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[ビスカリアの星]■七三.


 国外退去が勧告されるのは、致し方のないことであった。
次官サイビスからそれを告げられたグラナン・バラスは、あまんじてそれを受け入れた。
コスモスにおいて、ハイロウリーンとジュシュベンダが小競り合いを起こし、
事態混迷中の現状において、ハイロウリーンと北方三国同盟を結んでいる
オーガススィとしては、正規のジュシュベンダ騎士を領内に留めおいておくわけには
いかぬのである。
「もともと排他性の強いお国柄ゆえ、グラナン殿の即時退去は速やかに御前会議で
 可決されてしまい、異議の差し挟む暇もなく」
次官サイビスは濃い眉を寄せて、恐縮しながらグラナンに頭を下げた。
ジュシュベンダ大學に留学していたこともあり、次官サイビスはジュシュベンダに対して
心情的には贔屓の念がある。
しかしグラナン・バラスは、事情をすみやかに理解し、荷造りをしながら、一切の不平を
顔には出さなかった。
「サイビス殿、お気になさらず。もとより入国が難しいところを、特例としてお城にも
 入れていただき、分不相応のこの厚遇に、むしろ感謝していたほどです」
広げた荷袋に片端から私物を放り込み、
「目下のコスモス情勢において、ハイロウリーンの誤解を招くことは貴国にも、のみならず
 ジュシュベンダにとっても一利なし。一刻もはやくオーガススィの城門外にわたしが立ち去る、
 その事実こそが肝要かと存じます。こう申しては何ですが、わたしは一時はジュシュベンダの
 間諜候補であった身。そのジュシュベンダ騎士を領内に長逗留させていたことが判明すれば、
 ハイロウリーンとてお国に対して何がしかの疑念を抱かずにはおれぬはず。
 そのような疑惑はわが君主イルタル・アルバレスにとっても、本意ではなきことです。
 速やかに、退去いたします」
「かたじけない。グラナン殿、これは些少ですが、お国までの旅費です」
 グラナンはサイビスにも手伝ってもらって大急ぎで荷をまとめ、といっても手荷物程度であったが、
何故かひどく大慌てになって、廊下へと飛び出した。
「グラナン、グラナン!」
遅かった。
迎賓館の廊下の端から、彼を捜し求めるシュディリスと、慌ててその後を追う
イクファイファ王子の揉めている声が聴こえてきたのである。
「しまった。見つかりました」
「これはいかん。早くこちらへ。------イクファイファ王子、シュディリス様の足止めを」
「まあ待てシュディリス。僕と、駒将棋でもしようじゃないか」
「グラナン!」
追いかけっこは、廻廊からも飛び出して、中庭を駆け巡ったあげく、ようやくおわった。
四人の青年はぜいぜいと息を切らしていたが、やがてグラナンが、「よく、分りましたね」腕を掴んで
離さないシュディリスに向けて、仕方なく、その察しのよさを認めた。
通りすがりの侍女たちが何事かと眼を丸くして、こちらを見ていた。
グラナンは荷物を両腕に抱えているので、シュディリスの手を振りほどけなかった。
「コスモスで勃発した一件の全容が公表されてから、まだ間もないはずですが」
「そこからおのずと」
「飛躍的直感ながら、ご正解なので、天晴れです」
「褒めてる場合か」
中庭を囲む列柱に腕をかけて息を整え、イクファイファは次官のサイビスを責めた。
「グラナンの退去は致し方ないと思うが、何もこんな急に、こんなかたちでシュディリスと
 生木を裂くような真似をせずともよいだろう。シュディリスが怒るのも、もっともだ。
 別れの挨拶くらいさせてやれ」
「知られたら、シュディリス様に止められると思いましたので」
「止めはしない」
シュディリスはグラナンと腕を組んだままだった。
「グラナンと一緒に出て行くって云うんだろう、どうせ」
「もとより招かざる客のはず。オーガススィ、堪能しました。グラナン、失礼しよう」
怒りのシュディリスはグラナンを引っ張って、門に向けて歩き出した。
次官サイビスと、イクファイファが、慌てて前をふさぐ。
女官や侍女たちも何ごとか分からぬままに呼び集められて、彼らに倣い、大勢で
シュディリスを行かせまいとする。
「お待ちになって下さいませ、シュディリス様」
「パトロベリがまだ見つからないことだけが心残りだが、オーガススィにもう用はありません」
「パトロベリとは」
「馬の名です」
「まあ、ジュシュベンダの王子さまと同じ名をいただくとは、まことに畏れ入りたてまつったる、お馬さん」
「感心してる場合か。本当に出て行くつもりだぞ。誰かシュディリスをとめろ。衛兵、衛兵」
オーガススィは、北方三国同盟に縛られている。
同盟国ハイロウリーンとジュシュベンダが反目した以上、オーガススィは何はともあれ領内の
ジュシュベンダ騎士を即時退去させる必要がある。その意義と重要性については
シュディリスとて重々承知である。
何といっても、グラナンはジュシュベンダの騎士であり、正式な身分がそれである以上、
諸国は、そうとしか捉えはしないのである。
ここは、グラナンを行かせるほかない。しかし、ここまで付き従ってくれたグラナンを、こんなかたちで
追い出すわけにはいかない。何よりも鷹狩りからこの方、半ばオーガススィに軟禁されている身の
シュディリスとしては、これ以上の理不尽な我慢は、もう勘弁ならぬのであった。
「シュディリス様、お待ちを」
「衛兵、彼の道を閉ざせ」
「わたしに手をかけるかッ」
「いや、フラワン家の君には手をかけない。かけないが、ここは如何ともしがたい局面だ」
騒ぎの結末は、肝心のグラナンがシュディリスの腕を振りほどき、
(コスモスでお待ちしております)
すばやくシュディリスに耳打ちするなり、
「申し訳ありません。今はこうする他ありません。お達者で!」
衛兵に送られてオーガススィの二重城門の外にあたふたと退去したことで、幕を閉じた。


オーガススィ領主、トスカ=タイオ・クロス・オーガススィ。
現在では略称の方が正式にも通っているトスカイオは、海に面した城壁で、鳥に餌を遣っていた。
背後には、世子の君の小トスカイオと、末王子イクファイファの兄弟が控えている。
それで、とトスカイオは遠い波打ち際を見つめながら、息子たちに問うた。
「グラナン殿は、速やかに領外へと立ち退かれたか」
「さすがはジュシュベンダの騎士、こちらが申し出た護衛すらも退けられ、潔く」
「聞き分けられたか。御曹司はどうしておられる」
「しばらくは城壁の上からグラナン殿を見送られておられましたが、女たちが御曹司を
 取り囲み、傷心のシュディリス様をお慰めするために、何処かへ連れて行ったようです」
鳥の餌を撒いていたトスカイオは、ひょいと顔を上げた。
「何処かとは、どこに」
「さあ……」
「うむ」
「大丈夫でしょう」
「何なら、僕が様子を見てきましょうか」
うきうきと口にしたイクファイファは、たちまちのうちに、父と兄から睨まれた。
不穏を察してか、鳥が飛び立つ。遠くの海は、冴えた青色に、厳しく清んでいる。
「イクファイファよ」
「あ、はい」、イクファイファが背筋をのばす。
「そもそもはお前が、孫たちの置き手紙をうかつにも御曹司に見せたからこうなったのだぞ!」
「見せたのではなく、奪われたのですが。それに、それとこれと、グラナンの退去と、どんな関係が」
「言い訳不要」
おちた雷にイクファイファは首をすくめて、もごもごと言い訳をした。
そんなこと云われても、普通、思わないじゃないか。オーガススィ王家のみに伝わる
複雑怪奇な古語を、トレスピアノの人が拾い読みにせよ、その内容を解するなんて。
「さすがは、シュディリス。わが妹リィスリの息子だけのことはある」
領主はいたく、そこに感動し、満足げに深く頷いた。
「リィスリはかの地でも、オーガススィを忘れてはいなかったのだな。
 海賊の舟歌で、子供たちを育てたのだな。無念よの。フラワン家が同じ聖騎士家から
 二代続けて嫁をとらぬとは。カシニ殿がリィスリを娶っておらねば、シュディリス殿にこそ、
 うちの可愛い孫娘のどちらかをと思うものを」
「その、わたしの娘たちのことですが」
姉妹の実父である小トスカイオはさすがに、トスカイオのようには余裕で構えてはおれなかった。
時折、彼らの頭上に暗く落ちかかるのは、真上の塔でひるがえる、銀と灰色のオーガススィの
大旗の、その影であった。
小トスカイオは、父に頭を下げた。
「レーレローザ、ブルーティア、それにルルドピアス。
 鷹狩りの場から家出した三人が盟友ハイロウリーンに保護されたとのことで、ひとまずは
 安堵していたのですが、これではさらに悪いことになってしまいました。
 三人で一緒にいられるのはあと僅かのあの子たちに少し自由を与えてやろうと思ったことが
 裏目に出てしまいました。何としても、即座に連れ戻すべきでした。父上には、懸念事項を
 増やすこととなってしまい、まことに申し訳ありません」
「騎士ガードしか附いておらぬからな。少々心配ではある」
「それに、レーレローザの書置きを鵜呑みにするならば、オーガススィが
 ヴィスタル=ヒスイ党と手を組んだ場合には、本人たちがハイロウリーンへ
 亡命する可能性を文中でほのめかせておりますし」
「かりにも聖騎士家オーガススィの領主、このトスカイオを脅そうとは、見上げた孫むすめ」
両手を叩いて鳥を呼び寄せると、トスカイオは、眉を寄せた。
「と、褒めて遣わしてやりたいところだが、さほどにフィブランの許に行きたいか。
 ならば、レーレとブルティの二人が戻ってきたら、リィスリの時に匹敵するような
 花嫁御輿をこしらえて、望みどおりに、二人とも早々にハイロウリーンに追い払ってくれるわ。
 孫に甘い祖父であったのが悪かったのか。それとも、孫むすめの不満や願いを、このわしは
 露ほども分かってやってはいなかったからなのか。当然ではないか。乙女心なんぞ
 この歳になってもとんと不明で分かるものか。じいがよく分かりでもしたら気持ちが悪いわ。
 お繊細な十代の小娘が間違った方向へゆかぬように、嗜め、あしらう、
 それは両親の役目であろうが。監督不行届きであったな、小トスカイオよ」
「父親として、面目しだいもございません」
「あのー、」
「イクファイファ」
兄がすばやく弟を制止した。
レーレローザとブルーティアはともかくも、姉妹と共に出奔した彼らの妹、同じく十代の
小娘であるルルドピアスについては、トスカイオ自身の末娘である。
しかし今はそこで揉めている場合ではない。

領主は残りの餌を空に投げ上げた。
上空を飛び回っていた鳥が、滑空し、それを空中でくちばしに捉える。
「あの子たちは、さほどにオーガススィに、このわしの治める城に、不満があったのか」
肩をいからせて、トスカイオは背中を向けた。
「だからあの三人で、まるで勝ち目のない、孤独な謀反をおこすようにして、
 家出をしてみせたのか」
「いえ。女官長の申すところによれば、おそらくは見合いの前の、些細な気持ちの乱れに過ぎぬかと」
「では、ルルドピアスは」
城壁に手をおき、トスカイオは海に顔を向けた。
白髪に変わろうとしている領主の髪が、海風に吹かれ、襟飾りの上で踊っていた。
空と海が溶け合い、光の中にかすんでいる遥か彼方は、もう誰にも、境界が引けなかった。
「ルルドピアスはどうなのだ。聖騎士家の、この城の人間たちの、あらゆる不条理を、すべて
 一身に引き受けていた、あの娘は」
「父上」
「ルルドピアスがこの国を厭うて出て行ってしまったとしても、それを責める資格なぞ、
 わしにはない。親として失格であったのは、わしのほうだ。
 領主さまは末のお姫さまを離宮に隔離などして、まるで厄介者のように扱ってと、
 領民から批難されていたことも知っておる。いっそ本当にあれが重い病であったなら
 どれほど物事が簡単に片付くかと、そう思ったことすらあるほどなのだ」
「父上!」
「イクファイファ。父上は、悔いておられるのだ」
「父上、それでは、ルルドがあまりにも」
兄の手を振りほどき、イクファイファは父に詰め寄った。
「父上、父上も、城内に流布された噂を鵜呑みにされて、ルルドピアスを
 そのような眼でご覧だったのですか」
それでは、何のためにルルドピアスに付き添って、離宮で多くの時間をあの妹と過ごしてきたのだ。
それもこれも、もとより排他的なオーガススィにおいて、従来を保持しようとする旧派が
ことさらのこと、トレスピアノに嫁いだお家ご自慢の姫君リィスリ様をしつこく持ち上げ、その流れの
一環として、その面影を宿したルルドピアス姫にリィスリ姫を重ねていたこと、その旧派に対して、
次代の領主夫人となることが確実であり、他家から嫁いできたスイレンを囲む新派との対立が、
そのまま、スイレン対ルルドピアスの構図のようになっていた城内の派閥事情である。
しかも、これは圧倒的に、ルルドピアスの方に分が悪かった。
当代領主夫人はルルドピアスが幼いうちに亡くなっており、ルルドピアスの周りには
ルルドピアスを守ろうとする適当な年長のご婦人が一人もおらず、ルルドピアスの
味方をするのは、兎にも角にも二言目にはリィスリを賛美するような者たちばかりであり、
それはいっそう、美醜に敏感な城の中の女たち、というよりは、次代領主夫人の
スイレンにおもねっておこうと図る世渡り上手な女たちにとって、ルルドピアスへの
反感と反目を増幅させる結果となっていたのである。
皮肉にも、当のスイレンの娘たちである、レーレローザとブルーティアが、いわば母親を
裏切るかたちでルルドピアス側についた為、きわどいところで王族同士の分離を
免れていたものの、その代わり、ルルドピアスは旧派と新派がこれ以上争うことのないように、
病を理由にして、静かに城を去った。
イクファイファはそんな妹を独りにはできず、これといって愉しみのない離宮で、兄妹ふたりきりで
一年の殆どを、淋しく過ごしてきたのだ。
「ルルドが何も云わずに離宮に退いたのは、何よりも、ルルドが父上を想い、
 城の皆のことを想い、自分さえいなければと、そう想ったからです。
 ルルドは自分を犠牲にしても、人の心を慮ることができる優しい妹です。
 それなのに、父上までもがそんなことを。ルルドは断じて病人などではありません」
「かといって、常人ともいえまい」
「父上、それは」
トスカタイオは、イクファイファの懊悩と長年の鬱憤など承知といったように、遮った。
「ルルドピアスは聡明な娘。おそらくは、誰の気持ちも、誰よりもよく分かり、
 そして分かるが故に全てを胸に秘めてしまう娘。そのルルドピアスが、はじめて
 己の意思で何かを心に決めてオーガススィを出て行った。レーレとブルティは
 そんなルルドに附いて行ったのであろう。話を総合するに、家出は計画されたものではなく、
 鷹狩りの砦において突発的に決行したものであったようだからな。
 レーレローザとルルドピアスだけなら衝動的にそのようなこともあるかと思うが、慎重な
 ブルーティアならば、事前に用意を整えた上で、そうしたことであろうからな」
「仰るとおりかと」
「父上、兄上」
語調をあらため、イクファイファは眦を決して父と兄を見据えた。
「姫の返還を求めれば、ハイロウリーンは彼女たちを返してくれるはずです。
 わたしを迎えに行かせて下さい」
父と兄は無言であった。オーガススィの末王子は食い下がった。
「この際です、はっきりとお訊きしたい。父上は、ヴィスタル=ヒスイ党などという正体不明の
 連中に屈し、オーガススィの誇りをお捨てになるおつもりですか」
レイズン本家がリィスリ・フラワンをその屋敷に留めおき、党を支援せねばリィスリ様が
どうなるか知れぬぞと遠まわしに脅してきたからといって、それが何なのだ。
そのリィスリ様の足止めとして、シュディリス・フラワンの身柄をオーガススィが
確保しておけとは、何事か。
さもなくば彼らは、フラワン家の奥方に、危害を及ぼすとでもいうのか。

「そのようなこけおどしの脅しに負けて、オーガススィはレイズンの意のままになるとでも
 いうのですか。リィスリ様のお身柄をひとまずは案じ、ヴィスタル=ヒスイ党にかたちばかりは
 協力するふりをして、このままコスモス情勢の膠着状態を静観し、
 時を稼ぐおつもりであった、それはいい。けれども、ナラ伯の死を経て、ハイロウリーンと
 ジュシュベンダが対立した以上、もうそれでは押し通せなくなりました。
 この情勢において、諸国と離反し、ヴィスタル=ヒスイ党を支援することは、
 とりもなおさず、ハイロウリーンを裏切り、敵に回すということです。
 ハイロウリーンより正式に要請されたる軍隊派遣を一蹴し、三国同盟の条約を無に帰しますか。
 リィスリ様を人質にとられた父上の懊悩は無理のないことながら、申し上げるならば、それは
 父上の個人的感情。他家に嫁がれたリィスリ様を大事に想われるあまりに、オーガススィは
 ヴィスタル=ヒスイ党の、傀儡に成り下がるとでも云うのですか」

もしもオーガススィ一国でも、聖騎士家がヴィスタル=ヒスイ党と結託するとなれば、
ヴィスタル=ヒスイ党はその瞬間から、ただの集団ではなくなる。
それは、ミケラン・レイズンに対抗する一大勢力の誕生を帝国に知らしめることであり、方々に
帝国の現状を憂える書面を送りつけて結束を煽ったヴィスタル=ヒスイ党の狙いも、まさにそこに
あるはずだ。
肝心なのは、勢力である。
ヴィスタル=ヒスイ党単体では相手にされずとも、聖騎士家がついたとなれば、流れは変わる。
そしてそれは、あながち、オーガススィの将来にとって、軽率や裏切りの謗りを
招くばかりとは云い切れぬ。
もしも、ミケランが失脚し、ヴィスタル=ヒスイ党を結成している若手幹部たちが次代のレイズン家を
率いる場合には、その隣席に、党に協力したオーガススィの名が他の聖騎士家を圧して浮上し、
重んじられることも、夢ではないのである。
ヴィスタル=ヒスイ党に協力すること、それは帝国の最北に位置し、聖七騎士家カルタラグン、
ハイロウリーン、ジュシュベンダ、タンジェリン、レイズンに続き、サザンカと共に末席に据えおかれ
続けてきたオーガススィが、大きな躍進と栄華を築くことが出来るやもしれぬ、その賭けでもあった。
「父上。トスカ=タイオ・クロス・オーガススィ様」
「控えよ、イクファイファ」
小トスカイオが間に割って入るも、イクファイファは兄を押しのけた。
「お答え下さい。ハイロウリーンとコスモス。盟約で結ばれたこの両国を裏切り、
 オーガススィはレイズンに傾くのですか。彼らの卑怯な脅しに屈するのですか」
領主トスカタイオは腹に何を潜めているのか窺い知れぬ顔をして、息子を見つめ返した。
イクファイファは父を見つめ、父はイクファイファを見つめ、互いから目を離さなかった。
「ヴィスタル=ヒスイ党と手を組むおつもりならば、もしもそうならば、僕はシュディリスを連れて、
 レーレやブルティと同じく、オーガススィを出て行きます」
「滅多なことを云うな、イクファイファ」
「兄上は、では、どうお考えなのです」
「落ち着け、イクファイファ」
「僕は、冷静ですよ。この城で一番、冷静なんじゃないかな」
小トスカイオは無言で弟をその場から連れてゆこうとした。イクファイファはそれに抗った。
「父上の、領主の返答を聞くまで、動くもんか」
「よさぬか」
間に扇を差し入れることで兄弟を左右に引き分けると、トスカタイオは顔を振り向け、彼方の
青い海に目を向けた。
「------コスモスには、海はないな。トレスピアノにも」
人生の黄昏を見据えるように、トスカイオは目をほそめた。
オーガススィに隆盛をもたらした王としての名が、もしも歴史に刻まれるとすれば、それは
あの海原に揺らいで瞬くあの光のごときであろう。夜を満たす、星の一粒であろう。
(トスカ=タイオお兄さま、わたくしはカシニ・フラワンを選びました)
(トレスピアノ領主夫人として生き、もう二度と、このオーガススィに戻ることはないでしょう)
「ヴィスタの都にも、海はない」
トスカイオは息子たちを振り返った。
「シュディリス・フラワンは、この城に、とどめおく」
イクファイファが口を開いて抗議する前に、トスカイオは扇を手の中で打ち鳴らした。
「これは、かの君の安全の為である。祖先を海賊に持つオーガススィが、海から
 離れることなど、あり得ぬわ」
「父上。では」
イクファイファの顔が明るくなった。
塔の上でオーガススィの大旗が力強くひるがえり、また北の太陽が、彼らを照らしつけた。
「古代王国コスモスの職人は、ジュシュベンダに移住し、橋と鐘塔を建てて、花の都の基礎を築いた。
 職人はその技術をもってして、流浪の民となっても、その技に誇りを持って生きるがよい。
 しかし国は違う。国土は違う。竜を退治した祖先の魂は此処にある。内陸ヴィスタなぞに
 オーガススィの拠点を移して、何をしようぞ」
「トスカ=タイオ・クロス・オーガススィ」
「オーガススィは、カルタラグンとタンジェリンの二の舞はいたさぬ。海あるこの地こそが、
 オーガススィである。小トスカイオ!」
「はッ」
「オーガススィの軍旗をあずける、コスモスへ赴け。イクファイファ」
「はい!」
「レーレローザ、ブルーティア、ルルドピアス。ハイロウリーンに保護されている、われらが
 姫を、そちが迎えに行くよう」
ハイロウリーンの出動要請に応えることは、ヴィスタル=ヒスイ党の申し出を撥ねつけ、
北方三国としての体面を優先するということである。
彼らに囚われている、リィスリ・フラワンはどうなるのだろう。
よもや危害を加えはすまいとは思うが、相手は、執念深い陰謀のレイズンである。
いずれにせよ、ミケラン・レイズンにも引退の時がくる。
ミケランには子がおらず、ということは、次代のレイズンを興すのは、確実に本家の若手たちである。
その際に、中枢に坐るであろう彼らの不興をかったオーガススィは、どうなるのだろう。
しかし、イクファイファは迷いを振り払うと、腰の剣柄を握り締めた。
「必ずや、三人ともオーガススィに連れて帰ります」
三人とも、必ず。


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大きな波紋を投げかけたナラ伯ユーリの死は、コスモス領外に留めおかれている
オーガススィの三人の姫君の上にも、その余波を投げかけた。
コスモスに向かうハイロウリーンの王子たちは、姫君と袂を分かつにあたって十分な
護衛をオーガススィの姫たちのために残し、後からも一隊を送って、過剰警備なほどに
その身の安全をはかっていたが、ナラ伯の死報は前後してそこに飛び込んできた。

「ナラ伯がお命かけてお護りしたことにより、コスモス丘陵をご検分中であった
 インカタビア王子とワリシダラム王子は、難を逃れ、ご無事でした」
「また、ハイロウリーンとジュシュベンダの会談において、妨害があり、ジュシュベンダの
 シャルス・バクティタ将軍は手傷を負われましたものの、フィブラン様、インカタビアさま、
 速やかに陣に引き上げ、こちらもご無事でございました」

三人の少女は一報の後半部分に安堵したものの、その彼女たちを
護衛してるのは一連の不穏の中でもっとも被害を受けた、当事国ハイロウリーンである。
ナラ伯の暗殺に兵が憤激せぬわけはなく、フィブランのコスモス入りを経て、今こそ
ハイロウリーンの為に結束すべきこの非常時に、むなしくも他国の姫の警護を命じられて
コスモスの外におかれていることほど、彼らを口惜しがらせることはない。
陣を固め、騎士団が結束すべき段において、同僚がコスモスでそれを成している時に、
彼らのほうは無謀にも家出してきた他家の姫君たちを紛争の外側において護るだけと
あっては、顔には一切出さずとも、内心では不満と無念を抱えて、遣る方無いはずである。
それもあって、三人の姫君たちは天幕の外にも出れない気持ちでいたのであるが、少女たちの
心配とは逆に、ハイロウリーンは、さらにオーガススィの姫君たちを丁重に扱い、
厳しくも物々しく、その警護をよりいっそう強化するようになった。
それだけではない。
変事の急報を受け、ハイロウリーン本国が即断で急遽コスモスに派遣した増援部隊のうち、
その半数がさらにオーガススィの姫たちの警備に割かれるという、厳重ぶりである。
兵のうちの誰一人として、コスモスの外におけるこの任務に不平を浮かべるものはなく、むしろ
臨戦態勢といってもいい緊迫感を滲ませて、オーガススィの姫たちに陣屋を築くのに適した
土地までの移動を願った上、コスモス領外に着々と、守備陣を敷きつつあった。
現地指揮官として彼女たちの前に現れたのは、ハイロウリーン家の七兄弟の一人、第三王子
ワーンダンであった。
「お姫さまのお相手ならば、女受けのいい弟カンクァダムがもっとも適任なのですが」
長子ケアロス、イカロス、ワーンダン、カンクァダム、続いて
インカタビア、エクテマス、ワリシダラム。
ハイロウリーンには七人の王子がいる。
その三番目であるワーンダンは、オーガススィ家のレーレローザ、ブルーティア姉妹、および
ルルドピアスに丁重に挨拶をした。
年少組と違い、公の場に出てフィブランの代わりを務めることも多かったせいか、
彼女たちが知る年少組の王子たちに比べれば、こちらはもうずっと大人で、落ち着いている。
ワーンダンはたくましい体躯に、鋭い眼をもった、いかにもハイロウリーン騎士団の
武官らしい人であった。
「父に代わり本国を束ねている兄のケアロス、補佐のイカロスの両名が
 わたしを指名したのです。インカタビア、ワリシダラムからも話は聴いております。
 姫さま方にご不自由がないように取り計らいます。陣幕を組みます間、うるさいことと
 思いますが、ご辛抱のほどを」
あまり口達者なほうではないようで、訥々と、しかし信頼できる誠実さを滲ませて、ワーンダンは
簡単に挨拶を済ませ、白に金のハイロウリーン騎士団の装束姿も堂々と、姫たちの
天幕から出て行った。
鷹狩りの野の砦から行方をくらまし、ハイロウリーンの王子たちと共にここまでやってきた
オーガススィの三人の姫たちは、今ではその身分に合った、幾つもの仕切り部屋を持つ
大きな天幕の中に案内されていた。
その方が警護もやり易いのであろうが、個別ではなく、三人一緒の天幕にして欲しいという
レーレローザの願いも、すぐに聞き入れられた。

「何でここまで護衛が増えたかって。そんなの決まってるじゃないか」

ユスタスは結局、ユースタビラのままでいることを明言し、何故ならば、
「フラワン家のユスタスと知れたら、トレスピアノに強制送還されるから」
とのことであったが、北国オーガススィの少女たちにとっては、何といっても「あの」
フラワン家の方である。天幕を譲る譲らないの騒ぎに始まり、とにかくユスタス・フラワンとも
あろう御方が、あのリィスリ様を母に持つ方が、ハイロウリーンの下っ端の騎士たちと
寝起きを共にしているというのが、彼女たちにとっては鳥肌が立つほどに、信じられず、
看過できぬことに思えてならぬ。
が、当のユスタスは、
「君たちがフラワン家をどう思ってるか知らないけれど、うちはかなり気取らない
 家風で、子供の頃から野宿もしてきたし、ご心配なく」
素っ気無いものであった。
コスモスから体よく追い払われたことがまだ頭にきているらしく、ユスタスは、
やや八つ当たり気味に、不機嫌であった。
「君たちだって、単身で勝手に国を出てきたんだから、僕のことを責める資格なんかないよ。
 何でここまで護衛が増えたかって。そんなの決まってるじゃないか。
 もしもオーガススィが援軍派遣要請に応じず、拒否する、またはやむを得ぬ
 判断により北方三国同盟に途中で背いてハイロウリーンと敵対するようなことになった場合、
 オーガススィの姫である君たちは、その瞬間からハイロウリーンにとって、客人ではなく、
 重要な人質になるからじゃないか」
そしてオーガススィは、当然、姫たちの救出部隊を組むだろう。
青褪めた顔つきで小鳥の雛のように固まっている三人の姫君を一瞥し、あえて
ユスタスは脅しておいた。
「裏切りの報復措置として、いきなり街道に吊るされるなんてことはないだろうけど、
 ハイロウリーンに送還されて、塔に幽閉されるくらいのことは覚悟しておくんだね。
 僕の擁護はあてにしないほうがいいよ。フラワン家はトレスピアノごと不可侵領地として
 帝国に存続を保障され、永代を約束されているその代わりに、いずれの
 騎士国の肩も持つことは出来ないし、その他においても、一切の内政干渉権限を
 持っていないんだからね」
「-------今のうちに、ルルドピアスだけでも、何処かに逃がせないかしら」
天幕の中で、レーレローザとブルーティアの姉妹は声を潜めて、顔を見合わせた。
「そんなこと云ったって、レーレ、ルルドひとりじゃ無理よ」
「だから、ユスタス様に、ルルドピアスを保護してもらって。トレスピアノにでも」
「云われたばかりじゃないの、味方も干渉も出来ないと」
「ねえ、ブルーティア。考えたのだけど」
ごくりと唾をのんで、レーレローザはブルーティアに耳打ちした。
「ユスタス様に、ルルドピアスをもらってもらうというのは、どうかしら」
女の浅知恵まる出しであったが、レーレローザはルルドピアスを救いたい一心で、
これでも必死なのであった。
レーレローザは切羽詰った声で続けた。
「そうすれば、ルルドはもう争いとは無縁の、フラワン家の人間になるわ。
 当代領主さまにリィスリ様が家から嫁がれておられるといっても、ユスタス様は、ご次男。
 オーガススィから二代続けて領主夫人が出ることにはならないのだし、差し支えないのでは
 ないかしら。此処でユスタス様とお逢いできたのも、何かのご縁、天のご采配かもよ」
まさに「うちの子いちばん」的な盲愛により、ルルドピアスを断る男などこの世にはいないと
信じきっている、レーレローザである。
ルルドピアスが首を刎ねられたり、敵国の姫として憎まれ、ハイロウリーンの兵に
辱めを受けるくらいならば、いっそこの手でと、レーレローザはぶるぶる震えるその手で
剣を握り締めてまでいた。
姉がそんな有様なため、ブルーティアはかえって冷静に考えることが出来た。
しかし、姉のその案は、悪くない。
もしも本当に、オーガススィとハイロウリーンが敵同士になった場合、姉や自分は騎士なので
それ相当の覚悟もあるが、ルルドピアスだけは、何とかその末路から外してやりたい。
(何処かの、静かの、花の苑に。ずっとそう思ってたわ。トレスピアノは、いいかも知れない)
「私たち二人の首を差し出せば、ルルドピアスには、慈悲が下るのではないかしら」
「トレスピアノ領に入ってしまえば、皇帝といえども手は出せない。せめてそこまで
 辿り着くまで、ルルドピアスをユスタス様の許婚にしてもらうことは出来ないかしら」
犠牲的精神でもって悲壮感たっぷりに姉妹が暗く話し合っているその間、
勝手なことを云われているとも知らぬユスタスとルルドピアスの二人は、川で遊んでいた。


遠巻きに護衛、もしくは監視の眼がある中であっても、彼らはそんな状況にも
生まれつき慣れっこであった。
しなやかに伸びた若者の手から、石が離れると、それは幾つもの水紋を刻みつけながら
水の上を跳ねて、素早い生き物のように遠くへと飛んだ。
「ユスタス様、お上手!」
ルルドピアスが子供のように手を叩く中、ユスタスは、次の石を拾い上げた。
お追従でも何でもない、幼子のようなルルドピアスの喜びように、ユスタスも心が晴れる。
「普通、女の子の水遊びなら、花舟を流したりするんじゃないの」
「水切り遊びは、イク兄さまから教わったのです」
石を拾って自分もやってみせようというルルドピアスを、さすがにユスタスは止めた。
男どもがうじゃうじゃいるこんな場所で、ドレスの裾をからげさせるわけにはいかない。
(小さな女の子みたいだよね。この従妹どのは)
姉リリティスや母のリィスリに関しては、さすがに家族なのでその容貌も見慣れたもので
あるものの、ルルドピアスを見ていると、母や姉の美貌に感嘆する人々の気持ちが
何となく実感として、ユスタスにも理解できる。
木漏れ日の中に立っているその様子ときたら、花か光か、何かの精のよう。
それでいてルルドピアスには、母の幽愁や姉の情緒不安定などの翳りはなく、誰に対しても
簡単に心を開き、その笑顔は、赤子のように、いっそ無防備なほどに、いとけないのであるから、
ユスタスにせよ、ルルドピアスに庇護欲を覚えてしまうのは、仕方がないといったところだった。
巫女の行方を知る重要参考人としてレイズンに追われていた兄シュディリスがオーガススィに
辿り着き、かの地に滞在していることを、ユスタスはこのルルドピアスの口から詳しく
聞かされたのであったが、それはご機嫌斜めのユスタスに穏やかに事情を説明するには
この際、ルルドピアスが適任であると、レーレローザとブルーティアが賢い判断を下したからであった。
兄の様子を知らされたユスタスは、深く、安堵した。
オーガススィは母さんの実家だし、ひとまず安心だ。
(それにしても、えらくまた北に行ったんだな、兄さんは)
「シュディリス様は、グラナン・バラス様とおっしゃる方とご一緒でした。ジュシュベンダの
 騎士さまで、シュディリス様の留学時代のご学友の、兄君だとか」
「グラナン・バラス」
「語学に堪能でいらっしゃって、双剣の遣い手なのですわ」
その弟のトバフィル・バラスなら、ユスタスも知っている。
トレスピアノに遊びに来た兄の学友は活発で個性的な人が多かったが、トバフィルは
フラワン家に滞在中も殆どの時間を書庫で過ごし、フラワン家の年代記を興味深そうに、
おとなしく読んでいた。
(トバフィルさんには勉強を教えてもらったっけ。あの人の兄君が騎士だというのも
 意外だけど、そんな人に、シリス兄さんの供がよく務まったな)
ユスタスが失礼なことを考えているところへ、ワーンダン王子やって来た。
「ご機嫌よう、ワーンダン様」
「ルルドピアス姫。お薬のご用意が」
「ありがとうございます」、ルルドピアスは素直に行こうとする。
「どこか悪いの?」
ユスタスの問いに、ワーンダン王子の手を借りて川べりの土手を上がったルルドピアスは
困ったように、少し笑った。
「レーレとブルティが心配して、疲れのとれる薬湯を頼んでくれたのです」
「へえ」
「では、ユスタス様。後で、お食事の時に」
そういえば母さんも姉さんも、時々何か呑んで、休んでたな。
きっと、あの過保護の姉妹のことだから、ルルドピアスが切り傷ひとつ指先につけただけでも、
医者だ何だと、大騒ぎするんだろうけれど。
(彼女たちの気持ちも分かるけどね。あのお姫さま、いかにもひ弱そうだし)
(------あの時の、あれは、何だったんだろう)
(強い声、あの姿。まるで、完全な、別人のようだった)
ルルドピアスが行ってしまうと、ユスタスは川原の小石を手の中に軽く握り締めた。
その場に残っていたワーンダンは、木立から踏み出した。
ワーンダンは、こちらに背を向けて川のせせらぎを見つめている若者に、「そこの」と声を掛けた。
ユスタスは小石を手の中で転がした。
「ユースタビラ、と申したか」
若者は片足を大きく踏み出した。水の上を蹴りながら小石が遠くへと跳ぶ。
空を映す川が、七つの輪を次々と描き、それは橋のようになって、対岸へと直線に伸びた。
それを完全に見送った後で、ようやく彼は、ワーンダンを振り返った。
(ほほう。これはまた)
ワーンダンは呆れて、眼を眇めた。
(ルビリア姫も、とんだ拾いものをされたものだ)
 『高位騎士のわたくしと、エクテマス王子の立会いの下、略式に騎士叙任式を
  執り行いましたる騎士ユースタビラについて。軍から出てゆくもよし、いかぬもよし。
  彼の好きにさせて下さい。』
ルビリアはワーンダンに宛てた書面の中で、ユースタビラについてぼかし、奇妙な指示を出していた。
 『ただし、その身の保全だけはヴィスタチヤ帝国そのもののごとく、万全に願います。
  彼は聖女オフィリアの加護を受ける者。』
もしや、その身に手をかければ大逆罪、というわけか?
聖騎士家ハイロウリーンの王子なぞ眼中にないといった態度でいる若者を、ワーンダンは
片眉を吊り上げて、見つめ返した。


女官はしずしずと、シュディリスを別棟へ導いた。
年配の女官がシュディリスを案内したのは、肖像の間の、続き部屋であった。
グラナンを失って傷心の御曹司を慰めようと、女衆がわれ先にとシュディリス目掛けて
殺到したところへ通りかかり、
「シュディリス様。こちらへ」
軽く見据えるだけで若い女たちを追い払った女官は、窓を開いて風を通すと、
「何といっても、当家はリィスリ様のお里でございます」
鍵を回して戸棚を開き、幾枚もの画を取り出した。
「他家に嫁がれた方の肖像画ですから、表にたくさんは出せぬのがもったいないほどで。
 芸術の盛んなナナセラをはじめとした、帝国中の画家がリィスリ様を描かせて欲しいと
 殺到し、彼らを泊める工房が新たに建てられたほどであったのでございます。
 ご子息であられますシュディリス様には、ぜひともご覧いただきたく」
女官はそう説明したが、おそらくは、リィスリと入れ違いのようにしてコスモスから
オーガススィに嫁いできたスイレンを気遣い、それに合わせて、引き下げたものであろう。
「すぐに出せる手前に揃えてございます。トスカタイオ様とリィスリ様とは、
 それはもう、仲のよいご兄妹で。お二方がご一緒の画も、これに」
女官は次々とそれらを長椅子に並べた。そしてその手をふと止め、
「あら、これはリィスリ様ではなく、ルルドピアス様ですわ」
少女の絵を数枚、横に取り分けた。
シュディリスはそれに眼をとめた。
「よく似ている」
「ええ、幼い頃は特に区別がつきませんので、混じってしまったのでしょう」
女官は同じ年頃のリィスリとルルドピアスの肖像画を横に揃えて、シュディリスに自慢した。
「ご覧下さいませ。どちら様も、お可愛らしい」
ルルドピアスの方はあどけなく可憐に微笑み、それとは対照的に、リィスリはどうやら幼い頃から
あまり笑わない人であったらしく、澄ました顔で、画家の筆に写しとられている。
それがいかにも、美少女の像であった。
「シュディリス様の御妹君さまの、リリティス様は、長じてからは、さらにリィスリ様に
 よく似ておられるとか」
「三人の画を並べたら、きっと姉妹に見える」
「ルルドピアス様も、不憫な方ですわ」
この女官はどうやら、旧派らしく、小トスカイオの夫人スイレンに対して
含むものがあるようだった。
女官の立場としては、ぎりぎりのあたりで、彼女は不平を口にした。
「オーガススィ家の末のお姫さまとして、ご性格もご器量も、どこをとっても、帝国一の
 姫君さまですのに。そのルルドピアス様を、離宮になどに。奇病を理由にといいましても、
 これではまるで罪人扱い」
「皇太子妃候補とか」
「本当に、そうなればどれほどお家の栄誉と、姫さまの倖せか。けれども、皇太子妃、
 ゆくゆくは皇妃としての責務を担うには、ルルドピアス様はご気性があまりにもお優しい。
 リィスリ様でしたら、如何なる名家に嫁がれましても、或いは、帝国皇妃となられたとしても、
 その重責に、立派にお応えなさったかと思うのですが」
そこで、女官は言葉をとめた。
結果として、当時の王朝の皇太子妃とならず、フラワン家に嫁いだことが、リィスリの命を
政変から救ったのである。
「ああ、このような画もございました」
女官は最後に、一枚の、若い夫婦の絵を取り出した。
それは、まことに若い、少年と少女の絵であった。
少年は、画家に求められるままに少女の片手を取り、少女はその少年に微笑みを返している。
照れくささの反動か、くそ真面目な顔をしている少年と、それが可笑しいといったような少女の笑み。
見る者だれもが微笑ましく思うような、初々しい画であり、そしてシュディリスは、その少年の名を
知っていた。
「オーガススィから養子に出られました前コスモス領主、クローバ・コスモス様と、
 奥方のフィリア・タンジェリン様です。婚礼間もない頃かと」
少年の顔にはオーガススィ家の、そして少女には、タンジェリン家の特徴が、それぞれあった。
無念の死を遂げた者の肖像画には、その者の無念が宿り、持ち主にたたるという。
タンジェリン殲滅戦終結後、レイズンに非協力的な態度をとったコスモスに要求された
領主夫人の身柄引き渡しと、それに反発する領民たちの徹底交戦の構えは、フィリアの
自害をもって収束、クローバ・コスモスは辺境伯の地位を返上のうえ、領外に姿を消した。
「たたりなど、莫迦らしいとトスカイオ様は憤慨されておられましたが、
 ひと眼を憚り、この絵もこちらに仕舞うこととなりましたのです」
画の中のフィリア・タンジェリンは、未来も知らず、クローバに手をあずけている。
「戦とはそのようなものとはいえ、タンジェリンの皆さまには、お気の毒なことでございました」
女官は、万感をこめた、ため息をついた。


ゆくりなく見ることとなった、実母ルビリアの姉フィリア・タンジェリンの肖像に、
まだ見ぬ母の幻を重ねてシュディリスが想いをめぐらしていると、女官を遠ざけ、
シュディリスを呼び止めた者がいる。
「シュディリス様」
裏庭を巡る二階の廻廊で彼を待っていたのは、小トスカイオの夫人、スイレンであった。
先々代コスモス領主の弟の娘という身分ながら、聖騎士家オーガススィの次期領主夫人の
座を射止めた女は、あらゆる成金がそうであるように、自らを外部に誇ってやまず、
また、それをいっそう引き立てるべく、他人の不幸を執拗に願うという一面を持っていた。
そしてそれは、ルルドピアスとの関係が示すように、たいそう思いやり深い女としての、
「痛々しい誰かと行いのいい自分」そんな一組のかたちで、己の評価を上げるためにも、
相手の評判を蹴落としながら、世間に向けて盛大にひけらかされるのであった。
唐突に、スイレンは云い出した。
「シュディリス様、わたくし、城の抜け道を知っておりますの」
馬の嘶きがした。
シュディリスはスイレンの傍をすり抜け、石の欄干に駆け寄り、下を見た。
彼が見出したのは、パトロベリであった。正しくは、馬の。
「パトロベリ!」
「お探しの馬ですわ、シュディリス様」
スイレンは、シュディリスの腕にそっと手をかけ、微笑んだ。
「シュディリス様。お母さまを、リィスリ様を、助けに行きたいのではありませんか」
心労のあまり、スイレンは床についているという話であったが、なぜ、起き出しているのだろう。
レーレローザとブルーティアの母は、娘たちの行方を心配するあまりにか、げっそりと
やつれており、そうやってシュディリスに話し掛けている間にも、息切れを起こしかけていた。
しかし高熱のある人間がそうであるように、スイレンは、かえって己の命にすがるように、
シュディリスの腕をしっかりと掴んで、離さなかった。
下の庭では、どうしてすぐにこちらへ来てくれないのかというように、馬パトロベリが
のんびりと前脚をかいて、シュディリスを招いていた。
今まで何処にいたのかは知らないが、馬パトロベリは毛つやもよく、飼葉にも不自由は
していなかったようである。
そのくせ、シュディリスが呼ぶと、パトロベリはふいっと横を向く。
(伝説のひねくれ名馬の真似を)
シュディリスが馬パトロベリを睨んでいると、その隣で、スイレンは、なおも言葉を並べ立てた。
「娘たちは、聖騎士国オーガススィの不甲斐なさに腹を立てて家を出てしまったのです。
 ヴィスタル=ヒスイ党の指示のままに、あちらに囚われておられるリィスリ様の足止めの為に
 シュディリス様を人質にするとは、何という情けないことでしょう。
 舅と夫に代わり、お詫び申し上げますわ」
「奥方さま、熱があられます。まずは、貴女を寝所に送り届けるほうが、先のようです」
「わたくしは大丈夫ですわ。むしろ、寝ていたほうが、いろいろと心配されて苦しくて」
そこばかりは嘘ではない、追い詰められた母親の顔になり、しかしその効果を十分に
知っている女の媚で、スイレンは眼を潤ませ、シュディリスを見上げた。
「シュディリス様。当家の恥は、わたくしが何とかいたします。そうすれば、
 娘たちも、戻って来てくれるはずです」
スイレンは自分の姿を有利なかたちで売り込むことに、ひじょうに長けた女であった。
誰もがスイレンに同情して、ほだされるであろう声音で、切々とスイレンは訴えた。
レーレローザもブルーティアも、まだ子供で、世間知らずなのですわ。だから、こんなことをして。
それに、ルルドピアス。
あの病弱な痛々しい姫が、自業自得とはいえ、いったい今頃、どれほど難儀をしているかと思うと。
たとえ、ルルドピアスに嫌われ、疎まれていようとも、わたくし、やはり、放ってはおけませんわ。
「このようなわたくしだからこそ、それだからこそ、人の気持ちがよく分かるのですわ。
 シュディリス様、お母さまを、リィスリ様を、助けに行きたいのではありませんか」
スイレンは、シュディリスの腕を、ぎっちりと掴んだ。
あるいは、ユスキュダルの巫女さまがおわす、コスモスへ行きたいのではありませんか。
ヴィスタル=ヒスイ党ごときに、いったい何が出来るというのでしょう。この家の男たちは、
そこまで意気地がないのでしょうか。
「後のことはわたくしが何とかいたします。城の抜け道を、ご案内いたしますわ」
スイレンは熱心にシュディリスを口説いた。
その眼は、何かの積年の感情を潜ませて、暗く、熱っぽく、輝いていた。


「続く]


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