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[ビスカリアの星]■七四.


城の抜け道を教えてやろうというスイレンの目的は、娘たちをすぐに
救出に向かわなかった夫や舅に仕返しをし、彼らにひと泡吹かせることか、或いは
ヴィスタル=ヒスイ党に拉致されたトレスピアノ領主夫人を、さらなる苦境に追い込むことか。
馬は、そこらの草を食みながら、庭をあるいていた。
 「パトロベリ」
シュディリスが呼ぶと、パトロベリはちらりとこちらへ耳を立てるものの、もぐもぐと
草を食べ続け、
 (お天気いいですね)
そんな暢気な顔をして、機嫌が良さそうである。
 「城門に頭をすりつけているところを、馬番が見つけたそうですの」
 「では、この城の厩舎にいたのですか」
スイレンは片手を口許にあてて、ほほ、と笑った。
 「見つからぬも道理。蹄鉄を調べても、誰もあの馬がその馬だとは思わなかったのですわ。
  御曹司の馬ならば、もっと目覚しい優駿のはずだと。思い込みとはいえ、お赦し下さいな」
 「パトロベリは、あれでいて」
むきになってシュディリスは反駁しかけたが、あれでいて、の後が続かない。
あれでいて。
ただの茶色の馬である。
この際、見つかって何よりの馬パトロベリのことは放念しておくことにして、シュディリスは
スイレンに向き直った。
 「城の抜け道と云われましたか、奥方さま」
 「ええ」
 「聞かなかったことにします」
手を振りほどいて往こうとするシュディリスの態度に愕いて、スイレンは慌てて追いすがった。
 「お待ちになって。何故ですの」
 「抜け道の存在など、迂闊によそ者に教えぬほうがよいのでは」
 「わたくしの真意をお疑いなのでしょうか」
 「ご迷惑をおかけすることになります。今の話、聞かなかったことに」
 「軽率だと仰りたいのですね。それに、よそ者!」
スイレンはシュディリスの前に回り込んで立ちふさがった。
 「よそ者というならば、他家から嫁いできたわたくしこそ、よそ者ですわ。シュディリス様」
両手を広げておし留めながらも、か弱い顔をつくって、スイレンはシュディリスを見上げた。
ぬきんでた才知も容姿も、何よりも、内面に人を魅了するに足るものを持たぬ女は、そうやって
せいぜい口を動かして人の関心を集めることでしかこの城の女主人にはなれず、また、
人々の多くはスイレンのような、分かりやすい、声の大きい、己の欲する欲得がはっきりしている
人間の顔色を伺い、その者に気に入られるべく、赤を黒と云い換えても、お追従でそれを支持し、
盛り立てるものである。
シュディリスの前で、スイレンは声をふるわせた。
どれほど-----どれほど、わたくしがこの城で一人で、我慢を重ねてきたことか。
それは確かにスイレンの苦しい本音でもあったから、その言葉には、偽りのない真情が
こもっていた。 
「嫁いでこのかた、わたくしは、わが身を省みず、皆のことを思ってまいりましたわ。
 あれこれと心を砕き、城の皆の幸福の為に、無償で尽くしてきましたわ。
 まるで、わたくしはこの城の召使。それでも、嫌われ役となっても、それが
 わたくしの務めだと、何よりもわたくし自身が選んだ道なのだからと、自分自身に
 云いきかせ、蔭の存在に徹してきましたわ。勝手なことばかりを云っては
 わたくしを責める人々のご無理ごもっともを聞き届け、子供たちを育て上げる間にも
 隅々にまで配慮を重ね、それでも収まらぬことも多くあり、翌日にどのような
 公務があったとしても、夜遅くまで休む暇もないほどでした。それなのに、少しでも
 まずいことが起これば、それは全てわたくしのせいだと、この城の皆は云うのです。
 何もかも、お前の不徳のせいだと、そう云うのです。何かあれば、必ず、お前の日頃の
 心がけが悪いからだ、ほらみたことか、それがお前の正体だと、皆がわたくしを責めるのです。
 夫に相談したところで同じこと、それが女主人の立場というものではないか、お前が
 よく努めていることは誰だって認めているではないかと、簡単にそう云われるばかり。
 それできっと彼らは問題をごまかして、わたくしを慰めているつもりなのですわ。困り果てて
 悩みを誰かに打ち明けることすら、ゆるされず、それどころか、うまいこと同情を
 ひこうとしてるなどと、ルルドピアスの一派に陰口を叩かれて」

昂奮のあまり、スイレンの声はしだいに甲高く、早口になっていた。
病みつかれたその顔は美しいとはお世辞にも云えず、まくし立てる
その口調とあわせてむしろ醜悪なものであったが、ただし、話の内容のくだらなさと、
その凄まじい怨恨の迫力といったもので、スイレンは確かに、
 (逆らったらとんでもない目に遭わされる)
人心をこちら側に繋ぎとめてしまうことだけは確実に果たし、その陰湿な遣り口で人々を
黙らせ、その自己顕示欲が求めるとおりの権力に舌鼓を打つことに、すっかり慣れていた。
「今度のことだってそうですわ、この城の皆は、夫も舅も、わたくしのせいだと云わんばかり。
 わたくしが、ルルドピアス姫を虐めて追い出したのだと、どうせそう考えているのですわ。
 真相はルルドピアスがわたくしの娘たちを道連れにしたのに決まっていますのに。
 ええ、それはもう、母親として確信しております。鷹狩りの砦において、娘たちは
 そんな素振りひとつ、見せてはいなかったのですから。それなのに人々はわたくしの話を
 聴こうともせず、わたくしばかりを責めるのです。わたくしが陰日向いかに尽くしてきたかなど、
 誰ひとり、この城の者たちは、理解しようともしないで」
スイレン・オーガススィ・コスモスは、必ずしも凡庸な人間ではなく、オーガススィの
女衆をよく束ね、四人の子の母親としても次期領主夫人としても、むしろ気がつきすぎるほどに
よく気がつく女ではあったが、いかんせん、その基準が全て、自分の見栄の為にあった。
見栄っ張りな人間にありがちなように、何かをする時には、常に、それが世間から
どう見えるかを第一に考えるのであり、したがって、そうしておきさえすれば
自分の得に繋がり、同情をひきよせ、見栄えがするといった動機から、振る舞いと物事の
すべて決めてゆく、計算高い、よくいえば、生きるための勘定に敏感な女であった。
自分本位に考えているだけに、スイレンのような人間は、絶対に損をしなかった。
そのことは、ルルドピアスの評判が落ちるところまで落ちる一方で、スイレンの
評価と地位だけは労せずして跳ね上がっていたことからも明らかであったが、それについては、
スイレンは、ただ、ルルドピアスについて、
 「あの姫のことを、どうかよろしくお願いしますね」
とだけ、あちこちに挨拶に行くだけでよかった。
たったそれだけのことにより、人々は、スイレンが意図したとおり、こう信じるのである。
ルルドピアス姫は劣った人間、努力をしない人間、なるほど、何も分かっていない愚かな人間なのだ、
しかもスイレン様のせっかくのご親切とお導きを拒否するほど、性根の捻じ曲がった、
性格の悪い、まともに扱ってはならない姫なのだと。
一度、流布された偏見は、まずそこから覆ることはない。
他ならぬスイレンの口から流された評により、身動きとれぬほどに包囲されていた
ルルドピアスの存在ほど、いや増して、さらにスイレンの値打ちを上げるものはなかった。
 「ほら、御覧なさい。わたくしが申し上げたとおり、本当に不出来な姫でしょう」
ルルドピアスの周囲を監視し、片端から挨拶に出向いては、
 「あの娘のことで気をつけてもらいたいことがあります」
笑顔で乗り込んでゆくスイレンの深層心理に潜むものは、実は、ただひとつであった。
 『あの娘を、自分よりも、成功させてなるものか』

自分のほうが上でいたい。
心の奥底でそう望んでいるとおりに、スイレンはルルドピアスの評価をそれとなく
傷つけて落とし、呼ばれもせぬ処にまで割り込んで行っては、
 「ルルドピアスについてこれほどに心配し、応援している姿」
を売り込んだが、それはすなわち、必然的にルルドピアスを自分よりも徹底的に、低く、
劣れるものとして語り、孤立させ、あらゆる人々の頭にルルドピアスについての悪い印象を
先入観として植えつけることであった。
 「スイレン様は何と思い遣り深い、賢い御方なのだろう」
ルルドピアスに関する情報や欠点をばら撒き、それにもっともらしい
どこかで聞いたような解説を加えることで、スイレンは己の高評価をたやすく
勝ち得るという仕組みになっており、スイレンの美談と自己確立の為には、ルルドピアスには
何がなんでも、スイレンの足許に、不幸な存在としていてもらわねばならなかった。
したがって、スイレンが敷いた布石の全ては、巡りめぐって、ルルドピアスの上に何倍もの
途方もない負担や重圧や誤解や障害となって押し寄せていたのであるが、スイレンだけは
決して転落することも批難されることもなく、素晴らしい奥方さまというその評価は上昇するばかりで、
一生涯、自分だけは絶対に傷を負わないで済まされるのだった。
笑いが止まらぬとはこのことである。
スイレンは、ルルドピアスを『見世物』にして、あることないことを人々と語り合い、恩人の顔を
しながら、「わたくしが説明したとおりの痛々しいルルドピアス」のその頭を踏みつけて踏み潰すことが、
内心では愉快でならぬのであった。
それが、この女ご自慢の、「わたくしの配慮」であった。
いかにもルルドピアスのことを思っているような美談を手土産に、「誰かを思い遣っている自分の
姿」を売り込みながら、取り返しもつかぬほどにルルドピアスの評判を傷つけておいた上で、
とどめのように、
スイレンは重々しい嘆きの溜息と共に、人々にこうも云って回るのであった。
 「やはり、運命というものはあるのですわねえ」
これによりスイレンは、一切の責任から解放され、自分ひとりだけが全ての物事に
精通しているかのような、神の万能感にも等しい、晴れやかな勝利と、優越感を味わうことができた。
そしてそれは是非とも、己の正しさの証明として、全ての人に同意してもらわねばならぬことであった。
この方法により、スイレンは自分では何ひとつ努力をせずとも、ルルドピアスの
犠牲の上に、いついつまでも、人々の賞賛と尊敬と、名誉と同情を一身に
集めることが可能であった。
化鳥のように、スイレンはまくし立てた。
「猜疑心の強いルルドピアスがわたくしを信じてくれさえすれば、わたくしは
 ルルドピアスに手を差し伸べて、あれもこれもしてあげたのですが、あの姫は
 他人をまったく信じようとはしませんの。何という思い上がった姫でしょう。思い遣りというものが
 全く通じない、頑なな姫なのです。いったいどうして、こうも嫌われてしまったのでしょう。
 驕り高ぶっているのか、ルルドピアスは力になってあげようとするわたくしの手も拒み、
 何ひとつ何も云ってはくれませんから、その理由がまったく分かりませんの。
 ええそうですの、あの姫には何を訊いても無駄ですの。このことは皆さまにも
 広く知っておいてもらわねばと思いますが、あの姫は感謝の心がまったくないのです。
 だからわたくしの好意も素直に受け取ってはもらえませんの、こう云っては何ですが、どうも
 あの姫は一人で耐えているようなふりをすることで同情を引こうとしているのではないかと思いますの、
 そのほうが傍目には、いじらしく、健気に見えますでしょうし、何も打ち明けようとはしないのは
 案外、そのせいかも知れませんわね。増長するばかりで、まったく努力をしない姫ですの。
 先人の教えを素直に受けるということは自己成長において不可欠ですのに、それをあの姫は、
 傲慢な思い上がりからか、わたくしのせっかくの助言や諫言の一切を拒絶してしまうのです。
 だからこそ、わたくしはこうして、こっそりと皆さまに事前にお願いして回っているのですわ、どうか
 皆さま、ルルドピアスのことをこれほどに思い遣っているわたくしに力を貸して、協力して下さいませ。
 あの姫のことは全てわたくしの口からご説明いたしますから、どうか宜しく願いますわ、
 すっかりルルドピアスから嫌われてしまったわたくしに代わり、大切なことを、誰かあの
 視野の狭い姫に教えてあげて下さいませな」

このようにして、方々でルルドピアスのことを不憫そうに語りさえすれば、スイレンは
未来永劫、得意の絶頂でいられるのであった。
それは、スイレンがリィスリの肖像画をちらと見て、『品性のかけらもない、下品な女』
と呟く時の、そのどす黒い感情を滲ませて、薄笑いを浮かべ、そしてそれを
親切という微笑みで覆いながら、リィスリとよく似たルルドピアスの上に、延々と
果たされてきたことであった。
しかしながら、たとえスイレンが今までその方法により、彼女が深層で望んでいるとおりに
悪い方向へ悪い方向へとルルドピアスを導いて、スイレンいわく、自分を信用してくれなかった
ルルドピアスの上に、自分を讃えてくれなかったルルドピアスの上に、彼女の自尊心をかけた
復讐として為され、何食わぬ顔をしてルルドピアスからいっさいの平穏と幸福を奪い取り、
首尾よくルルドピアスを追い落としてきたのだとしても、此度ばかりは、相手が悪かった。
 「パトロベリ!」
シュディリスは、馬を呼んだ。
スイレン夫人がぶつかったのは、何の同調も、関心も浮かべてはおらぬ、それどころか
咎めるようなものすら潜ませて、礼儀上、聞いているふりをしているだけの、
若者の青い眼であった。
時折、スイレンはこのような冴えた、怖い眼を、人の中に見ることがあった。
舅であるトスカ=タイオや、愛する娘たちや、優しいルルドピアスの中に。
スイレンは青褪めた。
シュディリスは、緑の庭で遊んでいる馬パトロベリを見遣った。
たとえ、スイレンがあの馬をずっと以前から見つけていて、切り札としてここぞという時の為に
今まで隠していたのだとしても、シュディリスには、どうでもいいことであった。
そこに居るのは、オーガススィの外部の人間にも得意げに情報を漏洩するような、
信用のおけない人間でしかなかった。
彼には、スイレンが振りかざす、ルルドピアスの為というもっともらしいその熱弁、解説、雄弁が、
とてもではないがそのようには心には聴こえなかったのであり、シュディリスにとっては
それが全てであった。
誰かの為に優しい心を尽くしている人の姿は、決してそのようなものであるはずがない。
スイレンがまだ何かを云いかけていたが、興味はなかった。
シュディリスはスイレンの脇をすり抜けて、階段から裏庭に下りた。
付け加えるならば、シュディリスはスイレンからあれこれと聞かされる前に一歩はやく
ルルドピアスを知っていたのであり、早朝の道で兄のイクファイファと共に馬を飛ばしてきた
姫君の笑顔は、人々の耳に何かを耳打ちするスイレンの笑顔や声とは、まったく
別種のものであったというだけのことであった。

 「パトロベリ、おいで」

口笛を吹くと、馬はまっすぐにこちらへやって来た。
シュディリスは馬パトロベリの首を撫ぜた。
馬の眸を見ているうちに、自分でも愕くほど胸のつかえが取れた。
馬に鞍がついてないとは残念だった。
このまま憂さ晴らしに、人間の思惑などとは無縁の、空と海の間を駈けることができたら。
 (グラナンも、行ってしまった)
馬の首をやさしく撫ぜ、シュディリスは少し微笑み、馬に語りかけた。
 (お前だけが残ってくれた。パトロベリ。もう一人のパトロベリではなくて、本当に良かった)
などと失礼なことを考えていると、
「え、その馬。もしかして、それが探していたパトロベリなのか」
頓狂な声がした。
対面の棟の二階からイクファイファが身を乗り出して、こちらに手を振っていた。
振り返った廻廊には、もはやスイレンの姿はなかった。
庭に下りてきたイクファイファ王子は、シュディリスの肩に手をおき、ものめずらしそうに
真正面にいる馬パトロベリをしげしげと眺め、オーガススィの末王子を前に余所行きの
気取った顔つきをして澄ましているその馬面に、眼をみはった。
 「駄馬だなぁ」
 「パトロベリは、これでいて」
 「いや、しかし、可愛い馬だ。何ともいえず個性的な面構え。人間さまをくっているような
  ところが、またいい」
 「賢い馬-------だと思う」
 「何だよ、その自信のなさそうな評は。それにしてもこれでは誰も見つけられなかったのも道理」
イクファイファは明るく笑い出した。
 「君の馬なら、どうしても、帝国一の駿馬を想像してしまうもの」
むかっときたのか、馬パトロベリは、シュディリスの上衣の袖を引っ張った。
 「何だい、あちらに行きましょうとでも云いたいのかな。星の騎士に対しても、これなのか」
イクファイファは、馬に引っ張られているシュディリスを救い出しながら、腹を抱えて笑った。
 「ほら、騎士のかるたにあるじゃないか。超騎士すらも背中から振り落とし、育ての親の
  平騎士しか乗せなかったという、伝説のひねくれ名馬。なんだか、あの馬を思い出すな」
オーガススィ城の、鐘が鳴った。
パトロベリを連れて厩舎に向かう途中、何かを考え込んで黙っていたイクファイファは、
 「あ、そうそう」
思いついたようにそこで立ち止まった。
召集を告げる鐘の音が鳴り渡り、城はにわかに騒がしく、慌しくなっていた。
 「ハイロウリーンからの派遣要請に応じてオーガススィはコスモスに出兵することに
  したけれど、それが実に不透明な態度で」
シュディリスの方を見ないまま、いそいで、イクファイファは後を続けた。
 「君のことは、城に残すんだってさ。北方三国同盟は無碍には出来ないが、ヴィスタル=ヒスイ党の
  ご機嫌もとっておきたい。リィスリ様のこともあるし、父上としては、まあ、そんなとこだろうね。
 そこで裏技だ」
おもむろに、イクファイファは足許の地面を長靴のつま先で蹴った。
それは、厩舎へと続く道の途中で、海からの風が高く吹き抜け、左右には石柱が聳え立っていた。
イクファイファは石柱の影を見つめながら、さらさらと云い出した。
 「この下に、海賊の築いた地下道がある。入り口は幾つかあるけど、いちばん
  目立たないのは僕の部屋の、寝台の対面の壁」
王子がその機密をシュディリスに明け渡すのは、彼自身の熟考と判断と好意に
よるものであった。そして、特にそれには意味を持たせぬままに、まるで他人事のように、
流れる白い雲に向かって喋っていた。
 「明日から不在にするから、僕の部屋にはいつ入ってもいい。
  信のおける従者の一人に君のことを頼んでおくから、用があるなら彼に」
 「海賊の抜け道」
 「それと、リィスリ様は、本当に都のレイズン本家の御用邸にいらっしゃるそうだ。
  君が決めろ。責任は、僕がとるよ。承知の上だ」
石柱の影の上を、パトロベリがぐるぐると歩き回った。
冬場はそこから雪まじりの風が吹き付けてくる、向き合った古い二本の石柱。
オーガススィ建国以前からそこにあったその柱は、海賊たちの根城の門か、または
宗教儀式のためのものではなかったかと伝えられている。
奇怪なことに、その石は、オーガススィ近郊では採掘できず、帝国中を探しても
同質のものがないのだという。
 「海に沈んだ大陸から運ばれてきた、かつての文明の名残なのかもな」
イクファイファは柱を見上げた。
ルルドピアスは時折、此処で、ぼんやりと海を見ていることがあった。
 (-----淋しい?)
 (イク兄さま、もしも、私がお城からいなくなったら、淋しい?)
 (でも、その時がきても、どうぞ、哀しまないで)
 (私、お兄さまの妹に生まれてきて、本当によかったと思います)
 「あの時は、単純に、離宮に行くことだと思ってたんだが。もっと深い意味でもあったのかな」
風が吹いた。
 「いつも小さな秘密を抱えているような妹だった、ずっと昔から、何かを決めていたのかな。
  ルルドの為に何かしてやろうとしても、僕には、他愛のない、可笑しなことを見つけて、
  一緒に笑ってやるくらいのことしか出来なかった。
  誰かの力になってやろうとするなら、感謝を強要したり、上段から構えて語るんじゃなくて、
  同じ目線から楽しいことを探して、その人のことを単純に好きで、苦楽を共に、まずはそこから
  始まるんだろうしね。だから僕は。-----ルルドピアスのことが、妹が、好きだったし」
イクファイファは海を見つめているままだった。
そしてイクファイファは、馬パトロベリの手綱を投げるようにしてシュディリスに握らせると、
 「明日の出立にそなえて忙しいんだ。じゃあ」 
本当に忙しいものか、あっさりと、そこから走り去ってしまった。


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ヴィスタチヤ帝国の北部に、三角形を描いて位置する、北方三国。
大聖騎士家ハイロウリーン、聖騎士家オーガススィ、三ツ星騎士家コスモス。
二重城壁を張り巡らした最北の国、オーガススィ。
ヴィスタチヤ帝国成立以前に古代王国として栄え、「時を止めた国」と
揶揄されながらも、あまたの小国・豪族が周辺の大国に統合される中、
聖七騎士家との婚姻を重ねて存続してきた、コスモス。
オーガススィとコスモス、そして、帝国を三日月型に取り囲む大山脈、東から南にかけて
広がる黒い森、そのどれもから距離をおいた北東に、強騎士団を有したその国はあった。
ハイロウリーン。
海を遠くに臨む内陸よりに築かれた城郭は、正確には城ではない。
白に金の識旗を掲げてそびえ建つ堅牢は、名こそ、くろがね城と呼ばれる、要塞である。
はるか昔、ジュシュベンダの豪傑が、陸を二つに叩き割るがごときの猛攻により
守備前線をことごとく突破してこの外郭際まで攻め寄せてきた際にも、頑として立ち塞がり、
攻防の間、掲げた旗は一度として地に落されることなく、戦うハイロウリーン騎士らの頭上に
高々とひるがえっていたと伝わる、その天守である。
年代記に刻まれたこの最初にして最後の南北戦争は、冬になるにつれて優勢を
取り戻したハイロウリーンが侵略軍を追い払ったことでその決着がついたものの、深追いし、
北軍がもしもそのままジュシュベンダ領まで突撃侵攻していれば、両国の戦は
帝国全土を灰と変え、復興には数百年もかかったであろうといわれている。
そのような過去がありはしても、しかしハイロウリーンとジュシュベンダの両国は、
犬猿の仲、とはいえなかった。
帝国の鎮守として北と南に分かれたまま、互いに牽制し、尊重し、強大な騎士団の存在を内外に
知らしめることで、帝国を浮沈のものとしてきたといっていい。
両国は及ぶ範囲で、近隣諸国の調停を努め、また威嚇もし、たまには
溶岩を溢れさせるようにして適当な騎士国と戦もしたが、決して互いの守備範囲には
手を出さず、近寄らず、申し合わせたかのように先方の旗が見えたらすぐさまそこから
引き返すといった徹底ぶりにて、過去何百年、相打ちの撃滅戦を避けるかのように、
決して剣を交えようとはしなかった。
 「申し上げます!」
その徹底がコスモスにおいて崩れたとの第一報は、ナラ伯ユーリ殺害の報と共に
ハイロウリーン城を大波のような衝撃で包んだ。
 「サザンカ、フェララ、ジュシュベンダ、その他騎士国、続々と増兵中。
  皇太子殿下、コスモス情勢の緩和のために、都を御発ちとのことでございます」
コスモス遠征に出向いた父フィブランの代わり、ハイロウリーンを預かるのは、世嗣の
第一王子ケアロス。
続報の狼煙により、合戦は回避されたことを知ったものの、領主代行を担うケアロス王子は
その場で増援部隊の派遣を決定。
城に重臣の全員がまだ参内しないうちに、先発隊の先頭がはやくも国境を
越えているという具合で、神速の名にふさわしく、その速さ、号令がかかってから
支度を整えた騎馬が整列点呼を終え、練兵場を後にするまで、兵舎の食堂において
配布された軽食の残りが、まだ温かいうちのことであった。
 「コスモスへ!」
氷色に武具を光らせて白と金の鎧装束が南下してゆくさまは、逆流する滝の一筋のようであり、
それを率いる第三王子ワーンダンを囲む戦旗は飛翔する鳥の群れのように、何事かと愕いている
ハイロウリーン城下の人々の前を通り過ぎ、騎馬隊の影も黒々と、地平に姿を消した。
 「ケアロス大兄」
その日も、よく晴れていた。
黄昏の海が遠く、金の帯のように見える見晴らしのいい室で、ケアロスは
上着を脱ぎ去り、どしりと、椅子に身を沈めた。
狼煙や使者の早馬が頻々と続く中、休憩もろくにとらぬケアロスは、側近たちの勧めにより
ようやく、休息の刻をもった。
開け放った窓からは、夕方の風が吹いていた。

 「負傷された、ジュシュベンダのシャルス・バクティタ将軍の、治癒の経過は順調だそうだ」

惜しいとも安堵ともつかぬ、ケアロスの口調である。
兄ケアロスを囲んで左右に坐ったのは、同じく留守居役の次兄イカロスと、四男カンクァダム。
この広間は、ハイロウリーン家の王子たちが休憩の為に使っている居間であり、
卓には、七脚の椅子が揃っていた。
七脚の椅子のうち、インカタビアとワリシダラムが父フィブランの供をしてコスモスへ、
三男のワーンダンがオーガススィの姫たちの許へ、ルビリア姫の許に行ったきり、そのことで
母親からも勘当されて滅多に城にも屋敷にも戻ってこない六男の席だけは
もとより空席がちであるにせよ、さしもの七兄弟も、残り三人となっては、空席が
目立つかんじであった。
軽食をはこんできた下僕が退室するのを待って、彼らは顔を突きあわせた。
 「現場に居合わせた父上とインカが無事で何より」
 「結局、刺客は分からずじまいなのか、ケアロス兄」
 「まだ捕まっていない」
ケアロスは首を振り、食事にとりかかった。
ハイロウリーン家の長子として生まれ、六人の弟を持った彼は、十代の頃にはすでに
大使としてヴィスタの都に赴くなど、早いうちから、父フィブランの右腕、
大家族の長男として、フィブラン不在の間も、領主代行の任を立派に務めていた。
彼は、彼の労をねぎらうカンクァダムが盃にそそいだ酒を受け取ると、一気にそれを飲み干した。
 「会談の野に射込まれた剛矢は、遠くからのものだったようだ。
  相当な腕達者の仕業であるはず。下手人は探せば見つかるはずだと、そう思ったがな」
 「最初から、ナラ伯殺害の疑いを晴らすためにジュシュベンダが打った一芝居ではないのか」
断定的に吐き捨てたのは、次男イカロスであった。
イカロスは、拳を握り締めた。
 「もとより、シャルス・バクティタ将軍は、いつ、何処から矢が飛んでくるか、
  承知だったのではないのか。軽装であったのも、わざと怪我を負い、自軍への
  疑惑を晴らすための芝居だったのではないのか」

コスモスの野辺で討たれたナラ伯ユーリは、イカロスの少年時代からの無二の友である。
変事直後は何としても自分をコスモスへ向かわせてくれ、ユーリの棺を受け取って
引き返してくるだけでもよいから、ゆかせてくれと、兄ケアロスにしがみついて
頼んだイカロスであったが、ケアロスは当然ながら、そんな状態のイカロスを外し、増援部隊の
指揮官には三男ワーンダンを選んだ。
そのことについては、イカロスは兄を恨まなかった。
しかしその分、彼の内心の悲憤は、ケアロスの補佐をよく果たしながらも、心に重くもたれ、
尽きないのであった。
 「コスモスにいる弟たちが、心配です」
そのイカロスの対面で、カンクァダムは、卓上に頬杖をついた。
 「特に、ワリシダラムはユーリの死に、衝撃を受けたでしょうね。
  あの子は、ユーリに懐いていたから」
ついでながら、四男の彼はハイロウリーン七兄弟の中でもっとも美青年であり、文よりも武が
重んじられ、尊ばれるこの国においては、「サザンカに生まれたら良かったのに」本人が
冗談ついでに自嘲するほどの、変り種であった。
軟弱でこそないものの、あまり強い気性を持たず、いわば男兄弟の中のおんな役といった
調停役の位置で、その態度は常に茫洋、誰の肩入れも誰の贔屓もしないのであった。
年長組のケアロス、イカロス、ワーンダン、年少組のインカタビア、エクテマス、ワリシダラムの
ちょうど真ん中に生まれた彼は、中途半端に誰からも忘れられ、その淋しさを
紛らわすためにも女たちの胸の中にとびこんでそこで成長したが、その恩返しとばかりに
彼は女に対して常に優しく、そして女を知り尽くした男にありがちなように、少々、冷淡で、
それが為に女たちはいっそう彼から離れない、そんな典型的な調子であった。
七兄弟のうち、異端児が六男エクテマスだとしたら、四男のカンクァダムは
エクテマスとはまた違った意味で、兄弟たちからは浮いていた。
そんなカンクァダムでありはしても、他の兄弟と同様、末弟の
ワリシダラムについては特別な可愛がりと、情があるようであった。
遅くに生まれたワリシダラムは、幼少の頃は病弱だったこともあり、年長の彼らからは
弟というよりは、ほとんど彼ら全員の子供のように、いつまでも思われていた。
 「ワリシー、可哀想に」
袖口のひだ飾りを指でつまんで歪みを直し、雫型の耳環を揺らして、四男
カンクァダムは顔を曇らせた。
 「ワリシーは、コスモスから戻ってくるのでしょうね。つまり、ナラ伯のご棺と一緒に、こちらに」
 「いや」
食事を済ませたケアロスはさすがに疲れているのか、弟たちの前で
姿勢を崩し、椅子の背に凭れた、
 「一応、父上が帰国を促してみたが、本人が断ったそうだ。インカタビアとエクテマスが
  ついているから、大丈夫ではないか」
兄の言葉に、カンクァダムは無言でその形のいい眉をひそめた。
 「何だ、カンクァ」
 「いえ。そうですか。それは残念だと思ったまでです」
 「気持ちは分かるが、いつまでもワリシーを甘やかしておくわけにはいかぬからな。
  父上もそれを考えて今回の遠征にワリシーを連れて行ったのだから」
翳りゆく室からは、日暮れの海が、遠く、見えていた。
城の高みからは、それは金色の、風になびく穏やかな野原に見えた。
 「ところで、コスモス領外で、ご不便をおしのびいただいているオーガススィ家の
  姫君たちのことだが」
 「はい」
 「好都合にもといっては何だが、三人いらっしゃる。三箇所にお分けして
  預からせてもらうことで、異論はないな」
コスモス遠征軍とは緊密に連絡を取り合い、父フィブランとの間では、それはもう
決定となっている事項だった。
忙しいケアロスは、ふたたび上着に袖をとおし、弟たちに確認をとった。
 「当然でしょう」
ケアロスとカンクァダムは同意した。
 「こちらの派遣要請に応えたといっても、オーガススィには足枷をかけておかねば」
 「おかしな真似をせぬという前提でな。一刻も早いほうがよい。ワーンダンにはそう伝えた」
 「愉しみですね」
頷くカンクァダムのその顔は、甘く笑っている。
 「お姫さまなら、大歓迎です」
弟の素行をよく知るケアロスとイカロスは、カンクァダムを睨み付けた。
素行不良の弟といえば何とってもエクテマスであるが、カンクァダムはそれよりひどい。
女と合意の上であるだけに、さらに手管が凝っている。
兄たちの視線を難なくかわし、知らぬ顔で、カンクァダムは袖飾りの歪みを直した。
首をふりふり歩廊に出たケアロスを、イカロスは追いかけた。

ハイロウリーンの次期統領は、夕陽の流れる赤い歩廊でイカロスを待っていた。
 「ワーンダンからの手紙によれば、ルルドピアス姫はお疲れだそうだ」
ケアロスは、羽織った上衣の紐を締めた。
 「もとより、ご病弱とか」
 「兄君のイクファイファ殿とご一緒に、離宮で静かにお暮らしであった姫だからな。
  薬を届けさせたが、はやく養生に適した環境でご静養してもらわなければ、姫の身に
  万が一のことでもあれば、それこそ事だ」
 「そんな姫が、よくぞ家出などしたものだ」
 「小トスカイオ殿のご息女は騎士。自分たちを基準に、姫を連れ出して来たという
  ところではないのか」
 「家出の理由は」
 「好意的に解釈するならば、彼女たちなりの信義かな。知らん」
日が落ちると、途端に冷え込む国である。
夕陽の色を鮮やかに残したまま、残照は、冷え冷えと、彼ら兄弟を包んだ。
 「その小トスカイオ殿の姫について、姉君のレーレローザ姫は駐屯軍の父上の許へ、
  妹君のブルーティア姫は、そのままワーンダンの預かりに、そして、
  トスカ=タイオ殿のご息女ルルドピアス姫は、この城へ。ご病弱ならば尚のこと、霧や夜露に
  包まれた野営など、姫にいつまでもさせておくわけにはゆかぬからな、そういうことで父上とも
  話がついたのだ。オーガススィは姫君たちの返還を求めてくるだろうが、のらりくらりとかわせとな」
弟の見せた、わずかなしかめ面を、兄は見逃さなかった。
ケアロスは立ち止まった。
 「何だ、イカロス」
 「ルルドピアス姫といえば、絶世の美女リィスリ様とよく似ておられることで有名」
 「幻の姫。最北の虹、極光のごとく、滅多に姿を見せることのない、とか何とか」
イカロスは、「それですよ」と苦い顔で後方を振り返り、指摘した。
 「カンクァとは隔離しておかなければ」
ケアロスは笑おうとして、イカロスが真顔なのをみると、咳払いした。
コスモス情勢の緊張にあわせて、篭っていた離宮から城に戻ってきたイカロスは、イカロスこそ、
誰よりもコスモスに向かいたいのであろう。
 (------ルビリア姫の許にな)
ケアロスは横目でイカロスを眺めた。
大の男が何を未練たらしいと云いたいところであるが、イカロスのそれは、ルビリア姫が
亡命してきて以来の、年季のはいったものである。

 (恋情というよりは、もはや、身の一部なのだろうな。それを振り切るのだから、ルビリア姫の
  執念は凄いものだ。父上は彼女の好きにさせよと云うが、本音を云えばわたしは
  塔に封じ込めてでも、ルビリア姫には、外に出てきてもらいたくはない)
 (それなのに、ルビリア姫の支えとして弟エクテマスが彼女の傍に附いていることが
  何やら嬉しく、ほっとするのだから、女騎士とはまことに忌々しく面倒なもの。
  同じ騎士として魂を重ねているはずなのに、いつも、どこかが、我ら男とはずれている)

しかし、このような考え方をしている限り、ジュシュベンダのイルタルや、父フィブランのようには
女騎士たちの、ひいては、心たかき騎士たちの、真の尊敬を得ることは出来ないのであろう。
 (知ったことか。どうせあやつら、もっともらしいことをこちらが云ったところで、そこにまことが
  篭っていなければ、しらけた眼をして通過するだけなのだ。莫迦が。だから、莫迦だというのだ。
  と云いたいところだが、そういうわけにもいかぬからな)
ケアロスはさらに次期領主としての課題を抱えたような重い気持ちで、面持ちを
引き締めるのであった。

片頬杖をつくと、耳環の飾りが、海風に揺れた。
居間に残ったカンクァダムは、しばらく、暮れゆく海を眺めていた。
そこには、七脚の椅子があった。
長男を挟んで、左右に三脚ずつ。
カンクァダムの対面にいた六男は、やがてそこから黙って立ち去り、女騎士の許へと去った。
 (たまにはそこに坐ってくれないと、エクテマス、お前の顔を忘れてしまう)
彼は、この居間に誰かが欠けているのを見るたびに、自分がそこに居ることに
一種の罪悪感のようなものを覚える男であった。
カンクァダムは不在の向かいを見、その向こうの日暮れの海を見つめた。
あたりが同じように淋しくなれば、ようやく安心できるとでもいうかのように、彼は
海が暮れ、居間がすっかり暗くなり、卓の上に揺らぐ夕陽の小さな朱が
消えてしまっても、そこにいた。
 

コスモス領外に陣を構えたハイロウリーン第三王子ワーンダンは、いやな役割が
回ってきたことへの苦渋を隠すべく、あえて強面の無表情になって、従騎士ひとりを伴い、
オーガススィの姫君たちの天幕を訪れた。
 「レーレローザ姫は、コスモスに駐屯中の、ハイロウリーン陣へ」
三人の姫たちを前にして、恭しく、ワーンダンはそれを告げた。
強い西風に天幕がばたばたと鳴った。
「そしてブルーティア姫は、このまま、この陣に。そしてルルドピアス姫は
 ハイロウリーン本国へと、それぞれお渡り願います」
「嫌よ」
間髪いれず、きつい声を上げたのは、レーレローザであった。
ブルーティアとルルドピアスも立ち上がった。
オーガススィの一の姫は、あれが王子であったならと人々が惜しむその気性にて、
その背中に妹ブルーティアとルルドピアスを庇った。
レーレローザは対等であることを誇示するように、ワーンダンの真正面に立ち、顎を上げ、
ハイロウリーンの王子を見上げた。
 「ワーンダン殿」
 「は」
 「国許のケアロス様、およびその補佐イカロス様、或いは、貴国の総指揮官、
  ハイロウリーン領主その人にお伝え下さい。私たちは三人一緒でなければ
  何処にも行きません」
 「生憎です、レーレローザ姫」
ワーンダンは努めて、腰を低くした。さすがは、オーガススィの誇る姫騎士である。
多少の抵抗は予期していたものの、このように、最初から正面向き合っての喧嘩腰で
こられるとは思わなかった。
 「これは決定です」
 「オーガススィ王家に生まれたる、わたし達には通用しません」
 「落ち着かれて。なにとぞ」
 「ワーンダン王子に重ねて申し上げます」
夜明けの光と謳われるそのやわらかな金色の髪を灯りにきらめかせて、
レーレローザ姫はなおも、ワーンダンに抗議を重ねた。
 「オーガススィはハイロウリーンの属領にあらず。盟友としてのよしみはあれど、
  臣下ではないはずです。オーガススィは、ハイロウリーンの要請に応えて出兵するはず。
  その段においてこれ以上こちらに疑いを持たれるとは、盟約そのものを疑うに等しき振る舞い。
  こちらが唯々諾々と、そちらの指示に従ういわれはありません」
 「これは命令ではありません、姫。御身らの身の安全を第一に」
 「ワーンダン・ベンダ・ハイロウリーン王子」
レーレローザは、ぴしりと王子の言葉を遮った。
オーガススィの一の姫は、小トスカイオの長女として、十歳以上も年上の男に対して
一歩も譲らぬ構えをみせて、妹ブルーティアとルルドピアスの前に敢然と立ちふさがった。
 「おためごかしは結構です。はっきりさせましょう。
  そちらの今のその申し出、わたくし達三人がハイロウリーンの
  虜囚となったものと、そう解釈してよろしいですか」
 「虜囚などと、途方もない誤解」
 「盟約が履行されるか否か、コスモス情勢が収まるまでは、私たちは貴国の
  人質というわけなのですね。これなるルルドピアス姫、オーガススィ領主の
  末の姫についても、同様の扱いですか。それがハイロウリーンの、同盟国に対する、
  朋友のもてなし方なのですか」
 「レーレローザ姫、なにとぞ」
 「三人一緒でないと、動きません」
 「あなた方は第一級のお客人です」
直情型のレーレローザも頑固なら、ワーンダンも、融通が利かない、女の心の機微など
まったく分からぬ、察しの悪い性質であった。
女きょうだいのいない彼には、末弟ワリシダラムと同じ年頃の少女の扱い方など
皆目分かるわけもなかったし、それでなくとも、無骨な武いっぽうの男である。
華奢な少女たちが三人でしっかりと固まって、わなわなと震えてじっとこちらを
見ているなどという事態には、慣れているはずもないのだった。
とりわけ、レーレローザとブルーティアのこちらを睨む険しさときたら、まるで
処女の天幕に乱入してきた不潔な牛馬か、変質者を見る眼つきで、ワーンダンは
それにたじろぎ、初手から後手に回ってしまった。
それだけならまだいい。
女を口説いているのではないのだから、我慢もできよう。
ワーンダンに冷たい汗をかかせるているのは、その二人が盾となった向こう側にいる、
ルルドピアス姫なのである。
花の都ジュシュベンダや、藝術の国ナナセラなどに比べれば、美が尊ばれることのない
ハイロウリーンではあるが、それでも聖騎士国の筆頭として、美術工芸品については
質の高い名品が城にも屋敷にも、数多く揃えられている。
そのような環境で育った限り、その恩恵で、とくに深い関心はなくとも眼も肥えようというもの、
そのワーンダンですら、ルルドピアスをはじめて見た時には、唖然茫然といってもいいほど
愕いたのだ。
この世に、これほどの美しい少女がいようとは。
夜明けの花の雫だとか、北の金色の星だとか、ルルドピアスにまつわる噂は
その手の胡散臭い詩人の言葉となってハイロウリーンにも伝わっていたが、実物はまさに
その印象そのままであった。
さすがのワーンダンとても、痺れたようになって見惚れてしまったほどであったのだが、
そのまま額縁に入れれば永遠の名画となりそうな、さほどに美しい姫君が、その美少女が、
両手を握り合わせ、唇をふるわせて、その美しい眼を懇願するようにみひらいて、レーレローザと
ブルーティアの背後から、ワーンダンを祈るように、訴えるように、ひたと見つめているのである。
しかも、ルルドピアスのそのまなざしは、云いにくいことを告げに来たワーンダンを
責めているのではなかった。
どうして皆がいがみ合っているのか分からないといった顔をして、ひたすらこの場の
不穏に戸惑い、怖がり、まるで小さな子供が両親の喧嘩を見る時に浮かべるような、傷ついた、
無垢な顔をして、怯えあがり、いたましく凍りついているのである。これには、まいった。
 (勘弁してくれ)
よほどの悪いことをしているようだ。胃がいたい。
 (やはり、姫君たちのお相手は、カンクァダムの方が適任だった)
しかし、ワーンダンとて、こんなことで引き下がるわけにはいかぬ。
なやましいルルドピアスの姿は極力視界に入れぬようにしながら、ワーンダンは
ふと思いついて、頼みの綱の書面を懐から取り出した。
 「何よりも、ご病弱なルルドピアス姫におかれましては、このまま野宿同然の
 天幕では、お身体に酷」
ワーンダンは何とかそれらしい口実を捻り出した。
 「お三人かたの振り分け先についてはご疑念もございましょうが、ルルドピアス姫を
  本国で預からせてもらうにあたっては、それも考慮の上でのこと。
  もちろん、最高の待遇にて、丁重に、くろがね城にお迎えしたく存じます。
  決して虜囚などという不名誉なものではございません。その旨、わが兄ケアロスからの
  この書面にも明記されております。お確かめ下さい。これに。なにとぞ」
 「嫌よ」
ぴしゃっと、レーレローザはせっかくのその手紙をワーンダンに撥ね返した。
領主代行者であるケアロスからの手紙は、地に落ちた。
ブルーティアと、ワーンダンの従騎士が、同時に剣を握り締め、踏み出した。
外交礼儀上からも、レーレローザの態度は決闘を仕掛けるに等しい、無礼の極みであった。
レーレローザは何はともあれ、まったく承服できぬことを突きつける必要から、そうしたのであった。
ワーンダンは自ら身をかがめて、誰の手よりもはやく、手紙を拾い上げた。
従騎士は軽く剣柄に手をかけて構え、ワーンダンを振り仰いだ。
 「ワーンダン様」
 「よい。今のはわたしの手がすべったのだ」
ワーンダンは手紙の汚れを払った。
 「このこと、口外無用」
そのかわり、ワーンダンは、眼光するどく少女を睨みつけ、ふたたび、手紙を差し出した。
それはまるで、ハイロウリーンとオーガススィの闘いであった。
少女たちを承服させるにあたり、ワーンダンはもっとも拙いやり方をしていたが、彼に
その自覚はなく、命令を遂行することしか頭になかった。
ここは自分が大人にならねばならぬと思うものの、敵愾心も顕な少女に対する手立てを、
ワーンダンはもっていなかった。
 「そのような態度は、互いの為にならぬのでは」
 「無遠慮はどちらか。三人一緒でなければ、何処にも動きません」
 「姫」
 「承知しないわ、絶対に」
両手を後ろに回したレーレローザのその眼には、はやくも、何かの悔しさを滲ませた
涙がうかんでいた。
人質は必ずしも不名誉なことではなく、共存関係にある国同士の間では、むしろ礼節をもって
大切に扱われるものである。
しかし、レーレローザの頭には、妹と、ルルドピアスと引き離されることへの恐怖しかなかった。
彼女が護ってきたルルドピアスは、彼女自身を支えてきた、そのものであった。
もしも、自分がもっと大人であったなら、母スイレンとも渡り合い、ルルドピアスを追い詰めたり、
このような目には決して遭わせなかったであろうに。
これでは、何のためにルルドピアスの傍にいるのか分からない。
幼子と引き裂かれようとしている母親のように、レーレローザは繰り返すのだった。
嫌よ、絶対に。


「続く]


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