レーレローザを横目でちらりと見た。
「随分と頼りない感じのお姫さまなんだな、ルルドピアス姫は。
 かのフラワン家の奥方さまと似てるとの話だけど、もっとずっと、幼い雰囲気だ」
三人は黙り込んだ。
降り出した雨の中、慌てて彼らはルルドピアス姫を木の下にはこび込み介抱に追われたが、
ハイロウリーンの手勢が馬車の用意が出来ましたと山中の彼らに報告に来るまで、レーレローザは
ルルドピアスの小さな手を握り締めて傍から離れず、少女の華奢な手をさすり、
まるでもうルルドピアスが死んでしまったかのような、うろたえた哀しい調子で、
「ルルド。しっかりしてルルド。もう大丈夫よ。眼をあけて」
おろおろと呼びかけ続け、そのうちそんなレーレローザの方が心配になるほどに、それはあまりの
動揺ぶりだったのだ。
(似てないな)
失礼承知で、ワリシダラムは隣りに坐っているレーレローザをあらためて盗み見た。
どちらかといえばブルーティアの方が女らしいが、それにしても、本当に血縁かと思うほどに、
姉妹とルルドピアス姫は、かなり印象の違う少女だった。
もちろんルルドピアス姫のほうが、レーレローザの云うように「特別」なのであろう。それに異存はない。
山を降りる際、兄インカタビアに抱かれて小首を傾け、眼を閉じていたルルドピアスは、そのまま
雨か、花か、何かになって消えてしまいそうな風情で、飯盒を投げつけられた身ではあったが、
少女の印象としては儚げなこちらの方がいいに決まってる。手も足首も、ほっそりとして、掴んだら
折れてしまいそうであった。とりわけ、夜明けの光のような金色をした長い髪の美しさが眼に残った。
ワリシダラムはもう一度、夢の姫君への想像を一新させて、後続の馬車で眠っているであろう
ルルドピアス姫についての、甘い想いに浸ることができた。
引き換え、こちらのレーレローザ姫の、勝気なこと、強気なこと、感情的なことはどうだろう。
(第一、その断髪はどうしたんだ。曲がりなりにも、これから将来の
 夫候補に逢おうかという見合いを控えた姫君が、男装して、家出して、
 ざんばら髪になるなんて、どういう了見なんだ)
「云っとくけど、女騎士は嫌いじゃないよ。君のその頬の創だって、好ましいほどだ」
しかし、ワリシダラムは馬車に揺られて痛む腕の怪我をさすりながら、素っ気ないともいうべき、
レーレローザへの愛想を口にした。
愕いてレーレローザがこちらを見た。
「それが君の生き方で、それが最も、君を君らしくするのならば、お体裁重視の
 世の分らずや共のようなことは、云わないよ。男の足を蹴ることだけは如何なものかと思うにせよね」
彼は云った。
「だけど、自分の友だちを、人前で、男の前で、先ほどのように見世物扱いで
 話のつまみにするような、そんな女は大嫌いだ」
レーレローザの顔色が変わった。ワリシダラムは窓の外を向いてしまった。
インカタビアが咳払いをし、それがかえって、馬車の中を重く、気まずくさせた。


ルルドピアスは、眼を開けた。
馬車は停まっており、少しだけ開けてある窓から、つめたい、涼しい風が流れ込んでいた。
窓の外は、きれいな果実色で、雨も上がり、夕暮れが近いのだと知れた。
どうして馬車の中に一人きりなのだろう。レーレローザはどうしたのだろう。
今朝からのことをルルドピアスは想い出そうとした。
(そうよ、私、コスモスにどうしても行かなくてはと思って、レーレとブルティに頼んだのだわ。
 鷹狩りの城砦からこっそり馬車を出して、山越えをするというので、ブルティと騎士ガードが
 馬を調達しに行って、レーレローザと一緒にそれを待っていたのだけど、その後、どうしたのだったかしら)
馬車の扉が控えめに叩かれた。外に立つその若い男が誰なのか、ルルドピアスは分らなかった。
「ご機嫌よう。ルルドピアス姫」
気遣わしげに、青年は、ルルドピアスの馬車の中に食料を入れた籠を差し入れた。
雨の上がった平野は、傾いた太陽に照らされて、薄い色に染まっていた。
座席の間には予備の椅子が詰められて、横になれるようになっていた。
ルルドピアスは身を起し、急いでその一つをどけて、坐りなおした。
それが済むと、外で待っていた青年は馬車の扉をもう少し開いた。
本当は、レーレローザ姫に貴女を見舞ってもらうべきなのですが、と彼は言い訳をした。
「弟が莫迦なことをしまして。レーレローザ姫は目下、ご機嫌がうるわしくない、そのあたりです」
「レーレが」
びっくりして、ルルドピアスは青年に向き直った。
「レーレローザは何処ですか。彼女に困ったことがあったのなら、私、行かないと。
 其処に連れて行って下さい」
「姫、そのままで。無理に動いて、またご気分が悪くなってはいけない」
「貴方は」
「はい」
「------貴方は、どなたですか」
どこまでもぼんやりとした、夢の中から喋っているような、ルルドピアスの様子だった。
彼は面食らったが、まったくどこにも隠れた心のない、対外的につくろうことを知らぬ姫の
純な反応と、お人形のようなその顔を見ていると、戸惑いも消えた。
色の白い姫の顔に日差しがあたり、まったくもって、そこだけが一枚の金色の絵画のように
しんと静かで、現の汚い世界とは分断されているようにすら思われた。
(やれやれ)
彼は安心させるように、微笑んだ。
「ハイロウリーン家五男、インカタビア・ベンダ・ハイロウリーンと申します。オーガススィの姫。
 そして前の馬車におりますのは、末弟で七男のワリシダラム。同じ馬車に、レーレローザ姫も
 ご無事です。野宿されておられた山の中から、失礼ながら、わたしが姫をこの馬車まで
 お運び申し上げたのだが、覚えてないかな」
「まあ」
みるみる警戒を解いて、人を疑うことを知らぬ姫君は、幼い子供のように顔をほころばせた。
「では、レーレとブルティの、お婿さんになる王子さま方です」
「そうなるかどうか、さあ」
「なります」
ふっとインカタビアは顔の前に何かが過ぎたような気がした。
夕暮れに向かう世界の色が、翳り、また輝き出した。微笑みをそのままに、ルルドピアス姫は
両手を膝に重ね、まるでこちらが幼子であるかのような眼をして、その叡智で、彼を見ていた。
馬車の暗やみから、ルルドピアスはハイロウリーンの王子に告げた。
なります。聖騎士よ。そして、北国の黄金は、わたくしたちが知ることもない、遠い過去と
未来に、受け継がれてゆくでしょう。


岩陰にレーレローザは膝を抱えて坐っていた。
ハイロウリーンの供人たちが休憩用の天幕を用意しようというのを断って、一人で
野原に出たのである。
夕方の風にそよぐ草からは、一日降った雨の雫がこぼれ、それに日があたって、あたりは
小さな光に満ちていた。
レーレローザは短くなった髪を指に巻きつけて、それを放すことを繰り返していた。
「機嫌なおせよ」
ワリシダラムは塗り薬を入れた容器を持っていた。
休憩中の馬が草を食む音が近くでしていた。
ワリシダラムは、女騎士の関心を引くように、それを空に放り上げ、片手で掴んだ。
「こっちを向けよ。その顔の怪我に、薬を塗ってやるよ」
「今さらだけど、随分な口の利きようだと思うわ。王子さま」
「うちには男が七人もいるんだぞ。下の方なんて、ほとんど街中の子と変わらなかったよ。顔を上げろよ」
「考えていたのよ」
「何を」
「さっき貴方に云われたこと」
レーレローザは指先に髪をからめた。
それは、他家の内情に疎いワリシダラムにはさっぱり分らない話であった。
「知らず知らず、私こそ、お母さまと同じことを、あの子に対してしていたのかしらって。
 あの子の為と云いながら、その実、私は、私が誰よりも偉くみえるように、
 善行が目立つように、私こそが誰よりも褒められるように、さもあの子のことを愛し、導き、あまつさえ
 尊敬するような顔をしながら、あの子の評判を噂の中でどんどん低め、犠牲にすることで、ほらご覧、
 ルルドよりも、私の方が凄いだろう、ルルドピアスは愚かだろう何も分っていないだろう、そんな、浅ましい
 優越感と、満足を、無関係の人の耳にわざわざご披露することで、そんな簡単な方法で、ルルドの上に
 立った気分を味わっていたのかしらって」
「はあ」
「しかも全ては、ルルドピアスには隠れたところで、決め付けて、自分にばかり都合のいい話を
 自分のために組み立てて、都合が悪くなればそれも全て、ルルドのせいにして。
 私はいったい、何のためにあの子に執着しているのかしら。それもこれも、何としても
 ルルドピアスを駄目にしてやりたい、あの子の人生を邪魔立てし、ほらやっぱり私が云っていたとおりだろう、
 ご覧のようにルルドは不幸になっただろう、そうなるべく、そうなるように、ひたすら親切面しながら
 あの子の偏見を流し続けていたのかしらって。自分がちょっと惨めになったのよ」
「よく分らないけれど」
草を踏みしめて、ワリシダラムは率直に述べた。
「大声で、『誰かの為にこういうことをやってあげている』なんて吹聴する人間は、まずもって、
 信用ならないね。その者は、自分では何ひとつせずに、人の努力や能力の上に自分の名を
 必死になって貼りつけることで、さも自分が大きなことをした気分になっているだけだから。
 話をよく聴いていたら分るよ。結果をみていても明らかだよ。
 相手の為にと云いながら、その実、相手の為には何ひとつなっていないから。
 話の内容は全部、相手を比較対象とした視野の狭いご自分の自慢話になっているはずだから。
 己をひけらかす目的でやっているお節介が、誰かの為になった試しはないよ。そんな人間の言葉には、
 威勢はよくとも、賢さと思い遣りがないからね」
「そして、相手の資質や尊厳や努力を、一切無視し、何もかもを自分の手柄のように、
 汚い声で世間に喋り続けるのね」
レーレローザは膝を抱えた。
ようやくレーレローザがまともに応えたことに、ほっとして、ワリシダラムはレーレローザの隣りに坐った。
そこへ、草をかき分けてインカタビアが戻って来た。インカタビアの顔には、深刻があった。
ルルドピアスのことを心配していたレーレローザは、すぐに訊いた。
「ルルドピアスが、どうかして」
「うん」
「どうしたの、インカ兄」
インカタビアは奇妙な顔をして、レーレローザを見つめた。どことなく何かを咎めるような顔つきだった。
「よくも、あんな状態の姫君を、コスモスへ連れて行こうとしたものだ」
逆光になっている彼の顔には、怖れがあった。
「あの姫は本当に、ちょっと」
「それ以上は、おっしゃらなくて結構よ」
「何の話」
「でもこれだけは云っておくわ」
弄っていた髪から手を放すと、レーレローザは毅然として、彼らに言い渡した。
「ルルドピアスは頭がおかしいのではなくってよ。そのことは、私が一番よく知ってるわ。
 何を聴いたのか知らないけれど、あの子の言葉は、時々、怖ろしいほどに的中したり、
 具現化するのよ。たとえそれを、私たちが、見届けられなくてもね」
「確かに、そんな感じはした」
風も吹いていないのに、ハイロウリーン家の五男は身震いした。
「だから訊くのだ。よくもあの姫を、オーガススィから連れ出す気になれたなと」
「じゃあ、貴方がたも、ルルドピアスを幽閉しておくべきだとおっしゃるの」
怒りにとらわれたレーレローザの眼から、涙が零れ落ちた。
それは彼女の頬の創を掠め、赤く濁って、頬から顎に伝った。
「お父さまやお母さまのように、トスカタイオお祖父さまのように、イクファイファお兄さまのように、
 ルルドピアスは可哀想な姫だから、この世の一切から隔てておくべきだと、そう云うの?
 お祭りも、舞踏会も、この世の愉しみの一切を捨てて、塔に閉じこもって生きろと、そう云うの。
 それこそが可哀想なことだとは、思わないの。それが当然だ、そうするべきだと、そう云うの」
「そんなつもりでは」
「オーガススィには、年頃の姫が三人いるのよ。私と妹のブルーティア、それにルルドピアス。
 そして、貴方がたにも、未婚の王子が三人いるのよ。
 家と家の結婚ならば、どんな組み合わせでも文句は出ないはずよ。私はスイレンお母さまの
 目論見を破ってやりたいのよ。ブルティと決めたの、ルルドピアスをこの話からのけ者にしたまま、
 ハイロウリーンに嫁いだりしないと」
お気づきのように、レーレローザのこの言にしたところで、
先ほどの舌の根も乾かぬうちに、やはり肝心のルルドピアスの意向や望みは完全に
考慮されていないのであるが、レーレローザは、自らの口上の威勢のよさにいつも他ならぬ
自分自身が酔いしれて騙されてしまう口で、それこそがよいことであると、信じて疑っていなかった。
この話から導き出される結末は、せいぜいが、
「なんて友だち想いのレーレローザ様でしょう、なかなか出来ないことですわ、感心なことですわ」
であり、実質ルルドピアスの方にはひとかけらもよい事は流れないのである。
しかしながら、レーレローザはそのからくりに気がつくほど、考え深くもなければ、
自らの考えなしな大騒ぎが相手にどのような悲惨な結果をもたらすかまで見通せるほど、人のために
まことの心を砕いてやれるような人間でもなかった。
レーレローザは自分のこの性格に何の矛盾も見出したことはなく、その語気はますます
強くなるのであった。
「三人対三人で、いっそのことくじびきでもして、縁談をまとめるといいんだわ」
「三人?」
インカタビアとワリシダラムは、何故かそこに反応した。彼らは顔を見合わせた。
ややあって、ワリシダラムは首を振った。
「インカ兄と、僕だけだよ」
「もう一人いるじゃないの。私たちはまさに、いやしくもオーガススィ家との縁談を一蹴してのけた
 その王子さまのご尊顔を拝し奉りに、コスモスへ向かうところだったのよ」
「げえ。それって、もしかしてエクテマス兄のこと?」
ワリシダラムは大仰に愕いて、薬を抱えたまま、後ろにさがってしまった。
「あの人のこと、すっかり忘れてたよ」
「エクテマスか」
インカタビアは顔を曇らせて、すぐ下の弟である六男の名を口にした。
そこには、実の兄弟とはとても思えぬ他人行儀な、遠慮があった。
「見合いだ何だと、こんな俗な話の中に、エクテマスの名が出てくるのは、実に違和感があるな」
「どんな方なの」
好奇心に身を乗り出して、レーレローザは訊ねた。
エクテマス、彼こそは、レーレローザが長年こっそりと尊敬し、敬愛してきた、ルビリア姫の一の従者として
ルビリアと二人一組に、隠れもなきその名を轟かせている、ハイロウリーンの王子である。
タンジェリンの姫に仕えているハイロウリーンの王子のことは、オーガススィでもいろんな噂となっていた。
中には聞くに堪えないような酷い中傷もあるにはあったが、レーレローザにとって、そんなことは
どうでもいいことだった。この師弟への姉のお熱ぶりについて、妹のブルーティアに云わせれば、
「それはレーレローザの少女趣味よ。愛する女騎士に忠実無比に仕える若き騎士。
 この組み合わせは、女騎士の夢みる理想の一つだもの」
ということになるのだが、レーレローザには、それも、どうでもいいことであった。
コスモスを目指したのも、騎士と生まれた者が無条件に敬服する巫女をひと目見たいという
根源的な希求の他にも、そこに駐屯しているルビリア・タンジェリン将軍の名が、彼女をして
惹きつけて止まなかったのである。
少しでもルビリアに関することを収集したい一心で、レーレローザはその従騎士についても
昔から一方ならぬ関心を寄せており、興味津々であった。
しかし、ハイロウリーンの兄弟は、かんばしくない表情で、出来たらこの話題は
避けたがっている様子をみせた。
エクテマスについて訊きたがっているレーレローザの期待に満ちた顔を見つめながら、やがて彼らは
気の毒そうに、ぼそりと呟いた。
「変人、かな」
「求道者という説も」
「変態でもあるよね。彼に捨てられた女の子は、かなり冷たく扱われたみたいだったよ」
「彼は少年の頃からルビリア姫に心酔しきっていたからな」
「そのせいで、もとから女騎士を毛嫌いしている母上など、エクテマスについては勘当同然の扱いだ。
 彼はもう何年も母上とは逢ってないよ」
「何ですって」
レーレローザは眼を丸くした。
インカタビアは言葉を濁した。
「わが弟ながら、彼には怖いところがある」
「怖いですって。ジュシュベンダとその栄誉を分ける、名門中の名門の聖騎士家に生を受けた
 ハイロウリーン家の貴方たちがそんなことを」
レーレローザは笑い出そうとしたが、彼らがまったく冗談を云っていないことが
分ったので、うまくいかなかった。インカタビアとワリシダラムは、まるで身内の犯罪者の話でも
しているかのように陰気で、あろうことか、そこには恐れと怯えすら、うっすらと潜ませて、
とても兄弟のことを語っているとはみえなかった。
これは一体、どういうことなのだろうか。
暮れてゆく野が、二台の馬車と、立ち働いている護衛の影を濃くした。
ワリシダラムは身をかがめ、レーレローザの顔を夕陽の方に向けさすと、その頬の創に薬を塗った。
「仲は悪くないよ。年少組の王子たちとして、僕たちは子供の頃はいつも三人で行動していたから。
 でも今それをしろと云われたら、僕とインカ兄は、彼に下るより他に道はない。生きていたいならね」
「おかしいわ。こう云っては何だけど、彼は、平騎士でしょうに」
「弟に逢ったら分る」
インカタビアも請合った。ワリシダラムはレーレローザの頬の汚れを拭ってやった。
「もし彼の眼が、君たちの上を無関心に通り過ぎず、少しでも留まったら、逃げたほうがいいけどね」
レーレローザは決して怪我の痛みばかりではないものに、頬を引き攣らせた。
ハイロウリーンの王子は二人とも、いまの話を否定しなかった。

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どこの町にも、居酒屋はある。
コスモスにもある。
田舎料理と自家製の酒が売り物で、仕事を終えた領民はそれを目当てに夕方そこに集ってくる。
そしてお伽話の働き者のこびとのように勤勉で実直な彼らは、過ごすことを滅多にせずに、夜が更けて
しまう前にちゃんとそれぞれの家へと帰ってゆく。
そんな居酒屋の一軒で、その夜、元コスモス領主コスモス・クローバは一杯やっていた。
畑仕事を終えて夕陽の照らすあぜ道をぶらぶら帰っているところを、誘われたのである。
彼がそのように大胆に、人前に姿を見せているのには、わけがある。
どこからどう聞き及んだのか、現コスモス領主から、コスモスに潜伏中の彼の許に、
密書が届いたのである。
コスモス領民の敬慕あつき前領主の御身柄について、領内のその行動と生命を全保障するとの
寛大なお達しであった。末尾に、領主は付け加えていた。

『ご都合のよろしき折に、城にお立ち寄りくださいますよう。------タイラン・レイズン』

莫迦にしやがって、とは、彼は思わなかった。
ほんの数行の、簡潔な書面ではあったが、古巣に彼を迎えるにあたり、さらさらと水のような感じのいい
配慮にて、タイラン・レイズンは控えめなその人柄を、そこに語りつくしていた。
まったく同じ文面をもし他の者が真似をして書いたとしても、与える印象はまったく違ったであろう。
クローバは、短いその書面を折りたたんだ。
「お待ち。野菜詰めとりの丸焼き」
「頼んだか?」
「こっちが今年の赤酒です。領主さまに召し上がってもらわなきゃ、誰が食べるんです」
俺はもう領主ではないのだというやりとりは、疲れるので、とっくに放棄していた。
彼をあまりにも担ぎ上げることで、現領主タイランへの迷惑になるのでなければ、ほっとけの心境である。
幸いにして、コスモス領民は、そこまで愚かではなかった。
最初こそレイズン家のタイランに対して反感をたぎらせていたものの、タイランがほとんど
城から出てこず、たまにふらりと領内を視回ることがあっても、自然観察に終始して、おとなしく、
あまりに熱心に、子供か学者のような地道な好奇心で植物を採集しているのを見ては、
「タイラン様、あっちの沢に行けば、もっとたくさん薬草が生えておりますよ」
「籠をお持ちしましょう」
領民の方から率先してタイランの山菜摘みを手伝うほどに、いつの間にか領民と領主の間には、
和やかな友好関係ができあがっていた。
それには何といっても、前代からそのままにコスモス城に据えおかれて、引き続き新領主に仕えていた
城の者たちの、タイランへの好意的な証言がものを云った。
「横暴だなんて、とんでもない」
彼らは首を振った。
「小鳥には忘れずに餌を与えても、ご自分のお食事は忘れている、そんなお優しい方ですよ」
それははたして優しいというのかどうかはともかくも、そういう御仁なのである。
しかもタイランは、その領内視察の際にも、クローバが潜伏している村だけは避けて通った。
性急にクローバとの面談を求めもせず、彼を城に召し出すわけでもなく、行き届いた配慮といえよう。
(タイラン・レイズンか。-----実兄のミケランとは、不仲でなくとも、また一風変わった
 信念を持っている男のようだな)
居酒屋ご自慢の名物料理、野菜詰めとりの丸焼きを噛み切り、クローバは手の甲で口許の脂を拭った。
おやじが勧めるだけあって、旨かった。

(信念か。なるほどな、タイラン・レイズンのような慎重で聡明な男ならば、一見は
 おとなしく愚鈍に見えても変化に対して、はげしい抵抗をみせる頑固者ぞろいの、このコスモスを
 穏やかに収めることができる。
 自分自身の信念をうまくあしらえる者でなければ、他人の信念も尊重することは、叶わぬからな。
 俺の妃の血がまだ城の床にあるうちに、新領主としてレイズン家の実弟を立ててきたミケラン卿の
 厚顔には呆れたものだったが、あの男、最初からコスモスは穏健に取り込むつもりであったのだな。
 しかしながら、手駒としてコスモスに送り込んだ実弟が、ユスキュダルの巫女の引渡しにも開城にも
 応じずに、流入してくる各国騎士団を駐屯させるままに領内に放置し、しかもレイズンの軍勢すら
 同格の扱いに甘んじさせているときては、タイラン・レイズンの行動こそ謎だ。
 卿としては、さあ、ここからどう動く)

居酒屋は混んでいた。
集った男たちは小料理に舌鼓を打ちながらも、その顔を寄せ集めて、時事問題に
余念がなかった。
「ハイロウリーンのご本尊と、ジュシュベンダの本隊が、こちらに進軍中だそうだ」
「一体、連中は何のために、何をしにコスモスに来るんだ。そこがどうしても分らない」
「何度説明したら分るんだ。いいか、まずミケラン・レイズン卿がユスキュダルの巫女さまを
 何かに利用しようとしていた」
「何かって何に」
「そこは分らん。ミケラン・レイズンのような奇怪な人間のことが俺たちに分ってたまるか。
 ともかくだ、その悪だくみの存在を察した我らがクローバ・コスモス様が、巫女さまを
 ミケラン卿からお護りし、此処までお連れなさった。此処コスモスなら、巫女さまを保護するにしても、
 北方三国同盟によりオーガススィとハイロウリーンの助力が期待できるからな。
 それに呼応して、帝国中の聖騎士家はミケラン卿の野望をくじき、彼を牽制するために軍を送って、
 巫女のおわすコスモスをみんなでお護り下さろうというのだ」
違うな、とクローバは胸中で呟いた。
彼はその居酒屋の最上席とかいう、奥まった場所の、二本の柱に囲まれた特等席にいた。
クローバは赤酒を満たした盃を一気に呷った。
(違う。もっと利己的なものが動機だ。騎士家はもう二度と、二十年前のようにミケラン一人に功を奪われ、
 出し抜かれたくないだけなのだ)
(ヴィスタル=ヒスイ党とかいう胡散臭い、レイズン家の若造どもの煽動は、
 それなりによく利いたというわけだな。
 本家からの巻き返しか。根回し好きの卑劣な手段を好む徒党としか思わんが、しばしば高潔は
 それに負けるのだ。人の中にある、異端を攻撃したいという集団心理は、そこに大義名分を
 与えられた時ほど過激になり、陰湿になり、盲目なるものはないのだからな。
 卿のような冷静な男に、同じ手段で対抗することは無理だろう。
 ミケラン卿、俺はお前のことが憎いが、それでも、コスモスの城で逢った時、聖なる巫女を描いた絵を
 見ていたお前の、あの心からの賛嘆と、どこか苦しいほどに何かに憧れていたあの様子には、偽りがなかった。
 その点においては、お前のことが嫌いではない。
 きっとお前も、この現の汚らしいものより、別の永久不変なものに、心を預け、その裁きこそを
 金科玉条としている、そんな種類の人間なのだろうな。おそらくは、誰にも理解されないだろうがな)
居酒屋がしんと静まった。奥にいるクローバは、吟遊詩人でも入って来たのだろうと思った。
皿から顔を上げず、野菜詰めとりの丸焼きを喰っていると、居酒屋に入って来た者は
まっすぐに彼の処にまでやって来て、そこで脚を止めた。左右の柱の間に佇み、人影は動かなかった。
クローバが顔を上げると、そこには、ビナスティがいた。
「------おう」
クローバは、卓上の皿や器をがたがたと手前に寄せ、対面の席を、ビナスティに示した。
「久しぶりだな。どうした、あまりにも寝相が悪くて、ここまで転がって来たのか」
「クローバ様」
「席は空いてるぞ、坐れ。おやじ、この女は、俺がジュシュベンダで世話になった女騎士だ。
 何か適当に見つくろって出してやってくれ」
彼は椅子の背もたれに背をつけた。わざとらしく彼は眼をすがめた。
「額のその怪我はどうした。ひどいぞ。ああ、前からか。そうだったな。何だな、相変わらず美人で何よりだ」
「クローバ様」
「ビナスティ。とりあえず、坐れ。そして喰え。話は後で聴いてやる」
あれは誰だ、という沈黙はやがて、居酒屋を満たす、ざわめきになった。
田舎者の彼らは、それまで、ビナスティのような美しい女を見たことがなかった。
「何だべえ。びっくりした。あんなべっぴん見たことねえ」
「女神さまが入って来たのかと思ったぜ」
「ジュシュベンダの騎士だってよ。じゃああれだ、いらくさ隊」
「何、話してんだべ。二人とも帝国共通語つかってるんで、おらにはよく分らねえや」
「おやじの至りでクローバ様、何かあっちで悪いことでもしたんじゃないのか。ただ事じゃない雰囲気だぜ」
クローバが睨むと、男たちはわざとらしく視線をそらしたが、すぐにまた、奥へと眼を向けた。
「おやじ、すまんな。ついでに俺にももう一杯くれるか」
「クローバ様」
「ビナスティ、これはな、野菜詰めとりの丸焼きだ。見てみろ中に野菜が入ってる。
 喰ったら分る、喰わなくても見てのとおりだが」
「クローバ様」
立ち尽くしているビナスティの眸から、はらはらと涙が落ちた。
クローバもごくりと喉を鳴らしたが、居酒屋の男たちは、もっと慌てた。泣いた。女が泣いてるぞ。
「クローバ様。お逢いしたかった」
「もう逢ってる。な、落ち着け」
「好きです。好きです、クローバ様」
どよどよっと居酒屋が揺れた。クローバ・コスモスは「そうか」と、呟いた。
久しぶりに逢うビナスティは、以前と変わらず輝くような美女であり、そしてその顔には、クローバに
再会できたことへの、喜びだけがあった。それは美しい涙となって、女の頬を伝い落ちた。
「好きです。……好きです。クローバ様。お逢いしたかった」
「お前は莫迦な奴だ。此処まで来るなんて」
クローバは吼えるように酒盃を叩きつけておくと、ビナスティの腕を取った。
「莫迦な奴だ。莫迦な女だ。イルタルはきっとお前をいらくさ隊から除籍してしまうだろう」
女はまつげをふるわせた。クローバはビナスティを揺さぶった。
「花形部隊の地位と栄誉を捨てて、放浪の騎士についたって、この先、何もいいことはないぞ。
 コスモスはジュシュベンダのような都会じゃない。見ただろう、何もない。ど田舎だ。
 若い娘が喜ぶようなものは何もない、華やかなものなど、何一つない」
「いらくさ隊からは、もう除籍されておりますの」
ビナスティは泣きながら微笑み、両手で涙を拭うと、クローバに笑顔を見せた。 
私、農家の生まれですの。田舎暮らしは性に合ってますわ。コスモスに来ることができて、本当に嬉しいのです。
「クローバ様にお逢いできて、嬉しいのです。これ以上の喜びは、ビナにはありません。クローバ様」
それからビナスティは、身をかがめ、居酒屋の床に片膝をついた。
彼女は獄塔脱出の際にパトロベリ・テラから譲られた剣を持っていた。
ビナスティは剣を掲げ、それをクローバに厳かに差し出した。
女騎士はクローバ・コスモスを仰いだ。ビナスティはしっかりとした声で告げた。
その額には、深い創があった。
「無位無官の騎士、ビナスティ・コートクレールと申します。どうか、わたくしを御身の従騎士に。
 君が命はわが命、身命賭してお仕えし、御身をお護りいたします。クローバ・コスモス様」
クローバは、ビナスティの剣の誓いを受けた。そして周囲を見廻し、深いため息をついた。
居酒屋中の人間が彼らを見ていた。彼は咳払いをした。クローバはビナスティの額の創に、その手を伸ばした。
女はびくりと身を固くした。男は無言で、女の額に一筋はいった深い創を指先でなぞった。
男の手の下で、ビナスティは唇をふるわせた。その眸には、女の希いと、彼への信頼しかなかった。
「俺は。この創を、忘れたことはない」
クローバはビナスティを立たせると、その頭を抱え込み、髪をくしゃくしゃにした。
「あの、クローバ様。わたくし髪も顔も、旅汚れがそのままで」
「料理がさめちまう。ここのおやじに失礼だろうが。喰え」
「とりを詰めた野菜の丸焼き」
「野菜詰めのとりの丸焼きだ。見てみろ。野菜の中にとりが、違う、とりの中に野菜がだな」
コスモスの人々は、その晩のビナスティのような美しい女を、それまで見たこともなかった。



「続く]


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