[ビスカリアの星]■七二.
コスモス情勢を憂慮したゾウゲネス皇帝の特命が下り、ソラムダリヤ皇太子がコスモスへ。
皇太子を大使に立てるという特例措置に、人々は愕いたが、これは表向きは
使節のかたちをとり、コスモス城におわすことがいまや明らかとなった
ユスキュダルの巫女への、帝国皇太子の表敬訪問として説明された。
「査察でも、監察でもなく、コスモスご訪問とな」
「しかし、皇太子さまを正使にとは、いよいよ、予断ならぬ事態なのか」
ヴィスタの都を貫く大通りは、コスモスへ向かう使節団を見送る人々で溢れた。
ミケラン卿の敷いた法令により、都の中心部は馬や馬車の乗り入れが禁じられているが、
ジュピタを貫く主幹道だけは別である。
「ソラムダリヤさま」
「皇太子さま」
護衛を兼ねたレイズンの一団を従えた使節団は、楽隊を立てて、整然と現れた。
人心をひと目で魅惑し、魅了してしまうほどの華々しい魅力といったものは皆無ながらも、
ソラムダリヤは帝国人民から一定した好感と、親しみを寄せられている皇子である。
気取りがないのがいい、ご誠実なのがいい、言動に汚れなく、何よりも信頼できそうな
御方であるといった、これらの評価は、彼が青年になるにつれ確定的なものとなり、
ひじょうに地味なかたちでありはしたものの、青年皇太子への人気は、安定したものであった。
「ソラムダリヤ皇子さま」
立太子の時のような祝賀ごとではないにせよ、出立する皇子へは、沿道から
たくさんの人が見送りに出て、女たちは花びらを道に撒き、あらゆる宗派の
聖職者も居並んで、その無事を祈った。
ソラムダリヤは輿ではなく、馬に乗り、人民の前に、その姿を現した。
もしも、それが可能だと仮定して、皇子の傅育係であったミケラン・レイズン卿が
ひとりの人間を未来の帝国皇帝として、卿の理想どおりに教育したのであったら、
皇太子ソラムダリヤを見る限り、それは成功したといえよう。
我の強い聖騎士家、あまたの騎士家、土着の豪族、あらゆる部族、宗教、それらを集約したその
先端に、冠をかぶせて皇帝を鎮座させる時、その冠は、どちらにも特に偏った輝きを
投げかけるものではあってはならず、無色透明といかぬまでも、常に平らに、常に泰然と、
中天の月のごとき静かな威厳をもって、この世の頂にすわらなければならない。
ミケランがその昔、学兄ゾウゲネスに求めたこの理念を、ミケランは幼い
ソラムダリヤ皇子にも、ほぼそのまま求めた。
まずは自分が努めること、何でも自分でやってみること、それをして、誰からも
自然に敬慕と尊敬を寄せられる人間になること、威あって猛からず、自らを律し、
うかつな発言や流言に惑わされず、感情や好悪によって動いたり、大切な物事を
決めぬようにと、彼はそれとは分らぬ繊細な方法で、皇子に帝王教育をほどこした。
さいわい、ソラムダリヤ皇子は性質が温和で、賢く、その性質、まことに
ミケランの意にかなうものを十全に具えている少年であった。
彼は、ミケラン卿が期待した以上に、ミケラン卿の教えをよく理解し、自立した。
皇子は、才気煥発といった類のきれる頭脳の持ち主ではなく、ある方面には少々鈍いところも
凡庸なところもあられたが、それはかえって青年皇太子の横顔を、飾りけのない、素直なものにして、
たとえば騎士国の統領が、強烈な個性や孤立、強引な統率力や力を必要とされるのとは違い、
人が人の心の中に守り立てるべき、一つの理想的象徴として、ソラムダリヤ皇子のそれは
その虚像に嵌めこむにちょうどいい、申し分のない、中庸を持っていた。
かといって、教育係であったミケラン卿は、ソラムダリヤに真面目一辺倒であれ、無個性であれ
とは、云わなかった。
おしのびで街に出てゆくことも、奨励せぬまでも、見て見ぬふりをしたし、誰かと諍いをすれば
双方の言い分をよく聞いた上で、諌める時には、遠慮なくソラムダリヤを諌めもした。
また、卿は、ジュピタの都の最下層の人々が暮らす区画へも、ソラムダリヤを連れて行った。
ミケランが私財を投じて整然と整えた街並みも、やはり、裏の裏へ回れば、永遠の貧困が
こびりついていた。
そんな時、卿は、狂ったように嘆いたり、暴れている人々や、貧民窟の痩せこけた子供たちを前に
声もない皇子に、こうとしか云わなかった。
------これも、貴方が治めることになる、この世の一部です。
これらも、みな、ソラムダリヤ様の行いの一部なのです。
ソラムダリヤは、そのことを、忘れたことはなかった。
馬上姿勢よく、馬で大通りをゆく皇太子は、沿道の人々に軽く応えてやりながらも、そのことを
忘れたことはなく、そうであればあるほど、老いた者やちいさき者には、心がけ程度にせよ、
特に、よく応えてやった。
(フリジアには、ちょっと、可哀想なことをしたな)
花びらの敷き詰められた路に馬を進めながら、彼は、歳のはなれた妹宮のことを考えて、
少し気持ちが重くなった。
慌しい出立であった為、皇帝、皇后両陛下への挨拶だけに済ますつもりだったのだ。
そこへ、フリジアの訪問が告げられた。
「お兄さま、コスモスへ行くの」
「そうです」
兄の返事で、兄が公人としての態度になっていることを察したフリジアは、すぐに、最近のことで
少し痩せてしまったその身をかがめ、元気なく、
「道中のご無事をお祈りしております。ご政務、つつがなく果たされますように」
礼儀ただしく送り出し、ソラムダリヤもそれに見合った挨拶を返したが、あれでは、フリジアは
まだ兄が怒っていると思ったであろう。
レイズンが捕らえたはぐれ騎士らの処分について、ビナスティに誘導されるまま、少女らしい
優しさと浅薄から、その赦免を皇帝に求めたフリジアは、問題を起したその後は皇女宮に
閉じこもりきりで、時折、母の皇后を訪ねるほかはおとなしくしているとのことであったが、
そのフリジアがひそかに裏で手を回して、レイズン預かりになって処分を待つ
騎士たちの中からナナセラ出身の上位騎士をひとり脱獄させていたと知った時には、
さすがのソラムダリヤも、今度こそ、フリジアに対して怒った。
「ミケラン卿は本件を問題にしないと云ったが、フリジア、内親王としての自分の立場を
本当に分っているのか!」
女騎士ビナスティを助けたいが為の一念であったという言い訳に嘘偽りはなくとも、まだ小さいと
ばかり思っていた妹が兄に相談もせずに、隠れてそんな大胆をしてのけた、そのこと自体が、
ソラムダリヤには何やらゆるせなかった、のである。
(フリジアに対しても、問答無用で獄に入れてしまったビナスティに対しても、誰に対しても、
どうも、いろいろと、まずかった)
反省しきりの皇子である。
周囲にすがり、自己弁護に励むよりは、自らに責任を引き寄せ、自省するほうが人としては望ましい。
そしてそこにつけこむ人間もいる。
「殿下」
使節団を見送って群集が手を振る中、つと、警護の騎馬のうち斜め後ろにいた一頭が抜けて、
ソラムダリヤに寄ってきた。
青、黒、銀。
レイズン本家を示す識色をあしらった衣裳も晴れやかな、ジレオン・ヴィル・レイズンである。
「殿下。やはり、後続は切り離したほうがよろしいかと」
皇太子の親衛隊と、聖騎士家レイズンで構成された一行には、その最後尾に
有蓋馬車を従えていた。
目立たぬ馬車であり、窓も閉めてはいたが、人々の目は、あの貴人用の馬車にはいったい
誰が乗っているのかと、不審げに囁いていた。
ソラムダリヤは、前を向いたまま、
「切り離したほうが、都合がいいことでもありますか」
やや冷淡に返した。
「それならば、お得意の根回しでもしたらどうですか」
ウィスタル=ヒスイ党にかき回されているせいもあり、ソラムダリヤは、あえてジレオンに対して
必要以上の親しみを与えはしなかった。
ジレオンはまったくこたえた様子もなく、「殿下、そんな厭味を」、笑った。
「先にも申し上げましたように、ヴィスタル=ヒスイ党は、無頼の輩ではありません。中には血気に
逸って、党の理念を無視し、各騎士国を騒がせるような者共もいたようですが、それについては
お約束どおり、レイズン家の名誉にかけて、内部調査し、不届き者を要注意人物として取り上げて名を晒し、
今後も監視し、片端から処罰いたします」
「また後続の馬車については」、ジレオンは平然と続けた。
「窓を締め切っているだけに、あれではまるで護送馬車のようです。おかしな噂が立てば、先の障りになるやも」
「レイズンの分家と本家のお家騒動を皇家および他国にまで拡大させたり、ジュピタ皇家に
これまで尽くしてくれた忠臣ミケラン卿を孤立させようなどと画策しない限り、あなた方には関与しません」
沿道に人がいるため、そんなに長くは話せない。
ソラムダリヤは内心でため息をつき、苦々しく、「そちのよいように」と、ジレオンに返した。
「では、大門を超えたら隊列を組み直します」
「ただし、コスモス入りの際には、追いつかせて下さい」
「御意」
「ハーン」
と、ソラムダリヤは、反対側にいた親衛隊のハーン、これは過日、ソラムダリヤがその名を
咄嗟に借りてリリティスに名乗ったことのある、その者であるが、側近のハーンを呼んで命じた。
「エステラの馬車の護衛に回ってくれ」
「はい」
説明はそれで足りた。
帝国の諸問題の諸悪の根源として、過去の私怨と遺恨を丸出しに、半ばこじつけのようにして
ミケラン卿を盛んに糾弾しているレイズン本家の郎党が、その愛人にまで危害を加えることを怖れて、
ソラムダリヤはエステラを引き取ったのである。
ソラムダリヤがミケラン卿の愛人であるエステラを傍から離さないことで、ウィスタル=ヒスイ党を
信用してはいないこと、皇太子が変わらずミケラン卿を擁護していること、さらには現状を
好ましく思ってはいないことを、ジレオンに如実に示すことになるはずだ。
「コスモスへ」
「お付き合い願えますか。貴女を皇居に一人で残しておくのも、心配になりますから」
「まあ、殿下」
感激して、エステラは、ソラムダリヤに礼を云った。
「嬉しゅうございますわ。わたくしのような者に、それほどの深いお心遣いを」
もともと行動的で、旅が好きな女のようで、一も二もなくエステラは同行に承知した。
「不謹慎を承知で申し上げますならば、お伽の国コスモスは、一度でいいから行ってみたかった
国なのですわ。パトロベリ王子から、女のあんたは危険なコスモスなんかには連れて行けないと
捨て台詞を投げられてからというもの、むかっ腹がおさまらなかったのですが、ああすっとした。
皇太子殿下とご一緒ならば、これほど心強いことはございません」
皇居での生活にもそろそろ鬱屈していたものか、エステラはいそいそと旅支度に取り掛かり、
平生着飾っている女に見合った、それでも最小限に抑えた衣裳箱を、積み上げた。
感謝されても、かえって、自己嫌悪が募る。
(ソラムよ。父は学弟としても、皇帝の寵臣としても、ミケラン・レイズンのその忠節と、その信義を
一度たりとも疑ったことはなく、また、じゅうぶんに報いてやれぬことを、悔いているほどである)
(しかしながら、ソラムよ。もしも帝国の今後の繁栄において、ミケランという個を宮廷より
退かすことが必要とあらば、いつなりと、その決断を下すつもりでいたことも、お前に伝えておく。
これは最近のことではなく、二十年前、皇位を取り戻す算段を始めた時より、ミケランに全てを
ゆだねると同時に、ジュピタ家の者として、この胸に、しかと刻んでおいたことである)
(父上)
(父上は、皇帝陛下は、ミケラン卿を切捨てるお積りなのだろうか。つまり、穏便のうちに
卿に引退を命じる用意があると)
(わたしは嫌だ。流れをそちらへ運ぼうとする大勢の企みによって物事がいつの間にか裏側で
確定的になっていく、その何ともいえない、私利私欲尽くしが透けている、根回しの、
その正体がそのものが)
(ジレオンは、ミケラン卿がリリティス・フラワンの身柄を非合法に拘束していると批難がましく
述べ立てて、わたしを煽り、怒らそうとしたが、そんなジレオンこそ、トレスピアノ領主夫人を
軟禁しているのだ。トレスピアノ領主夫人をミケラン排斥の証人に仕立てようとは、母の情を利用した、
感心できぬ振る舞い。リリティスに何らかの危険が現実に差し迫っているのならばともかくも、
そのような遣り口を、わたしは好かない)
(抗えるだけ、抗ってみよう。ミケランの為ではなく、わたし自身の為に)
「停止。停止。後続馬車は、脇街道にお回りいただく」
主幹道が三叉路に分かれる分岐点で、使節団は一旦停止した。
馬車の窓が少し開いて、エステラの顔が見えた。
ソラムダリヤは、そちらへ向けて会釈し、そしてエステラを安心させるように、頷いておいた。
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ハイロウリーンの陣は、静まり返っていた。
あらゆる騎士団の中でも、もっとも規律が行き届き、行儀がいい彼らであっても、常ならば
焚き火の周囲に集って配給分の酒を酌み交わしたり、放吟などして慰労の時を持つのだが、
今宵は押し黙り、天幕の中に早々に姿を消したり、そこかしこでうな垂れて、暗い声で
由無し事を語り合ったりするばかりであった。
時折、抑えきれぬ号泣や、すすり泣きが、夜風に混じった。
陣を囲む柵に配置された歩哨、物見櫓の上にいる遠見の見張り、篝火に照らされたその影も、
陰気に沈み、そこから見える各駐屯軍も、夜空に半旗を掲げ、コスモスの野全体が弔意のうちにあった。
月のめぐる、静かな、一夜であった。
森の木々が風に揺れる音、川のせせらぎ、コスモスの野だけがその本来を取り戻し、ようやく
束の間の安堵を得たとでもいうかのような、静寂の唄を、星の下にうたっていた。
弔いの場となった天幕の中には、棺がわりの安置台だけが、おかれていた。
フィブラン・ベンダが、ナラ伯ユーリに別れを告げて、天幕から出てきた。
「従者殿の、ご遺体は」
「供人たちが別に天幕を設け、そこで通夜を」
「明朝の出棺は、お二方続けてご一緒に」
「はい」
「古くからの主従であられたそうだ」
段取り係りに声を掛けると、フィブランは供を連れ、ユーリと共に殺害されたユーリの忠実な
従者の遺体が安置されている天幕へと、その脚を向けた。
「伯と従者殿は、野辺で互いを庇いあうようにされて、お亡くなりになっていたとか」
「ジュシュベンダめ。ゆるさんぞ」
「まだジュシュベンダの仕業と決まったわけではない。滅多なことを口にして、これ以上、騒擾を煽るな」
「一行を襲った刺客は、ジュシュベンダの正規兵であり、ジュシュベンダ語を発していたというではないか」
「そこがそれ、その者たちは一年前に新兵として入隊した新参者であったとか。それに
他でもない、そのジュシュベンダのシャルス・バクティタ将軍も、矢で狙われたのだぞ」
「そんなもの、責任逃れをしようとする、やつらの図々しい隠蔽工作に決まってる」
陣のあちらこちらで、末端の兵士らは憤激と悲哀を隠さず、ジュシュベンダへの怒りと
憶測をとばしあった。
いなくなってからその価値が分る人というのは、この方のことかと思われるほどに、亡くなった
ナラ伯ユーリのことを、「ナラ伯家のお坊ちゃん」として子供の頃から知っていた年配の者たちも、
名門ナラ伯家の若旦那として敬慕し、懐いていた者たちも、その哀しみは深かった。
気取りのない、誰に対しても物腰のやわらかい、柔和なうちにも、凛とした、気品のあるお人であった。
この駐屯地においても、古参から新兵にいたるまで、ユーリから気楽に声を掛けてもらわなかった者はなく、
そういったことを、情報収集を兼ねた上方のご機嫌とりとして軽蔑し、警戒する者であってさえ、分け隔てなく
気さくに話しかけてくるユーリの温厚な笑顔や、その裏に隠された人としての品位に、悪態つきながらも
ついには彼を慕った。
それはたいていは憎まれ役となる文官貴族の監査役にしては珍しい、信頼の寄せられ方であった。
そのナラ伯が、幾つもの惨い刀傷を負った上で、無残にも殺された。
ナラ伯の死は、まるで実の兄弟を喪ったかのように彼らの上に重くのしかかり、今さらのように
伯の笑顔や、品性ある者にしか不可能な、その公平なる誠意が、愛惜されてならぬのであった。
もともと伯が使っていた天幕に、その遺体は安置されていた。
物が全て運び出された内部はがらんとして広く、たくさんの蝋燭が内部を照らした。
「これは。ルビリア様」
「ナラ伯に、お別れを」
「どうぞ。中に、王子方がいらっしゃいます」
二間に分かれた奥の仕切りが払われた。
伯を殺したのはジュシュベンダだと信じ込み、ジュシュベンダ陣に押しかけ、その軍旗を焼き捨て、
先方に捕われたままの伯の家人に代わり、それに同行しなかった数名と、ハイロウリーンの
王子たちが伯を見守っていた。
「騎士ルビリア」
「インカタビア王子。ワリシダラム王子」
ルビリアは、そこに居た王子たちに略礼をした。
エクテマスを従えて現れたルビリアを見て、彼らは脇に退いた。
遺骸を前にインカタビア王子は厳粛な態度で感情を堪えており、ワリシダラム王子も立派に
持ちこたえていたが、末王子のその眼は、泣いた後を残して赤かった。
ハイロウリーンの紋章旗に半分覆われた、台の上のその亡骸を、ルビリアは一瞥した。
腐敗どめの処置が終わり、血と汚れを清められたその人は、鎧をはき、両手を胸のところで
組み合わせ、拝領の剣を抱いていた。
やさしい青年のような顔をして、男は、蝋燭の灯りの中に眠っていた。
ルビリアは、一同を見まわした。
「しばし二人きりに、してはいただけませんか。ナラ伯とは少年騎士団の同期でした」
すぐに、伯の家人たちが退き、インカタビアも、弟ワリシダラムを促して、天幕の外に出た。
全員が天幕から出てゆくのを見届けた後で、エクテマスもルビリアを喪の場に残して立ち去った。
夜空の下に出た途端、ワリシダラムは兄インカタビアの肩に凭れて、顔を埋めた。
「ワリシー」
少し厳しく、インカタビアとエクテマスは末弟を嗜めて、二人で両脇から抱えるようにして
弟を兵から見えぬところまで引きずっていった。
「分ってるよ。大丈夫」
森の手前まで来ると、ワリシダラムは兄二人の手を振り払い、腕で涙をぬぐった。
「動揺など臣下の前では見せないよ。だけど、どうして、ユーリが」
「エクテマス、ワリシーはこの二日間、一睡もせずに伯の傍にいたのだ」
「ワリシー、顔を洗え」
エクテマスは弟の首を掴み、小川にその顔を突っ込んだ。
「エクテマス、そう乱暴にしてやるな。イカロス兄とユーリが同期で、ワリシダラムは
小さい頃から彼に可愛がられていたのだから」
「そうだよ。子供の頃は、あの人も僕の兄さんだと、信じていたくらいだよ」
ワリシダラムは、どうにも止まらぬ激情を、兄たちの前では堪えるのをやめてしまった。
ずぶ濡れとなった顔を拭おうともせずに、わっと彼は泣き出した。
「乗馬も、付きっ切りであの人が僕に教えてくれたよ。あの時、すぐに引き返して戻ってれば、
ユーリは死なずにすんだんだ」
「止せ、ワリシー」
「いいじゃないか、今くらい云わせてよ。こう云っちゃなんだけど、彼あんまり腕が立つほうじゃ
なかったよ。インカ兄と僕と護衛まで揃ってたんだ。全員で立ち向かっていれば切り抜けられたさ。
彼こそ、真っ先に逃げるべきだったんだ」
「そのことについては、誰ひとり誤解なく理解している」
インカタビアは弟の肩に手をおいた。
ワリシダラムは兄にしがみ付いて、わあわあ泣いた。
「落ち着け、ワリシー。お前がそんなふうにぐずぐずと蒸し返していたら、ユーリの死は、
それだけ無駄死と兵には映るんだぞ。視界が悪く、刺客がどれほど待ち伏せているかも分らぬ状況だった。
あの時は逃げることが最優先だったのだ。もしもさらなる罠でもあり、お前か、わたしのどちらかが
捕まったり、殺されてみろ。父上と、ハイロウリーンの怒りはこのようなものではすまないぞ。
それがどういうことか分らぬお前ではないだろう。大勢の軍が集まり、火種さえあれば、いつ互いに
噛みあうことになるか分らぬこの情勢において、あの時は、ああするより他なく、あれが、最善だったのだ」
「まさか、殺されるなんて。だから、僕は、ユーリを残して、見殺しなどには決して」
(近辺へは、わたしが案内つかまつりましょう)
(インカタビア様、ワリシダラム様、すぐに陣にお戻りを。襲撃者はあなた方が誰かを知りながら
狙っております。護衛、王子をお護りせよ)
(ここでお二方にもし何かあれば、このコスモスは戦火の火の海とかわりますれば。
ご安心を、このユーリ、防ぎきれぬ時には、森に走りこんで賊を巻いてみせます。さあ、はやく!)
「嘘つき、嘘つき、ユーリ!」
「ワリシー……」
弟を慰めるインカタビアの顔もひき歪んでいた。
角燈を岩の上において、エクテマスは、幕やの方を振り返った。
白い月の下、ユーリが安置された天幕だけが、たくさんの内側からの蝋燭の灯に、ひっそりと明るかった。
誰もいなくなると、ルビリアは、ナラ伯の遺体に歩み寄った。
ルビリアは、死者の顔の上に、手をかざした。
幼い頃、まだタンジェリンの父母の許にいた頃に、祖母の葬儀の際にこうしたことがあり、
ルビリアはそれを憶えていた。
弔いの儀式は、国ごとに、土着の伝統がそれぞれあった。
「ご存知かしら、ユーリ。トレスピアノでは、若葉を一枚、胸にあてて、それに接吻し、
大切な人との別れを告げるとか」
女の手の影は、死者の顔に、やわらかな影をつくった。
それは死者を安らかに、何処かへと沈ませるようであった。
安らかな死に顔であった。傷も血もきれいに清められて、眠るようであった。
ルビリアは死者に語りかけた。
「お見送りができて嬉しいわ、ユーリ。お別れも出来ないまま二度と逢えないなんて、淋しいもの。
貴方の魂はもう離れて、ここには無くとも、懐かしいわ」
手を引いたルビリアは、後ろにさがると、エクテマスがそこに残していった椅子に腰をかけ、
死者と向き合った。
天幕を蜂蜜色に包む弔いの蝋燭の灯は、時折、隙間風に揺れ動き、そのたびに、さざなみ状の
光と影を生者と死者の間に、やわらかく、はしらせた。
死者の口許に、笑みのような影が出来ていた。
『ルビリア……』
「ユーリ。貴方の声が、聴こえてきそう。少年騎士団の頃の、お互いの若い姿が、見えるよう」
『コスモスは広いですね。お久しぶりです。ルビリア姫。ルビリア殿。ルビリア将軍-----
やはりこれがしっくりくるな。ルビリア』
「この次に貴方に逢うとしたら、私の前にあるのは貴方のお墓ね。それでもいいわ。
何も遺されないよりは、どれほどいいか。優しいユーリ」
横たわる死者は、柔和な顔をして、生者の語りかけることを、静かに聴いているようであった。
ルビリアは、椅子の上で膝を抱えた。
そして、軍旗に包まれて横たえられている、ユーリの亡骸を見つめた。
外は、星の音がしそうな夜であった。
「これが大切なものだと、どうして、貴方は分ったの」
首筋にまつわる細い鎖を引き出して、胸におさめた小さな首飾りを、ルビリアは取り出した。
「お亡くなりになった、貴方のお母さまから、聞いたのかしら。それとも、貴方の勘?」
手の平の中に鎖を握り締め、ルビリアは、淋しく微笑んだ。
これは、大切なものなの。私には、これしか、残らなかった。
(ルビリア。ちょっと、ルビリア。血相を変えて何処へ行くつもりです。あー……、それでは、
止めません。ですが、ここで少し待っていて下さい。少しの間。いいですね)
ルビリアは指先に細鎖を絡め、首飾りを揺らした。
そして戻って来た貴方の手には、これがあったわね。
「少年騎士団は身分の上下を問わないといっても、ナラ伯の子弟とイカロス王子が
揃って現れたんじゃ、上級生だってこれを返すしかないわ。少しずるかったわね。
しかも、それを誤魔化す為に、「寄宿舎の廊下に落ちていた」だなんて。二人して下手な嘘」
ふふ、とルビリアは笑い、手の中に揺らしていた首飾りを受け止めた。
椅子の上で膝を抱え、ルビリアはユーリの遺体を見つめた。
この首飾りはね、ヒスイが私にくれたものなの。
これがなければ、全てが、夢だったような、そんな気がするくらいよ。
あの人が身をかがめて、これをつけてくれた日のことを、今もよく憶えているわ。忘れるはずもない。
皇子宮は、まるで楽園。
その人の妃となるために、私はそこにいたの。皇子さま、やることが奇抜で、不品行だったから、
幼いうちから彼に馴れておいたほうがいいと、犬か猫みたいに預けられていた。
古代彫刻の建ち並んだ緑の庭や、疎水に囲まれた幾つもの瀟洒な部屋、そこから見た青空と、
胸を染めあげるような、あかい夕暮れ。
遊び疲れたら、あの人の膝の上で眠ったわ。
もっともヒスイにしてみたら、小さな女の子のお守りなんて、内心では辟易していたかもね。
ルビリアは首飾りを手の中で鳴らした。鎖の擦れ合う、かわいい音がした。
「これは、大切なものなの。カルタラグン王朝最後の皇子の形見なの。
あの人が、確かに、この世にいたことの唯一のかたちは、これだけなの」
ナラ伯ユーリは眠っているようであった。
死人は鎧をはき、胸のところで組み合わせた手の下に、剣を抱いていた。
膝を抱えて椅子に坐ったルビリアは、子供のように抱えた膝を胸に引き寄せ、そこに顎をのせた。
振り向かなくとも、弟子の気配は、すぐに分る。
天幕の帳が開いて、エクテマスが静かに入って来た。
「ルビリア。夜は冷えます。そのままでは寒い」
女の肩に、上衣がかけられた。
「ルビリア」
灯りに包まれ、遺体を見つめたまま凝固している女の後姿は、夕暮れの向こうの、影のようだった。
まだ少年だった頃にエクテマスが受けたこの女の強烈な印象そのままに、ルビリアは
誰かのことだけを考えて、すべての想念がそこで行き止まりになっているままだった。
「オニキス皇子に-----オニキス侯に、お伝えして。今宵は、参れませんと」
「はい」
「しばらく、一人にして。ナラ伯に付き添っておきたい」
「外にいます」
出口のところで珍しくエクテマスは脚を止め、ルビリアを振り返ったが、何も云わずに
そのまま出て行った。
時折、ご遺骸を郷里に送る明日の出棺について打ち合わせている声や、歩哨が交代する物音が
外から聴こえていたが、哀しみの陣も、そろそろ寝静まったのか、風の音ばかりで、海底のように
静かであった。
ルビリアは、亡骸を見つめた。
イカロス王子の友人というだけの、これといって親しくしたこともない男であった。
「遠くから会釈するだけの仲だったけれど、それが貴方の思い遣りだということに、
私は気がついていたわ」
ルビリアは首飾りの鎖を指に絡めたまま、手から落としたり、また戻したりして、緩慢に鳴らした。
「私は貴方のことが好きだったわ、ユーリ。貴方の死を知れば、イカロスが、きっとひどく嘆くわ」
「淋しいわ。とても大切な人を亡くしてしまった気がする。いったいこの世に、この人だけは
いかなる状況であれ品のない振る舞いをしないと確信できる人間が、何人いることでしょう」
「稀なる人にしか持ち得ない高貴な心で、貴方は誰に対しても、私のようなよそ者の女にも、
昔からいつも思い遣り深くて、優しかったわね」
「こうしておけば自分の美談や手柄になる、そんな出しゃばった親切が、私の心に届いたことは
一度としてないわ。いかにして、人を犠牲に自分の名声を上げるか。
そればかりを考えて人間関係を仕切りに出てくる人間の、あの喧しい声に比べて、貴方は
そんな方法で人を利用したり、自分の値打ちを高めたりは、しなかったわね。
誰かの理解者を気取り、その話を売り物にして回るあの者たちの、友情や尊敬すら、
軽々しく自分の手柄話にしてしまう、あの厚顔無恥な顔には、反吐がでる。
弔辞をよみあげる己の姿に酔いしれるような連中を、貴方に近付けたくなくて、私は、ここにいるのよ」
イカロスの友人としてしか、殆ど、知らない人だった。
「それでも私は貴方を喪ってしまった気がするわ。どうしてかしら、もう二度と、哀しむことなど
ないと思っていたのに」
膝の上で両手を組み、ルビリアは俯いた。
粗雑な人間は大勢いても、人の為に優しい心を砕ける賢い人間が、いったい、どれほどいるだろう。
「ユーリ。私は貴方好きだったわ。貴方は、私だけでなく、誰に対してもいつも、優しかったから」
貴方が私にしてくれたものには、自分が少しでも上に立とうとする強慾な気持ちや、下心など
微塵もなかったわ。他人のことをあれこれと語ることで優越感を得る、そんな目的の詮索や
付きまといなど、一度たりともしなかった。
偏見を話して回る彼らの、妙に雄弁で嬉しそうな、ご自分主役のあの薄汚い笑顔には、ぞっとする。
常に自分が優位になるような切り札を隠して握っておくことが、彼らの誇る「親切」なのね、きっと。
決定的に質の違うそれを、何と説明したら、いいかしら。
「もしかしたら、ユーリ。貴方は、私を認め、友誼を覚えてくれていたのかしら」
その違いだろうか。
『やはり、運命というものはあるのだ』、相手を不幸に見せかけるような自分本位の決め付けの果て、
最終的にそう結論づけることで、さらに人の上に立ったような気分を味わい、その逸話を
自慢して回ることで注目を集め、得々と勝った気になる人との違いは。
いったい、どれほどの人間が、その者たちが得意げに外部に語る他人の行為や
その真偽、内容について、
「それはお前が、深層で相手が自分よりも下にいることを望み、そのような下劣な心から出た
言葉で、相手が自分よりも低く見えるように、その印象になるように、わざわざ
余計な情報を方々に植えつけているだけだ。そうやって何か大きな役割でも果たしているかのような
気分を味わい、その自分の姿を世間に見せびらかすことで、労なく得をしているだけだ。
実質何ひとつ、相手の為になることはしていない」
そう見抜いてくれるでしょうね。
彼らが心の奥底で求め、そちらへと誘導してゆくものは、実は、自分を引き立てる為の、
相手の破滅や不幸なのであると。
それに比べ、貴方は、本当に人の力になることがどういうことかを、知っていたわね。
『ルビリア。わたしは、何もしてないよ』
「いつも、私の立場になって考えてくれたわ。故意に、負の方向へ人を押しやる、 そんな
暗示を世間に流したりなど、一度たりともしなかったわ。いつも明敏な、明るい心で、
人をしっかりと支えてくれたわ。貴方は、何もしていないと、そんな下手な嘘」
ゆっくりと、ルビリアは床に脚をおろし、亡骸に近づいた。
上衣がその肩からすべり落ちた。
蝋燭の揺れる灯が、眠るその人の鼻梁や唇に、薄い影を与えていた。
身をかがめ、ルビリアは、死者の顔に、顔を寄せた。
「ユーリ。貴方の声が、聴こえてきそう」
胸元で重ねあわされている死者の手に、ルビリアは手を重ねた。
「昔から変わらない、貴方の、その心が」
『おはよう、ルビリア。よかった偶然ここで逢えて。今日の戦略講義の時間割が変わったことを
知っていますか。先日のことといい、どうも連絡網が行き届いていないのだな』
『正規騎士団へ抜擢ですか。それはすごい。心よりお祝いを』
『やあ、お久しぶりです、ルビリア。何か手伝えることがあったら、いつでも云って下さい』
片手に握ったままの首飾りが、ルビリアの手の中で音を立てた。
蝋燭の灯影は、貴人の中の貴人であった、ナラ伯の遺体をあたたかく、包んでいた。
ルビリアは、身をかがめた。そして、剣を抱いているその人の手の甲に接吻した。
貴方がいてくれたから、私は、最後のところで、失わずにすんだものがある。
俯いた女の唇は、それを紡いだ。
「騎士団の同期として、貴官の死を送る。ユーリよ。少年の日に誓いし剣の誓約どおり、
そなたは騎士の本懐を遂げた。たとえそれが、武官よりも貴族としての義務に生きてきた
貴官の望むものではなかろうと、その死を称えることを、ゆるして下さい」
死者の手は、冷たかった。
ナラ伯ユーリは、生前の温厚さそのままに、その瞼を安らかに閉じて、この世のつとめを終えていた。
「続く]
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