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[ビスカリアの星]■七.



その山はまだ生きていた。
鱗の間から蒼い血を流し、岩盤と見紛うその表層を末期の息に脈打たせ、
鋭きその牙と、その爪は、時折、
未だ失われぬその凶暴さで、尾と共に持ち上がっては、どうと倒れて深く地を掻いた。
彼らは、彼らの主である若者に、とどめを刺すようにと促した。
末期の竜の血は、光を帯びて、日暮れの雨のように辺りに降り注ぎ、岩場に迸った。
横たわるまだ熱い巨大な竜の亡骸を前にして、
若者は傷ついた乙女をその腕にしっかりと抱き、流れる竜の血の河の中に立っていた。
はるかなる黄昏の空には星が一つ輝いてくるめき、
紫に晴れた雲間からは、星海を渡る風が吹きつけた。
集った騎士たちは若者の斃した竜の血を、
その生気の失せぬうちに聖杯を回して臓内へと飲み干すと、
七つの故郷へと散っていった。
後に騎士は、それぞれ、
カルタラグン、ジュシュベンダ、ハイロウリーン、サザンカ、オーガススィ、
タンジェリン、レイズン、これら七つの聖虹騎士家となり、
その家に生まれ落ちた騎士は、際立った心身能力を有し、
怒れること竜神のごとく、静かなること湖の漣のごとく、
雲ように俗世の理から解き放たれ、また巌のように志操強く、
決して膝を屈さぬその雄心により、諸々の騎士より高く駆け上がり、
その勇武、その生きざま、鮮やかに燃え尽きて夜を流れる流星に似て、
いつしか、「星の騎士」と呼ばれるようになった。


早朝の狭霧に、目覚めたユスタスの視界は薄青く開けた。
兄はもうとっくに起きていて、木に肘をかけ、
その腕に顔を埋めるようにして野営地を見つめていた。
顔を洗って小川から戻ると、
「先ほど、馬に乗って二人、出て行った」
シュディリスは畳まれていく天幕へとユスタスの注意を促した。
「斥候か伝令か、どこかへの使者かな」
兄に並んで、葉陰から盗み見ながらユスタスは、
「彼らとて、いつまでも当て所なく地を流離っているわけにはいかないだろうしね。
 それにしてもこれから、いずこを頼るつもりだろう」 
足許にからむ朝露の草を払った。
「頼るあてが確かにあるのなら、最初からこのような無軌道はとらないだろうしねえ。
 旅慣れているとも思えない足弱な女の人たちをあんなにも大勢連れて、
 いい加減、疲れているだろうし。
 自分たちの国に戻ろうとは思わないのかな」
土の上で寝たために固くなった身体に伸びをすることで生気を入れると、
ユスタスは朝食の麺麭を鞄から取り出して齧った。
フラワン家の兄弟は、朝霧を透かして、遠くに見える旅の一団を見遣った。
見つめていると、
ちょうど、真ん中の小さめの天幕の傍に輿が寄せられたところだった。
入り口の布が高く上げられ、
四方に目隠しの衝立を立てめぐらせたまま、その姿は見えずとも
誰かが天幕から輿へと移るのがここからも望めた。
輿の担ぎ手が集まると、昨日と同じように黒塗りの瀟洒な輿を担ぎ上げ、その周りを徒歩の
女官と、護衛の騎士らが囲んだ。
それを見てこちらも、急いで馬の支度をはじめた。
もう一度、あの声を聞けたら。
シュディリスは距離を超えて、その人の姿を透視して探しでもするように、野を振り返った。
冬の星空からまっすぐに心を射るような、清く、強い、あの声を、もう一度聞けたら。
後ろからユスタスが昨夜の話を思い出し、ぽつりと云った。
「巫女は念話を操り、それは特に「星の騎士」を選んで届くものだというけれど-----」
シュディリスは頷いた。
ユスキュダルの巫女。
その名の重みは騎士の胸に終生、轟いて、誰も姿を見たことがない。

「念話を使う者ならば他にもいる。あの輿の方が、ユスキュダルの巫女だとは、
 まだ分からないよ」

そう云いながらも、シュディリスもユスタスも、あの一行がユスキュダルの巫女と呼ばれる
聖女、もしくはそれと同等の貴人を担いでいることを、その朝ほぼ確信していた。
それは直感であり、彼らの心に今も残る、あの時の声の余韻が、
彼らにそれを疑わせないのだった。
輿の中におわすのがユスキュダルの巫女だとすれば、フラワン家の星の子らを選んで
念話が降りたことも、あの物々しい警戒ぶりにも説明がつこうもの。
騎士と高位騎士、高位騎士のその上に立つ星の騎士、
これら全ての騎士に分け隔てのない祝福を与え、
死んだ騎士の魂を、安息の地へと導いていくと云われる、祈りの巫女。 
もしその御方ならば。
たとえ殺戮をその生業とし、女子供問わず火に投げ込み、
草も生えぬまでに国を焼き滅ぼすことを厭わぬ無法の騎士団であろうとも、
はるかなる昔、今だウィスタチヤに帝国なく、乱が絶えなかった群雄割拠の戦国時代、
かの人にだけは、目の前に現れたその細影に、
剣を握るその指一本たりとも誰も動かせなかったと伝わるユスキュダルの巫女。
巫女はただ彼らの前に立ち、
かかげたその腕を、ゆるやかに下げ、地を指すだけでよかった。
それを見ただけで、無軌道の限りを尽くした地獄の騎士らは一斉に馬から飛び降り、
地に低く頭を垂れ、畏れたという。
誰もが尊び、誰もがその神聖を欲しがる。
シュディリスは震撼した。
もしも、ユスキュダルの巫女の身柄を国に迎え入れることが叶うなら、
その国は巫女の存在により威信を増し、巫女を自国に抱えることで他国をけん制し、
恒久的なる優位を得、皇帝に匹敵する重きを成すことが叶うであろう。
でも、とユスタスが兄の内心を代弁して、疑問を呈した。

「ユスキュダルの巫女は一切の国に属さず、
 帝国の治世からは完全に切り離された雪白の山奥の何処かで、
 潔斎の日々を送っているはずでしょ。
 あの御一行にその御方がいるとしても、
 人前にその姿を現すことなど一生涯に一度もないといわれる聖女が、何故いまさら何の用で?
 歴代の皇帝が贅を尽くした霊廟を建ててウィスタへお出でを請うても、
 それに応じたことは一度もないと聞くのに」
「ユスキュダルの巫女については、わたしも詳しくない」
シュディリスは手を伸ばして、ユスタスが連れて来た馬の手綱を引いた。
「知っていることといえば、ユスキュダルの地はどのような国の騎士でも迎え入れる代わりに、
 どのような国の客人にもならず、また従わず、
 皇帝およびいかなる君公の命においても
 一度その地にまで辿り着いた亡国の騎士、謀反騎士、異端騎士らを手厚く庇護し、
 決して渡すことはしないということだ」
「それじゃあ、まるで、ユスキュダルという処は流刑地じゃない」
ユスタスは食べ残しの麺麭屑を、小鳥のために小さく千切って地へばら撒くと、
勢いをつけて、自分の馬に飛び乗った。
手を叩いて麺麭屑を払い落とし、馬上の人となると、
「罪を犯した騎士がその罪を逃れるためにユスキュダルへ流入するのであれば、
 ユスキュダルの地というのは、騎士の聖地ではなく、
 騎士道からも人道からも外れた騎士が最後に逃げ込む、
 治外法権の地と大差ないということになってしまうじゃないか」
兄は、ちらりとそんな弟の明るい単純さを見るに留めた。

「たとえ罪人の烙印を捺された者であっても、
 時流と人の法がそれを裁く以上のことを、
 その者の魂に対して働きかけることが、我々の中の誰に出来るだろうか」

照り返す朝日にその青い瞳をけむらせると、シュディリスは馬の首筋を撫で、馬を歩ませて
草地の斜面を下った。
この世の誰に、その者の改心を見守り、忠義を尽くしたその騎士の本分を、
その疲れた魂を、武運拙く不名誉にまみれたその汚辱の人生を、
不運なる騎士たちの、その荒れすさんだ無念や悲憤を、
腕に抱きとめて、安らわせることが?
「この世の誰にも出来ないことを、ユスキュダルの巫女ならば、
 なよやかなるその女性の姿と、その祈りで、果たすことが出来るのかも知れない」
「………」
「騎士であれば当然、巫女を女神と仰ぐものだが、
 それとは別に、何故かな、
 巫女の存在を知った時より、心のどこかで、
 その御方の象徴する、大いなる何かと、
 ずっと心の中で漠然とした懺悔や告白をしてきたような気がする」
 
兄は、自分の父母のことを想っているのだろうか、とユスタスは思った。
カルタラグンとタンジェリンのことを。
後ろで結わえたその白銀の髪から兄の横顔には薄い影が落ちており、
それは或る頃からユスタスの眼には、払うことも消えることもない、
兄の一身上にまつわる、過去の影に見えていた。
聖騎士家カルタラグンとタンジェリンとの結びつきによって生まれた兄は、
滅びた両家の、それに追従して消えていった多くの譜代騎士らの、
敗残者たちの、その無常や無残をその身に重ね合わせて、一身に引き受け、
こうして時折、水影に映る己の姿の中にそれを見い出すように、
思いを馳せてきたのだろうか。
「シリス兄さん」
「何」
「……何でもない」
いつかユスタスが訊いた時、シュディリスは書物から顔も上げずに、
まさか、と軽く流したものだった。
「まさか。何かの芝居でもあるまいし、わたしがカルタラグンの遺児だからといって、
 カルタラグン家の再興やヒスイ皇子の仇討ちのために、
 今さら雄雄しく立ち上がったりはしないよ。
 わたしはフラワン家の長子として育ったのだから」
それでも、ユスタスはいつか兄が、
その白銀の髪から白皙の頬に落ちて走るその鋭い薄影の不吉な流れが、
いつか兄をフラワンの者としてではなく、
消えた王朝の灰の中から、立ち上がらせるに違いないことを、
ずっと前からこうして予期していたような気がした。

(お前の兄シュディリスはカルタラグンの皇子。
 まことの母をタンジェリン家の姫に持つものです。
 流離う両家の生き残りがもしシュディリスの元に集まり、 
 シュディリス皇子がその御旗の印となるような暁が、もし時来たりなば、
 ユスタス、お前は兄の傍らにあり、兄の第一の騎士となれ)

木立に降る木漏れ日は、あの日の母の切なる願いのように、
少し眩しすぎる光となって手綱を握るユスタスの上に繰り返し落ちてきた。
ユスタスは、あの旅の一行の者の中にカルタラグンの紋章のある剣を持った男がいることを
シュディリスから教えてもらってはいなかったが、
もし知っていたら、いよいよ、あの旅の一行が兄の運命の使者であるものと、
決めつけてかかったであろう。
シュディリスはそんなユスタスと、筋書きに合点がいくように、話をつめていった。
何といってもあの警戒ぶりと異様な黙秘、女官の多さ、それに加えて、
護衛についた騎士らの沈着とその腕前は、山賊に襲われた際の働きぶりから推し量っても、
相当なものであった。
(ユスキュダルへと逃れていった逃亡騎士たちが、女輿を守っている、彼らなのだとしたら)
全ては説明がつくような気がした。

「ジュピタ皇家は、ユスキュダルの巫女をウィスタの都に迎え入れて、
 現在の権勢に箔をつけ、威信を磐石のものとしようとしている。
 その密命を受けてミケラン・レイズン卿が働きかけ、
 どのような方法、甘言によってかは知らぬが、巫女をユスキュダルの聖地より
 ウィスタチヤの地へと穏便のうちにおびき出すことに成功したとする。
 たとえば巫女が都に御幸するその代わりに、ユスキュダルに逃亡した騎士らの罪を免じて、
 その名誉の回復を保障する、などと云ってね」

しかしレイズン家、或いはミケラン・レイズン卿は、皇家に先駆けて、
いわば騎士を有する国にとっては盾にもなり、他国の騎士団を牽制する武器ともなる、
騎士の聖母の殺害を謀ったか、または皇帝に先んじて、自領に迎えようと企んだ。
「彼らを襲った覆面の山賊はレイズン家の差し金で、あの山道で巫女を奪い、
 レイズン家の所領へと連れ去ることが目的だった。これでどうかな」
ここまで考えを纏めると、
シュディリスは並んで馬を進ませるユスタスへ念のために断った。
「少し、先走りすぎかも知れない。
 憶測で決め付けるのは危険だ。
 もしそうならば、騎士家の分際で皇帝代行を担っていたカルタラグン家を、
 そして先年にはタンジェリンを滅ぼしたその立役者であるレイズン家が、
 今度は皇家へ向けてその謀反の弓を引くつもりだ、ということになってしまう。
 巫女を奪い自前のものとすることは全騎士団および、
 皇帝への背信行為、宣戦布告だ。
 レイズン家は、すべてを敵と回すことになるだろう」
いかな狡猾なる野心家でも、それは自滅行為に等しく、考えにくいことである。
カルタラグン家が滅ぼされたのは、皇位継承争いに調停のかたちで介入したまま、
騎士家の分際で神聖皇帝の座へ三代に渡り居座り続けたからであり、
少なくとも政変を起こした側にはカルタラグンを潰すに足りる正統な理由があったわけだが、
もしその矛先がカルタラグンのような騎士家ではなく、
帝国を統べる皇家そのものへ仕掛けられることは、すなわち、帝国全土を敵と回すことに等しい。
もしそのような事態になれば、今のところはレイズン家の跋扈を静観している
大国ジュシュベンダとハイロウリーンは今度こそ、黙ってはいないであろう。
「それとも、それを承知で」
「うん。もし本当にレイズン家が謀反を起こそうとしているのならばね」
ジュピタ皇家へ造反するにあたって、押し寄せるであろう各国騎士団への抑えの布石として、
レイズンはユスキュダルの巫女を自内に在府させたかったのだろうか。
ユスキュダルの巫女は、騎士の魂の守護聖母である。
古き遠い時代、たった一人で津波のごとく押し寄せる軍馬を止めてみせたと今に伝わるように、
神秘を帯びたその命とその身柄、皇帝よりも騎士らへの抑制力は上回るのだから。
「ねえ、シリス兄さん」
ふと思いついて、ユスタスは横道に逸れたことで愉快そうに一人でくすくすと笑い出した。
ユスキュダルの巫女さまといい、
我らが祖先、トレスピアノを産土とするウィスタチヤ初代皇妃オフィリア・フラワンといい、
やたらと勇敢で、無謀だと思わない?
「伝わるところを信じるならば、
 オフィリアだって皇帝を庇って、かよわきその身一つで、
 悪竜の前に飛び出して立ちふさがったというじゃない」
「リリティスも、似ている」
意志が強そうなまま、清らかに澄み切った眼をしたオフィリアの画を見るたびに、
シュディリスはどこかその面影に、母リィスリや妹を重ねて見ていた。
あるいは、まだ見ぬ実母、ガーネット・ルビリア・タンジェリンを。



日が差して、丘陵には幾つもの光の柱が立っていた。
煉瓦で舗装された道の両側は閑寂な森林で、木々が道に木陰を作っていた。
もはや姿を林間に隠すことも止めて、変装したなりで堂々と街道に馬を乗り入れ、
行き交う人々に混じって進む一行の後を適宜な間を空けて尾けながら、
「あの人たちはトレスピアノ領を出て行くつもりがあるんだろうか?」
ユスタスはいぶかしんだ。
領内の地図は彼らの頭に庭のように入ってはいても、
それでもこのような辺鄙な外れになると、実際に来たのははじめてである。
時間稼ぎなのか、それとも他に意図があるのか、
トレスピアノ内の国境沿いを大回りしている彼らの旅程を頭に広げた地図になぞって、
シュディリスは、ふと、
「黒い森を目指してるようだ」、思うことを口にした。
「ええ?」
ユスタスは馬の上で背伸びをして眼をこらした。
「黒い森なんかに何の用があるの」
しかしそう云われてみれば、確かに、隣国へと続く要街道から逸れて、
はるかに横たわり黒々とかすんで広がる深い森へと
旅の一行は道を選んでいるように思われた。
「どうして、あんな処へ」
「今朝方出て行った二騎の行方も気になるが、彼らが何らかの吉報か情報を持って
 戻ってくるのを、そこに潜んで待つつもりでいるのかも知れない、と思う。
 トレスピアノからは離れたくないようだ。
 気がついただろう、ユスタス。
 彼らは一晩中、見張りを立てていた。
 遮蔽物のない広々とした野を選んで野営をしたのは、
 今だに彼らが、再び襲撃されることを怖れているからだろうし、
 不可侵領であるトレスピアノに在る限りは、少なくとも何処の国の手勢であろうとも、
 一昨日のように正体を隠さない限りは、
 彼らを正面から襲うことは、この領内ではまず不可能だ」
「それなら尚のこと、黒い森なんかに行かない方がいいんじゃないの。
 街道にいる限りは街道を行き交う人たちの眼があるし、
 辺境警備隊の目が行き届いて、賊の横行は近年、皆無に等しいんだから」
その間も、
国境沿いをぎりぎりに縁取るようにして進んでいる一行は、
知らぬ者の目にはただの貴人の旅団として、騎士たちに護衛されて街道の先にあった。
誰が通るか分からぬので深く帽子をかぶって顔を隠したまま、
シュディリスとユスタスは行き交う人々を間に挟んで、
一定の間隔をとったまま、街道の端によって彼らの尾行を続けた。

(貴女は--------)

旅の一行を、今日もまたそうやって追いながら、
馬を操るシュディリスは前方に見え隠れしている遠くの輿の中の人に
その胸中で呼びかけた。
(貴女がもし、本当にかのユスキュダルの巫女であるならば)
貴女はウィスタチヤに降りてきてはいけなかった、とシュディリスは顔を険しくさせた。
御身をめぐり、帝国は、血で血を洗う諍いを起こすであろう。
巫女を有した騎士は、全ての騎士を従える力を持つに等しい。
皇帝と対峙しようとする者にとって、
ユスキュダルの巫女を手に入れるほどの優位があるであろうか。
御身は高潔なる騎士の神、
我らの心そのもの。
それゆえに俗世の一切には、係わってはならなかったのだ。
知らず知らず、シュディリスの胸の内には、女輿の人への失望や、疑念が重たく沈んだ。
と、同時に、巫女を担ぎ出そうとした者に対する、強い憤りがせり上がってきた。
たとえどのような天下の大事であれ、由無し事であれ、私欲と利害に満ちたものであれ、
巫女の潔斎を掻き乱して、淀ますことなどあってはならなかったのだ。
(不快だ)
シュディリスは唇を噛んだ。
まるで何者かによって自身が利用され、穢されたとでもいうように、
強い怒りが心に渦巻き、シュディリスの心胆は冷えた。
その時、空の高みに一筋の狼煙が上がるのが見えて、兄弟は顔を上げた。
高く上がった後で、金色と朱色の煙がねじれるように雲間に溶けていく。
定時連絡の狼煙とは違うことを見て取ると、シュディリスは叫んだ。
「あれは、急変の報せだ。
 父上の許へ向かって伝令がすぐにここを通るはずだ。ユスタス!」
シュディリスの言葉通り、向こうから、まっしぐらに駆けて来る早駆けがあった。
ユスタスは兄の意向をすぐさま察して、問い返すこともなく馬の首を先にめぐらせると、
彼らの脇を疾風のように過ぎた急使を追って、
すぐさま飛び出して行った。
ユスタスは腰を浮かせて馬に鞭をあて、放たれた剛矢のように速度を上げた。
止まれと云う代わりに、やがて追いついた急使の横合いに並んで馬を駆けさせたまま、
「邪魔をするなァ」と怒鳴る急使に、街道脇の草地を下りながら怒鳴り返した。
「見知りおけ、ユスタス・フラワンだ!何事か」
「フラワン家のユスタス様!?」
ユスタスは目の前の柵を飛び越えた。
跳ね上がった土くれが顔を打った。舌を噛んだ。
下男の服を着て変装しているユスタスは、
荒業にも立ち乗りしたまま片手で手綱をしっかりと握り、
使者がこちらを見る余裕などないを承知で、片手で腰の剣を引き抜くと、
それを流れ飛ぶ風にかざした。
「わが身を疑うならば見よ、この剣には母リィスリより賜ったオーガススィ家の紋章。
 間違いなく僕だ、何事か!」
「軍隊です」
強張った面を前に向けたまま、急使は叫んだ。
「国境沿いに軍勢が寄せ、トレスピアノ領土への侵入許可を求めております!
 目的はトレスピアノ領内に潜伏中の、帝国反逆者の探索と、その捕縛とのこと」
「どこの国の手勢だ」
「旗印は、レイズン家!」
それを聞くなり、馬脚を落とさぬままユスタスはぐっと半円を大きく描いて、
「父上にそれを早く伝えて」言い捨てると、今来た道を駆け戻った。

「兄さん!」

兄の元に戻り息を切らしてそれを伝えると、
「ユスタス、お前は父上の許に戻れ」
シュディリスは云い放ち、突然馬の腹を蹴って駆け出した。
「シリス兄さん、どうする気?」
慌ててユスタスは追った。
「レイズン家の軍隊がここまで派遣されて来たその目的は、
 あの旅人たちを捕らえるつもりなのにまず違いないよ。
 トレスピアノへ他国の軍がここまで急進して近寄るなんて、滅多なことじゃないもの!」
街道を行き交う人々が何事かと見送る中、街道の脇を駆けた。
「あの人たちに警告するつもり?でも、  父上は彼らの領内探索を断れないよ!」
「ユスタス、お前は家に戻れ。フラワン家の者はここにいない方がいい」
「兄さんは」
「心が告げることをする」
「兄さん!?」

銀色の髪を切るように後になびかせると、
シュディリスは女輿めがけて、真直ぐに旅の一団の中へ向けて馬を走らせた。
道の向こうから、次々と伝令の馬が駆けて来て、すれ違っていった。
街道を通る人々へ向けて、馬に乗った国境防人が触れを出して回っており、
飛ぶように駆けて再び街道へと踊り出たシュディリスに対して、驚いて制止をかけた。
「止まれ!街道を一時封鎖する」
「止まれ止まれ!これより先へ進むことを一時禁じる」
「おい、待て!」
シュディリスはそれをも振り切り、
足止めを受けておとなしく街道の端に引き下がっていた旅団に向けて、馬を飛び込ませた。
怪我人を運ぶ馬車から、見覚えのある騎士の顔が愕いて覗いているのが後方に見えた。
騎士らがシュディリスに追いすがる中、担ぎ手が担いだままの女輿に馬を擦り寄らせると、
シュディリスは輿へ向けて叫んだ。
「中の御方」
殿方が触れてはなりません、と金切り声を上げて女官が、さらには騎士たちが
シュディリスをたちまちのうちに取り囲み、四方八方から伸びた手や剣が、シュディリスを抑えた。
荒い息を吐いて、シュディリスは剣を大きく引き抜いた。
それを見てざっと周囲の剣が抜き放たれる剣林の中、
もう一度、「中の御方」と、背後にとった輿へと静かに呼びかけた。
「お聞き下さい。この先にレイズン家の軍勢が迫っております」
「不埒者、輿より離れろ」
空高く、また何かを告げる狼煙が上がった。
シュディリスは襲う剣を剣で受け流し、さらに声を張った。
「街道が封鎖されれば逃れる術はありません。わたしを信じて、わたしの馬へお移り下さい」
「何をする」
「何者です、おやめ下さい」
「貴様、何者だ」
ぎらっとシュディリスの眼が燃え立つように輝いた。
彼を馬から引きずり下ろそうとした者の手を剣の柄で叩き落として突き飛ばすと、
「各々方聞け。レイズンの軍勢がここに迫る」
馬上から鋭く告げた。
斜めに構えた剣の切っ先を地に向けて周囲を制した馬上のその気魄には、
見えない焔に包まれているかのような迫力があった。
彼らに青い眼をひたと据えて、どよめく彼らに、シュディリスは続けた。

「貴公らが何者であり、いかなる事情ありてのこの旅かは知らねども、
 この地に不案内であり、頼れるゆかりなきことは承知である。
 レイズン家の軍勢が領内に入らば、自力での逃げ隠れは
 容易には叶わぬとお見受けするが如何か。
 我は騎士。
 難儀にある尊き御方を見捨てることなど、我名に恥じる。
 誓ってこの御方に無体はせぬ。わたしを信じて、ここはお任せありたい」

そして振り返り、黒塗りの輿の壁を叩いた。
「貴女をレイズンの手の及ばぬ処へお連れします。
 もはや猶予はなりません、わたしを信じて、お選び下さい」
何事かと国境警備隊がこちらに集まりつつあり、その遠くに驚愕しながらこちらを見守っている
ユスタスの姿が小さく見えた。
しかしユスタスは、ここは兄の言葉に従うが得策だと見定めて、その馬を回して
誰何を受ける前にその場から駆け去っていった。
「わたしを信じて下さい、さあ」、シュディリスは輿を叩いて呼びかけた。
女官の一人が「確か、この方はフラワン家のシュディリス様ですわ!」と叫ぶのと、
「おのれ、貴様こそ、ミケラン卿の手先であろう」
「その御方を拐かすつもりであろう!」
駆けつけた騎馬の騎士が、その左右からシュディリスの首に剣を交差させて当てるのが同時であった。
シュディリスは構わず、強く叫んだ。
「わたしの馬にお移り下さい!わたしを信じて下さい」
騎士が輿を担ぐ者共に「早く向こうへお連れいたせ」と、命じた。
それを阻止して、シュディリスは鞍から身を乗り出し、輿の縁に手を触れて引き止めた。
「わたしを信じて、こちらにお移り下さい」
後ろから当てられた剣が怒声と共に首筋を滑って引かれ、すうっと血が流れるのが分かった。
構わなかった。
ただ一心に、中の人に向かって訴え続けた。
(巫女の存在を知った時より、心のどこかで、その御方の象徴する、大いなる何かと、
 ずっと心の中で漠然とした懺悔や告白をしてきたような気がする)
(貴女に逢いたい)
シュディリスは云った。わたしをお信じ下さい。
「貴女を守ります」
黒い扉が、目の前で開いた。
美しい緑光の瞳が、シュディリスの青い瞳を見ていた。
それは一瞬で、担ぎ手が担ぐ輿から、するりと、一羽の鳥のように、
その両腕を翼のように広げて、シュディリスの胸の中に入ってくるものがあった。
その繊手をシュディリスはしっかりと掴んだ。
鞍前に引き寄せた時に、僅かばかり、その人は怯えて震えた。
幻の花のようなその姿を縋らせて片腕に抱くと、
シュディリスは止め立てする全てから遠く届かぬ処へと、
馬を飛ばして駆け去った。






[続く]




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