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[ビスカリアの星]■七一.


机の真ん中に積み上がった紙束は、その高さ、あなどれないものがあった。
しずしずと持ち運ばれて、紐をほどいて据えられた、その分量に、パトロベリは
声なき恐怖を咳払いに変えて、窓の方へ顔を逸らした。
それはエステラとて同様であった。
さすがに露骨な拒絶こそ顕わにしなかったものの、その眼には、怯えに似たものすら浮かんでいた。
女官がさがると、彼らは、その紙束を凝視した。
皇居の一隅、その調度から婦人の宮であることが知れる、明るい色調の豪奢な部屋である。
やがて観念し、パトロベリとエステラはいやいや、渋々、机の上の紙束を挟んで、
向き合って椅子に坐った。
一枚ごとに読みえたものから相手に渡し、二人で順繰りにそれを読んでいく。
すぐに飽きた。彼らの眼は死んでいた。
「お茶をいかが。パトロベリさん」
「何度めだろうね。もらいましょう。エステラさん」
「お茶でも呑んで、休憩になればと思いましたの。お砂糖は二つでしたわね」
「酒は辛党ですが、お茶に限っては甘党です、エステラさん」
二人は、うんざりした顔を見合わせて、どちらともなく、ため息をついた。
パトロベリは、紙片を束の上に放り出し、脚を投げ出して、椅子の背にだらりと凭れた。
「こんな目に遭うくらいなら、外で草むしりでもしてたほうがましだ」
「そうなさったら」
疲れた眼を擦りながら、エステラも虚ろな顔を庭の緑に向けた。
「お天気もいいし。残りはわたくし一人でも、何とかなりましてよ」
「あんた一人をこんな苦役に従事させるわけにはいかないだろうが。だから僕ぁ、こうして、
 生まれこの方読む羽目になるとも思えなかった代物に、今日も付き合ってるんだ」
「お心に泣けます。パトロベリさん」
「お世辞なんか云わなくていいよ」
二人は、呪わしい眼つきで、残りの紙束を睨みすえた。
試験と一緒さ、とパトロベリは気を引き立てるように、紙片の端をくるくる丸めた。
「要は、勘をはたらかせて、どのあたりに感想を求められるかを予測しながら読めばいい」
「畏れながら、ご勉学はいまいちだったのではありませんこと、パトロベリ様」
「うん。半分は大当たりするんだけど、半分は外してた。僕の誤射の腕前については、
お抱えの家庭教師を号泣させてたっけ」
「もう結構ですわ」
「半分は的中するんだぞ。あたーりー」
「英明のほどが天下に聞こえましまする大君イルタル・アルバレス様の、ご親族さまへの、
平生のご苦労のほどがしのばれます」
「ところで、どうして侍女が来るんだ?」
「貴方が、盛大に呼び鈴を鳴らしたからです。ほかに何があるっていうの」
エステラはパトロベリの手から呼び鈴を取り上げて、手の届かぬところへ遠ざけた。
用もないのに呼びつけられた侍女は、去り際に申し添えた。
「もうじきに、皇后さまがこちらにお渡りになられます」
「皇后さまが。わかりました」
応えるエステラの微笑みには、無理があった。
皇后、ゾウゲネス皇帝の妻、帝国皇妃である。
娘のフリジアによく似た、ふんわりとした雰囲気のご婦人で、お茶会や音楽会や
演劇鑑賞がご趣味である。
朗らかな笑みを絶やさぬ、おっとりとご寛容な方であるからして、構える必要はさほどない。
が、この場合それはあまり、慰めとはならない。
美々しきものなら何でも両手を合わせてうっとりな、あのフリジアの母である。
しかも一人でそれを愛でるのではなく、御付の侍女や貴婦人たちと、きゃあと騒ぐのが、お好きである。
気を取り直し、二人は大急ぎで、黙読の続きに取り掛かった。
「僕よりも、女のあんたの方が、分がいいよ」
椅子にだらしなく引っかかったまま、パトロベリはぼやいた。
「この手のもの、読み慣れてるだろ。出し惜しみせずに山を教えろよ。何頁め?」
「だから申し上げておりますわ。勘などに頼って、いいことなどありませんと」
「時間がないんだよ。ねえエステラ、銀髪のこいつと、黒髪のこいつと、どちらが女の人にとっては
 いけてるわけ。銀髪はお貴族さまで、すかしてんのさ。黒髪は元が船乗りで、口は悪いが実は
 某国の王子さまだそうだよ。ところが銀髪もそれに負けずに廃嫡された皇子の血を引いているらしい。
 顔も負けてないがお血筋も同格の決定版、それでいて、どちらも乙女心をくすぐる長髪なのさ。けっ。
 ねえ、あんたならどっち。どっちを選ぶ」
「横からうるさいわ。黙っていらして」
「僕なら銀髪を選ぶなぁ。この彼、あたりは優しいけど偏屈そうだ。だったら尚のこと自分だけに
 特別に優しくしてもらったり、熱くなるところを見てみたいじゃあないか。ああ成程ね。
 女の人たちには、こういうところが、『お素敵』なのかな。
 まあ一度くらいは関係もってもいいんじゃない。長続きしないと思うけどね。あっはっは」
「お二人で、楽しそうに、何をしているのです」
突如、庭に続く扉窓が外から開かれた。部屋の中の二人はとび上がった。
直立不動となった客人たちに、皇太子ソラムダリヤは、母譲りの朗らかな笑顔で挨拶を返した。
「おはよう」
「おはようございます。ご機嫌うるわしゅう。ソラムダリヤ殿下」
「問題が山積みで、うるわしくはないけど、あなた達の顔を見たら気分が良くなりました」
ソラムダリヤは室内を見廻した。
「何をしているの。パトロベリ、その紙束はなんですか」
「これは。何と申しますか」
「皇后さまがご執筆なされた、小説を、拝読させてもらっておりましたところです」
「母上。皇后さまの」
「はい」
ソラムダリヤの顔にすぐに浮かんだ、曖昧なものは、彼もまた、皇后の被害者であることを教えていた。
机の上の紙束を見る皇子の眼は、政務の面倒な書類を見てもそうはなるまいといった様子で、
すぐに逸らされた。
皇太子は、さりげなく両手を後ろに回して、机から距離をおいた。
「それは。大変なことでした」
「いえいえ。とんでもない。とてもお素敵な物語で」
「光栄にも、下読みの栄によくしましたの。銀髪と黒髪の、わけありの王子が出てまいりますのよ。
 何と申しますか、隅々まで、きらきらな物語ですの。殿下はもうお読みになりまして」
「銀と黒の王子の件については、あまりにも、お素敵で、わたしにはよく理解できないようです」
「ご尤もですわ。あら、いいえ。お忘れになって」
「どうぞ、皇后さまには、遠慮なく、ご両名から忌憚のない意見を述べて差し上げて下さい」
「皇后さまはもうじきにこの部屋にお渡りになられますわ」
「そうですか。それでは、お邪魔をしてしまったようです。では」
「お待ち下さい。ソラムダリヤ殿下」
「逃げるなんて、ずるいですわ」
一刻後、室を訪れた皇后が見たものは、開け放されたままの庭に通じる窓と、机の上に
きちんと束ねられた皇后の原稿、それと、パトロベリが書きあぐねているエステラから筆をひったくって
大急ぎで書き置いておいた、実に行き届いた、彼らしく思い遣り深い、つまり、相手の心情に配慮し、
そのおつむりの程度に合わせた、感想であった。

『謹上。皇后陛下
  御作を拝読する大役にあずかり、まことに光栄。
  皇后陛下のお書きになられたお話には、新緑にも似た瑞々しい感性と、
  大人になっても失われてはおらぬ、物語への愛情が満ちてございます。
  まことに、皇后陛下のその繊手で紡がれました物語こそは、永遠なる乙女心でなくて
  何でありましょう。古来より、いかなる物語も、現を離れたひとときの夢と想像を失ったものには
  読み手の心を揺り動かす生命が宿ることはありません。
  何故ならばそれこそは、見果てぬ憧れという名の、人の心を潤す、夢の甘露であるからです。
  皇后陛下に申し上げます。その要素こそ、いついつまでも女人の中に色褪せぬ純潔を保ち、
  その心を干からびさせることのない、芳醇な妙薬でなくて、なんでございましょう。
  国母たる御方が、女人らしい繊細さに満ちたこのようなお話を愛されることこそは、その反映を
  賜るわれら臣民の歓びでございます。
  御作を包む、豊かなるものを、わたしは皇帝陛下の治世にある、このヴィスタチヤ帝国の
  平穏と重ね合わせて想わずにはいられません。
  すれからしとなったこの身には、秘密の花園を見ているがごとき、至福のひと時でございました。
  
         -----パトロベリ・アルバレス・ジュシュベンダ』


逃げ出した三人は、皇子宮へと立て篭もり、そこでようやく、人心地をつけた。
皇太子は「雑務を済ませて、すぐに戻ります」と断って書斎に入り、居間にはパトロベリと
エステラが残された。
パトロベリはエステラの手を離した。
大急ぎで庭を駈ける間、遅れがちなエステラを、パトロベリがここまで引っ張ってきたのである。
「屋敷が火事になって皇居にお泊りなんて、優雅なご身分じゃあないか」
「火事は口実です」
「銀髪と黒髪。ねえ、どっち。あんたはどっちが好きなの」
「しつこい殿方は嫌われましてよ」
「どうせ僕は馬面の茶髪だよ。白馬の王子さまにはなれないさ」
「あら。そんなこと」
意外にも、エステラは、くるりとパトロベリに向き直った。
そしてドレスをつまむと、おもむろに、いと優美に、エステラはパトロベリに礼をした。
「御礼申し上げますわ。パトロベリ王子さま」
面食らってパトロベリは、いじっていた花瓶の花から手をはなした。
「ビナスティを、獄塔から逃がして下さって」
「ああ。そのこと」
もじもじとパトロベリは落ち着きなく、視線をさまよわせた。
「勇気ある行いでしたわ。お立場上、ひと言も口にはされませんが、皇太子殿下も
 そのことについては、内心ではパトロベリ様に感謝し、感激されておられます」
「ああねえ、あのことねえ、そんなことあったっけ。それはきっと僕じゃない」
よく分らないことを口の中でごちゃごちゃと丸めて、パトロベリは、知らん顔を決め込んだ。
そんなパトロベリを、エステラは、例の、彼女なりの男性批評眼にて、とくと眺めた。
敏感にもその視線を感じたパトロベリは、死角へと回る。
エステラはそれを追う。
双方、無言で位置を変えた。
先日、この皇子宮の側廊で不埒未遂を仕掛けてきたジレオン・ヴィル・レイズンの
あの小憎たらしい余裕綽々を評価するわけではないが、あれと比べて、男としてのその態度、
その物腰、何という違いであろう。
苛々してきて、エステラはパトロベリに背を向けてみた。
すると、案の定パトロベリは、エステラから見える位置に戻ってきて、何やら気をひこうと
隅でぐずっている。エステラは手を変えて、長椅子に坐り、幼児を甘やかす子守の女のように、
座席を叩きながら、彼に微笑みかけてみた。
「パトロベリさん、隣にお座りなさいよ。仲良くお話しませんこと」
「その手にはのらないよ」
「んまあ」
(この方、本当に、ジュシュベンダの王子なのかしら)
そこへ、ソラムダリヤが戻って来た。
さすがに年下の皇太子の前では半端のままでいられはしないのか、たちまち
パトロベリはしゃっきりと身をただし、皇子の為に椅子を用意した。
「殿下。ご政務、お疲れ様でございます」
「ありがとう、パトロベリ。今朝の分は終わりました」
「本当に頭がさがりますわ。朝から晩まで、暇をみては、机に向かっていらっしゃる」
「子供の頃からの習慣で。その日のものはその日のうちに片付けないことには、
 それ以外の過ごし方は、かえって落ち着かないようです」
「殿下は、ミケラン卿から、ご教育を受けられたとか。さぞや厳しい英才教育だったのでは」
「そう思われがちなのですが、実際には正反対です。彼は放任主義で、そのかわり
 わたし自身の意志や、わたしの勉学の環境だけは、何よりも最優先に、最適に守ってくれていました。
 こちらが怠けても、何も云わない人でしたから、かえって自分で気をつけるようになったものでした。
 彼は、最初からこちらを独立した一人の個として、尊重し、一人前のように扱ってくれていましたね」
人を分け隔てすることのないソラムダリヤは、ジュシュベンダの問題王子パトロベリに対しても
何ら含むもののない、ほがらかな態度で応対しており、そこがまた、
エステラをして、皇太子の好感度を上げていた。
もっとも、ソラムダリヤはそれまで、ジュシュベンダにそんな王子がいたことなど、すっかり
失念していたらしいから、もともと偏見もなかったようである。
皇子宮におけるソラムダリヤは、略冠もつけず、身につけるものもさっぱりとしていて、
皇太子と知らなければ、感じのよい学問所の院生といった風である。
物腰には品性があり、温厚で真面目、ついでに万人に親しみを抱かせるほどには少し
ぬけたところがあり、要するに、人が安心して好意を寄せたくなるような好ましき美質を
お持ちの方で、高圧的で鋭角的なジレオン・ヴィル・レイズンや、或いは、頼りのない、
掴みどころのない、ぐにゃぐにゃなパトロベリなどとは人間が違い、実に地に足のついた方である。
実直とは面白みのないことと、ほぼ同義ではあるにせよ、次代の皇帝が、堅実かつ誠実さを
疎かにしない御仁であることは、なによりのことであった。
などと、彼らが暢気に構えていられたのは、ここまでであった。


「急使でございます。ソラムダリヤ様」
侍従からそれを耳打ちされたソラムダリヤ様は、別室に向かい、かなり長い時間が経った後で、
厳しい顔つきになって、パトロベリとエステラの許へ戻って来た。
「なんぞ、ございましたか」
ソラムダリヤは、何故か、心配そうにパトロベリをちらりと見た。
何かあったと察してエステラが席を外そうとするのを「そのままで」とおしとどめ、
「コスモスにおいて、駐屯軍同士、衝突の事態があったそうです」
「それは、まあ」
パトロベリと椅子に戻ったエステラは、さほど意外にも思わぬままに、頷いた。
「云わんこっちゃないというか」
「当然かと」
ただでさえ血の気の多い武装連中が戦旗を鼻先にぶら下げられた上で狭い場所に
ひしめいているのである。過日のハイロウリーンとフェララではないが、多少の小競合いは
避けられないところであろう。
まだソラムダリヤの顔が深刻に曇っているので、エステラは詳しい話を求めた。
「回避されたのですか」
「一応は。しかし、多少の死者は出た模様です」
「重鎮のハイロウリーンとジュシュベンダが揃っているところで、どこの国が、そんな大胆を」
「コスモスにおいて矛先を交えそうになったのは、他ならぬ、そのハイロウリーンと、
 ジュシュベンダなのです」
「何ですって」
今度はパトロベリとエステラの二人ともが、愕いて声を上げた。
エステラが戻した茶碗が受け皿の端にあたり、乱暴に鳴った。
ソラムダリヤは沈痛に告げた。
「ジュシュベンダはもとより、両軍が顔を突き合わせる危険を懸念して、コスモス領外に留まっていました。
 それでも、ことは、両軍の間に起こったのです。
 ハイロウリーン側の重臣に最初の死者が出ています。亡くなったのは、ナラ伯ユーリ。
 監査役として本国から派遣され、その日は、フィブラン・ベンダ・ハイロウリーンのコスモス入りより
 一日遅れて陣に到着した王子二人と馬を駈り、王子がたを近辺に案内するのに、
 わずかな護衛を連れて、陣営の外に出ていたそうです」

茂みの一画から急襲を受けて、供人たちは王子を囲み、馬を引き戻した。
『陣に戻れ、陣に戻れ。王子たちをお護りせよ。』
最初の矢の次には、馬を捕らえて彼らを引きずり落とそうとする、刺客が続いた。
「インカタビア王子、末王子ワリシダラムは護衛に護られ、陣に逃げ込み、難を逃れました。
 しかし、しんがりをつとめていたナラ伯ユーリは帰還せず、一報を受けたハイロウリーンが
 すぐさま隊を組んで探しに出向いたところ、伯は、彼の忠実な従者と互いを庇いあうようにして折り重なり、
 草むらに遺体となっていたそうです。敵と切り結んだ果ての、ご最期であったとか」
「それが、どうしてジュシュベンダの仕業と知れたのです」
「襲撃者は死体を引き上げる暇がありませんでした。付近でこと切れていた者が、ジュシュベンダの
 徽章をつけた兵であったそうです。すぐさま認識番号を照会したところ、間違いなくジュシュベンダの
 正規兵であったとか」
「お待ちを」
すぐにパトロベリが異議を唱えた。ジュシュベンダと聴いて、王家に連なる彼の顔も、青くなっていた。
ハイロウリーンと、ジュシュベンダ。
騎士国の双璧として、北と南に鎮座し、相互不干渉を護り続けていた、帝国の守護神である。
その両国が激突することにでもなれば、それは即、帝国全土を巻き込む悲惨な
撃滅戦にも発展しかねない。
「謀に決まっています。かりにもハイロウリーンの王子方を野辺で待ち伏せて
 奇襲を加え、その身に危害を加えようとする集団が、そのような見え透いた、
 あからさまな失敗をするとは思えません」
「そのとおりです。現地でも概ねその見解です。しかし現実に、ナラ伯は死亡。
 故人が名門の出で、親しまれていた方であったことから、その惨たらしい遺体を見た
 ハイロウリーン軍は陣をあげて怒りで沸騰。ジュシュベンダ軍へ襲い掛かろうとするのを
 フィブラン殿が馬上から一喝して回って、辛うじて抑えたほどだとか。
 何よりも襲撃者は確かにジュシュベンダ語を発していたとの、ハイロウリーン王子たちの
 証言が、疑いをより強めました。ユーリ殿にながく仕えてきた者達、この者たちは騎士ではなく、
 国から付き従ってきたナラ伯の家人たちですが、フィブラン殿に制止されても収まらず、
 独断でコスモス領外に待機していたジュシュベンダ陣に乗り込むと、ジュシュベンダの軍旗に
 火を放ち、彼らの前で引きずり落としたその旗を、引き裂き、踏みにじったそうです」
「何とまあ……」
軍旗を燃やすという赦しがたい侮辱行為にはしった故ナラ伯の下僕たちは、その場で身柄確保され、
ジュシュベンダ軍に捕われた。
フィブランは躊躇しなかった。
事態の早期沈静と、領民の返還を求め、賢明にも、その夕刻のうちにフィブランの方から
ジュシュベンダに直談判を申し入れる。
ジュシュベンダ側もそれを認め、双方の誤解と真偽をただすために、会談を受諾。
聖騎士家サザンカと、三ツ星家からはフェララが両軍の立会いとなり、両軍の仲介役には、
先日ジュシュベンダに訪問していたサザンカの家司イオウ家嫡男、カウザンケント・デル・イオウが
選ばれた。ここまでは、順調であった。

その談判は、コスモスの混乱を回避するためにも、ハイロウリーンの王子たちを襲撃した一団が
ジュシュベンダではないと確信していることを内外にあえて強く押し出す目的で、
早々にハイロウリーンのフィブランが取り計らったものであった。
事件は、さらに、その会談の行われた朝に起こった。
屋外の、見晴らしのよい平野を選び、ハイロウリーン、ジュシュベンダの双方から、
護衛を従えた代表が歩み寄る。
立会のサザンカ、フェララが東西に隊列を揃える中、ハイロウリーンからはフィブランと五男インカタビア。
ジュシュベンからは、領主イルタルの側近ファリン・バクティタの従兄にあたる、シャルス・バクティタ将軍と
その副官。
以北の白に金、以南の紫に金銀。
コスモス郊外における、帝国双璧の歴史的対面に、立会いのサザンカ、フェララ以外の騎士国も
遠巻きに固唾を呑んでその模様を見守る。
コスモスには珍しく、どんよりと雲の垂れ込めた、暗い日であったそうだ。
会合地点に立つ、仲介役のカウザンケント・デル・イオウが両者を引き合わせ、フィブランとバクティタの
両者が手を握り、その上にカウザンケントが手を重ね、三者揃ったところで、それを合図としたかのように、
ジュシュベンダのシャルス・バクティタ将軍を狙って、一本の剛矢が、現場に射込まれたのだという。
「矢が」
「幸い、バクティタ殿は矢を篭手で払い、命は無事でした」
ただし、一帯は騒然となった。
すわ、と待機のハイロウリーンとジュシュベンダ騎士が主を護れとばかりに殺到し、不審者の侵入を
防ぐ目的でそこに集められていた立会いのサザンカ、フェララがそれを押し戻そうとし、四軍入り乱れて、
「お待ちあれ、これよりは入れませぬぞ」
「邪魔をするな、さてはおぬしらが」
「将軍、バクティタ将軍、ご無事でありますか」
「フィブラン様、インカタビア様、ひとまず、いそぎ陣へ。陣へ、お戻りを」
「逃げるか。バクティタ将軍を狙ったのは、さては、ハイロウリーンだな。これは計略だ!」
「フェララの陣から矢は飛んだぞ」
「嘘だ、サザンカの弓手が射るのをこの目で見たぞ」
大地が揺れ動くほどの大混乱と流言飛語が飛び交う中、そこかしこで剣戟の音がはやくも立ち、
「退けっ」
「騙まし討ちとは卑怯なり」
ばたばたっと騎士が倒れ、またその上から人馬が重なり、それはほんの短い時であったのだが、
敬愛するナラ伯を喪った悲憤のハイロウリーン兵の中には、フィブランとインカタビアの周囲を
楯で十重二十重に囲むそのついで、常日頃の一糸乱れぬ統制を故意に無視するかたちで
ジュシュベンダを足蹴にし、押し返し、対するジュシュベンダも軍旗を焼かれたこの屈辱は
忘れぬぞとばかりに、殴り殴られ、怒号が飛び交い、
「鎮まれ。混乱を煽らんとする、刺客の思う壷ぞ」
フェララのモルジダン侯、および、フィブラン・ベンダの大一喝が行き渡り、ぴたり、と動きが
止まった頃には、制止むなしく、草木そよぐコスモスの野には、血が流れ落ちた後だったという。


「ざっと分っていることはこのあたりです。四軍が狭い場所で不用意に衝突し、混乱に陥ったこと、
 近年ナナセラを取り込むかたちで強軍事化している三ツ星家のフェララと、聖騎士家サザンカとの
 間には、小競り合いを含めた過去の遺恨と確執がもともとあったこと、ハイロウリーンとジュシュベンダに
 ついては、いわずもがな、そこへナラ伯の死とバクティタ将軍を狙った矢が加わって、その場に
 モルジダン侯がいなければ、あわやの大事態にもなりかねなかったほどだとか。
 おって順次、さらに詳しい報告が来るでしょう」
「コスモスを哨戒しているレイズンはどうしていたのです。その為の、護国保持機関は」
「そうですわ。調査と裁定をなぜ、レイズンに頼まなかったのでしょう」
「推測ですが、ハイロウリーンもジュシュベンダも、ことを大きくしたくはなかったのでしょう」
ソラムダリヤは、少し言葉を濁した。
「それに、これは憶測でしかありませんが、この一件、他でもないレイズンが裏で糸を引いていると
 両軍が疑っていた可能性もあります」
それが何を指すのか、即座に察せぬ者は一人としていなかった。
ハイロウリーンとジュシュベンダが結託するのを阻止せんとするのは誰か。
もしも、騎士国が巫女を擁護し、巫女を害せんとする者に対して徹底抗戦の烽火を上げる時、もっとも
強大な敵となりうるこの両国を、事前に決裂させ、損なおうとしているのは誰か。
「しかし、まさか」
「そうです」
顔を暗くして、ソラムダリヤも首をふった。
「やり口が、彼----誰とは云いません、彼らしくない。わたしもそう思います」
エステラは、扇の飾り紐を指に固く巻きつけて、声もなかった。
やがて、そのエステラの隣りから、パトロベリはゆっくりと立ち上がった。
ふと見れば、顔つきその態度、先ほどまでのぐにゃぐにゃは何処へやら、その横顔は英傑と讃えられた
先々代の面影を宿して、憂鬱のうちにも、様子と面持ちが変わっている。
パトロベリはソラムダリヤの前に進み出て、いとまごいの礼をした。
「行きますか。パトロベリ」
察しよく、ソラムダリヤから彼に声を掛けた。
「コスモスへ向かいますか。馬を用意させましょう。わたしも、事態緩和の為に、おそらくは
 皇帝の名代として、後からコスモスへ入ることになるでしょう」
感謝を無言で示し、パトロベリは別れの挨拶にかわり、ソラムダリヤにそれを告げた。
「シャルス・バクティタは幕臣として有能ながら、相手がハイロウリーン領主その人となれば、
 その身分は格下。相対するに不足なき人物とはいえ、今後の交渉において不利は不利。
 成人の儀の折、イルタル・アルバレスより寛大にも授かりし、王族の権限、非常事態における
 領主代行の命令権限、全権大使としての臨時権、これまで使うこともないと思っていたあらゆる
 王族の義務に基づく責任を、国許を動けぬわが領主に代わり、これより果たしにまいります」
「ちょっと、お待ちになって」
厩舎から引き出されてきた駿馬を試し乗りし、特別に赦されて皇居敷地内からその馬鞍にも跨り、
旅支度もそこそこに、すぐさま駆け出そうとするパトロベリに追いすがり、皇子宮から走り出てきた
エステラはその前に両手を広げて立ちふさがった。
馬が後ろ脚で立ち上がり、パトロベリは危うく、鞍から落ちそうになった。
「お待ちになって、パトロベリ王子」
「危ないじゃあないか、おてんばめ」
馬を落ち着けながら、パトロベリは迷惑そうに、エステラを退かそうとした。
「悪いけど、危険な場所にあんたは連れて行けないよ。あっちでもしビナスティに逢えたら、
 親切なエステラさんが、よろしくと云っていたと伝えておくよ」
「そうではありませんわ。たった今、皇太子殿下の許に入ってきた続報です。
 まだ間に合うと思って、それを、お伝えしに」
息を切らしながら、エステラはパトロベリの乗る馬の綱に片手を添え、パトロベリを見上げた。
「申し上げます。ナラ伯落命に続く、此度の会談の妨害。ハイロウリーンはこの事態を重くみて、
 北方三国同盟の条約履行を求めいまだ一国だけ動かぬままの聖騎士国オーガススィへ
 コスモスへの援軍派遣をハイロウリーン領主の名において要請」
「うん、そう、わかった」
「これはオーガススィの軍力をあてにしたものではなく、オーガススィを味方につけ、同盟の威儀を
 整えた上でジュシュベンダに対峙せんがための、ハイロウリーンの牽制措置と推察されるとのこと」
「多分、それは違うよ」
「えっ」
パトロベリはエステラの指先を手綱からもぎ離し、エステラを脇に押し退けた。
「ハイロウリーンは、オーガススィが、ヴィスタル=ヒスイ党に毒されているかどうかを、知りたいのさ」
もはやそれ以上は構わずに、パトロベリは馬の腹を蹴り、あっという間に皇居から外へと
駈け出して行ってしまった。
その馬が、目の覚めるような白馬だったことを、見送るエステラは皮肉に思った。


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窓から入るそよ風に、寝台にいるその人の、夜明けの光の色の髪が少し揺れた。
貴婦人の中の貴婦人とは、この御方のこと。
その面影に、彼の姿を探しても、それは難しいことであった。
氷の花。
そう謳われた帝国一の美姫は、三人の子を育て上げた後も、その麗質の内実性に衰えなく、
その姿は氷の花のままに、ゆっくりと生命の黄昏の中に、これから清らに枯れてゆこうとしている
お年であった。
「ロゼッタさん」
ものを喋るとは思えぬほどのその美しい姿から、透きとおるような美声で呼ばれて、ロゼッタは
畏まってその前に膝をついた。
「ロゼッタ・デル・イオウと申します」
トレスピアノ領主夫人は、小さく、ロゼッタに頷いた。
性格的に、あまり噂や色恋には興味を示さず、根回し系の讒言においても聴く耳も持たぬ
ロゼッタではあったが、そんなロゼッタであっても、リィスリ・フラワン・オーガススィの名だけは、
幼少の頃から、父母の話すままに、一種の禁忌をもって、深く心に刻まれてきたものだった。
感動に打たれて、ロゼッタは寝台の中のその美しい人を見つめた。
この方が、あの、リィスリ様。
帝国中を湧かせたカルタラグン皇子との恋愛。その後の破局。
トレスピアノの若き領主カシニ・フラワンとの電撃結婚と、その後二十年の、完全なる沈黙。
止まったままの想い出と、進みゆく人生の中に心を二つに引き裂かれながら、フラワン荘園の
緑の中に、静かに、その名のみを時折人々に囁かれながら、時の流れを見つめて過ごしてこられた方。
「奥方さま」
剣柄を握り締めて、ロゼッタは身のふるえを鎮めた。
サザンカ宮廷にあった、オーガススィの姫君の若き日の肖像画、その印象が、そのままに、
こうして眼の前に、そして肖像画よりも鮮やかに、年月の威厳をそこに加えた、フラワン家の
奥方さまとしていらっしゃる。
(ユスタスの、ご母堂として)
しかし、ロゼッタは面持ちをすぐに引き締めた。
「奥方さま。拝謁かない、光栄至極でございます」
エクテマスに斬られた肩は動かぬように固定されていたが、ロゼッタはもう、立ち上がって、
ゆっくりと歩くことが出来た。稼動式の椅子で日光浴に出るついでに、看護人の肩につかまり
少しずつ、歩く練習をしてきた。老医師スウール・ヨホウは、
「さすがは竜の血をお持ちの方。常人とは恢復の度合いが違います」
初めて見せる笑顔で、経過の順調をロゼッタに伝え、短時間ならば無事な方の手で、軽く
剣を握ったり放したりしてもいいと請合ってくれた。
そのロゼッタは、貴女の寝所に片膝をつき、剣で怪我の身を支え、リィスリの方を気遣った。
「リィスリ様。いつもならばこの時刻はお休みのお時間であるとか。
 お身体に障ってはなりません。ご都合よろしき折に、いつなりと、出直してまいります」
「わたくしが、貴女を、ルイさまに頼んで此処まで連れてきてもらったのですから」
リィスリは目元で微笑んだ。
そして壁際で控えているルイへ頼んだ。
「ルイさま、おつかい立てして申し訳ないことですが、ロゼッタさんに、椅子を」
天蓋から寝台のまわりに下がっている薄布を透かして、その中に横たわるリィスリの姿は、繭の中で
眠る女王のようであった。
部屋の隅に控えていたルイがロゼッタに椅子をはこんだ。ロゼッタは床に片膝をついたままでいた。
「ロゼッタさん」
小さな声で、ゆっくりと、ひと言ずつを相手に確かに届けるようにして話すリィスリは、
そうするだけでも、気力をしぼり出しているようであった。
「なぜ、トレスピアノの者が、ジュピタの、レイズン本家御用邸にいるのかと、さぞや
 奇妙にお思いでしょう」
「いいえ」
いそいで、ロゼッタは口を開いた。
詳細はルイから聞いている。
それでなくとも、三人の子が一度に行方不明ともなれば、そのお辛さ、いかばかりか。
疲労を上回る心労が、かなりリィスリの心身をさいなんでいるとのことであった。
トレスピアノ領主夫人としてご立派に体面を持ちこたえ、このように落ち着いてはおられるが、
それだけによりいっそう、人の表層しか見ようとはせぬ人々にとってはかえって冷酷との
誹りを免れ得ぬほどに、沈黙されているそのお心うちは、ご心痛で引き裂かれておられるのであろう。
氷の花。
在りし日そう呼ばれていた北国の姫は、今も、感情をあまり外には出さぬままに、その美しい眸を
隠された深い想いで、哀しみに清ませていた。


女騎士ロゼッタは、庇護慾という、女騎士の持つ強い特性のままに、奮い立つ思いになった。
「奥方さま」
きりりとした顔をして、ロゼッタは声を励ました。
ルイ・グレダン殿より、委細、聞き及びましてございます。
「このロゼッタ・デル・イオウ。現在は情けなくも、不自由を負う身ではありますが、
 サザンカの家司の者ながら聖家フラワン家の方々のためには、家名を離れた一騎士として、
 誠心誠意、奥方さま及び、ご家族の皆様のお役に立つ所存でございます。
 どうか、私を信じて下さいますように」
「ロゼッタさん」
「は」
「貴女が志操ただしき女騎士であることは、貴女のその眼をみれば、すぐに分ります」
ロゼッタが眩しいとでもいうように、リィスリは寝台の天蓋を見上げて、そこに描かれた
楽園の図柄に、ひとときの想念をさまよわせた。
「純粋でまっすぐな方。それだけに、私は貴女の身を案じます。
 世の中は利害に応じて正悪を変え、ずる賢い者を勝者として流れてゆくものであるというのに、
 あなた方は、どうして、そのように、生まれついたのでしょう。その信義やその潔さのために、
 それを利用する人間のために利用されて、その心を封じられ、いったい幾たび、あなた方は
 あなた方のその高潔を試され、穢されてきたことでしょう」
「奥方さま。数ならぬ身ではありますが、私にはとうにその答えは出ております」
「きかせてもらえますか」
ロゼッタは剣を掲げ、その柄に接吻することで、その返事とした。
「------そう。それが、貴女の信じるもの。そうなのですね」
「騎士ならば、誰でも」
「それなら、もう何も云いますまい。それが、貴女の心、貴女をそうしてあらしめている、その
 全てだというのなら。ならば、あなた方が、世の常人からは奇異なるものとして映るのも当然のことと、
 分かる気がします。それは殆どの人の眼には、理解できるものでも、見えるものでも、ありませんから」
「さればこそ、奥方さま」
ロゼッタはそのきれいな黒い眸に、何の欺瞞も、何のてらいも浮かべてはいなかった。
先祖代々受け継がれてきた伝統の赤い剣を握り締め、ロゼッタは微笑みまでみせた。
「奥方さまにおかれては、なんらお迷いいただく必要はございません。わたくしたち竜の騎士には
 剣を持たぬ方々を護るという義務が課せられております。それをして、竜の呪いの血はこの世において、
 辛うじて存在を赦されているのです。もとより我ら、人よりも迷い多く、心よわく、愚かなる強情者。
 我らこそ、この世の秩序に護られておりますれば」
それを聴くうち、リィスリの白い頬には、涙が伝い落ちていた。 
愕いて、ロゼッタは、寝台にもう少し寄った。 
「奥方さま。お加減が悪いのではありませんか」
「貴女を見ていると、昔のことが、想い出されてきます」
それともこれは、この身に流れる竜神の血が呼び覚ます、本能の、愚かしい傾倒だろうか。
(政変の夜、皇子宮のあの人の傍にいなかったことを責める、永遠の、暗い夢)
「奥方さま」
「リリティスを探しに、トレスピアノを出てきたのです。リリティスは、ミケラン卿の許にいるそうです」
 この身にも確かに脈打っていた、聖騎士家の黄金の血。たとえ位ある騎士でなくとも、
 わたくしには、オーガススィの血を受け継ぐあの娘が望むように、そうしてやりたかった。
 わたくしのように、これほどに悔いることのないように、そうしてやりたかった。
 ですが、それは、大きな間違いであったようです。あの子は、どうしているのでしょう、どうして
 トレスピアノに、帰ってこないのでしょう。もしも囚われているのであれば、
 お母さまがきっと助けてあげると、せめてそれだけでも、あの娘に伝えてやりたい」
「奥方さま、リィスリ様」
此処はレイズン本家である。
壁や扉に隠れ潜んで、レイズン家の隠密がどこで聞き耳を立てていないとも限らない。
今はもう躊躇わず、ロゼッタは寝台に近寄り、天蓋から垂れている薄布を払いのけ、
「失礼。これは内密の儀なれば」
リィスリの耳に小声で素早く囁いた。

「ユスタスと、リリティスに、貴女が逢ったと」
「はい」
ロゼッタはリィスリの眼を見て、再度それを認め、頷いた。
「ユスタスが、ハイロウリーンのコスモス駐屯部隊に。そして、リリティスが、コスモスの近郊に、
 ミケラン・レイズン卿と一緒にいたと」
「はい」
ロゼッタの腕にすがり、リィスリは悲鳴を上げた。
「リリティスが、大勢の軍隊が入り乱れている、あのコスモスに」
「ご安心を。リリティス様はご無事です。お元気そうでした。少なくとも、ご自分のご意思で
 卿と共におられるようでした」
確信はない。
しかし、ここは、そう云わねばならない。
リィスリを安堵させるために、ロゼッタは云い切った。
故国に搬送される途中、あの野辺で邂逅したリリティスは、少なくともロゼッタの眼にはミケラン卿から
何かを無理強いされているようには見えなかった。卿はリリティスを丁重に扱っているようであり、
二人で顔を寄せ合い、こちらを気遣って何かを云っているその様子には、親しげといってもいいほどの、
感情の疎通が見受けられた。
「ユスタスは。それで、ユスタスは」
「ユスタス様は……」
ここで、無理もないことながら、ロゼッタはやや赤くなって俯いたが、「お元気でおられます」と、
これまた自信を持って、その母に伝えた。
「ハイロウリーンに」
「はい。ガーネット・ルビリア・タンジェリン様の部隊におられました。左様です、二十年前の政変の折に
 ハイロウリーンに亡命された、あのタンジェリンの姫君です。ユスタス様は、兄君姉君を
 捜索中、ルビリア隊と邂逅し、偽名をお使いの上で、ルビリア様のお傍近くにおられました。
 ルビリア様はユスタス様がフラワン家の方と承知の上で、特例として、軍内に保護されておられたようです」
リィスリはもはや、ロゼッタの語る内容が、うまくのみ込めないようであった。
ロゼッタはリィスリの傍から離れ、「とにかく、お二方は、ご無事でおられます」ともう一度力強く云った。
(リィスリ様は、お心がかなり弱られておられますれば、その他の、余計なことは、申し上げぬほうがよい)
ルイと相談の上、そう決めたことである。
ロゼッタは、壁際に控えているルイと、目配せを交わした。
肝要なのは、分っている方のことだけでも、ご子息ご令嬢がご無事であることを
リィスリ様に得心していただくこと。一刻もはやく、レイズン家から脱出できるまでに恢復し、
お元気になっていただくこと。
(そして、私のこの肩の怪我も)
ロゼッタは、剣を握り締めた。

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噴水の水も今はとまり、水面は、月夜を映し出している。
ジュピタの都の夜景をを一望する、一等区画の、レイズン御用邸。
夜の庭を、小姓がひとり、主の名を呼び歩いていた。
「アヤメ、ここだ」
彼を探しに来た小姓のアヤメへ、噴水の傍に立つジレオンは、背中を向けたまま
片手をあげて応えた。
「薔薇の騎士が、リィスリ様を見舞った?」
「はい、ジレオン様」
小姓のアヤメは、都の少年らしく、片方の耳にだけ金の耳環をつけていた。
その実、小姓に身をやつしたアヤメはレイズンお抱えの隠密団の一員であり、本家専属の密偵であった。
アヤメはジレオンに近付き、声を潜めて報告した。
「ルイさまが薔薇の騎士の許にお通いになること数度。もちろん、ルイさまはこちらの眼に
 気がついておられ、リィスリ様と薔薇の騎士を近づけることに障害がはたらかないことを
 確認していたものと思われます」
「ルイ殿もその場にいたか」
「はい。ご婦人のご寝所には、それ以上近づけず、会話の内容までは不明ですが」
「三人で脱走計画でも練ったかな。ルイだけなら、それも可能か。退団したといっても
 ルイ殿はハイロウリーン騎士団の猛者であった御方。鍛錬の場を少し覗かせてもらったが、
 あれではうちの衛兵など、誰ひとり敵うまい。もとより彼はリィスリ様の護衛として
 付き従ってきたに過ぎぬ、計算外の余計物。出て行くなら、止めなくていい」
「はい」
「もっとも騎士道とやらに縛られて、怪我人と病人の女二人を残しては、往くまいが」
後ろで一つに束ねた髪を夜風になびかせて、ジレオンは腕を組み、都の夜景を眺めた。
「ロゼッタ嬢についても同様。兄上のカウザンケント殿にもお逢いしたことがあるが、妹御の方が、
 騎士の血が強いそうだ」
「あの方は、眼がいいですね」
小姓アヤメは、ひそかに好ましく想っているロゼッタのことを語る機会を得て、少し嬉しそうになった。
「きれいな眸をしておられます。ハイロウリーンの六王子と一戦交えられたそうですが、ご勇敢な」
「スウール・ヨホウ殿によれば、ロゼッタ嬢の怪我の恢復は順調とのことだ」
「何よりでございます」
「アヤメ」
「はい」
ジレオンは、都の上の月を仰いだ。
それは星の巣のように輝いて、四方に矢のような白光を投げかけていた。
「竜の血とは、どのようなものなのだろうな。レイズン宗家に生まれながら、わたしには、ほとんど
 その恩恵が与えられなかった、黄金の血脈とは。或いは、ルイ・グレダンのように、聖騎士家とは
 縁もゆかりもないような下方の家から、突然変異のようにして、大昔の忘れられた血が凝縮して
 具現化してくる、その皮肉な、気まぐれ性とは」
「はい……」
「顎で使われるばかりの単純莫迦どもがとこけにしてやりたくとも、係累にミケランおじ上という
 傑物がいては、それも口に出来なかった。己が何もやらずに人のことにあれこれと
 干渉するほど人を犠牲に、楽をして自分を高くみせ、得をすることはない。
 借り物の言葉を駆使して己をいかに賢く見せようとも、ついには何ひとつ到底理解及ばぬ
 域があるという、想像のつく、その厳然たる理由によりね。
 それとも、わたしが騎士でありさえすれば、もしや、今よりももっと、あれらの者や、ミケランおじ上に
 畏怖を覚えるものなのかな。その実がいかほどのものかを体感したのみが可能な、真の、尊敬を」
水のとまった噴水の、暗い水面に、ジレオンは片手をさし入れた。
かたちの歪んだ月は、泳いで逃れるような影となり、しかし何処にも失せることなく、
ジレオンの手の先にぼんやりと揺れて、かき乱して砕いても、また、もとの位置にもどって、輝いていた。
ジレオンはその月を睨み、眼を眇めた。
「干渉行為に励む人の動機は、いかなる美辞麗句で表面を整えようとも、すべては人の脚を
 引っ張りたいが為の自己顕示欲とは、よく云ったもの」
やがて、水から手を引き抜いたジレオンは軽く手を振り、雫を切ると、小姓のアヤメに向けて
自嘲してみせた。
「口先が達者で大義名分がありさえすれば、そちらが理解と同情を集める、正義なのだ。
 かつてミケランのおじ上が、そうだったように」
「ジレオン様」
「そうすることで、自分の手はまったく汚すことなく、素晴らしい人という高評価を得ることが出来る。
 もっとも多少はそれらしく装って動かぬことには、まがいものと見抜かれてしまうけれど。
 さて、ソラムダリヤ皇太子殿下は、皇帝陛下のお使者として、コスモスに向かわれる。
 皇太子殿下の親衛隊のほか、レイズンがその護衛にあたる」
「はい」
「コスモス領主タイラン・レイズン殿と、ソラムダリヤ皇太子殿下の仲立ちを仰せつかった。
 殿下の随員として、わたしもコスモスへ出立する。皇帝陛下はレイズン本家と分家の
 断絶を修復したいと、かねてより切望されており、それもあって、この大役をわたしにお任せあった」
「お祝い申し上げます」
「まだ早いよ。それにしても、タイランおじ上に逢うのは久しぶりだ。脚がお悪く、分家領地に
 篭りきりであった御方ゆえ、わたしのことを憶えておられるかどうか、あやしいな。
 孤高だの高潔だの、騎士のあのご高尚ぶりと虚勢には、吐き気がするが、
 タイランおじ上はまだしも、あれらの癪に障る人間よりは、少しは話の通じる御方のような気がするよ。
 庭づくりにのめりこまれている方なので、少々、そちらの知識も仕入れておかねば」
ジレオンは笑い、アヤメを促して、庭から屋敷に戻った。
努めて笑った後のジレオンのその横顔には、かすかな気欝と、それでもそれを抑え込み、泰然と
構えていようとする強気の葛藤が窺えた。
夜の雲は月に照らされながら、不吉な船のように、ゆっくりと流れていた。
室に戻ると、彼は柱に凭れ、少し疲れたように夜風の中で眼を閉じた。
ジレオンは、肩越しにもう一度、月を振り返った。光の円盤には、先刻にはなかった、雲がかかっていた。
今宵、コスモスにも、あの月が出ているか。
月光の翳りは、突き刺すような白い光よりも、かえってジレオンの胸裡を宥め、気分の塞ぎを静謐に清めた。
あの月のもと、通夜にあるハイロウリーン陣はさぞや、哀しみに沈み、怒りに士気をたかめていることだろう。
ナラ伯ユーリなどという北方の田舎貴族には面識がないが、所詮はそれが貴方の運命であったと、
諦められるがよい。
雲が流れ、白く輝く大きな月が、また夜空に現れた。
窓枠に手をつき、ジレオン・ヴィル・レイズンは、その月に、真っ向から顔を上げた。
王子たちを護っての闘死とあらば、その名誉は傷つかぬ。
文官寄りの方だったと聞くが、それでもそれは、それこそこちらには理解及ばぬ、騎士の本懐であったはず。
安らかにお眠りあれ、ナラ伯よ。
ヒスイ皇子が、そうだったように。


「続く]


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