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[ビスカリアの星]■七十.


清流の流れが少し溜まって深くなっている岩場があった。
レーレローザはそこを洗濯の場に選び、日向にぬるんでいる水に手を差し入れた。
小鳥の声と水の音を聴きながら、手許の駕籠から、衣を取り出しては水で濯ぐを繰り返す。
洗い上げたものを手近の木に引っ掛けていると、木蔭をぬって、ワリシダラムが現れた。
「精が出るねえ。お母さん」
「誰が、母さんよ」
レーレローザは振り向きもしなかった。駕籠から次の肌着を取り出し、流れの中で
繊細な刺繍のある薄い布を丁寧に揉み洗いする。
ワリシダラムは手で顔を扇いだ。
日課にしている朝の剣稽古の後で、襟元は寛げてある。
枝先にかけてある薄っぺらい濡れたものは、どうやら三人分あるようだ。
陽に透けて、風にはためき、すぐに乾きそうだった。
「侍女がいないからって、何も君が洗濯まですることないだろう。だから近隣から
 農婦を雇うと云ったんだ」
「お構いなく。身の回りの世話くらい自分たちで出来ます。私たちでやると決めたのだから」
レーレローザの声はとがっていた。
こいつ、下着を眺めに来たのかしら。
「何をしに来たの。下着泥棒ならお断りよ」
「誰が盗むか。水浴びに来たら、そちら様が先客でいたんだよ」
「沐浴なら、どうぞ。もう終わるから。そしてもう二度と、此処では洗濯しないわ」
「人を病気持ちにすんなよ」
ワリシダラムは剣帯を外し、軽装備を外し、上着を脱いだ。
さすがに全裸にはならず、ワリシダラムは下はそのままで、洗濯しているレーレローザよりは
下流の流れの中に、さぶさぶと分け入った。
「犬じゃあるまいし、盛大に水を立てるのは止めてよ。こっちにまで飛沫がかかるわ」
「そこではお暑いだろうと、気を遣ってやってるんじゃないか」
「眼に入った。けがらわしい」
「痛快だね。けがらわしい。ぜひともそのひと言を云わせてみたかったんだ」
「痴漢。変態」
「男の裸を真正面から平然と見ておいて、痴漢はないんじゃないのか。ついでに僕の服も洗ってよ」
「王子さまのお召しものなど、畏れ多くて触れることすらかないませんわ。ご自分でおやり遊ばせ」
「何をやっているんだ、あの二人は」
岸辺の林から、それを見ていたインカタビアは、嘆かわしく呟いた。
その隣りでは、ブルーティアが焚き木を束にして結わえていた。
本隊から外れたせいで、人手が足りず、そこは騎士として平等に仕事を分担しているのである。
「それはこちらが持とう、ブルーティア」
「お気遣いありがとう。でもこのくらい、持てます」
先発していたブルーティアとオーガススィの騎士ガードは、コスモスの国境境で宿営し、そこで
インカタビアとワリシダラム、レーレローザとルルドピアスの到着を待っていた。
コスモス入りが叶わないと知ったレーレローザは嘆いたが、常識に照らし合わせて
オーガススィの姫がハイロウリーンに抱えられて他国入りするなど、現時点では論外である。
そこは聞き分けた。
「でも絶対にオーガススィには帰らないわ」
再会したレーレローザとブルーティアの姉妹は、おろおろしているルルドピアスはそっちのけで、
手を固く握り合った。邪魔する気ならしてみなさいよ、この場で自害してやるからといった
意気込みまで滲ませて、彼女たちは凛々しくも雄々しく、姉妹でそれを誓い合い、確かめ合った。
「お祖父さまが、私たちの要求を聞き届けて下さらない時には、このまま、ハイロウリーンに亡命する」
(これは強烈。困ったな)
(莫迦も、休み休みに云えよ)
それが、姉妹騎士の威勢を聴いた時のインカタビアとワリシダラムの感想であったが、
二人の王子はその場での説得や否定を諦めた。
相手は何しろ、女騎士である。
君たちの要求がそのまま通るほど、オーガススィ領主トスカタイオ殿は
甘くはないぞと、わかりきったことを今さら説諭したところで始まらない。
しかも祖父に対するその要求とやらがふるってる。

「ヴィスタル=ヒスイ党との絶縁と、シュディリス・フラワン様の即時解放?」

焚き木を運び終えると、インカタビアとブルーティアは休みなく、次に、
食事の下ごしらえに取り掛かった。
切り株に腰かけ、野菜籠を間において、野菜の皮を剥く。
ブルーティアは慣れた手つきで、小刀を扱い、野菜の根を切り落とした。
「レイズン本家では、どうやら、リィスリ・フラワン様の身柄を押えているようなのです。
 リィスリ様は、祖父トスカタイオにとっては実の妹御。ヴィスタル=ヒスイ党はそれを匂わせて、
 オーガススィに対し、ヴィスタル=ヒスイ党への協力を求めてきました」
「脅迫の材料としては弱すぎる」
不要な根を地面に捨てて、インカタビアは籠の中に野菜を投げ入れた。
「トレスピアノにご入輿された時点で、リィスリ様はとうの昔にオーガススィ王家からは離れておられる。
オーガススィは、リィスリ様にとって、お里だというだけでしかないはずだ」
「祖父のリィスリ様への想いは格別なもの」
いっぱいになった籠を片隅にどけて、ブルーティアは新たな空の籠をインカタビアとの間に据えた。
「今でもリィスリ様の肖像画を大切に」
小刀をすべらせる手をとめて、インカタビアはブルーティアを見た。
家出を敢行した馬車の中で髪を切ったとかで、レーレローザもブルーティアも断髪である。
そのままではあまりにも不揃いなので、後でルルドピアスが二人の髪を整えて
何とか見られるようになったものの、それでも姫君にあるまじき、少年のような姿。
(さっぱりとしていて、これはこれで、可愛らしいと云えなくもないが)
インカタビアが横目で見ているのを知ってか知らずか、ブルーティアは頬にかかっていた
その短い髪を、耳にかけた。
「リィスリ・フラワン・オーガススィ様。肖像画でしか知りませんが、美しい方だったということは
 家臣たちの口からもよく聞かされたものでした。かの御方がルルドピアスに
 似ているというのであれば、そのほども、想像がつきます」
そこに含むものがあるような、ないような、ブルーティアの口調であった。
肘と肘がぶつかった。
インカタビアは「失礼」とブルーティアに謝り、少し横に姿勢をずらした。
親族という枠でくくっても、少なくとも、その麗人リィスリ・オーガススィの面影を受け継いだのは
ルルドピアス姫と、それに未見ながらも母に似ていると評判のリィスリの娘、トレスピアノの
リリティス嬢だけらしい。
インカタビアは野菜を手の中で転がして、適当に話を引き継いだ。
「まあ、リィスリ様といえば、その美貌でカルタラグン王朝の氷の百合の花と讃えられた御方であるから」
「祖父も父も、リィスリ様に対しては特別の想い入れがあるようです」
「それにしても愕いた。行方不明中であったと聞いた、フラワン家のシュディリス様が、
 そのご母堂の故郷オーガススィにおいでであったとは」
「ジュシュベンダの騎士を伴っておられました。シュディリス様は、ユスキュダルの巫女さまを
 トレスピアノ領内で保護されたそうです」
「何だかそんな話だそうだな」
「安全なジュシュベンダに送り届ける途上、巫女さまはちょうどジュシュベンダに亡命中であった
 旧コスモス領主殿と共にお姿を消し、シュディリス様は、単身でその行方をお探しであったとか」
「フラワン家の三きょうだい様は、巫女の直近といわれ、遠くからでも巫女の声が聴こえるという
 星の騎士の称号をお持ちなほどだから、シュディリス様も、きっとその騎士の本性に従ったのだろうな」
「事情は詳しくは知りませんが。イクファイファお兄様が、そう教えてくれました」
「お逢いしたいものだ。どんな御方だった」
「シュディリス様ですか」
尋ねられたブルーティアは野菜を片手に、しばし思案した。
どんな方。どんな方だっただろう。
姉のレーレローザをはじめ母スイレンや侍女たちなどは、「絵物語から抜け出てきたような方だわ」などと、
少女趣味そのままにはしゃいでいたが、私はそうは思わなかった。
あの人は、あの肖像画に似ていたのだ。
北の離宮の宝物蔵からルルドピアスが見つけ出した、肖像画のあの人に。

(ヒストリア・ヒスイ・カルタラグン・ヴィスタビア。リィスリ様の恋人であった皇子)

しかし、ブルーティアは落ち着いて、野菜を切り続けた。
「ルルドピアス姫の具合は」、インカタビアが天幕を振り返った。
「馬車の旅が、かえってお身体にはこたえたようだが」
「ルルドは日差しに弱いので、天幕で休ませています。あの子のことです、自分も何かしないと
 みなに悪いと気を揉むでしょうから、後で野菜のすじ剥きくらいはルルドと一緒にするつもり。
 それなら、刃物も使いませんから」
インカタビアはブルーティアの俯いた顔を窺った。そして、慎重に訊いた。
「ブルティ。ブルーティア姫」
「はい」
「お姉さんのレーレローザはルルドピアス姫のことが好き、つまり同性愛的に
 大好きみたいだけど、君はどうなのかな。つまり、ルルドピアス姫に対して、
 君はどう思っているのだろう」
「可愛いわ。とっても。ルルドピアスみたいに可愛い子がいるかしら。
 ルルドを大切に想う気持ちは、姉のレーレにも負けないと思います。-----あら、どうされて」
「いや、何でもない」
「天を仰いだり、余所見をしたまま、刃物を扱うのは危ないですよ」
「何というか、男にはいろいろと分らないことがあるもんだと思ってね」
嘆息したインカタビアには構わず、
「私たちは三人で育ったようなものです」
ブルーティアは籠をどけて、地面に落ちている野菜の根を一旦まとめて端に積み上げた。
「姉や私と違い、ひとりだけ、壊れ物のように可愛い繊細な女の子がいて、
 いつからだろう、私たちはその子を守ってやらなくてはならないと、そう思うようになったのです。
 家中の恥を晒すようですが、母のスイレンが、ルルドピアスを嫌っていましたから、
 それはとりわけ私たち姉妹の課題となっていました」
ブルーティアは肩をすくめた。
私たちが自発的に騎士の道を選んだのは、子供の頃、私と姉が、ルルドピアスを
魔女に虐げられる囚われのお姫さまに見立てて、悪い者から護ってやらなくてはと、
そう決意したのが、その自覚の萌芽と、覚醒の発端だったといってもいい。
「ルルドピアスの面影にリィスリ様を重ねては、この世には、本当に美しい人が
 いるのだと、生きた夢幻を見ているような、憧れのような、それに届かぬ自分たちが
 悔しいような、惨めなような、それでも気がつけばルルドピアスの仕草や、幼子のような
 その純粋な心に魅せられていて、ありたけの優しいものであの子を包んであげたいような、
 甘く、苦しい、そんな気持ちになったものだったわ」
葉と根を切り分け、その瑞々しい青い切り口を、試し斬りを検分する時のような眼で
ブルーティアは見つめた。
「私たち姉妹が男ではなくて、本当にさいわい。もし王子だったら、今ごろはルルドピアスを競って
 レーレローザと決闘でもして、確実にどちらか片方はこの世にいなかったと思います」
「笑いごとじゃない話だ」
「ご心配なく。王女としての義務は心得ています。どうせどこかの家に嫁ぐのです。
 それが貴国であるならば、何の文句があるでしょうか」
「相手は誰でもいいと」
「選べる立場ではありませんから」
「レーレローザ姫は、相手をくじびきで決めると云っているけれど」
偶然、野菜籠を挟んで肘と肘とがまた触れた。
ブルーティアは返事をせず、そして今度は、インカタビアも、肘を引かないままにした。
この二人はその姉その弟と比べて、まだしも大人であったので、互いに黙って
野菜を切る作業を続け、それ以上は言葉にしなかった。


ハイロウリーン兄弟の再会を、ユスタスは、離れたところから見ていた。
先触れの使者に応じて、騎馬が近付いてくるのを、木立をぬう田舎道の途上まで
迎えに出たインカタビアとワリシダラムの二人は、やや緊張した面持ちで、彼らの
きょうだいの到着を待っていた。
しかし、それも、馬を降りたエクテマスが近付いてくるまでであった。
白い外衣をはねあげて鞍から降り立ったエクテマスは、兄と弟の姿を見ると、顔を明るくさせて微笑んだ。
「久しぶりだ。インカタビア兄。ワリシダラム」
「エクテマス」
「エクテ兄さん!」
たちまち彼らは仲の良い兄弟としての親しみを取り戻し、互いに腕を取り合った。
ユスタスは後方に控え、そして向こうでは、オーガススィの姫たちが三人揃って固まって、
こちらをちらちらと窺っていた。
ワリシダラムは兄に逢えた喜びに顔をほころばせ、声を弾ませて、遠くにいる姫君たちを指し示した。
「エクテマス兄さん、あちらが、例の」
興味なさそうに、エクテマスはちらりと姫君たちを一瞥した。
「骨盤が弱そうな新人っぽいのが三人か」
「え。骨盤」
「一晩十人に加減してやっても、陣中を一巡するまで、はたして持つかな。
 特にあの髪の長い細っこいのは、早々に使い物にならなくなりそうだ」
「はは……。-----笑えないんだけど、エクテ兄」
「冗談だ」
「お前が云うと冗談に聴こえない」
さわやかな青空の下に、沈黙が落ちた。
「そうだ、エクテ兄」
ワリシダラムは必死に話題をそらした。
「あちらの彼は誰なの。どうやら、どこかの、いいとこの人らしいけれど」
彼らはかなり後方で、馬を世話しているユスタスを振り返った。
ユスタスは兄弟の再会を邪魔せずに、エクテマスが馬から下りると、すぐにその馬の轡をとって
引き返し、土手を降りて川べりに向かい、馬に草を食ませていた。
馬は彼によく馴れて、旅の疲れをねぎって草を与えるユスタスの顔に頭を擦りつけるようにして
機嫌がよさそうであった。ユスタスは馬の首を抱いて、ちらりと土手の上の彼らを見遣り、そして
彼らをあっさり無視して、背を向けてしまった。
「分るか」
「そりゃね。いい馬があんなに懐いて。彼はきっと相当にお血筋のいい騎士だ」
「聞けば愕くような御方だ。後で教える」
「エクテマス、ルビリア姫はお元気か」
「そうだ、聴いたよ、エクテ兄さん」
そこだけは本当に憤慨していたものか、ワリシダラムは声を険しくした。
彼は彼なりの正義感があり、それに照らし合わせて、ロゼッタに対するエクテマスの行いは
断じて許せるものではなかったのである。
「イオウ家のご令嬢に命があって良かったよ。ルビリア姫が兄さんを厳重処罰するのも無理ないよ」
「そうだろうな」
「まるで他人事だな。何でも、衆目の中で、したたかにルビリア姫に打ち据えられたそうじゃないか」
「ああ。お蔭で夜中に想い出しては、いい思いをさせてもらってるよ」
インカタビアとワリシダラムは、エクテマスの顔を見た。
兄と弟のその注視を受けて、エクテマスは薄昏く微笑み、女に殴られた頬に
手の甲をすべらせた。
「特に、ルビリア姫がオニキス皇子に召し出され、その一部始終を幕一枚隔てた傍で拝聴し、
 見物させてもらった、そんな夜には格別なものがある。こたえられないね。まったくルビリアは素敵だ」
「おかしいぞ、お前」
実に健全かつ、まっとうな感覚の主であるインカタビアは、嫌そうに顔をゆがめた。
「そんなことを口にすることが、かっこいいとでも思っているのか」
「べつに」
「お前には愉快なことなのかも知れないが、そんな話、自分の胸に収めておいてくれるか。
 不愉快だ。せめてワリシーがいる前では、控えてくれ」
「------あのさ、ねえ、インカ兄エクテ兄」
これはまずいとみたのか、ワリシダラムは早口気味に割って入った。
「僕は思うんだ。とり肉の問題だって」
「とり肉」
この不穏な雰囲気の流れを変えるべく、ワリシダラムは兄たちの前で空中に何かのかたちを
両手で形作ってみせた。ワリシダラムの手は、繰り返し何かのかたちをまるく描いた。
それはどうやら、とりの丸焼きを示しているらしいのだが、遠くからそれを
見ているユスタスには、ワリシダラム王子が何をやっているのか、さっぱり分らなかった。
(弟まで、頭がおかしいんだな)
ユスタスは首を振り、馬に水を呑ませた。
「お前は、何が云いたいんだ」
「僕は思うんだ。とり肉の問題だって」
ワリシダラムは喉を鳴らした。
「誰だって、とり肉を食べるのに、「とり肉なんか食べてませんわよ」「とり肉なんて下品ですわ」
 なんて澄ました顔をするのは、かえって下品で、貧しい話だよね。とり肉をどうやって食べるか。
 その調理方法だって、そんなの個人の自由だよ。だって実際のとこ、とり肉は美味しいからね。
 もちろん僕だって食べるさ。積極的に好物だよ。出来たらむっちりした元気なのがいいな。
 いただけるものなら据え膳は喜んでいただくし、それも出来たら自分好みの味つけで
 あってくれたほうがより美味しい。これが誰に否定できるものか。
 だから大丈夫さ、僕はエクテマス兄のことを変な奴だなんて、思ったり、しないよ……」
「泣くな、ワリシー。冗談だ」
「いいや、今のは本気入ってるとみた」
「インカタビア兄も。悪かった」
「弟たちが兄を超えて大人になるのを見送る兄の気持ちなんか、お前たちには一生、分らないんだろうな」
馬を木に繋いで、ユスタスが土手の上を見ると、ちょうどハイロウリーンの王子がオーガススィの姫を
エクテマスに引き合わせ、紹介しているところであった。

(あれが、オーガススィの姉妹姫か)

頬にうっすらとした新しい傷のある姉のほうは、憧れのルビリアの弟子に逢えたことで
完全に舞い上がっており、先日、見合いを断った相手の顔を拝むだなんだと息巻いていたのも
どこへやら、手の甲にエクテマスから挨拶の接吻を受けると、微笑ましくも、ぽうっとなって、
その手を胸の前で押しいただき、感激の面持ちであった。
「星雲の心臓。星の騎士よ」
不意に、清流の流れにそう呼びかけられた。
流れる水面に、夜明けの光のような揺れがあり、そこに、リリティスの姿が映っていた。
(姉さん)
ユスタスは、腰を抜かしそうになった。
水の像から辿って、彼は視線を後ろに戻し、振り返って、眼の前の少女を茫然と眺めた。
よくよく見れば、違う点も多かったが、第一印象はぴたりと重なるほどに、その少女は
姉のリリティスに似ていた。
なんとリリティスに似ていただろう。そして母のリィスリと。
そしてその声は、どこかで聴いたことがあるものであった。
少女の美しい眸は、ユスタスを貫いて、ユスタスの向こうにある遠いものを見つめているようだった。
彼女は微笑んだ。
「騎士よ」
青い空が砕けて、ゆっくりとした雨のように流れ落ちてきた。
降り注ぐ空とは逆に、あたりの風景は逆巻きに空に昇り、渦を巻き、ユスタスに吹き付け、四方から押し寄せた。
はるか彼方に光が走るのが見えた。それは強い光源となって間近に迫り、ユスタスの眼前に幾つも飛び散った。
両腕を身の前に立てて、ユスタスはそれを防ごうとしたが、叶わず、持ちこたえることも出来なかった。
反射的に剣を抜こうとした手は、世界の力に圧されるようにして、石と化し、びくとも動かなかった。
頭上には、無限の星空があった。
(君は、誰だ)
(巫女の声は、星の騎士を選んで届く-----?)
(ユスキュダルの巫女は、コスモスの城にいるはずだ。君は誰だ)
「オフィリアの血を受け継ぐ、フラワンの騎士よ」
少女の声は、すぐ耳もとで鳴り響いた。
鳥のはばたきのような音がして、それはユスタスの身をふしぎな風の流れで包んだ。
お告げは、ユスタスの心臓へと、つめたい矢のように駆け下った。
「騎士よ。私を、コスモス城へと連れて往け」
「ルルドピアス!」
姉妹が斜面を駈け降りて来て、ルルドピアスを両側から支えた。
空一面に飛散っていた水泡が、清流の中におさまり、ざあっと音を立てて草がそよいだ。
草地に崩れ落ち、地に片手をついているユスタスを見て、姉妹姫は悲鳴を上げた。
空は、のどかに、青かった。
「ユスタス様に何をしたの、ルルドピアス」
少女はふと目覚めたかのように、焦点さだまらぬ眼をして、左右の少女と、それから茫然として
こちらを見上げているユスタスを見比べた。
「まあ」
「まあじゃないわよ。トレスピアノの、ユスタス・フラワン様よ。ユスタス様、大丈夫ですか」
「私たち、オーガススィから参りました。レーレローザ、ブルーティア、そしてこちらが
 ルルドピアスです。本当に愕きました。このような処ではありますが、聖家トレスピアノの方に
 ふたたび御眼にかかるとは。お怪我はありませんか、ユスタス様」
「うん……」
どれほどの時が経ったのだろう。
川のせせらぎの淵には、小さな花が揺れていた。のどかな田舎風景だった。
時間の経緯を示すように、どこかが、先刻と違っていた。
衝撃さめやらぬまま、ユスタスは付近に異変がないかと、眼をはしらせた。
ユスタスは真っ先にそれに気がついた。馬だ。馬がいない。
そこへ、土手の上から、その馬の嘶きが聞こえてきた。
ユスタスは立ち上がった。あれは、僕が此処まで乗ってきた馬だ。
道には、整列した小隊が出来ており、その先頭には馬に跨ったエクテマス、インカタビア、
ワリシダラムの三王子の姿があった。
ふらりと踏み出したユスタスの左右を、レーレローザとブルーティアが急いで支えた。
隊列は、ユスタスをそこに残して、エクテマスの号令に従い、すみやかに、動き出した。
ワリシダラム王子が、ユスタスの馬の乗っていた。
ユスタスは、わが眼を疑った。
そのユスタスを支え、レーレローザとブルーティアが説明した。
「ユスタス様。彼らは、ハイロウリーン陣へと戻るのです」
「フラワン家の方をお護りせよと、エクテマス殿から頼まれております。
 ユスタス様、私たちがユスタス様を、コスモスから離れた安全なこの宿営地でお護りいたします」
このオーガススィの女騎士たちは、何を云ってるんだ?
一気に頭がはっきりした。
はね起きたユスタスは二人の少女騎士が引き止めるのを振りほどいて、道に駆け上がった。
エクテマス率いる小隊は、王子たちを囲んで、速歩に変わろうとしていた。
本日、コスモスの駐屯地へは、本国騎士団を率いたハイロウリーン領主フィブラン・ベンダが
到着予定のはずだ。
そのフィブランの前に、身分的には彼の上となる、ユスタス・フラワンが、どの面さげて出られよう。
ハイロウリーンに迷い込んだトレスピアノの御曹司など、軍規をいたずらに乱す余計な
邪魔者でしかないはずだ。それでか。

(置き去り。此処に僕は置き去りか。それで僕を、此処まで連れて来たのか)

今までの数々の無礼な仕打ち。ロゼッタへのあの仕打ち。この仕打ち。
ユスタスの視界に、遠ざかってゆくエクテマスの後ろ姿が、隊列の人馬の向こうにちらりと見えた。
殺すぞ、あの野郎。
およそ、育ちには相応しくない暴言を胸に滾らせ、ユスタスは走って追いかけた。
「戻って来い、エクテマス!」
「------エクテ兄さん、呼んでるみたいだよ。彼が。ユスタス・フラワン様が」
「ほっとけ」
「しかし愕いたな。ご素性、フラワン家のご次男とは」
「引き返せ、エクテマス!」
インカタビアとワリシダラムは、馬上から後ろを振り返った。
「怒ってるみたいだよ。いいの」
「世間遊覧に、いつまでもわが軍に居座られても困る。もし彼の身に何かあったら、ルビリアの責任になる」
「それはそうだが」
「いいじゃない。お蔭でオーガススィの彼女たちを危険なコスモス入りをさせずに、コスモス領外に
 留めおく為の、格好の、説得理由ができたんだから」
「さすがフラワン家のご威光だな」
「お姫さま二人とも、ユスタス・フラワンの名に畏まっちゃって、もうコスモスに行きたいなんて
 ごねたりせずに、謹んで、ユスタス様をお護りする大役を果たす気になったんだから」
「エクテマス!」
「ともあれ、これでユスタス様と、オーガススィからの家出ご一行さまはひとまず物騒なコスモスからは
 離れて安全だ。良かったな」
「ああ」
「良かったね」
ちっとも良くない残された約一名は、憤怒のあまり、道端の木を蹴り、小石を握り締め、彼方に
去り往く隊列の影に向かって投げつけた。
「いけない。お鎮まり遊ばして、ユスタス様」
「ご乱心かしら。大変、どうしましょう。ルルド、ルルド、貴女も手伝って」
「ユスタス様。ユスタスお従兄さま」
三人の少女たちがユスタスにしがみつくのを引きずって、ユスタスは
ハイロウリーン陣へと帰参する王子たちに向かって罵倒を浴びせ、剣を振り回した。
そんな一同とユスタスの怒りを後にして、ハイロウリーンの王子たちは、一路、父フィブランの待つ
コスモス駐屯地を目指して、街道に乗り込み、消えていった。


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コスモスに日没が訪れた。
大軍が押し寄せても、コスモスの原野は彼らを抱合するほどに広く、その穏やかな
景観は変わらない。
赤い雲の流れる空の下、夕餉の支度をする炊ぎの煙が方々から上がっており、それは
まろやかな夕暮れの風の中に、郷愁を誘うような、少し淋しい、焚き火の苦い匂いをのせていた。

「ナラ伯。こちらであったか」
「これは、オニキス皇子」

ナラ伯ユーリは、凭れていた柵から身を起した。
火をつけようとしていた葉煙草を仕舞うのを見て、オニキスは首をかしげた。
「ユーリ。煙草をおのみとは存じ上げなかった。配給を回すようにルビリアに云っておこう」
「いや。これは私物で。官給品のは味が合わぬのです。お気遣いなく」
何故に食客に過ぎぬお前がルビリアに配給を指示するのだという細かいことは、ユーリは
特に気にならぬ性格であった。
お洒落な貴人に相応しく、煙草の入れ物まで凝っている。
といって、ユーリのそれは厭味のない、いかにも生まれつき上流に生まれた者らしい、趣味のいい
嗜好であった。
「本日はご苦労さまで御座いました。オニキス皇子」
「いや。わたしよりも、そなたの方がお疲れのはず」
「フィブラン様との会見が終わられ、幕やから出て来られるところを、此処より拝見しておりました」
「そこで、皆々のかねてからの懸念どおり、ブラカン・オニキス皇子は、皇子の称号をひとまず
 返上することで、合意となった」
「そうですか。いや、現在ジュピタ皇家がご成立である以上、皇子はまずいとは思っておりました。
 その称号一つで、謀反ありと決められてしまう可能性もありますから」
「よって、オニキス皇子は、ブラカン・オニキス侯となる。といっても便宜上の、暫定的な呼称であるがな」
「オニキス侯ですね。承知つかまつりました。そのように御呼び致しましょう」
「ナラ伯。ルビリアに代わり、礼を云わなければ」
「わたしにですか」
オニキスはナラ伯の隣りに並んで、柵に凭れた。
カルタラグンの血統らしく、すらりとしたオニキスのその影が、赤くそよぐ草地に落ちた。
「ルビリアのこと。本国への報告書に、加減をしたのでは」
「ああ」
夕陽に横顔を向けたナラ伯は軽く笑って手をふり、適当に誤魔化した。
「そんなことが出来るほどわたしは器用じゃありませんよ。ありのままに書いたまでです。
 実際、陣中はただしく、何の乱れもありません。まあ、到着そうそう、ルビリアがエクテマス王子を
 張り飛ばしているのを見た時は、いったい何事かと仰天したのは確かですが」
「お偉方のご機嫌を損ねるのではないのか」
「お追従よろしく、ここぞとばかりにコスモス駐屯ルビリア隊の悪口でも書き連ねて送れば、
 それで わたしの立場が良くなると?」
ユーリは笑って首を振った。
「そんな方法で我が身の安泰を得ようとは思わない。監察役を任されておいて
 その手の逸脱をするくらいなら、その時は、わたしは退官を選びます。家柄だけが取得の
 つまらぬ男ですが、わたしにも、それくらいの気組はあります。宿営地において、杓子定規の
 軍規が通用するはずもない。お偉方がルビリアの過失を今か今かと待っているのは知っていますが、
 それに迎合してやる義理もなく、何よりもそういった内部腐敗はハイロウリーンの為になりません。
 わたしはそのままを報告したまでです。ルビリアに対してお咎めがないというのであれば、それは
 フィブラン様がそうご判断されたこと。わたしは何もしておりませんよ」
よどみのない明快な口調はかえって、彼が最大限にルビリアへの配慮を取りはからったことを示していた。
二人は柵に肘をかけて、夕闇に包まれてゆくコスモスの丘陵を眺めた。
お伽話の国。
そう呼ばれるほど、牧歌的で、どことなく郷愁を誘う、小さな古い国である。
水色の草波が、朱い雲に向けて、この日の別れを告げる歌をうたってそよぎ、森の上には
早出の月が真っ白な小石のように、顔を出していた。
「ナラ伯殿は、ルビリアと同期であられたか」
「はい。ルビリア姫と、わたしと、あとイカロス王子。同期といっても、少年騎士団において
 一時期が重なっていたというだけで、ルビリアは瞬く間に頭角を表して、正規騎士団に
 抜擢されてしまいましたが」
「そこに、不正はなかったと」
「何を云われます」
批難がましく、ユーリは、オニキスの顔を見た。
「失礼ながら、当国の騎士団はそのようなまやかしが通用するほど甘くはありません。
 伝説の時代には猛攻で鳴らしたタンジェリンの血は強い。
 当初ひやかしていた連中も、剛の者が次々とルビリアに打たれて地に伏して血反吐を吐くのを
 実際に眼にすれば、黙っていったものでした」
「そんなに強いか。ルビリアは」
「本当に何を云われます」
今度こそ心底あきれて、ユーリはオニキスを咎めにかかった。
「ルビリア殿は稀なる高位騎士。高位騎士ほどの位が、名のみの騎士であり得ましょうか。
 あの方が先頭きって走る時、その軌跡は血吹雪になって残るのです。竜神の血こそは
 まことの神秘、あの人の黄金の血は傑出しています。ご覧になれば得心されますよ。
 人はそれを執念と呼びますが、わたしはこう讃えたい。
 あれぞタンジェリン騎士の真髄、あれこそが、ガーネット・ルビリア・タンジェリンの戦いであると。
 ルビリア殿に遅れずにぴったり附いていけるのは、お弟子の、エクテマス王子だけです」
それをどう聞いたものか、オニキスは薄笑いを浮かべ、鼻で嗤った。 


ユーリは先ほど仕舞った煙草入れを取り出して、「失礼」と断ってから、松明まで歩いていって、
一旦拾った小枝に火を移してから、咥えた煙草に火をつけた。
彼はオニキスを振り返った。
「侯も、いかがです」
煙草入れから一本オニキスに差し出して、オニキスがそれを咥えたところで、ユーリは顔を近づけ、
手で風を遮りながら、自分の煙草から火を移してやった。
オニキスがじっと自分を見つめていることに気がついて、ユーリは「失礼しました」と、如才なく身を引いた。
黄昏の空にゆるりと煙草の紫煙が上がった。
ナラ伯が私物として持ち込んだ煙草の味は、癖があるものの、悪くはなかった。
オニキスの銀色の髪は残照を吸って赤く輝き、その秀麗な横顔に刻まれた年月を、夕闇の中に
浮き彫りにした。
「ルビリアの話だが」
「はい」
「軍内部に味方はいない女だと思っていた」
 オニキスの身も蓋もない言い草に、苦笑して、ユーリは煙をくゆらせた。
「何しろルビリアの人物批評眼が容赦ないだけあって、煙たがられていましたからね。
 あの人がいちばん嫌ったのは他人の話を手柄顔で語ることで、自分の評判を上げようとする連中で」
仕方なさそうに、ナラ伯は微笑んだ。
ルビリアのことをしたり顔で語る者どもは、一人残らず、ルビリアの努力を踏み台にして
己の美談やご親切ぶりを世間に自慢するような、人間の屑だった。
その蔭でルビリアが、彼らのその目的の為に、どれほど低く、興味本位に、人々から扱われていたことか。
本当に、どれほどの過負担が、ルビリア一人の肩にかかっていたことか。
ユーリは指先で煙草を叩き、灰を草地に落とした。
「わたしはルビリアの味方でも敵でもありませんよ。ただ、わたしにも吐き気がするほど
 嫌いな人種がいるというだけです。だからこれはむしろ、わたしの問題ですね。
 何ひとつ相手の為になることはしないのに、自分の為の美談を作り上げては方々に
 売り込んで歩いて回る。そんな輩はどこにでもいるにせよ、当人たちが
 何かを思い違えた重要人物気取りで、他人の領域に土足で踏み込み、その顔を割り込ませ、
 しかも人の運命まで勝手に決め付けて世間にたれ流すだけに、やはり、不愉快なものですから」
「これは、ユーリ殿こそ、辛らつな」
「労なくして自分の評判を高めるには、過干渉によって誰かを低く語るのが、いちばんたやすい。
 言葉の中身はすべて借り物、人を踏み台に、自分さえ偉人に見えればそれでいいというのです。
 その手の人間が嫌いなことにおいては、イカロス王子とまったく同感です」
「なるほど。さすがはフィブラン殿に感化を受けたナラ伯、ご立派なことだ」
それには応えず、名家の若旦那は煙草の煙を夕空にのんびりと吐き出し、
虫も殺さぬような甘い顔で、目元をほころばせるにとどめた。


山の端に日が落ちて、朱色の名残に鮮やかに燃えた空も、そろそろ青に変わろうとしていた。
等間隔に点された松明をぬって、従者がユーリを探しに来た。
ナラ伯ユーリ様。ユーリさま。
「わたしは、ここだぞ」
ユーリが片手を挙げた。夕闇に包まれた草地をぬって、従者が駆け寄ってきた。
「本日はフィブラン様の幕やで晩餐となります。フィブラン様は陣内を巡られており、
 もうしばし時がかかりそうだとのこと。それまでのお口しのぎに、軽食を天幕のほうにご用意いたしました」
「いらないよ。それはお前が食べなさい。その代わり、先に、風呂と着替えの用意を」
従者を立ち去らせると、ユーリは手巾を取り出し、手持ちの煙草の残りを
それに包んで、オニキスに差し出した。
「どうぞ。わたしはまだまだ国許から送らせた分がありますから。ご入用ならば、後で木箱ごと
 卿の天幕に届けさせます」
「ありがたくもらおう」
「侯は、この情勢、どうご覧ですか。戦になると思われますか」
「この情勢とは」
各国の陣屋の篝火が、地上の星座のように一面に散っている。黄昏の丘陵に、ユーリは両手を広げた。
それは闇が深まるにつれて、しだいに獣の眼のように輝きを強く増し、互いに互いを牽制して、
あちらこちらで対峙しているのであった。
「こうして各軍が終結したる以上、ミケラン卿が、果たしてこれ以上コスモス城におわす御方に
 何らかのはたらきかけをするか否かです。そうなれば騎士はこぞってユスキュダルの巫女さまの御為に
 立ち上がり、ミケラン卿に刃を向けることを辞さぬでありましょう。
 しかしながら、ミケラン卿は皇帝陛下のご友人。
 となれば、諸国はジュピタ皇家につくか、ユスキュダルの巫女につくかで二分され、
 帝国の存続を揺るがせにするような、大戦ともなりかねません」
「それはないであろう。他でもない、ハイロウリーンのフィブラン殿と、ジュシュベンダの
 イルタル殿は、まさにそうなる最悪を避けるために、こうしてコスモスに
 自軍を派遣されたのであろうから。たとえそれが、帝国の双璧と謳われるそこもとらの、
 対抗意識に過ぎぬ処置であったとしてもな」
肩にかかる銀髪を、簡単に後ろで結わえ、オニキスはいなした。
流星の年に討たれて果てた弟皇子ヒスイとは異なり、生母の身分が極端に低く、
政変以前からとうに問題にもされていなかった、日蔭の兄皇子である。
政変の混乱の中で辛くもサザンカに亡命したものの、その後二十年にわたって、いわば
命が保存されていること自体が侮辱的な、飼い殺しの存在として、自暴自棄ともいえる
世捨て人同然の乱脈な生活を、帝国の片隅で送ってきた男である。
長年のご乱交と懶惰がたたり、その年季の入った歪んだ根性を、卑屈と鬱屈と卑しさに凝固させ、
何ともいえない不快をその顔容から漂わせている男。
しかしながら初対面の折、ナラ伯ユーリの眼に、オニキスは、何と美丈夫な、堂々たる
御仁かと映ったものだった。
そして、いまも、その印象は、完全には落ちていないのだ。

(もしも、運命の織り糸が、あと少し違っていたならば)

たとえば、カルタラグンの強力な支持国であったタンジェリンが健在であったなら。
あの夜皇居に居合わせていた領主夫妻をはじめとするタンジェリンの指揮系統を
ミケラン・レイズンが抜かりなく、残らず討ち果たしていなければ。
或いは、皇居に火を放った直後の、怒涛のカルタラグン領への進行を、いずれかの国が
決起して、わずかにでも阻止していれば。
ブラカン・オニキス・カルタラグン・ヴィスタビアこそは、亡くなった弟に代わり、カルタラグン王朝
第四代皇帝として、ヴィスタチヤ帝国を治めていたかも知れぬのである。
(しかし、それはなかった)
(ミケラン卿は、ヴィスタチヤ帝国の正統なる王、ジュピタ皇家のゾウゲネス皇子を担ぎ上げていた。
 つまり、ヴィスタチヤそのものを、カルタラグン討伐の、その旗印としていたのだから)
誰がそれに逆らえようか。
それはミケランの、完璧な勝利であった。
どこの国の助力も請わず、本家にすら無断で、ミケランは蓄えた私財をもって、あの夜、
この帝国を相手にした大博打に出て、そして勝ったのだ。
 ------皇居炎上
 ------ジュピタ皇子ゾウゲネス様、カルタラグンの属領エスピトラルを突破、カルタラグン領にご侵攻
 ------カルタラグン領主夫妻、および世嗣の君ヒスイ王子、ヴィスタにて落命
 ------カルタラグン壊滅
遠い北国に、頻々と入ってきたそれらの急報は、その第一報から、カルタラグンを
皇帝代行の座から引きずり落とし、ジュピタ皇家のゾウゲネス王子の名こそを、皇軍として
認めているものであった。
あっけないほどに、僅か数日にして、聖騎士家カルタラグンは崩壊し、この夜から消え失せた。
宵風に松明の粉が舞い上がり、黄昏の空に流れた。
ナラ伯は、ハイロウリーン陣を見つめた。
それは、組織的に無駄なく築き上げられた、小さな邑ともいうべき、立派な陣であった。
「二十年前。ルビリア姫が、ハイロウリーンに辿りついた時のことを、わたしはよく憶えています」
夕暮れの静かな色のせいか、ユーリの声は、すぐ近くから聴こえた。
レイズンの追捕は、逃亡したルビリア姫が当然、故国タンジェリンか、または巫女の庇護を求めて
ユスキュダルを目指すものと思い、そちらに重点的な包囲網を敷いていた。
ヴィスタの監獄からルビリア姫が脱走して、数ヶ月。
ルビリア姫の行方は杳として知れなかった。
「逃亡には、お国が手助けを?」
オニキスはユーリを見た。ユーリは首を振った。
「いいえ。謀反人側となったヒスイ皇子の妃候補であったルビリア姫に
 手を差し伸べる国は、当時ありませんでした。ただの一国も」
「それで、よく逃げ延びられたものだ」
「死罪が下るのを待つばかりであったルビリア姫を牢獄より救出したのは、ヒスイ皇子の
 ご友人の騎士たちです。彼らは一旦は国外に逃れながらも、他の者たちのようにユスキュダルを
 目指さず、ルビリア姫を助け出すために都に戻って来たのです。半数以上がその道程において
 討たれて死んだとか」

 ------お選び下さい。ルビリア姫。ご両親やヒスイ皇子の後を追い、ここで果てますか
 ------それとも、ヒスイ皇子のご無念を、お引き受けになりますか
 ------御身はタンジェリンの姫。それでこそ、聖騎士の血を受け継ぐ御方です。
     貴女をお救いいたします。さあ、行きましょう

「それは、誰であったのだ」
「今となっては、名もなき若い騎士。一説によれば、その後ジュシュベンダに逃亡し、
 かの地で孤独に死んだとか」
「ジュシュベンダ……」
「そう。ハイロウリーンとは反対方向です。ルビリアはその頃のことを
 よく憶えてはいないそうですが、最後に供は一人だけに減っていて、その者とも
 途中で別れたとか。自害か病死かは知りませんが、ジュシュベンダで生涯を終えたという騎士は、
 おそらく、その者のことでありましょう」
「不可解だな」
「そうでしょうか。或いは、その者がレイズンの追手をすべて引き受けて、ルビリアを北に逃がしたとも
 考えられます。ハイロウリーンの国境哨戒隊の前にまろび出て、ハイロウリーンへの亡命を
 求めたルビリア姫は、放浪の厳しさを示すように、傷だらけ、泥だらけの格好であったとか」
オニキスは唸り、首を捻った。
「数ヶ月。都から脱出してから、ハイロウリーンに保護されるまで数ヶ月とな。
 その数ヶ月は、ルビリアは何処に潜伏していたのだ」
「ルビリアは憶えていないそうです。無理もない、ヒスイ皇子が殺されるのを目の当たりにし、
 その後の息詰まるような潜伏行、しかもルビリア姫は、ヒスイ皇子の子を懐妊しておられたのですから」
「何だと」
彼らが凭れていた柵が大きく揺れた。
オニキスは愕いて、大声を出していた。
「何だと。あれが、ヒスイの子を宿していただと」
「潜伏行の途上で、流産されたそうですがね」
「流産だと……」
「ハイロウリーンに保護された直後、ルビリアの身体検査に立ち会ったのは、わたしの母でした。
 お尋ね者とはいえ、姫君ですから、貴族の婦人がその監督を任されたのです。
 わたしは父に連れられて、あの人を見に行った。少し階下になった小さな室の中に
 ルビリアはいて、大勢の者が、そんなルビリアを見に来ていました。
 父が云った。あれが、亡くなられたヒスイ王子の妃になるはずだったタンジェリンの姫だよと。
 大勢の人間が、まだほんの少女だったルビリアを指してそう云っていました。
 ご覧あれが、ジュピタ皇家をないがしろにしていた、カルタラグン家の妃におさまるはずだった姫だよと。
 ルビリアは壁を見つめていて、誰の姿も眼に入っていないようだった」
「ヒスイの子を、ルビリアが宿していたと」
まだ茫然として、オニキスは繰り返した。
森の上には、白く輝く小さな月が昇っていた。
すっかり暮れた夜空には、金や銀の星がちらちらと、天海に瞬き出していた。
夜空は今宵も蒼く、深く、そして誰も、星の世界の静寂へは行けなかった。
「莫迦な。そんなはずはない」
「流れたのはヒスイ皇子の子であったとわたしは信じています。
ルビリアの為にも、せめて、そうであったはずだと」
「それは、どういう意味か」
鋭くオニキスは問い返した。ユーリは、灯りに包まれたルビリアの天幕から眼をそらさずに云った。
「二十年前、全ての連絡を絶たれて、ルビリア姫は塔に監禁されていました。
 虜囚となり、侍女らとも引き離されて、たった一人きりで、敵の真っ只中に」
「………」
「当時のことをルビリアが『憶えていない』と云うのです。どうして、それ以上訊き出せます。
 子は流産したそうです。ルビリアがそう云うのです。よく憶えていないが、夜露をしのいでいた
 何処かの瓦礫か小屋の中で、ひどく具合が悪くなり、そのようなことがあった気がすると。
 それから騎士と別れて、ハイロウリーンを目指したと。
 故国タンジェリンでも、不可侵トレスピアノでもなく、騎士国ハイロウリーンです。
 北の星だけを見つめて、そこに向かって歩いてきたと。騎士となる為に。それだけの為に」
「ナラ伯」
「はい」
ユーリを見据えたオニキスの語調には、いつもの軽蔑的な冷笑ではなく、怒気が含まれていた。
「おそらく、それは今日この日まで誰にも知らされたことのない、フィブラン殿および
 限られた者しか知らぬ、ルビリアの過去のはず。ルビリア自身が口にせぬことを、
 いかなる権限をもって、そなたが軽々しく、部外者に教え広めるのか」
「さあ」
柔和を崩さず、ナラ伯は月を仰いだ。
遠くで、ふたたび従者が彼を呼んでいた。ユーリ様、湯浴の支度が整いました。ユーリ様。
「今行く。-----では、オニキス侯、また後ほど。フィブラン様の幕やにて。今晩は久しぶりに
 ご馳走にあずかり、美酒を楽しめそうです」
「待たれよ、ナラ伯ユーリ殿」
追ってきたオニキスに、ユーリは困ったような笑顔を見せた。
しかし彼は松明の明かりを挟んで、きちんとオニキスと向き合った。
「仰るとおり、今の話は、今日この日まで、誰にも漏らしたことのない話です。
 このことは、亡命直後にルビリアの身体を検診したわたしの母、母からそれを
 聞かされたわたし、それとフィブラン様しか知らぬことです。
 わたしはこの話を、ルビリアと付き合いのあったイカロス王子にも、ルビリアと
 親しい者たちにも、誰であろうと、お伝えしたことはありません」
この温厚な男のどこに、と思うほどに、ユーリの態度は決然としていた。
そこにはもっと根深い怒り、この男なりの憤りが隠されているかのようであった。
誰ひとりとして、ルビリアのまことの力となってやる者はいなかった。
おのれの美談の為にルビリアを人前に突き飛ばして見世物にする者はいても、
ルビリア本人を思い遣り、大切にする者は、誰ひとりとしていなかった。
そしてそれは、ハイロウリーン王家へ遠慮しなければならなかった、ユーリとて、同様であったのだ。
「誰にも云い触らしたことはない。ただでさえ辛い立場のあの人を
 さらに噂の中で鞭打つような、どうしてそのような非道ができるものか。
 他人を晒し者にして自分だけが得をする。そんな真似がどうして出来るものか。
 まったく関係のないところに首を突っ込み、さももっともらしい解釈を垂れて、ひとかけらも相手の
 為にならぬことをしては、相手にすべてを負わせて、それが運命だと知らぬ顔をして逃げてゆく。
 わたしは詰まらぬ男ではありますが、そんな種類の人間とは断じて一緒にしないでもらいましょう。
 それなのに何故、と仰いますか。ブラカン・オニキス侯。
 わたしは、家柄だけが取得の詰まらぬ男ですが」
とユーリはまたもや云った。
不遇の皇子として生涯を送ってきたオニキスを見る、彼の眼は、オニキスの
良い点も悪い点も、全て包括して、お見通しのようであった。
「家柄だけが取得の男ですが、これでも、打ち明ける相手を、ルビリアの為に選ぶという
 分別と配慮くらいは、持っているつもりでいます」
付け加えて、これでも人を見る眼だけはあるつもりです、ブラカン・オニキス・カルタラグン殿下、などと
お世辞を述べたところで、何になるだろう。
彼の前にいるオニキスはその手に、彼が分け与えた煙草の包みを持っていた。
そんな些細な品でご機嫌をとろうとは、これではまるで賄賂か媚だ。
ユーリはおのれの偽善ぶりを自嘲した。
こんな男に、ルビリアを頼まねばならぬとは。そして、こんな男だからこそ、それが頼めるのだ。
失われたカルタラグンの栄華は、既に遠い昔のことになりつつある。
おそらくは、過去に囚われたままのルビリアに、この男ほど同調できる者はこの世に他に、いないのだ。
ナラ伯ユーリは、オニキスに頭を下げて、立ち去った。


「続く]


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