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[ビスカリアの星]■七六.


御大将、あるいはご本尊と呼ばれる、ハイロウリーン領主フィブラン・ベンダの
コスモス入りの際の壮大な行軍、その華々しさがまだ人々の記憶にあたらしい、その日。
さらにそれを上回る物々しい同軍の一行が、忽然と、コスモスの街道に現れた。
規模が膨らんだのではない。
道の先々で四方に眼を配る斥候の数、護衛騎士たちの面の険しさ。
臨戦態勢もかくやというほどの厳重なる警戒態勢にて、一行は一路、コスモス丘陵の
ハイロウリーン本陣を目指していた。
 -----ルルドピアス・クロス・オーガススィ姫、誘拐さる。
事変は、誇り高いハイロウリーンにとって、面を張り飛ばされるような屈辱と痛打であった。
フィブランは言下に、
 「本件、わが軍の驕りと油断の結果に他ならず。先日、ナラ伯を失った直後のこの失態。
  責任者ワーンダン第三王子には現地での謹慎を命じ、暫定的にその指揮権を剥奪。
  代わりに当地へは、五男インカタビアを派遣する。インカタビア」
 「はい」
 「すぐに、兄ワーンダンの許に赴くよう。また、残る二王女のうち
  小トスカイオ殿の長女レーレローザ姫の御身柄を、直ちに本陣に移管せよ」
 「ははっ」
 「クローバ・コスモス、或いはその僭称者については、引き続き探索を」
 「前領主はコスモス領内に潜伏しているとの情報が」
 「確認済み」 
 「では、現コスモス領主タイラン・レイズン殿に、潜伏者の身柄引き渡しを仰いでは」
 「どの面さげてか」
フィブランは、一同をじろりと見渡した。
 「コスモス領を無断で侵犯している我らが、どの面さげてそれを頼むのか。それに
  今回の一件、他ならぬそのタイラン・レイズンが関与している可能性もある」
 「それは」
 「タイラン殿は、舞い戻ってきたクローバ・コスモス殿のコスモス潜伏を容認。
  両者の間には密使が交わされていたそうだ。また、クローバ殿は辺境伯返上後も
  領民からの支持あつく、襲撃者と遭遇し、剣を交わした者の証言によれば、どうやら
  クローバ、またはクローバの僭称者が率いていた敵方は、彼らが交わしていた
  言語から察するに、武装した農民と、コスモス騎士とで構成されていたのでは
  なかったかということだ。つまり、それらのコスモス騎士が正規軍から離反していない限り、
  彼らは、タイランの承認において出動したるものとみなされる」
 「その件につき、目下、コスモス軍内に異変がないか、調査中です」
フィブランの後をひきとり、ルビリア・タンジェリンが説明を加えた。
 「人望篤きクローバ・コスモスならば、野においても、そこから古巣のコスモス騎士団を
  自在に動かすことが容易であったかと。もとより彼らの忠誠が、クローバを追い出した
  タイラン・レイズンの上にあろうはずもありません」
 「十中八九、ルルドピアス姫を攫ったのは、クローバ・コスモスの仕業だろうな」
苦々しげにフィブランは、ワーンダンから届けられた短剣を手で弄った。
黒に金。コスモスの紋章。
 「高位騎士ともなれば、帝国広しといえどもその位を持つ者は限られる。
  鄙びた男であるが、クローバ、その騎士の血は傑出したるもの」
 「判然とせぬのは、その目的です」
天幕の中に差し込む光は、ルビリア姫の髪を鮮やかに彩っていた。
ルビリアの真後ろには、このような場においても平騎士に徹し、ルビリアの従騎士として
控えているエクテマス王子。その対面の席には、領主からたった今、第二陣の代理指揮を命じられて
面を引き締めている五男インカタビア王子、会議を傍聴している末王子のワーンダン。
二人の書記官がさらさらと記録の筆先を走らせる中、彼らは幾つかの推論を立て、またそれを
打ち消すことをしばらく続けた。
彼らの頭を悩ませているもの、それは奇しくも、変事の報を聞いたブラカン・オニキス侯が
不可解そうに最初に洩らした、このひと言に集約されていた。
 「クローバ・コスモスは、何故、ルルドピアス姫を攫ったのだ?」
委細不明である。
しかしここはハイロウリーンの威信にかけても、汚名を雪ぎ、レーレローザ姫の身柄だけは
三人の姫を三箇所で預かるという当初の予定どおり、安全かつ速やかに、その移送を
遂行し終えなければならなかった。
なぞの横槍や、街道における些細な敗北なぞ歯牙にも引っ掛けてはおらぬことを帝国全土に
いま一度、知らしめる為にも、それは火急に果たされねばならなかった。
そしてその早朝、ルルドピアス姫誘拐の衝撃もまだ覚めやらぬレーレローザ姫は、
妹のブルーティア姫と引き裂かれ、いそぎ、コスモスへ発つことを求められたのであった。


コスモス領外に築かれた、ハイロウリーン第二陣の、夜は明けた。
本陣からの迎えもあわせ、選抜きの屈強騎士を護衛に揃えたそれは、たいそうな
行列に膨れ上がっていた。
 「ブルーティア。しっかりね」
 「レーレローザ。私のことは心配しなくていいわ」
 「何処にいても、私たちはオーガススィ家の者。お父さまの子であることを、忘れずに」
姉妹はあっさりと別れの挨拶を終えた。
この三日というもの、二人はほとんど寝ていなかったが、異常事態の中ではそれも
まるで気にならぬようであった。
起こった問題といえば、馬車を用意すると申し出た本陣からの使者に対して、レーレローザが
「馬を」とはっきりと求めたくらいで、あとは何一つとしてオーガススィの姉妹姫は文句を云わず、
抗わず、粛々として従い、いっそ不気味なほどに、おとなしかった。
 「ブルティ。じゃあね」
レーレローザは妹に軽く頷いて挨拶を送った。
過剰といってもいい護衛に囲まれて出発した馬上の姫は、きりりとした少年のようであった。
レーレローザとブルーティアは別れた。
ワーンダンをはじめとした見送る者たちをレーレローザは一度も振り返らず、長蛇の列と
なったその一隊の末尾がまだ動かぬうちに、ブルーティアのほうも、さっさとその場から背を向けた。
気になったユスタスが捜しに行くと、ブルーティアは、先日の襲撃で負傷した者たちを集めている
医療天幕の中にいた。
愕いて、ユスタスはブルーティアの手から、包帯を取り上げた。
病人やけが人の看護は、男がやるものだ。
慈善としての見舞いや、家族でもない限り、けが人の世話を女がやり、他人の男の血や
肌を見ることは大変に外聞が悪く、はしたないこととされている時代である。
ましてや、ブルーティアは高貴な姫君であり、未婚。
天幕内部に並べられた寝台代わりの毛布と毛布の合間に膝をつき、手を汚して
男たちの世話をしているブルーティアを見たユスタスは、かなり本気で慌て、
それを止めさせようとした。
 「君、何やってんだよ。悪い噂が立ったらどうするのさ」
 「悪い噂」
レーレローザもいなくなり、ひとり、この陣に残されたブルーティアは、男の血や体液で
汚れたものを籠にかき集め、立ち上がった。
彼女は、鷹狩りの砦から姫君たちに付き従って来て今回の難にあったオーガススィの
騎士ガードを、仕切りで分けられた天幕の奥に見舞った。
ルルドピアスを最後まで守っていた彼は、命こそ助かったものの、重傷であった。
ブルーティアは意識のないガードの肌着をユスタスの手を借りて交換すると、薄く笑った。
 「これ以上、悪い噂など立ちようもありません」
姫騎士は汚れ物でいっぱいになった籠を抱えて天幕を出ると、川に向かった。
汚れは早いうちに濯げば落ちる。
浅瀬の岩場で、ブルーティアは大量のそれをぶちまけ、岩で囲った水溜りの中で
その手を汚して洗い始めた。
 「ワーンダン様からも許可をもらっています。こうしているほうが
  気がまぎれると云ったら、承知してくれました。私もレーレも、
  騎士団に所属する身。怪我人は見慣れています」
汚れのひどいものは、岩の上に広げて石で叩き、繊維から不浄を落とす。
ユスタスも、ブルーティアと一緒になって汚れ物を洗った。
頬に落ちた髪を、ブルーティアは水に濡れた手で耳にかけた。
 「それに、私もレーレも、とっくに子供じゃありませんし」
 「そんな問題じゃないだろ」
 「生娘ではないという意味です」
 「誰も女騎士の早熟についてなんか聞いてないよ」
 「決して軽々しいことはしてはならぬと、私たちは祖父トスカタイオから
  そう教えられて育ちました」
何かしていた方が気がまぎれるのと同様に、何か喋っていたほうが、心細くないのだろう。
ユスタスはブルーティアの話に耳を傾けた。
 「聖騎士家に生まれた身である以上、お前たちは、人の何倍もの慎重を持たねばならぬと。
  それに反発して、レーレと二人、ばれないように逸脱行為を随分としてきたわ。
  子供じみた反抗。こんなことになってみて、はじめて、祖父の言葉の重みが理解できます。
  その内容の善し悪し問わず、私たちがやることは全て、臣下の犠牲を伴うのだと」
ブルーティアは囲いの岩を外し、すすぎの水を川から引き込んだ。
水流の中に洗濯物がおおきく泳いだ。
思いつめた眼をして、ブルーティアは布のかたまりを見つめた。
 「騎士ガードがあのように傷ついた身で戻されてきて、はじめて、
  私はそのことに直面し、こうして後悔しています。彼のあの傷は、
  彼を巻き込んだ私たちがつけたも同然です」
 「これを洗って干したら、少し休みなよ」
ユスタスはブルーティアの顔色の悪さを気遣った。
 「レーレ姫と入れ違いに、君たちの見合い相手の
  インカタビア王子が、別の道からこっちの第二陣に来るんだろ。
  君がこんなことをしているのを見たら、男はいい気はしないよ」
清流のきらめきを見つめるブルーティアは、それに応えなかった。
ルルドピアス誘拐発覚直後ははげしく動揺していた姉妹であったが、その後は
どういうわけか、放心といってもいい、虚脱状態に陥り、
自らもルルドピアスを捜すなどと云い出してもっと騒ぐかと思われたレーレローザすら、
ワーンダン王子をひと言も責めず、静かに天幕に引き篭もっていたのは、ユスタスには
意外ですらあった。
 「いつか、ルルドピアスは私たちの許から飛び立って、オーガススィの
  海からも、夜空の極光からも遠い、何処かへと去って行ってしまう。私たちは、
  そう想っていましたから」
 木々の間に綱を張り、洗って絞ったものをそこに引っ掛けていきながら、ブルーティアは
雫の落ちる緑の草の上の影に向かって、独り言のようにそう呟いた。
ルルドピアスという名の少女など、最初からこの世にはいなかったような、
私にはそんな気すらするのです。
 「ああ、やっぱりあの子は、光か花の精のようにして、私たちの許から去ってしまった。
  ずっと以前から怖れていたこと、長い夢が、終わったのだと」
だから気がぬけたように、そのことを考えることは、もうできない。
いつまでも小さな雛のままだった赤ちゃんに、せっせと餌をはこび、風から
守っているつもりでいて、本当は、私たちのほうが、あの子の優しい心に守られて
いたんじゃないかと、そう想います。
そしてあの子はその時がきて、飛び去ってしまった。
だから哀しくとも、何だか全てが一新されて、吹雪の雲が晴れて頭上に青空が広がったような、
急に何もかもがくっきりとした、そんな気がしてるのです。
薄情ではなく、これでよかったのだと、本当にそう思われるのです。
 「あの子が、私たちの新しい道を照らして見守ってくれているような。
  -----うまく云えませんが」
洗い物は涼しい風にはためき、陽光に透けた。
はたらくブルーティアの影は、明るいその中を歩いているように、ユスタスには思えた。
そしてこちら、妹ブルーティアと別れて、ハイロウリーン軍コスモス駐屯地を目指す
レーレローザもまた、木立の木漏れ日を見つめながら、馬上で決意するものがあった。

 (オーガススィには、もう戻らないわ)
手首を交差させて手綱を軽く持ち、レーレローザは鞍の上で背筋をのばし、前を見ていた。
 (ルルドがいない城になど。私はもう、あの国には帰らないわ)
「お疲れでは。姫」
「後方に馬車を用意しておりますれば、お移りになられて、しばしお休みになられては」
「いいえ、結構」
 ひややかにレーレローザは前を向いたままで応えた。
 誰が見ても、レーレローザの顔にははっきりと疲労が浮かび、その眼は散々泣いた痕で
充血し、落ち窪んでいたのだが、愕くべきことにこの姫は身なりをしゃんとして、一度たりとも
姿勢を崩さず、いっそ神々しいとさえいえるほどの威儀をもって、馬を歩ませていた。
護衛のハイロウリーン騎士らは、この少女がトスカタイオの孫むすめであることをあたらめて
思い起こし、聖騎士家オーガススィへの尊敬を新たにして、誰ひとり、レーレローザに対して
小娘騎士にそうするような、侮り同然の不要で無駄な同情を繰り返してはかけなかった。
それどころかその行列は、ハイロウリーンが護衛する姫の一行ではなく、オーガススィの
一の姫がハイロウリーン騎士を率いてコスモスを堂々と横断している、そんな錯覚すら、
人々に起こさせるほどであった。
馬を進める断髪のレーレローザは、若い王子のようであり、自然に周囲の騎士たちを
感服せしめ、古い者の中からは、
 「ちょうど姫の御父君、小トスカイオ殿の初陣が、あのようであられた」
などという囁きすら、好意的に洩れていた。
 (オーガススィなど、こちらから、棄ててやる)
しかし一の姫は、穏やかならざる決意を秘めて、彼女への周囲の感心や感嘆の
眼差しについては、まったく眼には入ってはいなかった。
 (インカタビア、ワリシダラム、どちらでもいいわ。ブルティが選んだ余りの王子を
  夫にするわ。そしてハイロウリーンへ嫁いだら、ハイロウリーンを内部から
  乗っ取り、ルルドを追い出したオーガススィに戦争を仕掛けてやる)
むちゃくちゃなことを考えながら、しかし、もちろんそれは本気ではなかった。
レーレローザは自暴自棄ともいっていい、虚ろな心を抱えて、鞍の上で揺られていた。
 (男に生まれていたらレーレロード。そうしたら、ルルドピアス、きっとあなたを恋人にしたことよ)
その唇には、疲れた笑みすら浮かんだ。
そうやって幾ら子供の頃に紡いだ他愛のない夢想を胸のうちに再現してみせたとて、
レーレローザには常のような、ルルドピアスへの強く甘い感情は湧き上がってはこなかった。
それどころか、あれほどに愛しい子だと想っていたルルドピアスへの想いは、その
輪郭だけを残して空洞と化し、どれほどその情熱を取り戻そうとしても、とうの昔に
枯渇したものを無理に拾い集めているかのような、空々しい、虚しさだけが、
レーレローザの胸を空疎に過ぎるばかりであった。
ユスタスが察したとおり、三人の姫君たちは、長い間、共依存関係にあった。
その癒着はルルドピアス失踪をもって唐突に空中分解し、そしてその余波は、
レーレローザの上にこそ、もっとも大きかった。
ブルーティアと同じく、レーレローザにも、ルルドピアスとの別れが分かっていた。
たった数日のうちに、全てが終わってしまった。ルルドピアスは、夢のようにして、ついに
飛び去ってしまったのだ。
 (当たり前じゃないの)
疲れた脳天に蹄の音が響いた。自分を罰する音。
 (当たり前じゃないの。お母さまのことを云えたものではないわ。
  私が好きだったのはルルドではなく、ルルドのことをこんなにも心配して、理解して、
  思い遣ってあげているのよという、世間向けに華々しく作っていた、
  自分自身の姿だったのだから)
 (ルルドのことをお願いね、あの子は痛々しくて可哀想な子なのだから。
  そんな噂を流しては、自分の味方ばかりを増やして、ルルドから友達を取り上げていたわ。
  あの子のことをお願いね、そんなことを云う時、私はいつも、とても得意だったわ。
  当たり前よね。たったそれだけの言葉で、私は、ルルドに勝り、人から尊敬され、
  貴女のようにいい人はみたことがないと、注目を浴びて褒めそやされるのですもの。
  きっとそれが、私がルルドに執着していた、もっとも大きな理由だったんだわ。
  それが、優越感を得る、もっとも簡単な方法だったから)
 (ルルドピアスは自分の力でちゃんと魅力的な花を咲かせることが出来るのに、その庭に
  無断で入り込んで、この庭は私が管理してあげる、だからこの庭は私が作ってあげたようなもの、
  誇りに思うわと、勝手にそう思っていたんだわ。そうやって私は、自分の手を汚すことなく、
  ルルドの真上にいつまでも、自分の高評価を打ち立てていたんだわ)
『ルルドのことを見守っていてあげる』ですって、よく云えたものよね。
レーレローザは自嘲した。
人の環境を勝手に荒らして回って得意になっている自分のことを、ルルドの方こそ、もしや
干渉せずに見守ってくれていたのではなかったか。
レーレローザはああしなければ、人から振り向いてはもらえない人なのだから、と。
 ------私が自慢げにやっていた全てのことは、お母さまとまったく同じことだったんだわ。
    だからルルドピアスがいなくなったことで、あれほど賢そうに威張っていた私の虚像も、
    その瞬間に消えたのよ。だから、こんなにも、空っぽな気持ちがするのよ。それなのに、
    まるで私は安堵しているようだわ。そうよ、私は、ほっとしてるわ。
 -----ああ、やっとルルドピアスがいなくなってくれた。これで、ひと一人を
    完全に葬り去った私の罪からは、永久に眼を逸らして生きていける。
    

コスモスにいつ入ったのか、そろそろ陽が翳る頃であった。
並木道の影が、濃く道に落ちていた。
脇街道からはじめて眼にするコスモス城下の街並みも、心身ともに疲れきっている
レーレローザには、絵本の中のお伽の国の絵を眺めている程度の、弱い感動しかなかった。
後方が俄かに騒がしくなり、騎馬が道を空けている気配があった。
その間も、レーレローザはしっかりと手綱を持ち、姿勢ただしく馬を歩ませていた。
自失のうちにあっても、彼女は、聖騎士家オーガススィの女であった。
極限の疲労にあっても、持ちこたえられる間はそれを保つのが、レーレローザの義務だった。
両脇の野辺には、泣くこともできぬ少女を慰めるように、可憐な花が咲いていた。
 (それでも、私は、ルルドピアスが好きだったわ)
「大好きなレーレ」とあの子が甘い声で呼んでくれるたびに、もう他には何も要らないと、そう想ったわ。
ご機嫌とりや、打算やかけ引きの宮廷人たちの中に囲まれて、何もかもが
嘘っぱちのような気がして息が詰まりそうな時も、いつも、ルルドのことだけが、胸の中に、
変わらない光であってくれたわ。
あの子だけは、身分も年齢も性別も越えた何かを、いつもまっすぐに人の心の中に見ていて、
そんな眼をして微笑み、私に優しく頷いてくれていたから。
レーレのことが好きよと、自信を持たせてくれたから。

 (泣いてはいけない。たとえ人質の身であっても、私はオーガススィの一の姫ではないか)

眼の前が滲んだ。
涙は辛うじて止めたものの、そろそろ、レーレローザも体力の限界であった。
前後左右をハイロウリーン騎士に囲まれた彼女は、いわば敵の真っ只中に
一人でいるようなものであったが、そうであればあるほど、ハイロウリーン本陣に着くまでは、
誰にも隙を見せてはならなかった。
 「遅くなりました」
 「インカタビア王子はご無事に第二陣に向かわれたか」
後ろのざわつきは、次第に前へと出てくるようであった。女の声もした。
 「何かあったのか。予定の場所を通り過ぎてしまったではないか」
 「途中で、オーガススィの先発隊と邂逅したのです。陣立ての場所を
  確認しに来ていたのでしょう。幾つかこれはと見込める地点を案内しておきました。
  あと、ワリシダラム王子が陣に引き返されたので、その分、隊列を立て直しておりました」
 「街道で姫をお迎えするはずであったのにか」
 「私の判断です。ナラ伯のことで、ワリシダラム王子はまだ元気がなく、おはかりしたところ
  熱も出されており、お疲れでした。兄君を見送るまではと、堪えておられたのでしょう」
元気がなく疲れていた、という後ろから聞こえてきたこのひと言に、
レーレローザはぐっと奥歯をかみ締めて、気を抜けば馬から転がり落ちそうであった身を
もう一度、鞍の上でしゃんとさせた。
そんなだらしのないことを、自分ばかりは、ハイロウリーンの者どもに晒すわけにはいかぬ。
あのワリシダラムに弱気なところを見せてなるものか。
きびきびした女の声は、もう真後ろに来ていた。
 「かえってご勇敢だと思います。ご幼少の頃にご病弱であったからこそ、
  ご自分を客観視されておられ、無理はお避けになったのです。
  ワリシダラム王子はすぐに聞き入れられて、姫への挨拶は明日にしたいと」
晴れやかな、そして、力強い声であった。
 「レーレローザ・クロス・オーガススィ姫。後ろより、失礼いたします」
真横に、女騎士の馬が並んだ。
翳りゆく陽光の燦爛の中に、女の髪の色が美しく映えていた。
思っていたよりもずっと、その人は華奢であった。女騎士は、気品あるその顔をこちらに向けた。
 「馬上よりの挨拶を失礼いたします。ガーネット・ルビリア・タンジェリンにございます。
  お迎えが遅れて申し訳ございません。さすがはオーガススィの姫。遠目からも
  凛々しい馬の乗り方をされていると、失礼ながら感心いたしておりました」
幼い頃からレーレローザの心を捕えて離さなかった憧れの女騎士は、
手綱を操り、レーレローザの馬との足並みをぴったりと合わせた。
青い眼を夕陽に眼を向けると、女騎士はもう一度、レーレローザに語りかけた。
 「お疲れでしょうに、まことにご立派。陣はもうすぐそこでございますれば、あと僅かの
  ご辛抱。そこまで、共に歩ませていただきます」
馬に乗っていて良かった。
手綱を握り締め、レーレローザはコスモスの空に広がりゆく燃えるような夕焼けを見上げた。



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突然、陣に現れたその王子は、決して、歓迎されるものではなかった。
ジュシュベンダ軍は困惑を隠せなかった。
シャルス・バクティタ将軍は、渋々、自ら彼を出迎え、陣内を案内し、
天幕においては、指揮官が坐る最上席を王子に譲り渡したが、その双眸にははっきりと、
「迷惑」
の二文字が浮かんでおり、急遽御座所に集められた他の重鎮騎士たちも、王子への
反感と不快感を、特に隠そうともしなかった。
双方ともに愛想笑いの一つもないまま、王子は、天幕の上座に設けられた席に腰をおろした。
 「パトロベリ・アルバレス・ジュシュベンダ王子。ご着座でございます」
紫に金銀の旗。
それは故国と同じく、この駐屯地にもひるがえり、また、青年の背後にも誇らしげに
掲げられていたのであるが、正直なところ、集った誰もが、その王子は
その旗を背負う資格なく、そこに居るに相応しくないと、まるで自分たちが
侮辱されたかのように、苦々しく思っていた。
ナラ伯ユーリ殺害のあおりをくらい、思わぬ嫌疑をかけられたジュシュベンダである。
ハイロウリーンとの対立、会談の野におけるシャルス・バクティタ将軍の暗殺未遂。
陣中全体がぴりぴりとするには十分であり、何よりも、伯を襲撃した者が紛うことなき
ジュシュベンダの正規兵であったという事実が、彼らの上に暗く圧し掛かっていた。
その曇りようは、たとえ颯爽と、というには少々もともとからの評判が悪いが為に
大いに精彩を欠いてはいたが、王家のいち王子が今さら白馬で乗り込んでの
ご登場となったとて、それで流れが変わり、士気が盛んに上がることもないほどに、
どんよりと、重く垂れ込めていたのだった。
 (それこそがこの王子の器量の、何よりの証ではないか)
シャルス・バクティタ将軍はむすっとして、忽然と陣に現れた青年王子を残酷に評した。
八つ当たりをするのに格好の獲物を見つけたといわんばかりに、集った面々は
心中でパトロベリをこき下ろした。
 (お近くで見ることもあまりなかったが、この方はいったい御年お幾つになられたのだったか)
 (全てをイルタル様に押し付けて遊んでばかりいるとファリン殿が嘆いておられらが、
  逗留していたヴィスタの都から直行してここへ来られたとは何ごとか。このような際においては
  急ぎ本国に帰国し、大君のご指示を仰ぎ、その政務をおたすけするのが筋であり、またそれが、
  この方のお立場ではないのか)
 (比較するのも畏れ多きことながら、王子の父君であられる先々代さまなど、
  老境にあられてもお姿をお見せ下さるだけで全軍ぴりりと引き締まり、まさに天下に
  比類なき英邁君主の風格を居ながらにして漂わせておいでであられたものだ。
  そしてそのお血筋は、現君主であられるイルタル様を見ていても、如実に知れるというものだ)
 (それがどうだ。この御方ときたら、そのような気風は微塵も受け継いではおられず、
  それどころか何やら下らぬ椿事を起こした過去もあるではないか。そこから更正もせず、
  する気もなく、大君の温情のもとで冷や飯を喰っているばかりとな。ええい、そのような
  出来損ないにこうして頭を下げねばならぬとは腹立たしい。
  栄えあるアルバレス家にも、たまには毒吐きのようにして腐った実が生るとみえるわ)

馬だけはソラムダリヤ皇太子の好意で皇居から持ち出して来た立派な名馬、しかして
その乗り手は先々代君主のお胤だというだけの、お家の問題児。
シャルスのみならず、その副官キエフの顔にもはっきりと小莫迦にしたようなものが
漂っており、それは天幕に集った幕僚たちの総意として王子を迎えた天幕の中に伝播し、
充満していた。
そんな彼らの不満を知ってか知らずか、パトロベリは姿勢を崩して脚を組んだ。
決してハイロウリーンと事を構えてはならぬというイルタル・アルバレスの強いお達しにより
諸国とは異なりジュシュベンダ軍だけはコスモス領には入らずに領外に留まっていたのだが、
それは境界を超えていないというだけで、一跨ぎすればコスモスという、ほとんど境界線上に
展開された陣である。
物見櫓に登ればハイロウリーン陣が遠目に望め、こちらから見えているということは戦略において
有利な高所をとった先方からもこちら側が見えているということ、陣中に吹き付ける風すらも、
彼らにはハイロウリーンの白き風に思われて、忌々しいこと、この上ないのであった。
配られた温かな飲み物に手をつけたのは、パトロベリだけであった。
パトロベリは顔を将軍に向けた。
 「さて。シャルス」
 「は」
 「その、件の、無謀か果敢か、どっちでもいい、うちの軍旗を燃やして踏みにじったとかいう
  故ナラ伯ユーリ殿の従者たちは、まだこちらで捕らえるのかい」
 「左様です」
 「どうして会談の野に彼らを連れて行き、その場で解放してハイロウリーンに
  引き取らせなかったのかなんていう繰言はやめとくよ。事後における無駄な原因究明ほど
  遣る瀬無いものはないからね。その代わりに、全員釈放だ」
 「何ですと」
椅子の腕木に肘をおき、両手の先を顎の下で組み合わせたパトロベリは、じろりと
将軍を睨んだ。
そうやって臣下を睥睨している王子は、不覚にも、どことなく先々代の在りし日を彷彿とさせた。
 「都からこっち、強行してきて、僕は疲れてるんだ。二度云わせるなよ。
  故ナラ伯ユーリの家人は全員釈放。罪も不問。身柄は直ちにハイロウリーンに返すこと。
  現地葬儀にも、ナラ伯のご遺体帰国の際にも、彼らを立ち会わせてやらなかっただって。
  あんなことを仕出かすほどに伯を慕っていた彼らに対して、そりゃまた、不人情な話だね。
  そんな陰険はかえってジュシュベンダの名折れだと思うよ。どうかな」
 「しかし」
 「彼らは軍属ではなく、ナラ伯が連れて来た家人。軍旗を燃やしたのだって、
  状況証拠からみて伯を襲ったのがジュシュベンダの仕業だと思い込んだ彼らの
  誤解であることは明白。断じて許せないといったような点はどこにもない。
  捕らえておいても役にも立たないよ。処罰はあちらに任せて、今すぐに返還を」
 「返還では、すみませんぞ」
 「はあ?」
パトロベリは、だらしなく椅子の背に凭れ、髪をかき上げた。
 「それではすまないって、そりゃ、あんたが個人的にそれでは済ませたくないって
  だけのこったろ。恨みがましい復讐かい、それとも自らの権力を誇示する為には
  そうやって、とことん弾劾しなければ気がすまないのかい。莫迦らしいね。
  それが君らご自慢の大局にたった秩序のありようってわけ。まるで恐怖政治じゃあないか」
憤慨して、シャルスは王子に反駁した。
 「軍旗を焼かれたのですぞ。あまつさえ、我らの鼻先で、ハイロウリーンの者どもに
  旗を踏みにじられたのですぞ」
 「だから、何だよ」
 「な……!」
 「たぶん、君らと僕とは、お互いに『こいつは大局を見てない』と思ってるだろうから、
  これ以上の議論は無駄だろうね」
 「パトロベリ王子」
白く変わりかけている眉を吊り上げ、シャルスはパトロベリに向き直った。
脅しつけるようなそんなシャルスの眼光を、パトロベリは見つめ返した。
 (その武人魂は天晴れだけどね。だから単純莫迦だって云われるのさ。
  もちろん、あんたが莫迦じゃないことは知ってるよ)
シャルスの態度には、己が軍の重鎮であり、バクティタ家はジュシュベンダの
名門であるという、それなりの自負と理由があった。
 「軍旗を焼かれるということは、国を侮辱されたも同然」
紫に金銀の旗。
土着の豪族アルバレス一族と、その一帯の地をヴィスタチヤ皇帝から授かった
ジュシュベンダ騎士との、永遠の融合を示す旗である。
 「旗とは国そのもの、建国以来、ジュシュベンダの騎士たちがあの旗幟の許に集い、
  それを守り、その為に命を張って血を流してきたことを思えば、王子、とてもそのようなことは
  お口にできぬはず」
 「騎士の血汐は旗の上になぞないよ」
 「故国の旗が他国人の手で地に落とされ泥にまみれるのを見ても、平気といわっしゃるか」
 「さあ、どうだろう」
 「王子」
 「時と場合によるかな」
 「パトロベリ王子!」
 「本屋がこけにされたら、もう書物が読めず、本から得るものもないのかい」
 「え?」
脇に立って控えている平騎士たちは首を捻ったが、着座の他の者たちは、そのような
喩え話で煙にまかれはしなかった。
特に、シャルス・バクティタは、呆れ果て、腹が煮えたぎる思いであった。
 (これだから、卑腹出は困る)
彼は、先日の会談の野において矢傷を負った手をふるわせた。
 (国の権威とは何か。品位とは何か。たとえそれがかりそめに過ぎぬ
  愚かしいものであったとしても、それこそは、その下に集う者たちを
  むなしゅう生きさせぬ為の、拠りどころに他ならぬではないか。この王子は
  まったくそこを理解しておらぬ)
 (この王子は出が卑しいだけあって、誇りというものを知らぬのだ。
  詭弁を弄すことばかりを好み、それで何者かになったかのようなつもりでいて、
  物事の本質からは調子よく眼を逸らす。イルタル様の庇護と温情をいいことに
  己の身の丈を勘違いしたものか、自分までたいそうな人間になったかのようなつもりで
  口先ばかり威勢よく、すっかり思い上がっておるわ。
  虎の威を借る狐とはこのこと。どうせ何をやっても、泣きつけばイルタル様が尻拭いを
  してくれるのだとそれに慣れきっておるのだろう。わしはイルタル様ほど甘くはないぞ。
  ここはひとつ、追い出してくれるわ)
 「そういえば、パトロベリ王子は、騎士ではございませなんだな」
ゆったりと、シャルスは居ずまいをただした。
 「どうやら、そのことを、我らは忘れておりましたかな」
一堂は、得たりと笑った。
彼らは目配せをして、こういう際の様式美ともいえる、なごやかともいっていい口調をつくり、
将軍の厭味に続いて、パトロベリを故意に、侮辱しはじめた。
 「練兵場でお見かけしたことも、ついぞ、ございませなんだな」 
 「ご年少の頃は、剣術教師が何人も代わられたとか。なんぞ、不具合でもございましたかな」
 「そういえば、闘技場での模擬試合にもお姿をお見かけしたことはなかったような。いや、
  勘違いでしたら失礼をば」
 「まさかまさか、そのようなはずはない。耄碌して、その折のことを思い出せぬだけなのでは。
  対戦表のどこかには、きっと御名が挙がっておられたはず。あまりにも順が上位で、
  眼に入らなかっただけでは」
 「お若い頃に大病を患われ、数年寝たきりでご留学にも差し障りがあった
  イルタル様とは異なり、パトロベリ王子は病気らしい病気もしたことがない、いたって
  ご壮健の方であるとお聞き及びしておりましたが、はて」
 「はてさて、それであるのに、剣をお持ちのところを思い出せぬ」
 「それどころか、ご政務に就かれているお姿も、とんと思い出せませぬ」
 「いやいや、さようなはずはない」
 「我らが思い出せぬだけ」
天幕にうっすらとした笑いが満ちた。
パトロベリはつまらなそうに、そんな彼らのご満悦な顔を見ていた。
彼はあくびをした。実際にも眠いのである。
 「それがあんた達の、『大局を見ること』の基本姿勢だとは情けない」
 「何ですと?」
パトロベリは顎の下で組んでいた手を外し、一段高くなった場所から彼らを睥睨した。
聞こえなかったみたいだから、もう一度、云っとくよ。
 (この、はったり王子めが)
王子を睨みつけるシャルスの眼とパトロベリの眼がぶつかった。
パトロベリは顎をそらした。
 「僕はここに、ジュシュベンダ領主の代理人としてやって来た。
  僕の保有する王位継承権がそれを保障するものである。
  そこで、卿らの忠誠をここに問いたい」
軍旗への思い入れ、その尊意と卿らの熱血は、よっく分かったよ。
なので付き合ってやるよ、とでも云いたげなパトロベリの顔であった。
 「で、それがまことのものであるならば、ご大層なそいつはよもや、アルバレス一族への
  忠誠とは相反しないだろうね。紫に金銀、この旗はアルバレスの旗だ。
  君らの剣は、誰に捧げた。代々ジュシュベンダを治める、アルバレス家に対しての
  ものじゃあなかったのかい。僕は、君らの云うところの偉大な先々代が認知した実子。
  孫であられるイルタル大君と比べても、その位は劣るものではないんだよ」
ぐっと押し黙った将たちであったが、もとより彼らは、パトロベリの存在そのものを、王子とも
領主一族の者とも、認めてはおらぬ。
この青年の生母であった女は、老境にある先々代さまを誘惑した、財産めあての
下女ではないか。
 (強欲な乞食女とその愚息)
パトロベリは彼らが内心で何を思っているか、重々承知であった。
その度に、王位継承権など放棄すると騒いでは、イルタルからのらりくらりと「保留」に
されてきたパトロベリである。
仏頂面の天幕の面々を見廻して、パトロベリは心中でぼやく。
あんた達なんかどうでもいいのさ。
 (僕はほとんどイルタルの為に、此処にやって来たようなもんだよ。
  昔からイルタルは変な人だよ。待ち合わせの場所には、僕よりも先に来て待ってんのさ。
  僕よりもはるかに年上の、君主ともあろう御方がだよ。僕を見て、
  「約束は守る男だと思っていたからな」とこうだよ。
  そんなことをされたら、もう遅刻できなくなってしまうじゃあないか。
  成人の儀の折だってそうだ。要らないって云ってるのに、たっぷりと僕に王族の権限を
  持たせてくれたよ。それどころか、家中の反対を押し切ってまでも僕の父親役となり、
  手づから僕の頭に冠までのせてくれ、頼もしそうに祝ってくれるのさ。
  あの人、ああいう人だよ。何ていうの、僕のことをとても大切にして、立ててくれていた。
  お前がこうすればこうしてあげる、なんていう切り札を握った傲慢なほどこしの感情など、
  何ひとつイルタルは持っていなかったよ。その結果、僕はこうして此処にいるわけだ。
  いわば、長期的な人材育成計画でイルタルにはめられたようなもんだ。
  お前が分かっていないから教えてやっているのだとか、お前を信じているだとか、
  その手の押し付けがましい言葉は、一度たりとも使うことなくね)
パトロベリは、再度、将らに命じた。
「パトロベリ・アルバレス・ジュシュベンダの名において命ずる」
 (僕がこんな口上を人に向かって叩き付ける日がこようとは。人生って分からないもんだ)
 「陣内に拘束したるハイロウリーン領民を、ただちに釈放せよ」


領民釈放の意をうけて、フィブラン・ベンダのはからいにより、ハイロウリーンからは
迎えが出ることになった。
引渡し場所は、先日のことも考慮して、ジュシュベンダの陣前が決められた。
ジュシュベンダ陣に囚われていたナラ伯ユーリの家人たちは、憔悴し、しかしなおも
伯を殺したと彼らが信じきっているジュシュベンダへの憎しみを面に顕にしながら、
陣前に集められた。
武装騎士らがそれを取り囲む。
 「引き取り側の代表として、ハイロウリーン側からは、第六王子がおみえになります」
 「じゃあ、僕も挨拶したほうがいいだろうね」

あとは任せて一眠りしようと思っていたパトロベリは、仕方なく、いそぎ
旅の埃を落とした。
パトロベリではどうせ務まらぬと見越してか、或いは、先日の矢来など、何ほども
怖れてはおらぬことをあえて示すためにか、シャルス・バクティタ将軍も
王子のお目付け役よろしく柵の外に出る。
 「六番目の王子といえば、確か、少年騎士団の頃にルビリア姫の弟子となり、
  現在も平騎士のまま、ルビリア・タンジェリンの従騎士として仕えておられる方でしたか」
柵の内側ではシャルスの副官キエフを中心として、ひそひそと噂が囁かれる。
 「御子が多いからこそ、許される身勝手でしょうな」
 「気の毒に。こういう際には平騎士のその方も、王族の一員として
  駆り出されてしまうのですな」
エクテマスはその程度にしか知られていない。
彼らの口ぶりには暗に、「出来損ないの王子は何処の国にもいる」との侮りが込められていた。
何といっても、君主イルタルを日頃から羨ましがらせている、ハイロウリーン家の男子の多さ。
先日の会談の野における五男インカタビアに続き、今度は六男がやって来るというので、
ジュシュベンダの主だった者は皆こぞって略正装をまとい、軍旗はためく陣前に集合した。
虜囚返還の儀は、すみやかにはこんだ。
現れた六男エクテマスは、若く、そして、どことなく、虚無的な印象が強くする若者であった。
若王子は馬から降りると、パトロベリに歩み寄った。
ジュシュベンダとハイロウリーンの旗持ちが、それぞれ脇に立つ。

 「領主フィブランの名代、エクテマス・ベンダです」
 「パトロベリです」
 「貴国を侮辱したるハイロウリーン領民につき、その裁きをこちらに委ね、
  身柄を返還下さるとのこと、王子のご厚意に感謝いたします」
 「ご丁寧に。故ナラ伯ユーリ殿の御魂が一刻もはやく安らぐよう、その事実解明には
  当国も協力を惜しみません」

エクテマスはパトロベリに軽く礼をした。
その身のこなしは洗練されて、無駄がなかった。
物言いもしっかりしていたが、しかし極端に愛想がない性質なのか、必要以上のことには
まったく関心をみせず、視界にも入っているであろう、興味津々の武官たちの視線も無視し、
シャルス将軍の手の包帯についても、何ひとつ見舞いの言葉をおくらないのが、いっそ
薄気味が悪いような、他人が眼に入っていないような若者であった。
手短に挨拶を終えると、エクテマスは硬質な顔を振り向けて随行の部隊に指示を出し、
用意の無蓋馬車に引き取った領民を乗せさせた。
それが完了すると、エクテマス王子は乗ってきた馬に跨り、さっさと引き上げ、去ろうとした。
そのあまりの無愛想が、パトロベリをして、何となく悪戯心を起こさせた。
背中の柵には、ジュシュベンダの騎士が鈴なりとなって、この一部始終を見守っている。
 「では、これにて」
 「ああ、ちょっと、エクテマス王子」
 「何でしょう」
迷惑そうに、若者は、手綱を引いた。
 「君の従者の、その旗」
上級語をよどみなく流麗に操り、まずまず立派に用事を務めたパトロベリ王子を
見直さないでもない護衛騎士たちの間から、パトロベリは踏み出した。
 「おうッ」
どよめきは、ジュシュベンダ陣からも、ハイロウリーン側からも等しく上がった。
ハイロウリーンの旗は、断ち斬られた支えの棒ごと、ひらりと空に舞い上がり、地に落ちた。
その旗を素早く拾い上げると、パトロベリは、切り取られた残りの部分を持って
茫然と突っ立っているハイロウリーンの旗持ちに、それを返した。
 「フィブラン殿に、よろしくお伝え願いたい」
旗の恨みを旗で返す。
思いがけなくパトロベリが見せたこの粋に、わあっと、ジュシュベンダ騎士たちが沸きに沸いた。
彼らは手を叩き、武具を打ち鳴らして、地面が揺れ動くほどの大喝采を上げた。
調子のいい者が、柵から身を乗り出して口笛まで吹いたが、止める者はいなかった。
 「ジュシュベンダ、ジュシュベンダ!」
 「ざまあみろ、ハイロウリーン」
 「パトロベリ王子、万歳」
 「お見事、お見事でしたぞ、王子!」
彼らは狂喜して、柵の内側に引き上げてきたパトロベリ王子を取り囲んだ。
何よりも、鞘から剣を抜き払うやハイロウリーンの旗を打ち落とした、目にも留まらぬ
パトロベリのその早業が、彼らを瞠目させ、昂奮させていた。
日頃から剣技に励んでいる彼らである。
いまの一閃がどれほどのものか誰よりも分かるのも、また、彼らである。
高位騎士の剣は眼に見えぬ、その軌跡は光の糸のようだと云われている。
パトロベリ王子が踏み出したと思ったら、もう旗は落ちていた。
もしも起こったことを精確に見届けた者がいるとしたら、それは、パトロベリの他には、
騎士の黄金の血をも超える者でしかない。
 「王子、痛快でございましたぞ」
 「素晴らしい腕前、またご立派な態度、いや、感服つかまつりました」
 「ハイロウリーンめ。あまりにも愕いてか、これは敵わぬとみて尻尾を巻いて
  すぐに馬車を牽いて逃げ帰りよったわ」
 「パトロベリ王子」
シャルスの副官キエフは、パトロベリに頭を下げた。
彼はその目に、感動の涙まで浮かべていた。
 「まっこと、在りし日の、先々代さまを彷彿とさせるが如き一幕でございました。このキエフ、
  眼前で軍旗を焼かれた無念も悔しさも、今のことですっかり晴れましてございます」
現君主イルタルは幼少の頃から聡明でひじょうに尊敬されてはいたが、残念ながら
騎士の血は薄く、その王子もまた病弱である。
騎士国に仕える武官からすれば、豪胆なイルタルにはまったく文句はなくとも、やはり、
こういった分かりやすい功績のほうが、胸を打つ。
しかし、パトロベリは浮かぬ顔で、「眠い」とぼやくと、天幕に転がり込んで、彼らの前から
早々に姿を消してしまった。
天幕の外からは、今のことですっかり気分が明るくなった兵たちの、大喜びしている
盛んな声がまだ聴こえてきていた。
簡易寝台に腰をかけ、パトロベリは何とか這い上ってくる悪寒をとめた。しかし、握り締めた剣が
かたかたと鳴っているのを抑えることは、まだ出来なかった。
 (あれが平騎士だと。冗談じゃない。ルビリア姫、あんた、とんでもない男を育てたぞ)
震える手を、パトロベリは恥じてはいなかった。
それは怖れでも怯えでもなかった。驚嘆のおののきなのであった。
ハイロウリーンの白き風。
傾いて倒れてゆく旗の向こう、馬上のエクテマスだけは完全に見下した冷笑を浮かべて、
パトロベリの振る舞いを、笑って見ていた。


「続く]


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