[ビスカリアの星]■六八.
『リリティス。借りた本、部屋に届けておいた。感想?-----どれも同じような話だ』
『姉さん、だから云ったじゃないか。兄さんに浪漫小説や恋愛小説は分らないって。
もっとも僕だってリリティス姉さんの本棚には似たような本しかないと思ってるけど』
『薔薇か菫か、どちらかだ』
『兄さんいいね、そのたとえ』
『リリティス。どうしたのですか。まあまあどうしたの。どちらが泣かしたの』
『ユスタスが』
『兄さんが』
『どれ。リリティス、お前の好きなその本を持っておいで。父さまが読んでみよう』
『いけません。お母さまに持っていらっしゃい。リリティス、シュディリスやユスタスが
悪いのではありませんよ。女の子が好むお話はね、殿方にはまるで
お分かりではないと、昔から決まっているのです』
もしもその部屋に、長年仕える彼の従僕や、あるいは弟タイランがいたら、愕いたはずである。
口許をほころばせてリリティスの話を聴いていたミケランは、やがて朗らかに、声を上げて笑い出した。
低く響くよい声の、快活な、若々しい笑いだった。
「いや、失敬」
額に指先をあてて、ミケランは喉をふるわせた。
リリティスはミケランが声を上げて楽しげに笑うということが、近年絶えてない、
珍しいことだとは知らなかった。
椅子の背もたれに身をあずけると、ミケランは愉快を隠さずに微笑んだ。
「あまりにもご一家が仲睦まじく、そして、かわいらしいお話なのでね」
「もう、話さないようにします」
「真面目な顔をして、おかしなことを云うからだ」
「ミケラン様が、私の家の話を聞きたいと。父カシニのことや、家族のことを」
「そう。フラワン家の方々の話は、とても興味深く毎度拝聴しているよ。だから大いに続けてくれて
構わない。と云いたいところなのだが、あいにくと今夜も、まだ仕事がある」
笑いをおさめたミケランは呼び鈴を鳴らし、召使に夜食をさげさせた。
対面の長椅子に腰をかけたリリティスは、両膝に手をおいたまま、動かなかった。
一人で食事をとるのは味気ないといって、ミケランがリリティスの同席を求める。
それはこの屋敷に彼らが入って以来、毎晩のことなのだった。
「付き合ってくれてありがとう。さて、借り上げているこの屋敷には、
若い娘さんがお好きそうな薔薇と菫はないけれど、屋敷の主の悪趣味を反映して少々の
通俗小説はそこの本棚にあるようだ。眠くなるまで、ここで読むのなら、そうしてもいいよ」
「何か、お手伝いすることはありませんか」
「暖炉に近付くのは怖いかね」
「いいえ」
「それでは、その函の中の不要書類を燃やしてくれるといい。火傷しないように、気をつけること」
それでも、ミケランはまずは自分で暖炉に紙をくべて手本をみせた。
紙を挟むものをリリティスに渡す時、手が触れたが、ミケランはすぐに立ち上がった。
小さな田舎屋敷は、全体的に時代がかっていた。
ミケランは母屋を占拠し、ここに住んでいた老夫婦は別棟に移らせたが、それにあたっては
大金で彼らに報い、不自由がないように最大限の便宜をはかってやっていた。
コスモスの地にほど近い、このどっしりとした古屋敷にリリティスを連れて滞在するにあたり、
「天幕というものがあまり好きではなくてね。幕やよりは、屋根があるほうが、やはり落ち着く」
ミケランはそう云っていたが、三日も経てば古ぼけていた屋敷中の、敷物や、傷んでいた箇所は
すべて一新されて、方々が磨き上げられ、庭の木々にも剪定がはいり、以前と比べれば
見違えるほどになっていた。
とはいっても、古いままに残されたところも多かった。
それについては、
「ミケラン様のご指示で、持ち主の老夫婦が変えないで欲しいと望んだところは全てそのままに
しておくようにと仰せつかっております」
とのことであった。
夜の時間のほとんどを、リリティスは、ミケランの使っている一階のこの書斎で過ごした。
ミケランは居る時も、居ない時もあった。
或る夜、ミケランの帰りを待つうちに、リリティスは長椅子で眠ってしまった。
真夜中に目が覚めると、身体の上には毛布が掛けられており、ミケランは書斎机に向かっていた。
そんな日が何回かあった。どの時も、ミケランは深夜まで起きていた。
眠らないのですかと訊くと、
「休むのは空が白み始めてから。昔から、睡眠はあまりとらない。これが習慣なので」
背中を向けたまま、ミケランは応えた。
ミケランは、リリティスが書斎からなかなか引き取らなくとも、気にしなかった。
長椅子で眼を閉じていると、いつそれに気がつくのか、必ず、毛布を渡してくれる。
「未来の皇太子妃となるお方が、夜に男と二人きりというのは褒められたことではないのだが」
ミケランは、暖炉に薪を足した。
「知らない土地で、心細い思いをさせているのには違いないのだから」
「お邪魔では」
「いや。おとなしいものだ。アリアケに子供がいたら、君くらいの歳だったろう。娘のように思うよ」
(むすめ)
毛布の中で身をかたくしたまま、リリティスはミケランを眼で追った。
寛衣で家の中にいるミケランは、物静かな学者か役人のように見えた。
「ミケラン様。私」
「そういうところが女だね。おとなしいと云われたら、すぐに話し出すのだから。気を引きたいのかな」
その時も、それきりになり、取り合ってはもらえなかった。
リリティスは敷布に坐り、函の中の反古を一通ずつ、先の長い挟みの間にとおして、暖炉の火にくべた。
金と朱の熱の踊りの中に筒状の紙片はすぐに呑みこまれ、黒くよじれて赤い塵になり消えていった。
たくさんの小さな火が、熱をもち、そこで何かを待って揺れていた。
粉々になってゆく書類は、熱の波間に大きくよじれ、めくれ上がり、その文面をリリティスの方に
見せることもあった。
火文字のように浮かび上がっているそれらの内容を、リリティスは見ないようにした。
全てに眼を通し、内容を読んでから火にくべても、ミケランは怒るまい。
そうであればあるほど、それはしてはならないことに、そう想われた。
しかし、その二通を見た時だけは、リリティスの手がとまった。
封蝋と、便箋に入った透かし文様。それは、レイズン家のものであった。
気をつけて開いて、文末の署名だけをリリティスは確認した。
一通は、ミケランの老母からのものだった。リリティスはそれを燃やさずに函の脇にどけた。
そしてもう一通をほどいて開封した。
差出人の名を火に透かし、リリティスは胸のうちでその名を読み上げた。
専門家ほどではなくとも、字の巧拙や癖から、ある程度はそれを書いた人物が知れる。
力強い筆跡の署名であり、自信家の、若い男の書く字だった。
(-----ジレオン・ヴィル・レイズン)
ゆっくり燃やしても、すぐに函の底が見えてきた。
リリティスは後ろを振り返り、ミケランをうかがった。
壁に面した書斎机で、ミケランは鉄筆を走らせており、紙面に文字を綴るその音だけが、小気味よく
静かに続いていた。
睡眠はあまりとらなくても平気だとの言葉どおり、ミケランは明け方近くになってから、ようやく少しの間
休むだけであった。子供の頃からそうだという。
学生の頃も、そのせいで学問所に飛び級入学出来たのだろうと、からかわれるほどであったそうだ。
(いろんなことが頭に浮かんで、それはひじょうに活き活きとしている。
夢想ではなくて、必ず現実に変えられる、実現可能な明確なものなのだ。
それにいたるまでに雑多で瑣末な面倒ごとを包括していることは当然としても、それが
予期できるほど、過程としてはかえって単純な、素晴らしい一本の道で、その行程が
鮮やかに見えてくる。そのことを考えていると、実に楽しくて、とても眠りで中断する気にはなれないね)
ミケランは今もその「楽しいこと」をやっているのか、さらさらと鉄筆を走らせて、
都から転送されてきた書類を片端から片付けているようだった。
同じ屋根の下に同居して、近くにいると、また、この男のいろんな面がみえた。
ミケランはよい聞き手であり、食事を共にしている時にはきまって、リリティスに家族の話をさせた。
「カシニ殿はどのような方なのか」
まずはここから始まり、興味深そうに、心から愉しそうに、フラワン家の様子、その荘園に咲く花、
祭りや四季のうつろい、子供の頃のことや、きょうだいの話をリリティスにさせた。
最初は警戒していたリリティスも、ミケランの感じのいい相槌や続きの促しに勇を得て、
あるところから開き直り、何でも話すようになった。
兄シュディリスのことも。
ミケランは、シュディリスの出自には触れることなく、巧みに核心を避けて、
仲の良いフラワン家のきょうだいの話をリリティスに語らせ、それを大いに
愉しんでいるようであった。
蝋燭の灯りのせいだろうか、眼前の男と、ずっとこうして暮らしてきたような、そんな錯覚すら
リリティスは覚えた。それとも半分軟禁されて、長い時間独りきりでいるせいか、誰かと話せるならば、
そして誰かに優しくしてもらえるならば、誰でもよい、そんな心境なのだろうか。
この親しみのような、懐かしいような、この男への感情は、一時のまやかしだろうか。
リリティスはそれを否定したくもあり、そしてどこかで、己の心のよわさや情を、肯定したくもあった。
「たまには、ミケラン様のお話を聞きたいと思います」
こちらに来てから、リリティスは夜には長い髪を結い上げることにしていた。
ほっそりとした白い首筋を、向かいに坐る男が晩餐のあいだ愛でていることを、リリティスは知っていた。
「ご領地の話や、ミケラン様の子供の頃のことを」
「貴女のようにお若い方が、昔話に関心を持つとは思えないけれど」
ミケランは早速取り寄せた土地の地酒を賞味しながら、盃の縁を指先でなぞった。
彼はいつも穏やかに機嫌がよくて、リリティスを話し相手とした夜の私的な時間に休息と、
安らぎを見出しているようであった。
「それでも貴女ばかり一方的というのは確かに不公平かな。よろしい」
ミケランは二、三の他愛のない昔話を披露した。
それは簡潔にして無駄がなく、さりとていつまでも記憶に残るような印象深い、
静かな口調で綴られた小話で、しかもその話題をリリティスの方へとさり気なく繋げて、自分の話は
短くおさめ、毎晩途中までにしてしまうのが常だった。
「分家の領地には釣りができる川があった。弟のタイランが、釣りに使う浮きと毛鉤づくりが巧くてね。
浮標と毛鉤は分るかな」
「はい」
「今もまだ、彼からもらった幾つかは保管しているよ」
ミケランには、タイランという実弟がいて、同じく分家出の彼は、現コスモス領主となっている。
「子供の頃、母がタイランを不憫がれば不憫がるほど、その分だけ、わたしは脚の悪い弟に出来ることを
必ず見つけてやったものだ。誰かのことについて、不憫だの病気だの、そんな話を吹聴して回ることで
相手を本当に痛々しく不憫に、平均以下の劣れる者として人々に最初に印象づけさせてしまう。
そんな人間の言葉を聞く必要がどこにある」
それを訊ねるミケラン・レイズンは、自問自答しているようでもあった。
リリティスは首をふった。
森に囲まれた田舎屋敷の夜は静かだった。
少しずつこの人の内面を知り、身近に感じるのが、怖いような嬉しいような、そしてやはり
もっと知りたくて、リリティスはミケランの声に耳を澄まし、続きを待った。
「噂をわざわざ流して回る人間は、親切そうな顔をしながらも、必ず巧妙に相手のことを
自分より低く語り、その者を下等におくべく、その者の失敗や不幸を煽り、
それを願っているものなのだよ。相手がそうなってくれなければ、他人の関係に口を挟みにきた
自分が間違えていた、嘘をついていたということになるのだからね」
「母は、弟のタイランを犠牲にすることで、理解ある、思い遣り深い人間という
高評価を世間から得ていた。自分の美談のためにひと一人の努力も名誉も、人生さえも
平気で踏み潰す。そんな女だった。
タイランは母に利用されていた。母は吹聴して回るのだ、
「ご覧のようにタイランは健全者に比べて劣っているのです」「タイランは何も分っていないのです」とね。
タイランはそうなるべきだ、というのだよ。それは彼自身の人生の、完全否定にも等しかった。
その話には、「タイランよりも物のよく分っているらしき母」の愚かな像だけがあって、タイランがいないのだ。
干渉するだけあって、当然、タイランは常人よりも愚かで劣っていなくてはならぬ、というのだよ。
母の値打ちばかりが上がる話の中で、タイランは完全に抹殺されていた」
「何ひとつとして相手の為になることはしないのに、ただ人のことを
得々と大声で語り続けるだけで、人の上に立ち、優越感を得る人間がこの世にはいるのだね。
弟ほど地道な努力を尽くせる辛抱強い人間はいなかった。
母が世間に流した、母のための、母が称えられることを目的としたぶ厚い偏見がいかに彼を取り囲み、
彼を劣った者として決めつけていようとも、わたしは彼自身の努力と健闘を知っている。
いかにも心配しているふりをしながら、相手の一面を汚い声で暴き立てることだけに熱心で、肝心の、
彼の毎日が楽しく、明るいものになるように、その笑顔を守ることは何もしない。
相手はいつまでも、不幸で、低いところにいてもらわなくては、自分の美談を世間に
売り込めなくなるではないか、というわけだよ」
「そのような人間の言動をよく見ていたらいい。
親切な顔をしながらも、必ず、その者にとって負の印象となることを、世間に向かって語り続けているから。
他人について難癖さえ探していれば、いつでも自分だけは傷つくことなく、得意の気分でいられるのだ。
母のそんな放言は、彼女の目論見どおり、何十倍にもなってタイランの負担になっていた。
タイランが誠実に築き上げようとした人間関係を、母の声が割り込んで一瞬で台無しにしてしまう。
それらは明白な結果となって、タイランにひどい苦しみを与えたものだったよ」
「誰もが云うのだ。「なるほど、タイラン様はご母堂の仰るとおり、不幸になるべき者であり、
一度たりとも努力をしたことがない。何ひとつ分っていない。本当にそのとおりだ」と。
それほどに偏見というのものは怖ろしいものなのだよ。
もう二度と、誰一人としてその者を、あるがままには見てはやらなくなるのだからね。しかもそれが、
彼の「運命」だと云うのだよ。そのように手引きをした者は自分では何ひとつ責任をとらず、
おのれの都合に応じて、人のことを低く周囲に語るだけで、易々と相手を潰して落とし、自分の値打ちを
上げることが出来る。後に残るのは、その者の流した噂によって穢された、一人の人間なのだ。
リリティス、魚が嫌いでなければ、もう少しそれをお食べ。温かいうちにね。
フラワン家の皆さんも釣りを嗜まれていたと思うが、あの辺りでは何が釣れるのかな」
リリティスは、最後の紙片を暖炉の火にくべた。
函の中には、先ほどのレイズンの係累からの手紙が二通残されていた。
いつ見ても机まわりが整然としているミケランが間違ってこの函に仕分けしたとも思えないから、これらの
手紙はミケランにとって、不要とされたということだろう。
それとも、他者に読まれては困る、焼却処分を必要とする手紙なのだろうか。
「燃やしていいよ」
どうしてそれが分るのか、ミケランは一度もこちらを見ずに、リリティスが手許に残した
二通の処理を促した。
「もう読んだ。母からは領地の税率の詳細をもう一度詳しく教えて欲しいと。
不審なところは何もないのだが、彼女も、もう朦朧してるから。遣いを家にやって説明させることにしたよ。
本家のジレオンからは、ロゼッタ・デル・イオウ嬢を本家で預かっていると。
医師のスウール・ヨホウがそちらにいるそうだ。ロゼッタ嬢の快復は、順調のようだよ」
律儀にそれをこちらに教えてくれるのだから、彼も細かい男だ。
ミケランは低く笑って付け加えた。
「彼は彼なりに、どうやら公正を心がけていることを、そうやって伝えてきたようだね」
「ロゼッタさんのお怪我が、大事なくて何よりでした」
「あの時は偶然にあそこで彼女に逢えてよかったね。医療技術において、スウールほどの
名医はいない。君よりもサザンカの彼女のほうが一つ二つ年上なのかな。
失礼ながら、とてもそうは見えなかったけれど」
雑談の間も、机に向かっているミケランの鉄筆はよどみなく動き続け、次々と、
何かの書類が書函に分類されていた。
「陳情書であれ、改善要望であれ、手紙を開いた途端に最良の答えが見えることに対して、
何故ひとが面倒を覚えるのか、そちらのほうが分らんね」
ある日、彼はそう云ったものだった。
「体制に飼われることに慣れた人間ほど、長々と無駄な会議や、根回しなどをして、
正確で有意義な、まことに人の為にしてやれることよりも、おのれの体面から先に整えようとする。
派閥意識やその保持や、保身を第一に考えて、肝心の人の言葉や、その訴えには
嗤うばかりで、もう耳を傾けようとはしない。それこそは、他でもない己の人間性や、能力を低く見積もる
冒涜であり、時間の無駄だと思うがね。こういうことはいっそ私情をまじえずに、しかし礼は尽くして、
真っ直ぐに善きことを施してやるほうが、誰の為にもなるというのに」
その時々においての最短最善を尽くしてきた男は、続けて、
「どうあっても人間は、そこに我執を差し挟まずにはいられないらしい。
そんなことをして得た一時の優越も満足も、特定の派閥の中でしか通用しないもので、かえって
その中で驕るその者たちの自己満足のほどが滑稽に見えもするのだが、責任ある立場にいる限り、
それは許されぬことだという基本原則すら、理解せぬ者が多くてね。
謙虚に、善い事をすればいいだけの話なのだが」
「何を理想とするかの違いといってもいい。たとえ時として、非情な決断を下すことになったとしてもね」
そしてミケランは、リリティスの顔を見て、意外そうに首をかしげた。
------アリアケや、エステラと、同じ反応を返すのだね。彼女たちも、君と同じように、微笑んでいた。
リリティスは何も応えなかった。
その代わり、夜の時間はできるだけ、ミケランの傍にいるようにした。
(おかしなこと。あまりにも真っ直ぐな理想に生きる男の人は、どうしてか、
女には、子供のままの人のように見えてしまう)
(心配になってしまう。私はもっと、この人のことを思い遣るべきだった。
アリアケ様を亡くされて、まだ間もないのですもの。お淋しいに決まってる)
暖炉の焔はたちまち、ミケランの母とジレオンの手紙を、もう二度と取り戻せない赤色の向こうに
包み込んで、消してしまった。リリティスはまるでその二通が、ミケランの仇であるかのように、
それが無くなるのを完全に見届けた。
(リリティス。ごめん)
子供時代は、いつも荘園の緑や、暖炉の灯りに縁取られて想い出された。
兄は、階段のところで、リリティスを待っていた。
『薔薇か菫かのどちらか』と揶揄された大切な本を抱えて、リリティスは首を振った。
リリティスの髪を兄は後ろから掴んで引っ張った。
(リリティス。ごめん。きっとまだ怒ってるね)
暖炉の前で膝を抱え、リリティスは焔を見つめた。
あれは本当に素敵な、大切な物語だったわ。だから、シュディリス兄さんにも読んでもらいたかった。
でも、お母さまの云うように、兄さんやユスタスにはまったく分ってもらえないのですもの。
もう少し大きくなってから、どうやらシュディリス兄さんは人並以上に恋愛小説が苦手らしいと
気がついたけれど、あの時は、とても傷ついたわ。
男も女も類型的で、出会いから結末までも揃って悲劇的で、どこに面白みを見出したらいいのか
まったく分らないだなんて、兄さん、あんまりよ。そこがいいんじゃないの。
(シュディリス兄さん)
書斎には、薪のはぜる音と、書き物をしているミケランの鉄筆が紙面に流れる音だけがしていた。
きっと、ミケランの整理された頭の中では、現在のリリティスは「未来の皇太子妃」として、納まるべき
ところに納められ、今までのことなどなかったかのように、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。
フラワン家のことをリリティスから聞き出すミケランは、フラワン家の人々に好意を寄せているような
様子までみせて、特に、父カシニと兄シュディリスについては、リリティスが語るに任せながらも、
実に興味深そうに聞き入り、時折は微笑んで、彼の方から彼らのことについて触れることすらあった。
「お若い頃、カシニ殿は、あまり目立たない方だったよ。
何しろ当時の宮廷には華やかなことこれ以上はないというお方がいたのでね。
廉直にして篤実とは、なかなか出来ることではない。
カシニ殿がご領地において、ご立派にトレスピアノを治めておられることは存じ上げてはいたものの、
実のある者ほどそれをそうとは外部にひけらかさずにいらっしゃるの、その例えどおりの
お方だったというわけだね」
「君の兄上は、もし君が語るとおりの人物だとしたら、少年の頃から随分と妹に甘く、いもうと想いなのだね。
何しろご本人にはまったく興味のない少女小説に、まがりなりにも全て眼を通してやっていたのだからね」
そんなふうに、きわどい話題に、触れるか触れないかのこともあった。
(どうして訊かないのです。兄さんのことを。
兄さんが、カルタラグンの皇子であることを、貴方はもう知っているはずなのに)
それは、あまりにもさりげなく、ミケランの方からリリティスに教えられたのだ。
『ジュピタの都に、リィスリ様の昔の侍女が長年暮らしておられてね。
先日、オーガススィ出のその者がちょっとした逸話を教えてくれたのだよ。
トレスピアノ領フラワン家のご長子は、リィスリ様のお子ではないとね。』
『余計な詮索をしたと咎めないでくれたまえ。何しろ帝国の治安維持を担う身なのでね。もっとも
その者の証言を今のところ外部に洩らして詮議にかけ、騒ぎにする気はない。
皇太子妃となる御方の兄にあたる方なのだし、大昔の話だ。』
『二十年前のね。』
(どうしてそのことを、もっと私に深く訊かないのです。彼の妹である、私に)
「君は、訊かないのだね」
田舎屋敷の朝は美しかった。
書斎でそのまま寝入ってしまった夜もあった。
朝目覚めると、毛布に温かく包まれて長椅子にそのままだった。
「よくお眠りだったので起すのも躊躇われてね。
これからは適当なところで自室にさがってくれるとたすかる」
ミケランはもう起きていて、朝食の前に散歩に付き合うようにと、リリティスを外に誘った。
「気にしていないふりをしているようだが、心を装うことが、まったく出来ない子だね」
庭池には魚が泳いでいた。池の水面には、ミケランとリリティスの姿が映っていた。
リリティスはその影を見た。
あちらからこちらを見ているとしたら、あなた達は、私たちをどう想うでしょう。
「心配しているくせに」
おかしそうにミケランは笑っていた。
朝の木漏れ日が、薄青くリリティスの脳裡を満たした。
何のことだろう。
心当たりがありすぎて、そのどれもが疚しくて、どれをとってみても、私から答えることなど
出来るはずもない。
私が訊ねたいことは、誰よりも、貴方がお分かりのはず。
リリティスは眼をそらした。
夜の涼しさをはらう暖炉の明かりは、リリティスを照らした。
焔は赤にも、金色にも、じっと見つめていると、眩しいばかりの塊になり、白や銀にも見えた。
闇の中の光と熱は、深い眠りを誘うようにして燃えていた。
ミケランは仕事を続けており、リリティスがそこにいる限り、背を向けてそうしているのだと思われた。
リリティスは膝をすすめて、少し暖炉に近付いた。火の熱が、頬を叩くように感じられた。
暖炉の前には低い柵があり、そこには火かき棒が立てかけられていた。
鉄の棒の先は火の中にあった。熱せられて、かなり熱いようだった。リリティスはそれに手を伸ばした。
まだ眠りたくない。
「リリティス」
男が椅子から立ち上がる音がした。
リリティスの袖口は手紙を焼く時に肘にまで下げられており、肌が見えていた。
片手に握った火かき棒の細長い影はそのままだった。リリティスは焔を見ていた。
ミケランは坐りこんでいるリリティスから火かき棒を取り上げて遠ざけ、その両手をとり、
いそいで腕を確かめた。
火傷はなかった。ミケランはリリティスの手首をとった。
リリティスは顔を上げた。ミケランは火影に縁取られたその頬を両手でつつんだ。
「何をしようとしていたか、わたしに云えるかな?」
「ミケラン様を、怒らせようと」
「気を引こうとしたの間違いだ。小さな子供が、親にそうするように」
「どちらでも同じです」
「怪我がなくてよかった」
ミケランはリリティスの肩を抱き寄せた。そしてミケランは暖炉に眼を向け、
少し何かを考えるふりをした。手で掴めそうな太陽が、そこで燃えていた。
「リリティス」
「はい」
「小さな傷が原因で死ぬこともある。死ぬのは怖いかね」
怖くないと云えば嘘になる。けれど、そうなってもいいと思う時はある。
独りになりたくない、誰かを独りにはしたくない、こんな夜には。
ミケランはリリティスを抱き寄せた。
「本当は怖いはずなのに、優しい子だ。君は本当に、騎士には向いてない」
どんなに辛いだろう。毎日見ている、太陽も月も、星の世界も、ついに、この人のものにはならないのだ。
ミケランはリリティスを暖炉から遠ざけた。男の影で暖炉が隠れた。
天井に映る薄い赤が揺れた。ミケランはリリティスの細い首に指を這わせ、首筋を一度だけ愛撫し、
その両手をリリティスの白い首にかけた。
「ここでは寒い?」
「いいえ」
男の影が覆いかぶさってきた。
首にこめられてくる強い力よりも、リリティスはミケランの動かない眼のほうが怖く、哀しかった。
たくさんの札がある中で、最も危険で、最も禁忌の一枚を引いてみる。それがこの人ならば、
何ひとつ罪もない。
貴方のみているその夢は、私にも、誰にも、永遠に分らないのですね。
ゆっくりと喉に重さが加わってきた。
やはり怖かった。リリティスは苦しく唇をひらいた。
「ミケラン様……ミケラン様」
「薔薇と菫の物語には、こんな場面はなかったかな」
首を締めてくる男の指は、鉄のようだった。
落ち着いた声が、耳朶を掠めた。
「そんなはずはない。おそらくそれは悲劇的で、男が愚かで女が聖女のように、やさしい。
そんなお話だったはずだ」
ミケランはリリティスを床に倒した。
そして真上からリリティスの首に一定の力を加えたまま、その腕を動かさなかった。
リリティスは眉を寄せ、息を求めて喘いだ。焔の影が眼の前に交錯し、次第にそれは赤黒く変わった。
前にもこんなことがあった。あれは湖の別荘だった。
リリティスは男を仰いだ。喘ぎながら、首を絞めているその男を見つめた。涙がこぼれた。
「ミケラン様……」
「女の子たちがお好きな、他愛のない夢物語。君の兄上と同様にわたしも好まないが、
それでも一抹の懐かしさはある。それは真夜中の音楽のように。遠くて、手が届かない。
月光に照らされた雲間の彩り。夢のまた夢」
男の手の力が強くなった。
「そこに行きたいと夢みた者こそ、確かに、不幸だね。絶望は麻薬のように心を酔わせる。
そう、それは至福にも等しいのだから」
リリティスの目じりから涙が溢れてこぼれた。
苦しいのか、哀しいのか、自分でも、もう分らなかった。
ミケラン様。貴方がその夢のために孤独でいるほかないのなら、私も、そうだと、そう云える。
夢が叶うことなくこの星の世界に広がってゆくだけならば、いつかは、そこにいたらぬ自分を憎み、
苛立ちと失望で、やがては諦めることを覚えるでしょう。
それとも私たちは、私たちの内に、それを視るだろうか。
誰もが踏むを懼れるものを、あえて踏んでみせたなら。堕ちるところにまで、堕ちたなら。
ようやくこの命の尊さを一片の曇りもないものに変え、生きていることを惜しいと思い、
虚実の世界に解き放てるだろうか。
たとえそうしたとしても、狂気すら、誰もがこの有限の人間の器からは逃れられないことを知っていても、
その虚しさに向き合うだけの刹那の刺戟を求めて、貴方はそうするだろうか。
息が出来なかった。
リリティスは身もがいた。首枷をどかそうと、男の手を叩き、引っかき、爪を立てた。
ドレスの裾がまくれあがるのにも構わず踵で床を打ちつけ、抗った。ミケランの腕はびくともしなかった。
完全には絞めることはなく、しかし、ぜいぜいと女を泣かせるほどに、男はリリティスの首をきつく絞めていた。
リリティスは喘いだ。
(どうしてそんなに、優しそうに、笑っていらっしゃるの)
見上げる問いかけは声にならなかった。
男はそんなリリティスの胸の上に片膝をのせてきた。リリティスは呻いた。
ミケランは身をかがめ、リリティスに口づけ、愛しく囁いた。
「降参かな」
リリティスは眼をほそめ、首を振った。かすかな息しか通らない喉が焼け付くように痛かった。
だんだんと暴れる力も疲れて及ばなくなってきた。
絞られている血がどくどくと脈打って、頭に響いた。
翡翠皇子に続き、タンジェリンに続き、フラワン家の女まで、その手で殺めてみせようというのですか。
貴方が夢の中に描いた創造に向かうためには、人が懼れることにも踏み出し、貴方がその手で
やらなければなりませんか。
それなら私を殺せばいい。
どうして、笑っていらっしゃるの。そんなに優しそうに、そんなにも、苦しくて心と身体が
ばらばらに動いている女が面白いのですか。それなら、貴方がその手で一緒にして下さればいい。
私はもう、抗ったりはしないのに。
(それすらも、貴方は拒絶なさるのですね)
リリティスは掠れた声を放った。
「ミケ、ラン、様……」
「遊びはここまで」
絞められていた首が不意に解放された。
リリティスは床に身を折り、喉をおさえ、咳き込んだ。
髪が引き戻されて口づけが与えられた。苦しい息の中で、気が遠くなりそうだった。
ミケランはリリティスを床から抱え起すと、抱き上げて長椅子に連れて行った。
「こちらは、君の、倍以上の年を生きているのだよ」
咽び泣いて喘いでいるリリティスを横において、ミケランは椅子の背に片腕をかけた。
「エステラはあまりこういうことを好まず本気で怒るのだが、こうやって手懐けた女も過去にいた。
変態じみた悪癖かも知れないが、少々のお愉しみ。女の顔が、あまりにもいいのでね。
生殺与奪を握ってるなんてものじゃない。じゅうぶんに、賛嘆の念をもって愛でているよ。
遠い昔か、はるかな未来か、そこから君を眺めているような、そんな心地がしてくるのだ。
女が苦しむ様を見ながら、高みの見物を決め込んでいるというわけ。ひどい男かな」
無理に喋ろうとしても、掠れた音になった。リリティスは首を振った。
憎いのでも怖いのでもなく、ただ、淋しかった。
「君がソラムダリヤ皇太子の妃となったら、もう、こんなことも出来ないし」
簪が抜けてほどけ落ちてしまったリリティスの髪を整えてやり、ミケランはリリティスの首が
赤くなっているのを確かめた。
その頬に手を添えて、ミケランは微笑んだ。
「そんなに長い時間絞めていたわけでも、特に力をこめたわけでもないのだが。申し訳なかったね」
虚ろにリリティスはミケランを見つめた。
ミケランはリリティスの眼から零れた涙を指ですくった。彼は苦笑した。
「呆れたのではないかな。冗談ではない、男は本当に愚かで子供だと。
薔薇や菫どころの話ではないと。そのとおりだよ」
リリティスの胸の裡と同じように、暖炉の色は揺らぎ続け、それに照らされている男の顔を懐かしいものにした。
引き寄せられるままに、リリティスは男の胸に顔をつけた。
リリティスの頭を抱いて、ミケランは暖炉の焔を見つめた。
わたしがもし君の大切な兄さんを殺したら、君はきっと、もうわたしの傍で、そんな風にやさしくはないだろう。
だから思うのだよ。
「君は、何処から、何のために、わたしの前に現れたのだろうと」
昔日の宮廷で僅かばかりお見かけしたことのあるオーガススィの美しき方と、フラワン家のご当主殿の間に
生まれた君は、何のためにこの世に生まれて、こうして、わたしの前にいるのだろうね。
赤と金の焔を見つめながら、ミケランはリリティスの背を撫ぜた。
「子供の頃に読んでいた物語どおり、お妃さまになれるのに、何が哀しくて泣くのだね。
ソラムダリヤ殿下がご幼少のみぎりには、わたしが殿下の教育係だったのだよ。
もっともご本人の自主性を尊重することの他には、何もやらなかったけれどね。君もあの方に直接
逢って、フェララまでおしのび行をやってのけたのだから同意してくれることと思うが、
ソラムダリヤ・ステル・ジュピタ殿下は浮ついたところのない利発なお方で、人に対して
悪意など持たない、心がけのよい皇子だよ。
君の倖せを祈るよ、リリティス。君の力はきっと、君が誰かのために何かしてやろうと思う時にこそ、
もっとも強く輝くのだね。だからこそ、わたしを惹きつけて止まない」
否定しなければ。リリティスは怖ろしい想いでミケランの言葉を聴いた。
皇太子妃になるなんて、とんでもない。私は一度たりともそんなことを望んだりはしなかった。
どうしてそうなるの。
でも、もしそうなることでシュディリス兄さんを救えるならば、私はそうする。
この人が、何をやろうとしているのか、何を考えているのか、それを知らなければ。
「ミケラン様」
ひどく喉が痛んだ。リリティスは自分の声の枯れ具合に愕いた。
この人は、先刻、本当に私を殺そうとしていた。
そうやって優しい眼をしたまま、何かを試すように、運命の札の中でも最も悪いものを
自ら選ぶようにして、この人は今晩、私の上にそれを見ようとしていた。
不要なものであるならば、何故その札はそこに用意されているのかと、何かに対して
挑戦するかのように、自分自身に問い尋ねていた。
私の首を冷静に絞めていた。
誰もそれを引かぬ札があるのならば、その手でそれを試して、その先に待つものを見届けて何故悪い、
もしそれが本当に「悪いもの」「劣れるもの」にしか過ぎぬのならば、誰がそれを決めたのだ。
永遠だろうか。
そんなはずはない。
もしも少しでも自分と運命を向き合わせて、賭けに出てみたことのある人ならば、
そう思わぬことがあるだろうか。
「貴方は、うそつきです」
リリティスはミケランにすがりつき、首を振った。
うそつきです。貴方ほど、ご自分が無力な存在であることを、人の住まうこの世には、たとえ暫定的な
ものであったとしても、法と秩序が必要である事を、知る人はいないのに。
リリティスは繰り返した。
「うそつきです。貴方ほど無辜の人々の声なき声を大切に聴ける人はいないのに。
貴方ほど、世界の事象は、奇跡のような均衡で成り立っていることを、知る人はいないのに。
それなのに、どうして貴方はこの世を積み木のように倒したり崩したりしようとなさるのです。
いたずらに、刷新してしまおうと計るのです」
「アリアケが生きていたら、もう少し、違うこともあっただろう」
ミケランはリリティスの手を取ると、長椅子からリリティスを立たせた。
「わたしは夫として、彼女の全人生に責任があった。もし彼女のあの病が、このような男に繋がれたことで
下された罰ならば、わたしはそれと闘い、それからアリアケを守らなければならなかった。
妻アリアケについては、わたしに責任があった」
「責任」
「そう。こちらが外で何をしようとも、彼女の生涯だけは平穏無事に守るというね。
没落気味の分家の長男の嫁に入ったあの人は、ただ、この男を信じてくれたのだからね。
君と同じ。とても思い遣り深い人だったよ。わたしのことが、見ていられなかったのではないのかな」
男の口調には、ほろ苦い後悔が混じっていた。
それはそのまま、亡き人への愛惜なのかも知れなかった。
ミケランはかすかに自嘲した。
「こんな男にも、若い頃にこれだけは破らないと己に決めた大原則があったということ。
とても足りなかったことだろうが、妻のことは大切にしたつもりだよ。
それで、アリアケが倖せであったかどうかは、分らないがね」
「いけませんか」
リリティスはミケランにすがり、嗚咽した。
私が、アリアケ様の代わりになってはいけませんか。エステラさんが、そうなってはいけませんか。
貴方をこうして引きとめる人がいてはいけませんか。
リリティスはすすり泣いた。
「私に、何かできることはありませんか」
「では、とりあえず、今晩のところは自分の室に戻ってくれるといい」
ミケランは子供にそうするようにリリティスの頭の上に手をおいた。
彼は書斎の机に眼を向けた。
「まだやることがあるのでね。それとも、いつかのようにこの長椅子で休むかね。
淑女の褥としては、いささか感心しない場所だが、それでもいいよ」
残っている書類の山が気になるようで、ミケランはその続きにとりかかりたいようであった。
彼の頭はもうそちらに気をとられており、それを隠そうともしなかった。
リリティスは息を呑んだ。ミケランは微笑んだ。リリティスは首を振った。
「私には分りません。ミケラン様が分りません-----男の人が、分りません」
「それはそうだろう。君はまだ、何も知らないのだから」
ミケランは笑うと、リリティスの手をとり、唇のところまで持ち上げた。
そしてリリティスを見つめたまま、その手の甲に、恭しい仕草で接吻した。
宮廷で第一級の貴婦人にそうするように、ミケランはこの夜、リリティスに深い敬意と、
惜しみない男の愛情を示していた。それはかえって、二人の間に隔ての壁を作ることだった。
あまりに深い、女には戸惑うしかないほどの賛美と愛をこめて、ミケラン・レイズンは
リリティスの白い手に接吻し、身をかがめていた。彼は婦人の最高位の尊称をそこに付け加えた。
「皇太子妃リリティス・ミステル・ジュピタ・フラワン」
リリティスは茫然と、ミケランを見つめた。
男の微笑みは、儀礼的に、どこまでも優しかった。
「------部屋に戻ります」
手を引き、そう云うしかなかった。
「そこの燭台を持って行きなさい」
書斎の扉を開いてやり、ミケランはリリティスを送り出した。
彼は暗い夜の廊下に眼をやり、それから灯りを手にしたリリティスの姿を振り返った。
小さな星を掲げるようにして蝋燭を持ち、闇の中に立っているリリティスの姿を、ミケランは優しく眺めおろした。
思いもよらないことだった。因縁のシュディリス・フラワンという名の若者が、まさか、このような
可愛らしい人の中に大切に守られていたとはね。
彼は夜に向かって告げているようだった。
「彼の名はわたしにとって過去の抜け殻のようなものに過ぎないが、それでももう一度、
わたしに大いなるものの存在を、思い知らせてくれるようだ。
そしてそれは、君というかたちをとって、こうしてわたしに見せてくれるのだね。
君の中にあるその星の光を、近いうちに、わたしも必ず見ることになるだろう。
リリティス・フラワンという名の、女人の姿をしたこの若い命は、限りなく尊く、限りなく謎のまま、
こうやってわたしの前に存在し、そして或る日、君自身の運命へとまた戻ってゆくのだろう」
「ミケラン様」
「おやすみ」
扉が後ろで閉まった。
夜の屋敷は洞窟のようにひんやりとしていた。二階へ通じる階段の手すりにリリティスは手をかけた。
つめたい木の表面にむきだしのままの腕が触れた。
怒らせるために、火かき棒で火傷をしてみせようと想った。私のことを心配して、気にして欲しかった。
あの時の衝動と同じように、ミケラン・レイズンは、私を殺すことで、
シュディリス兄さんを怒らせ、兄さんを彼に向かわせようとしたのだろうか。
首を絞める間、彼は何かを思案している時の、いつもの晴れやかな眼をして、私を見ていた。
それを愉しみに待つ、覚悟の眼をしていた。
私の向こうに、シュディリス兄さんを見ていた。
「続く]
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